現象学的心理学の可能性

アジア太平洋レビュー 2010
現象学的心理学の可能性
大阪経済法科大学
山竹伸二
( )
アジア太平洋研究センター
フッサールの主張した現象学本来の思考を十分
キーワード:記述心理学、現象学的精神病理
活かしきれていない。これは、現象学の難解さ
学、人間性心理学、現象学、本質観取、超
ゆえに、またフッサールの記述の晦渋さゆえに、
越論的還元
誤った現象学理解が心理学の世界に浸透してい
ることに原因がある。
本稿はこうした現状に対して、フッサール現
現象学的な心理学の問題点
象学の原点に立ち返り、これまでの現象学的な
フッサールの創始した現象学の考え方を心理
心理学の功績と問題点を精査すると同時に、現
学に応用し、現象学の観点から心理学の諸問題
象学を基盤とする心理学の本来の可能性を考察
を考察しようとする研究には、記述心理学、現
することをテーマとしている。現象学の理論を
象学的精神病理学、人間性心理学などが存在す
正しく理解し、その思考法をうまく活用できる
るのだが、現象学の徹底した原理的思考を理解
なら、次のような可能性が開かれるであろう。
すれば、そこに大きな可能性があることは否め
まず「本質観取」という現象学的思考法の正
ない。しかし現在、これらの現象学的な心理学
確な理解と使用によって、心理学における諸概
は、心理学のマイナーな学派としてわずかに認
念の本質を明らかにし、心理学諸理論の意義を
知されているにすぎず、主流の実証科学的な心
明確にすることができる。このことは、こうし
理学と比べると、また無意識の解釈によって人
た諸理論における対立を解消する可能性を開い
気を博してきた深層心理学と比べても、その影
てくれるだろう。それは、臨床その他の応用分
響力は大きく水をあけられている。その理由と
野における基本的な共通原理を見出す上で、は
して、次の二つのことが考えられるだろう。
かりしれないほどの寄与をもたらすはずであ
第一に、自然科学の飛躍的な発展によって、
る。
科学的に実証されざる理論には価値がない、と
また、フッサール現象学の中心概念である「超
いった考え方が心理学の領域全般に広まってい
越論的還元」の意義が理解されれば、「心」と
ること。このため、現象学のように主観的な意
いう認識対象の本質を明確にする可能性が開か
味や価値を問題にする学問は、あまり重視され
れる。そして心の本質が明らかになれば、現象
ない傾向がある。だが、主観的な意味や価値を
学的な心理学は多様な心理学の一潮流にとどま
扱わずして、はたして人間の心を研究すること
らず、心理学という学問全体の土台を築くこと
など可能なのだろうか? まさしくこうした問
ができる。それは、実証科学的な心理学や深層
題意識から現象学的な諸々の心理学が登場した
心理学の進展においても大きな意味を持つはず
のだが、科学の急速な進展のなかで、その主張
だ。
このように、現象学に基盤を置く心理学の可
は掻き消されてしまった。
第二に、従来の現象学的な心理学は主観的な
能性は広大で、しかも従来の現象学的な諸心理
意味を重視している点で、実証科学では掬い
学が踏み込んでいない問題が数多く残されてい
取れない問題をフォローしてきたと言えるが、
る。だがこれらの考察に移る前に、まずは従来
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現象学的心理学の可能性
の現象学的な心理学を実証科学的な心理学や深
動の原因をすべて外部の刺激に求めるのではな
層心理学と対比することで、その理論と成果を
く内的要因を重視すべきだと主張し、スキナー
確認しておくことにしよう。
は行動の原因に過去の経験が深く関わっている
と考え、プログラム学習や行動療法の原理を確
立した。
心理学の三つの潮流
一方、人間は要素全体の布置(ゲシュタルト)
心理学の源流は、17 世紀に登場したデカル
を知覚していると主張した、ウェルトハイマー、
トの心身二元論とロックのタブラ・ラサ説に遡
ケーラー、コフカらのゲシュタルト心理学も、
るが、「心」が科学的研究の対象となり、心理
要素主義のみならず、行動主義の考え方と鋭く
学が自然科学の一分野となったのは、19 世紀
対立しており、この考え方は後に認知心理学に
末、ブントがライプチヒ大学に心理学実験室を
も影響を与えている。1960 年代に登場した認
開設したときからであった。といっても、ロッ
知心理学は、当時の人工知能研究に触発され、
クの観念連合の考え方を受け継いだブントは、
人間の心を情報処理システムとして捉えるもの
内観によって意識内容を個々の要素に還元して
であった。これは観察不可能な心の内部につい
分析し、それらがいかに結合するのかを研究し
て、古典的な行動主義のように切り捨てるので
ていたので、ある意味で現象学と通じるものが
はなく、仮説を提示することで積極的に考察し
あった。
ようとするものであり、いまや現代心理学の主
しかし、こうしたブントの構成主義(要素主
流をなしている。
義)も、後にウィリアム・ジェイムズの機能主
以上が実証科学を土台に据えた心理学の展開
義によって批判されている。ジェイムズによれ
であり、別名「実験心理学」とも呼ばれている。
ば、問題は「なぜ心はそのように機能するのか」
一方では、精神分析を中心とする深層心理学の
という点にあったからだ。この考え方は行動主
系譜が存在し、実証科学中心の実験心理学と並
義に継承され、意識を重視した内観的方法は封
んで心理学の二大潮流をなしている。
フロイトが精神分析を創始したのは 19 世紀
印されることになった。意識内容よりも行動が
末のことであり、ブントによって実験心理学が
重視されるようになったのである。
1920 年代に台頭してきた行動主義は、心理
生み出された時期とほぼ一致する。両者とも科
学でありながらも「心」という主観を排した、
学的客観性を重んじている点では同じだが、深
徹底的な客観主義に基づいていた。ワトソンに
層心理学は「無意識」という科学的に証明し得
よれば、人間の行動はすべて「刺激-反応」と
ない仮説を導入しており、実証主義の心理学者
いう観察可能な対象に還元することができる。
たちからは厳しい批判を受けてきた。だが、そ
これはパブロフの条件反射説を応用した考え方
れでも精神分析は 20 世紀前半の精神医学、思
だが、すべては条件づけによって学習可能であ
想・文芸に巨大な影響を与え、一般の人々にも
る、というワトソンの確信は、健康な赤ちゃん
広く受け入れられてきた。精神分析を中心とす
を自分に預けてくれれば、いかなる人物にもし
る深層心理学の諸学派(自我心理学、対象関係
てみせる、と豪語したことからも窺い知ること
論、ユング派、アドラー派、ラカン派)の系譜
ができる。そして彼は、心理学は厳密な行動科
は、実験心理学とは異なったかたちで、その存
学であるべきだと主張し、後の心理学に大きな
在感を示してきたのである。
こうした心理学の二大潮流に対して、「現象
影響を与えたのである。
無論、ワトソンの発想では「一切の人間行動
学的心理学」という名称を表立って標榜してい
は反射運動にすぎない」ということなってし
る記述心理学的な研究(ジオルジ、キーン)は、
まうため、1930 年代には行動主義の内部にも
心理学の傍流に位置する一学派にすぎない。し
多くの批判が噴出することになった。たとえば
かし、20 世紀前半に登場した現象学的精神病
トールマン、ハルといった心理学者たちは、行
理学(ヤスパース、ビンスワンガー、ブランケ
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《心理学》 《精神医学》
実験心理学
・・・・ 行動主義、認知心理学
――― 生物学的精神医学
深層心理学
・・・・ 精神分析、ユング心理学
――― 力動精神医学
現象学的心理学 ・・・・ 記述心理学、人間性心理学 ――― 現象学的精神病理学
ンブルク)、1960 年代に登場した人間性心理学
法は「記述心理学」と呼ばれ、後の現象学的心
(ロロ・メイ、ロジャーズ、マズロー)など、
理学に先立って、早くから意味や価値の問題を
現象学的なアプローチを含んだ心理学の総称と
人間科学の主要テーマとして捉えていた。
して現象学的心理学を捉えるなら、それは実験
ディルタイの『精神科学序説』によれば、
「意
心理学と深層心理学に次ぐ第三の学派と見るこ
識の事実の分析は精神科学の中心であり、こう
ともできるだろう。実際、人間性心理学などは
して精神的世界の原理の認識は、歴史学派の精
しばしば心理学の「第三の勢力」と呼ばれてき
神に呼応して、精神的世界それ自身の領域のう
た。したがって、現代心理学は上の表のような
ちにとどまり、精神科学はそれだけで独立した
三つの潮流に分けることができる。
体系を形成している(1)」。これは要するに、精
以下、従来の現象学的心理学を、①記述心理
神の原理を意識の外部に求めてはいけない、意
学(個人の内面における意味を研究)、②現象
識の分析こそが精神の原理を明らかにする、と
学的精神病理学(病者の内面的意味から精神疾
いう主張である。人間の精神を研究する上で必
患を研究)、③人間性心理学(個人の成長と精
要なのは主観的な意味の研究であり、自然科学
神疾患の治癒を研究)の三つを含んだものとし
の観点から、精神と外部環境の因果関係に焦点
て捉え、順次検討することにしよう。
を当てても、本質的なことは何一つわからない。
このことを、ディルタイは早くから気づいてい
た。
記述心理学の系譜
こうした考え方は現象学と共通しているが、
近年、心理学のみならず医療・看護などの領
しかし一方でディルタイは、ロック、ヒューム、
域において、「質的研究」と呼ばれる研究法が
カントらは「経験や認識を表象に属する事実か
注目を浴びているが、質的研究は自然科学的な
ら説明してきた」と批判し、経験や認識の根底
量的研究、すなわち実験・観察のデータから問
題を数値化(量化)して考える研究とは異なり、
には「全体的人間」を置くべきだと述べている
。これはつまり、意識の背後に身体を備えた
(2)
対話などをとおして相手の心理的内容を記述、
人間存在が前提とされているわけだが、現象学
整理し、何らかの答を引き出すものだ。方法と
的に考えれば、これは証明し得ないことであり、
しては、KJ法、グラウンデット・セオリー、
留保(エポケー)しなければならない問題であっ
エスノグラフィー研究、ナラティヴ・アプロー
た。
チ、ライフ・ストーリー研究など多岐にわたる。
同じことはブレンターノの記述心理学にも言
現象学的方法もそのひとつとして位置づけられ
える。ブレンターノもまた、心理学は意識体験
ているが、これらの方法が共有する内面記述と
と関わりをもつべきだと考え、意識に現われた
意味の分析は、従来の現象学的心理学とほぼ一
対象の意味を分析する記述心理学を標榜した。
致する。
しかも彼が心的現象に固有な性格として捉えて
そもそも人間科学におけるこのような手法の
いた「志向性」の概念は、フッサールの現象学
源流は、19 世紀末に活躍したディルタイやブ
に大きな影響を与えている。しかし、「残念な
レンターノにまで遡ることができる。彼らの方
ことに彼は、本質的な点で自然主義的伝統から
(1) ヴィルヘルム・ディルタイ『ディルタイ全集(第1巻)精神科学序説Ⅰ』
(牧野英二編)法政大学出版局、2006 年、8頁
(2) 同上
(3) エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
(細谷恒夫・木田元訳)中央公論社、1995 年、419 頁
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現象学的心理学の可能性
くる先入見にとらえられていた(3)」とフッサー
された構造と意味を明確にすることをめざして
ルは述べている。これはブレンターノが意識の
いる。そうした経験の当事者の意識に現われた
実在性を前提としていたことへの批判である。
対象について、先入観を排して見つめ(現象学
確かにディルタイとブレンターノの記述心理
的還元)、想像のなかで背景にある地平をいろ
学は、意識の現象に焦点を当てている点で現象
いろと変えてみれば(想像変更)、ひとつの明
学と共通の地盤に立っている。しかし、意識は
確な意味が浮かび上がってくる(解釈)。その
身体を持った人間に属する実在的対象と見なさ
ような意味は、当人が暗黙のうちに理解してい
れおり、意識の実在性を留保するフッサールと
ることなのだが、はっきりと自覚していたわけ
は対照的である。また、ディルタイとブレンター
ではない。キーンによれば、こうした経験(現象)
ノの記述心理学が意識に現われた対象の意味を
の中核的な意味を明らかにすることこそ、現象
研究するとしても、現象学が主要テーマとして
学的心理学の中心的な仕事なのである。
また、アメリカの現象学的心理学を牽引して
いるような、多くの人が共通了解し得る意味=
「本質」の考察を目的としているわけではない。
きたジオルジは、次のように述べている。
要するに、フッサール現象学と記述心理学は
意識に現われた経験の意味を重視する点で共通
現象学に基礎を置く心理学は、第一に、眼の
しているが、フッサールはこれに加えて、意識
前に繰り広げられる現象へと開かれてある、と
の実在化を前提にせず(エポケー)、そうした
いう態度で対することによって、現われてくる
実在性の問題の解明も射程に入れていた。これ
ことをできる限り無前提なやり方で記述するこ
は「超越論的還元」という思考法によってはじ
とに関心を示します。(中略)第二に、やはり
めて解明できる。また意味を重視するにしても、
記述によって、現象に関してそのつどとられる
他者と共通了解し得る意味(本質)を取り出す
パースペクティヴの背後にある諸前提と、それ
ことを重視しており、これには「本質観取」と
が現われてくる文脈をできる限り明確にしよう
いう思考法が必要になる。
と努めます。第三に、事実を通して明らかになっ
しかし、現象学の応用分野と目されてきた現
象学的心理学の諸研究のほとんどが、ディルタ
てくる、現象の生きた意味を把握しようと努め
ます(5)。
イやブレンターノの記述心理学を継承したもの
にすぎず、現象学に特有な思考法(超越論的還
個人の経験の主観的世界(意識に現われた世
元および本質観取)を用いてはいない。それは
界)について、一切の前提(先入観)を置かず、
意識内容の記述と意味の抽出を中心に据えてい
当事者の主観に寄り添って記述し、その内容の
る点で、確かに現象学的と言えなくないし、そ
背景にある文脈を考慮しつつ、その意味を取り
れなりに意義のある研究ではあるだろう。だが、
出すこと。これが現象学的心理学の方法であり、
このような研究は記述心理学の範囲を超え出て
目的である、というわけだ。
おらず、心の実在性についても、心の本質につ
いても解明することができない。
ジオルジによれば、こうした主観的な意味、
本質の解明は、自然科学の枠組みでは不可能で
たとえば心理学者アーネスト・キーンは、明
あり、現象学を基盤とした人間科学の枠組みが
快な現象学的心理学の入門書のなかで、こう
必要になる。「意味に対して自然科学的パース
語っている。「現象学的心理学の目標は、私達
ペクティヴを仮定してみても、その現象の本質
がすでに黙示的には理解しているようなもろも
的特徴が見逃されるばかりか、より深い志向的
ろの物事を、露わにして、明示的な理解とする
関係に達することすらできはしない(6)」。その
ことである(4)」。それは、ある経験の中にかく
意味で、彼は現象学的心理学を単なる心理学の
(4) アーネスト・キーン『現象学的心理学』
(吉田章宏・宮崎清孝訳)東京大学出版会、1989 年、232 頁
(5) アメディオ・ジオルジ『心理学の転換』
(早坂泰次郎監訳)勁草書房、1985 年、58 頁
(6) アメディオ・ジオルジ『現象学的心理学の系譜』
(早坂泰次郎監訳)勁草書房、1981 年、212 頁
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一学派として捉えるのではなく、心理学全体の
まった術語をつけることである(7)」。ヤスパー
基盤をなす考え方として捉えていたと言える。
スがディルタイの記述心理学を受け継いでいる
以上のように、現象学的心理学と称される研
ことは明らかだが、そこにフッサール独自の方
究の多くは、フッサール現象学よりもディルタ
法(本質観取)を見出すことはできない。だが
イおよびブレンターノの記述心理学に近く、個
それでも、こうしたヤスパースの考え方はシュ
人の内面を記述し、その意味を理解する、とい
ナイダーやコンラート、フーバーらに受け継が
うものであった。無論、記述にあたって先入観
れ、後に精神病理学の主流派を形成するほどの
を排することを「エポケー」と呼び、意味を取
影響力を持っていた(8)。
り出す上で多様な背景を想定する過程を「想像
ところで木村敏によれば、「ヤスパースの精
変更」、取り出された意味を「本質」と呼ぶなど、
神病理学がフッサールの哲学的現象学に依拠し
現象学の概念は使われている。しかし、これは
ていることをはっきり表明しながら、実はその
フッサール現象学における「本質観取」の思考
一側面だけを、つまり理論的先入見を取り去っ
プロセスとは異なっているし、概念の使用も正
て記述に徹するという側面だけを受け入れてき
確なものとはいえない。この点については、後
たのに対して、フッサール現象学のもう一つの
ほど本質観取の方法を論じる際に説明しよう。
側面である本質直観を精神病理学に導入しよう
とする動きが、やはり今世紀初頭から活発に
なっていた(9)」。それはビンスワンガーやミン
現象学的精神病理学
コフスキーらの理論だが、しかし彼らの現象学
次に現象学を精神医学の世界に応用した現象
理解(特に本質直観の捉え方)は、いくつかの
点でフッサールの主張とは異なっている。
学的精神病理学について説明しよう。
現象学的精神病理学とは、フッサール現象学
後で詳しく説明するが、現象学的方法として
またはハイデガー実存論を基盤に据えた精神病
の本質直観(「本質観取」とも言う)(10)は、
「自
理学の総称である。現在の精神医学の主流は、
由」
「不安」
「死」
「心」
「欲望」等々の概念を対
科学的な客観性を重視した生物学的精神医学で
象とし、誰もが共通して了解し得る意味(普遍
あり、それは脳や遺伝的要因に病気の原因を求
的な意味)を取り出す作業である。それは、個
めるような、心身の因果論に基づいている。こ
別的な主観性の記述・了解を超えた本質を明ら
れに対して現象学的精神病理学は、患者の主観
かにし、精神病理の解明や治療に寄与すること
的世界に焦点を当てることで、患者が受けとっ
ができる、と私は考えている。
ている世界の意味を理解しようとするものだ。
しかし、ビンスワンガーやミンコフスキーの
現象学的精神病理学の創始者であるヤスパー
主張する本質直観は、「他者の内面を直観的に
スによれば、
「現象学の行なおうとすることは、
把握すること」と見なされている。たとえばビ
患者が実際に体験する精神的状態をはっきりと
ンスワンガーはこう述べている。「精神病理学
われわれの心の中に描き出し、それに似たいろ
的現象の現象学的考察というものはすべて、
(中
いろの関係とか情況に基づいて観察し、でき
略)まず最初に病める人間の本質へと眼を向け、
るだけはっきりと区別をつけて、しっかりと定
この本質を直観にまでもたらすものなのだ(11)」
(7) カール・ヤスパース『精神病理学原論』
(西丸四方訳)みすず書房、1971 年、41 頁
(8) こうしたヤスパース以降の精神病理学の主流については、木村敏の「精神医学における現象学の意味」
(『分裂病と他者』弘
文堂、1990 年、92-93 頁)に詳しくまとめられている。
(9) 木村敏『心の病理を考える』岩波書店、1994 年、43 頁
(10)本質直観には二通りの意味があり、ひとつは事物の意味を推論をはさまず直接的に把握する場合であり、もうひとつは概念
の本質を直観と推論によって取り出す場合である。後者が現象学的方法としての本質直観であり、
「本質観取」とも呼ばれる。
(11)ルートウィッヒ・ビンスワンガー「現象学について」
『現象学的人間学』
(荻野恒一・宮本忠雄・木村敏訳)みすず書房、1967 年、
46 頁
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現象学的心理学の可能性
と。またミンコフスキーは、単なる患者の内面
同じくハイデガーの影響を受けたメダルト・
記述ではなく現象学的直観が必要だとしながら
ボスも、神経症の説明に「頽落」の仮説を援用
も、彼にとっての現象学的直観とは、患者の話
しており(16)、結果的に問題の多い理論となっ
に耳を傾けると、ある瞬間、全体の核心を知り
ている。一方でボスは、心理的治療に関する優
得たという確信が生じる、というものであった
れた本質的分析を残しているのだが、後期ハイ
。言うまでもなく、このような理論は科学
デガーの形而上学的な理論をも受け継いでいる
(12)
的根拠のないものと見なされ、さまざまな批判
ため、理論的矛盾を生じている(17)。
を呼び起こしてきた(13)。
晩年のビンスワンガーはフッサール現象学に
一方、現象学的精神病理学のなかには、フッ
回帰し、躁鬱病を超越論的還元などの概念を用
サール現象学よりもハイデガーの哲学に大き
いて分析しているが、木村敏によれば、これは
な影響を受けている者も少なくない。ビンスワ
彼の現存在分析に比べ、あまり評判のいいもの
ンガーはその先駆者であった。もともとハイデ
ではなかった。分析対象が躁鬱病であったこと
ガーによる現存在の分析は、フッサールの本質
が、現象学的分析の利点を活かせなかった原因
観取(本質直観)を人間の存在(あり方)に適
であり、「現象学はきわめて『分裂病向き』の
用した、優れた現象学的分析と言えるものだ。
知的姿勢に対応し、分裂病はそれ自体きわめて
したがって、これを精神病理の問題に応用する
『現象学的』な事態だ(18)」、と木村敏は述べて
ことは有効であり、その意味でビンスワンガー
いる。現象学では日常の現実性を還元するため、
の試みも評価できる。しかしその反面、ハイデ
現実性にゆらぎのある分裂病(統合失調症)の
ガーは人間のあり方を「本来的」と「非本来的」
分析に向いている、というわけだ。これはなか
に区分し、「現存在は本来的な自己存在可能と
なか鋭い指摘である。
してのおのれ自身から、さしあたってはいつも
なるほど、確かに分裂病者の特徴として、現
すでに脱落していて、
『世界』へ頽落している」
実感の喪失、日常性のゆらぎというものがある。
(14)
と主張している。これは証明し得ない仮説
こうした日常の現実感は「客観的世界が実在し
であるが、本来、現象学ではこのような仮説は
ている」という確信(信憑)に基づいているが、
一切排除(エポケー)しなければならない。し
現象学ではこの確信を保留にし(エポケー)、
かし、ハイデガーの仮説を踏襲したビンスワン
確信の根拠を問い直す。これが超越論的還元と
ガーは、精神病者を「頽落」という概念で記述
呼ばれる作業である。したがって、超越論的還
している点で、ひとつの物語仮説になっている
元は分裂病における現実感喪失の本質を解明す
面があるのだ
る上で、きわめて有効な方法でもある。
。
(15)
(12)本質直観に関するミンコフスキーの捉え方については、木村敏の「精神医学と現象学」
(『自己・あいだ・時間』弘文堂、1981 年、
180-181 頁)を参照。
(13)たとえば斎藤環は、松尾正の批判に依拠しつつこう述べている。
「分裂病者との出会いにおいて現象学的精神病理学者は、
その独自の内的本質直観主義に導かれ、かつそれを他者一般にまで拡大するという誤りをおかしてしまう」
(「箴言の基体とし
ての精神病理学」
『文脈病』青土社、2001 年、388 頁)。この批判は現象学的精神病理学の過ちを鋭く指摘している反面、
現象学の本質直観に対して十分な説明ができていない。
(14)マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』
(細谷貞雄訳)筑摩書房、1994 年、373 頁
(15)たとえば、ルートウィッヒ・ビンスワンガー『精神分裂病Ⅱ』
(新海安彦・宮本忠雄・木村敏訳、みすず書房、1961 年、119 頁)
における、症例ユルク・ツュントの分析などが典型的。
(16)
「病的に非本来的な、停滞した生命の事実的な諸現象は、
(中略)いろいろのニュアンスをもった負い目の感情、劣等感、さ
らにはヒステリー症状や強迫症状をもこえて、もっとも重篤な身体障害にまでも至る」
(メダルト・ボス『精神分析と現存在分
析論』笠原嘉・三好郁男訳、みすず書房、1962 年、79 頁)という記述が典型的。
(17)ボスは心理的治療の本質を自由の獲得だと主張する一方で、人間は「存在の明るみの境域として言い求めをうける」
(同上
102 頁)と述べている。これは人間の自由が存在に規定されていることを意味するため、彼の治療の本質と矛盾している。
(18)木村敏「精神医学における現象学の意味」
『分裂病と他者』弘文堂、1990 年、102 頁
— 33 —
アジア太平洋レビュー 2010
このような方向性で分裂病を分析し、優れた
もなって、現象学や実存論を心の治療に応用し
成果を残したのがブランケンブルクである。彼
た考え方・技法の一群が登場することになった。
は分裂病の根幹には「自明性の喪失」があると
来談者中心療法、ゲシュタルト療法、フォーカ
考え、この問題を透徹した論理で次のように記
シングなど、いわゆる人間性心理学の心理療法
述している。「自然な自明性の喪失は、それ自
がそれである。
体、間主観的に構成されたものといわなくては
来談者中心療法は、現在、最も信頼され、多
ならない。ということは、分裂病性疎外の本質
用されている心理療法のひとつだが、この治療
は、それ自体生活世界の間主観的構成の欠陥に
法を創始したカール・ロジャーズの影響力は、
基いたものだということである(19)」。自然な自
ロジャーズ派以外のカウンセリングにも広く及
明性とは、日常生活における「あたり前」な実
んでいる。彼はカウンセラーが身につけておく
感(現実感)であり、彼はこれを間主観性によっ
べき条件として、
「無条件の肯定的配慮」「共感
て構成される、と論じているわけだが、ここに
的理解」「自己一致」の三つを挙げ、特に「自
は現象学的理解の深さが窺える。実際、他者の
己一致」――自分の感じていることを自覚し、
言動は世界の実在性を確信させる重要な契機と
言動に矛盾がない状態――を重視していた。た
なっており、自明性の喪失が他者との関係性に
とえばクライエントの話にイライラしているの
おける障害に起因することは、きわめてわかり
だが、そうした自分の感情に気づかないまま、
やすい理屈である。ブランケンブルクはこれを
共感するような発言をしていれば、クライエン
意識における「構成」として論じているため、
トはカウンセラーの微妙な表情や身ぶりからそ
やや問題を不明確にしている面もあるが、それ
の矛盾に気づき、不信感を抱く。
「彼が内面では、
でも彼の分析は現象学的精神病理学における最
あるいは無意識の水準では別の感情を経験して
良の成果と言えるだろう。
いるのに、外面にはある態度または感情の見せ
しかし、その後、半世紀近くを経たいまで
も、現象学的精神病理はブランケンブルクの水
かけを示している程度だけ、成功的なセラピィ
が起こる可能性は減少する」のである(20)。
準をまったく超えていない。いや、むしろこの
カウンセリングを受けるクライエントは、基
偉大な仕事は忘れられつつあり、現象学的精神
本的に自己不一致の状態にある人たちであり、
病理学は退潮の兆しを見せている。それはやは
過度の抑制によって、自分の感情を理解するこ
り、現象学における本質観取、超越論的還元が
とが難しくなっている。そこでカウンセラーは
正確に理解されてこなかったからではないだろ
クライエントの話を聞きながら、声のトーン、
うか。
身振り、表情、服装など、あらゆる徴候に感覚
を集中させることで、患者の欲望や不安を感じ
取り、その感じた内容を言葉にしてクライエン
現象学的立場の心理療法
トに返す。そうすると、クライエントは「本当
1910 年代に登場した現象学的精神病理学は、
患者を理解するために患者の主観性を重視して
の自分」に気づき、自己一致に至ることでがで
きるのだ。
いたが、フッサール現象学やハイデガー実存論
このように、自己理解(「本当の自分」に気
の考え方が直接的に治療に応用されたわけでは
づくこと)を心理療法の中心に据えているのは、
なかった。しかし 1950 年代になると、現象学
クライエント中心療法だけでない。ロジャーズ、
的精神病理学はアメリカに紹介され、それにと
マズローとともに、人間性心理学の先駆者であ
(19)ヴォルフガング・ブランケンブルク『自明性の喪失』
(木村敏・岡本進・島弘嗣訳)みすず書房、1978 年、237 頁
(20)
カール・ロージァズ「クライエント中心療法の現在の観点」
『クライエント中心療法の最近の発展』
(伊藤博編訳)岩崎学術
出版社、1967 年、42 頁
(21)ロロ・メイ『存在の発見』
(伊東博・伊東順子共訳)誠信書房、1986 年、150 頁
— 34 —
現象学的心理学の可能性
るロロ・メイもまた、心理療法はクラエントが
望んでいることを理解し、その可能性に向けて
自己のあり方に気づくよう援助することだ、と
歩み出すためにほかならない。自分が望む方向
主張している
。また、ジェンドリンのフォー
性が見えてくれば、そちらへ向かうのはあたり
カシングという技法は、「からだの内部でのあ
前であり、その結果として自己実現や自己成長
る特別な気づきに触れてゆく過程
(21)
」であり、
が起きるのであって、生来的に自己成長への傾
「いま、ここ」で生じている感情の体験過程、
向があるわけではない。カウンセラーが悩める
言語化されていない身体的な過程に焦点を合わ
クライエントに対して、
「いまのその気持ちが、
せ、意味を見出す技法だが、それは身体感覚の
ほんとうのあなた自身ではありませんか」と問
なかに「本当の自分」を見出そうとする作業に
いかけることは、「ありのままの自分」に気づ
ほかならない。ゲシュタルト療法を開発した
かせてくれるだろう。だが、
「〈本当の自分〉を
パールズも、「クライエントが発見しようとし
発見しなければならない、それを実現すること
ている本来の自己を表出することを勇気づけね
が本当の生き方だ」などと言われれば、それは
ばならない(23)」と述べている。
むしろ「ありのままの自分」を抑圧してしまう
(22)
このように、人間性心理学の心理療法では「本
危険性がある。
当の自分」に気づくことを重視している。しか
ロゴセラピーを提唱したヴィクトル・フラン
もそれだけではなく、人間には生来、「本当の
クルは、人間性心理学と同じく実存主義的な立
自分」へと向かう傾向、自分を成長させようと
場にありながら、こうした自己実現論の問題点
する欲求があるため、セラピストが少し援助し
を明確に理解していた。フランクルによれば、
さえすれば、後は自然によくなる、と考えられ
セラピストに必要なのは、患者が自分の生きる
ている。ロジャーズによれば、「成長の傾向、
意味と価値を見出し、その見方を広げることで
自己実現の欲求、あるいは前進していく傾向、
ある。これによって、患者は自分がその意義を
といったどんな言葉で呼ぼうと、それは生命と
感じることのできる行為や生き方を認識し、自
いうものの根本的な動機である。最終的にすべ
分の自由な意志によってそれを選び取ることが
ての心理療法が頼りにしているのはこの傾向な
できる。そして、その行為や生き方によって生
のである
の意味が充足すれば、その程度に応じて自己実
」。
(24)
この考え方は人間性心理学の枠を超え、巨
現は生じ得る。「一般に人間の現存在において
大な文化運動にまで発展する力をもっていた。
自己充足や自己実現が問題になる場合、それら
1970 年代以降、アメリカの西海岸を中心に発
はただ結果として達せられるのであって、意
展したニューエイジ・ムーブメント(人間性開
図してではありません(25)」という彼の言葉は、
発運動、エンカウンター運動を含む)がそれで
自己実現を目的化した考え方に対する警鐘と
ある。しかし、人間性心理学が強調した自己実
なっている。
現や自己成長の仮説には、心理療法において一
このように、現象学的あるいは実存主義的な
定の有効性を持つ反面、「本当の自分」を発見
立場と言われる心理療法の多くは、自己成長の
することが人生の目的と化すような危険性も潜
仮説を持ち込み、自己実現を目的化している点
んでいる。
で、少なからぬ問題点を抱えている。現象学の
そもそも自分の感情に目を向け、「本当の自
視点からは「本当の自分」もひとつの仮説にす
分」に気づくことが必要なのは、自分が本当に
ぎないが、しかし「本当の自分」を確信する可
(22)ユージン・ジェンドリン『フォーカシング』
(村山正治・都留春夫・村瀬孝雄訳)、福村出版、1982 年、29 頁
(23)フレデリック・パールズ『ゲシュタルト療法』
(倉戸ヨシヤ監訳)ナカニシヤ出版、1990 年、133 頁
(24)カール・ロジャーズ『ロジャーズが語る自己実現の道』
(諸富祥彦・末武康弘・保坂亨共訳)、岩崎学術出版社、2005 年、
37 頁
(25)ヴィクトル・フランクル『精神医学的人間像』
(宮本忠雄・小田晋訳)みすず書房、2002 年、55 頁
— 35 —
アジア太平洋レビュー 2010
能性は誰にでもある。それは、それまで抱いて
意味として理解されている。
いた自己像が崩れ、新しい自己像を受け入れた
まず本質観取の問題から考察することにしよ
瞬間であり、自己の了解が生じたことを意味し
う。すでに触れたが、本質観取とは「自由」
「不
ている。自己の了解は人間の存在本質であり、
安」「死」「言語」「欲望」「感情」「身体」等々
私たちが自分の欲望とその可能性を知り、納得
の概念を対象とし、誰もが共通して了解し得る
のできる生を得る上で欠かせないのである。そ
意味(本質)を取り出す作業であり、本質直観
の意味で、人間性心理学の心理療法が「本当の
とも呼ばれるのは、それが意識において直観さ
自分」に気づくことを重視したこと自体は、や
れた意味を出発点にして、他者と共通了解し得
はり正しかったと言えるだろう。
る意味に練り上げていく作業であるからだ。
たとえば「不安」という言葉を聞くと、私た
ちは「不安」の意味を直観的に受け取っている
フッサール現象学と本質観取
ものだが、その意味は必ず他者と共通した部分
すでに述べたように、人間の心を研究するた
を含んでいる。そうでなければ、「不安」とい
めには主観的な意味や価値といった問題を扱う
う言葉を使って他者とコミュニケーションする
必要がある。実証科学が切り捨ててきたこれら
際、何の齟齬もなく話が通じる、というわけに
の問題に対して、従来の現象学的な立場に立つ
いかない。だが、そうした共通了解し得る意味
心理学は一定の成果を挙げてきたと言える。事
を明確化し、誰もが納得し得る言葉に置き換え
実、ここまで説明してきたとおり、記述心理学
るのは容易でない。まず自分の主観的な解釈を
や現象学的精神病理学は、対象となる人物の主
排し、よくよく誰もが納得し得るか否か、考え
観的世界を理解する方法を提示してきたし、人
直してみる必要があるだろう。その上で、多く
間性心理学のセラピーも数多くの治療成果を挙
の人が共通了解し得る「不安」の意味を熟考し、
げてきた。
これを取り出すことができれば、それが「不安」
しかし、現象学については誤った理解が人文
の本質だと考えることができる。
科学の領域に広まっており、そのため従来の現
こうした本質観取の方法は、心理学の領域に
象学的心理学においても、フッサール現象学の
おいてもきわめて有効である。先入観を排して
持つ本来の有効性を十分に活かすことができて
意識現象に眼を向け、
「心」に関わる諸概念(知
いない。この問題は次の二点に集約できるだろ
覚、感情、記憶、欲望など)の本質を本質観取
う。
によって明らかにすることができれば、心理学
第一に、主観的な意味を重視していても、そ
にとって実りある成果が得られるはずだ。フッ
れはディルタイ的な記述心理学の範囲にとど
サールが「現象学的心理学」(純粋心理学)と
まっており、個別的な意味を超えて、そこから
呼んでいるものは、このような本質観取の作業
共通了解を導き出すような本質考察にいたって
を意味している。「心理学的現象学は、こうい
いない。これは本質観取(本質直観)という現
う仕方において明らかに、「形相的現象学」と
象学独自の方法がほとんど使われていない、と
して基礎づけられることができるのであって、
いうことでもある。本質直観が重要だと主張す
このとき、それは、もっぱら不変な本質諸形式
る精神科医や心理学者の文献にさえ、他者の内
のみに目を向けるのである(26)」。
面を直観的に理解する方法であるかのような、
誤解した記述が散見される。
しかし従来の現象学的心理学は、本質観取に
よって心理学的な概念の本質を見出す、という
第二に、超越論的還元の意味が正確に理解さ
仕事をほとんどしてこなかった。本質的な考察
れていない。還元は単に「先入見の排除」を意
もなくはないが、それも自覚的に本質観取とい
味するにすぎず、実存的な意味への還元という
う思考方法を使ったものではない。ただ、フッ
(26)エトムント・フッサール『ブリタニカ草稿』
(谷徹訳)筑摩書房、2004 年、22 頁
— 36 —
現象学的心理学の可能性
サールから多くを学んだサルトルやメルロ =
のような作業はほとんど為されていない。本質
ポンティのように、心理学における本質観取の
観取による心理学的諸概念の本質考察は、現在
意義を明確に理解していた者もいる。
にいたるまでほとんど研究されてこなかったの
初期のサルトルは心理学的概念の本質観取を
である。
試み、これを現象学的心理学と呼んでいる点で
注目に値する。たとえば、彼は「情動」という
心理学概念について、「情動の本質というもの
ハイデガー実存論の影響
に暗々裏に訴えているのでなければ、さまざま
サルトルやメルロ = ポンティとは異なり、
な心的事実のなかから情動性をもった事実とい
ハイデガーは本質観取の必要性について積極的
う特定グループをえりわけてくることも、不可
には言及していない。しかし、彼の主著『存在
能になってしまう(27)」と述べている。情動の
と時間』には、人間の日常的なあり方に関する
心理学は情動の本質考察を抜きにしてはあり得
優れた本質観取を見ることができる。人間存在
ない、というわけだが、この考え方は本質観取
だけでなく、不安、死、時間、良心などの現存
の意義を十分に理解していると言えよう
在分析は、まさに本質観取による現象学的な分
。
(28)
メルロ = ポンティはサルトルと同様、心理
析でもあり、しかもその考察の深さは他の追随
学的概念の本質観取を形相的心理学(本質を対
を許さないほど卓抜なものである。そのため、
象とする心理学)と呼び、次のように述べてい
ハイデガーの哲学は現象学的あるいは実存主義
る。
的立場に立つ心理学者たちに、フッサール以上
に深い影響を与えてきた。
ハイデガーによれば、人間(現存在)とは、
フッサールの考えでは、すべての経験的心理
学には形相的心理学が先立たなければなりませ
自己の気分を了解しつつ、それによって開示さ
ん。つまり、それは、心理学のつねに用いてい
れる可能性をめがけて行動する存在にほかなら
る基本的諸概念を、自分自身の経験との触れあ
ない。たとえば、道端で怪しげな人物が自分を
いから作り上げていこうとするような反省的努
見つめていたとしよう。このとき、私たちは妙
力を、まず必要とするのです。事実の認識は心
な胸騒ぎを感じ、急いでその場を立ち去ろうと
理学の仕事だが、この事実を精錬するに役立つ
するだろう。自らの不安な気分から、その場を
諸概念の定義は現象学の仕事だ、とフッサール
危険な状況として受け止め、「逃げる」という
は考えるわけです(29)。
可能性を選んだわけである。これはほとんど無
自覚のうちに、とっさに採った行動であるが、
形相的心理学は心理学の諸概念の本質を考察
気分の了解にはもっと自覚的で、より明確に意
し、その定義を明確にすることで、自然科学的
識して行動を選択することもある。嫌々してい
な経験的心理学に寄与し得る、というのだ(30)。
たはずの仕事を終えて、その仕事にわくわくし
この形相的心理学こそ、まさに現象学的心理学
た面白さ、期待感を抱いている自分に気づいた
のあるべき研究のかたちだと思えるが、しかし、
とすれば、私たちはその仕事をまだまだやりた
従来の現象学的心理学の展開を見るかぎり、こ
いと思いはじめ、継続することを決断する。こ
(27)ジャン・ポール・サルトル「情動論粗描」
『自我の超越 情動論粗描』
(竹内芳郎訳)人文書院、2000 年、100 頁
(28)もっとも、サルトルは情動の本質を「魔術的なものへの意識の性急な墜落」
(同上、165 頁)だと述べているが、これは情動
の一面でしかないだろう。
(29)モーリス・メルロ=ポンティ「人間の科学と現象学」
『眼と精神』
(滝浦静雄・木田元訳)みすず書房、1966 年、33-34 頁
(30)メルロ = ポンティは「身体」の本質観取を試み、
「私の身体をしてけっして一つの対象でなく、けっして『完全には構成され』
たものでなくしている所以のものは、私の身体とは一般に対象が存在するようにさせている当のものだ、ということだ」
(モー
リス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学Ⅰ』竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967 年、163 頁)と述べている。これは
身体の本質を鋭く捉えた分析と言えるだろう。
— 37 —
アジア太平洋レビュー 2010
の場合もまた、気分から自分の欲望に気づかさ
る。たとえば、すでに述べたビンスワンガーと
れ、その欲望を充足させる道を選んだことにな
メダルト ・ ボスは、ハイデガーが実存の本質を
る。
鋭く捉えているがゆえに、一定の説得力を持っ
このように、人間は自己の気分を了解するこ
ているが、精神疾患を本来的な生からの逸脱(頽
とで、そこから導かれる可能性をめがけて生き
落)と見なすなど、ハイデガーの証明し得ない
ている。この点について、ハイデガーは次のよ
仮説を持ち込み、結果的に問題の多い分析と
うに述べている。
なっている。
人間性心理学の心理療法においても、「本当
了解するということは、実存論的には、現存
の自分」(「本来的なあり方」)を目的化しがち
在自身がおのれの存在可能を存在することであ
な点で、やはりこの仮説の影響を蒙っている面
り、そのさいこの存在は、おのずからにして、
がある。しかし一方では、ハイデガーの見出し
おのれ自身の要所(おのれ自身が何に懸けられ
た自己了解の原理が活きている。ロジャーズや
ているか)を開示しているのである(31)。
ロロ・メイらの重視する、「本当の自分」に気
づき、自分らしく生きること=自己実現、それ
私たちは気分を了解することで、自分の欲望
は多くの場合、気分の了解によってこそ可能に
や不安を事後的に知らされる。気分(情状性)
なる。だからこそ、自分が本当に望んでいるこ
は自分がどうしたいのか、という自己の欲望や
とに気づかされ、納得のいく生き方に立ち返る
関心を示しているからだ。それは(知らなかっ
ことができるのだ。なぜ、彼らが「本当の自分」
た)自己自身に気づくこと(自己了解)であり、
に気づくことを重視し、クライエントの自己了
このような自己了解があるからこそ、私たちは
解を促そうとするのか、最早説明するまでもな
自らの欲望・関心の向かう先に眼を向け、その
いだろう。
可能性へと歩み出すことができる。自己了解に
現象学的心理学の各領域において、ハイデ
よって可能性をめがけながら生きること、それ
ガーの影響力は広範に渡っている(32)。それは、
が人間の存在本質なのである。
ハイデガーの人間存在に関する本質観取が、人
このような人間のあり方に関する現存在分析
間の主観的な意味や価値を問題とする場合、き
は、実に見事な本質観取であり、反論の余地が
わめて有効なものであるからだ。その功績を否
ないほど優れたものだと言える。だが、すでに
定することは誰にもできない。しかし、それゆ
指摘したように、ハイデガーは証明し得ない仮
えにと言うべきか、その後、現象学を人間論に
説(「本来性」「非本来性」の区分)を導入して
応用しようとする試みは、ハイデガーの主張を
いる。普段の私たちは日常の雑事やおしゃべり
無批判に転用したものが多く、自ら本質観取を
に没頭し、本来の可能性をめがける生き方を忘
試みようとする研究者がほとんど出ていない。
れている。そこで、良心の呼び声に耳を傾け、
本来の生き方に立ち戻る必要がある、というわ
けだ。しかし、このような考え方は仮説の域を
心理学の基礎づけ
出ず、およそ原理的なものとは言い難い。
ところで従来の現象学的な心理学の多くは、
ハイデガーの哲学は心理学や精神医学の領域
現象学的還元とは、先入見を排除して心的現象
に深い影響を与えてきたのだが、それらはこ
のみに立ち戻り、その経験の実存的な意味を明
うしたいい面と悪い面のどちらも受け継いでい
らかにすることだ、と捉えている。それも間違っ
(31)マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』
(細谷貞雄訳)筑摩書房、1994 年、313 頁
(32)近年、現象学の考え方は看護ケア研究の領域においても注目されているが、特にハイデガー実存論の影響は少なくない。そ
れは、ハイデガー哲学に基づく人間観を看護理論に応用したベナーの仕事が、現在の看護理論に広く浸透しているからだ。
ベナー看護論については、パトリシア・ベナー/ジュディス・ルーベル『現象学的人間論と看護』
(難波卓志訳、医学書院、
1999 年)が参考になる。これも広い意味では、現象学的心理学に含めることができるだろう。
— 38 —
現象学的心理学の可能性
ているわけではないのだが、しかしフッサール
解が可能な意味(本質)を取り出すことは、あ
が主張した現象学的還元には、もっと別な意味
る程度まで可能なように思えるからだ。しかし、
も含まれている。
フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論
フッサールは、まず純粋な心的現象に立ち戻
的現象学』において次のように述べている。
ることを「現象学的-心理学的還元」と呼び、
そこから一般性(本質)を取り出す作業のこと
われわれは、心の固有な本質をことばにもた
を本質観取と呼んでいる。従来の現象学的心理
らさんとする記述的心理学の理念の純粋な展開
学には本質観取の作業が欠けているが、還元の
のうちで、現象学的-心理学的な判断中止と還
意味としては「現象学的-心理学的還元」とほ
元との超越論的なそれへの転換が必然的に達成
ぼ同じだと考えていいだろう。この場合、還元
されるのを、驚きをもって――とわたしは思う
によって得られる意識とは、世界の中に存在す
のだが――認める(34)。
る「純粋な心」であり、意識の外部にある世界
の実在性は問われていない(33) 。
ここでフッサールが「記述的心理学」と呼ん
しかし厳密に言えば、こうした実在性を保証
でいるものは、本質観取を用いた「真の意味で
するものはなにもない。私たちは眼の前に広が
の記述心理学」のことであり、彼が「現象学的
る世界が実在していると信じているのだが、そ
心理学」または「純粋心理学」と呼んだものに
れは私の意識に現われた世界であり、私の意識
相当する。「現象学的-心理学的還元」によっ
の外部に世界があるかどうかは証明不可能であ
て先入見を排し、意識における意味に焦点を当
る。では、一体なぜ私たちは、眼の前の世界が
てて「心」の本質を求めれば、必然的に「心」
実在している、と確信しているのか。
の実在性が主題化され、「現象学的-心理学的
このような問いは超越論的問題と呼ばれ、デ
カルト、カント、ヒュームらが問い続けてきた、
還元」は「超越論的還元」に転換する、とフッ
サールは言うのである。
近代哲学最大の難問であった。フッサールはこ
確かに、知覚、記憶、想像など、心理学の諸
の問題を主観における確信成立の問題として捉
概念は意識という主観的領域(=心)の存在を
えなおし、こう考えたのだ。眼の前の世界が実
前提にしており、心理学の対象である「心」は
在するか否かは疑えるが、世界が意識に現われ
超越論的問題を含んでいる。したがって、心理
ていること、見えていること自体は疑えない。
学的な諸概念の本質を本質観取によって探求
この「見えている」という現象の不可疑性こそ、
すれば、あらゆる対象は意識において確信され
「世界が実在する」という確信の根拠である、と。
ており、「心」も例外ではない、という結論に
この場合、世界の実在性への確信は保留にされ
突き当たる。つまり、私たちが「心」というも
ている。そしてこのような主観への還元こそ、
のの存在を確信する根拠は何なのかを問うよう
フッサールが「超越論的還元」と呼んだものな
な、超越論的問題に突き当たるのだ。そしてこ
のだ。
のとき、超越論的還元の正確な理解が必要にな
一見すると、超越論的還元は哲学上の認識論
る。
したがって、これからの現象学的心理学を構
としては重要であっても、心理学あるいは人間
科学においては必要ないようにも見える。超越
想するとしたら、超越論的還元を十分に理解し、
論的問題を主題化せずとも、「先入見の排除」
「心」という認識対象の本質を明らかにするこ
によって実存的な意味に還元すれば(つまり現
とが重要な課題となるだろう。すでにこのよう
象学的-心理学的還元だけで)、他者と共通了
な現象学的研究は、竹田青嗣によって興味深い
(33)この問題についての詳しい研究は、西研『哲学的思考』
(筑摩書房、2001 年、170 頁)が参考になる。
(34)エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
(細谷恒夫・木田元訳)中央公論社、1995 年、456
頁
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アジア太平洋レビュー 2010
試みが展開されている。竹田によれば、「心的
存在」(心)は「単に“対象化される”存在で
あるだけでなく、まさしくそれ自身が、諸対象
をつねに“対象化する”存在である、という存
在本質を持つ(35)」。従来の実証科学的な心理学
は、「心」を“対象化される”存在として研究
してきたのだが、
「心」が世界を“対象化する”
存在でもある以上、世界を主観的に意味づける
ような「心」の学が必要になる。そして後者の
心理学こそ、これまで現象学的心理学と見なさ
れてきたものなのだ。
以上のことから、現象学的心理学は心理学全
体の基礎づけを担っている、と考えることがで
きる。超越論的還元と本質観取をとおして「心」
の本質を明らかにできれば、心理学全体の土台
となる基礎的な考え方が確立されるだろう。ま
た、そうした原理論を踏まえた上で、心理学に
おける諸概念を本質観取するなら、従来の心理
学諸理論の意義を明らかにするだけでなく、心
理学全体の可能性を見据えることができる。ま
さにそれこそが、これからの現象学的心理学に
とって真に重要な仕事となるはずである。
(35)竹田青嗣/山竹伸二『フロイト思想を読む』日本放送出版協会、2008 年、81 頁
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