激流in韓国

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River-touring&Rafting in Korea
この企画は、大勢の人々の協力の下、成り立っ
たものである。親切にしていただいた全ての
人々に、この場を借りてお礼申し上げます。
特に我々の急な申し出を快く引き受けていただ
いた OB の後藤さん、キムさんには大変お世話
になりました。僕らの熱い夏にウィヤヨー!!
〔目的〕
Rafting における組織力、及び技術力の向上
〔概要〕
日本からライケン(ラフトボート)を韓国に持ち
込み、River・touring と Rafting を行う。(River・
touring も Rafting には変わりないのだが、ここで
は、別儀とさせていただく)
〔隊員データ〕
島津 智行 隊長・記録・医療
応用生物科学科二年次 O型
1978 年 10 月 5 日生
生身の人間で唯一、スーパーコンピュー
ターと張り合える男
荷物を置いておく拠点となる場所などの問題が
生じてくる。これは、現地での協力を得ることで
解決したのだが、それにはお互いのスケジュー
ルを調整する必要があった。結局、キムさん達が
合わせてくれる格好になった。はじめに候補と
して、ニアリンチョンとハンタンガンが挙がっ
た我々がより高いレベルとを望んだので、ニア
リンチョンに決まった。
韓国における夏は、東京のそれと大差はない。
高温多湿の気候で東京よりは降水量が多いのが
特徴である。夏に川の水量が多く、水温も低い。
〔活動地域〕
東江(ドゥンガン)チョンソン∼ヨンウォル間・
72km クラス1∼2 ドゥンガンは、チョンソン
駅からすぐアプローチできるということなので、
キムさん達の都合に関わらず、自分たちだけで 〔活動中止事項〕
でも行うことを決めていた。活動前半に、肩慣ら
現地情勢の変化により、活動不能と判断した場
しとして行った。
合。
ニアリン川(ニアリンチョン)NLCReports クラ
突然の増水などにより、降下不能な状態である
ブハウス周辺 クラス 2∼3 ラフティングを行
場合。
うにあたって、下り終えた後のピックアップや
隊員の怪我・病気等。
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近藤 俊樹 渉外
法律学科二年次 A型
1977 年 10 月 9 日生
味が濃けりゃ、何でも美味しいと言う幸せ
な男
柳沼 宏美 会計
法律学科一年次 B型
1980 年 1 月 29 日生
CMでお馴染みのお色気フェロモン爆発の
十八歳
〔装備〕
(団体装備)個人装備については、任意とする。
ボート(オカモト・ライケン)× 1 キャリア
PFD(America’s cup)× 5 ヘルメット× 5
ダブルアクション× 1 足踏みポンプ× 1
ウェットスーツ× 5 パドル× 5
修理セット(予備バルブ含む) スローロープ× 2
内田 大介 食料・装備
応用科学科二年次 A型
1978 年
6 月 28 日生
〔食料〕とにかくなんでも辛い。よーしゃなく辛
自分の「眠い」、「食いたい」という欲求に恐
い!でも日本人の味覚に合った料理が多 いの
ろしく忠実な男。自らを大食いではなく、 で は な い だ ろ う か ? 犬 を 食 べ る な ど の カ ル
あくまでもグルメだと主張する・通称モグ
チャーギャップもしばしば。
モグ
〔会計〕
鈴木 裕也 撮影
交通費 日本国内は青春 18 切符での移動。一枚
応用生物科学科二年次 A型
につき、5 日分あり¥11500
1977 年 1 月 26 日生
ちなみに下関までは一枚で行けた。
殺人未遂経験アリ
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2
2nd リバベン。ナイトステージ。実行委員会から result が発表され、チー
ム名が呼ばれる度に,歓喜の渦が膨れ上がった。僕たちはその中にいた。
確かに、自慢できるほどの順位じゃないかもしれない。しかし僕たちは、お互
いを信頼し、全力を尽くせたことに対し、ただ素直に感動していた。この熱い
思いを大切にしたい、
そしてもう一度このメンバーで大会に出場したいという
願望が沸いてくるのに、そう時間はかからなかった。
そうして、我々 4 人(シャア専用ちんこチーム)の中では、夏の活動は「川」と
いう自然の流れができていた。問題は、どの川を下るかということだった。四
万十川のような River・touring にもしたくない。かといって日本の川における
夏の水量はたかが知れている。そうなると、自然とフィールドは海外というこ
とになるのだが、それなりの準備と経費がかかる。そんなとき、以前後藤さん
達がやった韓国という案が浮上してきた。ここで論点となったのは、全く同じ
事をやるのかということだった。いわゆる冒険野郎は、とことんオリジナリ
ティーを追求する癖があるように思える。僕たちも例外ではない。しかし、技
術の向上を第一としているので、最良の選択だということで合意した。川に関
するきちんとした知識を身につけたり、
持久筋の強化に目標を据えているとい
う点では、強化合宿という感もある。普段の長期活動あるいは、四万十川のよ
うなリバーツーリングとも一線を画す企画であると理解していただければ幸い
である。
(企画書より一部抜粋し、修正)
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部室から下関まで
日本脱出∼キムさんとの出会い∼
8 月 15 日、PM11:58、毎度おなじみの大垣行
き電車に乗り込んだ我々を待っていたのは、下
関まで幾度となく繰り返されるあの光景であっ
た(見送りありがとうございます!)。そんな事は
分かっちゃいたが、あの黄色い奴(ライケン・オ
カモト製)が重い!四万十川リバーツーリングのと
きのように、大人数がいるわけではないので、そ
れぞれある程度の団体装備を持たなくてはなら
ない。よって荷物争奪ジャンケンバトルの時は、
真剣にならざるをえない(もちろん女性差別はナ
シ!)。
多くの乗り継ぎを経て、16 日の夜に下関に着
くことができた。その時は、韓国でもこんな事の
繰り返しが待っているとは知る由もなかった。
17 日の夕方に出港することになっていたので、
それまでの時間は、デパートに行き、キムさん達
へのお土産を捜し求めた。その際 CD 屋の前で、
「ほたるの墓」のサンプル上映を人目も気にせず、
ほぼ最初から最後まで観賞した。今後、食べ残し
をしないことをせっちゃん(栄養失調により、幼
くして死んでしまう主人公の妹)と頬を伝い流れ
る涙に誓った。
関釜フェリーは下関を夕方に出港して、次の
日の朝にプサン港入りするのだが、実際には入
港しないだけで深夜にはほとんど着いていた。
二等B客室だが、どう見てもヤバそうな我々の
テリトリーに近づいて来る輩もなく、大量の荷
物で一帯を占拠した(荷物の量だけをみると10人
ぐらいは、居ると思われてただろう)。マークす
べきアジュンマ(オバサン韓国版)も見当たらず、
飲み会がしめやかに行われた。そして朝、窓の外
には韓国が!!この時すでに18日になっていた。い
まどき、地球の裏側である南米に行くのでも、そ
んなにかからないのに。荷物検査の際、ベルトコ
ンベアーに乗ってきたキムさんへのお土産にな
るはずだった日本酒は、見事に割れていた。これ
も反日運動家の策略なのか?とも思ったが、別な
お土産としておかきを買っていたので良しとし
た。
港を出て、ハングル文字の看板がなければ、外
国へ来た実感がなかっただろう。予想通り、プサ
ン st. とフェリーターミナルは遠く、ライケン率
いる我々には非常に応えた。駅に着いてまず、ソ
ウルまでの電車のチケットを買い、キムさんに
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韓国到着の報告をした。その後、お決まりの本場
ロッテリアで食事をとり、観光気分でムグン
ファ号に乗り込んだ。日本のニュースでも騒が
れていたが、韓国でも水害が酷かったらしい。な
んと北部では洪水により地雷が流され、兵士が
探知器で探している記事が新聞に掲載されてい
た。電車から窓の外を見ると噂通り、南部のあり
とあらゆる場所で河川が氾濫していた。水位事
態も非常に高く、土手上の電柱が半分くらい水
に浸かっている状態だった。ただ笑うしかな
かった。
ついに夕方、その人口密集具合は東京以上と
言われる、大都市ソウルに着いた。キムさんに電
話をして、ソウルに着いたことを伝えると、わざ
わざ迎えに来てくれることになった。その後、牛
めしをご馳走してくれ、キムさんの実家の空き
部屋を提供してくれた。おかげさまで、韓国滞在
中は一度も民宿に泊まらずに済んだ。そして夜、
我々の出番はやってきた。ブルーウェーブカ
ヤッククラブの皆さんとの韓国式・夜の宴が始
まった。もちろん主役は、SOJU(韓国焼酎)。もち
ろん彼らには、割って飲むなんていう習慣はな
い。飲み干すとすぐに注いでくれるので、プレッ
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シャーを背負いながら、また飲むという悪循環
が続き、第 1Round にして早くもダメージ大!韓
国では我々で言うところの「乾杯!!」の代わりに
「ウィヤヨー!!」(他にもあるが)を使う。
これは「∼
のために」という意味で、出会いや友情などに対
しするねぎらいの言葉として使われる。これは
日本に戻った今でも好んでよく使う、心に残っ
たいい言葉である。ADVENTURE CLUB のため
に・・・
二軒目は若者が好みそうな、サイバー系電飾の
飲み屋に行き、韓国ビアをごちそうになった。こ
こで英語、フランス語堪能(日本語もかなり)なセ
オさんが加わった。彼は気配りの利く人で、みん
なを笑わせて場を盛り上げてくれる。何より
我々と同じニオイがしたので緊張も一気にほぐ
れた。しかし、SOJU のダメージ蓄積が響き、内
田、兄やん、2R にして早々と K.O 負け。キムさ
ん家に搬送される。残った日韓両代表は、屋台で
飲み直す。しかし余力もほとんど使い切り、アル
コール 25%のストレートが決まり、三人揃って
あえなくノックダウン。韓国人の強さを見せ付
けられる結果となった。
ドゥンガン・リバーツーリング
SOJU の良いところは、次の朝に残らない事だ
ろう。キムさん家で朝食までごちそうになり、お
父さんが日本の BS1(ケーブルテレビだと映るら
しい)を見せてくれるので、普段は見向きもしな
い世界情勢を興味アリ気に見るハメとなった。
ドゥンガン・リバーツーリングの起点となる
チョンソンまでのチケットをチョンニャニ駅ま
で予約しに行った。リバーツーリングと関係の
無い荷物は、キムさん家に置かせてもらい、夜行
列車に乗るために再びチョンニャニ駅へと地下
鉄を乗り継いだ。わずか一行足らずで表現され
ている出来事だが、実際には、
“自給 1500 円ぐら
いもらってもいーんでねーか?”ぐらいの労力
を要した。ホンさん(男性・ブルーウェーブカ
ヤックにも同じ性の人がたくさんいる)に差し入
れを頂き、ソウル市を後にした。
途中 AM2:00 にチョンサン(目的地は“チョン
ソン”!ハングル後の読めない我々には、誰かに聞
いてみるしかないのだが、どっちも同じに聞こ
える) で乗り継ぎをしなければならなかった。
AM1:55、昼間に仮眠を取ったにも関わらず、ま
だ誰も起きない(予想通り?)。しかし、なんとこ
の危機(韓国まで来ての寝過ごしという失態)を
救ったのは、ダークホース内田だった。この内田
という男、ご存知の通り PTO を考えず、己の体
内時計にのみに従って行動する(初日の出ラフト
の時、先輩が空気を入れているのに、その横でエ
アーマットを敷き眠ろうとしていたことでも実
証済み!てゆーか寒くて普通の神経じゃ寝れな
い!!)。そんなもんだから、単勝万馬券、場内大荒
れとなった。無事に乗り換えを終え、チョンソン
に着いたのがAM3:30頃だったので、駅のベンチ
で寝ることにした。ZZZ..............ガタッ............ガ
ンッ!ハッキリ言ってうるさかった。
始発の便に乗る人のざわめきで起こされた。
それでも起きない人はいる ( いつも同じメン
バー)。とりあえず、起きているメンツで下見に
行き、スタート地点を決めた。心配された水害の
影響はほとんどなさそうだった。ガン(漢字でか
くと河で、川よりも大きなものと思われる)と名
乗るだけのことはあって、予想していたよりも
川幅は広く、流れは非常に早かった。が、ざっと
見たところ難しそうなところもなく、“四万十
川”のような絶望的展開が待ち受けていると確
信した。駅に戻ると、お決まりと言わんばかりに
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公衆便所の前に、地元のヤンキー(外見より推定)
がタムロッていた。まだあどけなさの残るその
顔に、「日本、韓国、どこへ行っても同じなんだ
なー」と微笑ましさを感じた。とりあえずその時
は、腹ごしらえをすることが先決だった。空腹の
ため、我を見失っていたとは考えにくいが、見事
なまでの貧乏くじを引いてしまった。外観は普
通にみえた。中に入ってハングルのメニューを
見ていやな予感がした。当然我々、超知的軍団は
ハングル文字など、
理解できるハズもない(「地球
の歩き方」ハングル講座によると、法則さえ掴め
ば以外に簡単らしい。メニューぐらいは読める
ハズ!)。かといって、誰も覚えようとしない。「め
んどくせー」それこそが、一見、何の共通点も持
ち合わせていなさそうな、荒くれ者の集団を結
び付けている核となる精神である。話を先のカ
フェテリア(?!)での場面に戻そう!適当にメニュー
を指して「これ食わせろー」と言ってはみるもの
の、それはないと首を横に振るばかり。「じゃー
何があるんだよー」と言っていたら、アジュンマ
が冷凍庫から何かを取り出してきた。一見
ギョーザのようだったので、それを五つ頼んだ。
そして、ちゃんと人数分の料理が並べられた。味
の方は可もなく不可もなくといったところなの
だが、いかんせん一人前には多すぎる!ギョーザ
が、我こそがといわんばかりにスープからはみ
出ていた。誰がどう考えても多いだろうと不満
を漏らしながら、胃の中に押し込んだ。せっちゃ
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んへの誓いも虚しく、結局はみんな残してし
まった。何はともあれいよいよスタートである。
一日目
ようやくライケンの出番がやってきた。それ
にしても、朝飯を食った店のアジョッシ(オジサ
ン韓国版)がまだ(準備に意外と手間取った)見学
している。平日の昼間から一家の大黒柱が、なん
でそんな暇そうにしているんだ?心配になりな
がらもチョンソンを後にした。ここまでの長い、
長い道中は、大袈裟ではなく一刻も早く河へと
漕ぎ出したかった。実際は、飽きるのが驚くほど
に早かったが。つい最近まで水位が高かったこ
とを思わせるように、ビニールのごみがかなり
高いところで、ひかかっていた。
その後数時間下ると、10cm ぐらい水をかぶっ
ている堰堤のようなものがあった。その上を水
飛沫を上げながら、すごいスピードで車が通っ
ていた。どうやら道路らしい。右岸側に寄せて
ポーテージしようとすると、キャンプ客が近
寄ってきて、しきりにここで休んでいけ!といっ
てくれた。コーヒーを頂いたらすぐにでも行こ
うと思っていたのだが、それは甘い考えだった。
親戚一同で来ているらしいが、こいつらがとに
かくハイテンションで、さすがの我々も終始苦
笑いだった。真っ昼間から酔っ払っているのだ
が、とにかくウルサイ。お互い言葉は通じていな
いにもかかわらず、すごい積極性だ。そんな時、
近くにいたフィールドアドベンチャー全般のツ
アーを主催しているというパクさんと知り合っ
た。この人は英語ができて、いろいろなドゥンガ
ンに関する情報をくれた。彼らは相変わらずウ
ルサイが、親切にもサムゲタンをご馳走してく
れた。キムチも美味かった。しかし世の中、あり
がた迷惑というのがありまして、どう見てもお
腹いっぱいだというのに、親切な人ほどしきり
におかわりを勧めてくる。その勧めはなかなか
断ることはできない。そして親切に応えるため
に無理をするという悪循環サイクルが出来上が
る。何はともあれ、嬉しさを感じた。盛り上がり
は絶頂に達し、アジュンマたちも大ハッスルだ。
た。ロッカーの上をステージ代わりに熱唱した。
途中、遊びに来たパクさんも開いた口がふさが
らないといった感じだった。
「ブラジャーしてないから乳首が立って見えんだ
よー!!」と突っ込みたくて、ウズウズしている
我々の気持ちなど、つゆ知らずといった感じだ。
カメラに水をかけてきたり、ラジカセの録音ボ
タンを勝手に弄くり、変な韓国語を吹き込むは
で、やりたい放題である。あれだけ年甲斐もなく
ハシャゲルのには脱帽である。おかげさまで、と
にかく楽しい時間を過ごせた。そうしているう
ちに、日も暮れてしまい、ここに居座ることにな
り、パクさんから教えてもらった廃校で、寝るこ
とにした。そうここは、後藤さん達も訪れたとい
う、廃校だったのだ。パクさんは車で寝るとい
う。その夜は、久々の開放感で、騒ぎに騒いだ。
グリーン(もはや我々には定番の焼酎)を浴びるよ
うに飲み、奇声を発し、教室の中で暴れまくっ
うとしているにもかかわらず、反応はドゥンガ
ンの水同様に冷たい。なんてノリが悪いんだろ
う?なかなか距離も稼げず、早々とビバークす
ることが決定。
二日目
朝起きると昨日吐いたゲロを鶏がつまんでい
たのが笑えた。なんてすごいエコロジー・システ
ムなのだろうと感動してしまった。パクさんと
も別れを告げ、出発となった。早くも「おまえが
漕げ!」の押し付け合いとなる。日差しは強く非
常に暑いのだが、水温が低すぎて泳ぐ気にもな
れない。この辺になるとコマーシャルラフトが
目立ってきた。しかし、こっちが笑わしてあげよ
三日目
川を下り始めて数時間、川に向かって、叫んで
いるアジュンマを見かけた。尋常じゃない号泣
ぶりだ。多分息子さんか誰かをその場所で亡く
したのだろう。すぐ上で、コマーシャルラフトの
客が中州に取り残されていたので、たった今、事
故があったのかなーと一瞬心配したが、みんな
笑っていたのでレクリエーションの一環でア
ジュンマとは関係ないということで安心した。
しかしもし、自分たちがラフトをやってて、死ん
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カヤックに乗った後に、ラフトに乗るとバカ
みたいに進まない。この文 明 時 代になん
て非 効 率な代 物なんだろう。
でしまう事があったら、さっきのアジュンマの
ように、肉親を悲しませてしまうんだなあと想
うと心が痛んだ。好きなことをやって死ねるの
なら、人として本望なのだが・・・・・・・・
我々はブルーな気分を振り払うかのように、
後藤さん達の報告書に記されていたプライベー
トビーチをひたすら目指した。しかし、低知能症
候群の我々には、具体的にどれのことを指して
いるか分からないまま(それらしいのが結構いっ
ぱいある)、アラヤン峡を迎えてしまった。古代
中国を彷彿とさせる巨大岩は、このツーリング
のハイライトであった。そうしているうちに砂
地は消えていった。ツーリング中の楽しみなん
て限られていて、結構期待していたのにー。ヤル
気がなくなったのであっさり切り上げ、その憂
さ晴らしをするかのように夜は騒いだ。山の向
こうの空は、周囲と比べて明るかった。もうヨン
ウォルが近いことを意味していた。
壊した。すぐ近くに例の洞窟(鍋 97 をご覧あそば
せ!)を発見。雨も降り出していたので、とても
奥まで入る気にはなれなかった。そこを過ぎる
とヨンウォルはすぐで、早いうちに着くことが
できた。鉄橋の下にテントを設営したのだが、雨
は横殴りに降り注ぎ、ほとんど効果を発揮して
くれなかった。夜は、念願のプルゴギを食べたの
だが、オイオイッて感じだった。意気消沈してい
る我々を嘲笑うかのように、雨は降り続けた。
五日目
この日は、電車で移動するだけなので、朝も比
較的ゆっくりすることができた。昼には、ヨン
ウォル駅に行き、公衆水道で洗髪し、歯を磨い
た。そうしてドゥンガンを後にした。
ソウルに戻った我々を、セオさん達が焼き肉
屋に連れていってくれた。そこの主人がまたす
ごい人で、ボディービルをやっているという肉
体はもちろん、てっぺんの薄くなったジャンボ
四日目
尾崎カット。何といっても肉体とのギャップが
朝、明るくなると、すぐ近くにキャンプ客が居
見事なまでの、今にも吸い込まれそうな輝いた
た事が判明。昨夜はさぞ恐ろしかったであろう。 瞳。一度見たら忘れない強烈なインパクトで
何語か分からない言語の絶叫が夜のしじまに響
あった。食も酒も非常に進んで、会が盛り上がる
き渡ったのだから。ここでも人々の幸せをぶち
一方で、路上に一人座り込んでいる男(内田)がい
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る。みんな地下鉄の終電がなくなるというので、
お開きになったのだが、そいつはまともに歩か
ない上、終いには路上に倒れ込む始末。まさにイ
ンターナショナル失礼な奴だ。みんなそのダメ
さ加減に、電車を諦めたのか、最後まで介抱して
くれた。とにかくご迷惑をおかけしました。こう
いう時って、たいてい本人は覚えていないから、
世の中理不尽である。お酒は節度を守りましょ
う。
ニアリンチョン・リバーツーリング
ここからはカヤッククラブの人達との共同活
動となった。キムさん達は、一足先に目的地へ向
かっていた。指示されるがままにバスに乗り、終
点までひたすら揺られ続けた。韓国の道路事情
の悪さは、聞いてはいたものの、客を乗せ一般道
で 100km/h 以上出すところがスゴイ。終盤は、日
光いろは坂を彷彿させる山道が続いた。道ゆく
女学生達もソウルの娘たちとは、どこか雰囲気
が違う。こうして着いた、軍用ヘリがビシバシ飛
び交うその町は、どこか韓国最北の地といった
様相を呈していた。ご存知の通り、南北停戦ライ
ンは北緯 38 度であり、その付近に近づくと一気
に軍事的緊張が高まる。
この活動では、ニアリンチョンを拠点に活動
しているNLCReportsの協力を全面的に仰いだ(キ
ムさんをはじめ、ブルーウェーブカヤックのみ
なさんも参加)。クラブハウスで寝泊まりをさせ
てもらい、日中は一緒に川を下り、夜は SOJU を
酌み交わした。初日の歓迎会では、プレッシャー
(盛り上げなければならない)のあまり、近藤・鈴
木がいち早く壊れ、アラレは車でどこかへ連れ
去られるという事態が起きた。そして朝、島津ご
自慢のエアーマットがなぜか(?!)濡れていた。そ
れは、寝ションベンするほどスゴイ前夜の飲み
を物語る凄惨な現場だった。
さて、いよいよツーリングが始まったのであ
るが、キムさん達はカヤックで、アドベンチーム
だけがラフトであった。差をつけられまいと、必
死に漕ぐのだが、いかんせん推進力に違いがあ
りすぎた。ドゥンガンでは「おまえ漕げ!」の応酬
だったのに、キムさんのご機嫌を損なわぬよう、
みんなが死ぬ気で頑張った。ニアリンチョンは
水もキレイで景観的にも美しい。しかし、初日は
とにかく瀬がなかった。楽しみといえば貝の乱
獲(酒の肴になる)ぐらいだ。カヤック(ホワイト
ウォーター用)にも乗らせてもらったが、これが
また安定性がなく難しい。カヤックに乗った後
に、ラフトに乗るとバカみたいに進まない。この
文明時代になんて非効率な代物なんだろうとあ
きれてしまう。
とにもかくにも、30km を漕ぎ終え、くたくた
になった。その夜サムゲタンをご馳走になった
のだが、ここでも内田君にヤラレタ!鶏が丸ご
と出てきて、それに塩を付けていただくのだが、
なぜか鶏の皮だけがきれいに剥ぎ取られて皿の
端に寄せられている。おそらく誰かが意図的に
残したものだろう。しかしモグモグ(内田)は「な
んで一番美味いとこ食べないのー?」と言い、次
の瞬間には、すでに箸が伸びていた。それを見て
いたパクさんは、明らかに嫌そうな顔をしてい
た。それにもおかまいなしに食い続けるモグに
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新 緑 薫 る “ あ の 季 節 ”、 一 回 り 大 き く
なった僕たちが帰ってくる。
さらば近くて遠い国・韓国!!
対し、控えめで有名な僕らは、脱帽するしかな
かった。
次の日は、もっと下流を下ったのだが、ようや
くクラス 3 の瀬が出現し、楽しませてくれた。
ドゥンガンのときから、とにかくホワイト
ウォーターに突っ込みたかったので、なんとも
爽快だった。しかしこの夜、夕めしがなかった。
キムさん達とは別々に用意しなければならな
かったのだが、不手際があり、用意できずじま
い。買いに行くにも秘境なので、時間がかかる。
こんな豊かなこのご時勢に、本気でひもじい想
いをした。一方韓国チームは、プルゴギ鍋でうま
そうな肉を焼いていた。物欲しげにみていると、
やっとお呼びがかかった。その肉は、犬の肉で、
さっき外で殺してさばいたと言っていたが、そ
んなことはどーでもよかった。何しろ腹が減っ
ていたのだ。こうして餓死の危機を免れた我々
に、当然のように SOJU が注がれ、こちらも返杯
した。ここまで来ると、それは建前にしかすぎ
ず、お互いキツイというのが見て取れた。さすが
の韓国人にもキツイと分かり、大変な自信につ
ながった。その後、これからのスケジュールを話
し合ったのだが「ラフティング、ラフティング、
ラフティングいいですかー?」とキムさんが聞い
てきたので、「OK!」と男気を見せた。この時点で、
ソウル・エバーランド、ロッテワールド(両者と
も遊園地)ツアーの夢は玉砕された。かなり上流
の方に、クラス4の瀬があるらしいがラフトでは
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下れない(川幅がない)と言われ、次の日も同じ
コースをやることにした。キムさん達は、会議が
あるので、ピックアップの車をよこすから、自分
たちだけで下ってくれとの事だった。 はれて
自分たちだけのラフティングとなった。途中、会
議と言っていたはずのキムさん達が乗った車が、
カヤックを積み上流の方に向かっていくのを
我々は見逃さなかった。38 度線らしき場所を超
えたのだが、何の警戒態勢もないため、記念撮影
をした。そこはあくまでも北緯38度線であり、国
境ではない。しかし、軍人さん達は不審そうな顔
で我々を見つめては、通り過ぎた。ニアリンチョ
ン最後の夜は、本格的な料理となった。みんなに
日本の味・味噌汁を振る舞った。口ではおいしい
と言ってくれるものの、ちっとも美味そうでは
ない。それを実証するかのように、結構な量が
残った。帰りはキムさんの車に乗せてもらえる
ことになった。車内には、最新韓国ミュージック
が嵐のように吹き荒れていた。大袈裟ではなく、
危うく精神崩壊する一歩手前までいった。しか
も、メロディーは何かのパクリだし、耳障りこの
上ないヴォーカルだった。これには助手席に
座っていたパクさんも参ったらしく、さり気な
くボリュームつまみを回して音を下げるのだが、
一人ノリノリのキムさんが、再び音量を上げた。
年功序列という儒教の教えの下では、誰もキム
さんには逆らえない。こうして生き地獄ともい
える時間が過ぎた。
間である。さらに体を擦りまくり、垢を次々に生
産した。もちろん次に入る人のことなど考えて
いない。御満悦の御一行は、ついに日本に戻って
きた。税関では全く荷物検査を受けなかった。お
土産を各自家に送った。その時知ったのだが、
我々が航海している間に北朝鮮が日本海にミサ
イルを打ち込んでいたらしい。鈴木を除いて、四
万十という活動が残されていた。解散するとき
「もー二度とやらねー!」とみんなが口をそろえて
言った。そうして僕らの辛く(からく)辛い(つら
い)夏は終わった。
この日の午後はフリータイムで、ついに観光
ができる!と思いきや、韓国ウォンがほとんどな
い。その日は、運悪く土曜日だったので、銀行は
午前だけの営業だった。これだけは気が進まな
かったが、ホテルで両替をすることになった。し
かもヒルトンホテルで。男四人はともかく、紅一
点であるはずのアラレが、ソウルでも一番みす
ぼらしーんではねーんでねーかというくらい、
濁一点だった。ホテルスタッフの蔑みの視線を
避けるように足早にホテルを後にした。焼き肉
を堪能し、夜のソウル(東大門市場)も味わった。
これからの未来へ
夜の街らしく、pm9:00 から開くデパートや店
10/10 前後に行われた長良川 WWF では、このメ
ばっかりなのには驚いた。
ンバーを中心にチームを組むことができた。大
次の日の朝、起きるとキムさんが、新聞を見せ
会のレベルそのものは、リバベンよりずっと高
てきた。何とキムさんの姿が出ている。あの会議
く感じたが、その中でもやって行けるという、あ
と言っていた日の出来事のようだ。どうやら内
る程度の手応えを感じた。着実な成果を感じ、大
緒で楽しいことでもしていたようだ。その日も
きな自信となった。結論から言えば、十分に目的
時間を惜しむように観光をした。しかしすぐに
を達成できたと思う。ただ目的そのものが、
“向
別れの時はやってきた。言葉では表せないほど
上”という曖昧な言葉であり、成功にも幅があ
の感謝を感じながら、プサン行きの夜行列車に
る。逆に言えば上限というものも存在しない。だ
乗り込んだ。もう乗り換えもないから朝まで寝
から、現状に満足することなく、常に上を目指し
れる。再びプサンに降り立った我々は、まずフェ
ていきたい。
リーターミナルに行き、帰りのチッケトを買い
“だ
求め、ロッテデパートにお土産を買いに行った。 “いったい何万回と漕いできたのだろう?”、
りー!”と何回言っただろう?“これほど人の動
キムチも買い込み、後は船に乗り込むだけだっ
力を無駄に使ってるスポーツはないんじゃない
た。その船は、まだ就航 4 回目で、非常にピカピ
か?”などといつも考えてた。あの頃そう思って
カ。日本船籍であり、サービスはもちろんサイ
いた行為が、今ではもう体が欲している。もはや
コー。行きの船と同じ値段なのが許せない程よ
パドリング・ホリックといったところだろう
かった。カラオケも特別にタダでやらせても
か?
らった。特筆すべきはお風呂である。何せ行きの
新緑薫る“あの季節”
、一回り大きくなった僕た
フェリー以来の熱湯なので、垢が出まくること
ちが帰ってくる。
間違いなし。当然一番乗りで風呂場に行き、体も
全ての瞬間にカムサハムニダ!!
洗わずに真新しい湯船に飛び込んだ。至福の瞬
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