学 位 記 番 号 博 音 第 186 号 学位授与年

氏
サワン
ジョシ
学 位 の 種 類
名
博
士
(音楽学)
学 位 記 番 号
博
音
学位授与年月日
平 成 22年 3 月 25日
学位論文等題目
〈論文〉ネパールでのヒンドゥスターニー古典音楽の導入と普及
第 186 号
論文等審査委員
(総合主査)
東京芸術大学
(副査)
〃
( 〃 )
〃
准教授
(音楽学部)
植
村
幸
生
教
(
)
塚
原
康
子
( 演奏芸術センター)
松
下
授
〃
〃
功
(論文内容の要旨)
現在のネパールで「古典音楽」といえば、北インドで発展したヒンドゥスターニー古典音楽のことを
指す。ネパール独自の音楽ではなく、北インドで発展したヒンドゥスターニー古典音楽が現代のネパー
ル 人 に と っ て「 古 典 音 楽 」と し て 認 識 さ れ て い る 背 景 に は 、19世 紀 中 頃 か ら 独 裁 政 治 を 行 っ た ラ ナ 家 が 、
イ ン ド か ら 積 極 的 に 文 化 を 導 入 し た 歴 史 が あ る 。 本 論 文 で は 、 ま ず 、 1769年 の ネ パ ー ル 建 国 以 降 に 、 ヒ
ン ド ゥ ス タ ー ニ ー 古 典 音 楽 が ど の よ う に 導 入 さ れ 、 そ し て 、 1846年 か ら 1951ま で の ラ ナ 時 代 に 支 配 者 の
ラナ家の庇護の下にインドとネパールの音楽家たちが交流することによってどのように普及してきたか、
その経緯を明らかにする。
南アジアの中でネパールはインドと同じ文化圏であるとみなされる国の一つである。それは両国では
いくつも同様な伝統、習慣、宗教、および同じルーツの民族が存在しているからである。また、ネパー
ルとインドの間に様々な時代に移住してきた人々が、それらの文化を共有してきた長い歴史がある。リ
ッ チ ャ ヴ ィ 王 朝 Lichhivi 、マ ッ ラ 王 朝 Malla 、お よ び シ ャ ハ 王 朝 の 王 族 の 子 孫 は イ ン ド の 様 々 な 地 域 の 民
族である。彼らはネパールで支配者として君臨し、独自の文化も発展させながら、インドの文化の影響
を受けていた。また、ときに直接インドの文化を導入することもあった。
ヒ ン ド ゥ ス タ ー ニ ー 古 典 音 楽 は そ の 一 つ で あ り 、 18世 紀 頃 に イ ン ド か ら 導 入 し た 歴 史 が あ る 。 導 入 初
期には、ヒンドゥスターニー古典音楽は宮廷でもてはやされ、インドからやってきた数人の演奏家が雇
わ れ た 。 し か し 、 19世 紀 後 半 か ら ラ ナ 家 の 支 配 者 た ち が イ ン ド の 様 々 な 地 域 か ら 、 よ り 多 く の ヒ ン ド ゥ
スターニー音楽家を招くようになった。ラナ家の支配者は、宮廷で毎日のように彼らに演奏させた。ま
た 彼 ら は 、宮 廷 内 で 貴 族 、上 流 階 級 の 人 々 や タ ー リ ー メ・ナ ー ニ ー Talime Nani( 宮 廷 で 活 動 し た 女 流 芸
術家)たちに音楽の訓練を施した。
ネパールでのヒンドゥスターニー古典音楽の導入やその後の普及のプロセスに関する研究はこれまで
ほとんどなされてこなかった。いくつかの文献や資料では、ラナ家の支配者がヒンドゥスターニー音楽
を単に娯楽として導入したと説明している。本論文ではラナ時代にヒンドゥスターニー古典音楽を北イ
ンドの様々な地域から導入したことを中心にして先行研究での不十分な点を以下の三つの点で補足する。
第一に、先行研究ではネパールでヒンドゥスターニー古典音楽が導入された背景にあったインドとネ
パールの政治変動について十分に検討してない。本論文の第二章ではヒンドゥスターニー古典音楽家た
ちが、イギリス植民地支配の初期にムガル帝国の衰退によってパトロンを失い、デリー宮廷から北イン
ドの様々な藩王国の宮廷に移住し、最終的にネパールに訪れるようになり、ラナたちが彼らの良きパト
ロ ン と な っ た 経 緯 を 明 ら か に し た 。 こ の 事 情 は 1857年 の イ ン ド 大 反 乱 の 時 に 最 初 の ラ ナ 支 配 者 ジ ャ ン
グ・バハドゥールがイギリスに応援し、グルカ兵を提供したためイギリスと同盟関係を結び、政治的に
安定した独立国にしたことに非常に深く関連するものである。このようにラナ時代にカトマンズはヒン
ドゥスターニー古典音楽家を庇護する地域の一つになり、インドの他の地域と頻繁に交流していた。
第二に、先行研究ではネパールでヒンドゥスターニー古典音楽がどのように導入され、普及したかに
ついてはっきりしてなかった。本論文の第三、四、五章でこの点を明らかにした。まず、第三章では、
ネ パ ー ル で ヒ ン ド ゥ ス タ ー ニ ー 古 典 音 楽 が 18世 紀 か ら シ ャ ハ 王 朝 の 宮 廷 に 導 入 さ れ 、 19世 紀 中 頃 に ラ ナ
家の摂政政治が始まって以降、ラナ家の支配者たちは彼らの宮廷でインドの様々な地域からインド人音
楽家たちを招いて音楽活動を行ったことによって、より積極的にヒンドゥスターニー古典音楽を導入し
た こ と を 明 ら か に し た 。 第 四 章 で は 、 19世 紀 末 に ヒ ン ド ゥ ス タ ー ニ ー 古 典 音 楽 が ラ ナ 家 以 外 の 上 流 階 級
の人々の生活にも取り入れられ、ラナ家の宮廷に集まったインド人音楽家からヒンドゥスターニー古典
音楽を学んだ結果、ネパール人音楽家たちがどのような音楽活動をして、その伝承を後代に伝えていっ
たのかを明らかにした。第五章では導入の特色としてインドのラナ時代にネパールの様々な民族の中で
パルバティ・ヒンドゥーとネワール族の一部の社会に限られ、彼らがインドの色々な流派の影響をうけ
ていたことを明らかにした。
第 三 に 、 1951年 に ラ ナ 政 権 が 終 わ り 、 王 政 復 古 が な さ れ た 後 の ネ パ ー ル に お け る 社 会 変 化 の 影 響 を 受
けて、ヒンドゥスターニー古典音楽の教育と位置づけやヒンドゥスターニー古典音楽とその他の音楽ジ
ャンルとのかかわりがどのように変化したのかを第六章で明確にした。まずヒンドゥスターニー古典音
楽 が 、 公 的 な 場 や 教 育 機 関 に 導 入 さ れ た 経 緯 を た ど っ た 。 ま た 1951年 以 降 、 ネ パ ー ル の 音 楽 ジ ャ ン ル が
多様化し、その中でヒンドゥスターニー古典音楽が音楽の基礎として位置づけられていることを指摘し
た。
(総合審査結果の要旨)
本 研 究 は 、 建 国 ( 1769) か ら 現 代 ま で の ネ パ ー ル に お い て 、 ヒ ン ド ゥ ス タ ー ニ ー 音 楽 ( 北 イ ン ド 古 典
音 楽 ) が 導 入 、 普 及 さ れ た 過 程 を 、 特 に ラ ナ 家 摂 政 時 代 ( 1846- 1951) に 焦 点 を あ て つ つ 、 現 地 の 歴 史
資料と現存する音楽家・歴史家へのインタビューに基づいて明らかにしたものである。
本 論 は 全 六 章 か ら な る が 、研 究 と し て の 要 点 は 第 三 章 か ら 第 六 章 に 集 約 さ れ る 。す な わ ち 第 三 章 で は 、
18世 紀 シ ャ ハ 王 朝 時 代 に ヒ ン ド ゥ ス タ ー ニ ー 音 楽 家 が 初 め て 宮 廷 に 入 っ て 以 降 、 イ ギ リ ス に よ る イ ン ド
支配が強まるなかでラナ家が積極的に北インド各地の音楽家を受け入れパトロンとして庇護したことを、
多数の音楽家の動向から明らかにした。第四章では、ラナ時代にはインド人音楽家のみならずネパール
人のヒンドゥスターニー音楽家もその伝承系譜が確立するまでに活動が活発化し、上流階級の非職業音
楽家や宮廷女官ターリーメー・ナーニーへの教習も音楽の普及に貢献したことを示した。第五章では、
ネパールに北インド各地のガラーナー(流派ないし演奏様式)が集まり混在するに至ったこと、ヒンド
ゥー国家でありながらムスリム音楽家を積極的に庇護したこと、ネワール族及びパルバテ・ヒンドゥー
族がネパールにおける主要な受容層であったことを、ネパールにおけるヒンドゥスターニー音楽受容の
独 自 性 と し て 指 摘 し た 。 さ ら に 第 六 章 で は 、 1951年 以 降 の 音 楽 状 況 を 概 観 し な が ら 、 ヒ ン ド ゥ ス タ ー ニ
ー音楽が現代ネパール音楽の基礎として学ばれ、機能していることを明らかにした。
本研究は、社会史的な観点を織り交ぜながら、これまで歴史的研究のきわめて乏しかったネパール音
楽研究に新たな一歩を踏み出す貴重な成果であると評価できる。とかくヒンドゥースターニー音楽文化
圏の一部地域としてだけ考えられがちなネパールが他地域と異なる独自性を発揮したとの主張は今後の
ネパール音楽史構築に資するものとなろう。執筆者のキャリアと能力を十分駆使した調査を行い、明晰
な日本語によってオリジナリティの高い研究へと仕上げたことは執筆者の力量を示すものと認めてよい。
本研究に用いられた一次資料(文献とインタビュー)の扱いをより整備されたものにすること、そして
本研究を南アジア音楽史の大きな潮流のなかに位置づけることによって、本研究はさらにその学術的意
義を増すであろう。博士論文にふさわしい十分な成果と認め合格とする。