四度目のパリ旅行で気づいたこと あの戦争と人種平等社会の実現について 二〇一三年の五月下旬、イタリア二都市を観た後、パリに行きました。季節のいい時期に と計画したのですが、異常気象とかで雨が多く、寒かったのが予想外でした。 四度目のパリでは、「モネの家」がある郊外ジヴェルニーに足を伸ばしたのを皮切りに毎 日美術館巡りをし、オペラ座では妻が念願していたバレエを観ました。 ホテルで疲れたからだを休めながら、ぼんやりとテレビを見ていて感じたことがあります。 それは、黒人の登場が大変多いということです。 日本でもバラエティや CM に黒人がよく出ますが、その比ではありません。 音楽・スポーツ番組、ドラマだけでなくニュースなどの解説者や子供番組のお兄さん・お 姉さん役にまで、とにかくよく出ているのです。 しかし、テレビ放送が始まった頃の西洋では、全く有り得ないことだったでしょう。 私の記憶では、小学校の体育館で観た「一九五二年ヘルシンキ・オリンピック記録映画」 には、黒人選手が活躍していたというシーンはなかったように思います。 五十~六十年前と今とでは、全く様変わりしているのです。つまり、人種問題に関して二 十世紀半ばに大変革が起こったのではないかと、思い至りました。 その原因は何かと考えてみると、やはり、あの戦争に行きつかざるを得ません。 石油ほか重要資源を断たれたことなどから日本は七十二年前、米英蘭三国と開戦に至り、 僅か数か月で東南アジアの植民地から、三百年以上支配を続けた宗主国を駆逐しました。 現地では指導者育成や国軍養成を行うことにより、二年も経ないうちにビルマ、フィリッ ピンを独立させ、インドやインドネシアなどにも独立の希望を与えました。その間、たった 4 年半でした。 日本敗戦後、目覚めたアジアの民族の多くは、支配復活のために戻ってきた旧宗主国を自 分たちの力で打ち負かし、独立をかちとりました。その後、アフリカ各地でも黒人国家の独 立が相次ぎました。 つまり、欧米列強による植民地支配体制を打破するきっかけとなったのが日本の対米英蘭 戦争でした。 戦後設立された国際連合には、有色人種の国が次々と加盟を認められ、国際政治の場で、 国を代表した黒人や東洋人が白人と堂々と渡り合うこととなり、やがて人種差別は撤廃され ました。 ふりかえれば、第一次欧州大戦後のヴェルサイユ会議における国際連盟結成に際し、日本 が「人種差別撤廃」条項を設けることを提案した事実からしても、「アジアの解放」は日本 の悲願だったと言えるでしょう。 併合という形で日本の一部になった朝鮮半島や、七~八年間、半分近くが日本の支配下に 置かれたシナ大陸を除き、東南アジアの国々のリーダーはそのことをみな分かっていて、日 本の功績を高く評価しています。「日本があの戦争を戦わなかったら、我われは永久に独立 できなかった」とまでいうリーダーもいました。 逆に米英豪などからはひどく憎まれ、打ち砕かれましたけれど・・・。 ともあれ、人種平等実現の根底に日本の功績を否定できないという事実を、私たち日本人 も自覚すべきではないかと気付かされた旅でした。
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