2012/12/04 第 8 回マクロゼミ シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』 担当

2012/12/04
第 8 回マクロゼミ シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』
担当:池田、高谷、椿原、靍、藤井、増田、松井、小林
著者紹介
シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)1909-43
医師であるユダヤ系の父と、数学者のアンドレ・ヴェイユ
の兄をもつフランスの哲学者。高等師範学校卒業後、リセ
で教鞭をとった。しかし 1934 年から労働階級の境地を自
分の肌で感じるためにルノーの工場で未熟練女工として
労働をするだけでなく、さまざまなストライキや内戦、レ
ジスタンス運動に参加し、戦争がいかに惨いか、残酷かに
ついて抗議し、ハンガー・ストライキを起こすこともあっ
た。自由フランス政府で働くため 1943 年にロンドンに渡ったが郊外のサナトリウムにて客
死する。彼女のキリスト教的神秘主義は、彼女の現実世界への参加の内に深く浸透してい
る。彼女の著作には、戦争によるすべての混乱、苦悩多き人類の不幸、労働の条件が反映
しているが、社会的正義と個人の救済が情熱的に求められ、厳密な反省にふさわしい純粋
なスタイルでその探求が表現されている。主著は『重力と恩寵』、『神を待ちのぞむ』、『根
をもつこと』などがある。彼女の著作は全て死後に出版されている。
(参考文献:Wikipedia、ちくま学芸文庫『重力と恩寵』、D・ジュリア『ラルース哲学事典』
弘文堂)
問 1: p.13「 創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動
とからできあがっている」
とあるが、重力、恩寵とは何か。p.9 重力と恩寵〜p76 消え
去ること までを参考にしつつ、それぞれ説明しなさい。
[引用]
p.9 たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されて
いる。恩寵だけが、そこから除外される。
同上
ものごとは重力にあい応じて起こってくるものだと、いつも予期していなければな
らぬ。超自然的なものの介入がないかぎりは。
同上
重力―一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く
重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に
働く重力の作用によって決められる。
p.13 創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とから
できあがっている。
同上
恩寵とは、下降運動の法則である。
p.17 なにかの欲望を不当に満足させようとする場合でも、同じだ。こんなふうにしてため
こまれたエネルギーは、ただちに堕落する。
p.22 人々は、わたしたちが想像でつくりあげたものとはちがったものである。このことを
承認するのが、神のわざとして自己放棄をまねることになる。
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p.24 自分の手中にある力をあらんかぎり全部使おうとしないのは、真空を持ち堪えること
である。それは、あらゆる自然法則に反したことであり、恩寵だけにそれが可能である。
同上
恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、入
って行けない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である。
p.35 恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、想像力はたえず働きかける。
p.36 真空をみたすものとしての想像力は、もともとにせものしか提供しない。
p.37 どんな状況においても、充たすものとしての想像力を働かせないでおくと、真空がで
きる(心の貧しい人)。
p.39f
過去と未来とは、想像力をはせて高揚した感じにふけるには、限りのない場を提供
してくれて、不幸の有益な働きかけを妨げるのである。だから過去と未来を捨て去るのが、
捨て去るということでは、まず第一にすべきことである。
p.59 脱創造、造られたものを、造られずにいるものの中へと移して行くこと。
デ
イ
フ
ュ
ー
ジ
ュ
p.60 <神から離れようとする>ひとつの力が存在する。そうでなければ、すべてのものが
神となったであろう
同上
人間には、架空の神性が与えられた。それは、キリストがまことの神性をぬぎ捨て
たように、人間もその神性をぬぎ捨てることができるようにである。
同上 f 捨て去ること。創造において、神が捨て去られたことにならうこと。神は―ある意
味において―すべてであることを捨て去る。わたしたちは、何ものかであることを捨て去
らねばならない。それこそが、わたしたちにとってただひとつの善である。
p.62 自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となるこ
とである。
この目的をめざして、すべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目
的をめざして祈るのである。
p.70 自分を根だやしにしなければならない。木を切って、それで十字架をつくり、次には
日々にそれを負わなければならない。
p.72 神がわたしに存在を与えてくれたのは、わたしがそれを神に返すためである。
[解答]
シモーヌ・ヴェイユは、人間という存在は神によって造りだされたと考えている。神は
人間の創造を、自分自身の存在を消して自己放棄することによって、成し遂げた。このよ
うにして生まれた人間たちは創造主である神という母体に戻る際には、神がそうしたよう
に、人間自身も神のわざとしての自己放棄を真似る必要がある。この行為によって、人間
は神へと近づくことが可能になるのだ。
しかし人間が神のもとへと近づくための上記した方法と過程を妨げるものがある。それ
が重力である。重力とは、地球上において物体が地に引き寄せられる現象や、その力、つ
まり物体に下降運動を意味することが一般的である。本著における重力とは一般的な意味
における下降運動を、人間が神に近づこうとするときに作用する、それを妨げてしまう下
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降運動として意味づけている。つまり人間が天空にいると考えられている神に向かい上昇
するときに働いてしまう下降運動が重力である。
人間が自己放棄し、神へと近づく。この自己放棄とは換言すると、心を真空にすること
である。心を真空にすると、まるで真空に空気が吸い込まれるように心の真空に入ってく
るものが、恩寵である。
ここで重力と恩寵の関係を整理しておく。人間が神へと近づこうとするときに作用する
妨げとしての下降運動を重力といい、それとは逆に人間が神へと近づく際に、自分自身を
自己放棄することによって生まれる心の真空に入ってくるものが恩寵である。神に近づく
際に妨げとなる重力は、欲望、欲求など俗世間への執着によるエネルギーである。このエ
ネルギーによって、人間は神に近づくことができず、人間は人間のままなのである。人間
は俗世間への執着を捨てきれず、それらの充足のために他者を必要とし、いまだ創造主で
ある神という存在の足元にも及ばない存在であるのだ。
しかしただ単に、自己放棄をして神に近づけるというわけではない。神に近づこうと考
えてしまう時点で重力にとらわれているのであり、その人間の魂自体がすでに重力に捕ら
われきってしまっているのだ。神という目標があるための自己放棄は重力に妨げられるこ
とがなく神に近づくことは、決してできないのだ。つまりカントの定言命法のように、条
件や目的が無いままの自然な自己放棄、神が自分自身をむなしくして、世の中に身をささ
げたような自己放棄をすることによって、魂は重力に捕らわれることなく上昇を可能にす
るのである。
つまり人間にとって神に近づくためには、神がそうしたように、完全に自己放棄をする
ことが要求され、しかもそれは、完全に自己放棄を行い、自分自身を自然に無にし、重力
の下降運動に影響されず心を真空にし、神の道である恩寵を受け入れなければならないも
のである。
問 2 p.25「自分自身の中に真空を受けいれることは、超自然なことである」とあるが、真
空とはどのようにして受け入れることができるのか。以下のキーワードを用いて説明しな
さい。
〔想像力、善、死〕
[引用]
p.16 わたしたちには悪が加えられ、その悪のためにわたしたちが低みへおとされるとき、
悪を加えたものをゆるすことは不可能だ。その悪がわたしたちを低みへおとしたのではな
い、わたしたちの実際の程度をあきらかにしてくれたのだと、考えねばならない。
p.17 他人に害を加えることは、他人から何かを受け取ろうとすることだ。何をか。害を加
えたときに、何を得たのか(それは、あとでお返しをしなければならないものではないのか)
。
自分が大きくなったのだ。自分が広くなったのだ。他人の中に真空をつくり出すことによ
って、自分の中の真空を満たしたのだ。
同上
復讐したいというねがいは、何より本質的な均衡回復へのねがいである。こういう
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次元とはちがった次元で均衡を求めること。自分ひとりで、この極限にまで行きつかねば
ならない。そこで真空に接するのだ。
p.18 均衡を求めるのはいけない。想像でそうしているにすぎないのだから。
p.19 こんなことにならなかったとすれば、心の中で真空をじっと堪えることができねばな
らなかったのだ。自分が不幸なときに、じっと不幸を見つめられる力をもつには、超自然
的なパンが必要である。
p.24 自分の手中にある力をあらんかぎり全部使おうとしないのは、真空を持ち堪えること
である。それは、あらゆる自然法則に反したことであり、恩寵だけがそれが可能である。
恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、はいって
行けない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である。
p.25 報いがどうしても要る、自分が与えたと等価値のものをぜひとも受けとらねばという
気持。だが、そういう気持をむりにもおさえつけて、真空を生じさせておくと、なにか誘
いの風みたいなものが起こって、超自然的な報いが不意にやってくる。別な報酬があると
いうようなときには、それはやってこない。この真空がそれをまねき寄せるのである。
p.26 真理を愛することは、真空を持ち堪えること、その結果として死を受け入れることを
意味する。真理は、死の側にある。
p.28 恩寵でないものはすべて捨て去ること。しかも、恩寵を望まないこと。
同上 f 何ごとにおいても、どんな特別な目的があろうと、それを超えて、むなしく望むこ
と、真空を望むこと。なぜなら、わたしたちにとって、想像することも、定義することも
できない善とは、しょせん真空なのだから。
p.29 善とは、わたしたちにとって無にひとしいものである。何ひとつ善なるものはないの
だからである。だが、この無が、実在しないというわけではない。この無にくらべると、
存在するすべてのものが、実在しないのである。
p.35f
死を思うとき、その思いと釣り合うだけの重いものが求められている。その重さは、
‐恩寵は別として‐おそらく、にせものにすぎないのだ。真空を充たすものとしての想像
力は、もともとにせものしか提供しない。
p.45 真空を求めてはならない。なぜなら、真空を充たすために超自然的なパンを当てにす
るのは神をこころみることになるだろうから。真空をのがれるのもいけない。
『新約聖書』p.10
断食するときには
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽
善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。
彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
それは、あなたの断食が人に気付かれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていた
だくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
(
『聖書
新共同訳』日本聖書協会、1987)
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[解答]
自分自身の中に真空を受け入れることはその結果として恩寵を受け入れることである。
では真空とは何であるか。真空とは全てを失った状態のことである。さらにそのことで人
に何かを求めたり、自分から奪った者に対して復讐したりその者の不幸を願ったりしない
ことである。また恩寵を受けることも望んではならない。このことは容易なことではない。
なぜならほんの一瞬でも自分自身の中に真空を受け入れることができた人は恩寵を受ける
か、倒れるかのどちらかである。つまり、真空を受け入れるということは、その結果とし
て起こりうる死を受け入れることを意味する。ここで死を受け入れることのできないもの
は真空を受け入れることはできない。しかしそのために死を望んではいけないのである。
死を望まずして、なおかつ死を受け入れることができなければならない。そしてこの死を
望まずして、なおかつ死を受け入れることとはつまり執着から離れることである。また執
着から離れることとは絶対的な善への願望である。期待することなく望むことである。
善とは無を望むことであるが、ここで言う無とは決して実存しないことを意味するので
はなく、超自然のものとして存在するのである。このことはたとえば人にものを奪われ、
または自分が人にものを与えたときのことである。もし仮にある人に自分の持っているも
のをすべて奪われたとき、その状態は真空の状態ということができる。しかしそのあとす
ぐに自分からものを奪った人を恨んだり復讐を考えたり、または他の人に哀れみを求めた
りしてしまう。そうすることによって多くの人は他人の中に真空の状態を生みだしたり、
自分の中に生じた真空を他人からの哀れみによって充たそうとしたりする。またこのこと
は与えるときにも同じことが言える。何か自分が人にものを与えるときにその見返りや、
他の人からの評価や地位といったものを求めてしまう。しかしこれも奪われたときの例と
同様に自分の中に生じた真空を見返りや評価、地位といったことで充たしているのである。
このことは聖書
マタイによる福音書第 6 章 16 節から 18 節の「断食するときには」と
いう教えの中でも述べられている。このように何かを失ったために何か代わりの物で充た
そうと均衡を求めてはならないのである。均衡を求めることは想像によっておこなわれて
いることだからである。想像によって得る報いとは自分が費やしたものと同じ価値がある。
そのためこれも自分自身の中に真空を受け入れた状態にはならないのである。つまり自分
自身の中に真空を受け入れるということは我を無にし、すべてを失った状態にあり、恩寵
を受けていることである。
問 3: p.63「わたしたちは、さかさに生まれ、さかさのままで生きている。というのは、罪
の中生まれ、罪の中に生きているからであり、罪とは、秩序をくつがえすことにほかなら
ない。最初になすべきことは、元にもどすことである。」とあるが、元にもどすとはどうい
う状態か、説明しなさい。
[引用]
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p.27 負い目をゆるすこと、未来にどんな代償も求めずに、過去をそのままに受け入れるこ
と。今ただちに、時間を停止させること。それはまた、死を受け入れることでもある。…
この世から脱して、むなしくなること。しもべ(奴隷)の本性を身にまとうこと。時間と空間
の中で自分の占めている一点にまで小さくなること。無になること。この世の架空の王権
を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。そのとき、人はこの世の真実に触れる。
p.59 脱創造、造られたものを、造られずにいるものの中へと移して行くこと。
p.60 神は、わたしたちを愛するからこそ、わたしたちが神を愛することができるようにと、
わたしたちから遠くへしりぞくのである。
同上 f 捨て去ること。…神は―ある意味において―すべてであることを捨て去る。わたし
たちは、何ものかであることを捨て去らねばならない。それこそが、わたしたちにとって
ただひとつの善である。
p.61 高くすることと低くすること。…同様に、人が自我を(社会的自我、心理的自我など
を)高めようとするとき、どんなに高くまで上げてみても、自分をそれだけにすぎないもの
を見ているなら、かぎりなく下へ落ちて行く。自我が低くされるとき(なんらかの欲望によ
って、それを高めようとするエネルギーがはたらかないかぎりは)、自分は単にそれだけの
ものではないと知っている。
p.62 自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となるこ
とである。
p.63 秩序を回復するには、わたしたちの中の造られたものをこわして行かねばならない。
p.64f 肉体の苦しみ(それに、物質的な窮乏)は、勇気のある人たちにとって、忍耐力と精
神力をためす機会になることが多い。だが、それらをもっとよく役立たせる道がある。だ
から、わたしにとっては苦しみが単に自分をためす機会に終わらないように。人間の悲惨
を身にしみて感じさせるあかしとなるように。まったく受身の態度で、それらを受け忍ぶ
ことができるように。…不幸に烈しくおそわれ、不幸のために屈従をしいられてこそ、人
間の悲惨を知ることができるのだから。
p.65 全体の中で、真の自分の場所にいることができるために、無となること。
同上
捨て去るためには、すべての親しい人々、すべての財産を失ったときに現実にひき
おこされる苦悩とあい等しい苦悩の中をくぐりぬけてくることが要求される。その財産の
中には、知性とか品性とかの面での先天的な資質、後天的に習得されたもの、また何が善
なのか、何が安定なのかといったことについての意見や信条なども含まれる。そして、こ
ういうすべてのものを、自分からすすんでとり除くのではいけない。そうではなく、失う
のだ
p.70 〈われ〉であってはいけない。まして、〈われわれ〉であってはなお、いけない。
[解答]
まずは、この問題文の箇所を整理する。問題文より、人は秩序がくつがえされた状態で
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生きているということがわかる。それを元にもどす、とは秩序を正す、回復するというこ
とであり、それはすなわち私たちの中に造られたものをこわすということである。
私たち人間が、この世界の真実に触れられるのは、この世から脱し、むなしくなったと
き、時間と空間の中で自分の占めている一点にまで小さくなったとき、すなわち無になっ
たときである。
それでは、無になるとは何なのか。
私たちは、神が捨て去ったことにならい、自分が何ものなのかということを捨て去らな
ければならない。それはつまり、「われ」であることや、「われわれ」であることをやめる
ということであり、
「自分は○○である」と特定しないということである。例えば、人が自我
を高めるとき、自分のことを、それ相応のものとか、枠にはめて見ているなら、その自我
が本当に高められることはない。この場合、自分が何ものなのかを指定しているため、著
者の意に反しているといえる。反対に、自我が低くされるときは、自分がその枠に当ては
まるだけのものではないことを知っているのである。
また、これを捨て去るためには、すべての財産を失ったときに現実に感じる苦悩と同じ
だけの苦悩を乗り越えることが必要とされる。ここでいう財産とは、知性や品性等の面に
おける先天的資質や後天的に得たもの、また自分の持つ意見や信条などのことである。さ
らにここでは財産を失う苦悩だけでなく、人の身体が感じる苦痛も重要である。人は肉体
の苦しみによって、忍耐力と精神力を試すことができる。これにより苦しみを受身の態度
で、耐え忍ぶことができる。このような不幸の中に身を置くことで、人は人間の悲惨を知
ることができ、またそれは真の自分の場所に立つために役立つ。これらのものを人が積極
的にとり除こうと努力しても本来の意味は達成されない。失うことが重要となる。
真の自分の場を求めるためには、人は無とならなければならない。人間のあらゆる努力
の目標は無であり、無となることこそ人間のあり方なのである。そしてこの無は神による
創造とは反対の状態であり、いわゆる脱創造の形態をとっている。この形態が、すなわち
造られたものをこわすということだと説明ができる。つまり、問題文の元にもどすとは、
人々が無になる状態のことをさしているのである。
問 4:p.111 「純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあ
いだにあるへだたりを何より尊重することである。
」とあるが、愛とはどのようなものであ
るのか、説明しなさい。
[引用]
p.107 超自然的な愛は、被造物だけにしか触れず、ただ神の方へしかおもむかない。神は、
ただ被造物だけしか愛さない(わたしたちにしても、このほかに愛すべきものがあるだろう
か)。だが、仲に立つ者として愛するのである。この名目で、自分自身をも含めて、あらゆ
る被造物をひとしく愛するのである。他人を自分自身のように愛するということの中には、
対照的に自分自身を他人のように愛するということが含まれている。
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同上
幸福な人において、愛とは、不幸のうちにある愛する人の苦しみをともに分かち合
いたいとねがうことである。
同上
不幸な人において、愛とは、愛する人がよろこびの中にいることを知るだけで満た
された気持ちになり、そのよろこびにあずかることなく、あずかりたいと望むこともしな
いことである。
p.108f
人間のあいだでは、自分の愛している人たちの存在だけしか、完全には目にはつか
ない。他の人たちがそのままで存在しているのを信じることが、愛である。
p.109 だから存在と接触のできる唯一の機関は、受け入れることであり、愛である。
同上
被造物への純粋な夢。神への愛ではないが、ちょうど火の中を通りぬけて行くよう
に、神を通って行く愛。被造物からまったく離脱して神のもとへのぼり、そこから、神の
創造的な愛と結びついてふたたびおりてくる愛。こうして人間の愛を分裂させている。ふ
たつの相反するのものがひとつにつながる。すなわち、愛する人をそのままに愛すること
と、その人をつくり直すことと。
p.110 愛には、実態が必要である。
p.111 愛し、愛されるということは、互いにこうして存在しているという事実をさらに具
体的なものとし、つねに心の目にありありと見えるようにしているということにほかなら
ない。…理解されたいという気持にむりがないのは、それが自分のためでなく、他人のた
め、他人のために存在しようとするねがいに発しているからである。
同上
私たちの内部にある、卑しい、凡庸なものはすべて、純粋さにそむくものであり…
純粋さを汚すことを必要としている。
同上
純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだに
あるへだたりを何より尊重することである。
p.195 愛によって、神々や人びとはいろんなことを教わるのである。
p.198 人の愛するという行為も、同じである。今そこに、飢えかわいているその人がわた
しと同じように真に存在するものだと知ること―それだけで十分である。
[解答]
神は、自分自身を含めたあらゆる被造物を平等に愛する。それは、自己中心的に考える
ものではなく自分以外の他のものを受け入れることである。しかし、人間のあいだでは、
自分にとって愛したい人たちの存在だけしか自分の目には映らない。このことは相手との
関係を構築していくなかで、相手が自分にとってどのような存在かを理解しているからこ
そ生じるのである。しかしシモーヌは、自分にとって愛したい人と、という自己中心的・
欲求的な考えではなく、自分にとって関わりのない、あらゆる人たちに対して、彼らのあ
りのままの姿を受け入れることこそが愛であるとしている。これは、問 1 や問 2 でも述べ
られているように、自己の内部にある欲望や救いといったものを捨て去ること、つまり自
己放棄を行うことによって真空状態になり、恩寵を受け入れることとつながる。そして神
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に近づくのである。また、人は他者なしでは活動を行うことはできない。自分と他者とが
相互に関わり合い関係を紡ぎ、相手を理解し受け入れていく中で生まれるのもまた愛であ
る。
人間の愛は、被造物に対する純粋な夢や希望のために、神を通り越して創られる愛と、
被造物からまったくかけ離れ、神のもとへのみいき、それが神の創造的な愛と結びつきふ
たたびおりてくる愛の二つに分けられている。このような、神に近づく愛と、そうではな
い愛の相反するものがひとつにつながるとき、人間は、自分の愛する人をありのあまに愛
する。なぜなら、その二つの間に生じるへだたりを理解したときに人は本当に人を愛する
ことができるからである。愛し、愛されるということは、お互いに自分が存在していると
いう事実を理解することなのである。人が理解されたいとねがうのは、それが自分のため
ではなく、他人のため、他人のために存在しようとねがうからなのである。そして、自分
の愛がどれだけのものかを他人に表すことを可能にさせるべきなのである。だからこそ、
愛には実体が必要である。
人間は、自分たちの中に卑しいものが存在する。しかし、人間は自分たちの中に卑しい
ものが存在するとは考えない。人は、卑しい部分を隠し、自分の都合のいいように解釈す
る。しかし、それは想像上のものでしかない。人は、卑しいものがあるということを認め
ることで純粋さを見つけることができる。愛にも、同じようなことがいえる。純粋な愛は、
へだたりへの同意である。受け入れたくない部分や、自分と違う部分があったとしても、
ただそのへだたりを尊重し合うことこそが愛なのである。幸福な人において、愛とは、不
幸のうちに、愛する人の苦しみをともに分かち合いたいとねがうことである。しかし、不
幸な人にとって愛とは、自分の愛する人が喜びの中にいることを知るだけで満たされた気
持ちになり、その喜びに自分がどう関わるかは重要ではないのである。ただ、その愛する
人に喜びが存在するということを知るだけで十分なのである。そこに何の変化も求めてい
ない。愛によって人々は多くのことを学ぶ。相手の、どの部分が好きであるとか、こうだ
から好きであるといったことではなく、相手がただこの世界に私と同じように存在してお
り、それを知ること。それだけで十分であり、その人の全てを尊重し理解することこそが
愛である。
問 5: p.148 「十字架刑を神への奉献という一面からしか考えられない人々は、そこに秘め
られた、救いの奥義と、救いの苛烈さとを見すごしているのだ。」とあるが、これはどうい
うことか説明しなさい。
[引用]
p.149
十字架。罪の木は、本物の樹木であったが、生命の木は、材木であった。それは、
どんな実もみのらせないもの、ただ垂直にのぼりつめる運動そのものであった。…人はた
だ、垂直にのぼりつめる運動だけを保ちつづけることによって、自分の中の生命のエネル
ギーを殺すことができる。ただ上にのぼることだけを望むのならば、葉や実は、エネルギ
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ーの浪費である。
同上 f たましいがまったく神のものとなってしまったなら、神はたましいを見捨てる。た
ましいを完全に孤独なままに放りすてる。すると、こんどはたましいの方が、それも手さ
ぐりで、愛するものを求めて、時間と空間の果てしない厚みを越えて行かねばならない。
こうして、たましいは、神がたましいに向かってたどってきた旅路を、逆方向にたどり直
すのである。そして、このことが十字架である。
p.150 神は、必然と空間と時間の支配にゆだねられた、有限な存在が考える存在であると
いう事実のゆえに、十字架につけられたのである。
同上
プロメテウス、あまりにも人間を愛しすぎたために十字架につけられた神。イポリ
ット、あまりにも純粋すぎ、あまりにも神々から愛されすぎて罰せられた人間。人間的な
ものと神的なものが近づくと、罰をまねく。
同上
わたしたちというこの存在の中で、神は引き裂かれている。わたしたちが、神の十
字架刑である。わたしたちに対する神の愛が、受難である。…神と人間の愛はどちらもが、
苦しみである。
p.151
わたしたちが神と自分たちとのあいだにあるへだたりを感じるようになるために、
神は十字架にかけられる奴隷とならねばならないのだ。なぜなら、わたしたちは、低い方
に向かうへだたりしか感じることはないからである。十字架につけられたキリストの位置
に身をおくよりも、想像力をはたらかせて創造主である神の位置に、身をおく方が、はる
かにずっとやさしい。
同上
キリストの愛の広がりは、神と被造物とのあいだにあるへだたりをおおうのである。
仲に立つという役割は、それ自体において、みずからが八つ裂きになるという意味をもつ
p.152 受難とは、およそどんな仮象をもまじえない完全な義が存在するということである。
義とは、もともと能動的には行動しないものである。義は、超越的なものであるか、それ
とも苦しみを受け忍ぶものでなければならない。
同上
あがないの苦しみとは、苦しみを赤裸ななまの姿にして、純粋なままで、実人生の
中へはこびこむ苦しみのことである。実人生の救いになるのは、この苦しみである。
p.153
人間の悲惨さから、神にいたること。だが、つぐないや慰めを求めるのではなく。
そこに関係をつけるために。
[解答]
ここでの十字架は、人間が重力によって行動することを抑止する働きがある。人間を意
味する「生命の木」は、どんな実をつくるわけでもなく、ただ垂直に伸びていくだけの木、
すなわち重力に沿ったものであることを意味する。重力は、人間の自己中心的な心である
ため、欲望を制御することができていない状態であると言える。次に神を木で表すと、「罪
の木」である。罪の木は、本物の樹木のように、葉や実をつくる。このことは、自身のエ
ネルギーを大いに使っていると言える。ここでいう自身のエネルギーを使うことが、恩寵
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であり、超自然的なことである
人間のたましいが完全に神のものとなってしまったら、神はそのたましいを見捨て、孤
独なままに放り捨てる。神に見捨てられた時、人間は、時間や空間の果てしない厚みを越
えながら、愛するものを求めて自身で行動しなければならない。愛するものを求めるとい
うことは、自己否定すること、すなわち、恩寵による真空状態になることだ。人間が自身
の中に真空を受け入れることは、超自然的なことであるため、神のみが示すことのできる
ことだと言える。人間のたましいは、神がたましいに向かってたどってきた道を逆方向に
たどり直す。人間が心を空っぽにし、神に身をゆだねることは、神のものになることが目
的となり、他の行動が手段と化している、すなわち重力によって行動していることを意味
する。よって、神は、人間がそうならないように暗示しているのだ。
また、人間を愛しすぎた神であるプロメテウス、神々から愛されすぎた純粋な人間、イ
ポリットの例から見ることは、神が人間を愛すれば、愛するほど、人間にとって受難とな
り、苦しみとなってしまうことだ。ここでいう受難とは、完全な超越的な義であり、苦し
みを受け忍ぶものである。神に恨みや苦しみを起こさず、耐えることによって、真空をつ
くりだすことができるのだ。よって、人間が神と自分たちとの間にあるへだたりを感じな
ければならない。そのため、イエス・キリストは、十字架刑に処され、奴隷となる。これ
は、キリストの受難を表す。彼の十字架刑による苦しみは、自らが八つ裂きになるという
実人生における純粋な苦しみであるからこそ、同時に実人生の救いとなる。神と被造物で
ある人間との間に立つ役割を果たしたキリストの愛は、両者の間のへだたりを覆う。よっ
て、ここでいう十字架刑は、イエスの人間に対する救いへの奥義と苛烈さを有するものな
のだ。
問 6: p.196「私たちは善にも悪にも分け隔てなくしなければならない…それこそがなくて
なはならぬ恩寵である。
」とあるが、今までの問を考慮にしつつ、善と悪の関係を説明しな
さい。
[引用]
p.40 清められるためのひとつの方法。神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに
祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。
p.43 清められるとは善と欲心とが切り離されることである。
p.117 創造。善はこなごなにされて、悪の中にばらまかれている。悪は、限りがないもの
である。だが、無限なものではない。無限なものだけが、限りないものに、限りをつける。
同上
p.125f
善は本質的に悪とは別なものである。
善に向かってすすんで行こうとすると、そのたびに何かしらさからってくるような
ものとして感じられる。というのは、善と接触しだすと、悪と善とのへだたりを意識する
ようになるし、同化しようとする苦しい努力が始まるからである。…それにあい応じて罪
が生じてくるというのは、希望が見出されないために、このへだたりを堪えがたいものの
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ように感じ、苦痛が憎悪に変わって行くからにほかならないのであろう。
p.127 人が悪そのものをとおして神を愛しているとき、まさに、人は神を愛しているので
ある。
p.130 悪が清めなければならない…だがエホバやアラーやヒトラーは、地上の神々である。
彼らが行う清めは、想像上のものである。
p.172 悪は、善の影である。体積と厚みをそなえた、実在する善はすべて、悪の影をうつ
し出す。ただ、想像上の善は、うつし出さない。
p.190 宗教が、慰めの泉であるかぎりは、真の信仰の障害になる。この意味では、無神論
は清めるものである。わたしは、自分自身の中の神のためにつくられていない部分からす
れば、無神論者であらねばならない。自分自身の中の超自然的な部分がまだ目ざめていな
いような人たちのあいだでは、無神論者の方が正しく、信仰者の方がまちがっている。
同上
現代の様々な誤りは、超自然的なものをもたぬキリスト教から来ている。世俗化へ
の動きが、その原因である。――それに、まず第一にヒューマニズムが。
p.193 注意は、もっとも高度な段階では、祈りと同じものである。そのためには、信仰と
愛があらかじめ必要である。
同上 f 極度に張りつめた注意こそ、人間において創造的な能力をつくりあげて行くもので
ある。そして極度の注意は、宗教的なもの以外には存在しない。
p.194 よくない求め方。ひとつの問題に注意をしばりつけてしまうこと。
p.202 純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。
p.260 名前は同じであるが、根本的に別々のものである、ふたつの善がある。悪の反対の
ものとしての善と、絶対的なものとしての善と。絶対的なものには、反対のものはない。
相対的なものは、絶対的なものの反対ではない。それは、絶対的なものから出てきたので
はあるが、この関係は逆にはできない。私たちが望んでいるのは、絶対的な善である。私
たちにたどりつくことができるのは、悪と相対関係にある善である。
[解答]
恩寵を得るためには清められることを必要とする。清めるためには一つの方法しかない。
人が神を愛し祈りを捧げることである。神に対して愛し祈ることによって善と欲望、つま
り悪の部分を切り離すことができる。
しかし、善には二つの種類がある。ひとつは絶対的な善である。もう一つは善として見
られるが、悪を基とする善である。前者は実在性があり、悪を見つめ通すことによって、
得ることができる善である。後者は善として見られるが、根本として悪を含んでいる。こ
の二つは本質的に異なる。
後者の善について説明する。この善は悪と相対関係にある。人々は神への想像力を膨ら
まし、信仰を求める。人は神に救いや愛、平等を求める。神がそうしてくれると信じる。
人々はこの行為を正しいと思い信仰する。この信仰が注意を善へ向わせる。人々は信仰を
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信じ、生きる。しかし、そうではない。この信仰は悪と善の相対関係である。この信仰は
悪の影をうつしだすことなく、純粋な善を見せつける。まるでそれだけが正しいように。
人々はこの善を真の善と思い、信仰するが、実際には想像上の善でしかないために罪を生
む。かつてヒトラーが唱えた信仰と清めがその意味を表す。つまり一見純粋に見える善は
再び悪となるのだ。
次に前者の善について説明する。この絶対的な善は、先に述べた善とも悪とも本質的に
異なる。この善は極限の注意によって善の汚れを見ることで可能となる。それこそが超自
然的な神に祈り、愛し、自らを清めることである。また自分の執着や生、救いを捨て去る
ことも必要となる。それらすべてを捨て去り、真空を作り、神を愛し祈ることだけが絶対
的な善をもたらす。
上述を踏まえたうえで、善と悪の関係について説明する。悪は限りがないものである。
決して消えることはない。しかし悪は無限に増えるものではない。その悪を自らの意志で
抑制することはできる。悪を見つめ、汚れたものとして見ることが真空を作る準備となる。
その準備こそが絶対的な善へと導く。絶対的な善は悪や悪と相対関係にある善とは関係性
をもたない。その善悪との関係のへだたりを見つめることによって絶対的な善に行きつく。
つまり絶対的な善とは悪を通さなければ見ることができないのだ。これこそが清められる
唯一の方法である。つまり悪を通して神を愛し祈ることによって、はじめて人は神を愛す
ることができるのである。真の絶対的な善を得るためには、超自然的な神を愛さなければ
ならない。もし超自然的でない神を愛すならば、それはもはや汚れを見つめていない。純
粋さとは汚れをじっと見つめる力である。悪と悪の相対関係の善を見つめることは自分の
生や執着、罪、救いの感情を見ることである。人は見つめることで苦しみながらも、自分
の中にあふれてくる善を見つけることができる。その善はおのずと増え、いずれは悪を上
回る。こうして悪を捨て去ることが可能となり、絶対的な善へとたどり着くのだ。これこ
そが恩寵に必要な善である。
問 7: p.168「矛盾があることが、基準になる。暗示によっては、互いに相容れないものを
自分の手中に持つことができない。恩寵だけには、それができる。」とあるが、なぜ恩寵だ
けにはできるのか説明せよ。
[引用]
p.19 自分が不幸なときに、じっと不幸を見つめられる力をもつには、超自然的なパンが必
要である。
p.24 恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、はい
って行けない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である。
p.28 恩寵でないものはすべて捨て去ること。しかも、恩寵を望まないこと。
p.45 真空を求めてはならない。なぜなら、真空を充たすために超自然的なパンを当てにす
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るのは神をこころみることになるだろうから。真空をのがれるのもいけない。
p.82(純粋な喜びと
筆者)同じように、まことの善は、ただ外部からくるもので、わたし
たちの努力によってもたらされるものでは決してない。
p.161 わたしたちの生は、不可能であり、不条理である。わたしたちがねがい求めるもの
はどれをとっても、それぞれと関連した条件や結果と矛盾するし、わたしたちが提案する
命題は、どれをとっても反対の命題を含んでおり、わたしたちの感情にはすべて、その反
対の感情が入りまじっている。
p.163 個々の動機は、すべて間違いである。どんな動機によってもたらされたものでもな
いエネルギーだけが、ただひとつよいものである。神への服従とは、—つまり、神とは、
わたしたちが想像したり理解したりできるすべてのものをはみ出す存在なのだから、—無
への服従である。こんなことは、不可能でもあり、必然的でもある、—別な言い方をすれ
ば、超自然的である。
p.167 真の善ならどんなものでも、互いに矛盾する諸条件を含んでいる。だから、それは
不可能なのである。この不可能であるということに注意を真にそそぎつづけ、行動する人
は、善を行うことができる。
p.170 ある一つの悪の反対のものをさかんにもち上げる場合には、この悪のレベルにとど
まっている。その反対のものを体験しつくしてしまえば、こんどはまたもとの悪に逆戻り
する。
p.171 互いに矛盾するものの一致は、四分五裂のさまを生む。極度の苦しみをともなわず
には、ありえないことである。
p.196 わたしたちは、善にも悪にも分けへだてをしないようにしなければならない。だが、
分けへだてをしないならば、すなわち、どちらの方にもひとしく注意の光をそそぎかける
ならば、善の方がおのずと勝ちまさってくる。それこそが、なくてはならぬ恩寵である。
また善の定義であり、基準である。
[解答]
何か悪いものを想像して、その逆のもの、あるいは何らかの形で進んだものを望むとす
る。悪から善へ、今の姿から理想の姿へ。そのような試みが成功した時、別の問題が生ま
れることはないだろうか? 教育の場での、厳しさと優しさという要素においては、どちら
に傾きすぎていても、悪とは言わないまでも、望んでいたものとは異なる何かが生じる。
もしくは、極度の奔放と極度の義務や、薬を飲み過ぎて毒になるようなことも同様である。
そのような時、人は自らの行動を振り返り、改善したと思った事柄で、またもや問題が生
じたことについて、自分の力不足を反省するかもしれない。しかし、それは力不足という
ものを超えている。そもそも不完全である人間が、何かを善いものにしようと思案し、自
らに暗示を試みたところで、それらは不完全なものから生まれた想像であり、別の、何か
不完全なものに過ぎないのである。物事は、矛盾しているものを含む。その矛盾の中に、
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人間は生きている。善と悪、個人と社会、必然性と可能性、相反する二つは互いに反発し、
干渉し合う。片方があってこその片方である。二つの壁に挟まれて、真の善を求める。し
かし、それはどこにも見当たらない。何故なら、絶対の、神の存在しないこの世の中では、
悪あっての善、もしくはその逆であって、物事はコインの表裏、光と影のようなものだか
らである。光ばかりを求める中で見つけた善には、必ず悪の影が潜んでいる。
矛盾は心に、言い表しようのない隙間、即ち真空を生む。自然と同じように、人間も真
空を嫌う。この矛盾した二つをどうにかして解決しようと試み、想像力を用いる。それで、
あるいは解決されたと思ってその日を後にする。だが後に、生んだ結論が完全でないこと
に気がつく。シモーヌ・ヴェイユによれば、「互いに矛盾するものの一致は、四分五裂のさ
まを生む。極度の苦しみをともなわずには、ありえないことである」(p.171)。人は、悩み、
真空を嫌い、想像力を用い、その隙間を埋める。しかしそもそも、矛盾したものを、苦し
みを伴いつつ、そのまま矛盾したものとして捉えない限りは、真の善へと近づくことはで
きないのである。その時は、何かを望むことすら許されない。矛盾を、ありのままに、透
明に見ることが絶対的に必要なのである。矛盾のありのままに耐えることは、即ち真空に
耐えることである。真空をそのままにしておき、矛盾を注意深く見つめる。そうするとい
ずれ、おのずと善の方が勝ちまさってくる。これこそが恩寵である。その時、人は重力を
脱し、高みにのぼり、真の善へと至るのである。
問 8: シモーヌ・ヴェイユの労働観とハンナ・アレントの労働観を比較しつつ、労働に対す
るあなたの考えを論じなさい。
[引用]
『重力と恩寵』
p.243 美しいものは、官能に訴えかけるもので、そこには人を遠くへおしやり、あきらめ
させるような力が含まれている。心のもっとも奥深くでのあきらめ、想像力すらも捨てさ
せてしまうようなものが、その中にはある。これがほかの欲望の対象なら、どんなもので
も食べてしまいたいと思う。美しいものは、欲望の対象とはなるが、食べようとは思わな
い。わたしたちは、それがそのままであってほしいと望むのだ。
p.244
詩。ありえないような苦痛とよろこび。胸を刺すようなタッチと、ノスタルジー。
プロヴァンスや英国の詩は、そうしたものである。純粋で、どんな不純物もないために、
苦痛になるぐらいのよろこび。純粋で、不純物がないために、心をやわらげてくれるよう
な苦痛。
p.290 人間の偉大さとは、つねに、人間が自分の生を再創造することである。自分に与え
られているものをつくり直すこと。自分が仕方なく受けとっているものをも、きたえ直す
こと。労働を通じて人間は、自分の自然的な生をつくり出す。
p.292 労働を通じて、究極の目的が、打たれたボールのはね返ってくるようにつき戻され
てくるさまを、疲労でくたくたになりながら、味わい知ることができる。食べるために働
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き、働くために食べ……このふたつのうちのひとつを目的とみなしたり、あるいは、ふた
つともを別々に切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。
p.293 肉体労働の非常な苦痛は、ただ生存するというためにだけこんなにも長時間の努力
をつくさねばならないという点にある。奴隷とは、ただ生存するためという以外に、この
辛い労苦の目的としてどんな幸福も約束されていない者のことである。だから、奴隷は、
そこから解放されなければならないのだ。でなければ、植物のレベルにまで落ちこむより
ほかはない。
同上
肉体労働者が奴隷であるということは、どうしようもない事実である。究極の目的
なしの努力。
p.294 労働者たちは、パンよりも詩を必要とする。その生活が詩になることを必要として
いる。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。ただ宗教だけが、この詩の源泉となる
ことができる。
同上
肉体労働。肉体の中へとはいってくる時間。労働を通じて、人間は物質となる。
『人間の条件』
p.19 労働 labor とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が
自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によっ
て生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の
人間的条件は生命それ自体である。
p.137 古代人は逆に考え、生命を維持するための必要物に奉仕するすべての職業が奴隷的
正確をもつから、奴隷を所有しなければならないと考えていたのである。
p.139 あらゆる価値の源泉として労働を賛美し、かつては〈理性的動物〉が占めていた地
位に、
〈労働する動物〉を引き上げたのである。
p.140 近代において労働が上位に立った理由は、まさに労働の「生産性」にあったからで
ある。…スミスもマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり、実際上は一種の労働
の歪曲にすぎず、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称にはまったく価値
がないとして、それを軽蔑していた。
p.154 労働は、常に同じ円環に沿って動くのであり、その円環は生ある有機体の生物学的
過程によって定められ、この有機体が死んだときはじめてその「労苦と困難」は終わる。
p.164 生命の祝福は、全体として、労働に固有のものであって、仕事の中にはけっして見
いだされないものである。…労苦と満足感は、互いに密接に結びついて相互に生起する。
労働の祝福はこの点にあるのである。
p.179 労働の苦痛と努力を完全に取り除くことは、ただ生物学的生命からその最も自然な
快楽を奪うことになるだけでなく、特殊に人間的な生活からその活力と生命力そのものを
も奪うことになる。
p.195 〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまる
ほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になるのである。…世界の物が、すべて消費と消費
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によって絶滅の脅威に曝されるであろうという重大な危険をはらんでいる
[解答]
シモーヌ・ヴェイユとハンナ・アレントは同時代に生きた思想家である。ヴェイユとア
レントは労働に関する著作を残しているという点で共通し、また労働に対して問題意識を
持っているという点で共通している。一方で、アレントが労働の定義を初めに行い、労働
が近代にかけて変化していった歴史を通じて、現在の労働の問題について論じているに対
し、ヴェイユは労働者自身が置かれている状況に焦点を置いて問題を論じているという点
で異なる。最初にアレントの労働観が何であるかを論じ、次にヴェイユの労働観を論じ、
最後に私の労働に対する考えを論じる。
アレントによれば、労働は生物学的な生命維持と結びついた活動である。例えばオムラ
イスを作るという過程は生命を維持し、子孫を残す上で必要不可欠な活動である。労働は
必要物の生産である。しかし、生命維持のための活動は、食べものを消費するように、つ
ねに消費と結びついている。そして、労働によって生産された消費物は、消費されれば残
らないため、常に労働と消費のサイクルを循環せねばならないのである。
古代において、生命維持のためだけの活動である労働は、動物と何ら違わないために、
人間的な活動であると見なされず、労働に従事することは奴隷的行為であると見なし、労
働を行なう者はもっぱら奴隷であった。しかし、近代になると、軽蔑されていた立場から、
あらゆる価値の源泉であると見なされ賛美されるようになった。労働の生産性に注目し貨
幣を生みだす源泉として労働は賛美されたのである。富を殆ど生み出すことのない、
「活動」
(アレントの活動及び仕事は以下「活動」「仕事」と表記)はその立場を追い込まれてしまっ
たのである。
労働は生命維持のための活動であるために、死ぬまで行わなければならない。そのため
労働から何人も逃れることはできない。近代以降、人々は労働に従事している。そのため
すべての人間が、古代人の感覚によるところの奴隷となってしまったのである。19 世紀中
葉の労働者が置かれていた状況のように、肉体労働は激しい苦しみを伴うものであった。
しかし、労働は単に苦しみだけでなく、同時に満足感も伴うものである。ゆえに、労働は
人びとを人として意味づける喜びでもあるのである。
しかし、労働があらゆる価値の源泉になり、労働していない時間、すなわち余暇は物の
消費と結びついた。労働によって得た貨幣で商品を購入し消費する。労働は消費の付属物
と化したのである。しかし、物は無限に存在せず有限であり、また労働と消費は一生サイ
クルから抜け出すことができないために、物を枯渇させてしまう恐れさえあるのである。
以上がアレントの労働観である。次にヴェイユの労働観を論じる。ヴェイユにおける労
働は自然的な行為である。労働を通じて自らの生を作りだすのである。しかし、1930 年代
おいて労働者たちが置かれている状況は悲惨極まりないものであった。食べるために働き、
働くために食べるというサイクルをただ繰り返すだけであった。そこに充実感や満足を見
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出せず、ただ疲労困憊するだけの労働者たちがフランスを埋め尽くしていたのである。た
だ生存するためだけで、そこから幸福を得ることを許されていない者たちをヴェイユは奴
隷と呼ぶ。
このように奴隷的状況に置かれている労働者にとって必要なものは、詩である。詩は官
能に訴え、永遠であってほしいと願うような美しさを持つ。美しきものはずっと眺めてい
たいと思わせるものである。永遠性を持つということは神のごときことである。神は永遠
の愛を人間に保証する。詩とはまさに神の愛のごとく、心のやすらぎをあたえてくれるも
のなのである。労働者に必要なものは、神の愛であり、心のやすらぎである。労働を受け
入れ、苦しみを受け入れ、しかし同時に心の安らぎをあたえてくれる精神的癒しが必要な
のである。
以上が、アレントとヴェイユの労働観である。両者はともに労働が人間にとって必要不
可欠な行為であり、また労働が生命を維持するためには必要な行為であるという認識は共
通している。アレントは労働が本来の目的を離れて、貨幣を生みだすことを目的となった
こと、
「活動」と「仕事」のヒエラルキーが逆転し、労働が最も重要な人間の条件であるこ
とを批判したのに対し、ヴェイユは労働者が労苦以外を味わうことができず、喜びを得る
ことができない状況にあることを批判しているという点で異なる。またアレントは労働の
中に満足感を見出しているのに対し、ヴェイユは苦しみを強調している点で異なる。
現代社会における労働は、ヴェイユが指摘する奴隷のように、生命維持だけの行為であ
り、労働から喜びを、自己の存在意義を見出すことができない状況にある。自己の存在意
義を見出すのは、アレントが指摘するように、労働以外に「仕事」・「活動」である。耐久
性を持つものを作り、自己の死後にまで残すことができる「仕事」と、言論を通じて行う
公的な行為である「活動」を通じて、自己の存在意義を見出すのである。しかし、
「仕事」・
「活動」は衰退し、労働があらゆる行為のヒエラルキーの頂点に君臨し、
「仕事」と「活動」
の役割を侵食しているのである。公的な領域が衰退し、私的な領域が勃興したのである。
あらゆる行為が目的論的になった現代において、労働は質ではなく、富―すなわち貨幣―
を生み出すかどうかが重大なのである。富を生み出す以外に喜びを得ることはできないの
である。労働に従事している時間が長いために、退職後、何をしたらよいかわからない人
が現代では溢れている。富を生み出すこと以外に慣れていないために、貨幣と結びつかな
い行為に慣れていないのである。
「仕事」や「活動」は労働と比べると生産性が欠けている。
そのため、貨幣と結びつかない行為を軽視しているのである。労働の持つ負の側面は、労
働以外の行為を奪う点にある。ヴェイユが言う詩は、アレントが言うところの「仕事」で
ある。芸術は心の安らぎを与えるだけでなく、労働以外の喜びを与えてくれるのである。
芸術を嗜む精神的余裕と時間が必要である。労働が衰退する現代にあって、芸術の持つ役
割を見直さねばならない時期に立たされているのである。
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