6月23日分のレジュメ

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社会学概論レジュメ 2008.6.23.Mon. 文責:薄葉([email protected])
A. 前回の復習とみんなのレポート
1. ネットワークとしての自己
2. みんなのレポートから
a. 進学・進級
『ネットワークと成長』
私の高校のときの友達は本当にお互いに信頼し、尊敬しあえる人たちばかりで、だからこそできる暗黙の了解や話のネ
タなど、その時の友達ならではのルールがあった。しかし、大学に進学することで皆と離れてしまうことになり、大学で
は全く新しい人たちと接することになった。大学で出会った人は皆良い人たちばかりなのだが、昔のように専門的な知識
を楽しそうに話してくれる人や、自分のキャラを持っていて自信を持って行動する人はいず、まして、私は高校ではずっ
と2番手3番手で行動してきたのに、急にリーダーとなって行動したりなど、自分のポジションさえ変わってしまい、初
めは新しい環境に馴染めず毎日悩んで、心のバランスをも崩してしまった。
しかし、ある日私は『昔にとらわれず、前を向こう』と決心すると、新しい友達の良いところを見つけることができた
し、リーダーという立場としての経験も積むことができ、以前より断然成長することができた。これは、私のネットワー
クの『高校の友達』との関係が薄くなってバランスを崩してしまったうえに、全く接したことのないような『新しい友
達』が加わることで、さらにバランスが崩れてしまったが、考えを変えることで昔とは違う、新しいネットワークでバラ
ンスを安定させたのだ。
このように、ネットワークのバランスを崩すことが、自分の成長に繋がることがあるのだ。私は、ネットワークは多様
であればあるほど良いと思う。さっきの私の体験で『心のバランスを崩す前に相談できる人がいれば・・』と思った。
ネットワークが多様なほど、激しく落ち込んだりしなかったのだ。よく、外交的な人に良い印象があるのは、外交的な人
は自分のネットワークを広げやすいので、何かあっても助けてくれる人脈をつくることができ、『どうしよう』と途方に
暮れることもなく、何事にも対処できる引き出しを持っているからであろう。だから私は、より自分のネットワークを広
げていきたいし、そうすることをまわりにも薦めたい。
『ネットワーク』
私は小学校、中学校、高校と、ずっと地元の公立校に通っていた。まず一番初めに大きなネットワークの変化があった
のは、小学校から中学校に上がるときだった。小学校のときに特に仲の良かったグループの友達がほぼ全員中学受験をし
て、別々の中学校に行ったため、私は中学校で新しいネットワークを作らざるを得なくなった。そして試行錯誤の果て、
最終的にできた新しいネットワークは前のものとは全く違う質のものであった。
中学校から高校にかけてはほぼ同じメンバーのネットワークであったが、大学生となり、進路の関係で皆がバラバラに
なったことによって、私のネットワークは再び崩れた。そして私は大学内でネットワークを新たに形成した。その質は中
学、高校時代のそれと基本的な性質が似ており、このネットワークは前回のネットワークを穴埋めする形であると思われ
る。
これらの私の友人関係におけるネットワークで最も大きな変化は私の立ち位置である。小、中、大学の変化の中で、私
はかつてのネットワークの友人達が立っていた位置と似た位置に、次のネットワークでは立っていた。その友人に私は無
意識のうちに憧れていたのかもしれない。だから自分がその位置に立てるように、次のネットワークを形成したと考えら
れる。だが、現在の友人にそのタイプがおらず、穴埋めをするために自分をその位置に持っていったとも考えられる。今
後、その辺りを見極めていきたいと思う。
b. 転居・転校
『ネットワークとしての自己理論で考える私の友人関係』
私の家は、父の仕事の関係で引っ越しが多かった。しかしながら、どこに行っても気が付くと同じような友人のネット
ワークが出来ている。このことは、ネットワーク理論をもとに考えると当然のことのように思える。なぜなら、引越しを
するということは、一度、もともとの友人関係のネットワークは薄くなる。その代わりに新しい友人ネットワークを形成
するわけであるが、もともとのネットワークに近いものであれば、居心地がよく、慣れた環境を形成でき、自分の振る舞
いも、それまでとあまり変えずに安定したものとなる。私は、知人が多く、誰とでも仲が良いとよく言われるのだが、そ
の実、ある特定の本当に仲のよい一人か二人のわずかな人間との関係をとても重視する。どこに引越ししてもいつも一緒
にいる特定の人物がいた。
しかしながら、大学に入学してから、今にいたるまで、本当に知人は多いのだが、そういった特定の人物がいない。そ
の為か、私はたまに孤独な気持ちになり、不安定なことが多くなったと思う。よく周りの友達に「友達がいない」と冗談
交じりにもらすと、「たくさん友達いるじゃん」言われるのだが、何か違うと感じる。これらは私の中の今まで一番安定
していたネットワークの形が変容した為と考えられる。しかしながら、私はこの変容を肯定的なものと捉え、新しいネッ
トワークの形を形成するきっかけとしていく必要があるだろう。また、類は友を呼ぶといったことも、安定したネット
ワークを築く上で必然的に起こることとして捉えることが出来るかもしれないと今回の授業で感じた。
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c. 不登校・引きこもり
『脱皮』
私は、高校二年生の時に不登校になった。理由として、身体の調子が悪くなり頻繁に学校を休み始め、その結果授業に
遅れ学校に行きづらくなったからである。しばらくして、身体の調子は良くなったのだが、学校へは行きたいと思わず、
いわゆる「引きこもり」状態に陥ったのだ。そして私は、あまり外にも出なくなり、外部とのネットワークもとらなく
なった。家という狭い空間の中で過ごしていく内に、私はごく少数の人々(家族)としか関係を持たず、極端な依存関係
になっていく。こうした行動が「引きこもり」だと気付いた家族は、私の見えない所で家族会議を始め、私の今後につい
て議論した。母と姉と兄はカウンセリングを受けることを勧めたが、父は世間体を気にする人で受けることがいいと思っ
ていなかった。私も父と同様、あまりカウンセリングを受ける事に気が進まずにいた。しかし、永遠にこの状態を続ける
事も出来ない。親も歳をとるし、学校の友達とはますます疎遠になっていく。私は、まずカウンセリングを受けに行く事
から始め、除除に外の世界に慣れていこうと決心した。だが、依存している事にはかわりなく、母は勤務中にもかかわら
ず、有給を取りカウンセリングに連れて行ってくれたのだ。カウンセリングは週一で行われ、その度に母は休みを取る。
おそらく母は、何度も仕事を途中で抜け出す事で、周囲との関係が希薄になり多少なりともきまずい思いをしただろう。
一方、私は数回カウンセリングを受けることで、精神的にも安定し、物事を明るく考えられる様になったが、その頃には
もう高校3年生であり、学校に行っていなかったので留年は確定だった。そのせいか、私はまた元の関係に戻りつつあっ
た。しかし、親しかった学校の先生の助言もあり、不安もあったが新しい環境を求め、私は定時制高校に行く事を決め
た。
私はこうした体験を踏まえることで、改めて「ネットワークとしての自己」がいかに大切かが認識できた。人は生きて
いる限り決して一人では生きられず、他者と関わらざるを得ない。そのため、他者との関係に疲れて人間関係自体を断と
うとする人もいる。そしてその場から脱却し、自分が安心する環境へ逃げてしまう。だが、安心する環境へいく事が必ず
しも楽になるとはいえないのだ。ツケはあとで回って来る。ネットワークは常に変容し、人間は「変化」や「不安定」に
悩まされるが、それをいかに前向きに捉え活用するかが大事だ。しかしそれが簡単にいかないから「引きこもり」という
楽園に留まってしまうのかもしれない。
d. 失恋
『ネットワークの変化で得るもの』
ちょうど1年前、私は大失恋をした。相手は高校3年生の始めから1年間付き合ってきた人で、私にとっては今までで
1番好きになった人だった。しかし卒業後、私は地元から京都の大学へ行き、彼は地元に就職したので遠距離になった。
初めは大丈夫だと思っていた。しかし私は田舎から都会に出たということと、周りの影響もあり、髪を染め化粧も濃く
なった。地元の友達は私のプリクラを見てとても驚いたらしい。でも学校や周りはみんなそんな感じだし、自分自身中身
は変わったつもりはなかったので、そこまで変化したつもりはなかった。
しかし彼は違った。彼は高校を卒業していきなり社会の一員となり、髪は黒に染めなければならなかったし、休みが平
日のため地元の友達と遊ぶことすらできなくなっていた。周りは大人ばかりで、いつも大勢の友達といた彼にとってこの
自分を取り巻く環境や人間関係の変化はとても辛かったに違いない。
そしてある日、彼はいきなり私に別れを告げた。電話にも出てもらえなかったので話し合いすらできなかった。私は毎
日泣き、ご飯もほとんど食べなかった。地元に帰りたい、何で自分はここにいるんだろう、それしか考えてなかった。一
番頼りたい親友達も地元にいるので、私は出てきた事に後悔しかなかった。
しかしそんな私を救ってくれたのは、大学の友達だった。その子たちは話を聞いてくれて、励ましてくれて、元気づけ
てくれた。だから学校にだけは行っていた。正直それまでは、大学の友達は大学4年間だけの付き合いで、地元の友達を
超える友達なんかできないと思っていたし、それでよかった。しかしそんな風に思っていた事を深く反省した。地元から
出てこなければ出来なかったこの関係を、もっともっと大切にしていこうと思った。
その後、地元の友達に聞いた話だが、彼はただでさえ遠距離で辛かったのに加え、私の見た目が変わってしまったこ
と、自分と私との環境の違い、そういうものが全部重なって、別れを選んだらしい。それを聞いた時はやっぱり辛かっ
た。しかし今はもう、何で出てきてしまったんだろう、とは思わない。こっちに来てから確かに人間関係や自分を取り巻
くネットワークは変化した。彼のネットワークが変化したことも今では理解できる。しかし出てきた事でできた新しい
ネットワークも今となっては私にはなくてはならない大切なネットワークだ。このネットワークがなければ私は立ち直る
事はできなかっただろう。なので今回の事で、私はネットワークを増やすことはとても大切だという事を学んだと思う。
e. 高齢者のネットワーク
『ネットワークとしての自己』
私は現在82歳の祖父がいる。祖父は、定年退職まで富士電機で働いていた。その後、庭の剪定師として、70歳頃ま
でばりばり働き、健康であったが仕事を辞め、家で祖母と穏やかに生活する事を選んだ。家の家事はすべて祖母がし、祖
父は指示するだけであった。祖父と祖母はたまに喧嘩はしていたものの、円満な生活を送り、祖父はどんな時も祖母と一
緒であった。しかし、祖父が仕事をしなくなってから、しばしば喧嘩をするようになった。そしてある日、大喧嘩をした
らしく、祖母が長野から京都にある私達の家に家出してきた。祖父は1人で生活したことがないため、寂しく、辛い毎日
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が続いていたに違いない。数ヶ月が過ぎ、祖父は急に夜中の3時に「今から祖母を迎に行く」と電話してきたのだ。その
時祖父は75歳を超えていた。高速道路を一人夜中に運転するなんて考えられない年齢だったが、無事に京都まで着い
た。寂しくなって、祖母に帰ってきてほしくてしたなんでもない事としてとらえていたが、この事を境に、祖父は人が変
わったかのようになり、精神病にまでなってしまった。周りからしたらただの夫婦喧嘩であった。しかし、仕事を辞めて
から他の仕事の同僚とのネットワークがなくなり、夫婦の仲も悪くなり、ついには、ずっと一緒だった祖母と離れた事で
一切のネットワークがなくなってしまったのだ。若いころのネットワークが崩れる関係とはまた違って、もうネットワー
クを回復させて新たな関係を作る場はここといってなく、立ち直る事が難しくなっていたのではないかと、今回、「ネッ
トワークとしての自己」の授業を受けて思い返した。あの時、祖母と祖父の仲介に入り、長野に祖母をすぐに帰していた
ら、祖父は病気にならずにすんでいたのだろうか・・・と考える。人と人との関係はすごく大切なんだということがまじ
まじと感じられた。
f. 「重要な他者」の死
1) 友人
『命の大切さ』
私もベーダと同じように、仲のよかった友達を4ヶ月前に亡くした。その友達は病気でもなく、事故だった。しかも
バイク事故や、そうゆう事故ではなく、たまたまこけて、たまたま打ち所が悪くて、亡くなったのである。とても急す
ぎて信じられなかった。お通夜に行って、もう意識のない友達を見ても信じられなかった。というより信じたくなかっ
た。現実をみることができなくて毎日泣き、私が生きていていいのかと本気で考えた。生きていることが当たり前で、
明日が必ずくると思い込んで生きてきたことに、そのときやっと気付き、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。将来の
夢に向かって頑張っており、私の何倍も頑張っていた友達が亡くなってしまい、何も考えず、ただ今を生きていた自分
が生きているという現実が恥ずかしくて仕方なかった。同じ年齢の知り合いと、永遠のお別れをしたのは始めてだった
ので、私の中でこのお別れはとても大きく、考え方が180度変わったのである。命の大切さを教えてもらった。
また、私の不安定な心を支えてくれたのは、同じ思いをした友達であり、私の気持ちを理解してくれていた両親で
あった。大切な友達は、実際にはもうこの世にはいないが、私たちの記憶や思い出の中では生き続けているのである。
そう言ってくれて、心の中にぽっかりと空いてしまった穴が少し埋まった気がした。先生のレジュメにも書いてあった
言葉、「人は死んだら単に骨になるだけではない。遺された人々の記憶の中で生き続けているのである。」この言葉
で、私は友達の分まで頑張って生きると決めた。こんなにも早く逝ってしまった友達は、私をはじめ、多くの人に、忘
れてしまいがちだが決して忘れてはいけない命の大切さを教えてくれた。そんな友達にとても感謝している。
2) ペット
『家族のネットワーク』
私の家には5年前からネコを飼っている。このネコはメルと言い我が家の癒しである。とても淋しがりやで一人にな
るとメルは家族の後を付いてきたり、甘えるように鳴いてくる。子どもの手が離れた母にとってはメルがとても可愛
く、自分の子どものように接していた。私はあまりメルとは、仲良くなかったので、メル中心の母や妹が何でも家の行
事を決めていた。また、メルを通して家族のコミュニケーションをとっていた。家を出て行った兄もメルに会いに家へ
帰って来ていた。
しかし、メルが突然の病気に罹り発症から3日後に亡くなってしまった。家族全員が悲しんだが、母と妹は毎日泣い
ていた。母はいつも一緒に寝ていたメルがいなくなり、よく眠れず、また食事もあまり取らなくなった。また、今まで
は家族でリビングで話をすることがほとんどだったが、妹は部屋へこもり、父も重い雰囲気が嫌なのかリビングに出て
こなくなってしまった。また、兄も家へ帰ってこなくなってしまった。メルがいなくなり家族がお互い気を使い話さな
くなってしまった。
そこで私は回復をしようと家族の中で、母が明るく家族を盛り上げていたことを、私が家族に元気ができるように話
すようになった。兄には、メールをマメに送るようになった。妹とは、今まで遊びへ行ったことがなかったが、遊びへ
行くようになった。今まで、母が家族へ行っていた役割を私が行ったことになる。私がそのようにすることにより少し
ずつ家族の中が戻ってきた。メルがいなくても家族がリビングに集まり、話すようになった。兄も母を心配して前より
は帰ってくるのが増えた。父も母と一緒に気分転換に出かけるようになった。母はそのことにより元気を取り戻し、今
では前と同じように家族の中心になった話をしている。
家族にとってメルの死により家族間のネットワークのバランスがくずれてしまってが、一人の働きにより、みんなが
動きまたネットワークが回復した。どんな悲しい出来事で自己のネットワークが崩れても回復していくのである。
3) 親族
『祖母の死からみた人間関係と自己』
今年の6月5日、私の親戚のおばあさんが97歳で永眠した。彼女は私にとってかけがえのない存在だった。というの
も、私が生まれる前に両親の親たちは亡くなっていたために、私は祖父や祖母の顔を知らなかったからである。つま
り、彼女が私の実の祖母のような存在だったのである。戦時中、東京から疎開してきた彼女は関西弁をまったく話さ
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ず、おばあさんとは言えないくらい、新しいものが大好きだった。また、おしゃべりが大好きで、GWで帰ったとき
も、一緒に延々と喋り続けていた。足腰もしっかりしていて、畑もコツコツして、よく一緒に散歩していた。祭りのと
きは、90歳超えていても一緒に町中、歩いて回ってたいたくらいである。まったく呆けず、このように元気だったにも
かかわらず、27日の夜、突然、下宿先に危篤の知らせが入った。急いで実家へ帰り、彼女の変わり果てた姿を見たとき
は、愕然とした。
6月5日、早朝5時、実家から今朝の4時に永眠したという知らせが入った。気長に私の話を聞いてくれた祖母はも
ういない。安心して自分を預けられる存在が1つ無くなったわけだ。しかし、このときは、まだ「死」と向き合ってい
ない自分がいた。生き返ることはないとわかっていながら、どこかそんな期待をしていたのかもしれない。葬儀が始ま
り、祖母の顔と対面したとき、「死」が確信になった。私の中でかろうじて張れていた1本の糸が切れた瞬間だった。
ただ、「泣く」というよりは、「崩れる」といった表現の方があっているように思う。その後、私は、ものすごく脱力
感に見舞われた。何もかもが嫌になったのだ。
このようになったにも関わらず、「死」を受け止められている自分が、今存在する。葬儀後、親戚同士で集まれば、
会話の中に、「あのときはこんなだったわね・・・。」といった会話が必ず入る。そんなとき、皆が生きていた頃の祖
母を思い出す。葬儀では、今までほとんど話をしなかった親戚とも顔を合わす。数年ぶりにあった従兄弟もいる。彼ら
との会和を通して、彼女の生き様を思い出す。思い出されるのは、よい面ばかりだ。悪い面もあったのだろうが、「死
人には勝てない」といわれるように、悪い面が消されていく。よい思い出を心に留めて置こうとする働きが人にはある
のかもしれない。
葬儀後、アルバイト先に行くと、数々の人から、「大丈夫か?」とか「気を落とさないで。」といわれたのだが、普
段から親しくしていた人からの言葉は本当に親身に感じられる。しかし、挨拶程度のつきあいの人から言われても、形
だけのように思える。人間関係と精神がつながっているというのは、確かにいえるのだと思った。また、一つの関係を
補おうとするならば、無くした関係と同じくらい深い付き合いが新たに必要になるのではないだろうか。
今、私は彼女のような生き方をしたいと思う。彼女の死によって齎された人間関係のバランスの動揺は、従兄弟や友
人などの新たな関係を形成させ、なりたい自分という「未来」へ踏み出す力を与えてくれた。人は1人では生きられな
い。今回の出来事によって、人のもつ温かみの大切さを改めて感じた。
B. 男同士の絆と交換される女
1. ホモソーシャルな欲望
a. ホモソーシャルとは?
アメリカの文芸批評家のセジウィック(Eve Kosofsky Sedgwick)は、18世紀中葉から19世紀中葉のイギリス文学を分析
し、小説に描かれた世界において男同士のあいだで抱かれる「ホモソーシャルな欲望」がいかに重要な位置を占めている
のかを明らかにした。
セジウィックによれば、「ホモソーシャル(homosocial)」という用語は歴史学や社会科学の領域でしばしば使われきた
言葉で、「同性間の社会的絆(social bonds between persons of the same sex)」を表す。日本語に訳すなら、「同質集
団的」「同質社会的」というところであろうか。この言葉は本来、男どうしの関係にも女どうしの関係にも適用可能だ
が、セジウィックは近代社会における「男同士の絆」(male bonding)に対してこの言葉を適用した。というのも、近代の
父権制(家父長制)社会における男同士の関係は、「同性愛嫌悪(homophobia)」と「女性嫌悪(misogyny)」に基づいた特
異な体制だからである。
「同性愛(homosexual)」という言葉と類似しているので紛らわしいが、「ホモソーシャル(homosocial)」は基本的には
「異性愛(heterosexual)体制」であり、「異性愛を維持するための装置」なのである。
注:私たちは日常的な感覚においてごくごく自然に、性愛を含んだ愛情(要するに恋愛感情)は男女の間で成立するも
のだと考えている。男性が女性に、女性が男性に愛情をいだくことは「自然なこと」とされているが、男性(女性)が
男性(女性)に恋愛感情を持つことはどこか「不自然なこと」と見なされているのだ。
しかし、現在の私たちが当たり前と感じるような男女間の愛情のあり方(異性愛)は、太古の昔から変わることなく
存在してきたわけではない。例えば古代ギリシア社会では、男性同性愛は広範に見られた合法的行為であり、文化のな
かでも極めて大きな影響力をもっていた。日本社会でも、男色が武将のたしなみの一つであったことはよく知られてい
る。
ジェンダー・セクシャリティー研究によれば、異性愛が性愛の規範(あるべき性愛のあり方)として確立するように
なったのは近代になってからのことなのである。そして、異性愛が「規範」として制度化される過程と並行して、同性
愛は「逸脱」として排除・抑圧されるようになっていった。つまり、同性同士での愛情を禁止することを通じてはじめ
て、異性同士での愛情が普通のこと・自然なこととして構築されたのである。
性愛のような一見、生物学的・本能的に規定されているように思える事柄も、しばしば文化的・社会的な影響によっ
て左右されることがあるわけである。
ジラールの「欲望の三角形」の議論を、男二人に女一人の三角関係に当てはめてみよう。男二人は女一人を求めて競争
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関係に入る。それでは、男性にとって「女性との絆」と、「ライバルとの絆」のどちらの強度が勝るのか。「男性のホモ
ソーシャルな関係が女性への愛よりも優先する」というのが父権制であり、この三角形は最終的に「女性の排除」と「男
性どうしの絆の強化」に奉仕するだけである、というのがセジウィックの見解である。
注:同一対象をめぐってのS-M間の競争が激しくなればなるほど、対象Oの影が薄くなっていくというジラールの議
論(相互媒介)を思い出してほしい。
b. 女性嫌悪と異性愛結婚
もっとも、女性は「コケットリー」の技術を使うなどして男性同士をライバルという形で結合させたり反目させたりす
るため、女性は男同士の連帯を乱す危険分子と見なされることになる。もし最終的に男性が女性を排除するか、包摂する
かたちで首尾よくコントロールできれば、男性のホモソーシャルな関係(絆)は強化されるが、これに失敗すると男性同
士の絆は断ち切られてしまう。女性は、男性にとって「魅惑の対象」であるとともに「恐怖の対象」となる。したがっ
て、ホモソーシャル体制は、異性愛体制でありながら、「女性への嫌悪と恐怖(=ミソジニー misogyny)」に色濃く染
め上げられることになるわけだ。
となると、「(異性愛)結婚」は、男性の絆を切り裂きかねない危険な女性を父権制へと回収し、男性関係を強化する
制度であると言える。「結婚」という名において女を「交換」することで、男同士の絆は確固たるものになるわけだ。つ
まり、ホモソーシャルな社会は異性愛を強制することで維持されるのである。
以下の図1は、ホモソーシャル体制における女性の交換-循環の構造を示したものである。ホモソーシャルな集団におい
て、異性愛の男同士の絆(=ホモソーシャルな関係、図1の①)に女性が介入すると、男同士のあいだには女の獲得をめ
ぐってライバル関係が発生することになる。しかし、父権制社会において、女は他の女と取り替えのきかない唯一無二の
存在ではなく、男性同士の関係を強化するためにある単なる「交換物」にすぎない。
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したがって、三角関係に陥り男同士の絆を壊して(図1の②)しまうことを避けるために、彼らはどちらかがその女を
あきらめて譲り、別の女を求める(図1の③)。以上のように、異性愛(結婚)を媒介とすることによって、男同士の絆
をより強固なものとするのが「ホモソーシャル体制」である。
そして、このホモソーシャル体制において男たちは、彼らの絆を危機的な状況にさらす女を嫌悪し、女同士が連帯して
力を持つことがないように、様々な価値をめぐって女達が反目し合い、孤立するようにさせる。そのため、女どうしの連
続体は形成されない(図1で、女性観の絆を示す横に繋がる線はない)。
男性と異性愛結婚した女性は、いわばホモソーシャルな集団(公的領域)から排除され、「男性の所有物」という形で
家族という私的な領域へと閉じ込められることとなる。
未婚女性も例外ではない。例えば、「職場の花」という形で会社などでちやほやされる女性は、男性社員全員の「共有
財」として、男性のあいだで象徴的に交換されることで、「男同士の絆」を深める働きをしているのである。しかもこう
した女性は、一見すると優遇されているように見えるが、集団の支配的なポジションに入ることはけっしてない。彼女に
求められるのは、あくまで男性メンバーを補佐することであって、彼女自身が意志決定をしたりすることはゆるされない
のである。「秘書」という役割はまさにその典型であろう。こうして女性は、ホモソーシャルな集団に残る場合でも、こ
のように「周縁的なポジション」に回され、男同士の絆を維持する機能を担わされることとなる。彼女たちはいわば、男
集団に「包摂されることによって排除された」と言えるだろう。
c. 同性愛嫌悪
また、男たちは、自分たちの絆が同性愛と間違われることを恐れ、極度に同性愛者を嫌う。あるいは、「男らしさ」を
維持するために、同性愛者や「女々しい男性(=同性愛者に近い男性)」を攻撃する。ホモソーシャル集団の男性がこと
さらに同性愛者(homosexual)を嫌うのは、実は自分たちのホモソーシャルな関係とホモセクシャルな関係が「紙一重」
の関係(連続体)にあるからである。
「男同士のあいだに強い絆が作られていればいるほど、それを同性愛と読み取られないように、(同性愛がことさら排
除されるようになった20世紀初頭以降では特に)彼らの同性愛嫌悪は強まっていく。自分たちの絆に潜んでいる心情
的・身体的なホモ・エロティシズムを、同性愛者という否定的なカテゴリーに押しつけ、自分たちが異性愛者であるこ
と―自分たちの身体が、女性を性的対象とする「男の身体」であること―を強調する」(竹村和子『フェミニズム』岩
波書店、2000年、74頁)
「同性愛嫌悪(homophobia)」の要因もここにある。男どうしが女という媒介なしに任意に私的で性的な関係を持つ
と、社会としての同質性が保てなくなってしまう。「同質」なものだけで構成された集団は、何かを排除することで自ら
の同一性を保とうとする。その時に排除される異質なものが「他者」と呼ばれるものである。同質な社会は必然的に「他
者嫌悪」を引き起こすわけだが、男性のホモソーシャルな社会において他者嫌悪が内側に向かうと「同性愛嫌悪」とな
り、外側に向かうと「女性嫌悪/蔑視」ということになるだろう。
こうして同性愛者(や、それに準じる者)を排除し、女同士の絆を阻むことによって、男同士の緊密な連帯関係=ホモ
ソーシャル体制を、男たちは維持・強化していくのである。
2. ホモソーシャル体制の事例分析:男子運動部の「女子マネージャー」
a. 女子マネージャーの誕生
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1) 男子運動部に女子マネージャーが登場し、そのマジョリティーが女性となったのは1960年代半ば以降
→ それ以前は運動部は女子禁制だった
2) メディアの影響
・ 青春ドラマ(1965年~)
・ 女子マネが主人公の少女マンガに登場(1970年代)
→ 以後、欠かせぬ存在へ
b. 70年代における女子マネージャーマンガの特徴
1) マイノリティー
ホモソーシャルな集団の中で生きること自体がドラマ
「女なのにマネージャーをする」
2) 性別役割分業
「母親役割」
・ 監督:父、マネージャー:母
・ 家事的な仕事(洗濯など)+雑用(グランド整備、紙ボールづくり、傷の手当て、etc.)
c. 女子マネージャー・アイデンティティーとホモソーシャルな構造
恋愛をめぐる葛藤
・ 「部内恋愛禁止」の原則
→マネージャーは「みんなの母」(共有物=交換財)
・ 実際に部員を愛してしまう
→主人公のこうした葛藤が大きなテーマとなる
3種類の欲望
・ ホモソーシャルな欲望(①)
男同士の友情・ライバル関係
ホモセクシャルな欲望の抑圧
・ 男性(部員)の女性(マネージャー)に対する異性愛(②)
男性部員の共有財(みんなのもの)として、男性間の絆を深める
・ 女性(マネージャー)の男性(部員)に対する異性愛(③)
「男集団の中に生きる男」が好き
①を美化する
女性も、男性のホモソーシャリティーを維持するのに一役買っている?
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d. 80年代以降の女子マネージャーマンガ
1) 脇役へ
・ 70年代:読者(少女)の同一化の対象としての女子マネージャー
→80年代に入ると少女マンガから姿を消す
・ 少年マンガのヒロイン・脇役へ
2) 欲望の推移
・ 70年代:「禁欲」イデオロギー
例:『あしたのジョー』(白木葉子の愛の告白を振り切って、男同士の戦いへと向かうジョー)
・ 80年代:「欲望」の解放
例:ラブコメ(異性愛的欲望)、女子マネージャーは(少年マンガの)読者の欲望の対象になる
e. そして現在?
課題
・ 女性が脇役ではなく「主体」であることが許され、また称揚される時代
・ スポーツにおいても、多くの領域に女子が進出
・ このような時代に、あえて女子マネージャーを引き受ける意義?
・ 「女性のホモソーシャル集団」はあり得るのか?
・ 男子部員と女子マネージャーの関係
・ 男子の監督と女子部員の関係
例:女子バレーの柳本ジャパン、
・ 女子の監督と女子部員の関係
例:女子ソフトボール、女子シンクロ、全体としては少数派?
C. 参考文献
・ Sedgwick,Eve Kosofsky 1985 Between Men:English Literature & Male Homosocial Desire Columbia
University Press(上田早苗・亀澤美由紀訳『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』名古屋大学出
版会
・ 阿部潔 2004「スポーツにおける「男同士の絆」―ホモソーシャルな関係の意味するもの」阿部潔・難波功士編『メ
ディア文化を読み解く技法―カルチュラル・スタディーズ・ジャパン』世界思想社、第8章
・ 石原千秋 2001「ホモソーシャル――夏目漱石『こヽろ』(小説)/向田邦子『あ・うん』(小説)/三田誠広『いちご同
盟』(小説)」『国文学』46-3
page.9
・ 大橋洋一 1996「クイアー・ファーザーの夢、クイアー・ネイションの夢~『こゝろ』とホモソーシャル」『漱石研
究』6
・ 高井昌史 2004「メディアの中のスポーツとジェンダー―「女子マネージャー」という物語の誕生」阿部潔・難波功
士編『メディア文化を読み解く技法―カルチュラル・スタディーズ・ジャパン』世界思想社、第8章
・ 塚本靖代 1999「ホモソーシャル体制の中の「妹」―「それから」を例として」『言語情報科学研究』4