Inspiring Minds: Larry Kricka インスピレーションを与えてくれる人:Larry

Inspiring Minds: Larry Kricka
Misia Landau
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インスピレーションを与えてくれる人:Larry Kricka
ラリー・クリッカは若い頃バーミングハム大学の講師として働いていたが、冬休みになると妻と一緒に海辺の
町、シドマスに足を運ぶことが多かった。かつては取るに足らない漁村だったこの町は、18 世紀から 19 世紀
にかけて変貌を遂げ、今では夏は観光客で溢れる海辺の散歩道が人気な、高級リゾートになっている。ただ、
クリッカにとってはこの町の魅力は夏の散歩道ではなく、冬にあった。
数年後、彼はシドマスに 25 行 116 語の頌歌をささげた。頭韻法を用いたこの頌歌の言葉は、すべて「S」で始
まっている。頌歌は「storm swept sandstone」(嵐の吹き荒れる砂岩)、「seagull shrieked sky」(カモメの鳴
き声響く空)、「sea splashed stanchions」(海のしぶきを浴びる支柱)などと、シドマスの自然の美しさの描
写で始まり、やがて「Somber sun streets seek solace/Silt soiled steps stand steadfast」(くすんだ太陽が照らし出
す街路は癒しを求め、泥で汚れた踏み段は毅然と並んでいる)と、シドマスの擬人に近い描写に入る。
ラリー・クリッカは、シドマスが好きでたまらないのだ。また、頭韻法も好きでたまらない。彼は臨床化学者
だが、仕事やプライベートの生活において自分が強い関心を持っているものに対して、何かと頭韻法を当ては
めたがる。ここ数年、彼は DNA やマイクロチップに捧げた頌歌をいくつか発表している。だが彼がシドマス
に捧げた頌歌は、特に興味深い。頌歌の行や語句は、個別に見ていくとそれぞれ示唆に富んでいる珠玉のよう
だ。だが連ねて読むと、またさらに目がくらんでしまうほど素晴らしい感動を覚えずにはいられない。まるで、
シドマスにあてはまる言葉を、完璧な順序で網羅する抄録のようだ。彼の頌歌は、詩であると同時にパズルな
のである。
現在ペンシルベニア大学のメディカルセンターで病理学と検査医学の教授を務めるクリッカに、何故頭韻法に
これほど魅かれているのか質問したところ、「すべて同じ文字で始まる言葉を見つけ、意味が通る文章を作り
出すことの難しさが、多分一番好きなんです」と答えた。頭文字が同じ文字しか使えないだけでも充分に難し
いが、さらに一つの作品の中で同じ言葉を 2 回使ってはいけないという制限もある。クリッカは現在、アルフ
ァベットを網羅した詩集を作ろうとしているのだという。「私の目標は、頭韻法の詩でアルファベットを制覇
することです。ただ、中にはちょっと難しすぎるのもあるかもしれませんけどね。たとえば、「X」とかです
かね。『Xenophobic xylophone』(外国人嫌いの木琴)などの言葉を使えても、あまり意味のある文章は作れ
ないでしょう」と、彼は話す。
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そんなことが可能であるならば、彼ならば出来るであろうという印象を受ける。一見クリッカは優雅で上品で、
ほとんど貴族的な人だが、臨床化学界においては競争力も熟練度も超一流であるという評判だ。よく、彼の世
代で彼と並ぶ人は数人しかいないだろうと言われている。彼は彼の専門分野の難題をいくつも解いてきた達人
であり、いくつもの新しい分野を開拓してきた人物である。
「彼は、他の人が既に充分研究してきた分野にはあまり足を踏み入れないですね」と、ペンシルベニア大学メ
ディカルセンターの病理検査医学部の名誉教授ピーター・ウィルディングは語る。
クリッカが研究を始めた 1970 年代、臨床検査には放射性同位元素(RI)標識が使われることが多かった。RI
の危険性は充分に認識されていたが、代わりに使用できる物質がなかったのだ。「誰もが別のものを使いたが
っていたので、長い間 RI 標識にとってかわる代替標識の研究は、研究題材の聖杯だったんですよ」と、クリ
ッカは言う。発光特性を持つ化学標識を研究している人は何人かいたが、まだ検査において使用できるほど強
く発光する標識は開発されていなかった。そこで、クリッカは同僚の一人とルミノールをエンハンサーと組み
合わせられないものかと、試してみたのだ。彼らは手法の開発にまず数年費やし、さらに徹底的に解析し、
様々な生物学的標的を使って試し、最終的に特許を取得した。
創造的思考、極めて細かい開発と解析、そして特許の取得。クリッカはこのプロセスを何度も繰り返した。そ
れも、急成長中の生物発光の分野においてのみではなく、クリッカは 1980 年代にウィルディングとともにマ
イクロチップの開発にも大きく貢献した。クリッカとウィルディングの二人は、マイクロチップの分野におい
て、合計 17 個の特許を取得することになる。
ジェファーソン大学で癌生物学の教授を務めるパオロ・フォルティナは、クリッカについてこう語る。「ラリ
ーは、いつも問題の核心を素早く、それも的確に突くんですよね。今、何をすべきなのか、すぐに指摘するこ
とができます。さらに、常に先を読んで様々な対応策を練っているから、他の人より少し優位に立っているん
です。たとえば、あなたが実験をして、ある結果を予測しているとします。彼はその頃既に、『次はどういう
実験をしたらよいだろうか』とか考えているんですよ」
クリッカは他の研究者との競争においても、ドジを踏むことはなかった。彼は悪びれもなく、研究に関する手
の内は見せないようにしていると語る。彼は若い頃、研究をしていてこの「パテント・オア・ペリッシュ」
(特許をとらない化学者は消滅する)という信条に至ったのだという。「あなたが本当に自分の発明を守りた
いのなら、手の内は見せてはいけません。誰にも見せびらかさず、発表もせず、話題にしてもいけません。特
許出願のプロセスが終了し、特許が取得できるまで、決してね。企業も専売特権がないのなら、どんなに革新
的な技術であろうと莫大な投資はしてくれません」と、クリッカは話す。
クリッカは同僚にも気兼ねなく自分の競争的な信条について語るが人望も厚く、専門分野の学者間の人気もす
さまじい。さらに、常にエネルギッシュで社交的である。フォルティナによると、「彼の周りにいると穏やか
な気持ちでくつろげる」のだそうだ。イギリス人特有のチャームもあるというが、実のところクリッカは町に
たとえるとすれば、シドマスよりもシドニーに近いという。「シドニーに行ったことはありますか? ニュー
ヨークシティのように活気のある都市ですが、同時にイギリスの文化や教養を兼ね備えているのです」と、フ
ォルティナは話す。
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イギリスは実はクリッカの第二の祖国なのである。彼は 1947 年にチェコスロバキアの温泉街のカルロービ
ー・バリー(Karlovy Vary、またの名をカールスバッド)で生まれた。父親はチェコ人で、母親はイギリス人だ
った。両親は第二次世界大戦中に出会い、チェコにおけるロシアの勢力が強まり始めると、6 歳になる息子・
ラリーを連れてイギリスに避難した。
クリッカ家はバーミングハムの閑静な住宅街の一棟二軒に落ち着き、ラリーにはパヴェルという名の弟が一人
増えた。クリッカの父はチェコスロバキアではパン屋を経営していたが、バーミングハムでは他の人の店で働
いた。
「私はよく父の仕事場に遊びに行きましたね。どのケーキだって食べて良いといわれていました」と、クリッ
カは言う。クリッカの少年時代は典型的なイギリス人のそれに近く、地元のラグビーチームで前翼として活躍
していたというが、子供の頃から異様なほど化学に興味をもっていたという。せんだんは双葉より芳しと言う
が、クリッカもまた、子供の頃からいろんな物質を採集し、実験装置を使い実験を重ねていたという。「子供
の頃に化学の実験セットを持っていた人に、何を作ったかと聞けば、必ず火薬や三ヨウ化窒素を作った話をし
てくれると思いますよ」と、クリッカは語る。
クリッカの実践的なアプローチは、学校の先生にも褒められた。彼が少年時代通ったローズウッド工業学校は、
1950 年代に新しい実践的な多専門的な教育を目標として作られた実験的学校で、普通の理系のクラスに加え、
製図、木工、および金属加工などのクラスも整備していた。1965 年、クリッカは当時まだ出来立てで、活力
に満ちていたヨーク大学の化学部に入学する。バーミングハムで育ったクリッカにとっては、中世期の壁やエ
リザベス朝の建造物が立て並ぶヨークは、ある種の理想郷であった。彼は同大学で大学院に進み、ジョン・ベ
ルノンのもとで有機化学の博士号を取得する。
ある夏の夕べ、大学の食堂で夕飯を食べていたクリッカは、バーバラと言う名の歴史学部の若い女性に出会う。
彼女は、近くの大学の講師を目指していたのだという。一年後、二人は結婚しリバープールに移った。クリッ
カはリバープールで、トニー・レドウィスとともにポスドク研究を始めた。クリッカ夫妻は程なくして家を購
入し、長子のサイモンに恵まれた。
レドウィスの励ましにより、クリッカは化学の生物学的応用に興味を持ち始め、また特許についても学び始め
た。一年半後、クリッカはバーミングハム大学のウルフソン研究所に誘われ、教員職に就くことになる。
故トム・ホワイトヘッドと共にウルフソン研究所の選考委員会に勤めていたウィルディングは、クリッカの選
考について、「ラリーのエネルギッシュなところを見て、ピンときましたね」と話す。ウルフソン研究所は当
時、イギリスにおいて最も活気があり多専門的な研究所として注目を集めていた。創造力と活動力に満ちたク
リッカにとっては、うってつけの環境だったのだ。クリッカの発光に関する画期的な研究や、彼がいくつもの
特許を取得することにつながった研究や、彼がクイーンズアワードを受賞することにつながった研究は、すべ
てこの研究所で行われたのだ。
クリッカは 1973 年から 1987 年までウルフソン研究所に在籍していたが、途中で 1 年、1981 年にカリフォル
ニア大学サンディエゴで客員特別研究員として働いていた。クリッカ家はその頃には長女アンナと次男トーマ
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スが加わり、賑やかになっていた。彼の家族はサンディエゴのアウトドアライフや海辺を満喫し、クリッカは
特にアメリカの科学界に感銘を受けたという。「常に、将来的にはアメリカに永住する可能性もあるって考え
ていましたからね」と、クリッカは語る。
1987 年に、クリッカはペンシルベニア大学に移っていたウィルディングに招待され、再度アメリカを訪れた。
「そのときに、ここで働かないかとお誘いを受けたのです。誘いを受けたことを、後悔したことはありません
ね」と、クリッカは話す。クリッカは同大学に来て以来、ずっと同大学付属病院の一般化学科の科長を務めて
きた。2009 年には、さらに救命救急診療部研究室の室長にも任命された。
クリッカの唯一つの悔いは、通勤時間が長いことだ。彼は現在、緑の多い郊外の住宅地・デボンにある、上品
で優雅な家に住んでいる。毎朝 5 時 26 分に起き、6 時のフィラデルフィア行きの電車に乗り、7 時までにはオ
フィスに着いている。そして、8 時までに夜勤のスタッフと打ち合わせをし、オフィスで朝飯をとる。「(7
時から 8 時までの)この一時間は、誰の電話にもジャマされないようにしてあります」と、彼は話す。
クリッカは通勤が嫌いだが、妻と共にボルダーに住む長男・サイモン、オースティンに住む長女・アンナ、お
よびフランスのトゥールーズに住む次男・トーマスに会いに行くのは大好きだという。
また、クリッカは大の美食家およびワイン通であり、出張先であろうと美味しいものにめぐり会うための努力
は惜しまない。「世界中どこの国のどの町に行っても、彼はどこだったら美味しいものを食べられるかを知っ
ています」と、フォルティナ言う。
地元・フィラデルフィアでは、妻やウィルディング夫妻、および夫婦他 8 組と共に年に 8-10 回集まる「スク
リュー・トップ・ワイン倶楽部」なるものに参加している。今年設立 22 年を迎えるこの倶楽部は、ウィルディ
ングによると、「毎回、主催者はどのワインを選ぶか、全権をゆだねられることになります。さらに、ワイン
の説明を文章にして配るのです」という、ワイン試飲会のようなものらしい。ウィルディングは全ての回の記
録を持っているそうだ。2005 年に一度、クリッカが主催する番となった。
「確か、彼は最初に『Brute – bubbly, brazen boisterous, and beautiful』 というのを出しましたね。そして次に
『Burgundy and Bordeaux Blanc – brittle, bashful, and balanced』 を出し、『Bold and buxom Burgundy and
Beaujolais』 を出し、最後に『A bountiful, beguiling, and benevolent beverage』 を出しました」と、ウィルディ
ングは語る。
なるほど、クリッカらしい演出である。
(訳者:小野 富大)
謝辞
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analysis and interpretation of data; (b) drafting or revising the article for intellectual content; and (c) final approval of
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