奈良学ナイトレッスン 第5期 大和の古墳が語る

奈良学ナイトレッスン 第5期 大和の古墳が語る、私たちの知らない古代
~第3夜 「古墳が伝える黄泉の世界」~
日時:平成 24 年 9 月 26 日(水) 19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:来村多加史(阪南大学教授)
内容:
1.神話の伝える「黄泉の世界」
2.『日本書紀』の「神産み神話」
3.神産み神話に記された「黄泉の世界」
4.横穴式石室の導入期
5.大和に横穴式石室が出現
6.横穴式石室の発展期
7.日本最大の石室
8.横穴式石室の成熟期
9.横穴式石室の衰退期
1.神話の伝える「黄泉の世界」
古墳時代はかつて、竪穴式石室の築かれた前期と横穴式石室の築かれた後期に二分されていましたが、
現在では前期・中期・後期の3期に分けられており、大陸から横穴式石室が伝わり流行した時代は後期に
分類されます。
古墳時代の中頃から、日本に入ってきた多くの渡来人たちが自分たちの流儀で自分たちの墳墓や墓室を
造り始めます。これを日本人が見て、新しさを感じ真似をする。こうした自然な流れで、大陸の新たな墓制
が日本に伝わったのではないかと私は考えております。今回は新たな墓制である横穴式石室についてお
話しようと思いますが、まずは『日本書紀』の神話・伝説からご紹介します。
伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の二人が、淡路島から始まり、日本列島を産みだ
したというのが、「国産み神話」です。これに続いて、彼らの体や持ち物から神様がどんどん出現していくと
いう「神産み神話」が書かれています。これは『日本書紀』だけではなく『古事記』も同様です。『日本書紀』
においては 10 種類あまりの異説が載っているため、基本的には同じ内容なのに、部分的に少し異なる神
話がいくつも収録されています。奈良時代において、すでに何種類かの神話が並行して伝わっていたこと
がわかるのです。一本化されていない神話を比較するのも、面白い作業となります。神産み神話に登場す
る「黄泉の世界」は、横穴式石室の暗い室内を想定して表現されています。ちなみに、その段は12種類も
あるのですが、ここでは最も詳しく書かれている第6番目の神話を採り上げましょう。
2.『日本書紀』の「神産み神話」
一書(あるふみ)に曰(い)はく、伊弉諾尊と伊弉冉尊と、共に大八洲國(おほやしまのくに)を生みたま
ふ。
これは、国産みの場面ですね。
然(しか)して後に伊弉諾尊の曰(のたま)はく、「我が生める國、唯朝霧のみ有りて、薫(かお)り滿(み)
てるかな」とのたまひて、乃(すなは)ち吹き撥(はら)ふ氣、神と化爲(な)る。
国を産んだけれども、イザナギはこう言った。「私たちの産んだ国を見ても、霧が立ちこめて、なんの気配も
感じない。薫りが本当に満ちているのだろうか」と。これではいけないといって、ふっと息を吐いたら、神が産
まれたということです。
號(みな)を級長戸邊命(しなとべのみこと)と曰(のたまう)う。亦(また)は級長津彦命(しなつひこのみこ
と)と曰す。是、風神(かぜのかみ)なり。
「號」というのは、名前のことです。イザナギの息から級長戸邊命が産まれました。神様の名前は、『古事
記』と『日本書紀』では若干異なる場合があります。『日本書紀』の「級長戸邊命」または「級長津彦命」は、
『古事記』では「志那都比古」となります。ふっとふいた息なので、風の神であり、風の神が祀られている龍
田神社の祭神となっています。
又飢(やは)しかりし時に生めりし兒(みこ)を、倉稻魂命(うかのみたまのみこと)と號(まう)す。
飢えて柔らかくなっている時に(ちょっと変な表現ですが)産んだ子を倉稻魂命といいます。これは全国に
たくさんある稲荷神社のご祭神です。
又、生めりし海神(わたつみのかみ)等(たち)を、少童命(わたつみのみこと)と號す。
海の神様ですね。
山神(やまのかみ)等を山祇(やまつみ)と號す。水門神(みなとのかみ)等を速秋津日命(はやあきつひ
のみこと)と號す。木神(きのかみ)等を句句廼馳(くくのち)と號す。土神(つちのかみ)を埴安神(はにやす
のかみ)と號す。
このように「神産み」の場面が続きます。
然して後に、悉(ふつく)に萬物(よろずのもの)を生む。
「悉に」というのは、あっという間に、という意味です。あっという間にたくさんいろいろな神様を産んでいった
ということです。ところが…
火神(ひのかみ)軻遇突智(かぐつち)が生るるに至りて、其の母伊弉冉尊、焦(や)かれて化去(かむさ)
りましぬ。
火の神を産んだ時にイザナミが焼かれて亡くなります。別の本では、女性の大事なところを焼いてしまった
とあります。火の神を出産して下半身が焼けて亡くなったのです。
時に、伊弉諾尊、恨みて曰はく、
産んでもらった母を殺した火の神に恨み言を言うわけです。
「唯(ただ)、一兒(このひとつぎ)を以て、我が愛(うるは)しき妹(なにものみこと)に替へつるかな」とのた
まひて、
「おまえ一人をもって、私の愛する妻の代わりになるのか」と恨み言を言います。
則(すなは)ち頭邊(まくらへ)に匍匐(はらば)ひ、脚邊(あとへ)に匍匐ひて、哭(な)き泣(いさ)ち流涕(か
なし)びたまふ。
亡くなったイザナミの枕元、あるいは足元でわんわん泣いたということです。
其の涙堕ちて神と爲る。
その涙がまた神様になるのですが、ここから先は、体の一部分が神になっていきます。
是則ち畝丘(うねお)の樹下(このもと)に所居(ま)す神なり。
啼澤女命(なきさわのめのみこと)と號(なづ)く。
天香具山の西北方向、橿原市木之本町にこの神を祀る泣沢神社、別名、畝尾都多本(うねおつたもと)神
社があります。『古事記』や『日本書紀』に出てくる由緒ある神社が、村落の片隅に気取ることなく鎮座する
のが奈良の魅力ですね。
遂に所帶(はか)せる十握剱(とつかのつるぎ)を抜きて、
「握(つか)」というのは、握る幅、つまり小指から人差し指までの間です。それが10あるわけですから、かな
り長いですね。それを抜いて、
軻遇突智を斬りて三段(みきだ)に爲す。
神話はあからさまに書いてしまうところがあります。生まれたばかりの子どもを三等分するというのですから、
こんな恐ろしいことはありません。
此(これ)各神(おのおのかみ)と化成る。
3つに分けられたものが、それぞれ神様になります。
復(また)剱の刃より垂る血、是、天安河邊(あまのやすのかわら)に所在(あ)る五百箇磐石(いほついは
むら)と爲る。即ち此經津主神(ふつぬしのかみ)の祖(おや)なり。
「此經津主神」は香取神宮のご祭神で、春日大社の4柱の1つです。
復剱の鐔(つみは)より垂る血、激越(そそ)きて神と爲る。號(なづ)けて甕速日神(みかのはやひのかみ)
と曰す。
昔の大刀は、日本刀ほど広くはありませんが、刃を止める鐔(つば)があります。流れ落ちてきた血が鐔か
ら垂れるという非常にショッキングな光景です。
次に熯速日命(ひのはやひのかみ)。其の甕速日神は、是武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖なり。
これもまた、春日大社のご祭神の1柱です。剱につたう血から生まれてきたということから、軍事的な匂いが
しますね。
亦曰はく、甕速日神。次に熯速日命。次に武甕槌神。
「亦曰はく」というのは、別の本の紹介で、いわば注釈です。同じようなことが何度も出てくる時は、一つの
本にはこう書いてある、また一つの本にはこう書いてある、というように注釈がつけられます。
復剱の鋒(さき)より垂る血、激越(そそ)きて神と爲る。號(なづ)けて磐裂神(いわさくのかみ)と曰す。次
に根裂神(ねさくのかみ)。次に磐筒男命(いわつつのをのみこと)。一(ある)に云はく、磐筒男命及び磐筒
女命(いわつつのめのみこと)といふ。
またここで、「一に云はく」と書いています。
復剱の頭(たかみ)より垂る血、激越(そそ)きて神と爲る。號けて闇靇(くらおかみ)と曰(まう)す。次に闇
山祇(くらやまつみ)。次に闇罔象(くらみつは)。然して後に、伊弉諾尊、伊弉冉尊を追ひて、黄泉(よもつ
くに)に入りて、及(し)きて共に語る。
ここから先が横穴式石室にまつわる黄泉の国の話になってくるわけです。イザナギが妻のイザナミを追い
かけて黄泉の国に入っていった。そして追いついて共に語ったと。
3.神産み神話に記された「黄泉の世界」
時に伊弉冉尊の曰はく、「吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何ぞ晩(おそ)く來(いでま)しつる。
イザナミが「どうしてもっと早く来なかったのですか」と恨み言を言っています。
吾(われ)已(すで)に餐泉之竃(よもつへぐひ)せり。
既に黄泉の国の食べ物を食べてしまったと。黄泉の国の食べ物を食べてしまうと、もう戻ることは出来ませ
ん。「もう少し早く来てくれたら、食べなかったのに」ということです。
然れども、吾當(まさ)に寝息(ねやす)まむ。請(こ)ふ、な視(み)ましそ」とのたまふ。
「な〜そ」というのは、「〜してはいけない」ということ。つまり、見てはいけない、と。私はもう寝ますけれども、
絶対に私の姿を見てはいけないと言っています。
伊弉諾尊、聽きたまはずして、
言うこと聞きませんね。
陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつまぐし)を取りて、其の雄柱(ほとりは)を牽(ひ)き折(か)きて、
「湯津爪櫛」というのは、櫛です。柔らかくした竹を二つに曲げ紐でしばってから漆をかけて仕上げたもの
が時々古墳から出土します。その端を折って、ということですね。
秉炬(たひ)として見しかば、
それが松明になるというのですから、大きいですね。先ほども「十握剱」とあったように、神様だからそれぞ
れが大きいのですね。そのようにして見たところ……。
膿(うみ)沸き蟲(うじ)流(たか)る。
イヤですね。腐乱して、蛆がたかっています。
今、世人(よのひと)、夜一片之火(よるひとつひとぼすこと)忌(い)む、
又夜擲櫛(よるなげぐし)を忌む、
『日本書紀』が編纂された奈良時代は、夜に1つだけの火を灯すことを怖がる習慣がありました。また、櫛を
投げるのはタブーだといっています。
此其の縁(ことのもと)なり。
つまり、奈良時代のそういう習慣はこの神話に由来するという注釈をつけているわけです。神話・伝説の類
いには一つの役目があります。それが編纂された時代(奈良時代)の習慣が神代(かみよ)の伝説から来て
いますよ、と説いて人々を納得させる役目です。逆に、このことから私たちは、奈良時代の人が夜に一つだ
け火をつけるのを嫌がっていたことが分かります。
時に伊弉諾尊、大(おほ)きに驚きて曰(のたま)はく、「吾、意(おも)はず、不須也凶目(いなしこめ)き汚
穢(きたな)き國に到(き)にけり」とのたまひて、
「これほど醜く汚い世界に来てしまうことを、どうして想像しただろう」と。妻が見てはいけないと言っているの
に、わざわざ櫛を折って松明にして見たためにこうなったのですね。これはイザナギが悪い。イザナミは何も
悪いことはしてないですね。ところが、イザナギは「汚い所に来てしまった。もう帰ろう」と言い捨てて、
乃(すなは)ち急(すみやか)に走(に)げ廻歸(かへ)りたまふ。
その場から逃げてゆきます。イザナギはずいぶんとわがままですね。
時に伊弉冉尊、恨みて曰はく、「何ぞ要(ちぎ)りし言(こと)を用(もち)ゐたまはずして、吾に恥辱(はぢ)
みせます」とのたまひて、
それは恨みますよね。
乃(すなは)ち泉津醜女(よもつしこめ)八人(やひと)、一(ある)に云はく、泉津日狭女(よもつひさめ)と
いふ、を遣(つかは)して追ひて留(とど)めまつる。
泉津醜女のことを泉津日狭女とも言う、という注釈が入っています。8人に追いかけさせます。怒って当然
ですね。8人に追いかけて引き留めさせるのは、自分が追いつきたいからですね。
故(かれ)、伊弉諾尊、剱を抜きて背(しりへで)に揮(ふ)きつつ逃ぐ。
「故」とは、だから、ということです。イザナギは剣を抜いて、後ろ手にバタバタとさせながら逃げます。振り
返ってしまうと遅くなるので、後ろ手に振るわけです。ちょっと面白い光景ですね。
因(よ)りて、黒髪(くろきみかづら)を投げたまふ。此即ち蒲陶(えびかづら)に化成る。
これに続けて、いろいろ物を投げながら逃げていきます。自分の髪の毛を投げるとブドウになった。ここも
注釈で、ブドウの起源である、と書いています。
醜女、見て採りて噉(は)む。
髪の毛を投げたところ、ブドウになった。8人は「おいしい物が成っているわ」と言い、採って食べる。その間
に時間を稼げるということです。
噉み了(おは)りて則ち更(また)追ふ。
食べてからまた追いかけます。
伊弉諾尊、又湯津爪櫛を投げたまふ。此即ち筍(たかむな)に化成る。
先ほど折った櫛を投げます。これは筍(たけのこ)になりました。
醜女、亦以て抜き噉む。
筍ですから、地中から出ています。それを抜いて食べている間に、また逃げられます。
噉み了りて則ち更追ふ。後に則ち伊弉冉尊、亦自ら來追(おひい)でます。
食い意地の張った 8 人に任せていてもラチがあかないので、イザナミが最終的に自分1人で追いかけてき
て、追いつこうとします。
是の時に、伊弉諾尊、已(すで)に泉津平坂(よもつひらさか)に到ります。
「泉津平坂」が出てきました。実際に黄泉比良坂(よもつひらさか)という名前の場所が出雲にあります。
一に云はく、伊弉諾尊乃(すなは)ち大樹(おほき)に向ひて放尿(ゆまり)まる。此即ち巨川(おほかは)
と化成る。
神様ですから、おしっこをしただけで大きな川になってしまいます。逃亡しながら何かを後ろに投げていく
という神話は全世界にあって、通じるものがあります。おしっこをするという話も類例がたくさんあります。
泉津日狭女、其の水(かは)を渡らむとする間(あひだ)に、伊弉諾尊、已に泉津平坂に至(ま)しましぬと
いふ。
川を渡っている時を見計らって、泉津平坂まで来たわけです。
故(かれ)便(すなは)ち千人所引(ちびき)の磐石(いは)を以て、其の坂路(さかじ)を塞(ふさ)ひて、
「千人所引の磐石」は、千人でやっと引けるぐらいの巨石ということです。出雲の黄泉比良坂と言われるとこ
ろに、人工的に据えた石、磐座(いわくら)のようなものが立っています。それ自体は神様ではなく、そこに
神様がやって来るということです。大きな木も岩も、神奈備型の山も、神様がいるところではなく、神様がや
ってくるところなのですね。
イザナギは、大きな岩で泉津平坂を塞ぎました。
伊弉冉尊と相向(あひむ)きて立ちて、遂に絶妻之誓(ことど)建(わた)す。
絶縁の言葉を述べたわけです。イザナミは可哀想ですね。
時に、伊弉冉尊の曰はく、「愛(うるは)しき吾(あ)が夫君(なせのみこと)し、如此(かく)言(のたま)はば、
吾(われ)は當(まさ)に汝(いまし)が治(しら)す國民(ひとくさ)、日(ひとひ)に千頭(ちかうべ)縊(くび)り殺
さむ」とのたまふ。
要するに、「あなたの国民を1日に1,000人ずつ絞め殺してやろう」と言うわけです。
伊弉諾尊、乃ち報(こた)へて曰はく、
イザナギも負けていない。
「愛しき吾が妹(なにものみこと)し、如此言(のたま)はば、吾は當に日に千五百(ちかうべあまりいほ)頭
(かうべ)産ましめむ」とのたまふ。
あなたがそう言うのであれば、ということです。「あなたが1日に1,000人殺すのだったら、私は1日に1,50
0人を出産させる」ということです。1日に500人ずつ増えていったら、一気に人口が増えてしまいます。人
口統計学というものがあるのですが、それによると古代の日本の人口は500万人くらいということです。神話
を信じて計算すれば、30年と経たずにこの500万人が倍になってしまいます。そのような計算をしても、あ
まり意味はないのですが……
因(よ)りて曰はく、「此(これ)よりな過ぎそ」とのたまひて、
ここを過ぎてはいけない、ここから来てはいけない、ということです。
即ち其の杖を投げたまふ。
杖を投げました。
是を岐神(ふなとのかみ)と謂(まう)す。
これは、辻の道祖神だと言われています。分かれ道です。あとでまた Y 字路のような分かれ道が出てきま
す。
又其の帶(みおび)を投げたまふ。是を長道磐神(ながちはのかみ)と謂す。
帯は長いということから連想して、長い距離の神様ということです。変な神様ですね。
又其の衣を投げたまふ。是を煩神(わずらひのかみ)と謂す。
衣を投げられたら、体に絡まって動きづらくなるということから、煩いの神ということです。
又其の褌(はかま)を投げたまふ。是を開囓神(あきくひのかみ)と謂す。
袴ですから、2つに分かれています。先ほどの Y 字路のような分かれ道です。なぜこんなに分かれ道にこ
だわるのかというと、惑わせるためですね。来てくれるなという意思表示です。
又其の履(くつ)を投げたまふ。是を道敷神(ちしきのかみ)と謂す。
路面の神です。多分、なめらかですべるような路面にするのでしょう。そうでないとすぐに来られますから。
このように神様がどんどん産まれていくわけです。この神様たちの子孫がさらに神になりますから、もう覚え
きれないほどの神様がいらっしゃいます。
其の泉津平坂(よもつひらさか)につひて、或いは所謂(い)ふ、泉津平坂といふは、復(また)別(こと)
に處所(ところ)有(あ)らじ、但(ただ)死(まか)るに臨みて氣絶(いきた)ゆる際(きは)、是を謂ふか。
この注釈は、発想が理知的です。泉津平坂というのは場所のことではない、死に際のことを言っているのだ
という説明です。
所塞(ふさ)がる磐石(いは)といふは、是(これ)泉門(よみど)に塞(ふたが)ります大神(おほかみ)を謂
ふ。亦の名は道返大神(ちがへしのおほかみ)といふ。
泉門神というのは、集落の入り口で悪霊を防ぐ神様ということです。つまり、岩をもって悪いものを防ぐという
発想が、昔あったことが分かります。
イザナギが無事に逃げ帰ったのち、「汚い所に行ってしまった」と、穢れを落とすために禊をするのですが、
その過程において、またいろいろな所から神様が産まれます。垢からも神様が産まれます。最後には、左
目を洗ったら天照大神が産まれた。右目を洗ったら月読尊が産まれた。そして鼻を洗ったら素戔嗚尊(スサ
ノオノミコト)が産まれてくるわけです。これは非常に面白い。人体にも東と西があります。左が東で、右が西。
北から南を見た時の方向を考えてください。左目は太陽の方向、右目は月方向ですから、神話の方角は
理に適っている。天照大神は太陽神だということが、ここからもわかります。
結局のところ、黄泉の国にいるイザナミに蛆がたかっているのを見たイザナギが、恐れて逃げるという話で
す。このような世界というのは、神話を創った人が、横穴式石室の風景を想像しながら創ったのではないか
と考えられます。古墳時代の前期の竪穴式石室の場合、死体を上から見下ろすことになりますので、このよ
うな発想はとても生まれません。暗いところに横から入っていくと、中に遺体を安置するところがあるという、
まさしく横穴式石室から想起されるような神話です。逆に言えばこの神話は、横穴式石室の導入後に創ら
れたのではないかということも分かります。
4.横穴式石室の導入期
神話・伝説の話から、次は考古学の話です。
横穴式石室はいつから日本にもたらされたのでしょうか。大陸文化はたいてい朝鮮半島から日本に伝わっ
てくるため、まず北九州辺りに伝わります。古墳の場合も同様で、北九州には非常に古いタイプの横穴式
石室があります。
(資料「横穴式石室の変遷」参照)資料の鍬崎(すきざき)古墳をご覧ください。小さな石をたくさん積み上げ
てつくっています。上のほうに横長の石がどんと置かれています。元々は、このような平らな石を上に置い
て天井にしていましたが、この石以外は下に落ちてしまっています。三角形になっているところが入り口で
す。天理の黒塚古墳の資料館に復原されている竪穴式石室とよく似ており、手を合わせるような断面形状
から合掌式といいます。異なる点は、基本的に竪穴式石室は棺桶を上から入れますが、ここでは横に開い
た窓から棺桶を突っ込むような形で葬ったということです。構造はよく似ていますが、棺の入れ方が違いま
す。
考古学会では、竪穴式石室という言葉を使わず、代わって竪穴式石槨(せきかく)と言うのが主流になって
きています。「室」とは、立って入ることができるスペースを言い、棺桶だけを入れる押し入れのようなスペー
スを「槨(かく)」といいます。棺桶を入れるので、幅や長さは同じようなものですが、高さが違います。そして
竪穴式石室は、立って入ることはできず、棺桶を入れるだけの箱のような施設であるから、石室と呼んでは
いけないと。
中国でも、同じ事が言えます。槨といわれる時代は、木の箱をお墓の中に先に作り付けておいて、上から
棺桶をつり下げていく。このような、棺桶と副葬品を入れるスペースしかなく、副葬品を入れてしまったら誰
も入れないくらいのものを槨と言います。秦の始皇帝は、地下宮殿を造ります。あの時代のものは既に、横
から入るようになっており、内部には広いスペースがあります。始皇帝陵だけではなく、豪族の墓も同様で
す。こうなれば、槨ではなく室になります。
竪穴式石室を造る際ですが、棺(ひつぎ)を先に入れるパターンと、後で入れるパターンの2通りがあります。
棺を先に入れる時は、まず古墳を造って、墳丘の頂上部分をもう一度四角く掘り直します。その穴の底に、
大きな粘土の固まりをかまぼこのような形に盛り上げ円筒形の木棺を置きます。割竹形木棺といいます。そ
の後周囲から石を積み上げていき、上の方は合掌式に積み上げ、最後にどん、と大きな天井石を置いて
重みにするという方法が一つです。
木棺の下に敷くのが粘土ですから、上から重い物を入れたらへこみます。そのへこみが安定して、丸い木
棺も転がらない。死者がいるのに転んだらいけないということで、先に粘土の床を造っておくわけです。これ
が「粘土床」です。最終的に棺が腐っても、粘土は腐らないため、へこみの形状だけが残り、入っていた物
の大きさが分かります。へこみの部分が真っ赤になっている場合がありますが、これは棺の内側に厚く塗っ
た水銀朱が沈着したものです。
木棺を先に置いて、あとで石の壁を造る石室がある一方で、しっかりと壁が直立する石の部屋を造り、あと
から棺を上から入れるパターンがあります。いずれの場合も棺を入れる空間は狭く、上から棺を入れる方式
です。
それが、横から入れるようになってくる。これは全然発想が違ってきます。真っ暗な部屋の中に押し込むよ
うな形で棺を入れていったのです。5世紀初頭に築造された福岡市の老司(ろうじ)古墳は、横穴式石室を
持つ前方後円墳です。この横穴式石室は、部屋のような形になっています。資料は、奥から入り口を見て
いる写真です。箱形に四角くへこんでいるところが、入り口です。横穴式石室の入り口のことを「羨道(せん
どう)」といいます。「羨」というのは、中国の言葉で、「墓の道」のことです。横穴式石室に入るまでは、高さも
低く幅も狭い。奥まで入ると天井が高くなり、幅も広くなっているというパターンが多い。この狭い部分が羨
道です。また、奥の部屋のことを「玄室」といいます。懐中電灯がないと真っ暗の石室がたくさんあります。
横穴式石室に入ろうと思う方は、強力な懐中電灯を持って行く必要があります。
5.大和に横穴式石室が出現
5世紀後半になると畿内の奈良・京都・大坂に横穴式石室が伝わり始めます。奈良県にある一番古いとさ
れる横穴式石室が椿井宮山塚(つばいみややまづか)古墳です。
法隆寺と龍田大社の間が谷になっていて竜田川が流れています。その竜田川沿いの谷は平群(へぐり)と
いわれ、古墳時代には平群氏が治めていた場所です。この平群町椿井の春日神社境内に平群氏の古墳
だと思われる宮山塚古墳があります。鍵がかかっていて、役場にお願いすると入ることが出来ますが、「い
つ崩れてもおかしくないですよ」と注意されます。入っている時に地震がきたら一巻の終わりです。とはいえ、
千数百年間崩れてないのですから、そう簡単には崩れないと思いますが。ちょっと勇気がいります。そのよ
うなことを思わせるほどきつい傾斜のアーチになっています。この古墳のように上部を狭くするのは、2つ理
由があって、1つは石室の構築にかかわります。天井に向かって壁を寄せてこないと、かなり大きな天井石
が必要になります。また、壁を直立させるような石を積み上げた場合、土圧によって壁が内側に膨らみ、崩
れます。このため壁が外側に膨らむように積み、天井石の重みで壁を引き締めることが必要です。このよう
な構築上の必要性がアーチをかけさせる理由のひとつです。
石室をアーチ形にするもう1つの理由があります。アーチをかける墓室は中国の古い時期、前漢時代の後
期あたりから出現します。中国の場合は煉瓦を積み上げて両方向からアーチをかけます。これを穹窿頂(き
ゅうりゅうちょう)といいます。日本語に直せば、穹窿天井というべきでしょうか。あなかんむりというのは空を
表し、穹窿とは大空の意味です。つまり穹窿頂は大空の天井です。古代中国の人は空をお椀を伏せたよう
な形、いわゆるドーム型になっていると考えていたのです。墓室下部の四角い部屋は大地、上部の丸い天
井は天を表します。つまり天地を墓室の中で表現しています。暗い墓室の中に天地を表現し、生きていた
時代の世界を投影させているのです。
椿井宮山塚古墳の石室の石を積んだ方法には、2通りの説があります。1つは、中に木組みをしていく方
法です。実際に、中国で煉瓦を積んでアーチの天井をかける場合には内部に木組みをして積み上げます。
もう1つの方法は、内部に土を入れていく方法です。土を埋めていくと、石が中に倒れ込まないので、どん
どん幅を狭くしても大丈夫です。天井まで造ったら、横に開いている羨道から土を掻き出していくのです。
横穴式石室の地面を見ても、木組みの痕跡が出て来ません。このため、土を入れた後者の説のほうが現状
では有力です。
また、この石室のように、壁を上のほうに向かって斜めに倒してアーチ状にすることを、「持ち送り」と言いま
す。持ち送りがきつい、大きいという場合は、かなり傾いているということです。この宮山塚古墳などは、持ち
送りが最も大きな例です。
次は、市尾墓山(いちおはかやま)古墳。前方後円墳です。これは、飛鳥からそれほど離れていない高取
町にあります。飛鳥の高松塚、あるいはキトラ古墳を見学するときに、ぜひ足を伸ばして市尾墓山古墳にも
行ってみてください。前方後円墳といえば竪穴式石槨のイメージがありますが、ここは横穴式石室です。前
方後円墳の最後の時期に横穴式石室が組まれますので、横穴式石室の入っている前方後円墳は新しい
と言えます。逆に言えば、横穴式石室のなかでも前方後円墳に入っているものは、古いタイプであるという
ことです。この古墳も6世紀初頭の古い横穴式石室で、持ち送りもあります。使われている石は、時代が下
ると共に大きくなっていく傾向があり、この時期のものはまだ比較的小さい石を使っています。この古墳の面
白いところは、墓へ通じる羨道が奥にもあり、両方向に羨道があるという非常に変わった形をしていることで
す。棺桶を入れるための通路ですから、1つあれば用は足ります。工事用だという説もありますが、まだ考古
学者の見解は一致を見ません。
次は明日香村にある真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳。ここは今、立ち入り禁止になっています。今に
も崩れてきそうな怖い古墳です。石の大きさは宮山塚古墳よりも若干大きく、一抱えくらいあります。天井石
はそれほど大きくなく、持ち送りはかなり大きいです。そして、天井が驚くほど高い。この古墳も、羨道が両
方向にあり、そのような特殊な形をもって、これは古墳ではないと唱える考古学者もいますが、私は古墳だ
ろうと考えております。同じように羨道が2つある市尾墓山古墳と何らかの関係があるのではないかと思いま
す。
真弓鑵子塚古墳と背中合わせのようにあるもう1つの古墳が、牽牛子塚(けんごしづか)古墳。色々な発掘
状況から見て、従来から指摘されている斉明天皇陵説はほぼ確実となりました。この2つの古墳は近鉄飛
鳥駅からすぐですので、ぜひ行ってみてください。先ほどの市尾墓山古墳も近鉄で飛鳥から2駅です。真
弓鑵子塚古墳とは両方に羨道をもつ構造が似ていますので、ふたつの古墳はなんらかの繋がりがあるの
でしょう。
6.横穴式石室の発展期
少し飛鳥から離れますが、烏土塚(うどづか)古墳は先ほどの宮山塚と同じで平群にあります。平群氏が最
も勢力があったときの首長の墓です。横穴式石室がとても大きい立派な前方後円墳です。箱形の石室が
特徴的です。ドーム型ではなく、横から見ると、石室の前後両壁はまっすぐに立ち上がります。前から見ると、
両サイドの壁が内側に傾いています。有名な藤ノ木古墳や、法隆寺の北側にある仏塚(ほとけづか)古墳、
御所市の條ウル神(じょううるがみ)古墳もこのタイプです。先の真弓鑵子塚との違いは一目瞭然で、石が
大きくなっています。天井石だけではなく、奥石、側石、どちらも大きい。巨石を使い始めるのが6世紀の後
半ですので、欽明天皇の頃から後ということが言えます。羨道の床面には真ん中に溝があります。これは
「排水溝」です。石室を地中に埋めるため、どうしても湿気が水滴になり、水がたまります。木の根が生えると、
またその根からもポタポタと水滴が落ちてきます。そのため高松塚古墳などはかなり湿ってしまいました。し
かし、石室の中に水がたまることを昔の人も知っていたのです。そのために、あらかじめ排水溝を造った。
溝を造り、その中に石をいっぱい入れ、石の隙間をぬって水が流れるようにした構造です。その溝をずっと
前まで延ばすため、墳丘の外観から開口部が見えています。排水溝だけはちらっと見えていて、そこからち
ょろちょろと墓の中の水が流れ出るわけです。石室を見学するときには、排水溝にも気をとめて下さい。
多くの古墳は、中に入るときには土砂の坂を下って入ります。なぜ入口が坂のようになっているのかには、
理由があります。最後の仕上げに古墳の口を閉める石を「閉塞石」といいますが、石を積みあげ、ピラミッド
形の山にして墓の口を閉めるのです。そして、たいていの古墳は追葬をします。横穴式石室は、家族を葬
るために造っており、後でまた別のお棺を入れることがあります。その時、この閉塞石を脇にのけて追葬し、
棺を収めたあとは再び入り口を石で塞ぎます。鎌倉時代から墓を荒らし回る盗掘団が出没し始めます。慣
れた盗掘団は積み上げた閉塞石の頂、羨道天井石との隙間を狙います。石を一つか二つ抜いたら、石室
を覗き込める最も手薄なところです。そして自分の身が入るくらいまで石をはずし、中の副葬品をかっさらっ
て逃げるわけです。彼らが後で埋め戻すはずもありませんので、盗掘穴は開きっぱなしになり、その穴から
土砂が入り、内部に堆積します。そのため、石室の入り口が坂になっているわけです。棺を入れるときには
閉塞石の山もなく、床面は平たいので、天井はもっと高かったのです。入り口が坂になった古墳には、絶対
一人では入らないでください。ずるずるっと滑ったら、開口部に上がれなくなります。私も危なかった経験が
ありますが、やっと出てきたら全身どろどろでした。石室の中でいくら声を張り上げても、外に聞こえません。
命がけになりますから、少なくとも2人で入ってください。
7.日本最大の石室
五条野丸山(ごじょうのまるやま)古墳は、昔は見瀬丸山(みせまるやま)古墳と言っていました。岡寺駅か
らも見えるのですが、ものすごく大きな墳丘があります。前方後円墳の後円部の上に丸い森ができています
が、あとは草地です。このため古墳の形状がよく分かります。大変大きな古墳で、古墳時代後期では最大
級の古墳です。森になっている後円部は宮内庁が陵墓参考地として管理していますので、立ち入りは禁止
されています。
宮内庁が作成した石室の実測図を見ますと、ずいぶんと細長い石室です。天井がものすごく低い部分があ
ります。土が入ってきて、半分くらいの高さまで埋まっているのです。玄室に二つの石棺がありますが、石棺
は蓋しか見えていません。それだけ土砂で埋まってしまっているのです。掃除すれば、日本最大の巨大石
室となります。墳丘も後期最大なら、入っている横穴式石室も桁違いに大きい。石舞台古墳よりも大きいの
です。
玄室に置かれた二つの石棺のうち、なぜか奥にある石棺の方が型式学的に新しいのです。欽明天皇の墓
には後で妃の堅塩媛(きたしひめ)を追葬したという記述があります。この石棺の在り方がその記事と合致
するという理由で、丸山古墳を真の欽明天皇陵とする説が出されています。ただ、『日本書紀』の中には、
欽明天皇陵は檜隈(ひのくま)の地にあると書いてあります。丸山古墳が築かれた五条野は奈良盆地が見
晴らせるところにありますので、小盆地である檜隈の地とは景観が異なる。よって新説は成立しがたいので
すが、天皇陵でなければ、この時期にこれほどの古墳を築けたのは誰かという問題が出てきます。豪族の
墓とすれば、この辺りに勢力を張っていた蘇我氏の墓となります。時期的に言えば蘇我稲目でしょうか。し
かし稲目の時代は物部氏の力に圧され、当時の天皇陵より遙かに大きい墓を築くほどの力はなかったこと
でしょう。最終的に馬子が物部守屋に勝つまでの蘇我氏は、ずっとやられっぱなしでした。そうすると「やは
り丸山古墳は天皇陵と考えるのが自然ではないか」というのが多くの考古学者の意見ですが、統一見解に
はなっていません。
私の意見はと言いますと、どちらも欽明天皇陵なのではないかと思います。欽明天皇から推古天皇にかけ
ての時期には、天皇陵が最初に葬られた所から動かされている例があります。推古天皇陵は磯長谷(太子
町)にありますが、元来の推古天皇陵は丸山古墳の東にある植山古墳ではないかと言われています。同じ
く磯長谷にある用明天皇陵も元々は香久山の近くに築かれました。廃陵となった陵と、最終的に葬られた
陵と、二つの陵があるのです。そう考えると、丸山古墳と飛鳥駅近くの現陵はどちらも欽明天皇陵であるか
も知れないのです。しかし、被葬者は、最後の最後まで分かりません。決定的な証拠がないからです。高松
塚古墳にしても、キトラ古墳にしても、結局、被葬者は断定できません。
五条野丸山古墳の資料写真では、奥の壁の石がボールのような丸い形です。意図してこのようなきれいな
石を置いています。奥の石の1段目というのはとても重要で、石室は必ずそこから造り始めます。どんな形
の石室も、古墳の中心が奥の壁の位置になるように造るのです。この奥の壁のいちばん下の石というのは、
かなり考えて据えられた、意味のある石なのです。後に誰かが入って来ることを想定しているわけではない
はずですが、こういった見る人を驚かせる発想は、大坂城の桜門を入ったところにある蛸石とも共通します。
蛸石は実際には薄っぺらい石なのですが、入ってきた人はその面の広さに驚かされます。軍事的には何
の意味もありませんが、こういう石を装飾として使うのです。丸山古墳の丸い奥石もそのような装飾的効果を
狙ったものかも知れません。
8.横穴式石室の成熟期
石舞台古墳は、聖徳太子や蘇我馬子などが活躍した7世紀前半の古墳です。床の周りに溝のようなもの
がありますが、これは後の保存のための工事で造られたものです。奥の巨石は残念ながら今は自然に上下
2つにひび割れていますが、たいへん大きな石です。やはり先ほどの五条野丸山古墳と同じように、入って
きた人に見せつけるかのように据えられています。石室の造り方はこれまでと同様、最初の1段目の奥石を
置き、その横に石を並べて置いていき、一段ずつ造り、次の段を積み上げる時に、持ち送りをします。この
石室の場合は、1 段目の壁が直立し、2 段目から上を持ち送る形状になっているため、幅の広い天井石を
置く必要がありました。自ずと天井石が広い巨石となりますので、露出して石舞台と言われるようになったの
です。
石舞台の次の段階のものが、岩屋山(いわややま)古墳です。飛鳥駅からすぐのところにありますので、ぜ
ひ行ってください。岩屋山古墳の石室ですが、1段目は真っ直ぐで、2段目が持ち送りになっています。石
舞台古墳と違い、きれいに石を加工しています。これを切石積の石室といい、岩屋山式石室と呼んでいま
す。岩屋山古墳は切石積古墳の代表なのです。
私が大学一回生の時、とても暑い夏にこの発掘調査を手伝いました。玄室の所に穴のようなものが出てき
たのですが、中には砂利がいっぱいたまっていました。墓室内の水をこの穴に集め、オーバーフローしたも
のを排水溝から流すような仕組みだったのです。古墳がらみの遺物はまったく出ませんでしたが、中世にこ
の石室を利用して仏教による葬送儀式が盛んに行われた模様で、儀式に使用した土器がたくさん出てきま
した。法隆寺の奥にある仏塚古墳も、その名からも察せられるように仏教儀式の場所として二次利用されま
した。岩屋山古墳の壁には隙間の所々に白いものが詰まっています。それは漆喰、つまり壁土です。でき
るだけ平滑な壁にしようという意図がわかります。壁の2段目は、奥の方からも側面からも傾斜しています。
東西南北の4面とも壁の上方を傾斜させ、しかもその角に隙間をつくらず、ぴたりと合わせているのです。
驚くべき技術です。石を削って合わせた後に、合わないからといって積み直せるほど石は小さくありません。
たった1回の試みでぴたりと合わせる技術をその当時の石工は持っていたのです。
岩屋山古墳の入口、羨道部分の一番前の石は屋根のように加工されています。屋敷の中に入っていくよう
な形で加工しているのです。下から見て、軒の20㎝くらいの所に天井面に浅い溝が掘ってあります。扉の
枠とする延べ石が前後に動かないように切った臍(ほぞ)が残っているのです。入り口の広さから考えて、お
そらく観音開きの石の扉だったでしょう。6世紀後半の、閉塞石をたくさん積んで石室のフタをする野暮った
い方法ではなく、非常にすっきりとしたハイカラな古墳であったことがわかります。おそらくこの岩屋山古墳
は皇極(斉明)天皇の母親である吉備姫王の墓ではないかと私は見ています。
文殊院西(もんじゅいんにし)古墳では、切石がさらに進んでいます。安倍倉梯麻呂の墓ではないかと言
われています。7世紀中頃、大化の改新の後くらいの墓です。これはたいへん精美な古墳として知られてい
て、国の特別史跡にもなっています。現在は石室にお地蔵さんをお祀りしています。壁面の石は、五の目
積という方法で積まれています。レンガを積むときのように互いに食い違わせて積む形が、サイコロの5の目
の形に似ていることからこう呼びます。3つほど、横の長さが倍の石を使っているところがあります。しかし
「五の目」の形が崩れないように、疑似線といって、中心部に溝を縦に掘っています。1つの石を2つに見せ
かけている。それほど美観にこだわって造っているのです。この古墳にも扉をつけた痕跡があります。7世
紀中頃の古墳は扉がついていてお洒落です。中国の同時期の墓にもだいたい扉がついているため、遣隋
使や遣唐使たちが発想を持ち帰ったものかも知れません。
9.横穴式石室の衰退期
大化の改新後、大きな古墳の築造を禁ずる「大化薄葬令」という法令が出され、それ以降の古墳は小さく
なります。また、豪族たちの関心も古墳から離れてゆきます。7世紀の初め頃から、豪族たちは盛んにお寺
を建てるようになりますが、これらが相まって墓が急速に小さくなってゆくのです。
横穴式石室の前には竪穴式石槨があったとお話ししましたが、7世紀後半になると、「室」から「槨」の規模
に戻ってしまいます。例えば、葛城市にある神明神社古墳を見ると、石に切れ目がなく、石そのものは大き
いのですが、それぞれの面につき1つの石しか使っていませんので、かなり狭く、棺桶を入れたらいっぱい
になってしまいます。これが終末期古墳の特徴です。死体安置所のように、棺桶を押し込むような形で石室
の中に入れます。これはすでに石室と呼べる大きさではなく、石槨です。
ただし、天皇や皇子の墓の場合は、この時代にも若干大きく造られます。それが石のカラト古墳や高松塚
古墳、キトラ古墳、マルコ山古墳などです。腰をかがめたら立って入れる程度です。石室と石槨の間くらい
でしょうか。発掘を指揮した奈良文化財研究所は一応石室と考え、石棺式石室と呼んでいます。その一方
で注目すべき古墳は、鬼の俎・雪隠(おにのまないた・せっちん)古墳です。高松塚古墳やキトラ古墳の石
室のような形になる直前、特に斉明天皇の御代にこれらの石室が流行ります。石をくりぬいて、石槨をつく
るのです。くりぬく石はかなり大きなものでなくてはなりません。そして「鬼の俎」が石槨の底石になるわけで
す。これが応用されたのが斉明天皇陵といわれている牽牛子塚古墳です。高松塚・キトラ古墳といえば70
0年前後になりますが、その一段階前にくりぬき式の横口式石槨という形が流行しました。
「鬼の雪隠」は今とは逆のひっくり返った状態で、石槨の壁と天井になっていました。天井になる面の中心
部がへこんでいてアーチになっています。天井がアーチになっているのは、お風呂と同じです。お風呂の
天井が平らだと、真ん中から雫が落ちてきてしまいます。石槨の天井がアーチになることで、雫が落ちずに
壁をつたって外に排出されるように計算されている。たいへんよく出来ています。
今回は神話に見られる横穴式石室のイメージについてと、そして古墳時代の後期から飛鳥時代にいたる
奈良県内の横穴式石室を時期ごとに紹介しました。時期によって石室の形が随分と変わることを認識して
いただけたことでしょう。この知識をもって飛鳥や奈良の古墳を回っていただければ、これまでとはまた違っ
た楽しみが生まれるものと思います。ぜひお試しください。