何のたわごと車ません

臥龍 が三 は緑な り
松 高同窓会東京 支部会報 一 一 一
平成 10年 度 (第 41回 )支 部大会号
新 潟 県 立村松 高等 学校 同窓 会 東京 支部
NQa5
%田 田田田田田四 %%田 脳田四 %%%四 %四 %%%田
第41回
田四 %%四 %田 四 %%%田
XNN渓
渓演田
東京支部大会 プ ログラム
平 成 10年 6月 6日 (土 )午 後 2時
会場・ 品川プリンスホテル「苗場」
◎準
備
場内指令 (段 取 ・渉外 )… …………………………………………… 伊藤 勇五、割 II 恒夫、大橋 貞夫
案 内 (総 合 )・ …………………………………………………… 武藤 二郎、関
孝世、鈴木 節子
小島 典子、真水 道子
・
……………………………………………
受 付 (総合 来賓 )・
斉藤 和男、岡本 和子、笠原 静夫
…… … … … … … … … 溜
(1日 中・1敗 )・・
卜 、針
甥 、麟
肝
小林 早月、向山 律子
……………………………………………
(高 校 男子 )・
新井 康夫、山崎 輝雄、石黒 四郎
調
蛸
(高校 女子 )… …………………………………………Ⅲ 山西愈佐子、本村 孝子、中島 和子
渡辺 厚子
(景 品受付及び会報等配布 )… …………………………・ 渡辺 八郎、沢出 赳允、山下由紀子
近藤 燦子、徳永 道子
・
……………………………………………………………
会場設営
鈴木多喜男、広田 達衛、佐久間英輔
・
………………………………………………………………
司 会
青木
猛、深見 洋子
◎第一部
会
総
………………………………………………………………………………………… 佐伯 益■
支部長挨拶 Ⅲ
・
…………………………………………………………
………………………………… 伊藤 勇五
来賓紹介
同窓会長挨拶 ・……………………………………………………………………………………… 茂野 敏郎
学校長挨拶 …………………………………………………………………………………………・ 内田
…………………………………………………………………・
・ 鶴巻
平成 9年 度経過及び会計報告 Ⅲ
会計監査報告 ・……………………………………………………………………………………… 塚田
力
浩
勝
類 曜
◎第二部 懇親会
合唱 ・……………「旧校歌=塵 の巻を遠ざ│力 奮J… ……………………………………………・ 田代 信雄
………………………………………………………………………………………Ⅲ 出鵬 帥
瑯
中から
フラダンス ・………………………………………………………………………………… マープナの皆さん
越後民謡 ……………………………………………………………………・ 東京新潟県人会同好会の皆さん
抽選会 ・……………………………………………………………- 1劇 II 恒夫、佐久間英輔、大橋 貞夫
中島 和子、近藤 燦子、徳永 道子
校歌・応援歌ほか ……………………………・…………………………………………………………Ⅲ 全 員
手
締
め
・ ・・ ・・・ ・ ・・ ・ ・
・ ・・・ ・ ・・ ・ ・・・ ・・ ・ ・・ ・・・・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・・ ‐
…
・・
…
・・ ・・・
…
・ ・・・ ・・ ・ ・・ ・・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・・・ ・・ ・ ・・ ・ ・・ ・
‐
・・
‐
・ ・・・ ・ ・・ ・ ・・ ・・・ ・・・ ・・
部
支
長
万歳三唱 ・………………………………………………………………………………………………… 校 長
閉会挨拶 ……………………………………………………………………………………………・ 八木又‐郎
(表紙写真 について)
昭和 47年 5月 、全国植樹祭 に昭和天皇が新潟則 │1町胎内平 に行幸の際、新津 ―村上間を走行 したお召 し列車を
牽引した機関車 C57型 が新津機関区転車台 に入線 した折撮影 したもの。 (撮影 日昭和 47年 5月 20日
撮影者 新津機関区 OB 石山 誠氏 (新 津市在住)提 供 大原 良雄氏 (旧 中 26卒 新津市在住 )
)
田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田 田田田田田田田田
「第 41回
東京支部大会 によせて 」
この ままでは 日本語が滅ぶ
東京支部長 佐伯
母校 「松城」編集部 か ら原稿 を依頼 されて この題名
で今春送稿 したが 何 しろ日の余裕 もな く字数 も限 られ
ていたので充分 意 を尽 くせ なか ったきらいが ある。
そ こで改 めて加筆修正の上、再度 この会報 に掲載 して
頂 くことにな った。 ご了承願 いた い。
私 たちの年代 で戦後、始めて耳 に した米軍語 は GHQ
MP(憲 兵 )と い う言葉である
マ ッカ ーサ ーの 占領政策 によって 日本古来 の伝統 ある
歴史 、風習 は総て否定 され、新 たな施策が強引 に押 しつ
け られた。特 に教育 問題 につ いては誠 にひどいもので あ
った。今 ここでそれを論 じるつ もりはないが (い ずれ書
きたい と思 つている)私 が訴 えたいの は戦後 53年 、あ
ま りにも荒廃 した日本語、日余古余 な和製英語 、略語 、
難解語、即 ち横文字 の氾濫 についてで ある。
政治家を始 めテ レビ、マス コ ミで も好 んで横文字 を使 っ
ているが 例えばマス コ ミとい う言葉 に して も 果 して
一般 の人はその言葉 の語源 と意味 を本当に知 っているの
か と疑 い た くもなる。私 が無知 か もしれぬがその綴 りさ
え書けぬのではないか とも思 う。
便所 手洗 いに して もそ うだ ご丁寧 に「お」をつ け
て お トイ レと呼ぶ。 こんな言葉 が あるものか。
前 に会社 の若 い者 に PRを 正 しく言 ってみろと言 った
ら「 PRは ピーアールです」 と平然 としていた。そ こで
詳 しく説明 してやつたら ようや く理解 した。映画 の題
名 、会社 の社名 など英語の乱用 で (敢 えて乱用 とい う
意味内容がさ っば り分 か らない。一番分 か らないの は写
真機 とパ ソ コンの広告説明文 で ある い くら読 んで も分
か らない。だか ら私 は買わない。 いや求め られないの だ
「 JR」 に してもそ うだ 直訳 すれば「 日本鉄道 」正式
には「 日本旅客鉄道株式会社」である。 これは外人 に も
理解出来 ない らしい。ある日、地下鉄 に乗 って い たとき
車内広告を眺め 興味 を覚 えて何処 か横文字 を使 つてい
ない広告はないか と探 したが何れにも外来語 、和製英語
が入 ってい た。 しか し後 日 たった一 つ だが発見 した。
それは 新 しく出来 た清酒 の広告であ った。酒好 きの私
は とたんに嬉 しくな った。
と言 うわけで 我 々は日本語 をもっと大切 に使 うこと
″
を いが け るべ きであると考 える。然 も正 しい 日本語 を。
日本語は日本人の言葉である。むやみやたらに変造す る
ものではない。古来 か らの 日本語が次第 に滅びてゆ くの
を私 は心配 しているのである。やたらに訳 も分か らぬ外
来語を使 うな と言 い たいの である。
私 が今 までに書 いた文章で横文字 が殆 ど使 われてい な
い ことに お気づ きの方 も多 くも居 られると思 う。
それで充分 用が足 りると思 っているか らである。
(連 合軍総司令部 )や
)
益一
ついでに申し上 げ るならば 私は今 の文部省 の常用漢
字 の制定 には反対 の立場を とる者である。
どんなに難 しい漢字 であって も その文字 か ら意味 を察
する ことが出来 る。辞書 をひきなが ら文章 を書 くの も又
楽 しいことではないか。 ら致 (拉 致 )、 警 ら (警 遅 )で
は分 らないとい う次第 。
最後 になったが、最近読 んだ雑誌 (産経新聞社発行 、
「正論」)に 次 のような文章が載 って いた。
明治五年 福沢諭吉 が著作 の「学問 のすすめ」の一 節
で “
人物論 "と して次 のよ うな ことを書 いて い る。
人生 においては人望 を得 ることが大事 だ。 と述 べ 、
では どうしたら人望 を得 ることが出来 るか と問 う。
まずひとつ は 言葉 を学び 特 に会話 を巧み にする こと
だ。若 い者 が 日本語は不便だか ら英語 を使 お うな どと
い うが これは取 るに足 らぬ馬鹿 で ある。
この若者は日本 に生れて い まだに十分 に 日本語 を使
ったことがないのだろ う。「大事 なことは 何 はさてお
き今 の 日本人は今の 日本語 を巧みに用 いて 弁舌 の上達
せんことを勉むべ きである」 と述 べ てい る。
更 に彼 はもう一っ 「顔色 、容貌 をよくせ よ」 と述 べ
て い る。人の顔色は家 の入 り回のよ うなもので 門戸 を
開 いて寄 りつ きをよくしておかないと誰 も近寄 らない と
い う。容貌は決 して生 まれつ き決 まっているものでは な
く これ も「人 の心身 の働 き」 だか ら い くらでも向上
することが出来 る。心身 の働 きによって顔色 、容貌 をよ
くすることこそ徳義の一 カ条なので ある。 こ うした心掛
け によって 社交 (人 間交際 )に 努 めることこそが重要
なのである。 と。
今 を さる はるか百二十数年前 明治五年 に一万円札
の福沢諭吉先生 は 今 日の事態 を予 測 されたか すで に
その時期 に喝破 していたのである。
我 が意を得た りと感動 を覚 えたので ぜひ紹介 してお
きたいと思 った。
さて 松高同窓会東京支部第 41回 大会 を 6月 6日
品川 プ リンスホテルで開催する運び となったが 例年 の
如 く多 くの 同窓 が集 ま り盛大裡 に終わることを期待 しな
が らも 何 か一抹の不安を拭 い きれない。
会員 の高齢化 と若 い同窓 の未入会である。高齢化 は仕
方 ないと しても 今後 のためには なん としても若 い会
員 の増加 を図るべ きであ り、然 るべ き良 い知恵 を各位 に
お貸 し願 いたい と思 ってい る。見学行事等 を企画 し教養
を高めるの も一案であろう。前に実施 した国会 、総理官
邸 の見学 は誠 に好評であ った。独創 的 な考 え、あ り方を
どん どん開発 して行 くべ きと思 う。ご協力をお願 い致 し
たい。母校 の発展 と会員各位 の益 々のご活躍 ご健在 を
心か ら祈念 し、会報第25発 行号 のご挨拶 に代 える。
田田田 XNXNX四
%%Xttx四 %田 濁渦 %四 %%%XNN%%XNN困
就
任
ご
挨
四 %%田 渓渓沼演濁渓
拶
新潟県立村松高等学校
学校長
このたび、「1日 制村松高等学校 J創 立以来 87年 の歴
内田
力
先頭 に、野球 部、写真部な ど、今年度は更に、 よ り
た。
史と伝統を刻む、村松高等学校に着任 いた しまし′
良 い成績 を収 め素晴 らしい活動報告が で きます よ
村松町を始めとする地域のみなさんから、本校に寄せら
れる大きな期待 と温かしヽこ
遣 いや 、各界各層の要職や 、
う、連 日遅 くまで全ての クラブで 、それぞれの 部活
動に励んでい るところで もあ ります。
各地域社会における指導的立場でご活躍の 、同窓生の皆
しか しながら、一方では、全国的に高校入学生徒の減少
さんの様子をお伺い し、その重責を肝に銘 じているとこ
期を迎え、国や県段階でも、様 々な教育改革が検討 され
ている現状の中で、本校の進むべ き方向、果たす役割に
ろであります。
倉1立記念日の 4月
25日 を迎える前日、全校集会の機
直
見
を
等
業
事
諸
す
討
検
︵ン
よ
る
き
地元同窓会では 、大変お忙 しい中にも拘 らず、
茂野会長さん始め 、遠方から佐伯東京支部長さんほか名
:先 [1の
る
き
で
が
組
取
た
´
らおネLを 申ヒ
あげます 。
子
一 こ
いとともに、温かいご理解と多大なご支援を賜 り、心か
う
同窓の皆様方には、日ごろ、母校に寄せられる熱 い思
く
もあります 。
本校でも、これ らの状況を受け :今 後の本校の進むべ
き方向」を検討す る『委員会』を設置 し、1寺 色ある学校
ベン よ ︰︶ る
の方 々の青春の思いを話 しながら、より良い学校づ くり
`
に向け、生徒ともども、努力す ることを誓 ったところで
m
書
に
会を通 して、本校の輝か しい歴史と伝統を築カツ■た同窓
ついて 、早急に検討すること力1必要と考えられます。
同窓の方 々か 1)も 、建設的なこ意見や 、二要望を寄せ
て戴き、その中で'十 分検討 していきたいとも考えており
ます。ど うぞ .何 な りと学校に寄せて戴│サ ヒ
ば幸いです
)
数の皆様方からご出席を賜 り、盛大な歓迎会を催 してい
ただき、感激の極みでもございました。
また、6月 には、東京支部の総会が開催されるとお間
きしてお ります 。故郷への深 い思いに加え、母校に寄せ
学校では、 10名 の転入職員を迎 え、新 しい年度が出
る温かなど配慮やご指導を戴きながら、教職員一九とな
発したばか りでありますが、簡単にその近況をご報告 い
って、村松高校の発展と前進のため 、取 り組んで行く所
た します。
年であります。
本校の立て直 しを図る取組の一つ として、平成 3年 度
終 りになりましたが、前任の吉川校長先生に引き続き
から実施 して́参 りました「進学クラス 」の設置は、地域
変わらぬご厚誼をお願い申しあげますとともに、村松高
校同窓会東京支部の皆 々様の 、ますますのご健勝とご発
の皆さんからも理解されるようにな り、その成果を着実
に 11昇 させてお ります。平成 9年 度の進学状況は、「
新潟
大学を始め 4年制大学進学者 18名 、短期大学 19名 、
計 37名 の進学者を卒業させることが出来、近年の1増 兄
からすると、目を見張るばか りの成果と思われます。
このほか、専潤学校等進学者は 67名 、また就職者の状
況も、4名 の地方公務員を始め 、ほとんどの生徒が県内
に就職することができました。
職員間でも、この成果に大きな自信 を持ち、さr)に 一
層、進路指導の充実に努めることにし、生徒に│.よ 、なる
べ く早い時期に目標を決定 し、学習への意欲がますます
高め られるよう指導することとしてお ります。
また 、生徒の部活動についても、伝統の陸上競技部を
展を祈念 し、新任のご挨拶といたします。
X田 田田困謁%x%x%x田 %田 四%x田 %田 四%%田 田田田XNX田 田XxNN四 %%田 田X
大変 お世話 にな りま した
前・村松高校校長
吉川
益男
村松高等学校同窓会東京支部の皆様お元気でいらつし
ゃいますか。東京支部大会が例年のように盛大に行なわ
れている様子を思 い浮かべながら、この原稿を書いてお
ります。私は、このたび定年によ り二月二十 一日をもっ
て退職いた しました。皆様の母校には三か年間勤務させ
て頂きました。この間、東京支部をは じめ地元村松の同
窓会の皆様には大変お世話にな りました。誠にあ りがと
うございました。特に四月二十四日に行なわれました 、
永谷寺の山門の横からの道はもうありません。登れる
地元の同窓会による歓送迎会には、東京支部より支部長
の佐伯益‐様がお見 えにな りご挨拶を賜 り、その上 、素
としたら夏針側からのようであ ります。素晴らしい伝説
を持 った両山を訪れる人がいなくな ったことに淋 しさを
晴 しいネクタイピンを項きました。誠にありがた く厚く
感 じています 。特に、年配の皆様は学生時代に行軍等で
御礼申しあげます。小生 しばらくは晴耕雨読の生活で ?
雷山には何度も登つたことであ りましょう。時の流れを
充電をし、いずれ地元新津のために出来ることがあれば
用 惑いた します。
お返 しをしたいと考えてお ります。
最近は、山を愛 しいたわる人力・
決
くな って しまいま
さて、自由な時間があるとい うことは実に素晴らしい
した。山歩きが好きで山菜料理が好きな人́のために宿を
ことでありまして、四月中は好きな山菜とりに出かけて
紹介します。先程触れました山小屋の同人に、巻機山の
ばか りお りました。今年の新潟の四月は、晴天の日が続
麓で民宿を営んでいる、小野塚忠男氏がお ります。氏は
いたため山菜は例年 に比べて十日は早く、しかも各地で
鋼勤務したことがあります (蓬畔ヨ瘍事請叶:勤 務 )が
殴 ι
根 っからの猟師で、巻機山の 自然を守るため巻機山の リ
一斉に出てきましたので、てんてこ舞いの忙 しさであり
ました ・・ … ?。 皆様の郷里、村松の山へ も何度も行
きました。杉川 、川内、戸倉が中心であります。ゼンマ
イは後の処理が大変ですので取 りませんが 、フキ ノトウ、
ワラビ、コンアプラ (地 元では、山おがらと言います )
・
マタタビの葉、山椒の葉、本の芽 (ア ケビのつ る ),竹
ゾー ト作 りに一人で反対 した人です。彼の生きざまを書
いた「ひとりぼっちの反乱 」 (豊 田和弘著 )の 中で氏は
山の 自然や熊猟について多 く語 っています。この小野塚
忠男氏が経営する民宿「雲天」の春 ・秋の山菜料理が実
に素晴らしいのです 。宿は、豪農の家を移転 したもので
の子 (知 人の竹林で ),シ オデなどが中心で地元以外で
五十人は泊まれます。囲炉裏を囲んで談笑 した り、近く
は、長 司の八方台山、新発田の奥の赤谷や菅谷、山北の
の山を歩 いた り、巻機山へ登 った りと色 々な楽 しみ方が
野や山であります。来年再び山の幸を頂くため十分心 し
あります。施設設備は新 しく気持ち良く過 ごせます。
て摘んできます。家内と二人切 りの生活ですから、収穫
山と渓谷社の本で紹介されました し、県内では時 々、父
物は娘夫婦や近所、親威、知人́に配 って迷惑がられてお
ちゃんや母ちゃんがテレビに出ますから、ご存じの方も
ります。五月には、南魚沼郡塩沢町清水 (巻 機山の麓の
おられると思います 。この民宿は、東京から関越高速道
レ
ー フ崎特 っている山
集落 )に ある山小屋 (小生達のグノ
ノ
l渥 )の 周辺に山菜を取 りにまい ります。誠に忙 しく?
で 日帰 りが可能ですから、山菜料理のお好 きな方は是非
過 ごしているわけであります。
この間に低い山にハイキングに出かけます。皆様の地
一度行かれてみてはと思 います。 (予約腱 膠要です )
自由の身にな つた途端、遊びのことばか り書 いて しま
い、誠に場違いな文にな ってしまい恐縮です 。
元の雷山、権現山はまだ登 ったことがありません。いろ
お世話にな った東京支部の皆様の益 々のご発展とご健
いろ調べてみたのですが、雷山は殆ど道がなくな つて し
′
ますとともに、新潟県立村松高等学校の
康を祈念いた し
まったようで、地元の方に聞いても、この道を行1弱 ぎ良
更なる発展を祈 って退職のご挨拶といた します。
いと思 うが最近は殆ど登る人がいないので、道があるか
どうかと言 う返事が多く返 つてきます。
三か年間、誠にありがとうございました。
田田四 %%%田 濁 %%%田 謁田田四 %%%%%%四
平成 9年 度
東京支部 の 動 き
平成 9年
4月 12日
′
ノ
編集会議
会報
N023
事務局
〃
〃
9名
6名
6名
幹事会
大会役割説明会 ROX
19名
印刷所
釜ぎ報 N023
〃
常任幹事会 大会準備
会報
N023
〃
26日
編集会議
ノ
′
常任幹事会 大会案内発送
′
′
5月 7日
13日
15日
5名
E口
再
庁
層
町
24「 ヨ
し
職
一^次究娃iE
〃
〃 渡じ
〃
ニヤ
血
〃 渡し
印刷所
29日
朝日新聞「マリオン │に 大会予告掲載
7日
会報
N023 印刷出来上が り
第40回
東京支部大会
ROX 97名
21日
会報 N023 発送 213通 事務局
22El
故、中村倉吉 (前 事務局長 )氏
5名
三回′
忌法要 陽寿院
8月 16日
ス
H 26名
ン
幹事会 大会反省会 翻プリ
同窓会本部総会 「明月」 棘螂より 3名
10月 11日
常任幹事会 各部会役割案 事務局 11率
7月
11月
5日
1日
22日
26日
12月 3日
編集会議
〃
会報 N024
″
〃
印刷所
11日
6名
県人́会館
″
6名
〃
事務局
2名
〃
原稿渡 し
―
‐渉 正
4
″
"通
″ 渡じ
12日
印刷所
19日
会報
20日
会報 N024 発送 321通 事務局
6名
会報 N025戸 田・和樹
8名
N024 印刷出来上が り
平成 10年
3月 14日
編集会議
%%%震
震 XIIIIIN
ありがとうございました
◎平成 9年 度会費納入の皆 さん (そ の二 )敬 称略
式場 俊三、渡辺 文男、松井 清平 、=室 茂和
福田ジュン、 (以 上15名 15,000円
計 男子 178名
女子
78名
合 計 256名
768,000円
│
◎平成 9年 度寄付金納入の皆 さん (そ の二)敬 称略
20,000円 田中 正往 (五泉安勝寺
7,000円 毒 易 に
5,000円 田中 正往 (五泉安勝寺
5,000円 五十嵐喜作 (新潟)
2,000円 木村 貞一 (新潟)
2,000円 欄 キ 評
41, 000円
計
6名
女子 延 17名
計 男子 延 54名
合 計 延 71名
245,500円
)
)
26日
6月 5日
%%%%%%%四
1薫葛
東京鹿瀬会では自分の郷里を現わすル ープタイ及び女
性用のベ ンダ ン ト (写 真)を作成 して広 く会員や会員外
の方 にも頒布 してお ります。新潟県の地図 に出身地を示
す位置に天然のルビーを嵌め こんだなかなか優雅 な製品
の渡部
です。作者 は鹿瀬町日出浴出身の美術
50個
。只
広次氏です
今
位販売 してお…
りますが、好評な
のでネクタイ ビンも作成中です。購入希望の方はお早め
にお申 し込み ください。 (純 銀 と同金メッキの二種類 で
価格は ル ープタイ 11,000円 紐は紺、茶、緑の三種
類の純絹 、お申込み時 にご指定 ください)
ベ ンダン ト及びタイビンは都 ,000円 (純銀 と同金メッ
キの二種類)注 文は 佐伯支部長 までハガキに、出身地
種類 品名 個数その他必要事項記載の上お申し込み く
ださい。出来次第振込み用紙同封でお送 りしますので、
ご送金のほどお願 い致 します。
宛名 〒134-0087 江戸 川区清新町 1-1-2-503
電話03-3688-5824東 棘 絵
佐 伯 益 一
%田 謁XttXXN田 田田X田 謁%田 田田四%四 %田 X田 田田X田 田田田田田田田%田 田四%XN
平成 9年 度会計収支決算書
平成 9年 4月 1日 よ り平成 10年 3月 31日 まで
新潟県立村松 高校 同窓会東京支部
理啜ノヽ σ)菩F
年
寄
位 =円 )
768, 000
会 費
男子
女子
178名
78名
534,000
234,000
付 金
男子
女子
54名
17名
207,000
38,500
第40回
(単
245, 500
62, 800
支部大会残金
(会 報 NO.24で 既報)
小
計
平成 8年 度 繰越金
計
=日
Ja)書 F
(単 位=円 )
会 議
費
99, 995
通 信
費
12, 800
印 刷 費
会報 NO.23 114,135
24 127,155
会報 Ю。
その他
9,055
250, 345
送
116, 640
1, 076, 300
料
会報
その他
1, 141, 792
会費払込手数料
12, 910
本部同窓会参加祝儀
弔慰費
20, 000
10, 000
1, 826
受取 り利息
小
メ
1, 143, 618
111,492
5,148
備品費 (住所印)
1, 050
新潟県人会報購入費
4, 500
11, 739
雑 費 (写真、交通費)
2,219: 918
計
539, 979
計
1, 679, 939
平成 10年 度へ繰越 し
(内 訳)
1,610,775
郵便貯金
31,097
支部長手持現金
38,067
事務局長 ″
計
2, 219, 918
上記 の通 り報告 いた します。
︿口
合
平成 10年 4月
計
2,219,918
15日
佐 伯 益
一
事務局
鶴 巻
浩
経 理
岡 本 和
子
印 印 印
支部長
上記 の会計収支決算書は厳正 監杏の結果 適正 であることを認 め ます。
塚
田
健
印 印
監 事
芳 賀
一 勝
平成 10年 4月 18日
監 事
田田田田田田 X田 田田四%田 田X田 田四 %困 四 %田 田田田田田田四%田 田田田震渓渓 XX渓 渓謁
新 ″両校 長 の歓送辺 会 に出席 して
支部長
佐伯
益―
去 る4月 24日 午後 5時 半から村松町「木むら」で
の歓送迎会が開かれ 東京支部
新旧お二人のは
組織副委員長の伊藤勇五 さんと共 に出席 して参 りまし
た。今 まで 3年 間 、母校に奉職 された吉川益男先生は
3月 末で定年。新任の内田 力先生は西新発田高校か
らの転任で、併せて長年私達 と親 しんできた江口 昇
先生 (高 3回卒 )σ 凌甥 田中新教頭 、西村新事務長
の両先生 の歓迎の宴 も同時に開かれました。出席者は
26名 とお聞きしました。
茂野同窓会喬詢労先送勧側Eθ 剪発拶暖 、両お著誌超主から
は謝辞 とそれこそ、その名のとお りの力強い着任の挨拶
│1先 生 にはお餞別等が贈 られました。最後 に
があり、吉り
私から、かねてからのお約束であった新潟県の地図に先
生の出身地新津の位置に天然ル ビーを嵌め込んだネクタ
イビンを東京支部か らの記念品 として贈呈いたしました
吉川先生は大変喜んで くださいまして早速今までのと
取 り替えて着用 してくれました。胸間に金色に輝 くその
タイ ビンを見て私は本当に良かったなあと嬉 しく思 いま
した。後 は懇親会に入 りましたが何れも顔見知 りの人達
ですので真 に愉快な一刻を過ごす ことができました。
ただ残念だったことは 杯の献酬が活溌で箸を持つ暇
も無 くせっかくの「木むら」の料理 も茶わん蒸 し‐椀だ
け頂 くとい う事でした。後 はお定 りの二次会へ と誘われ
両校長先生 と楽 しく過ごさせていただきました。
とうございました。
真にあ リカ`
この少 し前 伊藤 さんと下緒 に学校を訪問 し、待って
居 られた内田新校長先生 と一時間 ばか りお話をする機会
がありました。いろいろと話を している内にも、お若 い
ながらも (そ う思 ったのは私の齢のせいかも知れません
が)母 校 に対する並 々ならぬ覇気 と熱意を感 じ取 りまし
た。大いに母校の発展、活躍を期待するところです。
次に かねてから念願の図書室を見せて頂きました
これは毎年買い求める本が書棚 いっぱいになり捨てるに
は勿体無 いし古本屋には売 りたくない しと思案の ちげく
いっそ学校へ寄贈 したらと思 い付 き、生徒の読書の傾向
を知 りたいと思 ったからです。司書の先生 にも話を伺い
ました。大変参考になりました、先生方も賛同 してくだ
さいました。いずれ折を見て東京支部会員のご協力を得
て図書寄贈の大運動を起 こす気でおります。
話は前後 いたしましたが内田先生 と懇談中 剖 │1先 生
がお見 えにな り話が益 々面白くなってまい りましたが、
支部会報 にご寄稿文を頂 くことを無理にお願 いし会場に
参 じた次第であ ります。
J、
茂野会長 さん 現地同窓会の皆 さん 学校の諸先生
良い機会 を作 って頂 きました 重ねて御礼申 しあげます
東京新潟県人會舘 を利用 しよ う
会員の中で、1(〕 人か
15人 位で会議や打ち合わせ会
を開きたいが、場所がなかなか確保できず日 つてお られ
るという方も多いと思います。
そ うい う時には 、ぜひ新潟県人会館 を思い出してくた
さい ぅ私スIち の幹事会の会議でも、よく此処を使わせて
`
l瑠 各
駅
)っ てお ります。営団地下鉄の銀座線 ・上野 │ム メ
も二
力`
ら徒歩 5分 、千代田線 ・湯島駅からは近く 1分 プ)と 二
ろにありますク職員はいずれ も新潟県 尺で,亡 暖 か く応対
■ます。中込1よ も話で灘
して くオ
です 。
果しい`二 とは、新潟県各地のいろいろな
1、
との出会い
があることです 。
台東区上野 1-13-6
03-3832-761')
FAX〔 )3-3832-763()
場所は
.っ
嘩轟苦は
会議終 了後 、お酒 も飲め ます (持 ち込み可
)
)予 約が必
料理 弁当等は仕出 しです 。但 し2∼ 3日 前か ギ
ムさに応 じ
要 (1,000円 か らあ ります )借 室料は部屋のサ
ら千円 ・ 千円 ・ 1万 F](不潮 1)と あ ります 今
7・
一度 、電話 してみた ら如何で しょう。お早め に ネ
│
t佐 伯 )
田田田田田 X田 田四 %田 四 %四%四 %%四 %田 田田田田田田田 田田田四 %田 田田田田田田田田田
雑 談 の 中 か ら
深見
洋子
(高
7
常任幹事)
春まだ浅き日、戸田の岡本先輩邸での編集会議が終わ
お疲れさま"と 、お酒と熱 々のオデ ン
ると岡本さんが “
を振る舞 って下さつた。
お酒は、剣菱の古酒で濃いオリープ・グリーンの瓶色
からして、お美味 しそうで高級そうで皆んなの日か ら、
“
オォー ッ"と 歓声があがつた。
そこで佐伯支部長が 、卵陵 のラベルの紋様について、確
か “
男とオナゴを表現 している"と い う様な事を話 し、
一同新ためて “ラベル "に 目を向け “
な―るほど"と 納
得顔にな った。
問いていた私は、何十年 も前の若い頃、仕事の関係で
「フランス語 」を勉強するため 、お茶の水にある “
アテ
ネフランセ"に 通いだ した時の事を思い出した。
フランス語の名詞には、男 ・女の男llaゞ ぁ り、それ ぞれ男
′
鷹面議l“ Le"、 女性冠詞 “La"が つ き、例えば “L
e Soleil"太
陽は (男 )、
“La
月 (女 )の如 き形 をとる。
物には総て男女の囲
llaゞ
話題 の ラベル
lwne"
ぁる、とい う事は、あらゆる
「艶 笑 小 話 的 幼 語 解 を 中 国 酔 い が た り」
物、どれが男でどれが女か知らないと冠詞のつけようが
(東 方書店 )
ない。それを全部覚えるなんて、何と厄介な !と 、発音
するだけでも日本人にとつては相当に恥 ヴか しい ものが
あって、フランス語に手をつけた事は失敗だ つたかな、
ニ
と思 つていた矢先なだけに大変な事にな つたと些カツヾ
●触即罰(│い し
ょ
胸):女 の尻に触ってビンタをはら
く
そ
〈
れること
気象臀尻(き し
ょ
う
鶴
"):お
ック状態に陥 つて しまった。それでも何か基になる法則
のようなものがある筈だとの思 いが頭から離れなか った。
要するに、入れ物が女性名詞で、中に入れる物が男性
名詞である。これが大まかな法則である。と一 人́悦にい
ったものだ つた。
・J螺 口
発
尻で気象予報の出来る人
・
力
性交有毒 (utう う
ど
〈)
│ふ ぎ
校庭不儀にう
て
)
Lttq睡
豫
吉
:慎 むべ し
,晴 耕雨読
:教 師と生徒がよからぬ関係を
結ぶこと
・皇帝澪儀
ヽ
ヽ
社会祝儀 (し ゃ
ゅ
力
し
う
ぎ):賄 賂が蔓延 している社会
ダォ
チン倒 ピ‐ル
日本に1卦 1狂 徒祝儀がある
・社会主義
:ビ ールを飲み過ぎると糖尿病
昭 和 三 二年 秋 、 旧校 舎 を
バ ック に、グ ラ ンド に て
︵
高 十 回、 大 橋 貞 夫 ︶
になる
青島碑酒
秘薬戦百姓 (ひ ゃ〈
う
悦撫く
し
ょ
):中 国ツァーで先を争って秘
薬を求める農協団体
・百戦百勝
れ略ん)
う
奨励キン(し ょ
:満 た されない細君が、キン
を励ます事
・奨励金
田田田田 田田田田田田 田田田田田 渓田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田震震震妥囲田
佐藤
お便 りの 中か ら
小田
恕哉
栄策
(旧
子仁住
中26日 )● な≡
◎東京支部会報 24号 をお送 り項き有 り難 う。
(1日
中16回
支部大会の報告や年度毎の同級会の様子それにお便 り欄
等 々内容豊富な記事を楽 しく読 ませて頂きました。会報
)
◎前略 本日「臥龍が丘は緑な りJの 平成十年新春号を
ご送付下され誠に有 り難く厚く御礼申しあげます。
良い年をお迎え下さるよう切に祈念 して御礼の筆をお
草々
/い 先輩諸氏のお名前が出てお り昔の
を拝見すると懐かし
松中時代に還 ったような気持ちにさせられます。
東京といえば思い出すのは ,故 ・滝沢健次郎、斉藤宥
(現 ・森山)と 私の二人で松 中を卒業 して直ぐに上京 し
て就職、青雲の志を抱きながらお互いに激励 しあ つて苦
学 していた当時を思い浮力Vヽ 今なお感懐ひとしおのもの
二郎
武藤
(旧
中26回 )支 部常任理事
O支 部会報、平成十年新春号が届 きまt_て 早速に一読さ
せて項きま tノ たが、担当のご苦労を拝察 じ見事な内容を
があります。在京の皆さんが在校時代に培われたご様子
などが{思ばれて、衷心より祝福 し敬意を捧げている一人
であります。
纏めておられる皆様には敬服するばか りです 。
い出話 に花が咲き宴も酎わとな リー段と
同級会で│」 習、
`
気分の高潮 した時、皆で声高 らかに歌 つた校歌と応援歌
ところで、会報に残 りがありましたら6∼ 7部 を実費で
は全く感激で した。歌い進むにつれて皆 を昔に還 し誇か
お分け頂けませ/.で しょうか ?。
な気持 ちにさせて くれました。まさに我らは松城健男児
1東 京在住の同期で 大会に出席 しない連中と、大会への誘
であ りま た。塵の巻 を遠 ざけて云 々とあるよ うに、質
t´
いをする田舎の同期等に送 ってや りたいと考えてお りま
実岡J健 を旨として生活をした中学時代、臥青
壽 日鐵
す。出来たらでよろしいですがお願いいた します。
‐
乱筆ながら取 り急 ぎ御礼申しあげま 3‐ 。お元気で…
切磋琢磨の功を経て云 々と歌 って壮行会で選手を激励 し
1997年 12月 30日
た りされた りして 、母校の名誉ある伝統のため大いに健
闘 した各種競技大会の思い出などが走馬灯のように体の
中を駆け巡 り、校歌や応援歌に込め られた若者への期待
がやがて喜寿を迎えようとしている私どもの胸に迫 つて
亀嶋
謙
(1日
中22回 )
来たのは同級会に出席 した全員の同じ思 いだ つたに違い
◎年の暮れ 、待望の支部会報「臥龍が丘緑な りJ平 成十
ありません。在京の同窓諸氏もあの校門の松並木と校庭
年新春号、正に受納いた し早速読んでお ります。
裏の赤山の松 に囲まれた学び舎を折に』軟て 思 い出し、
さて 、それについては 、私共の同期の記事 も載せて頂
きましたので、幹事の二氏にお送 り願いたいと存 じます。
また 、小生に、できればもう一部お送 り頂ければ幸で
懐旧の念に浸 っておられることと思います。
老齢の私にとっては取 り戻 した健康 と松中時代の青春
あります。全くご迷惑至極のお願 い事ですが、何卒宜 し
の思 い出が何よりの宝です 。健全な心身 をきたえてくれ
から叫びたい思
た「我が懐か しの母校よ永遠なれ Jと ,巳 ヽ
くお願 いいた t_ま す。
いです。読後感の一―
端 を添 えて会報ご恵贈のお礼にしま
十三二
月二子1´ 日
す。東京支部の益 々の発展を切にお祈 りしつつ 。
近藤
力雄
(旧
中22回 )
◎東京支部会報 ・平成十年新春号 をご恵送頂き誠に有 り
難く喜んでお ります。以前は、故 ・中村倉吉君 (同 期 )
から何回となく本部同窓会の折、東京支部同窓会活動状
況について承 り亦、当時の支部会報等読ませて頂き松高
を愛 し発展させ度い願望が伝わ り敬意を表します。
会のご活躍 ご発展 を祈念 いた し、本年もよろしくお願
い申 しあげます。
Iθ
平成十年一月十日
◎前略 さて、ご依頼の写真 本日入手いたしました
ので早速お送 り致 します。二部送付 しますが どちら
でも良 い方を採用 して ください。天皇陛下のお召列車
の機関車 とい うことで歴史的にも価値ある写真 と思 い
選びました (こ れは我 々の年代の戯言です ?)
機関車の横の「菊のご紋章」私たち昔の者 にはグッ ト
きますネ。会報が出来たら石山氏 にも贈 りたいので
是非送 って ください。
大原 良雄氏 (1日 中 26新 潟鉄道局 OB)か ら
鵡
J晰
田田四 %%田 四 %田 田田 X四 %%田 田田田田田田 四 %田 田田田四 %田 田 X田 四 %XN田 田四 %田
古俣
泰雄
(旧
中26回 )会 津高田町在住
◎会報 24号 をお送 り頂き有 り難 うございました。
お 便 りの 中か ら
刊松 中学の思 い出に浸れるのは 、毎年開かれる同級会で
新潟弁を聞いた時、しか́ し会津に戻 つて雑務に追われて
村松高校校長
内田
いると、何時の間にか薄らいで しまうのに今回は半年ぶ
力
りに想いを新たにす ることが出来 ました。
五泉 ・村松間を徒歩で五年間通学 し若干の友人先輩と
◎前略 先日は大変ありがとうございました。
学校までお越 しいただき、久し振 りに楽 しい一時を過 ご
交歓できた夕μよ、交際の範囲 も狭か つた私は、アンテナ
は低く情報 も乏 ヒ′́
くて自然 と疎遠になつていました。
させていただき、心からお礼を申しあげます。
出会いとはいえ、何かず っと以前か らの知 り
:初 めての
東京支部大会の出席者の名前を拝見 しても思 い出せる
方は僅かですが、このイヽ
冊子は多岐にわたる内容で門外
合いにでも逢 ったような不思議な感 じでもありま した。
佐伯さんのお 人́柄と、昔の大人の人達の中の武士にも似
オl感覚を憶 えたことと併せ、忘れられぬ人́に出合 った強
漢の私を微笑ましてくれた り、同感だと独 り言を言わせ
い印象が今でもは つき りと思い起こされてまい ります 。
を覗いてみたくな った り、遠藤氏が吟ずる酔中歌も聞き
て楽 しませてくれました。読んでいるうちに大会の様子
今後とも、宜 しくこ指導賜 りますようお願い中 しあげ
ます。六 月の副
いに駆られました。
たし、
思、
││で お逢 い出来 ること、今から楽 しみに
東京支部の皆さんを羨ましく思いながらも益 々の発展
してお ります。
を,已 か らお祈 りして御礼申しあげます 。
― ○
○
寄 赤 山會 春 季 例 會
遠藤 順 ︵
旧中路回︶
孤 り 関 山 に秀 づ 白 嶺 の松
題 松
孤秀 開山白嶺 松
春 秋 万葉 緑 弥 濃 か な り
いヽよ い卜か
春秋萬葉緑爾濃
雄 姿 凛 凛 風 雪 に耐 え
し の ユ
‘■ に
雄姿 凛凛 耐風雪
中33回 )
幹 は 雲 を 凌 が ん と 浴 し て 正 に龍 に 似 た り
(1日
幹欲凌雲 正似龍
順
賀 先輩長壽
遠藤
よ ろ こ び ︱´ょ う
よりの嬉 しさであった。
桜 花 二月 春 芳 を 弄 し
`
皆様に好評を博し喜んで項いたのが何
櫻 花 二月弄春 芳
吟詠 して貰いたいJと 頼まれ、非
才を省みず二生懸命作 ったが、先輩の
::f日
今 席 歓 を 成 す 萬 寿 の場
,端 を作詞 して
今席 成歓萬壽腸
と旧制中学校の回想の
同 塾 相 い 親 じ む 赤 山 の會
話をいただき「長寿の方 々へのお祝い
同塾相親赤山會
◎ 四月四日の赤山会の四、五日前に
赤山会事務局長 ・佐久間精一氏から電
祝 歌 交 に献 じ て 杯 を 引 く こ と 長 し
漢 詩 、 作 詞 の 動 機 と経 緯
親歌 交 献引 杯 長
二月 吉 日
平成成寅 一
現在の村松 高校 前通 り
XNNN田 田X田 田XttX謁 田田田田X田 田田田田四%田 田田田田田田田%田 田XttXIttX濁
村松町・ 第 15回 「ふ るさと講演会」 を 聞 いて
沢出
赳 允 (高 6回 ・支部常 任幹 事)
・
・は じめ に…
・
村松町公民館 で開催 され た「 講演会 」の講師 に 、同級
生 の村川英三君 (高 6回 )を 迎 え 、「近 来稀 に見 る大盛
故郷 あ る いは子供の 時 に皆 さん に優 し<し て頂 いた り、
況 」 と地元新聞 「 新潟朝 日」も彼の熱弁 を大 き <報 した 。
と感 じて い る 」。
15分 、会場 へ 着 いた と
ころ同級生 も含め 、お よそ 430人 の町民が集 ま りす で
に超満員であ った。定刻 よ り少 し遅れ 、 1時 40分 す ぎ
2月
22日
(日 )、 午後
1時
叱 つて もら った経験が根本 に関わ つて い るのではな いか
県立 中央病院の所在地 であ る上越 市の 紹介 と、病院の
新築 につ いて 自分 の考 えを多少 反映で きた部 分 「室 内 に
トイ レ 、洗 面所 を設置 し、テ レビを患者 の 見易 い位置 に
に開会 した 。講演 に先立 ち村松 町公民館 館長 、相 田孝助
取 り付 け 、一 部屋 の 最高人数 を四名 にお さえた 。そ して
│1君 につ いて
君 (高 6回 )が 開会 の挨拶 。そ の 中で 、村り
建物 を真南 に面 して建 て 、窓 か らは妙高 山 ・黒姫 山 を望
「 昔か ら、とにか く頭 が良 く勉強 も出来た け ど、よ く遊
亡ヽ
び 、他 人を思 いや る′
あ り、同級生 の 手本 とな った男だ
む絶景 です 。入院患者が少 しで も家 に い る時 と同 じよ う
な気分 にな るよ う設計 に気 を配 った 」また 、「駐車場は 、
った 。私 は 、おふ くろか ら “
醤油屋 の三 男坊 を見習 え"
1200台
分確保 したが 、職員 か らは駐車 場が何時 も満
といつ もハ ッパ をか け られ て いた 」と紹介 された 。
に聞 き入 つて い
じヽ
講演 では 、聴衆 は村川 医師 の 話 に熱り
車 で困 る 、拡張 して欲 しい Jと の 要望が あ ったが 「駐車
た 。話 の 内容 につ いて は 、地元 の 新聞 「新潟朝 日 」よ り
円滑 に (患者 の 待時間短縮 )す るよ う命 した結果 、患者
要点 を抜粋 させて いただ き掲載 した い 。
時間 を短 くすれ ば 、これ で十分 だ と思 い病院 内 の業務 を
一人 当た りの 待時間が約 20分短縮 した 。それ で駐車場
に も空 が 出 るよ うにな った 」と。「 医者 にな り現場 に出
て い ろんな ピンチにぶ つ か る。そんな時 、や は り田舎育
ちは強 いです
!
じぶ とい強靭 さを持 つて い る。で も一
番大事な のは心の 強 さだ と思 う 」「村松 の 人間は 、新潟
や東京 あた りと比 べ る と、遅れ て い る、劣 つて い るので
はな いか と怯 えて い る。 しか し、これ を逆 に い えば もの
す ご い 向上心 、上 昇思考 と本 質的 にまった く同 じもの だ
と感 して い ます 」
終 戦 、村松 大火 、イ ン ター ン時代 、安保 闘争 、大学紛
争 な どの思 い 出 を話 した あ と、一番 大事な こ とは 「 自分
の 信 した道 を万難 をJ卜 して進ん で い <力 」ではな いか と
…講師 略歴 …
思 う。逆 境 にめ げな いで突 き進 む力は 、村松 の よ うに 自
10年 、村松 で生れ 29年 に村松 高等学
校卒業 、新潟大学理学部 乙 類 に入学 。 31年 に 医学部 ヘ
再入学 し、 35年卒業 した 。 イ ンター ン を経 て 同学 部第
村川氏は昭和
二 内科 に入局 し 3年 間 、がん セ ンター ヘ 出向 。帰局後は
然が真近 か に あ り、 しか も人情 、風土が ひ じひ しと感 じ
られ る社会 こそ 、本 当の 人間 が育 つて い くのでは な いか
と思 い ます 。
最後 に 、現在 の 医療制 度 とその課題 に触れ 、医療保険
43年 には 県立 がん セ ンター新潟 病院 内科 に赴任 し、
法 の 改正 に よ つて患者 負担 が 倍近 くにな つた こ とを憂慮
す る。 「少 な くとも、我 々の 子供 ・孫 の世 代 に 、 3人 で
内科部長 や 研究部長 を歴任 した 。平成 4年 には新潟 県立
1人 のお年寄 りの年 金 ・医療費 を負わせ る とい う事態だ
血液 の 診療 と研究 に従事 した 。
中
(付
属看護専門学校 長 を兼務 )と な り
現在 に至 つて い る。
一講演 内容 …
演題 は 「村松発 、 21世紀行 き∼三 男坊 、豆 ダ ンプ突
りは避 けな けれ ばな らな い 」 と語 り、講演 を終 えた 。
… おわ りに…
の あ る血液専門 医師 の 講演 とい う事
年配の人達 に関 巳ヽ
で中高年の方 が 多 か つた 。話 の 内容か ら して若 い人達 に
まず 、自分の生 い立 ちか ら話 しは じめ「私 の 現在 の 人格
│1君 を囲む会 」
も聞 いて欲 しか つた 。講演会 の あ と「村メ
を同級生 で催 し、関谷正 中君 (英林寺住職 ・高 6回 )の
や 人 とな り .存在 そ の ものの一番 底辺 にあ るのが 、 この
乾杯で懇親会がは じま った 。
つ走 る― 」とい う、彼 を象徴 して い る題名 で あ つた 。
12
趾
田田田田田 田田田田田田田 田田田田田 田田田田田田田 田田田四 %田 田四 %%四 %田 田田田田田田
亀嶋
謙 さん (旧 中22回 )の 第 4冊 日、出版本 を読 んで
武藤
三良F(1日 中26同 。支部常任幹事)
昨年 12月 下旬、前赤山会 々長の亀嶋さんから一冊の
作品の中には、故人を偲ぶ追悼文が 13点 ほど載せてあ
20日 に
るが、豊かな感懐と暖かな人間味の溢れる心情が如実に
ほろり"と させられた り、胸の
記されてお り、思わず “
本を頂戴 した。それは喜寿を記念 して、 11月
初版を発行されたもので、亀嶋さんの著作出版物として
は四冊目になる。書名は「日々・日々・又 日々 ,日 々
去来」と名付けてあり、前書きには良寛の詩句を思 い出
して書名にしたと記 してあった。
熱くなる感動を覚える。
平成 7年 12月 には「三井銀行を築いた異色の経営者
たち」とい う著作を出版された。その時には盛大なお祝
いと、お披露目の会が催されて私もご招待に預か ったが、
日々 日々 又
その模様は会報 23号の誌止を借 りて概要を報告させて
日々
間に児童を伴 って此の身を送る
貰 つた。しか し、今回は非売品で限定出版されたものを
袖裏の毬子
お贈 り項く光栄に浴 し、私の細やかな本棚には光彩を放
両三箇
つ貴重な一冊になつた。
無能 飽酔す大平の春
この度の本を読み終わって私は、人間としての生きか
良寛師の心境には及びもつかないが 、老境にた っして
私はこの詩を何となく身近に感 じたのであつた云 々と。
この本は平成 4年 から9年 までの間に書き溜められた
たを教えて貰 ったような思いが している。たまには私も
本屋を覗くことはあるが、氾濫気味の大量の本の中から
中から、特に選んで40点 ほどの作品を」冊に纏め られ
良書を選ぶのは容易なことではない。今回は亀嶋さんか
ら教養を高めるには絶好の指南書を頂戴することができ
た博学多識 と社会的交流の幅の広さには只 々畏敬の念が
た。心から尊敬できる良き先輩に恵まれている自分を幸
湧くばか りである。
せに思 っている。
亀嶋さんは厖大な本を読んでおられるので、読書三味
同窓の皆さんにも是非とも一読の機会があるようにと
として 6点 ほどの作品と旅行記や人物論、教育論もあれ
ば宗教論もあるという多彩な ものであるが、著者は私の
願 っている。その亀嶋さんは今年の 12月 には、めでた
く「金婚式 」を迎えられるそ うである。満腹の祝意 を表
ように浅学非才な者でも、容易に理解出来るようにと平
すとともに、ご夫妻の益 々のご健康を祈 つてやまない。
易な文章表現に徹 しておられるので親 しみやすく、楽 し
く読むことができる。
明石海峡大橋開通
4月 5日 、明石海峡大橋が開通 した。四国と本州を結
ぶ三橋の うち、関西への最短ルー トで大きな期待を寄せ
られていた。1985年 に、徳島∼淡路間の大鳴門橋力湘
してお り、洩路ヽ神戸間の今回の開通によつて、四国か
ら関西方面への時間が大幅に短縮 された 。
大阪t徳 島間・2時 間 30分 、神戸∼徳島問 ・ 1時間
40分 。明石海峡大橋は「つ り橋」で主塔間の長さは、
1991メ ー トルで世界最長の「つ り橋 J。
工事期間は
10年 力功ヽり、海底や工事区間の調査開始からは、実に
39年の長い歳月を要 した。
村松公 園 (1998.4.11写 す )
13
田田田田田田 田田田田田田田田田 四 %田 田田田四 %田 田田 X田 田田田田田田 田四 %田 震震震 田田
花 とみ ど りと石油 の里・ 新津
(1998年 3月 28日 、朝 日新 聞 夕刊 よ り)
く 、花 き 生 産 では全 国屈指 。
ら チ ューリ ツプ の栽培 で名高
と あわせ 、 ﹁
石 油 の里 ﹂づ く
放 した ﹁
中野 邸美 術館 ﹂など
い わ れた中野 貫 一邸を 一般開
備 するほか 、日本 の石 油 王と
運動 な ども あり 、この ほ ど J
会 ﹂が発 足 。 同会 の積 極 的 な
ていた S Lを復 活 さ せ よ うと
7 ol 80 号 を走 ら せ る
﹁
C5
7 ︲ 8
親 し ま れ て いた C 5
0号= 写真 。 同 路 線 を 中 心
に 、イ ベ ント 列 車 な ど の 臨
時 列車 と し て 走 る 。
◇ ⋮運 転 開 始 は 、 平 成 十
人は 、 今 月 九 日 か ら 現 地 で
折 半 。 現役 時 代 、 地 球 四 十
二周 分 を 走 った と いう貴 婦
で 、 J R側 と 要 望 団 体 と で
にこぎ つけ た 。
◇ ⋮復 元 経 費 は 約 二億 円
域本社 が保 存 会 、関 係 自 治
体 など の 協 力 を 得 て 、実 現
。
復 活 す る 。 現役 復 帰 を 果 た 一年 春 昭 和 四十 四 年 九 月
す のは ﹁貴 婦 人 ﹂ の 愛 称 で に引退 後 、保 存 さ れ て いた
新 潟 県新 津 市 や 沿 線 住 民 が
要 望 し 、 J R東 日 本 東 北 地
来 月に は 、 同市 を通る 国道 4
0 3号 沿 道 は 、十七万本 のチ
解 体 、 四 月 か ら J R大 宮 工
場 な ど で復 元 修 理 に 入 り 、
レー ル の上 で 再 び そ の 華 麗
Rは S L の 復 元 を 正 式 に 決
な 姿 を現 す 。
り に取り組 ん でい る 。
定 、来 年春 ころ磐 越 西 線 を 走
ューリ ップ の満艦 飾となる 。
﹁
花と みど りと 石油 の 里 ﹂
も ある 鉄 道 O B会 新津 支 部会
S L復 元 運動 の火付 け役 で
長 の市 村 勝栄氏は L S L は 鉄
もう 一つの顔が ﹁石 油のま
行 す る予定 と いう 。
この新津 が 、再 び ﹁
鉄 道の
をキ ャ ッチ フレ トズに 、観 光
ま ち ﹂と し てよ みがえ ろうと
ち ﹂。新 津 油 田は明治 後半 か
油 量 を 誇 ってい た 。・
市 では 、
道 城 下 町 、新津 の歴 史 的 文 化
財 。鉄 道 を愛 す る市民 の 熱 意
新し い港 ﹂の意 。
新津は ﹁
既 に役割 を終 え た石油 掘 削施
し ている 。そ の 一づ が 、 一九
が 復元運 動 の大 きな力 と な っ
か つて新 津機 関 区 に所 属 し
た の です ﹂と語 る 。
現在 は ﹁
S Lやま ぐ ち 号 ﹂を
7 ・1 号 と
けん 引 し てい るC 5
るか も し れ ない ヽと市 民 の期
180 号 の 重連走 行が 見ら れ
韓臓 難 藤 同期
議
一
轟一
豪
雄
︶
乗 せ 、花 と 緑 の越後 路 に S L
の汽 笛が こだま す るだ ろ う 。
﹁
鉄 道 の まち ﹂復活 の 夢 を
待は 早 く も 膨ら む 。
九 四年に開 業 し た J R東 日本
両 メ ーカ ーに負 け ない体 制を
さ ら に技 術 力 を 高 め 、他 の車
部長は ﹁
J Rグ ループ 唯 一の
車 両開発 ・製 造拠 点 とし て、
生 産し てい る 。矢 口弘 志 計画
向 け の通動 型 ・近郊型 電 車 を
新 津 車両 製 作 所 。主 に東京 圏
鉄道のまち復活
夢 のせSL走れ
設 を産 業 遺 産 とし て保 存 、整
客 誘致に も懸 命 であ る 。
薦夢
産経 新 聞 夕 刊 よ り)
(3月 5日
◆ ﹁
拝啓 背景 ﹂は 今回 で終
わり ま す 。
平成 11年 春から 磐越西線新津駅 から鹿瀬町の
日出谷駅 まで SLが走 ることにな りました。
SLと は Steam― Locomo一 tiveの
ロヨ
ムー
ザカ で蒸気機関車 のこと。この記事
略語 (好 ―
は 3月 5日 付産経新聞夕千1と 3月 28日 付朝 日新聞
夕刊 に掲載 されたものです。
ら 大 正 にか け て 日本最大 の 産
も 、い にし えは海港 であ った
と も 言わ れ る 一時 を経 て 、大
正 期以 降 、信越 ・羽越 一磐越
陸 路 の要衝 ﹂ ﹁
の ﹁
鉄道 のま
西 線 が 分岐 する 日本海側 有数
ち ﹂と し て栄 え た。
し か し 、近年 は 、中継 地と
し ての位置 付け も低 下。とり
わ け 、新 津 を経由しない上越
分 の新 潟市 のベ ッドタウ ンと
新 幹 線 開 業後は 、電車 で十 二
し ての性格 が強 くな った 。
そし て 、国鉄 の民営 化も相
ま って 、鉄 道のまちの看板 で
あ った機関区 、工場 、鉄道学
園 など も相次 い で縮小 、廃止
さ れ てい った 。
整 備 した い ﹂と 意 気高 い 。
さらに 、地 域住 民 の側 から
も 、市内 の小学 校 に保存 され
14
そん な 新津も 、鉄道以外 に
二 つの顔を 持 っている。その
一つは ﹁
花 のまち 一。甘 くか
磐越西線 にSLが 走 る
蒲 原 平 野 中 央 に ある この 地
新潟県・新津市
X田 田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田
表紙説 明参照
錦療絵 記
四月最後の一週間を村松で過 ごした。前日迄、真夏並
・
の暑さだ ったのに、す転 してス トープの要る寒さに変わ
った り、その一週間の天気は異常だ ったが、時まさに山
菜のシーズンで・
、久 し振 りに取 り立てのタラの芽 山 う
ど、こごみ等を堪能させてもらった。
大会当日に配布する、この会報誌の最終打ち合わせを
終えて雑談に入る。差 し入れのお酒で喉を潤 している時
八木さんが「ここ…県ン
入会館…は本当に良いよ。入 り口
は暗いんだけど、中に入ると、とても温かい雰囲気を感
じさせる。今日も、昼食を食べていたら “
喉が乾くで し
田んぼには水が張られは じめ 、稲の苗を自転車に積ん
ょう"っ て、わざわざお茶を持 って来てくれるんだよ。
で行 く農夫に出会 った りした。ひ弱そうに微風にさえ揺
こんな、ほのぼの とした良い所は初めてだよ。本当に良
1)ぐ 苗、植えられたばか りの苗は本当に、か弱気で、真
いよJと 言 う。新潟県人の人柄が自然の温かさを持 って
夏には強烈な太陽に耐え、秋には黄金の穂を重そうに実
いるのだろうか。良い気分で会議を終えることが出来ま
らせるなんて、とても思えない。自然の良さを十分に満
レ
ヒ
た。
(深 見 記 )
喫 して東京に戻 り、翌日、最終の編集会議のために ヒ野
の新潟県人会館へ行く。
平 成 10年
6月
第 25号
発 行 人 :新 潟 県 立村松 高等 学校 同窓会 東 京支 部 広 報 部
事務 局 :〒 113-0034 東京 都 文京 区湯 島 2-30-9 欄 ツル マ キ
内
03-3818-6448
Fハ D( 03-3818-6270
郵 候:振 替 00160-9-26339
TE〕 Iン
15
歌
校
旧県立 村 松 中学校校歌
1.
塵 の巷 を遠 ざけて
旧村松高等女学校校歌
4.万 緑 の気地 に潜 み
現
1.愛 宕 の山 の む ら松 の
雲 たち ま よ う白山 の
風雪野 山 に荒 るる時
み どりの色 の常盤 なる
麓 に立 て る松 の群
色 さえ変 え ぬ 常盤 樹 の
操 を胸 に 日の本 の
見 よ凌宵 の気 を含 む
高 きは誰が操 ぞや
をみなの徳 を磨 かばや
1.
歌
相馬御 風
作詞
中山晋平
作曲
普 く照 らす 天 つ 日の
光 を浴 びて 年 々 に
伸 びて しやまぬ若松の
緑色濃 き木陰 には
それ英雄 も人傑 も
心 は身 は も真 夏 なほ
ときわ の志操 いや 高 く
夏 も尽 せぬ 泉 あ り
人 の子吾 等 がた ぐい な り
日に輝 ける白山 の
学徒 われ らの在 るところ
湧 きて流 れて末 終 に
鳴呼松城 の健男児
雲 に もま さる清 さもて
明朗 の和気 み なぎれ り
江洋 と して 海 に入 る
奮 いて立 つ べ し諸共 に
正 しき道 を進 まばや
5。
見 よ質実 に清純 に
鳴呼松城 の健 男子
落葉 を くぐる流 れ に も
勇 みて立 つべ し諸共 に
巌石砕 く力 あ り
桜 の花 の う らうらと
清 きは水 の姿 にて
のぼ る朝 日に匂 う ご と
強 きは誰が心 ぞや
気 高 き姿保 たばや
応
H
1.
其 の名 も高 き この里 の
進取 の 生 気湧 き溢れ
文化の 花 の 咲 くと ころ
希望 は常 に輝 ける
道 に我 らを 進ま しむ
努 めなんいざもろともに
歌
援
国
ロ
3.今 壮快 の晴れ戦
緑濃 き臥龍 ケ丘 に
臥龍原 頭幾 星霜
松城 健 児 六 百 が
轟 くは我等 が歓 呼
切磋 琢磨 の功 を経 て
祖 国 の 為 に剛健 の
見 よ雄 叫び の只 中 に
若人 の高 なる血潮
花 くれ な いの香 に匂 う
大 図 を こ こ に定 め ん と
我 等 が 望 み一筋 に
たたえつつ春 の 日め ぐる
誉 れ は高 き松城 の
送 りい だ せ し我 が 勇士
肩 にぞ かか る勇戦士
健児 が胸 に血 ゃぉ どる
覇 権 を ゆ ず る こ となかれ
覇 権 をゆず ることなかれ
我 等 六 百 こ こに あ り
我 等 六 百 こ こにあ り
い ざ叫べ 若 人 の誇 り
わななける力 の腕
我 等 がえ らぶ ます らおの
見よや君歓喜 の胸 に
誉 れ は海 の 湧 くが ごと
臥 龍 原頭 精 気 あ り
輝 くは永久 の勝利
望 み は雲 の ゆ くが ご と
義 憤 に満 ち し丈 夫 が
月 の桂 をな ゆず りそ
嬌 奢 の 潮 せ きとめて
栄 えあ る名をぞとこしえに
逸 惰 の 眠 り打 ち破 り
高 うつ 胸 の 雄 叫 び に
進 め とな るを如 何 にせ ん
◇
︲
主日Fい﹂︱
︲幽 臨鵬
作 詞 西条 八十
作 曲 服部 良 一
一、 若 く あ か る い 歌 声 に
雪 崩 は消 え る 花 も 咲 く
青 い山 脈 雪 割 桜
空 のは て
今 日も わ れ ら の 夢 を よ ぶ
二、 古 い上 衣 よ さ よ う な ら
さ みし い夢 よ さ よ う な ら
︲
曇〓へ
謬服 バ ラ缶︺
土
日い︱
︰
あ こが れ の
旅 の乙女 に 鳥 も 晴 く
古同 状惧 〓 一年 十許宝
作 詞 丘灯 至 夫
作曲 遠藤 実
一、 赤 い夕 陽 が 校 舎 を そめ て
エレ の木 陰 に はず む声
昌校 三年 生 ぼ く ら
あ あ 一
離 れ離 れ に な ろう と も
ク ラ スな か ま は い つま でも
二、 残 り少 な い 日数 を 胸 に
夢 が はば た く 遠 い空
品校 三年 生 ぼ く ら
あ あ 一
道 は それ ぞ れ 別 れ ても
越 え て歌 お う こ の歌 を