愛の負債 使徒パウロは 13:1〜7 で、人は皆、上に立つ権威に従うべきで

牧師のデスクより
ローマ書 13 章 8〜10 節
愛の負債
使徒パウロは 13:1〜7 で、人は皆、上に立つ権威に従うべきであり、キリスト
者といえども例外ではなく、市民社会の一員として、その属する国家社会に立
てられた権威者を敬い、彼らに対する義務を果しなさいと教えたが、次の8節
以下では更に一歩進めて、キリスト者には単に国家の一員として法律を守って
生きればいいというだけでなく、それ以上に大切な生き方が求められていること
をローマの信徒たちに教えている。すなわち、「互いに愛し合うことのほかは、
だれに対しても借りがあってはならない。人を愛する者は律法を全うするのであ
る」と(8 節)。
ここで「借りがある」と訳されている原語は「負債を負っている」という意味の言
葉である。パウロがここで、愛を「負債」と呼んでいることは注目に値する。彼は、
キリスト者はこの世の社会の一員として市民的義務を果たせ、と命じた。国家の
規則を守り、税金を納め、市民としてその他の社会的責任を果たさなければな
らない(1〜7 節)。
しかし、キリスト者は、これらの義務を果たしさえすれば、それでいいと思って
はならない。それで満足してはならない。愛は義務よりも深いのである、とパウ
ロは言う。税金を納める義務は、それを納めさえすれば一応その責任を果たし
たことになる。しかし、人を愛することはどこまで愛しても、これでよいということ
にはならない。愛はキリスト者にとって永遠の負債なのである。
お金の負債は支払えば無くなる。しかし、愛の負債は、信仰が増せば増す
ほど、十字架の愛が分かれば分かるほど、ますます増していくものである。アル
トハウスという人が次のように言っているが、その通りである。「法的義務の負い
目は、残りなく果たすことができる。だが、愛の負い目は、払えども払えども、な
お償い切れない。・・・愛することが真剣であればあるほど、わたしたちはいかに
自分がこの負債を償いきれない存在であるかを、いよいよ身にしみて知るばか
りである。」
キリスト者は、愛することを相手に対する恩(おん)としてではなく、施しとして
でもなく、負債として、すなわち、当然なすべきものとしてとらえて、身を低くして、
神と隣人の前に生きることが求められているのである。
神の律法全体が求めているのはそのような愛であるとパウロは言う。そしてパウ
ロはこれを第1コリント第 13 章で次のように美しく表現する。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義 を
喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、 すべ
てを耐える。(コリント一・13:4〜7)
なすべきことを果たした時、次のように言えと弟子たちに教えられた主イエス
の言葉を思い出す。「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければ
ならないことをしただけです」と(ルカ 17:10)。私たちも、愛することにおいて、
なすべきことをしてしまったとき、決して自分のしたことを誇らず、そのように言え
るようなキリスト者になりたいものである。