2011/10/4 ボードリヤール『消費社会の神話と構造』担当班解答 担当班

2011/10/4
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』担当班解答
担当班:竹崎、渡辺、水野、塙
【著者紹介】
ジャン・ボードリヤール
Jean Baudrillard (1929-2007)
フランスの社会学者。フランスの小作農の家に生まれる。ソル
ボンヌ大学に進学し、マルクス主義、フランクフルト学派の芸
術論と社会批判から影響を受ける。ヴェブレンが作った、近代
以前の社会の貴族の消費行動を指す「誇示的消費」という用語
を記号の消費の概念に切り替え、記号論的文化・社会論を開拓
した。1966 年に博士論文『物の体系』で博士号を取得し、パリ
大学ナンテール校でルフェーブルの助手となる。後に『対象の
システム』を発表し、マルクスの価値理論にソシュールの記号論を取り入れる画期的な視
点を評価され、注目を浴びる。1986 年にはパリ大学ナンテール校の教授を辞任。2007 年に
パリの自宅にて 77 歳で逝去。ボードリヤールの研究には社会学者としてよりかは、文明批
評家としての側面が色濃く出ている。(岩波思想辞典、Wikipedia 参考。)
問1.P11「豊かになった人間たちは、(中略)他の人間に取り囲まれているのではもはや
なく、モノによって取り巻かれている」とあるが、モノと人間の関係が変化してきた過程
を述べよ。<第一章参考>
【引用】
P14
相手として組み合わされる他のものと全く無関係に、それだけで提供されるものは今
日では殆ど無い。
P19
そこでは、幸福が緊張の解消だと抽象的に定義されて、全てが安易にそして半ば無自
覚的に消費される。
同上
商業センターや未来都市の規模にまで拡大されたドラッグストアは、あらゆる現実
生活、あらゆる客観的社会生活の昇華物であり、ここでは労働と金銭ばかりではなく、四
季さえもが廃絶されようとしている―調和の取れた生活リズムの遠い名残すらついに均一
化されてしまったのだ!
P20 夢の作業、詩的作業、意味の作業であったもの、すなわち区別された諸要素を生き生き
と結びつけることの上に成り立つ、移動と凝縮の大いなる図式、隠喩と矛盾の偉大な形態
はもう存在しない。
P21 潜在的大満足や全面的豊富あるいは決定的な奇跡を受けた者の最後の歓喜の予め予想
された反映にほかならず、この歓喜への狂おしい希望こそが月並みな日常生活の糧となっ
ている。
P23
我々自身がその正当な相続人である好意的な神話的審級、つまり技術、進歩、経済成
長などによって分配されたものとして現れ、この限りにおいては、やはり日常生活の奇跡
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となっているのだから。
P24 ある意味では、イメージや事実や情報によって一般化された消費も、現実の記号によ
って現実を祓いのけ、変化の記号によって歴史を祓いのけることを目的としているといえ
よう。
P26 イメージ、記号、メッセージ、われわれが消費するこれらのすべては、現実世界との
距離によって封印された我々の平穏であり、この平穏は現実の暴力的な暗示によって、危
険にさらされるどころかあやされているほどだ。
P33
製品や機械がどんどん廃棄され、特定の欲求を満たすための旧式の構造が破壊され、
生活の役に立ちそうもない偽の新発明が次々に生まれている。
P36 生産されたものは全て生産されたという事実によって神聖化される。
P39 つまり、個人にせよ社会にせよ、ただ生き長らえるだけでなく、本当に生きていると
感じられるのは、過剰や余分を消費することができるからなのである。
【解答】
豊かなものの象徴である山積みにされた商品の段階を超え、モノはパノプリ(セット)
やコレクションに組織されるようになった。バラで売られていた形態は終わり、家財道具
一式揃えるといった物をセットで買うようになった。更に、セットでモノが売られること
によって商品同士が互いの価値を意味付け合うようになった。相乗効果も兼ねて商品は形
を変え消費の仕方を変えてしまった。モノを買わせる工夫を凝らし人間がモノを買うよう
に誘導されているのである。マルシェのような市場とは違い、ドラッグストアのような建
物ができ複合的な店舗が誕生した。その店舗にはモノを売る店以外にもサービスが充実し
ている。ドラッグストアや現代的な空港などの未来都市的で体系的な雰囲気の組織化へと
発展し、成熟した段階に至ったのだ。そして、組織化・物質化としての消費の中心となっ
た。幸福がストレスの解消だと抽象的に定義され、すべてが安易に無意識に消費される。
また、商業センターや未来都市の規模にまで拡大されたドラッグストアはあらゆる現実生
活、客観的社会生活の昇華物であり、季節感を取り入れるといった調和の取れた生活リズ
ムの遠い名残すら穏やかな一面だけを切り取り均一化してしまった。夢の作業、詩的作業、
意味の作業であったものは存在せず、生活に潜んでいた矛盾がない均質な諸要素の永遠の
交代があるばかりだ。
人間は理解出来ない唐突な奇跡を求める。空を飛ぶ飛行機を陸に招くために土を均すメ
ラネシア人のように奇跡を願う希望こそが日常生活の糧であった。現在でもそれらが常日
頃から起きるようになった。技術・進歩・経済成長などの要素によって人は奇跡を得られ
るようになったのだ。例えば、テレビが映す娯楽という名の奇跡は奇跡であることをやめ
ずに際限なく繰り返される。メラネシア人が魔術への信頼を失わないように奇跡は続くの
である。発展途上国の諸民族が西欧からの支援援助を何の不思議もなくずっと昔から奪わ
れ続けた彼らに帰すべきことになっていたものとして受け取る。現代人は豊かさを正当な
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譲渡できない権利があるのだと思い込んでいるにもかかわらず、豊かさを自然の結果とし
て受け取っている。我々自身がその正当な相続人であるという好意的な神話的判断で受け
取っているということはこれもまた奇跡を得ているといっても過言ではない。これらはす
べて記号によって守られている。将軍護衛の任務を受けた秘密警察部隊の射撃訓練をテロ
行為への前触れとして報道したマスコミのように記号は都合の良い眩惑を人々に見せて情
報というモノを消費させるのだ。記号は現実や歴史といった人々を抑圧するものを祓いの
ける。人間が消費するイメージ、記号、メッセージは現実の暴力的な暗示によって平穏な
日常生活が脅かされるどころか馴染んでしまっている。
浪費によって人は幸せというものを感じる。現代ではその傾向が強まり、浪費する行為
が段々と過激になっている。旧式のものが捨てられ不必要なモノが誕生し神聖化された過
剰な生産の所業によって公害が生まれるようになってしまった。発展の代償として起きた
公害は消費の構造そのものの結果である。モノを売るために物の価値を増加するのではな
く既存のものから奪い取りそれを繰り返して新しいものを買わせようと社会は動いている。
消費社会が存在するためには急激に創造されたものを維持するために不必要なものを破壊
することが必要だ。
問2.消費はどのように行われるのか。以下のキーワードを用いて、モノと消費の関係を
明らかにせよ。【差異化、交換、記号】<第二章参考>
【引用】
p.67
消費過程は次の二つの根本的側面において分析可能となる。すなわち、
(一)消費活
動がそのなかに組み込まれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づ
いた意味づけとコミュニケーションの過程としての側面。この場合消費は交換システムで
あって、言語活動と同じである。…(二)分類と社会的差異化の過程としての側面。この
場合、記号としてのモノはコードにおける意味上の差異としてだけでなく、ヒエラルキー
のなかの地位上の価値として秩序づけられる。
p.68 人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。…人び
とは自分を他者と区別する記号としてモノを常に操作している。
p.96
モノと享受の方へ導かれるように見える消費行動は…差異表示記号を通じた価値の
社会的コードの生産といった他の目的に対応している。したがって決定的な力をもつのは
モノの集まりを貫く利害関心という個人的機能ではなくて、記号の集まりを通しての諸価
値の交換・伝達・分配という直接的に社会的な機能である。
p.96
消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー
的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造で
もある。
同上
p.97
消費は享受を排除するものとして定義される。
人びとはコード化された価値の生産と交換の普遍的システムに入り込み、すべての
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消費者は知らないうちのこのシステムの中で互いに巻き込みあっているからである。
p.98
財や差異化された記号としてのモノの流通・購買・販売・取得は今日ではわれわれ
に言語活動でありコードであって、それによって社会全体が伝達しあい語りあっている。
これが消費の構造でありその言語である。
消費とは一つのまとまった価値システムであって、システムという用語が集団統
p.101
合と社会的管理の機能として含みもっているすべての要素を伴っている。
したがって、この差異化のシステムの機能は権威への欲求の充足を越えている…
p.120
このようにコード化された差異は諸個人を分割するどころか。反対に交換用具になる。
【解答】
消費の過程には二つの側面がある。一つは消費活動が消費の中に組み込まれ、コード化
に基づいた価値の生産と交換のシステムとコミュニケーションの過程としての側面である。
“消費する”とは一般的にはモノの機能的使用や所有を表す。例えば、ポケットがたくさ
んついたカバンを使用して便利という思いを持つことは、カバンの機能的使用つまり、モ
ノを享受していると言える。カバンそのもの(モノ)自体に使用価値を見出しているので
ある。しかし、ここで言われる消費とは、モノの上に付与された記号を消費することであ
る。例えば、ルイ・ヴィトンのバッグを使っている人は、バックそのものに使用価値を感
じているのではない。ルイ・ヴィトンという記号化されたモノを持つことで、自分を他者
と差異化できる点に価値を感じているのである。これは、本当にバッグ(モノ)を消費し
ているのではなく、自分と他者とを区別する記号として操作しているのである。また、消
費とは財と生産物の機能的で生命保持のシステムから記号の社会学的システムにとって代
わっているという点で、ある種のコミュニケーション作用を有している。
もう一つは、分類と社会的差異化の過程としての側面である。消費は社会の差異化を強化
する。人は自分で自由に選んで他人と違う行動をしたつもりでも、その行動そのものが差
異化へと強制やコードへの服従となっている。人はそれに気づかず、そもそも満足するこ
とのできない記号の消費を次々と行っていくのである。
問3.P141「コミュニオンはもはや象徴的媒体によってではなく、技術的媒体によって行
われるのであって、この意味でコミュニオンはコミュニケーションとなる。」とあるが、
消費によって何が行われているのか。以下のキーワードを用いて述べよ。【マス・コミュ
ニケーション、コミュニケーション、集団、記号】<第三章参考>
【引用】
P141
彼らが望んでいたのはコミュニオン(聖体拝領)、というよりその現代的かつ技術的
で無味乾燥な形態であるコミュニケーション、つまり「接触」だったのである。…この場
合には、コミュニオンの儀式がもはや肉と血を象徴するパンとブドウ酒を媒介とせずに、
マス・メディア(メッセージだけでなく放送施設・放送網・放送局・受信機そしてもちろ
んプロデューサーと聴取者をも含む)を媒介として行われている。
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同上
したがって、コミュニケーションにおいて分かち与えられるのはもはやひとつの文
化つまり集団の現実に活動している姿(それはかつて儀式と祭りの象徴的機能と新陳代謝
機能を担っていた)ではないし、まして厳密な意味での知識でもなく、記号と準拠、学校
教育のおぼろげな記憶と流行の知的信号などの奇妙な集合体である。
P143
マス・コミュニケーションは技術的媒体と最少共通文化の媒体(そこに参加する大
衆の実数ではない)の組み合わせとして規定される。
P161
いいかえれば、モノは象徴的意味と何千年も続いた擬人化された地位を失い、もろ
もろの派生的意味作用の言説のなかにのみこまれようとしているのだし、それらの派生的
意味作用もまた、互いに関係しあいながら全体主義的な(つまりそれらのもとになったあ
らゆる意味作用を統合できる)文化システムの枠内へとのみこまれようとしている。
P177
マス・メディアの機能は、世界がもっている現実に生きられた-一回限りの-出来
事としての性格を中和し、互いに意味を補完しあい指示しあう同質な各種のメディアから
なる多元的な世界で現実の世界をおきかえてしまうことだ。
【解答】
コミュニオン、それはすなわち儀式を通して参加している人々が一体になることを示す。
聖体拝領に参加する人はキリストの肉と血を象徴するパンとブドウ酒を口にする。それは、
同じものを食べた人々が身も心も同じものになる、つまり一体であることを表していた。
そこで分かち与えられていたのは、共同体の意識であり、精神的な繋がりである。同じ場
所に集まる集団が儀式を行う活動を通して、人は他者全体と自分自身の関係を確認してい
た。
消費という儀式において行われているものは、心も体も一体となるというよりかはむし
ろ分離した個人の集合である。今日では、この他者全体と自分自身の関係を確認する儀式
は技術的媒体を用いて行われる。それぞれが違う場所にいても、技術的媒体を用いれば、
他者と同じ記号を持つことで自分の所属を確認することが出来るのである。マス・コミュ
ニケーションは人びとに遠くにいても通じ合える技術的媒体と最少共通文化の媒体を与え
てくれる。そこで人びとが求めているのは、コミュニオンとは質の異なる、集団に属して
いるというイメージである。したがって彼らが同じ場所にいる必要はないし、そして彼ら
が消費によって得ている一体感に親密さは含まれていない。
こうして、人々の間で行われていた儀式は、以前の儀式の意味でのコミュニオンという
よりかはむしろ、単なる接触という意味でコミュニケーションとなる。この無味乾燥な形
態のコミュニケーションにおいて分かち与えられるのは、自分が集団の一員であるという
記号だ。
こうしてモノは、象徴的意味と地位を失い、誰もが手に入れることの出来る、集団所属
へとつながる記号となってしまった。消費によって行われているのは、自分自身と他者全
体との関係の調整であって、人々はモノを記号として用いて関係を操作する。一つしかな
いモノを分かち合うことがどのような影響を人々に与えていたのかということなど、人は
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すっかり忘れてしまった。
問4.ボードリヤールは本文献を用いて、現代社会に警鐘を鳴らしている。これまでの内
容を踏まえた上で、それは何か答えよ。<第四章参考>
【引用】
P297 われわれは行為によって自分のまわりにわれわれの姿に似せた世界を作り上げる。
同上
-わたしは私自身にとってひとりの他者となる、つまり疎外される。
もしある人が自分自身であるのならば、「本当に」自分自身になる必要があるのだ
P.111
ろうか
P302 消費過程はもはや労働過程でも止揚の過程でもなく、記号を吸収し記号によって吸収
される過程である。
P303 消費的人間は自分自身の欲求と自分の労働の生産物を直視することもなければ、自分
自身の像と向かい合うこともない。
P304 消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。
同上
メ
ー
ム
「同一なるもの」や「同一なるものとしての主体」はもはや存在せず、したがって
同一なるものの他者性も本来の意味でも疎外も存在しなくなっているからだ。
同上
この意味で、消費は遊び的であり、消費の遊び性が自己証明の悲劇性に徐々に取っ
てかわったということができる。
【解答】
ボードリヤールは本書で「記号」というものに振り回され、その本質を見ようとしない
社会や人々を痛烈に批判している。ルイ・ヴィトンを例に挙げてみる。ルイ・ヴィトンの
バックが 20 万円で売っているとしよう。そして、ルイ・ヴィトンのバックと全く同じ革で
つくられた無名のバックが 2 万円で売っている。多くの人々はルイ・ヴィトンの名を知っ
ており、特に女性のなかではそのルイ・ヴィトンのものを持つことが一つのステータスと
なっている。人々は「ルイ・ヴィトン」のバックがほしいのであって、「ルイ・ヴィトンと
同じ生地」を使ったバックには興味がないのである。本来、一つのモノを作るのにかかっ
た労力、原料、能力にたいして価値があり、そうして作られたものが本当の意味での生産
とされていた。しかし、ルイ・ヴィトンというブランドの名ばかりが先行し、本来重視さ
れるべき、その素材、労力、技術は軽視されてきた。このように、ブランドの名に付随し
てきた「記号」という実際の使用価値よりも高く売るための、価値のないものに私たちは
多くの対価を支払っているのである。
特に最近の日本ではその傾向が顕著に現れている場面がある。それは海外からの偽ブラ
ンド品が氾濫していることだ。これに対して、ブランド側は「ブランドの本来の価値を下
げるもの」として厳しくとりしまっている。しかし、そのブランド側がいう「本来の価値」
とは一体何だろうか。モノにたいする原価だろうか、技術だろうか。彼らがいう「本来の
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ボードリヤール『消費社会の神話と構造』担当班解答
担当班:竹崎、渡辺、水野、塙
価値」とはもともと存在しなかったのである。人々はルイ・ヴィトンというブランド名だ
けをもとめ、偽物をあたかも本物のかのようにもつ。「私たちは、ルイ・ヴィトンの生地や
技術はどうでもいいのよ、このロゴマークが欲しいの」という声が今にも聞こえてきそう
ではないだろうか。
私たちはこのように「記号」が氾濫した世の中で、もはや記号でしか物事を判断できなく
なっているのでる。記号ばかりを求めると同時に、本当の自分を見失ってしまったのであ
る。消費というものに私たちはすべてをもとめ、消費こそが私たちの幸福の源であり、幸
福そのものであると考えるようになってしまったのである。私たちは商品がもつ本当の価
値を「記号」に紛らわされることなく、見極める必要がある。そうすることで、記号化し
た自分から脱却することができ、「モノ対人」の関係から「人対人」へと変わることができ
るだろう。
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