第6回 短い聖句を唱える祈り

祈りの手ほどき vol.06
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第6回
短い聖句を唱える祈り
前回は少し難しかったかもしれないので、今回はシンプルな祈り方を紹介したい。祈りには口祷(口で
唱える祈り)と念祷(心の中で思いめぐらす祈り、前回の黙想など)があるが、口祷の中でも最も単純
な祈りを説明したい。簡単なので、すぐに実践してみたらどうだろうか。
1.射祷(しゃとう)
カトリック教会で、
「射祷」と呼ばれる祈り方である。短い祈りを口で唱える、ただそれだけである。例
えば、
「主よ、来てください」
、
「マラナタ」
、
「わが神、わが主よ」、
「み旨のままに」、
「主よ、あなたを愛
します」、
「聖霊、来てください」「イエス、助けてください」、「マリア、祈ってください」などである。
いつ、どこででも、心に思いが浮かんできたとき、心の中ででも、口に出してでも唱えることができる。
自分の思いを短い言葉に込めて、まさに矢を射るように、神の心に直接訴えかけるのである。
その時その時で祈りの言葉を換えてもよいし、自分なりの言葉を決めておいて、それをいつも唱えて
もよい。自分なりの言葉がだんだんと決まってくることもある。祈るときにはいつもその言葉が出てく
るという人もいるだろう。自分のことをふりかえってみると、食前や食後の祈り、あるいは聖堂で聖体
訪問をしたときに、自然と出てくる定型句は、
「主よ、み心のままになりますように」が多いように思う。
それは無意識的にいつも出てくる祈りの言葉である。
そのような射祷は、実に単純で時間もかからない簡単な祈りである。この短い祈りに自分の思いを込
めるならば、たった1回であっても、神の心に届くのではないかと思う。むしろ長い祈りをするよりも、
このたった1回に心を込める方がより祈りらしいかもしれない(マタイ 6,7-8)
。
例えば、
「わが主、わが神よ」という射祷は、復活した主イエスを前にして、疑っていたトマスが思わ
ず口にした信仰告白である(ヨハネ 20,28)。このときのトマスの告白がまさに射祷の祈りの本質を示
している。たった一言の中に、トマスのすべての思いが詰まった祈りになっているからだ。回心の心も
入っているし、まいりましたという降参の気持ちも入っている。信頼の心も入っているし、これから従
っていきますという決意も入っているだろう。イエスを神として、主として信じるという信仰の決断に
もなっている。さまざまな気持ちと思いが込められて、トマスは「わが主、わが神よ」というフレーズ
を口にしたのだ。そのような射祷をたった1回でも唱えられるとすばらしい。
2.射祷を繰り返す
それをさらに繰り返すこともできる。心から祈りがわき上がってくると、たった1回だけでなく、何
回も繰り返したくなることもある。あるいは、繰り返すことによって、心が集中し、さらに祈りが深ま
ることもよく体験することだ。
アシジの聖フランシスコが回心の生活を始めた頃、友人のベルナルドの家に泊まった。ベルナルドは
彼と同じ部屋で眠ったが、眠るふりをしてフランシスコの様子をうかがっていた。フランシスコはベル
ナルドが眠っていると思って、起きだし、ベッドの前で一晩中祈っていた。ただ「わが主、わが神よ」
と繰り返しながら。彼の祈る姿を見て、ベルナルドも回心して、主に従う兄弟になったと言われている。
フランシスコの祈りはトマスの言葉を射祷として、ただ繰り返していただけだった。フランシスコは
あまりに深く神を愛していたので、その言葉を一晩中唱えざるをえなかったのだ。フランシスコもその
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一言にさまざまな思いを込めて、一晩中唱えたのだろう。過去の罪に対する悔い改めの心、主への心か
ら信頼、神への熱烈な愛など、さまざまな思いが詰まっていたのだろう。
実際のところ、ゆっくりと繰り返すことによって、だんだんと集中してくることはよくあることだ。
繰り返しながら、心の患いや囚われからだんだんと解放されて、最後には心に平安と愛があふれてくる
ようになるのだ。特に丌安に襲われたり、心が千々に乱れるときに、射祷を何回も繰り返してみたらど
うだろうか。いつの間にか、心に安らぎが回復してくることはよく経験することだ。
3.イエスのみ名の祈り
そのような繰り返しの祈りは、特に東方教会(正教会)では、
「イエスのみ名の祈り」(Jesus Prayer)
として、伝統的な祈りのスタイルになっている。
ルカ福音書に2人の印象的な祈りをささげる人が出てくる。一人は、目を上げようともせず、ただ「神
さま、罪人のわたしを憐れんでください」
(ルカ 18,13)と唱えながら、真実の悔い改めの心を示した徴
税人である。もう一人は、エリコの近くをイエスが通っていくのを聞いて、ただひたすら「ダビデの子
イエスよ、私を憐れんでください」(ルカ 18,38)と願い続けた盲人である。この2人の祈りからイエ
スのみ名の祈りが生まれた。それは、
「主イエス・キリスト、生ける神の子、罪人の私を憐れんでくださ
い」という祈りをただひたすら繰り返す祈りである。日本語にすると少し長すぎて唱えにくいので、
「主
よ、憐れみたまえ」というより短いバージョンで唱えるように私は勧めている。
やり方はものすごく簡単だ。ただひたすらそれを唱えるだけでよい。何十回も、何百回も、何千回も、
何万回も、何十万回も、何百万回も、何千万回も、ただひたすらこの祈りを唱え続けるのである。祈り
の時間はもちろんだが、歩いているときも、電車に乗っているときも、ありとあらゆる機会にただ唱え
続けるのである。
その古典的な実践例は、
『無名の巡礼者』という手記になっているので、興味ある方は読んでみられる
とよいだろう。体験談なので、非常に参考なる。
この祈りを唱え続けると、自然と神との交わりが深まり、霊的に進化していく。人によって違うが、
以下のようなプロセスを歩んでいく。最初の頃は、その祈りを唱えると心が静まり、心が神に向かうよ
うになる。さらに唱え続けると、自分の過去の罪が思い出され、涙が流れるようになる。さらに続ける
と、その罪を神さまが赦してくださっているのが実感され、過去の罪が洗い清められるようになる。さ
らに続けると、浄化された霊魂にさらに強い神の愛が注がれるようになり、自分がどのような道を歩め
ばよいか、照らされるようになる。さらに続けると、神の心と自分の心が自然に一致してくる・・・と
いう風に霊的な道を着実に歩んでいくことができるのである。
これを読むと自分もしてみたいという望みが湧くかもしれないが、もちろんインスタントの道ではな
い。長い道程の中で、少しずつ不えられる恵みである。
4.自分なりのみ名の祈りを決める
この祈りをある本で紹介したところ、読者から1つの手紙をもらった。それには、
「主よ、憐れみたま
え」を繰り返していると、力が湧いてこないで、何か気持ちが沈むような気がするというものだった。
たしかに朝起きて、仕事に出かけるとき、さあやろうという前向きな気持ちをもり立てているときに、
ただ「憐れみたまえ」では、やる気がそがれてしまう人がいるだろう。もしかしたらこの言葉は、ロシ
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アのように冬が厳しい気候に適しているが、楽天的な民族にはあまり合わないのかもしれない。結局は、
自分に合う祈りの言葉を使うのが一番よいと思う。
実際のところ、私が大学生時代、最初にこの祈りを習ったときは、
「オー、イエズス」という文言を繰
り返すというものだった。今までいろいろな文言を試してみたが、これを最初にしたせいか、無意識状
態になると、いつの間にか「オー、イエズス」に戻ってしまうことが多い。これが自分に合っているの
かもしれないし、最初だったのですり込みが一番深いのかもしれない。
いくつかの言葉を試して、合うと思うものを決めて、それを繰り返すがよいであろう。気持ちが盛り
上がるのは、
「神に感謝、主に賛美」というものがある(射祷ならば、「主よ、賛美します」、「神よ、感
謝します」でもよい)
。これも一時期、かなり唱えたが、感謝と賛美を捧げ続けると気持ちがだんだんと
晴れやかになる。また、その時々の気持ちに合わせて、射祷として、
「主よ、賛美します」
、
「主よ、あな
たを愛します」、
「主よ、あなたにより頼みます」と変化させることもある。その時のありのままの気持
ちに合わせるので、自分の心がこもるような感じがする。
なお、東洋の伝統から、繰り返す場合は、呼吸に合わせるのがよい。私の場合、
「オー」というときに
息を吸い、
「イエ(ズ)スー」というときに息を吐くようにしている。
「主よ」というときは息を吸い、
「よ
り頼みます」
、
「賛美します」
、
「ゆだねます」という方を吐く息にしている。そうすると息を合わさって、
心のリズムがとれる感じだ。
歩きながら唱える場合、息と言葉を合わせるだけでなく、歩数も合わせるとよい。息を吸うのに合わ
せて、2歩から4歩くらい(あるいはそれ以上)。息を吐くときも2歩から4歩くらいに合わせると心の
リズムとさらに合うように感じる。
皆さんもさまざまな工夫をして、祈りを深めていってもらいたい。とても簡単で実践しやすいし、多
くの恵みが実感できるだろう。
・参考図書:ローテル訳『無名の巡礼者-あるロシア人巡礼の手記』エンデルレ書店
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