「一禅者の科学と宗教」

「一禅者の科学と宗教」
丸川雄浄
学生時代に禅に入門してから 40 数年の禅の修行と、製鉄会社の研究者あるい
は大学客員教授に席をおいての科学技術への従事の両面の総括として、禅から
見た科学観と宗教観を一般論的にまとめ、また今日的課題としての個別の各論
として「資源の枯渇および地球環境」について仏教・禅の立場から私見を述べ
た。
Ⅰ.宗教と科学
1.禅における科学観(宗教と科学の違いと相互関係)
(1)科学は万能ではない。
“死に対する恐怖”からの根本的解決は、科学では出来ない(文献1)。
また、“人生の意義”“私は誰?”“私はどこから来たの?”文献2)に対する
根本的回答は、科学では出来ない。
科学の領域とは別に、宗教の領域・宗教の切り口が、人間および人間社会に
とって必要不可欠であると認識している。
(2)科学技術の成果は、諸刃の剣である。
科学技術の進歩と弊害の両面を的確に評価しなければならない。
すなわち、科学技術者も科学技術者の前に人間でなければならない。人類的
視点に立つことが、21世紀の科学技術者の必須条件である。
例えば、生命科学(クローン人間を含む)の発展には、科学者技術者だけの
判断で進めてはならないと云う認識が、科学者技術者の当事者に無ければなら
ない。即ち、科学者技術者も宗教的理解を深めると共に、宗教界へ働きかけて、
人類的視点で取り組み進めなければならない課題は年々増加している。
(3)科学と宗教は異なる領域であるが、本質的には相反しない。
科学と宗教の領域の違いを無視すると相克することになる。即ち、科学の領
域で宗教を解釈・尺度してはいけないし、宗教の領域で科学を解釈・尺度して
はいけない。科学の切り口で未知なるものも、あくまで科学がまだ解明してい
ないというだけで、決して宗教的に解釈すべきではない。逆に、宗教の本質、
教義を宗教の外の科学の領域で解釈したり、科学の尺度でその是非を判断して
はならない。範疇、領域が違っていることを明確にしておかなければならない。
また、事実を基礎として普遍性の法則を客観的に把握しようとする科学の本
1
質と、永遠なる真理に合掌し一体化しようとする宗教の本質とは、本来矛盾す
るということはあり得ない。
(4)新しい時代の宗教は、科学と矛盾しない教義に変換しなければならない。
科学がまだ未発達の古い時代の宗教の布教・救済には、当然なにがしか現代
では滑稽であったり、あるいははっきりと科学の真実と矛盾する表現とか教義
を含んでいるのは必然的であったと認識する。
すなわち、“あの世”“地獄に落ちる”“霊魂・ひとだま”等を古い時代に布教
の方便として使っていても、その古い時代にはその時代の科学と矛盾していた
わけではなく、科学と矛盾した教義を持っている宗教としてその宗教的本質を
疑問視することは出来ない。おそらくその方便が、その時代にはふさわしく、
それで多くの人々が救済されたと考えるべきであろう。
宗教の本質は古今東西不変であるが、それを布教、教導する表現やその為の
教義は、その時代その時代の科学の進歩で明らかになった常識(common sense)
と矛盾するものを持っているということは問題である。
すなわち、現代科学に反する教義(時代を反映した布教のための教義)を伝
承している宗教は、21世紀の世界宗教としてはふさわしくないと考えざるを
得ない。
古い時代の方便や表現、教義をそのまま21世紀にも使い続けると、新しい
次代を担う若者にそっぽを向かれる(宗教の本質を誤解させる)ことになる。
それは彼等にとって大変不幸なことであると共に、将来への本当の宗教の伝
承に対しても大きな障害となるものである。
(5)新しい時代の宗教改革に科学技術者は積極的に関与しなければならない。
宗教の本質を変えず、科学と相反しない教義(21世紀にふさわしい教義)
にすべきであるし、それは不可能なことではない。
その為には、宗教の本質をわきまえた科学技術者が、宗教者に協力してその
責任を果たさなければならない。
この課題は、宗教の本質ではなく、どちらかというと表層的な、あるいは手
段、方便のことではあるが、迷える人類にとって大変大切なことと考える。
2.禅における宗教観(各宗派の共通性の認識)
(1) 宗教の本質に相違はない。
キリストが、釈迦が、マホメドが、老子が、孔子が、ソクラテスがつかんだ
宗教存立の根元的真理は、一つであり、相違するものではないというのが、禅
の宗教観である。
禅の宗教的根本は、釈迦牟尼の悟り(東洋的無)に根元があり、特徴的なの
は、その悟りを師から弟子に一器の水を一器に移すように今日まで、生きた人
2
間の知恵としてまた人間形成の結果として伝承して来ている。したがって、現
在の禅の師家は、釈迦牟尼と同じ悟りをそのまま伝承し、保持しているのであ
る。
他の宗教での宗教創設者の宗教的根元が、どのように伝承されているかは、
不勉強なため判らないが、2000 年以上に亘る星霜を越えて伝承され、多くの人々
の信仰を集め、また多くの民衆を救済してきている伝統的世界宗教には、今日
においても間違いなく、宗教的本質がそれぞれの宗教において伝承されている
と考えている。
したがって、宗教存立の根元にまで遡れば、世界宗教の全てに共通する基盤
に到達すると確信するものである。
(2) 宗教間の共通性の認識
20世紀までの人類は、紀元前6世紀から紀元までの六百年間に集中して誕
生したすばらしい世界宗教を持ちながら、それらは個別の発展にとどまった歴
史でしかなかった。したがって、その誕生から二十数世紀を経た現在も、不幸
にして民族と宗教が絡んだ抗争や戦争が後を絶っていないのが現実である。
これに対しては、枝葉末節の政治的経済的解決ではなくて、宗教的根元の共
通性についての認識、把握が不可欠であると考える。すなわち、20世紀まで
の人類には、これが出来ておらず、21世紀以降にその宿題が持ち越されてい
ると考えられる。
(3) 宗教的根元の呼び名にこだわることはない。
世界宗教といえども、その成立した時点では、特定の地域とその時代の特殊
な背景を纏って成立しているのであるから、宗教的本質が同じであったとして
も、その呼び方、布教の方便は千差万別が当然である。
宗教的根元を名付けて、老子曰く“物あり天地に先立って生ず。寂たり寥た
り、周行して危うからず。我その名を知らず。強いて名付けて大道という。”
また、他にも、大道、神、仏、真理、アラー、エホバ、天之御中主命、第一
原因等々と、呼び名は異なれども指さしている先の「そのもの」に変わりはな
いのである。
したがって、その呼び名にこだわることはなく、また、それから生まれてく
る救済のための方法論の違いや、儀式の違いはお互いにそれを認め合わなけれ
ばならない。
宗教的根元は共通のものを持っているという相互認識があればこれは難しい
ことではない。
(4) 宗教的根源に到る方法を全ての宗教は等しく持っている。
全て独自の方法であるが、その本質には共通するものがある。
それは、集中あるいは三昧を、行を通じて深める点である。すなわち、瞑想、
3
祈り、礼拝、読経、坐禅、数息観法、経行等々の実践行である。
マザーテレサの祈りの徹底さは、禅的に見ても高く評価できるものであり、
坐禅の実践とその本質は全く同じと考えられる。浅学にして知見がないが、お
そらく、イスラムのアラーに対する祈りも本質的には同じものを持ち、それを
追求しているものと考えられる。
宗教学と宗教の違いは、この三昧に至る実践行があるかないかであるが、極
めて重要な点である。
(5)宗教も諸刃の剣である。
時代の流れと共に、宗教成立時の宗教的本質なるものの認識・把握が薄れ、
あるいは浅くなり、方便としての教義や行事だけが伝承される状態になると、
宗教間の差異だけしか見えず、根元の共通性の認識が出来なくなる。
宗教創始者の把握したものを、各宗教宗派でそれぞれ正しく伝承し続けるこ
とはきわめて難しいことではあるが、きわめて大切なことである。その本質が
伝わらず宗教の形骸だけが伝わることは、きわめて危険なことである。
そういう意味では、宗教も諸刃の剣であり、宗教が根元の本質を喪失したり、
そういうものを最初から持たない似非宗教は、極めて危険なものになるといわ
ざるを得ず、それは歴史が証明している。
(6)21世紀は益々本当の宗教が求められる。
宗教的根元の本質を正しく伝承し、それを常に新たに確保しておれば、宗教
間の対立は起こり得ない。
宗教的根元に遡っての共通性の発見が、21世紀の宗教の課題である。した
がって、宗教の創立の本質を二十一世紀の今日においても正しく伝承している
本当の宗教が21世紀に求められるのである。
また、科学技術がその速度を上げて発展し続けて行けば行くほど、人類はそ
の本質を見失いがちになってくることは確かである。科学技術の発達に比例し
て、宗教は益々重要な精神救済の確かな手段であり続けると共に、健全な科学
技術の発展を支える新しい重要な役柄も求められている。
[参考文献1]立田英山著『人間形成と禅』和英対照
1999.5
人間禅教団出
版部発行
[参考文献2]Jostein Gaarder 著『ソフィーの世界』1995.6 日本放送出版協
会発行
4
Ⅱ.資源の枯渇・地球環境と仏教思想・禅
1. 地球は、物理的に危機に瀕している!
(1)人口爆発
「資源枯渇および環境問題」と「人口増加および文明の進展」との矛盾は、
まだ、それほど顕在化してはいないが、21世紀の前半には地球上の最大問題
になることは必至であろう。ローマクラブが、1970年に世界の識者を集め
て結成され、これからの地球全体の行く末を科学的に解析し、その成果報告が
1971年に「成長の限界」として発表された。全ての地球環境の問題提起、
資源枯渇の課題提起は、これを起点としていると云っても過言ではない。
世界の人口の増加推移は、1950年の25億人から1990年の40年間で人口は
倍増以上になり、その増加傾向は変わっておらず、21世紀の前半にも4倍増
の100億人の到達が確実視されている。
これは、地球にとっても、人類にとっても、政治経済においても、文化にお
いても大変大きな影響を及ぼすものである。どういう影響が生じるかを科学的
に予測し、どう対処しなければならないかを英知を集めて策定しなければなら
ない。今から手がけないと手遅れになり、地球規模で、足並みをそろえてやら
なければならない緊急課題である。そしてこれは、単に国際的な政治経済の施
策のみならず、価値観の転換をはかる真に平和な地球社会構築への道を示す人
類の本質的命題である。
(2)資源の枯渇
人口の増大と工業の発展の相乗効果により、先ず一番の課題は、エネルギー
枯渇の危機である。20世紀までの人類のエネルギーのほとんどは、50億年
にわたる地球上に蓄積された太陽の化石とも云うべき化石燃料(木材、石炭、
石油)に依存していた。その消費は、図1に見られるように、人類が地球のエ
ネルギーを消費し始めた40万年前から18世紀の産業革命までは、地球から
のエネルギー資源の減少は、微々たるものである。それが、産業革命以降19
世紀、20世紀へと時代が進むにつれて、地球のエネルギーの消費が進み、5
0億年の地球の蓄積財産である化石燃料は、線香花火が一瞬にして燃え尽きる
ように、21世紀にはほとんどは枯渇してしまうことが確実視されている。
化石燃料とかウラニューム燃料を合わせてのこれらのハードエネルギーパス
(エネルギーを一度引き出し使用すると、そのエネルギー源は毀れてしまい、
二度とは使用出来ないエネルギー供給手段)がまだ残っている間に、風力とか
太陽光発電のように再生可能なソフトエネルギーパスにエネルギー供給ソース
を転換しておかなくてはならない。この転換は一朝一夕には出来ないことで、
まさに今始めなければ、取り返しがつかなくなる重大な課題である。
次に、工業化の進展の中核となる金属資源の消費実態を次の図2に示す。こ
5
れは、100%をもともと地球が持っていた資源の総量としており、黒く塗りつぶ
されているところが、もうすでに採掘してしまった割合である。黒く塗ってい
ないところが、まだ地球に埋蔵され残っている割合である。水銀、錫、鉛等は、
既に4分の3を採り尽くしており、あと4分の1しか残っていない。亜鉛は3
分の2を、マンガン、銅は半分を失ってしまっている。
(3)地球環境問題
地球環境にかかわる問題は、オゾン層破壊、炭酸ガス増大、酸性雨、ダイオ
キシン、環境ホルモン、放射性物質、有機系発癌物質汚染、重金属汚染等々、
多岐にわたっているが、このうちの炭酸ガス問題に絞り簡単に言及しておく。
図3は、20世紀後半の炭酸ガスの上昇速度が、過去の地球上でも例を見な
いほど急激なものであることを示している。これは、当然、エネルギー消費と
裏腹な関係であり、人口増加と工業化が相俟った炭酸ガス放出が、如何に自然
の変動の枠を超えたものであるかを示している。産業革命以前は、人類も地球
の自然の一部であったが、いまや人工物は地球の自然をはみ出すほどのモンス
ターとなり、その成長は衰えることを知らないように巨大化しているのである。
2.地球の持続発展を可能にする道はあるのか?
正(資源)の枯渇、負(環境汚染物質)の蓄積は、年々急速に進行しており、
今、手を着けなければ取り返しが効かない緊急課題であり、抜本的対策が求め
られている。
(1)リサイクル(循環)社会の必要性と限界
この資源の枯渇と地球環境を解決するための一つの方策として、リサイクル
(循環)社会(廃棄したものをもう一度製造元に返して再資源循環する社会)
の実現が必要であることが、多くの人から提案されている。
これは当然のことであり、正しい施策であるが、大量生産大量消費の継続の
まま、闇雲にリサイクルを進めることは、リサイクルのためのエネルギー消費
の増大を招きかねない。一部の識者の指摘しているところであるが、無理なリ
サイクルはエネルギーの浪費であるという意見にもなる。
そこで、リサイクルの中でも出来るだけ部品を生かしたリユース(廃棄まで
せず、使えるものは部品として元に返して使う)の促進により、リサイクルの
効率化を図る方策が求められることになる。
(2)究極のリサイクルとしてのレンタル(貸し出し)方式
このリユース(部品再利用)方式を最大限に進める究極のリサイクル方式が、
レンタル(賃貸し)方式である。このレンタルが最も先進的に進んでいる代表
例として、リコーの複写機と富士フィルムのレンズ付きカメラがあげられる。
これらは、その製品の所有ではなく、それぞれの機能の利用を使用者(消費者
とは呼ばない)に売っているのである。
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レンタルでは、メーカーは、自分の処に還ってくる商品の長寿命化に真剣に
取り組むことになる。使う方も、レンタルで借り物であるから、便利に使わせ
て貰うが、大事に使い、使わなくなったらすぐに返すことになる。また、所有
せず、使用料のみの価格は当然低価格である。
このレンタルを、複写機やレンズ付きカメラのみならず、冷蔵庫も、パソコ
ンも、自動車も、家も全ての商品をレンタルにしてしまうと廃棄するものは激
減し、利用価値が残っているものの廃棄はなくなり、資源の効率的利用につな
がる。世の中の大量生産大量消費を根本的に覆し、大切に造り、大切に使用す
る社会構造に転換できるのである。しかし、レンタル方式を社会の全体に広げ
て行くには、生産する側においても、使用するユーザー側においても、大きな
意識変革が必要である。
3.レンタル思想と仏教思想・禅
この意識変革を仏教思想・禅との関係で論ずるのに先立ち、資源枯渇問題に
対する仏教的思想の有効性に関係する二三の観点の紹介をしておく。
(1)エフィセンシー(効率)からサフィセンシー(充足)へ
地球環境問題の現在の日本の代表の一人である東大の山本良一教授は、21
世紀はエフィセンシー(効率度)の追求ではなく、サフィセンシー(満足度)
の追求でなければならないと提唱されている。エフィセンシー(効率)追求が、
大量生産大量消費社会の競争時代の進歩の尺度になっていたが、持続発展可能
な地球を考えるとき、このエフィセンシー(効率)追求だけでは、100億の
人類の地球では、解を見いだすことが出来ないのである。そこで、サフィセン
シー(充足)という尺度を導入せざるを得なくなった。
石庭で有名な京都竜安寺の一角に、吾・唯・足・知に含まれる口の字を真ん
中に置いて巧妙にデザイン化し彫った手水鉢(写真1)がある。これは「吾れ
唯
足るを知る」と読み、「足るを知り、分に安んじてむさぼらない」の意であ
り、釈尊の説法にある語句である。また、同じく「渇愛を調御せよ」の説法も
あり、むさぼりを戒めている。これらは仏教の大切な教えである。日本の茶道
に、千利休居士の「家は漏らぬほど、食は飢えぬほどにて足ることなり」の語
があり、同じ精神に基づくものである。現在は、飽食の時代といわれ且つ地球
資源の枯渇が迫っている時代、まことに適切な教えである。
資源が枯渇して地球の鍋の底が見えている現在、このままの資源浪費型の文
明が進展することは不可能だと洞察したとき、資源の消費が少なくても、満足
度の高い社会形成の構築をする方向に社会発展の方向を転換しなければならな
いと言う考え方に必然的に到達する。そしてそれは、地球の鍋の底にまだもの
が残っている間の今の内から準備しておかねばならない。そのために何をなさ
なければならないかが極めて重要な人類課題になってくる。「満足」というカテ
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ゴリーは、極めて精神性の高いものであり、心理学という科学では根元的には
捉えられないものであり、宗教的次元まで掘り下げないと「本当の満足」とい
うものを手に入れることは出来ない。
(2)レンタル方式を支えるレンタル思想
北アメリカ大陸の先住民族であるアメリカインデイアンの古い諺に、次のも
のがある。
「We do not inherit this land from our ancestors. We borrow it from our
children.」
(我々はこの大地を先祖から相続しているのではない。我々はこの大地を子
孫から借りているのだ。)
現在の日本の普通考えることは、「先祖から伝えられたものであるから、大事
に使う。」というくらいのものであり、これに比べて、インデイアンの先人の言
い伝えは、子孫から預かって先に使わせていただいているという考え方であり、
この考え方には、格段に深い意味が感じられる。それは、我々のように、大量
生産大量消費の末に資源枯渇が見えてきたから追い詰められて考えているので
はなく、豊かな自然に包まれ、その貴重さが如何に掛け替えのないものである
かを深く認識し、これに感謝し、この考え方を綿々と伝承している文化の質の
高さの違いに思い至るのである。
物、自然、地球は、私有される物ではない。使わせてもらっており、使った
後は元通りにして返すのが、当たり前ではないか。物を個人的に所有すること
に価値を置くのではなく、物を使用することに価値を置く。所有にお金を払う
ことから、使用にお金を払うことへの転換である。そして、これは単に制度だ
けにとどまらず、根本的な価値観にまで掘り下げなくてはならない。
(3)レンタル思想を支える仏教思想・禅
森や川の命は、将来の子孫のために、今、自分たちはそれを大切に預かって
いる。自分たち自身の命も同じく、将来の子孫のために、今、自分たちはその
命を大切に生きている。先祖も自分たちのために、その命を、森や川を、自分
たちのために大切に伝えてきた。我々は、それをしっかりと受け止め、大切に
使い、大事に次の世代に渡さなければならない。誰も、それを、自分勝手に、
無責任に、「私くし」することは出来ない。レンタル思想には、ものの大切さの
根元的認識と個人(エゴ)の所有欲の打破が大前提となる。
お釈迦様が、菩提樹下で暁の明星を徹見して悟りを開かれたのが仏教の起点
であり、禅の悟りの元始となっている。このときの悟りの投機の句は、「山川草
木悉皆成仏」(山も川も草や木もすべてそのまま仏に成っている)であり、また
別の投機の句として「天地と我と同根、万物と我と一体」というのもある。山
川草木、一滴の水、一匹の虫けらにも、人も人種・性別・貧富・貴賎の差別な
く、自分と他人の区別なく、過去から未来にわたって一貫して流れ伝わってい
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る永遠の命の存在を、確かなものとして見据えている。永遠の過去から永遠の
未来にわたる流れの中の「今」を、それは、様々な形で輝いている。これが、
お釈迦様の悟り「山川草木悉皆成仏」そのものである。
「地球に優しく」「物を大切に」「みだりに私する物ではない」「生きとし生
けるもの全て共生すべきもの」は、単に倫理、躾け、社会道徳の標語では本物
にならない。科学・学問の解析、解釈では届かない。宗教である仏教思想の根
元にまで掘り下げられねば、そのひとつひとつが本物にならない。例えば、曹
洞宗の開祖道元禅師は、つねづね弟子たちに、使い残りの柄杓の底の水を元の
流れに返すように諭されたという。無尽蔵とも見える川の流れや湖の水に対し
て、半杓の水は微々たる量であるが、一滴の水の貴さ、大切さを如実に示し教
えられた。現在でも永平寺には「杓底水」の語が残され、開祖の精神が引き継
がれている。
山川草木に自分と同じ命を持ち、同じように仏であることを根元的に悟得す
るのが禅である。二千五百年前のお釈迦様の悟りが、今までのいつの時代より
も切実に、21世紀の今、人類にとって、地球にとって大切であり必要なので
ある。お釈迦様の悟りを21世紀の人間が同じように悟り直さねばならない。
不可能なことではない。禅はその方法論を示している。過去、現在、未来に一
貫している「流れ」が何であるかを。何故、自分と他人と山川草木が「同根」
なのかを、単なる漠然とした思想レベル、哲学レベルではなく、はっきりと確
信せしめる方法論とそれを確証する生きた伝法として仏教の「禅」が伝えられ、
21世紀の今日に伝わり生きている。
9
Ⅲ.結語
(1)資源の枯渇および地球環境の今日的問題を事例に挙げて、科学と宗教の
係わり合いの必要性について論じた。
その結論は、地球上の人間社会の仕組みを、また、人間の価値観を根本的に
変革する事が出来なかったら、地球と人類が持続して、新しい22世紀を迎え
ることがきわめて難しいということである。
(2)自然科学ももっともっと発展しなければならない。社会科学ももっとも
っと発展しなければならない。
同時に、宗教ももっともっと現代人の心の支えにならなければならない。ま
た、時代の変化に即応した常に新しい社会の価値基準の拠り所にならなければ
ならない。すなわち、例えば、お釈迦様の悟りがもっともっと多くの現代人の
自らの悟りにならなければならない。
(3)しかし、21世紀において最も大切なことは、科学と宗教の協同調和をあ
らゆる場所、あらゆる局面において実現することである。
科学は、宗教によってはじめて、正しい方向付けと新たな勇気を持つことが
でき、地球と人類の持続に向かって真の発展をすることが出来る。また、宗教
によってはじめて、科学の成果を正しく地球と人類に生かすことが出来るので
ある。
宗教は、科学者の支えと先導によって、21世紀にまで持ち越された人類の大
きな宿題である各宗教宗派の共存と協調を実現し、世界の恒久平和に道をつけ
て行かねばならない。また、科学の進歩によって明らかになって行く真実に即
応して、新しい時代の新しい布教、救済のあり方の革新をはかりつつ、宗教の
根源を日々に新たに確かなものとして伝承して行かねばならない。
(4)我々は、人類の、地球の持続発展を新しい22世紀に向けて物理的にも
精神的にも確実にしなければならない。これが、先人に対する恩返しであり、
子孫に対する責任である。
丸川雄浄:工学博士
大阪大学客員教授
中国東北大学名誉教授
人間禅教団(臨済宗円覚寺法統)一等布教師
住友金属工業社友
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道号:葆光庵春潭