14世紀∼16世紀の東北アジアと日本

14世紀∼16世紀の東北アジアと日本
−韓国・中国およびヨ−ロッパとの関わりの中で考える−
2006・6・16 韓国日語日文学会における講演
特プロ 客員研究員
今井 雅晴
はじめに
この講演は14世紀から16世紀の東北アジアにおける日本について、韓国(朝鮮)・中国及
びヨ−ロッパ諸国との関わりから考えようとするものです。
14世紀から16世紀の時代は、日本史研究でいうところの鎌倉時代末期から南北朝時代・室
町時代・戦国時代・桃山時代にあたります。南北朝時代から戦国時代にかけては、別の用語で中
世後期といい、桃山時代は近世初期という場合もあります。
戦国時代の16世紀になると、東北アジアでは琉球を中継基地とする貿易活動が盛んになりま
した。それを日本の立場から考えていくために、室町時代からの日本と中国(明、1368年∼)
、
日本と韓国(朝鮮、1392年∼)との貿易を見ていきます。最後に、このような貿易いわば国
際交流活動が当時の日本の文化にどのような影響を与えたか、このことを考えたいと思います。
1、時代の概観
①
南北朝時代から室町時代
1333年、鎌倉幕府は有力武士である足利尊氏や新田義貞・楠木正成らを味方につけた後醍
醐天皇によって滅ぼされました。鎌倉幕府は武士の政権でした。足利尊氏以下の武士は、自分た
ちの利益代表の新しい政府を作ろうとしました。しかし後醍醐天皇は天皇や貴族という古い勢力
の復権を狙っていました。そのため、後醍醐天皇の政権はまもなく倒れ、1336年、天皇は京
都の南方にある吉野の山奥に逃れました。足利尊氏は皇族の一人を立てて新しい天皇としました。
これが北朝で、吉野の後醍醐天皇を南朝といいました。
1338年、足利尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されて室町幕府を開きました。
この時代には武士の間でも秩序が崩れ、南北朝の争いにからんで各地で戦争が起こりました。
やがて室町幕府第3代将軍の足利義満は、1392年、数十年にわたって南朝と北朝に分かれ
ていた日本の朝廷を一つにして、幕府の勢力基盤を確立しました。
②
戦国時代
15世紀中葉の将軍足利義政のころ、各地に有力な大名が出現しました。彼らの争いの中で、
1467年(応仁元年)に京都で大規模な戦争が起こりました。当時の年号に因んで応仁の乱と
-1-
いいます。この戦争は11年間続きました。そしてこの乱以後を戦国時代といいます。戦争は各
地に広がり、約百年続きました。「下の身分の者が上の身分の者を討つ」という意味の下剋上の
風潮も広まりました。農民や身分の低い武士たちが団結して、政治的な要求や経済的要求を公け
にする土一揆も頻発しました。
下剋上の風潮は、日本で奈良時代以来長い間続いていた上下の身分関係を重視する社会から、
それ以前の、仲間や同じ身分の者の利益を重視するという社会に戻る傾向を示したものです。主
人が家来のあり方を決めるのではなく、家来が主人を決定する時代に入っていました。
また興味深いことに、戦国時代は日本経済が大発展期に入っていました。きっかけは建築業で
す。それに貿易が後押しをしました。そのために戦国時代が百年も続いても、日本は壊滅しなか
ったと私は判断しています。
戦国時代の後半には、各地で強大な戦国大名が出現しました。彼らは富国強兵と領内の統制の
ために工夫をこらしました。しかし自分の領内だけでは十分な種類と量の物資が確保できないの
で、全国の物資が集まる京都との結びつきを望みました。さらに進んで、京都への進出を目指す
者も現われました。
この時代には、宗教がしだいに独自の世界を失いつつありました。他方、それに逆らうかのよ
うに、強力な一神教的な宗派も出現しました。浄土真宗や法華宗(日蓮宗)がその代表的な例で
す。中には自分が神・仏だ、神の子だと主張する者も現われました。次の時代にかけて活躍する
織田信長や大友宗麟たちです。
③
桃山時代
16世紀の後半、約百年続いた戦国の世はしだいに統一に向かいました。この中で勢力を発展
させた尾張国(愛知県)の大名・織田信長は、1573年に将軍足利義昭を京都から追放して室
町幕府を滅ぼしました。そのあとを承けた豊臣秀吉は1590年に全国を統一しました。
この時代には仏教の影響が少なくなり、現実的な世俗中心の文化が広まりました。またこの時
代には広く南蛮文化が伝えられ、日本人の世界観が変わるような考え方や知識がもたらされまし
た。
2、中国との貿易
①
貿易の発展
室町幕府第3代将軍の足利義満は、数十年にわたって南朝と北朝に分かれていた日本の朝廷を
一つにして、幕府の勢力基盤を確立しました。その後、義満は中国との貿易に注目しました。当
時、中国の沿岸地方を荒らしまわっていた倭寇が捕虜にした中国の人びとを返還することを手が
かりに、1401年(応永8年)に使者を中国に派遣しました。日本の国書を送り、倭寇の鎮圧
と交換に途絶えていた国交の回復を求めたのです。この時の義満の使者は、祖阿という名の僧侶
と、肥富という九州博多の商人でした。
翌年、明の恵帝から承諾するという返事が送られてきて、1404年から貿易が始まりました。
貿易といっても、当時の中国との貿易は、主人の国である中国にまわりの国が家来として貢ぎ物
-2-
を捧げ、中国がご褒美をあげる、という形でした。当然のように、明は足利義満を明の天子に臣
下として仕える者として、日本国王に任命しました。「国王」は天子の下にいる者です。また、
正式な貿易活動であることを証明する木の札である「勘合」を与えました。貿易はこの札を使っ
て行なわれたので、この貿易は勘合貿易とも呼ばれています。
民間の貿易は絶え間なく行なわれていましたが、勘合貿易は国家同士の正式の貿易方法でした。
日本からの使者の滞在費などはすべて明が負担しましたし、明の天子からの「ご褒美」も非常に
多かったので、日本側の利益は莫大でした。
貿易のために日本から送った遣明船は、東シナ海をまっすぐ西へ行って寧波(ニンポ−)に着
き、上陸して北京に行き、貢ぎ物の他に持ってきた商品を売り、また中国の品々を買い込みまし
た。日本からの輸出品は砂金・硫黄・銅・刀剣などで、輸入品は生糸・絹織物・銅銭・書籍・陶
器などでした。硫黄は薬品の原料として使われるものです。
後になると、勘合貿易は九州博多(現在の福岡県)の商人と手を結んだ戦国大名大内氏と、堺
(現在の大阪府)の商人と手を結んだ細川氏が、幕府に代わって実権を握りました。両者の主導
権争いは激しく、ついに1523年に両者は寧波で軍事衝突しました。この戦いに勝った大内氏
は、それからの貿易を独占するようになりました。
こうして、この勘合貿易は1404年から1547年(天文16年)の間に19回行なわれま
した。
また日本との交流を円滑にするために、中国では日本語学習書が出版されました。
『日本寄語』
(1522年)
・『日本漢訳語』
(1549年以前)などがそれです。
日本の国内では、鎌倉時代後期以来、産業が盛んになっていました。室町時代には従来からの
都市である京都や奈良のほかに、各地の中小寺院や神社のまわりに門前町ができていました。戦
国時代には、大名の城のもとに城下町が成立しました。また交通の要地には港町や宿場町ができ
ました。建築業や鉱山業も盛んになっています。海外との貿易の必要性はさらに高まっていまし
た。
②
明の海禁政策
しかし明は、従来からの海禁政策を維持していました。海禁政策というのは。宋・元以降の中
国王朝の海外貿易と海外交通に関する政策です。朝貢貿易以外の貿易は禁止し、中国人の海外貿
易も制限するという内容です。前に述べた日本の場合、1404年から1549年までの約15
0年間で19回です。8年に1度の貿易ということになります。これでは、日本の幕府や一部の
大名はともかく、日本全体として十分な額の貿易であったとはとても思えません。むろん、北か
ら南まで長い中国の海岸線の中で、民間の交易が事実上に行なわれていたことは十分に考えられ
ます。
戦国時代には、広い領地を持つ大名の大内氏が勘合貿易で大いに利益をあげていました。当主
の大内義隆は1539年(天文8年)と1547年にも大規模な貿易船団を中国に送りました。
しかしその後まもなく、義隆は家臣のために滅ぼされてしまいました。対抗関係にあった戦国大
名の細川氏も、一族内の争いによって勢力が衰退してしまいました。
このような政治情勢の中で勘合貿易も行なわれなくなり、日本と中国の正式の貿易は途絶えま
-3-
した。代わって、倭寇や中国商人の密貿易がいっそう盛んになりました。さらにそれに伴う形で、
明の官憲の禁圧活動も強まりました。
3、韓国との貿易
①
博多と対馬
日本と韓国との貿易の拠点は二ヶ所ありました。それは博多と対馬です。まず博多は、北九州
で韓国に向いて港を形成し、早くから韓国のみならず中国との貿易の拠点としても栄えてきまし
た。申叔舟という人が著わした『海東諸国紀』に博多についての記述があり、「居民万余戸」−
1万軒以上の家がある、とあります。そして、
居人行商を業とす。琉球・南蛮の商船が集まるところの地なり。
ともあります。
博多は九州や瀬戸内海その他の海岸地方と結びついた物資の集散地でした。博多を韓国との通
交の拠点としていた大名たちも多かったのです。
他方、対馬はその位置の特殊性から、日本と韓国の両方に所属していたとする意見もあります。
島の領主である宗氏は、勢力を維持発展させるため、政治上・通商上で巧みな外交政策を取って
いたのです。16世紀になると、韓国との通商の拠点は対馬に一本化されていきました。
実際のところ、韓国は海外からの貿易船が来ることを強く警戒していました。明と同様、倭寇
の被害が大きかったからです。逆に、韓国の王朝は時には倭寇の根拠地をを襲ったりしました。
その一例が1429年(応永26年)6月に対馬を襲撃した事件です。この時には兵船227隻、
1万7000人の大軍で襲ったのです。大軍は10日余りで撤退しましたが、日本側では鎌倉時
代の蒙古襲来の再現という噂が流れ、世情は騒然としました。これを日本側から見て、「応永の
外寇」といっています。
室町幕府は事件の真相を知るために朝鮮に使節を派遣しました。翌年の1420年、朝鮮から
は将軍足利義持への回礼使として宋希憬という人物が来ました。号を老松堂といい、彼が著わし
た『老松堂日本行録』はこの時の紀行詩文集で、当時の日本社会についての興味深い観察が見ら
れます。
「回礼使」という名称は、1428年から「通信使」に変更になりました。
②
倭館
朝鮮は、もともと、1400年代の日本の商船の来航は薺浦(乃而浦。現在の鎮海市)と富山
浦(現在の釜山市)に限るとしていました。応永の外寇後は、日本の幕府の使いが来るのもこの
二つの港に限ってしまいました。しかし1526年には塩浦(蔚山市塩浦洞)が加えられ、三浦
の制が固まりました。三浦の制とは、交易・外交はこの三つの港でのみ行なうとする制度です。
三つの浦には、それぞれ倭館が設けられました。これは日本からの使節接待と貿易の統制のた
めです。倭館は東平館と西平館に分かれていたといいます。倭館は漢城(ソウル)にも設けられ
-4-
ました。
日本と朝鮮との貿易は、後に通信符の印による形式となりました。三浦には以前から日本人が
居住していました。1494年の記録では、薺浦に347戸2500人、富山浦に127戸45
3人、塩浦に51戸152人でした。彼らは貿易や漁業、農耕で生活し、密貿易の仲介を行なう
こともありました。
三浦居住の日本人は恒居倭と呼ばれました。朝鮮側では恒居倭を警戒し、人数を制限しようと
しました。しかし逆にその人数は増加していきました。
日本から朝鮮への輸出品は硫黄・銅や南海産の蘇木など、朝鮮からの輸入品は綿織物・人参・
大蔵経などでした。蘇木は薬品や染料として使われました。中国におけると同じく、朝鮮でも『伊
路波』などの日本語学習書が出版されました。
16世紀初めころから、朝鮮側では恒居倭に対する貿易統制を厳重にするようになり、彼らを
圧迫し始めました。これに反発した恒居倭たちは対馬島主宗盛順の援軍を得て三浦で武装蜂起し
ました。しかしその蜂起は失敗しました。これを日本側では「三浦の乱」、朝鮮側では「庚午の
倭変」と呼びました。
この事件の結果、対馬と朝鮮との関係は断絶しました。1502年の壬申条約で回復しました
が、貿易港は薺浦だけに限られるなど、規模は大幅に制限されるに至りました。朝鮮との貿易は
正式な形では細々としたものになってしまいました。しかし対馬では米・豆などの必需物資を朝
鮮から求めなければならず、貿易の拡大をはからないわけにはいきませんでした。
4、琉球王国の成立と貿易
1429年、沖縄の島々が尚氏によって統一され、琉球王国が成立しました。「琉球」という
呼び方の初見は、中国の『隋書』に見える「流求」です。しかし、これは現在の沖縄を指したと
いう説と台湾を指したという説とがあります。そのどちらを指すのか、まだ確定できていません。
「沖縄」という呼び方については、中国僧鑑真の日本渡航について述べた『唐大和上東征伝』の
なかに、
「阿児奈波(あこなわ)
」とあるのが初見です。
琉球では、長い間採集・狩猟の沖縄貝塚文化時代が続いていましたが、12世紀に入って本格
的な農耕へ経済の基盤が進展しました。各地に豪族が出現し、グスク(城)が作られました。そ
の多くは見晴らしのよい丘の上にあり、石灰岩の石塁を巡らしているものもあります。城の主を
按司(あじ、あんじ)といいました。沖縄の歴史でいうところのグスク時代は13世紀まで続き
ました。この時代には多くの豪族たちが各地に割拠し、支配の領域を争いました。
14世紀に入ると、沖縄島の北部・中部・南部、すなわち北山・中山・南山に三大勢力がまと
まっていきました。この時代を三山時代といいます。
このような情勢の中で、海外との交流も活発になりました。1373年になると、中山王察度
が初めて明に朝貢使を送りました。これに刺激されてか、続いて南山王・北山王も明に使いを送
っています。
1422年、中山王となった尚巴志(しょう・はし)は首里城によってまず北山王を滅ぼし、
続いて1429年には南山王を滅ぼして三山を統一しました。ここに琉球王国が成立しました。
-5-
琉球は明の海禁政策を逆に利用し、東南アジア諸国と中国・日本・朝鮮を結ぶ活発な中継貿易
を展開しました。15世紀から16世紀の琉球は大交易時代を迎え、アジアの懸け橋となってい
きました。これは東北アジアの産業地図が変わりつつあったという事情もありました。この時期、
日本では銀、明では生糸、朝鮮では木綿の生産が増加していたのです。中国を主人とし周辺諸国
を家来とする朝貢貿易に替わる、新たな貿易形態が求められていたのです。
日本には琉球を仲立ちとして海外の物資が盛んに輸入されるようになりました。また日本の産
物の海外への輸出も盛んになりました。
もっともこのころ、琉球王国も自国民の出入国や貿易を厳しく統制し、外国船の来航を禁じて
いました。中国でいうところの海禁政策の実行は、一人中国のみならず、東北アジアに共通した
傾向でした。日本も江戸時代に入ってそれを本格的に実施することになります。これが鎖国政策
です。
ただし江戸時代の鎖国に関する研究には、近年、新しい特色が見られます。「国を鎖し、長崎
でオランダ人中国人のみに細々と貿易を許した」というイメ−ジから、「長崎など日本各地の四
港で、世界に向かって窓を開いていた」というイメ−ジに変わりつつあるのです。それを証明す
べく、研究者たちは実証的な調査研究に取り組んでいます。
5、お伽草子と海外の世界
戦国時代の日本国内では、海外の世界が身近な存在となり、いろいろな話が入ってきました。
このことはお伽草子にも色濃く反映されています。
お伽草子は、室町時代から江戸時代初期にかけての短篇物語の総称です。現在知られているも
のは、合わせて400編にのぼります。作者のほとんどは未詳です。内容は、主人公に貴族・僧
侶・庶民・動物など、話の筋は出世物語や英雄譚が多いです。海外に関わる話もあります。
例えば、
「御曹司島渡(おんぞうし・しまわたり)」です。これは源義経が陸奥国平泉の藤原秀
衡のもとを出発して千島の
かねひら大王
の城に赴き、兵法の巻物を取ってくる話です。
「浦島太郎」の話もあります。漁師の若者太郎が竜宮城へ行き、帰ってきたら何百年も経って
いたという話です。これはすでに『日本書紀』や、『万葉集』、『丹後風土記』逸文などに見えて
いますが、お伽草子では太郎が助けた亀の報恩譚が加えられています。「太郎」という名も室町
時代からです。本来は「水江浦島子(みずのえのうら・の・しまこ)
」です。
ちなみに、竜宮城から帰る浦島太郎に乙姫様が玉手箱をお土産に与え、故郷に帰り着いた太郎
がさびしさのあまり禁じられていた箱の蓋を開けたら、中から白い煙が出て、太郎はたちまちお
爺さんになってしまったというのは、明治時代になってから加えられた話です。
6、ヨ−ロッパ文化の伝来
①
ヨ−ロッパ人の渡来
琉球を中継基地とする貿易が盛んになった東北アジアの世界に、やがてヨ−ロッパ人が姿を見
せるようになりました。日本の室町時代から戦国時代にかけて、ヨ−ロッパではルネッサンス、
-6-
引き続く宗教改革(ルッタ−の宗教改革は1517年)を経て、新しい思潮のもとに中央集権国
家が成立し、海外への進出を盛んに行なうようになっていました。
すでに15世紀末の1429年、イスパニア(スペイン)のイザベラ女王の援助によってイタ
リア人のコロンブスがアメリカ大陸に到達していました。そして1498年、ヴァスコ・ダ・ガ
マの率いるポルトガルの船団がアフリカ大陸の南端の喜望峰を迂回してインドに到達しました。
いわゆる喜望峰の発見は、ヨ−ロッパ経済に大転機を与え、やがて大発展をもたらすことになり
ます。
当時、アフリカ北部からエジプト、アラビア北部、トルコ、そしてバルカン半島からアドリア
海東岸と、イスラム国家が展開していました。ヨ−ロッパの商人たちは直接その東方のアジアと
は貿易ができませんでした。ヨ−ロッパ人は、なんとかインドと貿易がしたいと考えていました。
彼らの意識では、アジアを代表する国はインドでした。
アメリカ大陸に到達したコロンブスは、アメリカ大陸に行こうと考えていたのではありません
でした。あくまでも彼の目指した到達点はインドでした。地球は丸い、東へ行ってインドへ到達
するのなら、西へ向かってもやがてはインドへ到達するだろうとイザベラ女王を説得したのです。
コロンブスが到達したのは実際には今日の西インド諸島でしたが、彼は死ぬまでそこがインドで
あると信じていました。
「西インド諸島」という名称は、この経緯によっています。
②
ポルトガル人とイスパニア人のアジア進出
ヴァスコ・ダ・ガマがアジアに直接貿易品を運べるインド航路を開拓したことは、ポルトガル
の東方貿易に巨大な利益をもたらすことになりました。
1510年、ポルトガルはインドのゴアを占領しました。翌年にはマレ−シア半島の先端近く
でスマトラ島に相対するマラッカに進出しました。マラッカは、西はインド、南はスマトラ島か
らジャワ島、東は香料の産地であるモルッカ諸島、北は中国から琉球・日本に及ぶアジア貿易の
大中心地でした。さらに1513年、ポルトガル人は北上して中国の広州に現われました。彼ら
が海上でアジアに進出してからわずか十数年後のことでした。
ポルトガルの商人たちは、アジア諸国間の商品の売買を中継し、ヨ−ロッパにも運んで巨額の
利益を得ました。例えば中国には香料を運び、中国からは生糸・絹織物をインド方面に運びまし
た。またその香料、なかでも胡椒はヨ−ロッパ社会で大いに歓迎されました。ヨ−ロッパ人の主
食ともいうべき肉は、それ以前の味付けはせいぜい塩でした。胡椒によって大変おいしく食べら
れるようになり、また貯蔵して古くなった肉の腐敗臭も消すことができたのです。
やがてポルトガル人は中国の沿岸をさらに北上して寧波にその姿を見せるようになりました。
日本に到達するのもまもなくでした。しかし当面、ポルトガル商人たちは勘合貿易が行なわれて
いる間は日本との貿易にあまり魅力を感じなかったようです。勘合貿易が衰退の様子を見せた1
6世紀中葉、日本への進出を本格化させました。その直前の事件が、1543年(天文12年)
の鉄砲伝来として伝えられている、中国船に乗ったポルトガル人の種子島漂着でした。
1543年、中国の寧波に向かうポルトガル人二人を乗せた中国船(ジャンク)が九州の南の
海上にある種子島に漂着しました。そのポルトガル人たちは、島の領主の種子島時尭に鉄砲を伝
えました。
-7-
これが日本において日本人がヨ−ロッパ人と接触した最初です。もっとも江戸時代の新井白石
の『采覧異言』という本によれば、ポルトガル人はその二年前に豊後国(今日の九州・大分県)
に漂着したと書かれています。しかし、今日の研究ではそれは疑問であるとされています。
ポルトガル人から伝えられた鉄砲は、まもなく日本国内でも製造され始めました。この鉄砲は、
それまで弓・刀・槍などに頼っていた従来の戦闘方法や鎧・兜の制作方法に大きな変化を与えま
した。城を築く技術にも影響を及ぼしました。これらは戦国の世を統一する動きを促進する結果
にもなりました。
ポルトガル人は、その後毎年のように来日し、肥前国(長崎県)の平戸や長崎、豊後国(大分
県)の府内など、九州の港で貿易を行ないました。
一方、イスパニア(スペイン)人はかなり遅れて1584年(天正18年)に平戸にやってき
ました。彼らもアジア貿易に乗り出していました。この数十年前の1519年、フェルナンド・
マゼランはイスパニア国王の援助を受けて大西洋を西に向かって航海に出ました。そして南アメ
リカの南端を回って太平洋に出、さらに西に進んでフィリピンに至りました。
イスパニア人の主な狙いは香料の獲得でしたが、その主産地のモルッカ諸島はすでにポルトガ
ル人によって占領されていました。そこでフィリピンに目をつけましたが、マニラを占領して本
格的に植民地支配に乗り出したのは1571年からでした。したがって東南アジアから東北アジ
アでの主導権はポルトガルが握り続けました。
当時、ポルトガル人とイスパニア人を南蛮人と呼びました。これは中国人が自分たちを世界の
優れた中心としての中華といい、まわりの外国の人たちは皆、野蛮人であるとしたことからきて
います。東の地域にいる野蛮人は東夷(とうい)
、北は北狛(ほくてき)
、西は西戎(さいじゅう)、
そして南方が南蛮です。ポルトガル人とイスパニア人は南から来たので南蛮人としたのです。
③
イギリス人とオランダ人の進出
さらに遅れて、イギリス人とオランダ人も日本にやってきました。それは1600年(慶長5
年)のことでした。この年、オランダ船リ−フデ号が豊後に漂着しました。乗っていた船員のオ
ランダ人ヤン・ヨ−ステンと水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズは、日本の覇権を握
りつつあった徳川家康に、外交と貿易の顧問として江戸に招かれました。
ヤン・ヨ−ステンは、その名にちなみ、江戸での住所が八重洲(やえす)と呼ばれるようにな
って現在に至っています。JR東京駅は、東側出口(海側出口)を八重洲口といっています。こ
れはヤン・ヨ−ステンの名に由来しています。ウィリアム・アダムズは三浦半島(神奈川県)に
領地をもらいました。当時、水先案内人のことを按針(あんじん)といいました。そこでアダム
ズは三浦按針と通称されました。彼の墓を記念した「按針塚」という電車の駅もあります。
リ−フデ号のことがきっかけとなり、1609年にはオランダ船が、1613年にはイギリス
船が来航し、それぞれ平戸に商館を開いて貿易を開始しました。南蛮人に対して、イギリス人と
オランダ人は紅毛人と呼ばれました。髪の毛が赤茶けた人が多かったからでしょう。
④
キリスト教の伝来
1549年、キリスト教のイエズス会宣教師であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、
-8-
キリスト教を伝えました。イエズス会は、宗教改革後のプロテスタントの活発な動きに対抗し、
カトリックの発展をはかって結成された修道会の一つです。1540年にロ−マ法王の公認を得
ています。ザビエルはイグナチウス・ロヨラとともにイエズス会の創設に参加しました。彼らは
アジアでの布教によって、プロテスタントに侵略されたカトリックの勢力の挽回をはかろうとし
たのです。
ザビエルは1542年にインドのゴアに到達し、イエズス会の初代インド管区長として精力的
に布教活動を行なっていました。その中でマラッカにいた日本人ヤジロ−とと出会い、彼の話に
よって日本と日本人に関心を持ったといいます。
ザビエルが布教を志した鹿児島の領主島津貴久は、当初、ザビエルの布教に対して好意的でし
た。しかし、やがて仏教徒の反発が激しくなるに及び、ザビエルは盟友トルレスとフェルナンデ
スの二人とともに、平戸(現在の九州・長崎県の島)から山口(現在の山口県)を経て京都に上
りました。これは、日本の中心が京都であること、それに次ぐ都市が山口であると聞いたからで
す。平戸はそこに入港するポルトガル船を通じてインドのゴアと連絡を取るためでした。
ザビエルが来日した直後の1549年11月5日付でマラッカの長官あてに送った手紙に、
都には9万6千戸の家があるといいます。この町を見たポルトガル人に話によりますと、リ
スボアよりも大きくて、家は皆木造で、我々の国と同じように、階造りになっているそうで
す。
(ペトロ・アルベ−ル他訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』
)
とあります。
平戸の大名松浦隆信の、山口の大名大内義隆も、ザビエルに好意的でした。しかし京都では期
待はずれだったようです。わずか11日で京都を去っています。帰路、ザビエルは山口に滞在し
ました。それは5ヵ月にも及びました。その後インドから呼ばれたために、豊後国の府内に行き、
そこで船に乗って日本を去り、インドのゴアに帰りました。帰国の直前、ザビエルは豊後の大友
家を継いだばかりの大友義鎮に謁見しました。
ザビエルは再び来日する予定でした。まもなく実際に中国の広東省まで来ましたが、病気のた
めに亡くなりました。
⑤
キリスト教の広がり
その後、ザビエルの盟友のトルレスその他の活躍で、キリスト教は九州各地で定着し始めまし
た。トルレスは1554年に大坂の堺に行き、1559年にはガスパル・ビレラを京都に派遣し
ました。ビレラは将軍足利義輝に謁見し、京都でのキリスト教布教の許可をもらいました。つい
でルイス・フロイスもトルレスの指示で京都に上りました。フロイスは織田信長の保護を得るに
至りました。またオルガンチノという宣教師は京都に南蛮寺(教会)を建てました。
ただ、海の潮の流れである黒潮(暖流。南から北へ流れる)や季節風に左右される当時の航海
技術から、宣教師が乗ってくる船が多く来航するのは九州でした。宣教師たちは布教のかたわら、
病院を建てたり、貧しい人々を救うなどの慈善活動にも努めたので、キリスト教は民衆の間にも
急速に広まりました。それは主に九州でした。
-9-
またポルトガルとイスパニアは、布教と貿易とを結びつけていました。つまり、キリスト教布
教を許可しない大名の港には貿易船を送りませんでした。おりからの戦国時代の中で、貿易船の
来航を望む九州の大名の多くは、キリスト教に好意を示しました。中にはみずから洗礼を受けて
信者となる者も現われました。これをキリシタン大名といいます。大友義鎮(宗麟)は特に有名
な一人です。
この宗麟を始めとする、大村純忠・有馬晴信という3人のキリシタン大名はイタリア人の宣教
師ヴァリニャ−ノの勧めで、1582年、息子たち4人をロ−マ法王グレゴリオ13世のもとに
派遣しました。彼らはイタリア各地で大歓迎を受けて1590年に日本に戻りました。
ではこの時代にキリスト教はなぜ広まったのでしょうか。日本に伝えられたキリスト教は、カ
トリックの典型的な姿が伝えられていたと考えられます。日本の在来宗教と比較していえば、キ
リスト教は一神教、在来宗教は多神教です。これは、在来宗教のなかでも、神々の救いを説く神
祇信仰は当然ながら、仏教諸宗派においても同様でした。むろん、本来の仏教は絶対者としての
仏を崇拝するのではなく、自分自身の悟りを目指すものです。しかし大部分は諸仏を崇拝してい
るのが実態でした。
キリスト教も、ヨ−ロッパ各地の実生活の中では異なった様相を示していたでしょうが、日本
に布教するとなるとまた別です。唯一絶対で世界の創造主としての神を前面に立てることになり
ました。それが日本で受け入れられたのは、キリスト教が外国から来た仏教の新しい宗派である
という認識が日本人にあったからでしょう。
1552年、宣教師トルレスは、山口の大名である大内義長から、次のような布教と居住の許
可状を与えられています。
周防国(すおうのくに)吉敷郡(よしきこおり)山口県(やまぐちのあがた)大道寺の事、
西域より来朝の僧、仏法結縁のため、彼の寺家(じけ)を創建すべきの由、請望の旨に任せ、
裁許せしむるの状、件(くだん)の如(ごと)し。
天文11年8月28日
周防介<御判>
当寺住持
「周防国(現在の山口県)の山口県という所に、西方の外国から来た僧侶の為ために大道寺を建
立することを許可する」
。
史料中、
「周防介」は大友義長です。大友宗麟の弟です。
「西域より来朝の僧」とあります。ま
た「仏法結縁」ともあります。「当寺住持」は「話題になっている寺の住職」で、トルレスのこ
とです。大友義長はキリスト教を仏教、宣教師を仏教の僧侶と認識しています。
イエズス会はポルトガル商人の寄付を得て、教会堂を新築し、大道寺と命名したのです。
この裁許状の写しが、1570年にポルトガルのコインブラで出版された『イエズス会員書翰
集』に掲載されました。それは日本文がヨ−ロッパで印刷され紹介された最初のことでした。
そしてまたキリスト教の神を仏教の真言宗の大日如来に見立てて日本人の理解を助ける、とい
う方策もとられました。宣教師たちは入門の時の誓いである清貧・貞潔・服従を固く守り、親切
に、また献身的に努めました。これらはキリスト教の信者を増加させる大きな要因になったこと
- 10 -
でしょう。
しかしながら、キリスト教が日本に伝わってきたのが戦国時代後半であったということを十分
に考慮に入れなければなりません。当時、日本では一神教的な宗教が強い勢力を有していたので
す。浄土真宗、法華宗はその典型でした。伝統的な多神教の神祇新校でさえも、唯一神道(吉田
神道)として一神教的な立場を目指していました。
たしかにキリスト教は貿易およびポルトガル・イスパニアの植民地主義と結びついていました。
そのため、桃山時代から江戸時代にかけて権力者たちに警戒されました。そしてやがてはキリス
ト教禁止の憂き目にあいました。
時期に多少の違いはありますが、浄土真宗や法華宗も権力者たちにてひどく弾圧されていきま
した。江戸時代には強力な一神教的宗教は存在を認められませんでした。そのなかでキリスト教
も禁止されていったのです。
7、国際交流活動の日本への影響
①
−東北アジアとヨ−ロッパ−
意識と行動の中の世界が広がったこと
もともと、日本には奈良時代以来の僧侶や知識人が持っていた、アジアに広がる世界観があり
ました。世界は天竺・震旦・本朝でできているという世界観です。天竺はインド、震旦は中国、
本朝は日本です。これは仏教的世界観に基づくもので、日本は世界の果てにある粟粒のような存
在であるとして意識されていました。しかしそれは単なる知識として、頭の中だけの世界観であ
ったといわざるを得ません。日本人として、誰もインドまで往復したことはなかったでしょう。
来日したインド人に実際のインドについて語られることなど、なかったはずです。
しかし室町時代から戦国時代にかけて、東北アジアから東南アジアへの貿易の拡大・発展は、
日本人が実際に見てきた世界を広げました。日本人の視野は、体験的に東北アジアから東南アジ
アに広がったのです。
さらにヨ−ロッパ人の渡来は、東南アジアを越えて、はるか彼方の西方、世界のはてまで様子
を知らせることになりました。しかもそれは書物で読む単なる知識ではなく、時には紅毛碧眼の
ヨ−ロッパ人が現実に日本にきて語るのです。海外に出たことのない人でも、信用しないわけに
はいきません。
②
明るい光に満ちた文化
琉球を中継基地とする貿易圏は、日本から見れば南方に広がる地域です。その地域に展開する
だけでも、明るい光に包まれていたはずです。さらにその向こう、世界のはてのヨ−ロッパから
来た文化には、いっそうの明るさが満ちていました。中でも、特にポルトガル人・イスパニア人・
イタリア人とそのもたらした文化が注目されます。
日本の戦国時代は、ヨ−ロッパではルネッサンスから宗教改革を経た、中世から近代への移行
期に当たります。神中心から人間中心へという時代です。中世の暗やみから近代の明るさへと移
りつつありました。家屋にしても、中世では窓を極力少なくしました。悪魔や吸血鬼が入らない
ようにするためです。しかし近代では、窓から明るい光がたくさん入るように設計されました。
- 11 -
日本でも、中世では真っ暗やみの暁時(夜中の2時ころ)が神仏と人間が会える神聖な時間帯
であるとして重んぜられていました。1179年に成立したとされている『梁塵秘抄』に、
仏は常にいませども
人の音せぬ暁に
現(うつつ)ならぬぞあはれなる
ほのかに夢に見え給ふ
「仏はいつも存在しているのだが、実際には見ることができないのが尊いことだ。人が寝静まっ
ている暁に夢のなかでかすかに出現してくださる」と記してある。この書物は当時の流行歌を集
めた本である。
しかしこの日本の宗教的風潮も、中世末に向かって急速に変わっていきました。宗教は権威を
落としていきました。そして夜ではなくて昼間の明るい光の中にこそ人間生活の救いがある、と
いう意識が芽生えていきました。
ルネッサンスというのは、日本語では文芸復興と翻訳されてきました。その「復興」とは明る
い南ヨ−ロッパの光のもとでのギリシャ・ロ−マ文化の復興のことです。「文芸」の意味すると
ころは、もちろん文学だけではなく、思想・絵画さらには生活感覚なども含まれているべきはず
です。
つまりはポルトガル・イスパニア・イタリアという南ヨ−ロッパの明るい光に満ちた文化は、
当時の日本人にとって非常に魅力的であったのではないか、と私は考えています。それは琉球を
中継地とする南方の文化が、明るい光に包まれて見えたであろうことの延長でもあったと思うの
です。
③
海は国々を隔てるものではなく、結ぶものであったこと
江戸時代には、川や海はそれを挟む地域を隔てるものと認識されていました。しかし、戦国時
代までは二つの地域を結ぶものでした。お互いの物資を交換し、文化を伝えあっていました。ま
た海や川の産物を共同で収穫しました。まさに14世紀から16世紀にかけての東北アジアでは
そのような協力の意識があり、また実際に協力の作業が行なわれていたと思います。
- 12 -