文学部英語A J.Brotton The Renaissance 2009/6/5 担当:永江 敬祐 王冠の宝石 1. コロンブスの航海の失敗や、続いて起こった外交紛争によって、喜望峰でのダイ ヤの発見に乗じた商業化の試みに後れをとったポルトガルは、喜望峰経由のインド到 達を明確な目標とするヴァスコ・ダ・ガマの船団を派遣した。 マリンディ1に到着したヴァスコ・ダ・ガマは、優秀なアラブ人の航海士を見つけ 2. 出し、 隊に加えることとした。彼は非常に多くの知識を有しており、ムーア人2方式の経線と 緯線が描かれた海図や、ヴァスコ・ダ・ガマが所有していたアストロラーベ3などの器 具に造詣が深いだけでなく、ヨーロッパには見られない真鍮製の器具を用いて、太陽 や北極星の高度を測定する技術も有していた。 3. イスラム人のこのような技術はヨーロッパの航海士にとっても未知のものであっ た。 ユダヤ人の天文学的な専門知識の代わりにこのイスラムの技術を利用することで、最 終的なヴァスコ・ダ・ガマのインド到達は達成されることとなる。 4. アラビア人航海士の功績は、ただ単にヴァスコ・ダ・ガマのインド洋横断を援助 したということに留まらない。彼は、アラビアの科学と天文学の発達がいかに重要な ものであるかということを知らしめたのである。オスマン帝国では、海軍司令官ピリ・ レイスによって世界中の技術を集約した世界地図が 1513 年に発行されているが、この ことはオスマンの王宮がいかに大西洋西側の発展を注視していたかということを示し ている。 5. ピリ・レイスの地図を詳しく見ることで、インド洋の表現は、ポルトガルの地図 を、イスラムやヒンドゥー、中国の天文学そして航海術の専門的知識に適応すること で、等しく理解可能であることが分かる。この事実は、政治的そして商業的な主導権 を得ようと試みる中で、宗教や地域を超えた大規模な文化的交流と知識の循環が起こ っていたことを示している。これらの交流と循環が大航海時代を支えていたのである。 カリカット4に到着したヴァスコ・ダ・ガマは、カリカットの王宮へ贈呈品を献上 6. するが、それらは地域の人間からは適切なものであると見なかった。結果的にポルト ガル―カリカット間に政治的な緊張が生まれ、両者の交易が制限される事態に陥るが、 ヴァスコ・ダ・ガマがカリカットからリスボンに持ち帰った貴重な物品は、ポルトガ ルの王宮の香辛料貿易参入への意欲をいっそう駆り立てることとなった。 7. インド洋の交易中心地において、ポルトガルの存在は非常に小さなものであった。 これはポルトガルが、その地域の交易に関する伝統に適応していなかったことが原因 であったが、収容設備の実用化や、交易の方法論の変更、ヒンドゥー共同体とムスリ ム共同体の政治的な差異の利用、火薬の使用などによって、次第にその影響力を増し ていき、ポルトガルはアジアにおける香辛料取引の独占に成功する。 8. ポルトガルの派遣した遠征隊によって、ルネサンス世界の政治的な地図は形成さ れた。ヴェニスはポルトガルに対抗するために、オスマントルコとエジプトのマムル ーク朝の外交力と政治力を利用して、ポルトガル―インド間の交易を妨害しようと試 みるが、その後ペルシアとポルトガルが協力してこれに対抗した。このように、ルネ サンスにおいて、交易と利益が生じたとき、宗教的そして思想的な対立は消滅してし まったのである。 1 ケニア沿岸中部にある海港都市。モンバサ、キルワなどと並んで、13世紀以降インド洋 交易の中心都市として繁栄。ポルトガルの貿易拠点になったが、16世紀末から衰退した。 2 モロッコ地方に住むベルベル人を指す名称であるが、北アフリカのイスラム教徒一般を指 す言葉として使われるようになった。 3 中世天文学における非常に重要な天文観測機械。天体の高度を観測して経緯度と方位角を 測定することができる。 4 インド半島南西部にある港湾都市。中世以来、中国やアラビアとの貿易で栄え、1498 年 ヴァスコ・ダ・ガマが上陸。1792 年以降はイギリスの東インド会社領となった。
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