近況報告にかえ てー - 奈良教育大学学術リポジトリ

近況報告にかえて −
、
カルノー暗殺と二人のヴェイユ
l/
稔
ほろ酔い気分で封を切った私はいささかうろたえた。そ
谷
百科事典や人名事典の仕事をしていると、活字信仰に乗っ
う言えば確かにピストルではなく、ナイフだったような気一
ものではなく、彼の父イポリット・カルノー︵L・H・
かった知識の﹁あやうさ﹂をしばしば痛感させられる。つ
つけてくるのだという。ついては私が担当したM・F・S・
CarnOt一八〇一−八八︶の付帯条項としてふれたにすぎなかっ
もする。あわててフランス語の文献を繰ってみると確かに 50
カルノー︵一八三七−九四︶の項目も、﹁⋮⋮⋮・一八九四
た。こちらは一八四八年の二月革命後に成立した臨時政府
い先日も某社で刊行中の大百科事典の編集部から問い合せ
年リヨン博覧会の開会式に際して、イタリアのアナキスト、
の教育相で、共和主義的教育改革を推進しようとした入物
﹁刺された﹂とある。不覚だった。 一
カセリオの銃弾に倒れた。﹂とあるが、実は﹁刺殺きれた﹂
である。これについてはちょうど﹁一八四八年﹂の共同研
の速達が届いた。さる熱心な読者が第一巻から各項目を丹
のではなかったか。ライバルの某社の大百科にもそう記述
究に携っていたときでもあり、とくに公教育をめぐる共和
そもそもこの第三共和政第四代大統領の項目は独立した
されているとのことである。
最小限のスペースにできるだけ多くのデータをたたきこむ
念に読んでつぎつぎとアラ探し︵失礼/︶の質問状を送り
派とカトリックのヘゲモニー闘争を分担していたので軽い
ど‖塾孟芝ヰ/こ0
トいナリ.刀.ナ∵か
ころ執筆中のP・ドゥーメル︵天竜⊥九重︶の暗殺︵こち
この好意を裏切ってしまったと言うべきか、不覚にも同じ
息子のサディ・カルノーも独立項としてくれたのである。
てしまったので編集部の方で気を利かして二項目に分け、
気持ちで引登受けた。ところが、私の原稿がつい長くなっ
派とカトリックのヘゲモニー闘争を分担していたので軽い
い。手間と元手がかかるわりに﹁仕事﹂として認められな
認められる。執筆者が明記されていない場合はとくに著し
された類書にあたってみると、しばしば手抜きや誤まりが
にミスはつきものである。執筆の参考のために、先に刊行
は当然のように無謬を要求するが、気合いの入らない仕事
ことが必要なので、いきおい叙述は無味乾燥になる。読者
最小限のスペつスにできるだけ多くのデータをたたきこむ
究に携っていたときでもあり、とくに公教育をめぐる共和
らは銃撃による︶と混同してしまったようである。何とも
いからであろうか。ことのついでに舞台ウラを明かせば、一
されているとのことである。
なさけない。
・カルノー、つまり暗殺された大統領カルノーと大変まざ
S・カルノーは高名な物理学者であり、こちらも通称サディ
い家系は珍らしい。イポリット・カルノーの兄、N・L・
ない。そのくせ今回のようにうっかりミスでも犯そうもの
ときには、急拠洋書をとり寄せてでもこなさなければなら
ど知らなかった人物まで仰せつかることさえある。そんな
回されてくることが少なくない。なかにはそれまではとん一
若手には大先生がたが選り好みしたあとに残された項目が 51
らわしい叔父である。また大統領の祖父すなわち物理学者
なら⊥速代までたたる。どちらにころんでも事典の仕事は割
混同と言えば、このカルノー家の人々はど混同されやす
カルノーの父は、フランス大革命のときジャコバン派の大
﹁暗殺者のカセリオよ。なぜ短剣などというケチなこと
りがあわないと言ってよい。
らは息子や孫と区別するため大力ルノーと呼ばれている。
をせず、ピストルかライフルでひと思いにケリをつけてく
立者として鳴らしたあのラザール・カルノーである。こち
こんな具合だから百科事典の仕事は大変わずらわしい。
ているではないか。結局、出版社に詫びを入れて増刷のさ
はない。せっかくの晩酌もすっかり台無しになってしまっ
などと自分に言い聞かせては見ても、気が重いことに変り
ルノーをとりちがえたわけではないのだ。小事、小事。﹂
はない。大統領サディ・カルノーと物理学者のサデイ・カ
﹁まあ、どんな武器で殺されようと暗殺されたことに変り
酔した人物であり、その後も先年弘窯業を出すまで、直接、
書きおろした。とくにヴエイユについては、学生時代に心
を担当したが、編集方針に共感していつになく力を入れて
カヴェこャックとシモーヌ・ヴェイユ︵石完﹁一九望︶の項
れるという良心的な樽既をとっている。私はここでL・E・
物の大きな顔写真が組み込まれ、執筆者名も冒頭に明記さ
項目がÅ四版の二段組みで二ページ以上にまたがり、各入
伝となりうる、その限りでは画期的な出版物であった。各
いには﹁銃弾﹂を﹁凶刃﹂に訂正してくれるよう書き送っ
間接に私の研究視座を規定しっづけた思想家であったから
れなかったのだ﹂などと嘆いてみてもあとの祭りである。
た。
ところが、もう五年近く前になるだろうか、刷り上った
全力で取り組んだつもりである。
かも知れないが、実は私には以前、別の人名事典でもっと
抜刷が編集部から送られてきたのを見て仰天した。なんと
ところで、今回のカルノーについては小事ですまされる
苦い経験があった。こちらのほうは私の、、、スではなく、出
きのヨーロッパ議会議長として知られるSimOneくei−で
そこに組み込まれた写真は、私のヴェイユWei−ではなく、
はるぶ社がマグロウヒル社と提携して刊行したこの﹁世
あったのだ。︵同女史は、昨年日仏文化サミットなどでも
版社の不手際だったのだが、読者にはそう受けとってもら
界伝記大事典﹂は、類書とは異なって各人物にかなりの紙
来日しており、日本の各紙はシモーヌ・ベイルと表記する
もう一人のヴェイユ、すなわちフランスの元厚生大臣で先
幅をとり、執筆者の力量如何によっては十分﹁読める﹂小
まことに残念である。・・
えそうにないのが辛い。
ようになったが、フランスでは一般にヴェイユという発音
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幅苦り、執筆者の力量如何によっては十分﹁読める﹂小 乗目しており、日本の各紙はシモま・ベイルと表記する
にされたシモーヌ・ヴェイユ。事典の執筆はど割りに合わ
誤まって﹁銃殺﹂されたカルノーと、﹁精悼な政治家﹂
しかも、その写真はヴェイユ女史の若い頃のそれであり、
ぬものはないことを改めて痛感させられる二つのミステー
で通用している。︶
いかにもかつてのレジスタンスの闘士らしい精惇な女傑と
クであった。
︵奈良教育大学教育学部︶
いう印象を受ける。これに対してわれらがヴェイユWのi−
のほうは、ほんのわずかな風にでも吹き飛ばされてしまい
そうな、まことにスリムな女性である。繊細な感性と研ぎ
すまされた知性を持ちながら三十四才の若さで世を去った
W註。並みはずれた探求心のために食事の時間さえ倍ん
で生き急いだこの華曹な思想家に、その精悼な写真はおよ
そ似つかわしくなかった。現在存命中の政治家ヴェイユ女
史の偉大さを否定するつもりは毛頭ないが、これでは天国
のヴェイユが浮かばれまい。なにしろ初刷はすぐに売り切
れ、すでに全国の学校図書館に納められていたから手の打
ちようがなかった。本学の図書館収蔵のものについては至
急二刷の本と取り替えてもらったが、他所のものについて
は確認のしょうがない。気合いをこめて書いたものだけに
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