街を歩けば変なビルジングに当たる 1948 年 東 京 生 ま れ。 早 稲 田 大 学 建 築学科卒業。東京都立大学(現首都 オ バ セ 大学東京)大学院修了、博士号取得。 レイジ 小場瀬 令二 建築・都市のデザイン街づくりが専 門。著書「ヘルシンキ/森と生きる 都市」市ヶ谷出版社、「都市をつくっ た巨匠たち」ぎょうせい 「犬も歩けば棒にあたる」ということわざがあります。江戸時代は「しょう わざわい もない人間が街を歩き回っていると、思わぬ 禍 に遭遇するので、歩き回らな いほうがよい」という解釈もあったそうです。現在では、「しょうもない人間 でも街を歩き回れば思わぬ好機が訪れることがある」という解釈が一般的です。 江戸時代は、士農工商の身分制度があったり、建物の建て方は身分の上下にし たがって格式が決まっていました。また、この地域は武家屋敷、ここは町人街 など明確な土地利用がされ、身分の低い人間が身分の高いお屋敷街をうろうろ しない方が身のためだったのかもしれません。身分制度の無くなった今日では、 誰もが街歩きをして、いろいろな建物を自由に見て回ることができます。高齢 化社会を迎えて、定年後の人にはお金のかからない健康にもよい趣味という あったりします。その幾つかを見ながら私と散 ����住宅 建築基準法をはじめ世の中の約束事と深い訳が � 中国�西安地域��北�地域� 黄土高原地帯��地面����� もあります。しかし、多くの場合、都市計画や 掘�込��下沈式�地下住居�崖 建物は、建主の趣味や性格を体現している場合 � 横 穴 � 掘 � 横 穴 式 � � � � �� めない建物に時々遭遇します。そのような変な 雨�少����木�石���地域 いな、不思議な、へんてこな、周りの空気が読 ����土�使��住宅�成立� そのように街歩きをしていると、なんとも場違 ����思���� ことで、街歩きは大いに流行っているようです。 歩してみませんか。 地下室マンション 中国の黄土高原にはヤオトンという地下室住居がありますが、21 世紀の日 本に一つの住居がすべて地下階だけに存在しているマンションがあるといった ら信じられますか。一般的に地下階だけに住居があるような地下室マンション 167 第 4 章 街を計画する はほとんど商品価値が無いので、当然地下室マンションが建設されることは、 近年までありませんでした。せいぜい地下 1 階が物置や機械室として利用さ れる程度でした。地下室は、住環境上好ましくないので、地下室を住宅として 利用することは長らく建築基準法上でも禁止していました。しかもこの禁止条 項が法律に盛り込まれるのに、あの有名な明治の文豪森鴎外がかかわっていた のです。何で、鴎外がそんなことにを主張していたかというと、鴎外は 1984 (明治 17)年にドイツに留学し、ドイツの都市問題を検分し、地下室に居住す ることは、公衆衛生上好ましくないことを知っていたので、法律にそのような 規定を入れるように働きかけていました。 しかし、最近になって、地下室マンションが日本で大流行になりました。写 真でお見せするマンションは、地上 3 階地下 7 階のれっきとした分譲マンシ ョンです。 (図 1 地下室マンションの上部の写真と、図 2 下から見上げた 写真)入口の郵便受けを見る限りでは、完売で全戸に人が住んでいるようです。 図 1 地下室マンションの上部 図 2 下から見上げた地下室マンション 何で戦前から禁止されていた地下住居が 21 世紀の日本でゾンビのように生き 返ったのでしょうか。それには建築基準法の改定と深い関係があります。 まず日本の建築基準法では、地域ごとに、建てられる建物の種類、高さ、建 ぺい率(敷地面積に対する建物の投影面積) 、容積率(敷地面積に対する延べ 床面積)が決められています(用途地域制度といいます)。ある地域では、2 ~ 3 階建ての戸建住宅ばかりが建ち並ぶ場合もあります。しかし 1994 年、建 168 街を歩けば変なビルジングに当たる 築基準法の改正により「地階で住宅の用途に供する部分については、その建築 物の床面積の合計の 3 分の 1 以下に限り、容積率に算入しない」と規定が変 更されました。戸建住宅の場合なら、これは、2 階建ての家に、同じ床面積の 地下室をひとつ作ることができるというだけの規制緩和です。しかし、この規 定を使うと、なんと崖地であれば、10 階建てのマンションも可能になってし ますのです。図を見ていただきたい(図 3 地下室マンションの断面図)。図 の右側が平地に建てた場合である。当然ながら、地盤面は前面の公道と同じ 高さにあり、建物は地上 3 階建てである。容積不参入のメリットは特にない。 この建物が傾斜地に建てた場合はどうなるかが図の左側である。少々面倒にな りますが、建築基準法では「地盤面」とは「建築物が周囲の地面と接する位置 の平均の高さにおける水平面をいい、その接する位置の高低差が三メートルを こえる場合においては、その高低差三メートル以内ごとの平均の高さにおける 水平面をいう。 」と定義している。この定義に従うと、背後にある傾斜地の一 部を敷地に取り込むと「地面と接する位置」が高くなるため、地盤面を嵩上げ することができることになる。新たに創出された地盤面は図面上では高くなり 地面に接している部分は地階扱いになる。 。ここには地下 1 階地上 2 階建の住 図 3 地下室マンションの断面図 169 第 4 章 街を計画する 宅を建設することが可能である。さらにこれをずらしていくと、限りなく地下 室マンションが可能となる。たまたま今まで多くの崖地は、工事費がかかるの で、採算が取れないということで斜面緑地のまま保存されてきました。都市に とっては重要な緑地でしたが、このような規制緩和がされた結果、採算が合う ようになり、斜面地の緑地が剥がされ、マンションとして開発されることにな ったのです。このような地域の環境を無視した開発はけしからんと言っていて も、個人の所有権が最優先される日本の現代においては、このような開発を防 ぐ方法は、今のところありません。そのような斜面の緑を公共的な所有にする 以外に方法は無いのです。しかしそのような崖地を公共が購入すると言うのも 財政を考えるとリアリティのない話です。では購入しないで崖地の緑を保存す る方法はないのでしょうか。一つの考え方としては、その斜面地の開発権を、 別の場所の開発権と交換するような方法です。これを開発権の移転と言います が、日本ではまだこのような事例の実績は余り無いようです。都心にある神社 の緑を守るために、この神社の開発権を周辺のビル開発の権利の上乗せに使う といった事例は幾つか出てきています。都市計画では、法律の変更が都市のあ り方をどのように変えるかを100 年単位の長さで予測する必要があります。そ のために過去からの都市の変化の状況と法律の関係を調べたりする研究をする 必要があります。 高地価地域なのに道路に面して 2 階建てが連なる これもまずは写真を見てみましょう(図 4 骨董通りの写真参照)。この地 域は天下の東京の青山地域の通 りです。通称骨董通りといわ れています。あの有名な「なん でも鑑定団」にレギュラー出演 している中島誠之助氏がこの通 りでかつて骨董品店を営んで いたそうです。その中島さん が 1979 年に通りに命名。その 当時は 80 軒程度の骨董屋さん が軒を連ねていたので、この 170 図 4 東京青山の骨董通り 街を歩けば変なビルジングに当たる 通称になりました。ただ、かなり有名になり、観光客の通行も多くなったため に、骨董屋さんばかりでなく、最近はブティックの出店も多いようです。この 通りの面白いところは、非常に地価の高い通りにもかかわらず、道路に面して 2 階建てが並んでいることです。また 2 階建ての後ろには、高い建物が接続し ています。逆に 2 階建ての接続していない建物は、初めから道路境界から数 m 下がって建っており、地価の高い地域にもかかわらず、ずいぶんと太っ腹な 建て主が集まっている通りということになります。どうしてこのようなことに なったのでしょうか。 その種明かしには、まず都市計画道路という都市計画の考え方を理解しても らう必要があります。都市にとっては、幅員のある幹線道路が必要です。将来 ここにその幹線道路が必要だという時に、行政は「都市計画道路」という計画 線を都市の中に計画しておきます。例えば、現在の東京都内の計画線は幾つか の時代の計画が下敷きになっています。その歴史を紐解くと、明治になって、 不平等条約の改正を目指していた時期、東京を首都とし、立派な外見にしたい と考えて、都心の道路の拡幅が計画されました。その中で一番有名なのは、銀 座レンガ街計画で、これに沿って、道路の拡幅、歩車の分離、植栽帯などが整 備されました。あわせて、沿道に 2 階建てのレンガ街の景観が形成されたの です。現在の銀座通りの繁栄は、この時の計画のおかげだといえましょう。そ のあと単発的な道路拡幅ではなくて、ネットワークを考えた幹線道路整備が 必要だということで、 「東京市区改正条例」という名の計画が検討されました。 これらの多くが事業化される前に、関東大震災が起こりました。そのため、関 東大震災復興計画の中で、都市計画道路ネットワークが計画され、事業化され て、広幅員道路が整備されました。その中でも有名なのは、昭和通りで、現在 は首都高速道路が上にかぶさってしまっているので、景観的には見る影もあり ませんが、整備された当時は植栽帯が設けられた堂々たるブールバールでした。 さらに、太平洋戦争によって空襲で焼け野原となった東京では、1945 年に戦 災復興計画が立案され、ここでも多くの道路が計画されました。その事業化は、 その当時実施されたものもありますが、すぐには実施されず、1969 年の東京 オリンピックの時に事業化されたものも多くあります。現在の青山通りはその 代表です。しかし、その後も計画をしたものの、事業化されない都市計画道路 は、たくさんあります。ここで取り上げた骨董通りもなんと、戦災復興当時に 171 第 4 章 街を計画する 幅員 25 m で計画された都市計画道路だったのです。ですから現状の通りの幅 員に対して、両側でそれぞれ 3 ~ 5 m 程度広がる予定になっているわけです。 ではいったいそれはいつなのでしょうか。それは、行政が予算措置して、実際 に事業化する時で、正直言っていつだか分からないことが一般的です。都市計 画法や建築基準法では、事業化されない都市計画道路の予定敷地については、 高さ 10 m 以下の木造なり鉄骨造の建物ならば、建設を許可しています。その 代わり、事業化するときは、それらの 建物を除去して、敷地が公共によって 買収されるわけです。ですから、除去 しやすいようにということで、このよ うな規定が都市計画法にあるわけです。 そこで、建て主は、すぐに道路の拡幅 がないと予想されることから、道路境 界までぎりぎり敷地を使って建てよう とすれば、道路沿いは 2 階建てとなり、 その後ろに、コンクリート造など頑強 な構造で高い建物を建設するか、もし くは初めから道路境界から将来の道路 拡幅線までさがって、頑強な建物を建 設するか二者択一となるわけです。そ こで、道路沿いに 2 階建ての建物が並 んだり、高層の建物の前に余裕のテラ スなどが出現したわけです ( 図 5 骨 董通りの平面図参照 )。 このように、昔立案された計画線が 引かれていてそのままになって、幹線 道路沿いなのに、2 ~ 3 階建ての建物 が連坦する場所は、注意してみると結 構あります。幹線道路の橋のたもと (将 来橋が拡幅予定になっている) 、踏切 のたもと(将来鉄道と幹線道路が立体 172 図 5 骨董通りの平面図 街を歩けば変なビルジングに当たる 交差になる予定)などです。幹線道路沿いは、車による騒音や振動の影響があ ることから、堅牢なコンクリート構造の高層の建物が立地する傾向にあります が、2 階建ての木造建築が残存しているとしたら、都市計画道路の拡幅予定線 があるのではないかと注意してみましょう。ところで、都市計画道路内の敷地 は、事業実施が決まるまではその敷地を 2 階建ての取り壊しやすい建物であ れば建設可能ですが、事業実施が決まると、一切その敷地内での建築は認めら れません。そうすると、建物は計画予定線までさがって建替えられるので、初 めて計画線が姿を一般に人にも見える形で現れてくるというわけです。 日本の大工さんは腕が悪い !? 平成 8 年の建設白書によれば、日本の住宅は寿命が短いそうである。25 年 とか、30 年とか実際言われています。有名なプレハブ会社の社長が「日本の 木造戸建住宅の平均寿命は 13 年だから、プレハブ住宅は 15 年ももてば十分 だ。」と言ったとか言わなかったとかで建築界では話題になったこともありま す。同じ住宅でも、アメリカは 50 年~ 75 年、イギリスでは 100 年程度が寿 命だと言われているようです。日本は木造住宅だから、湿気が高いから、日本 人は住宅にお金をかけないから(かけたくてもかけられないから)、最終的に は、日本の大工さんの腕が悪いので、耐久性が高い住宅が建てられてこなかっ たからだなど、幾つか理由が考えられます。これらは、理由としてはもっとも らしいですし、間違ってはいないでしょう。ただ私は、自分の家の周辺で住宅 が取り壊され、建替えられるのを見ていると、日本の住宅の耐久年数が短いの は、大工さんの腕が悪いのではなくて、別の理由があると思われます。それは、 敷地の安定性が無いことです。私が住んでいる住宅地でのこの 20 年での住宅 の変化です(図 6 ある住宅地の 20 年前、 図 7 現在の敷地割り)。ほとんどが、 宅地の再分割で必要になり、外見上は十分耐久性があると思われる住宅が取り 壊され、ミニ開発がされてきました。つまり、日本の住宅も、敷地の安定性が あれば、十分寿命が長いと思われます。環境問題が重要な昨今、住宅の寿命が 延びることは、CO2 発生を削減する意味でも極めて重要で、いろいろな住宅メ ーカーの売り出す住宅では耐用年限「100 年」というのがキャッチコピーにな っているぐらいですが、住宅を建設する敷地が、100 年もたず、25 年で再分 割されるようでは、100 年耐用住宅は、無用な住宅ということになってしまい 173 第 4 章 街を計画する 図 6 ある住宅地の 20 年前 図 7 ある住宅地の現在 ます。 ではこの敷地の再分割はどうして起こるのでしょうか。それは比較的簡単で、 相続が発生し、相続人が何人かいれば、敷地の再分割は、自然の成り行きでし ょう。特に、地価の高い住宅地であれば、当然の成り行きです。相続人が少な くても、今度は相続税が支払えないことからその不動産を売却し、開発業者が 購入し、ミニ開発をして売却するということになる。そこで、都市計画法や建 築基準法では敷地の再分割を抑えるために、建築協定や地区計画という方法で、 最小限宅地規模を規定することができます。そうすると、以前は一定の規模の あった住宅が、極端にこま切れしたミニ開発になることは無いようです。 ただここにもまた問題が出現します。今度は、相続が起こり、その不動産を売 却しようとしても、そのような住宅地では、ミニ開発業者が購入してくれませ ん。ですから、なかなか不動産が思うように売却できないことが多くなります。 実際、地区計画を 20 年前に手掛けた住宅地で、高齢者の方に調査したところ では、地区計画に対して懐疑的な人が案外多かったです。この住宅地は、東京 の郊外の駅前高級住宅地といってよいと思いますが、ワンルームマンション建 設反対運動がきっかけとなって、敷地分割の禁止やアパートの建設禁止を盛り 込んだ地区計画を導入したわけです(図 8 郊外住宅地の 20 年前、図 9 現在)。 当時導入のために運動された方々が高齢者となり、相続問題が比較的実感でき るようになると、地区計画の規制が厳しすぎると思うようになってきたのかも 174 街を歩けば変なビルジングに当たる 図 8 郊外住宅地の 20 年前 図 9 郊外住宅地の現在 しれません。実際、この住宅地の 20 年前と現在を比較してみると、宅地の再 分割はほとんど起こっていないことがわかります。ではこのような住宅地では どのような現象が起こっているでしょうか。一つには、空き地(含む駐車場) が多くなっていることが目に付きます。一つの敷地丸ごと売却する等のことが 必ずしもスムーズに進まないことが考えられます。もう一つの現象が、セミ・ デタッチドハウス(2 戸一住宅)の出現です。この本家本元は、イギリスの郊 外住宅地にあります。写真で示したのは、 イギリスの郊外でよく見かけるセミ・ デタッチドハウスです ( 図 10 ロンドンのセミデタッチドハウス写真参照 )。 左右まったく同じ住宅が一枚の壁でくっついて左右対称住宅になっているも のです。これを直接取り入 れたのではないでしょうが、 日本の地区計画で敷地の再 分割ができない住宅地でも、 セミ・デタッチドハウスが 出現しています(図 11 日本のセミデタッチドハウ ス写真参照) 。これですと、 敷地は分割していないので、 地区計画の規制には触れな いようです。一方を敷地所 図 10 ロンドンのセミデタッチドハウス 175 第 4 章 街を計画する 有者が住み、他方を賃貸するなり、 親族が住むなりしているようです。 「苦肉の策」といえないこともあり ませんが、住宅地の環境を守って いくためには、このような規制が 必要ですが、思わぬ住宅が出現す ることになったわけです。 図 11 日本のセミデタッチドハウス Q&A Q1 街歩きをするための準備はどのようにしたら良いでしょうか A1 各種市販の地図やインターネット上で見られる地図は事前に見ておくと良いで しょう。特に Google アースのような航空写真なども大変有効です。また、写真やスケッ チが出来るように準備をしておくと良いでしょう。写真はどこで撮影したか書き込んで おくこと Q2 変な建築を発見したのですが、こういったものに興味を持っている人と情報交換 するにはどうすれば良いでしょうか。 A2 変な建築を集めている HP が色々あり。たとえば以下のような HP が 2007 年 10 月現在あります。 http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/madeintokyo/mit.html#3 http://www.kcc.zaq.ne.jp/tetsuman/daikenchiku.html 参考文献 超合法建築図鑑/彰国社 名古屋近郊 電車のある風景/ JTP パブリッシング コラム:生活学 今和次郎(1888 ~ 1979 年)という建築、衣装、生活観察学者がいました。彼は「考 現学」を提唱。「考古学」は過去の事象を文献だけに頼らずに、モノをとおしても人々 の生活や文化等を考察しますが、その方法を現在に当てはめようと考えた訳。モノや空 間を克明に記述し(特に空間をスケッチしたり事象を図示したりした)人とモノや空間 のあり方を考察し、さらには空間や都市の計画に反映させました。その弟子の吉阪隆正 (1917 ~ 1980 年 ) はさらに発展させて「形と生活」の関係を解明しようとして「生活学」 なる学問分野を開拓しました。 (小場瀬令二) 176
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