2005年度 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部・情報文化課程
文化コミュニケーション履修コース
2005 年度
卒業論文概要
石田 理絵
『十二国記』における女性像
1
稲葉 愛子
マンガ表現史における石森章太郎の位置づけ
2
岩田 和也
京極夏彦論――推理小説とホラー小説の融合
3
小柳 巧
早期教育と子どもたち
4
亀田
現代メディアの変遷と音楽の変容――クラブ・ミュージックにおけ
徹
る作者性
5
小玉 絵梨子
北川悦吏子論
6
高橋
陽子
髙村薫小説研究――『神の火』における原点の喪失と獲得について
7
新野
裕康
シャガールとローランサン――エコール・ド・パリの反ファシズム
8
西片 麻理絵
岡田利規論
9
大藤 さや花
英語公用語化論争における言語認識
10
徳永 佳代子
宮崎駿作品における人間と空間――飛行について
11
西渕智希
現代の在日朝鮮人の帰化――朝鮮系日本人のすすめ
12
野内 顕造
諸星大二郎とその諸作品に関する一考察
13
長谷川 怜
内田百閒論
14
平澤 麻実
ロベルト・ベニーニ『ピノッキオ』に見られる不思議なリアリティ
15
藤澤 亜里紗
消費社会における人間活動の環境への影響
16
藤倉 睦美
松井やより論
17
本田 元治
偽りでない仮面像
18
本間 由里
戦う少女の象徴性
19
山本 睦人
阿部和重『シンセミア』における共同体の構造についての分析
20
米田 智一
フルクサスにおける反モダニズム
21
櫻庭 和哉
奈須きのこ論――『月姫』をめぐって
22
睦 友美
マルチメディア時代における『銀河鉄道の夜』
23
松岡 美貴
ユーリー・ノルシュテイン論――その手法をめぐって
24
若山 香奈
『ピーター・パン』における表象形態の違いについて
25
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
『十二国記』における女性像
石田
『十二国記』とは、1991 年の『魔性の子』に続き、92 年の『月の影
理絵
影の海』を皮切り
に出版された、小野不由美原作の少女小説である。少女小説という枠を超え、広く一般の
読者に圧倒的な支持を得て、アニメ、ゲーム、舞台と多くのメディアへと広がってきた。
本論では、『十二国記』シリーズの主人公の少女にみられる独特な成長を遂げる姿に注目し
て、老若男女から幅広い人気を得る『十二国記』の魅力を解明することを目的とした。
まず、『十二国記』を作り上げている作品群全体をみて、そこから分かる女性の特徴につ
いて検討した。『十二国記』に登場する女性のなかでも物語の進行とともに「成長」と呼ば
れる変化をした者と、「成長」と呼ばれる変化をしなかった者とに分けることができた。少
女が成長した『月の影
影の海』と『風の万里
黎明の空』は、それぞれアニメ化、ゲー
ム化されている。この事実は『十二国記』シリーズのなかでも、少女が成長している作品
が最も広く読まれている/知られている物語であることを示している。
次に、
『十二国記』の魅力を解明するために、
『十二国記』シリーズで成長した中嶋陽子、
祥瓊、大木鈴の三人の成長を詳しく分析した。平凡な女子高生の陽子は、周囲に合わせ「い
い子」を演じる少女であった。理科の解剖も直視できなかった少女が、生き残るために戦
うことを覚える。また、
「いい子」を演じたことを反省し、周囲の意見にも流されることな
く、自分の意見を言えるようになる。元公主の祥瓊は、国民から恨まれ虐げられることが、
公主の責任を果たさなかった己の責任であると知らずにいたが、「無知」であるがゆえに犯
した罪を反省し、自分自身を客観的に捉えながら生きるようになる。大木鈴は日本から「十
二国」に流された海客である自分が「世界で一番不幸」だと主張し続けていたが、己の境
遇より不幸な人の存在を知り、過去の考えを反省する。この三人には、男性の登場人物と
の接触によって「成長」するという共通点があった。陽子は景麒からは「戦闘性」を得て、
シャドウ的な存在である蒼猿からは己と向かい合う「精神的な強さ」を得た。同様に、祥
瓊は楽俊から「知識」を与えられ、鈴は清秀の「死」をきっかけに、彼のもつ「真実を見
る目」を得た。彼女たちは、本来ならば男性がもつとされる「男性性」を得ることで、「成
長」と呼ばれる変化を遂げたのだ。
少女たちは男性性を得ることで、それぞれが本来もっていた「女らしさ
「男性らしさ
feminine」と
masculine」をもつ「混性」的な女性へと変化した。彼女たちは、「混性」
的な女性になることで、それぞれに必要な「成長」をした。以上から、作者小野不由美の
理想とする女性像とは、
「混性」的な女性であると推測できる。この「混性」になることで
「成長」を遂げるという、他作品にはみられない独特の成長過程が『十二国記』のもつ最
大の魅力なのだろう。少女から女性への成長ではなく、少女から「混性」的な女性への成
長を描いた物語であるからこそ、『十二国記』の人気が少女だけでなく老若男女に広まった
のだと言える。
1
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
マンガ表現史における石森章太郎の位置づけ
稲葉
愛子
石ノ森章太郎は、戦後の日本のマンガの発展において重要な人物の一人である。石ノ森
の活躍は多岐にわたっており、常に第一線でマンガ表現の可能性を探り続けていたマンガ
家であった。本論の目的は、そんな石ノ森が日本のマンガの発展にどのように貢献してい
ったのかを調べることで彼を再評価し、また彼がマンガ史の中でどのような役割をはたし
たのかを探ることにある。
第1章では、石ノ森が用いてきたマンガの表現技法について細かく調べていった。石ノ
森は手
治虫の次の世代としてマンガ界に登場したが、手
映画的手法を、石ノ森も取り入れている。手
が初めてマンガに取り入れた
が映画的手法の実践においてキャラクター
の動きを重視したことに対して、石ノ森は内面の描写に力を注ごうとし、その努力は 70 年
代の少女マンガにおいて「内見の発見」という形で花開くこととなる。手
から映画的手
法の表現を受け継いだ石ノ森は、そこにオリジナルの技法を加えまた次の世代へと引き継
ぐという、橋渡し的な役割を果たしたのである。
第 2 章では、マンガというメディアの持つ可能性について、石ノ森がどのように考えそ
れを拡大させていったのかについて述べている。石ノ森はヒット作を数多く生み出したマ
ンガ家であったが、前衛的な一面を持っており、さまざまな実験を試みながらマンガを描
いていた。マンガのジャンルを拡大させようとしたこともそのうちのひとつであり、その
ため石ノ森の作品は多岐にわたっていて読者を限定することはなかった。特に、86 年に出
版した『マンガ日本経済入門』は、マンガで社会を本格的に取り上げた作品であり、この
作品が広く世間に受け入れられたことでマンガが市民権を得たことのひとつの契機となっ
ている。石ノ森のマンガに対する姿勢を集約させたものが、89 年に発表した「萬画宣言」
となっている。
第 3 章では、石ノ森とメディア・ミックスとの関わりについて述べている。石ノ森は他
のマンガ家と比較して、テレビドラマやアニメーションの原作を数多く手がけていた。『仮
面ライダー』や『秘密戦隊ゴレンジャー』の流れをくむシリーズは根強い人気を誇り今で
も放送が続いている。また、小説家の平井和正との共同企画で『幻魔大戦』という作品が
マンガと小説でそれぞれ発表され、小説のほうは現在も未完のまま続いている。石ノ森の
ライフワークであった『サイボーグ 009』は、劇場公開作品も含めて6度アニメ化されてい
ることに加え、マンガの掲載誌数が 16 誌と非常に多く、このことは出版社よりマンガの作
品自体が力を持っていたという珍しい例となっている。石ノ森の作品の持つこのような強
さの背景には、手
作品において見られるようなキャラクターと物語が分離したような関
係ではなく、石ノ森の描くキャラクター自体に強いドラマ性が内包されていることが考え
られる。
2
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
京極夏彦論
岩田
和也
ミステリーという軸をもちながらホラーとしての要素をもっているというのが京極作品の
特徴であり魅力である。この魅力を探るために、本論文では、ミステリー作品の中でどの
ようにホラー性が表現されているのかということを考察した。そのために、まず第一章で、
作品分析のための足がかりとしてオノマトペ、レイアウトについての先行研究をみた。そ
して第二章では、前章を踏まえたうえで、オノマトペ、レイアウト、女性描写、風鈴の音
という点から作品分析をおこなうことで京極作品におけるホラー性を探っていった。
第二章作品分析の第一節ではオノマトペによる聴覚効果に注目した。オノマトペについ
ては、耳から恐怖を伝えるための道具として口承文藝である怪談話で効果的に使われてい
た、ということを踏まえたうえで作品分析をおこない、京極作品における聴覚的な恐怖の
伝達について考察した。そしてここでは、京極夏彦はオノマトペを使い分けることで恐怖
を効果的に表現しているということが明らかになった。
第二節ではレイアウトによる視覚効果に注目した。京極作品では改行や行間が数多く使
われている。この行間や改行といったレイアウトを使うことで、京極夏彦は登場人物の不
安や孤独といった心情や場面状況を視覚的に表現していた。京極作品において、レイアウ
トもまた恐怖を伝える道具として使われているのである。
第三節では女性描写に注目した。京極作品では表紙にリアルな妖怪の模型を掲載し、女
性描写にその妖怪を思わせる描写を含ませることで、女性の中に妖怪の気配を感じさせ恐
怖を生み出していた。また、女性から感じられる妖怪の気配は妖怪の実体化に説得力をも
たせることにつながり、妖怪が実体化したときに妖怪という存在に対する恐怖を増長させ
ている。これらのことから、女性描写もまた、オノマトペ、レイアウトと同様に恐怖を伝
えるための重要な役割を持っているといえる。
第四節では風鈴の音に注目した。この風鈴の音の表現は、京極作品に共通してみられる
前節までの表現とは違って、初作『姑獲鳥の夏』にのみ、みられるものである。しかし、
『姑
獲鳥の夏』において、この風鈴の音は恐怖を伝える重要な役割を持っていると思われたの
で、最後の一節で風鈴の音による恐怖の伝達について考察した。
以上のように、四つの点から作品をみていくことで、京極作品におけるホラー性につい
て考察した。京極作品は、ミステリーの中で様々な方法で恐怖が表現されることで、二つ
の魅力を同時にもつ作品となっている。そして、この二つの形が融合することによって、
ミステリーとホラーを超えた作品として読者を惹きつけているのではないだろうか。
3
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
早期教育と子どもたち
小柳
巧
乳幼児を対象にした早期教育はもはや珍しいものではなくなり、
「乳幼児期に天才がつく
られる」、「幼児期からやっておかなければ、手遅れになる」などの宣伝や「英語が話せる
幼児」、「IQ200 の天才児」といった実例の報告が親の育児不安を助長し、その多くを早期
教育へと走らせている。幼稚園に目を向けても、従来の情操教育を中心とした園よりも小
学校受験を目指して文字や数に関する教育を積極的に採り入れている園の方に多くの親は
惹きつけられている。乳幼児期に早期教育を施して子どもに何らかの能力を獲得させ、子
どもの将来を明るいものにしようという親の意図は、一つの乳幼児教育の考え方として定
着しつつある。
しかし、こうした早期教育は言わば受動的な教育である。その根底には、子どもの気持
ちを無視した親のエゴイズムや自己満足が存在しており、勉強であれ、スポーツであれ、
親は自分の子どもが周りの子どもたちよりも優れていることに喜びを感じ、その満足感を
噛み締める。自我が完全に発達していない乳幼児期に大人から一方的に刺激を与えられる
ことで、子どもは受動的に行動することを覚える。自分の意に反し、主体性が欠如してい
るがゆえに、子どもの自己主張の発達や心身の発達は阻害され、大人への依存心が強まっ
てしまう。人格が形成される大切な乳幼児期における子どもへの大人の働きかけが子ども
の考える力を引き出すようなものでなければ、その目的としているはずの子どもの知性や
感性の育成は妨げられてしまう。さらに、自発的に考える力や能動的に物事に取り組む力
が乳幼児期に育たなければ、子どもが将来周りに左右され、意志を持って自主的に判断し、
行動することができない大人になってしまう恐れも考えられる。
乳幼児の知的発達や心身の発達に欠かせないものは、主体的な活動としての遊びや直接
的かつ具体的な体験である。時には一人で、時には大人と、また、時には友だちと遊び、
体験することで、子どもの五感は刺激され、感性が磨かれる。そして、幼稚園などでの集
団活動を通して、子どもは相手を思いやること、互いに協力すること、感情を共有するこ
となどを学んでいく。本当の意味で子どもに豊かな人生を歩ませるために必要なのは、正
にこのような心の教育であって、受動的な早期教育では決してないのである。何よりも大
切なのは、物事に取り組むときに子ども自身が外からではなく内からの動機づけによって、
その対象を「面白い」、「楽しい」と本心から感じ、生きていることに充実感を感じること
ではないだろうか。
早期教育の最も重大な問題点は、子ども時代を単なる大人への準備期間として捉え、早
く大人にしようと子どもをむやみに急かしていることである。このような早期教育は子ど
もに子どもらしく生きる時間を十分に与えず、子どもの発達を阻害してしまう危険性を備
えているのである。
4
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
現代音楽メディアの変遷と音楽の変容
∼クラブ・ミュージックにおける作者性∼
亀田
徹
従来の音楽作品概念では、音楽作品とその作者は密接に関わっているように思われる。
例えば、『交響曲第九番』の作者はベートーベンであり、『別れの曲』の作者はショパンで
あることに異論を挟むものは少ないだろう。音楽の作者は、その音楽作品が自分の所与の
ものであることを主張し、自分の音楽作品の帰属先となることを認証する。しかしながら、
特定の音楽ジャンルを取り上げてみた場合、このように、これまで明確だったはずの作品
と作者の関係が、不明確にされている音楽ジャンルが存在することに気付く。それはクラ
ブ・ミュージックと呼ばれる音楽ジャンルだ。
大凡 1970 年代後半からアメリカで起こり、黒人の若者達によって発明され、発展されて
いったこの音楽ジャンルでは、現代の音楽テクノロジーを駆使したサンプリングという手
法が常套的に用いられている。この手法によると、一度完成されたはずの既成の音楽作品
の一部分は、新たな楽曲の素材として還元されてしまい、断片として利用されることにな
る。クラブ・ミュージックという音楽ジャンルにおいて、排他的に、且つ常套的に用いら
れるこの手法が働く領域内においては、クラブ・ミュージックの音楽作品は完成と還元の
無限性の中に放り込まれ、その音楽と作者の関係は不明確にされてしまう。一度完成され
た音楽作品は、DJ達によってサンプリングされることによって新たな楽曲の断片として
還元され、もはやその楽曲の実際的な作者を特定しようとしても困難である。
一方で、バルトとフーコーによって提唱される作者概念は、単一の人称としての作者と
して捉えられる。バルトやフーコーは、それぞれ作者を物理的に不在にさせたり、作者を
作品に直接作用する四つの機能として作者性の分析に努める。しかし、サンプリングによ
って複数の楽曲の集合体として捉えられる、一つのクラブ・ミュージック的音楽作品に対
し、これらの単一の作者概念では、その作者の所存を適切に捉えきれてはいない。
これまでの音楽概念では、音楽作品とその作者の関係は密接に関わっていたのに対し、
クラブ・ミュージックについても同様に当てはまることはない。サンプリングやリミック
スという音楽実践によって、クラブ・ミュージックは複数の楽曲が集約された複合体とし
て理解できる。その実際的な音楽の作者は重複化されているものであり、一つの作者をし
て説明を試みる、従来の単一志向型の作者観による理解だけでは適切ではない。複数の楽
曲が断片として積み上げられることによって構成されるクラブ・ミュージックは、その音
楽の作者も音楽と同様に、一つの作品に重複されて捉えられるべきであり、我々のクラブ・
ミュージックの作者性への理解を妨げる。
5
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
北川悦吏子論
小玉
絵梨子
北川悦吏子作品の魅力のひとつは、セリフのリアルさである。その結果、何気ないセリ
フが、取り立てて大きな事件の起こらないドラマでも視聴者の心をつかむ。しかし、それ
だけではないだろう。90 年代から、長きにわたって視聴者の関心をとらえ続ける北川悦吏
子作品の魅力とは何か。本論文では、そんな北川悦吏子作品の持つ魅力について考察して
いく。
北川悦吏子は、トレンディードラマが低迷し、各局がトレンディードラマに変わるテー
マを模索し始めた時期に、初めて
ゲツク
に脚本を書いた。当時、純愛ドラマを立て続
けにヒットさせ、フジテレビの月曜 9 時枠ははずれのないドラマ枠として、確固とした地
位を確立していた。その
ゲツク
で、女の友情をテーマとした北川悦吏子脚本の『素顔
のままで』は高視聴率をマークした。また、90 年代後半になると、各局で障害者と健常者
との純愛を描いたドラマが多数作られた。その代表とも言える作品が、北川悦吏子脚本の
『愛しているといってくれ』である。これ以外にも、『最後の恋』といった精神的ハンデを
2 人が乗り越える姿を描いたドラマを書き、基本的に北川悦吏子は「ピュア系純愛ドラマ」
を書く脚本家として捉えられている。
北川悦吏子は、『愛しているといってくれ』と『オレンジデイズ』で聴覚障害者と健常者
の恋を描いた。しかし、この 2 つはその描き方に大きな違いがある。
『オレンジデイズ』に
おいて『愛しているといってくれ』では描ききれなかった障害者の現状や、苦悩をよりつ
ぶさに描いた。一方、障害者を障害者としてではなく、健常者と大して変わらない者とし
て描こうと取り組んだ一面も見られる。これは時代の変化をうまく取り込んだ結果である
と考えられる。また、北川悦吏子は『ロングバケーション』、『Over Time』、『Love Story』
といった、主人公に大きな障害のないドラマもよく描いている。これらのドラマを時系列
順に考えると、女性の仕事に対する意識の変化が描かれていることがわかる。
『Over Time』
までは、女性にとって仕事よりも恋愛の方が圧倒的に重要なものとして描かれていた。し
かし、
『Love Story』で、その恋愛至上主義のような考えは無くなりつつあることがわかる。
北川悦吏子は、セリフのリアルさが若い人をひきつける当代一流のストーリーテラーで
あるが、その中にも社会の変化は反映している。北川悦吏子は、世間に挑戦するかのよう
に障害者と健常者のドラマを描き続けるが、障害のことをあまり感じさせず、どこにでも
あるような恋愛ドラマとして表現し、普遍的な愛を描く取り組みをする。また、大きな障
害のないドラマでも、女性の自立を、時代の流れに沿うかたちで描き出してきた。以上、
本論文では北川悦吏子ドラマの根底にあるものを探ったが、時代の流れを敏感にドラマの
中に映し出し、ドラマの世界にあった既存の障害者像や女性像を変化させる。この点が、
北川悦吏子の作品における特徴であり、魅力でもあるといえるのだろう。
6
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
髙村薫小説研究
―『神の火』における原点の喪失と獲得について
高橋
陽子
髙村の二作目の長編である『神の火』は、かつて原子力技術者でありスパイでもあった
一人の男が原発襲撃に乗り出す物語である。髙村は「スパイの末路」を『神の火』で書き
たかったと述べているが、それはスパイのあり方を隠喩として、人間全体のあり方を書き
たかったことを意味しているのではないか。
髙村が描き出すスパイのあり方を理解するには、彼らが持つ故郷あるいは家族といった
「原点」の存在を見ていくことが必要である。ここで「原点」とは、個人の夢想の立ち返
る場所として存在する「ふるさと」あるいは「家」であり「家族」を指す。『神の火』の主
人公である島田の「原点」問題を例に見てみると、それは以下の五段階によって捉えるこ
とができる。すなわち、
第一段階
「原点」欠落からの出発(「家」「父母」に対する疎遠さ、自己の不安定さ)
第二段階 「原点」の探求(アニマ像であるイリーナおよび原初の大地への夢想。
「原点」
は、海によって隔てられた遠方の「永遠の原郷」として見出される)
第三段階
代替的「原点」の探求(良という現実の一個人を通じて、欠落していた自己
を統合し、「永遠の原郷」を手元に引き寄せようとする)
第四段階
代替的「原点」の喪失(「原点」=「永遠の原郷」と彼岸への夢想との重なり。
島田は現在的空間に残る牢獄としての定点を破壊する)
第五段階
彼岸への離脱(死によってしか得られることがない自由。
「永遠の原郷」は「ふ
るさと」として、蜃気楼のように水平線のかなたに夢想されている)
「原点」を欠落し、世界に「住んで」いない状態であるがゆえに、人間は犯罪という悪
の行為へとひきつけられる。そして彼が世界に「住まう」ようになり、「原点」を代替的に
探求しようとすると、自らが犯した罪悪の行為の結果として「原点」的存在を失うことに
なる。結局は今/ここという地上の空間に居場所を失い、権力との闘争に敗れ去って彼岸
へと押し出されて行くのである。
人間は「原点」がなくては生きていけないのであり、現世では「原点」を求めて闘争を
繰りひろげざるを得ないが、そこでは人間は、
「原点」を所有して生まれてくることも、そ
れを維持することも、新たに創造することも難しい。国家権力によって抑圧される人間は、
現世という牢獄からの解放として死を迎える。つまり苦痛/束縛を終わらせるものとして
唯一与えられた方法が死なのである。生きていくために必要な「原点」を現世の空間にお
いてもはや見出すことができない以上、彼岸の光景に自分だけに理解できる「原点」を夢
想し、そのために現世における死へと向かう孤独な闘争を繰り広げざるを得ないという、
人間の逆説的なあり方がここには描かれているのである。
7
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
シャガールとローランサン――エコール・ド・パリの反ファシズム
新野
裕康
エコール・ド・パリに関するこれまでの研究は、彼らが他の前衛芸術運動のような様式的
な統一や共通の主張をもたなかったことから、芸術家個人に関するもの、あるいはモンパ
ルナスを中心とした一部の交友関係、彼らのボヘミアン的生活、破滅的な生涯などを扱っ
たものが多いように思われる。本論文では、エコール・ド・パリが社会的状況の変化や政治
的動向のなかで形成された存在であることに注目し、同時代のフランスにおけるファシズ
ム・イデオロギーとの関係から彼らの芸術を論じた。
第一章では、エコール・ド・パリが形成された当時のモンパルナスの芸術的環境や刻々と
変化する周囲の状況をもとに彼らの芸術の本質を探った。彼らが表現を確立し得たのは、
前衛芸術運動が活発に展開し、貧しい外国人芸術家たちを多く受け入れられるという状況
にあった芸術都市パリの特殊性に違いない。しかしまた、彼らのほとんどが外国人であり、
前衛芸術運動にも伝統的なアカデミーにも属さないアウトサイダーであるという強い認識
は、自らの存在を肯定するものとしての作品を生み出すと同時に、強い自己主張とメラン
コリックな雰囲気となって彼らの作品に共通して現れているのだ。
第二章においては、ナチスによって開催された「大ドイツ美術展」と「退廃芸術展」、イ
タリアにおける家族・出生政策といった事例から、ファシズム・イデオロギーを検証した。
ファシズムは一般的にイデオロギーに基づく差異化と排除という性質をもつ。ナチス・ドイ
ツでは反ユダヤ主義を掲げユダヤ人の絶滅を図るとともに、近代以降のほとんどすべての
芸術を退廃として排除し、またイタリアにおける政策には男性が女性に対し完全な優位を
もつというファシズムの性別観が顕著に現れている。これらの傾向はナチスによって占領
されたヴィシー政権時代のフランスにおいても同様に見られ、特定のイデオロギーの強要
として芸術全般に対し抑圧的に働いたといえる。
以上の考察を前提に、第三章ではマルク・シャガールとマリー・ローランサンという国籍
も性別も異なっていながらエコール・ド・パリとして数えられる 2 人の画家の作品に焦点を
当て分析を行った。シャガールはナチスやヴィシー政府によるユダヤ人迫害から逃れなが
らも、自らのアイデンティティとしてユダヤ的な生活を描き続けること、あるいはそのユ
ダヤ的な生活が破壊されていく様子を描くことで反ユダヤ主義を批判した。一方、ローラ
ンサンが描き続けた世界は男性的なものを完全に排除した世界であり、男性中心的な性別
観に基づいて理想とされたファシズムの世界とは大きく異なっている。
特定のイデオロギーが強要されるという抑圧的な状況下にあっても、自らの存在の肯定
するものであるからこそ、エコール・ド・パリの芸術家たちは自身の表現を変えることはな
かった。ファシズムが排除しようとした世界を自らのアイデンティティとして表現し続け
たという意味において彼らは反ファシズム性を備えているといえるのである。
8
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
岡田利規論
西片
麻理絵
本論文は、現在現代演劇の中で批評家たちから大きな注目を浴びている劇作家、岡田利規
の演劇をとりあげ、彼の戯曲や実際の公演内容と、彼に影響を与えたブレヒト、平田オリ
ザの演劇論とを照らし合わせながら、岡田の持つ独自の演劇観について考察した。
第一章で日本の現代演劇史を簡単にまとめた後、第二章では岡田利規が注目を集める理由
の一つである、独特の言葉遣いで書かれた彼の戯曲について、作品を取り上げ分析した。
本論文で取り上げた『マリファナの害について』、
『三月の5日間』、
『労苦の終わり』3 作品
に共通して見られた最も特徴的なものは、
「言葉=主体」の概念を壊した台詞であった。
「言
葉=主体」の概念を壊した台詞を用いることで、俳優は一つの役柄にとどまることなく、
いくつもの役柄の視点に立って語ることが可能になった。そしてそのような台詞が、「「外」
の世界に背を向けて自己の「内」にばかり意識を向けている結果、他者と価値観を共有で
きず、分かり合えない」という、3 作品の分析から導き出された主題にも関わり、効果的に
用いられていた。
第三章では岡田利規の演劇にみられる、俳優がその場で話している言葉と一致しないよう
な動きを中心に、彼が影響を受けたというブレヒト、平田オリザの演劇論と照らし合わせ
ながら考察し、岡田独自の演劇観を見出そうとした。ブレヒト、平田オリザの演劇論と、
岡田の実際の舞台との比較によって浮き彫りにされた、岡田の演劇における俳優の特殊な
動きは、「日常の身体の過剰さ」を舞台に提示したいという考えの元に行なわれていた。俳
優は自己の内部に捏造した「シニフィエ」に意識を置き、それを身ぶりや言葉で表そうと
する。しかし「シニフィエ」の豊富さゆえに「シニフィエ」のすべてを表現することに失
敗し、結果、意味づけできないうごきが現れる。そしてこの意味づけできない動きが、岡
田の演劇で語られていることを読み取ろうとする観客に異化効果をもたらし、観客の前に
「意味に縛られないただの身体」を現前させる事になる。
ブレヒトは観客が近代演劇に感情を同化させ、その作品を通して伝えられる作者の主義
主張までをも万人に共通の真理だと思い込んでしまう事態に対して、異化効果を用いた演
劇を作り出した。平田は絶対的な真理などないことが自明となった現代に、作品を通して
観客と作り手が共有しうる価値観をつくりだすことが出来る演劇を作ろうとした。しかし
その共有しうると思われていた価値観さえ、結局は個人的なものに過ぎない。そのような
状況の中で、岡田は「意味に縛られないただの身体」という、いま唯一作り手と観客が共
有しうるものを舞台上に現前させようとする。そうすることで、自己と他者を結ぶ価値観
に代わる新しい「何か」が両者の間に立ち現れることを期待し、彼は演劇作品を作り続け
ているのではないだろうか。
9
卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
英語公用語化論争における言語認識
大藤
さや花
2000 年に起こった英語公用語化論争は、「21 世紀日本の構想」懇談会という首相の諮問
機関が提出した報告書に端を発し、さまざまな人を巻き込んだ議論に発展していった。自
分が言語の問題と英語の双方に興味があったため、本論文ではこの英語公用語化論争を土
台として、日本における言語認識についての分析を行っていくことにした。
第一章では、英語公用語化論争の全体像を見ていった。まず、
「21 世紀日本の構想」懇談
会の報告書中で、英語の公用語化に触れている部分を調べた。さらに、読売新聞、朝日新
聞、毎日新聞の主要三紙において、報告書ならびに英語の公用語化について、どのような
国民的議論が起こったのかを調べた。その際、雑誌などで発表された識者の意見も加えな
がら、論争全体としてどのような意見が見られたのかをまとめていった。その結果、この
論争では全体的に、英語か日本語かの二項対立という構図が広く見られることがわかった。
これは、国語といったら日本語、外国語といったら英語、という日本人の偏狭な言語感覚
をあらわしている。そもそも「公用語」とはどのような概念なのかきちんと理解されない
まま、この英語公用語論争が進められたのである。
そこで第二章では、「公用語」の概念を明らかにし、公用語にまつわる問題を探っていっ
た。まず、日本の歴史的背景にも触れつつ、国語、母語、国家語と比較しながら、公用語
の概念を明確にしていった。そして、公用語とは、その言語を公的な場で用いることがで
きる権利を保証するためのものであり、論争における「公用語」の使い方とは全く異なる
ものである。そもそも、日本では公用語というものが存在しない。そこで、どのような場
合に公用語が必要となるのかを知るために、カナダ、アメリカ、シンガポールの事例を調
べていった。海外では、公用語をめぐる深刻な対立や問題が見られ、一方、論争における
「公用語」の使い方には切実な意味がこめられていないことが浮き彫りになった。
このことは、日本社会には深刻な言語問題はない、ということを意味しない。第三章で
は、日本社会における言語の問題を明らかにするために、日本人の外国語に対する感覚、
日本社会の多言語状況、言語権と言語政策について調べていった。日本はその時代の有力
言語を深い考えなしに崇拝してきた一方で、琉球語やアイヌ語などの国内の少数言語に対
しては、徹底的に日本語への同化を強制し、少数語話者たちに徹底的な差別を加えてきた
ことが明らかになった。さらに、日本に住む外国人や労働移民の増加によって、日本社会
の多言語性は急速に進んでいる。そして今日、世界では言語権というものの重要性が認識
されはじめているにもかかわらず、日本の教育現場や行政には、ことばの権利という概念
がほとんど知られていないのである。
英語公用語化論争から、日本社会における偏狭な言語感覚が明らかになった。我々は、
言語の重要性と問題をきちんと認識しなければならない。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
宮崎駿作品における人間と空間―飛行について―
徳永
佳代子
宮崎駿は優れた映画監督として認知され、彼の作品は「宮崎ブランド」として確立され
ている。彼の作品では飛行シーンが多用されているが、アニメーションという表現方法を
用いて、独自の飛行が描かれている。この論文では宮崎駿の作品に描かれた飛行、特に宮
崎が理想とする飛行がどのようなものであるか考察した。
各作品に描かれた様々な飛行を形態から分類した。分類する要素は、普通に風の中を飛
ぶもの(風的な飛行)と水の上(中)に浮いているようなもの(水的な飛行)である。も
う一つは体に風を受けるもの(開放的な飛行)と風を受けないもの(閉鎖的な飛行)であ
る。そのうち開放的で風的な飛行(飛翔)は、主人公の飛行に用いられており、この飛翔
こそが宮崎の理想の飛行と位置づけた。
まず飛翔(開放的な飛行)が心を通じ合わせる行為としての意味を持つことを論じた。
『天
空の城ラピュタ』のゴリアテのような閉鎖的な飛行では、暴力性や支配欲がみられるが、
タイガーモス号のような開放的な飛行では、海賊という悪役でありながらパズーを仲間に
し、海賊同士も家族のような結びつきがあり、他者と友好的な関係を築いている。宮崎が
人物の感情を風で表現することに着目し、開放的な飛行では他者の心がより理解できる状
態にあるのではないかと考えた。『千と千尋の神隠し』のラストに行われるハクと千尋の飛
行のように、男女が共に飛行することは、二人の気持ちが結ばれた瞬間を表していた。そ
して『ハウルの動く城』では、ソフィーとハウルの結婚と愛情だけで結ばれた擬似的な家
族の成立をハウル(の城)の飛翔によって表現していた。
次に飛翔(風的な軽い飛行)は解放された状態を意味することを指摘した。『風の谷のナ
ウシカ』の大型船の水的な飛行は安定感があった。一方ナウシカの風的な飛行は不安定で
はあるが自由である。しかし鳥の飛行から創造された同じ風的な飛行でありながら、軽重
の違いによってハウルとナウシカの飛行は異なる意味を持っていた。ナウシカは人間同士
の争い、自然と人間との対立を超えて、自由に行動していた。一方ハウルは重力に縛られ
た重い飛行と同様に、悪魔との契約や国家そしてサリマンという母性に縛られた状態であ
った。そして最後にハウル(の城)は飛翔を行っているが、それはそれらの束縛から解放
されたためである。
宮崎の理想の飛行とは、身体に風を受け、軽やかに飛ぶことである。そこには心を通じ
合わせる行為と、解放された状態を表す二つの意味がある。この二つの意味は各要素(飛
行形態)から導き出されたものであるが、それぞれが単独で存在するのではなく、相互に
結びついている側面がある。宮崎は空を飛ぶことに対して、ただ地上を離れて自由に飛び、
自分が束縛から解放されるという個人的な満足に終わるだけでなく、他者を理解し、友好
的な関係を結ぶという期待を持っていると言える。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
現代の在日朝鮮人の帰化
―朝鮮系日本人のすすめ―
西渕
智希
朝鮮国籍を持ちながら日本に長く居住する在日朝鮮人は、差別問題や生活不自由など多
くの問題に直面している。本論では、歴史背景や現状を分析し、現代において在日朝鮮人
の帰化が望まれるということを論証した。
第一章では在日朝鮮人が生まれた歴史背景を調査した。朝鮮半島に住む人々が日本に渡
ってきた時期は、第一次大戦から 1945 年の終戦にかけて集中している。しかし、時期は同
じくしても日本に渡った理由や、日本から去らなかった理由は多種多様である。
第二章では、在日朝鮮人が日本で生活することに何が問題であるのかを考察した。在日
朝鮮人は日本国籍を持たないために、住民登録や選挙などの生活に関わる制度の上で日本
国民とは区別して扱われ、生活に不自由を伴っている。さらに、マイノリティであること
やかつて朝鮮が植民地であったことなどの不当な理由で虐げられるといった心理的な差別
が問題となっている。また、在日朝鮮人は朝鮮半島と日本の両側から、朝鮮人とも区別さ
れて扱われる。朝鮮人でも日本人でもないという曖昧な状態が帰属意識を曖昧なものとし、
在日朝鮮人の若者の中でアイデンティティをめぐる葛藤が生まれている。
第三章では在日朝鮮人が日本に滞在している理由を系統別に分析した。朝鮮半島から渡
った人々が終戦直後日本に残った理由は多種多様であったが、今日まで滞在している者は
大まかに分類すれば「朝鮮半島へ移住したい者」と「日本永住を決めた者」に分けられた。
第四章では、日本永住を決めた在日朝鮮人は日本国籍を取得したほうが良いことを説明
した。帰化しない理由は主に、朝鮮民族への帰属意識といった民族意識を保持したいため
である。しかし、帰化したからとって民族意識が消滅するわけではない。不自由を伴う現
在の生活を続けるよりは、日本国籍を持つ朝鮮人「朝鮮系日本人」として生きることを勧
める。自分のルーツと共に帰属をはっきりと意識しながら不自由なく暮らしていけること
で、アイデンティティをめぐる葛藤も解消され、朝鮮人であり日本人であるという特長を
生かして更なる飛躍が遂げられる可能性を持つ。
第五章では在日朝鮮人の朝鮮系日本人化を進めるために必要な日本社会の変革を挙げた。
日本に住む全ての人間のルーツが理解できる歴史教育を施すべきである。現代の他国から
の干渉や差別問題へのタブー視などによる極めて曖昧な歴史教育ではなく、様々な歴史背
景と歴史観を織り込んだ教育である。また、帰化手続きの簡略化、日本社会に受け入れ態
勢をつくっていくことが望まれる。
在日朝鮮人はその発生の特殊性から社会的マイノリティとして様々な問題をはらむ。し
かし理由はともあれこれからも日本で暮らしていく彼らは、帰化することで活動の幅が広
がることはあっても狭まることはないと考える。ぜひとも日本国籍を取得した朝鮮人とな
り、日本社会でフルメンバーとして生きていくことを勧めたい。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
諸星大二郎とその諸作品における一考察
野内
顕造
諸星大二郎は 1949 年生まれ、東京都出身の現役漫画家である。1974 年『生物都市』で
第 7 回手塚賞に入選し、
『’74 日本 SF ベスト集成』(筒井康隆編)に収録されるなど高い評
価を得た。しかし『週刊少年ジャンプ』で連載を始めた『妖怪ハンター』は一般読者の支
持を得ることができず、わずか 5 回で打ち切りになってしまった。その後は地道に質の高
い作品の発表を続け次第に一般読者からの人気を集め、1992 年に第 21 回日本漫画家協会
優秀賞、2000 年に『西遊妖猿伝』で第 4 回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。そこで
本論では、諸星大二郎の作品のなかからいくつかの作品を取り上げ、彼の作品の持つ独特
の魅力とはどのようなものかについて考察していく。
1973 年のデビュー作『不安の立像』から 2002 年に『モーニング』に掲載された『鳥を
見た』まで、諸星大二郎の絵柄は洗練されつつもほぼ変化せず、現在においても流行の画
風に影響を受けることなく独特の画風を維持し続けている。ときおりうまいのか下手なの
かよくわからなくなるが、一目見ただけで諸星大二郎の絵だとわかるこの画風は彼の魅力
の大きな要素になっている。
さて、
『栞と紙魚子』シリーズは諸星大二郎にとっては初の少女向けホラー雑誌『ネムキ』
VOL.23∼32 に掲載されたものである。この『栞と紙魚子』シリーズはメッセージ性だとか
そういったものはほぼ皆無であるけれども(死ぬ気もないのに自殺をすると言うな、などと
いった発言もあるが、それがテーマだとは言い難い)、それゆえに諸星大二郎の発想の豊か
さ、非凡さが浮き彫りになっている作品である。『栞と紙魚子』シリーズは一読しただけで
わかるのだが、ほかの作品にくらべて肩肘張らずに書いている節がある。したがって比較
的顕著に諸星大二郎本人の趣味・嗜好が台詞やパロディなどとして露呈した部分が見受け
られるのである。まず目に付くのが、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの著作群、
一般にクトゥルー神話体系と言われるものからの引用である。クトゥルー神話体系と諸星
作品にはいくつかの共通点が見られる。まず最も顕著なのが、独自に架空の書籍や遺跡を
創作するという点である。またそれらが実在しているかのように思わせるところも共通し
ている。
諸星大二郎は各方面から高い評価を得たが、その作品の質の高さの割に商業的に大きな
成功を得られなかった。そもそも諸星大二郎の作品というのは、エンターテイメント作品
でありながら、読み味わうのにある程度の予備知識が必要であることが多いのである。『妖
怪ハンター』
『暗黒神話』は諸星作品のなかでも特に難解な部類に入るもので、これらを少
年誌の連載で書いたというのは冒険というよりも無謀であったといえる。しかしそこでの
失敗が現在のマイペースながら充実した執筆活動につながっているのであるから、商業的
な成功をしなかったことこそが彼の魅力の秘訣なのかもしれない。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
内田百閒論
長谷川
怜
内田百閒(1889-1971)は、日本近代文学史の中では、異端の存在として位置づけられる
作家であろう。大正∼昭和初期に発表された『冥途』(1922)と『旅順入城式』(1934)と
いう二つの短篇集に収められた作品群は、共通して幻想的な世界を持っている。本論文に
おいては、こうした百閒の初期小説群をおもに取り上げ、テクストの分析からその特異性
を明らかにしていくことが目的である。
まず第一章では、個々の作品の分析に入る前に、対象とする二つの作品集の位置づけを
おこなった。百閒の実質的な第一創作集である『冥途』には、彼の師である夏目漱石
(1867-1916)の『夢十夜』
(1908)からの影響が色濃くうかがえ、とりわけその「第三夜」
に骨組みを依拠していることが指摘できる。だが、その後の『旅順入城式』に至って、数
篇の作品の語り手は、自己を客観的にみる視点を持つようになっており、百閒はそこで前
著になかった独自の境地を開いたと言える。
第二章では、百閒の作品をメディアとの関連という観点から分析した。「大尉殺し」とい
う短篇では、語り手「私」の視点は、映画を観る観客の位置におかれていると言える。こ
こから百閒がいかにメディア・テクノロジーの影響を受け、作中でその効果を利用したか
が分かる。また「旅順入城式」において登場する映画というメディアは、明確な境界を持
たず、「私」のスクリーン内への溶解と混濁を引き起こすものだ。一方で、戦後の短篇「サ
ラサーテの盤」
(1948)をみてみると、メディアとしてのレコードは、此岸と彼岸とを明確
に峻別し、彼岸から「私」のもとへ異質な声をもたらすものとして位置づけられる。
第三章においては、百閒の小説に現れる特異な場所に注目した。まず冒頭部において「私」
が辿っていく長い「道」は、「私」に受け身の性格を付与する装置であり、「私」を過去の
記憶へ接続していく〈場〉として考えられた。また薄白い光を発する、水のある空間は、
非現実的なトポスとして存在し、
「私」を幻惑する魔術的な〈場〉であることが確認できた。
第四章では、百閒作品の語り手である「私」のおかれる状態や行為に着目しながら、そ
の性格や特徴を明らかにしていった。ここでは、「私」を〈語る私/語られる私〉の二項に
分けながら、
〈語られる私・動作主〉の行為が、他者・世界と〈語る私〉によって二重に先
読みされていることから、「私」に予期恐怖と怯えが発生し、その能動性が制限されていく
ことを述べた。また、〈語る私/語られる私〉の分化の仕方と位置の配分によっては、自身
の行為までもが、一つのノイズとして捉えられ、語られうるということを提示した。
こうしていくつかの観点から、内田百閒の作品を読み解いてきたわけだが、とりわけそ
の主人公である「私」をめぐる考察をつうじて、その存在が特異であること、またそれを
含んでいる百閒のエクリチュールが、異様な性質を帯びていることが明らかにできたこと
と思う。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ロベルト・ベニーニ『ピノッキオ』に見られる不思議なリアリティ
平澤
麻実
ロベルト・ベニーニ監督・主演の映画『ピノッキオ』(2002 年、イタリア)は、50 歳の
ベニーニが少年のピノッキオを演じていることや、動物の役は人間がひげや触覚をつけただ
け、という演出が観る側に「異様な」印象を与え、その影響から評価の別れた作品である。
また、独特の演出方法の中に、ファンタジーの要素や現実味のこもったエピソード等が散り
ばめられており、観る者に異様で不思議な感覚と、リアリティを同時に与えると思われる。
ベニーニ自身、「不思議だがよりリアルな世界観」を表すことを目指していることから、こ
の映画の最大の特徴を「不思議なリアリティ」であると考え、分析し、映画『ピノッキオ』
の独自の意義や価値を見出すことを目的とした。
ベニーニは、何が起こってもおかしくないような、非現実的な幻想世界を創り出すことに
力を入れた。しかしそれは、CGを駆使した完璧なファンタジー世界ではなく、どこか不完
全で、手作り感が見られるものである。「おじさんピノッキオ」等演出は不気味な印象を与
えるが、妖精や青い蝶などの美しい幻想シーンと混在させることによって、観客に完全にフ
ァンタジーの世界に入り込むのでもなく、完全に現実的・客観的に観るのでもない、その境
目のような不思議な感覚を与えると考えられる。また、人形や動物の役でもあえて人間の生
身の姿を見せたことは、ベニーニがこの映画のメッセージとした「内面の美」を強調するの
に必要なものであった。
エピソードとしては、原作である『ピノッキオの冒険』にも見られた、貧困や裕福層・権
力層への批判など、原作の時代のイタリア庶民の視点を多く取り入れることで、ファンタジ
ーの中にも現実社会を表した作品となっている。また、現代の私達でも共感できるような、
大人になっても持ち続けている誘惑に弱い心や、無償の愛を注いでも報われない女性の視点
などが盛り込まれている。
映画『ピノッキオ』は原作の世界を忠実に映画化しており、周りの人の愛に気づくことで
成長していくという家族愛が最も重要なテーマとなっている。単にピノッキオが悪い所を直
し、人間になるという単線的で道徳的な話としてまとめていない所が、ディズニー版等とは
異なる、ベニーニ版『ピノッキオ』の特徴である。
また、ディズニー版やコメンチーニ版のピノッキオ作品と比較することで、ベニーニが原
作の矛盾や曖昧さをあえて残していることが明らかになった。このことは、原作の世界観へ
の忠実度を増し、作品の不思議さを際立てていると言える。
以上のことから、『ピノッキオ』では視覚的にも物語的にも、非現実的な不思議な世界を
背景にし、その中でリアリティが感じられる作品になっていることがわかった。原作の世界
観をよりリアルに表現しようとしたことと、ベニーニ独自の演出が加えられたことによる、
この「不思議なリアリティ」は、この映画の最大の特徴、そして魅力となっている。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
消費社会における人間活動の環境への影響
藤澤
亜里紗
環境問題という言葉が世界各地で言われるようになり、その影響と今後の課題が指摘さ
れるなかで、個々人の日々のライフスタイルや生活意識が環境問題に関係しているのでは
ないかということに焦点を当て、環境への負荷の実態を検証した。その結果、諸問題は私
たち一人一人の快適な暮らしを求める意識と経済活動に起因することがわかった。
第一章では日本および世界で問題視されている森林破壊や砂漠化、温暖化等を文献や HP、
資料をもとに調べて上げ、近年世界中で頻発する異常気象を指摘し、もはや目をそむけて
はいられない現状、生活や命を脅かされる問題になってきていることを記述した。なぜ起
きたのかについて、高度経済成長と大量消費・大量生産という人為的作用をもとに導き、
環境問題の原因は経済優先の産業システムそのものにあり、我々の日常生活と直結した足
元の問題であることが見えた。自然環境の劣化のみならず、人間生存条件の劣化にもつな
がるということを、健康への被害(ダイオキシンや紫外線)を挙げて具体化した。
第二章では、環境問題の現状を改善するには被害者意識をもつよりもまず、各々が加害
者でもあることを自覚する必要があるということについて展開した。日常生活の一部であ
る「食」に焦点をおき、食品を買ってゴミを捨てるまでに至る流れの一つ一つの行為にそ
って、日常における環境への負荷を検討した。食品を買う・選ぶという簡単な行為や、消
費者の需要に応じるための過剰生産システムが、輸送エネルギーの増加や農薬による土壌
の悪化などの環境負荷を招いていた。また、食の豊かさの裏には途上国におけるアグリビ
ジネスの成立や、BSE問題およびクローンや遺伝子組み換え技術という外交・倫理問題
があり、マーケティング戦略や国家プロジェクトになっていることも指摘した。
第三章では大量生産・大量消費の結果おきた大量廃棄、いわゆるゴミ問題をあげ、ゴミ
を減らす政策として近年提唱された循環型社会および環境改善政策である3R(リデュー
ス・リュース・リサイクル)の現状と問題点や課題を、ペットボトルと残渣から考察した。
現在社会に浸透しているリサイクルは完璧な政策ではなく、リサイクルよりリュース、リ
ュースよりリデュースに徐々に転換していくことが今後のポイントになることがわかった。
それぞれの課題点を指摘しつつ、実際に行われている活動を紹介した。さらに、
「環境先進
国」「エコ」という表現が国やメディアによって広まっているが、これは本来見つめるべき
環境の現状を覆い隠す危険性をもつ。これを強調した上で、市民・企業・政府が、自主的
かつ積極的に環境への負荷の低減に取り組む姿勢と、本質を理解して新しいライフスタイ
ルを見出すことの重要性を記述した。
環境問題は国家的な利潤関係が絡んでおり、また、あらゆる専門分野を総体しなければ
捉えられない事象である。しかし、各地で芽生えている環境活動に触れると、永続可能な
社会の実現は個々人の意識の持ちようが大きな要になると実感できた。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
松井やより論
藤倉
睦美
本論文は、フェミニズムを主題とし、その中でも特に松井やより(1934−2002 年)を中
心に据えて論じた。
近代以後の日本の女性運動は、男性=強者により差別され、抑圧される弱き存在、家父
長制度の被害者として常に自己を規定してきた。これらの意識は時代を跨いで受け継がれ、
女性たちの中に、深く根付いている。戦後の女性たちは、男性との平等の獲得や、ありの
ままの女として生きられる社会の実現に没頭してきた。
しかし、1990 年頃から国際的に「戦争と女性」への関心が高まり、日本人女性を被害者
としてのみ捉える構図は揺らぎ始めた。日本人女性は、国内での従来の構図のみならず、
国際的な構図の中で捉えられるようになってきたのだ。こうした日本人女性への視点の転
換を読み解き、国際的なフェミニズムの関心の高まりを分析するため、松井やよりの戦後
の思想的軌跡を取り上げた。松井は、日本人女性に新たな視点を提起したフェミニズム思
想家のひとりであり、早期から国際的な視野で活動を行っていた女性運動家であるため、
彼女の軌跡を辿ることには意義があると考えたからだ。
本論は、第1章で日本のフェミニズム史を押さえるべく、日本の女性たちが辿ってきた
足跡を追った。第 2 章では、日本のフェミニズム史の主流と位置付けられる、
「母権」対「女
権」という対立構造から、いかに日本人女性の中に被害者性が形成されていったかを明ら
かにした。
それに対して第 3 章では、松井が取り組んだ活動に即して、彼女が問題としてきた視点
から日本人女性の加害者性について考察した。日本人女性は、1970 年前後から日本が行っ
てきた、経済的・性的なアジア侵略に対して加担していた。日本人女性のアジア侵略に対
する加担の発端は、過去の侵略戦争にまで遡る。彼女たちは、過去の戦争において、「銃後
の女」として、または、戦争の加害責任を追究し、処罰してこなかったという点において
加害者であったのだ。
第 4 章では、松井らが過去の侵略戦争の責任を追及し、処罰するために開廷した「女性
国際戦犯法廷」について論じた。この法廷は、単なる天皇を含めた加害者処罰を意味する
だけでなく、沈黙を強いられてきた女性たちが主体的に社会を作り、新たな歴史を刻んだ
出来事でもあった。また、この法廷は、被害国と加害国、さらには被害国同士をも結ぶ、
国境を越えた連帯にも貢献した。
松井は、これまで日本の女性たちに欠けていた「他者」とのつながり、すなわち、分断
されたアジアを始めとしたグローバルな関係を修復し、新たな関係を築く開拓者であった
と言える。ジャーナリストとして、女性運動家として、そして何より、日本人女性として
示してくれた松井の生き方は、21 世紀を生きるわれわれに問いかけ続けるだろう。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
偽りでない仮面像
本田
元治
「仮面」という言葉には多くの場合、否定的なニュアンスが付与されている。それは「仮
面夫婦」「仮面浪人」といった言葉における「偽っている」「隠している」という意味合い
を考えれば明白だろう。しかしオスカー・ワイルドや坂部恵の言うような「偽りでない仮面」
が存在しているのではないだろうか。この論文はそうした「仮面」に関する疑問を出発点
としている。
仮面と最も強く結びついた言葉の一つとしてペルソナが挙げられる。ペルソナは本来古
代の劇で使われた面を意味し、後に劇における役割、劇中の人物をさすようになった言葉
だが、ユングはこの言葉を社会から要求される態度や役割であると定義し、「個性というも
のがあるかのように見せかける仮面」と捉えた。このペルソナの考えを受け、役割への同
一化、ペルソナの硬化によって起こるとされているのがうつ病である。また精神分離は自
己を守るためにまとった仮の姿としてのペルソナと素顔との対立によって起こるものとさ
れており、仮面の「隠す」機能に焦点が当てられている。
こうした仮面の否定的なニュアンスの原因としてヨーロッパからの影響が推測される。
語源の問題やヨーロッパ演劇が追いやられ、わずかに残った喜劇がそのテーマなどから文
化の負の面を与えられていたという歴史、偶像崇拝を禁止するキリスト教の伝播など、仮
面に対する強い否定的なイメージの根源が窺える。またルソーが示した仮面をはがすこと
で素顔の自分が現れるという物語は、現在多くの人が思い描いている仮面のイメージと一
致している。
しかし民俗の祝祭や宗教儀礼における主たる仮面の機能はこれまで見てきた仮面の機能
とは全く異なっている。まず仮面は普段人間の目に見ることの出来ない神や精霊を可視化
し、異界の力を人間が操ることを可能にする。さらに超自然的世界と現実世界、生と死の
ような二つの乖離したものの間に存在し、両者を結ぶつける媒体としての役割をも仮面は
果たしている。こうした仮面の機能は国境を越え、共通したものである。
多くの人が信じている素顔は、その背後にある何かの存在を想定していることから「あ
りのままの姿」
「本当の自分」という意味では成立せず、素顔もまた一つのペルソナ(仮面)
であると捉えることができる。仮面は素顔を覆うものではない。それどころか仮面をつけ
て他者と向き合うことで、人間はそれまで流動的で、不可視であった自分の顔を他人を経
由して見ることができる。仮面を媒介として人間は他者と繋がり、同時に遠く離れた自分
の顔と心を感じることもできるのだ。民俗における仮面の機能はこうして人間関係に還元
される。そしてその時、仮面は決して偽りではないのである。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
戦う少女の象徴性
本間
由里
「戦う少女」は現代の漫画、アニメなどによく登場するモチーフであると同時に、神話
の時代から繰り返し登場するモチーフでもある。「戦闘」と「少女」という、一見かけ離れ
た性質を併せ持つ「戦う少女」が支持され、時代を超えて描かれ続けるのは一体なぜなの
か。本論は、「戦う少女」というモチーフのもつイメージがどのようなものであるかを検証
し、その魅力の謎を明らかにすることを試みたものである。
ギリシャ神話のアルテミスやアテナといった戦闘性を持つ処女神は、厳密には「戦う少
女」ではない。しかしその処女性が少女のもつ無垢さと結びつくためなのか、現代の漫画、
アニメに登場する「戦う少女」のイメージに少なからず影響を及ぼしていると思われる。神
話に登場する彼女たちの逸話には、処女神らしい誇り高さ、高潔さ、気性の激しさを表す
ものが多い。また、性愛の象徴である愛の女神アフロディーテとの対立も多く登場するが、
大体の場合はアフロディーテ側が勝利して終わる。
同様に「戦う少女」のイメージに強く影響していると考えられるのが、北欧神話に登場す
るワルキューレである。ワルキューレは北欧神話の主神オーディンに仕える乙女であるが、
正確には神族ではなく、神々の詩の中にはあまり登場しない。彼女たちが活躍するのは英
雄譚の中であり、いずれも英雄の妻として登場する。また、北欧神話における性愛の女神
フレイヤは戦闘性を持つ女神でもある。ギリシャ神話のように戦闘性と処女性が結びつい
ていない為、性愛とも対立せず、融合することが可能であったのだと考えられる。
実在した「戦う少女」の中でおそらく最も有名なのはフランスのジャンヌ・ダルクであ
ろう。百年戦争の終わりに颯爽と登場した彼女は、愛国心と信仰心の象徴として、そして
「戦う少女」という非現実的なモチーフとしてフランス内外を問わず多く描かれ続けてき
た。戦士である為に男装し、それをやめなかったために異端として処刑されたジャンヌで
あるが、彼女は好んで自らをラ・ピュセル(乙女)と呼んでいた。男装して剣をとりなが
ら少女でもあり続けたジャンヌは両性的・中性的存在であると言うことができ、神の声を
聞いたという神秘性とあわせて、彼女の魅力の理由になっていると考えられる。
現代、漫画やアニメを中心に数多く存在する「戦う少女」作品は、少女向け、男性向け
に大別される。前者は読者と同年代の「戦う少女」を主人公に据え、恋愛や日常を取り入
れて展開していくものがほとんどだが、後者はさらに性的描写に特化したものと戦闘描写
に特化したものとに分けることが出来る。これについて、処女性と結びついた「戦う少女」
を犯したいという倒錯的な願望、男性の中で無意識に抑圧された女性性の投影、反発など
様々な角度から考察することは可能である。しかし結局の所それらも「戦う少女」が「戦
闘」と「少女」という非現実的モチーフだからこそ持ちうる観点であり、この両性具有的
超越性こそが「戦う少女」というイメージの最たる魅力と言えるのではないだろうか。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
阿部和重『シンセミア』における共同体の構造についての分析
山本
睦人
本論文は、阿倍和重の小説『シンセミア』
(2003 年)における物語構造を「神町」という
共同体に着目しながら分析したものである。また、この分析を通じて阿倍が『シンセミア』
という作品により、どのように現代の硬直した純文学的枠組みの無化を試みているのかと
いうことを考察した。その際に方法として、阿倍自身が『シンセミア』を書く際にその存
在を強く意識した作家である大江健三郎、中上健次の小説作品における物語の構造と、『シ
ンセミア』におけるそれを比較することとした。テクストとしては「神町」同様、ある種
の共同体を描いた小説である大江の『同時代ゲーム』(1979 年)、中上の『枯木灘』(1977
年)を用いている。
第一章では、
『同時代ゲーム』と『枯木灘』がオイディプス的な構造を回避しつつ、なお
も単一中心的な物語の構造を有しているのに対し、『シンセミア』においては家族の描かれ
方が異なり、そもそも父子の間には対立構造が成立しないことを確認した。また、『シンセ
ミア』においては複数の共同体としての家族が存在しており、物語における絶対的な中心
を欠いた、多中心的構造を有していることを明らかにした。
第二章では、各作品に描かれている土地の固有性について検討した。
『同時代ゲーム』に
おける「村=国家=小宇宙」と『枯木灘』における「路地」には固有性の有無と、正統な
存在である国家との対立構造に還元されるか否かという差異がある。これらのことと『シ
ンセミア』における「神町」を比較すると、「神町」は「路地」同様に、普遍的構造には還
元できない固有性を持ちながらも、同時に「村=国家=小宇宙」と同じく虚構性を加速さ
せる装置としての「フレーム」をもった存在であることが分かった。また、「神町」は「村
=国家=小宇宙」、「路地」とは異なり、中央との断絶は起こらず、中央と地続きで繋がっ
た存在であることを確認した。
『シンセミア』では、広義の「情報」が集積し相互に関連しあうことで「神町」という
「世界」が形成されているが、第三章では、その「情報」が全てを俯瞰する三人称の視点
と、それを補うビデオカメラの視点によって提供されていることを確認した。また、共同
体や視点の複数性と同様に、
『シンセミア』における文体も多元的な構造を有しており、
『同
時代ゲーム』と『枯木灘』における一元的な構造とは異なったものであることが分かった。
『シンセミア』は現代の純文学的な枠組みの突破を試みた作品であり、大江、中上を踏
襲するような物語の構造を形成しながらも、その構造の内部には様々な差異が存在し、同
時代性に富んだ視点が獲得されているといえる。阿部和重の『シンセミア』は、同じく共
同体を描いていても、大江、中上的な枠組みには回収されない立場を獲得しているのであ
る。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
フルクサスにおける反モダニズム
米田 智一
本論文では、1960 年代におけるフルクサスの活動を取り扱い、ヨーロッパでのパフォー
マンス活動を中心とした 1963 年頃までと、その後の作品や出版物の製作に重点を移してい
った時期の二つに分類して分析した。フルクサスの活動が初期のパフォーマンスを中心と
した活動を本質とするものであるという従来の先行研究を批判したうえで、これまであま
り注目されてこなかった後期のフルクサスに焦点を当て、その独自の反体制的な活動を論
じるという構成で論文を展開した。
前半では、これまでの研究でフルクサスの中心として考えられてきた 60 年代初期の活動
について説明し、その上で後期のフルクサスへの移行へと議論を進めていった。第一章で
は、フルクサスの活動の前期において盛んに行なわれていたパフォーマンスについて、6
0年代前半のヨーロッパでのフェスティバルをとりあげて分析した。ここでは彼らのパフ
ォーマンスに、ジョン・ケージからの影響を受けた、偶然性の介入や作者と聴衆の関係の否
定という特徴を見出した。第二章では、この時期の彼らの組織形態に注目し、ダダに比較
される脱中心的な個人の集団という特徴がみられる点を指摘した。そのうえで、新たな組
織形態の計画がマチューナスによって提示され、今までの活動形態を批判する新たな活動
の展開がみられるようになった時期に注目し、その後の彼らの活動へと論文の焦点を移し
ていった。
後半では、マチューナスの計画に基づいた後期のフルクサスの中央集権的な組織形態と、
パフォーマンスに代わって多くみられるようになった、作品や出版物の製作について分析
を行った。第三章では、この時期の彼らの代表的な作品である『フルックスキット』を取
り上げ、従来の美術館制度に対する批判という観点から分析を行なった。第四章では、こ
の作品分析を踏まえたうえで、後期フルクサスの組織形態の分析を行なった。この時期の
フルクサスにおいては、フルクサスの創始者であるジョージ・マチューナスが独裁的な立
場を取って中央集権的な統括を行い、独自のネットワークを用いた作品や出版物の流通を
模索していた。こうした組織形態の特徴から、彼らが自らの立場を従来の芸術産業にたい
するオルタナティブとして定義し、ダダや前期のフルクサスとは異なった方法で、反体制
的な活動を行っていたことを明らかにした。
このように二つの時期におけるフルクサスの特徴を比較したうえで、最後に改めて彼ら
の活動を反モダニズムという観点から整理した。後期のフルクサスの活動は、従来の反モ
ダニズム的な活動と異なった独自の手法を用いることで、モダニズム批判を行なっている
こと強調した。これまであまり重要視されてこなかった後期のフルクサスであるが、マチ
ューナスの言説に焦点をあてることで、既成の概念に対して大きな批判性を持つその活動
に、革新的な意義を見出すことができる。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
奈須きのこ論―『月姫』をめぐって
桜庭
和哉
この論文では、二〇〇〇年十二月に公開されたノベルゲーム、『月姫∼完全版∼』を主な
対象とし、そのシナリオを担当した奈須きのこという作家について考察している。
まずは奈須きのこが公開している作品の中で、主人公となっているキャラクターたちの
特徴を調べた。そこからは長編となる作品の主人公たちが、「自分とは一体何者で、どうし
て今こうして生きているのか」という現状に繋がる根幹について、一様に記憶に障害を抱
えているという共通性が発見された。この事実から、奈須きのこの作品には「自分探し」
といった要素が含まれていることを導き出した。次に、『月姫∼完全版∼』そのものの粗筋
にある、「多発する猟奇殺人事件」という点から、事件の解決を目指す「ミステリ」として
の要素や、犯人との戦闘といった「アクション」も含まれている、ということを明らかに
した。最後に、パソコンのノベルゲーム業界における圧倒的な多数を占めているジャンル、
つまりはヒロインと結ばれる「恋愛」ものとしての要素も発見された。
しかし、これらの要素はどれか一つだけで充分に作品の中心となり得るものでありなが
ら、奈須きのこはどれをも作品の中心として扱わなかった。彼は「自分探し」などの様々
な要素から導き出される、各々のキャラクターの人格や行動原理といったもの、つまりは
「生の在り方」というものを主題として据えることで、『月姫∼完全版∼』を製作した。そ
して、それを描写するに当たって、
「画面に一行ずつ文章が出てくる」というノベルゲーム
の特性を活かして、キャラクターの感情表現を的確に伝達するという表現手段をとった。
これは他のノベルゲーム作家には見られない、奈須きのこ独自の表現形式であった。
では何故、奈須きのこが上記のような主題で『月姫∼完全版∼』を製作したかというと、
そこには様々な理由がある。まず一つに、ノベルゲーム業界においては「恋愛」というジ
ャンルが圧倒的多数を占めていたため、その要素は押さえた上で、もっと別のものを見せ
てくれる作品が要求されていたことが挙げられる。二つ目は、ノベルゲームにおける彼の
創作スタイルが関係している。彼は筋道が一本しかない話というより、作品の基盤となる
舞台などの条件をきっちりと作りこんだ上で、様々な可能性を含んだ世界を提示する(ノ
ベルゲームはエンディングが一つとは限らない)というやり方を取っている。加えて彼は、
物語中の事件は生ある者の意志によって起こされなければならないと考えており、それも
作品世界でのルールとして組み込まれている。そして、彼は世界観の遵守を自らの不文律
としている。そのため、作中でのキャラクターたちがルールを破ることや、事件発生など
の可能性が野放図に広がりすぎて作品が破綻することを防ぐために、キャラクターたちの
行動の基準、つまり「生の在り方」を中心として定める必要があったのである。このよう
な「生の在り方」を中心として話を展開させていく手法と、ノベルゲームのシステムを利
用した表現の併用が、奈須きのこの作家としての特徴であり、
『月姫』の構造となっている。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
マルチメディア時代における『銀河鉄道の夜』
陸
友美
本論文では、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の世界が、映像化されることでどのように変
質していったかを、原作との比較において考察した。
まず、第一章では、賢治の生い立ちや作品から、どのように『銀河鉄道の夜』が生まれ
たのか、また、賢治の考える死後の世界について考える。
『銀河鉄道の夜』は、死への旅の
物語である。賢治は銀河鉄道の世界を「幻想第四次」の世界と表現し、死や生を過去や現
在で表現している。私たちの存在する三次元での過去や未来は、過ぎてしまった、もう戻
れないもの、まだ見れない将来の世界である。しかし、三次元の上下、前後、左右の軸に、
時間という新しい軸が加わる(四次元)と過去、現在、未来はそれぞれ別の所にある世界
ではなく、1 つの世界の中に存在する1本の流れと考えることができ、過去の世界の住人も
現在の世界の住人も同じ世界に存在していることになる。死が過去のものであるとするな
ら、生きているものが住む世界は現在である。賢治はこの四次元の世界に、死んでしまっ
た最愛の妹トシに会える可能性を見出したのではないだろうか。
第二章では、第一章で述べた、賢治の『銀河鉄道の夜』を、どのように映像で表現して
いったのかを考える。映画版では、原作では曖昧に表現された生や死を電燈の明滅や鳥に
よる巨大な DNA の螺旋構造等で視覚化することにより、原作に比べてわかりやすく表現で
きているのではないかと思う。
また、映画版では、街の中心地である広場が何度も出てくる。原作には登場しない、街
中の人々が集まる十字の広場には、ジョバンニの孤独を際立たせるための役割と、ジョバ
ンニが成長して受け入れられる共同体(街)を象徴するという役割がある。街と、街はず
れ(家、活版所、牛乳屋)を何度も往復するジョバンニは、この街の中で不安定な存在で
あり、街の中心である十字の広場から拒絶される。映画版では、死後の世界よりも、銀河
鉄道の旅の経験を通して成長し、街に受け入れられるジョバンニの姿を中心に描いている。
このように、まったく同じ物語でも、表象媒体の違いによって作品の世界観は随分と違
ったものになる。特に『銀河鉄道の夜』は未完の作品であり、銀河鉄道の旅から戻ってき
た後のジョバンニがどんな風に描かれるかは、読み手の受け取り方次第である。原作のジ
ョバンニよりも、映画版のジョバンニの方が孤独感がより強く表現されており、そこから
ジョバンニがいかに成長していくかが、映画版『銀河鉄道の夜』の核となっているのでは
ないか。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
ユーリー・ノルシュテイン論
−その手法をめぐって−
松岡
美貴
本論文は、ロシアのアニメーション作家であるユーリー・ノルシュテイン独自の手法に
着目した。
〈映像詩人〉と称される彼の「詩」としてのアニメーションを、代表作である『話
の話』を通して、明確にしていきたいと考えた。
第一章では『話の話』のストーリー構成を主人公のオオカミの動きから分析した結果、
オオカミが現に存在する場面と回想する場面に区別できた。オオカミが回想する場面はノ
ルシュテイン自身の断片的な記憶である。オオカミは現に存在し、様々な過去を回想する
ことで、観客にいろんな場面を見せてくれる語り手の機能を果たしている。『話の話』は断
片的な記憶がただ並べられている印象を受けるが、作品の進行をオオカミの動きによって
分析することで、ストーリーがより明らかになった。
第二章ではノルシュテイン独自の手法について述べた。切り紙アニメーションへと辿
り着く背景に、絵画の影響が考えられる。初監督作品である『25 日、最初の日』は、ロシ
ア革命という出来事を、まさにその時代の絵画を使って表現したものである。この偶然の
結びつきによって、絵画に生命が吹き込まれた。この作品がノルシュテインの切り紙アニ
メーションの誕生ともいえるだろう。切り紙アニメーションは紙を素材にしているので平
面的ではあるが、細かなパーツに切り離されていて、よりリアルで、滑らかな動きを見せ
ることができる。その上、映像に奥行きを持たせるための立体的な空間をマルチプレーン
カメラで可能にしていく。このように緻密で高度な手法が見られるようになるが、画面の
中で紙きれを動かすことは今も尚変わらない。もう一つの手法として挙げられるのが、モ
ンタージュの技法である。作品の中でモンタージュの技法が幾度となく見られる。映像と
音楽が見事に調和している視聴覚モンタージュも見られ、観客を一層画面に引き込む効果
がある。
第三章では『話の話』の詩的な構造について考察した。モチーフとなったヒクメットの
『おとぎばなしのおとぎばなし』を解読し、『話の話』と比較した。その結果、二つの作品
の共通点は、内容的な面では、日常生活を題材にし、そこから生きる意味を問う点であっ
た。また構成の面では『おとぎばなしのおとぎばなし』の6節目の構造が『話の話』全体
の構造に似ている点である。一つ一つの出来事を独立させて並べ、最後には一つの場面に
集約している。第一章、第二章を踏まえて見ると、『話の話』では、比喩的表現、記憶の断
片が節を形成している点、シーンやエピソードの反復、モンタージュの構造、韻律による
リズムも作品の中に見られる。これは詩の構造に近いものを映像で表現したと考えられる。
以上のように、本論文では主にユーリー・ノルシュテインの『話の話』の作品分析と詩
的な手法の分析に限られたが、そこにおいてはユーリー・ノルシュテインのアニメーショ
ンが詩的であることを明確にした。
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卒業論文概要
新潟大学人文学部文化コミュニケーション履修コース
『ピーター・パン』における表象形態について
若山
香奈
現在『ピーター・パン』は、ウォルト・ディズニーアニメーションの『ピーター・パン』
に代表されるように、子供向けの物語として世界中に知られている。
『ピーター・パン』の
原作は J.M.バリの小説『ピーター・パンとウェンディ』であるが、この二作品を比較する
と、物語の内容に大幅な差異が見られる。これは、P.J ホーガン監督の実写映画『ピーター・
パン』と原作小説の間にも言えることである。本論では、以上の三つの『ピーター・パン』
を、とりわけ語りの形式に注目しながら各表象形態における特徴を探り出すことで、各作
品の根底にあるテーマや表象形態における魅力を明らかにすることを目的とした。第一章
では、こういった問題設定と各作品の成立背景の簡単な紹介を記した。
第二章では、三作品のストーリーを比較し、それぞれのテーマを検討した。小説作品で
は、母親に関する記述が多く見られることや、家族を持たないピーターの孤独感がウェン
ディの理想の家族と対照的に描かれていることから、「家族愛」というテーマを浮き彫りに
した。実写作品では、他の作品には見られないキスシーンが加えられている点、ピーター
とウェンディー(小説やアニメーションでは「ウェンディ」、実写では「ウェンディー」と
されている)の接近シーンが多い点から、「恋愛」という主題が基底にあることを明らかに
した。さらにアニメーション作品では、物語が死とかけ離れた内容になり、子供向けのフ
ァンタジーとして作られている面から、
「冒険」というテーマ性が主調になっているとした。
第三章では、登場人物を比較した。性質上の違いが顕著に見られるのはピーターとフッ
クである。ピーターは、小説作品では孤独が強調され、実写作品ではウェンディーへの愛
情に対する戸惑いを示す。また、アニメーション作品では子供たちのヒーローとして描か
れている。一方フックは、小説作品では母親を恋しがるなど繊細な内面が垣間見え、アニ
メーション作品では悪役であると同時にコミカルに描かれている。登場人物の性質と作品
のテーマに関連性が指摘しうるのである。
第四章では、語りの形式、とりわけ語り手の現前と不在という側面に着目した。小説作
品の語り手は作者であるバリ自身であり、登場人物の性質や内面が身近な語り手によって
ダイレクトに読者に伝えられる点と、「家族愛」というテーマの関連性をみた。実写作品に
は、成長したウェンディーの語りが随所で挿入されることで登場人物たちの心情が代弁さ
れる点、映像によって「恋愛」が強調される点をみた。アニメーション作品では語り手が
ほぼ不在といえ、そのため、過剰な映像表現に代替されると共に、ストーリーが単純化さ
れ、結果子供向けの「冒険」色の強いものとなっていることをみた。
以上から、
『ピーター・パン』という題名を持つ三作品ではあるが、ストーリー構成や登
場人物の特徴づけ、語りの形式に重要な違いが認められ、それぞれが持つ固有のテーマに
繋がっていると結論づけた。
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