ヨーロッパの大航海時代

日本のなかのヨーロッパ資料 01
ヨーロッパの大航海時代 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
1. 大航海時代
大航海時代とは、
15 世紀中ごろから 17 世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・
アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ
人によって開始された。
1-1. 文化・文明の伝播
人類出現以来、隣り合う文化文
明は互いに交流し影響を及ぼしあ
ってきた。文化交流は人類に限ら
れたことではなく、道具の使用を
も文化と認めるなら、チンパンジ
ーや一部の鳥獣についても、個体
間や隣り合う地域を介して文化交
流が行われている。人類は言葉や
文字を使用するので、より円滑に
文化文明を伝播することが可能で
あるが、極東と西ヨーロッパのよ
うに遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や科学技術の
進歩が必要であった。
1-2. 古代の国際交流
強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは四大文明
の発祥地をはじめインカ帝国やアステカ帝国の例を見るまでもなく明らかである。
古代ギリシャ人は、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエ
ントの一部を世界として認識していた。アレキサンダー大王の東方遠征によって、ギリシ
ャ人の世界観はインド・中国までに一気に広がった。アレキサンダーがペルシャの皇女を
娶ったことに象徴されるように、アレキサンダーの帝国ではコスモポリタニズムが標榜さ
れ、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した
国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。
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パックス・ロマーナの下、整備された航路や道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、
地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた。多様
な人種・民族が奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、
国際間の交流は益々増加して行った。
中東・インド・中国でも強力な世界帝国が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに
交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも古代エジプトの
ほか、大陸奥部にも王国が成立し、塩や金が大陸を行き交った。このように各地域で発展
した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワー
クが徐々に構築されていった。
1-3. ヨーロッパの停滞と復興
ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれたゲルマン人やノルマン人が相次いでヨーロ
ッパを侵し、またイスラム勢力がイベリア半島に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代
を迎える。やがて西ローマ帝国領土であった現在のイタリア・フランス・ドイツでは、カ
トリックを精神的支柱とするフランク王国が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を
色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨ
ーロッパの経済が活性化し富が蓄積され、フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦い
でイスラムの北進を阻んだ。ペストの流行や気候寒冷化による混乱の中で暗黒時代を経験
した中世ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰・洗練
され、徐々に力をつけていった。
1-4. 十字軍
11 世紀後半セルジューク朝トルコがパレスチナを占領する。セルジューク朝トルコの脅
威を受けてビザンツ帝国皇帝アレクシオス 1 世コムネノスは聖地回復を大義名分に、ロー
マ教皇・ウルバヌス 2 世に支援を求めた。ヨーロッパ各地に十字軍の結成が呼びかけられ
多数の王侯貴族や民衆がこれに応じた。
多くの者が殉教精神から十字軍に参加したが、教皇は東方教会への影響力拡大を望み、
王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪、さらに交易が盛んな文化国家ビザンツ帝国への影
響力行使を望んだ。
狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、1096 年、聖戦の名の下に東方へ進軍した。
利害対立によって抗争をくり返していたイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその
周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍もまた主導権争
いに明け暮れ、ローマ法王やビザンツ帝国との対立も深まり、混迷の様相を呈した。利権
をめぐって『敵の敵は味方』とばかり、十字軍勢力とイスラム勢力が同盟する事態さえ発
生した。
また十字軍によるイスラム教徒・ユダヤ教徒など異教徒への激しい弾圧が民衆の抵抗を
招き、長引く戦争によって十字軍内の士気は低下し、堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに
十字軍遠征による戦費調達は重くヨーロッパ各国民衆にのしかかり、熱狂的殉教精神も次
第に沈静化していった。
サラディーンによる反撃から約 1 世紀、1291 年、十字軍は最後の拠点であったアッコン
を失い、聖地から地中海に追い落とされてしまう。
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1-5. 国際交流の発展
軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した。ヨ
ーロッパから鉱物資源や毛織物等が、イスラムから香辛料や絹等が、今まで以上に東西間
で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置するビザン
ツ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴
い、ビザンツ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時
世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によっ
てローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネッサンス運動が
開始されて近代への扉が開けられた。
モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒プレスター・ジョンが大軍を率いてイ
スラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにロ
ーマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣し
た。
そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245 年、グユクハーンと謁見を果
たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモ
ンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム
商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市に長期滞在
する者さえ現れた。
中でもマルコ・ポーロは約 20 年にわたって行われた旅行体験をルスティケロ・ダ・ピサ
へ口述し、ピサが『東方見聞録』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、イン
ド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の
世界への好奇心を掻き立てた。
1-6. 海外侵略
キャラック船サンタ・マリア号の復元 15 世紀、モンゴル帝国が
衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トル
コが 1453 年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦
隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打
つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来の
経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望
されるようになる。
一方、15 世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポ
ルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島か
らイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)
。長い間イスラムの圧迫を受けて
いたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度
が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤が
イスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後
退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。
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新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強
力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海
外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペ
イン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病
や疫病感染などによって、乗組員の生還率は 20%にも
満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功
して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、
海外進出による利益が莫大であることが立証された。
健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王
侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問
わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブー
ムが吹き荒れるようになった。
またローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。15 世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されて
いたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新
たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に
使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。
1-7. アフリカ・アジア大陸侵略
ヴァスコ・ダ・ガマいち早くレコンキスタを達成したポルトガル
は北アフリカへの侵略を確固とし 1415 年、ジョアン 1 世のとき命を
受けた 3 人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王
子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の
探検と開拓を続けた。ポルトガルは 1460 年ごろまでにカナリア諸
島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象
牙海岸・黄金海岸を経て 1482 年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴
隷の交易を行った。1485 年、ディオゴ・カンがジョアン 2 世に命じ
られてナミビアのクロス岬に到達した。
1488 年、バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着い
た。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も
起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路
開拓の確証を得たジョアン 2 世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497 年 7 月 8 日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル 1 世に命じられ、船団を率いてリスボ
ンを旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに 4 ヶ
月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイス
ラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。
1498 年 5 月 20 日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着したガマ
は、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。その後ガマは国王の命で遠征艦隊を率いて
イスラム勢力と戦い、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレ
ー半島・セイロン島にも侵略、1557 年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その
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間、1543 年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えてい
る。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異
的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッ
カ諸島などと盛んに交易していたし、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を
広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出してい
た。また中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバ
ブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土してい
る。このように 14 世紀から 15 世紀までに旧世界における世界航路は、様々な国家・地域
の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うな
らば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。
1-8. アメリカ大陸侵略
アメリゴ・ヴェスプッチ同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西
周りインド航路を開拓しようと 1484 年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフ
リカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは 1486 年、カスティーリャ女王・イサベルとそ
の夫・フェルナンド 5 世(アラゴン王としてはフェルナンド 2 世)がコロンブスの計画を
採用し 1492 年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。
1492 年 10 月 12 日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペイ
ンに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
しかしコロンブスの航海は期待された成果をあげること
ができなかった。コロンブスが発見したのはインドから遠く
離れた群島と考えられていたうえ、交易に値するものもほと
んどなかったからである。コロンブスの能力に疑念を抱いた
スペイン王は、植民地で発生した反乱や原住民への虐待を理
由にコロンブスを牢獄に繋いだこともあった。 1501 年、ア
メリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置す
る島々であることを明らかとすると、コロンブスは詐欺師呼
ばわりされ失意のどん底で死去することになる。
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出する
と豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略
奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、1500 年、カブ
ラルがブラジルに到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪
した。
1-9. 世界周航
マゼラン(マガリャンイス)スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出
たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス 1 世の援助を得て 1519 年 8 月、セ
ビリャから 5 隻の船に 265 名の乗組員を乗せて出発した。1520 年 10 月、南アメリカ大陸南
端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521 年にフィリピン
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諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、同年 4
月 27 日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号
1 隻が航海をつづけ、1522 年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であるこ
とを実証した。帰ってきたのは 18 名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路
を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは 1571 年メ
キシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。
なお、フィリピンの名は 1542 年、フィリピン諸島を探検したビリャロボスが、当時スペイ
ン王子であったフェリペ(のちのフェリペ 2 世)にちなみ、これらの諸島を「フィリピナ
ス諸島」と呼んだことに由来する。
1-10. ポルトガル・スペイン間の条約締結
ポルトガルとスペイ
ンによる新航路開拓と
海外領土獲得競争が白
熱化すると両国間に激
しい紛争が発生した。
さらに他のヨーロッパ
諸国が海外進出を開始
したため、独占体制崩
壊に危機感を募らせた
両国は仲介をローマ教皇に依頼して 1494 年にトルデシリャス条約、1529 年にサラゴサ条約
を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図
った。
1-11. ヨーロッパ北部諸国による探検
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく航海や探検の後押しをす
る用意が整ったイギリスやフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後
発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。
こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、
独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していっ
た。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に
没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。
後発海運国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を
雇ったイギリスによる北米探検(1497 年)であり、イギリス・フランス・オランダによる
一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央ア
メリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注
いだ努力は限られていた。1525 年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバン
ニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最
初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは 1534
年にカナダへの最初の航海を行った。
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カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国
やインドに至る最短の大圏航路(北西航路)を探すことが目的だった。この航路は 19 世紀
まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らか
となってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは 17 世紀に東海岸に
植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を
迂回して中国に至る北東航路の探検も行い、ロシア・ツァーリ国との北海交易を始めたり、
捕鯨の拠点となる北極海の島を多く発見したりしたが、やはり氷の海に阻まれアジアへの
航路を見つけることはできなかった。ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフ が
1648 年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア最東端となる岬(後にデジニョフ岬
と命名された)を発見した。
ルドルフ表に基づいて描か
れた、1627 年の世界地図イギ
リスやオランダやフランスは
アフリカやインド洋にも航海
して独自の交易地や植民地を
確立し、この方面に独占的に勢
力を築いていたポルトガルの
地位を脅かした。ポルトガルの
最も利益の大きい拠点である
ゴアやマカオを、新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインド
ネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやス
ペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。
新興諸国は、残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条
約でスペインに与えられた地域)もスペインより先に探検した。1606 年にはウィレム・ヤ
ンツ(Willem Jansz)が、1642 年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探
検家がオーストラリアを探検している。
こうして 17 世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達
して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロ
ッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。
2. ヴァスコ・ダ・ガマ
ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469 年頃 - 1524 年 12 月 24 日)は、ポルトガル
の航海者で、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に
残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発
見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基
礎が築かれた。
2-1. 第 1 次航海
ポルトガル王マヌエル 1 世によるインド航路開拓の命を受け、ダ・ガマ率いる 4 隻の船
団は 1497 年 7 月 8 日にリスボンを出航した。1497 年 11 月 22 日、アフリカ南端の喜望峰を
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通過し、当時はアラブ人支配下にあった現在のモザンビークに到達する。当時はアラブ人
がインド洋のアフリカ東岸の貿易を支配しており、ダ・ガマはここで水先案内人イブン・
マージドを雇い入れて、1498 年 5 月 20 日、インド南西のカリカットに到達した。
当時のカリカットはアラブ人との貿易で潤っており、ヨーロッパ人のダ・ガマとアラブ人
商人とは対立関係にあったが、カリカットのサモリン王は双方との取引を望み、いささか
不明瞭ながら貿易許可状を与えた。
3 ヶ月現地に滞在した後、ダ・ガマは数人のポルトガル人を残して帰路につく。帰路は生
鮮食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、180 人の船員の内 30~100 人がこの病気に
罹って死亡した。ダ・ガマの兄パウロも死亡し、乗員の足りなくなった船一隻を放棄する
など苦しい航海が続いたが、1499 年にザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航した後、
9 月にポルトガルに帰還した。
2-2. 第 2 次航海
「インド洋提督」の称号を得たダ・ガマは 1502 年 2 月 12 日に 20 隻の船団を率いて再びイ
ンドへ航海した。アラブ商人に対してカリカットでのポルトガルの貿易権を獲た功績をも
って、帰国後伯爵に序せられた。インド洋航路の開拓は富をもたらし、ヨーロッパ諸国の
通商圏を大幅に拡大させた。なお彼は、モガディシオにて、伝説の王国プレスター・ジョ
ンを発見したと伝えられている。
2 度目にカリカットを訪れた際には、要求を通すためにカリカット近くを通りかかった船
を拿捕し、乗組員を処刑してマストにぶら下げた。また砲撃で大型船を拿捕し人が乗った
まま火をつけたとの記録もある。
2-3. 第 3 次航海
1524 年、インド総督として赴任のため 3 度目の航海を行ったが、ゴアに到着して間もなく
マラリアに感染し、クリスマス・イヴの 12 月 24 日に死亡した。
3. ポルトガル海上帝国
ポルトガル海上帝国(ポルトガル語:Império Português)とは 15 世紀以来ポルトガル
王国が海外各地に築いた植民
地支配及び交易体制を指す。
新大陸発見後はトルデシリャ
ス条約によりスペインと世界
を二分した。領域支配より交
易のための海上覇権が中心で
あったので、このように呼ば
れる。オランダ海上帝国も同
様である。メキシコ、ペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は海上帝国と
は言わない。
ポルトガルの海上発展の基礎を築いたのは航海王子と称されるエンリケ王子(生没 年
1394 年 - 1460 年)であった。航海術や探検に興味をもったエンリケ王子は航海学校を興
して、多くの航海者を育て、大西洋上のカナリア諸島(現スペイン領)
、アソーレス諸島の
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探検に派遣、またアフリカ西海岸の探検を着実に進めて行った。
1488 年にアフリカ大陸南端に到達したポルトガルは東洋の香料貿易独占とキリスト教布教
を目的としてインド洋に進出、沿岸各地に拠点を築いてムスリムと戦い、インド洋の覇権
を握った。このため、エジプトのマムルーク朝などイスラム勢力から香料を仕入れて欧州
での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は大打撃を蒙った。ポルトガルはさら
にマレー半島における香料貿易の重要な中継地であったマラッカ占領以後、東南アジアや
東アジアにまで貿易網を拡大し、世界的
な交易システムを築き上げた。キリスト
教の布教は日本において最も成功し、当
時人口 2,000 万程度であった日本で、約
70 万人の信者を獲得したとされる。
しかし 17 世紀に入ると、新教国オラン
ダやイギリスも七つの海に進出を始め、
ポルトガルと競合するようになる。特に
オランダはスペインに対する独立戦争を
展開しており、当時スペインと同じ君主
を戴いていたポルトガルのガレオン船を
拿捕したり、マラッカなどのポルトガル植民地を占領して行った。日本の禁教と鎖国も新
教国オランダの反ポルトガル陰謀と言えなくもない。このため 17 世紀後半以後ポルトガル
のアジア貿易は衰退したが、南米大陸ブラジルの植民に力を注ぎ、18 世紀にはブラジルで
金が盛んに産出されてポルトガルは再び黄金時代を迎えることになる。しかし、1703 年に
イギリスと結んだメシュエン条約は、結果として金の流出を招き、ポルトガル本国には、
それ程、経済的な恩恵を与える事が出来なかった(非公式帝国)
。
19 世紀になるとブラジルの金生産も低迷し、ブラジル植民地自体が独立を達成してポル
トガルから離れていく。ナポレオン戦争後はイギリス帝国が世界の海に覇権を唱え、ポル
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トガルに残されたのは旧時代の名残りともいえるアンゴラ、モザンビークなどのアフリカ
植民地とインドのゴアとディウ、マカオとティモールなどとなるが、これらの植民地も第
二次世界大戦後、1960 年代に独立戦争が勃発し、最終的に 1974 年のカーネーション革命を
きっかけにしてポルトガルはこれらの植民地の独立を承認した。
4. 鉄砲伝来
4-1. 種子島への鉄砲伝来
『鉄炮記』によれば、種子島への鉄砲伝来は天文 12 年 8 月 25 日 (旧暦)(ユリウス暦 1543
年 9 月 23 日)の出来事で、大隅国(鹿
児島県)種子島西之浦湾に漂着した中
国船に乗っていた「五峰」と名乗る明
の儒生が西村織部と筆談で通訳を行
う。同乗していたポルトガル人(「牟
良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多
佗孟太」
(キリシタダモッタ)
)の2人
が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を
行い種子島島主である種子島恵時・時
尭親子がそのうち 2 挺を購入して研究
を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて
複製を研究させる。その頃種子島に在
島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利
将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土
に伝えられた。(ただし、アントニオ=ガルバンの『諸国新旧発見記』
(1563 年)によれば
「1542 年、アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショッ
トの 3 人がシャム(タイ)から寧波または双嶼へ向かう途中で嵐に遭遇し、種子島に漂着
したという。
)
やがて鉄砲鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一
を左右することになる。後に徳川家康による覇権の成立後、日本は武器輸出を禁止した。
伝来当初は猟銃としてであったがすぐに戦場で用いられ、当時の鉄砲はマッチロック式
であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、
すぐに装填できるよう改良された。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院
忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。九州や中国地方の戦国大名から、やが
て天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が 1575 年(天正 3 年)に甲斐武田氏との
長篠の戦いをはじめとする戦で、鉄砲を有効活用したとされ、鉄砲が戦争における主力兵
器として活用される軍事革命が起こる。
4-2. 『鉄炮記』について
『鉄炮記』は鉄砲伝来を記す日本側唯一の資料であるが、江戸時代の慶長年間(1606 年)
に種子島氏が鉄砲伝来を顕彰させたもので、歴史学においては、その記述を無条件に信用
するわけにはいかない。
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『鉄炮記』には「天文癸卯」
(1543 年)と記されているが、一方でポルトガル側の史料に
は鉄砲の伝来を記さないものや、イエズス会の『日本教会史』には 1542 年(天文 11 年)
の出来事、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』には 1545 年(天文 14 年)の
出来事であると記されているなど年代には諸説が存在する。また、
『鉄炮記』に「五峰」と
記されている人物は、日本の平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領である王直
の号と同じであり、またポルトガル史料にはジャンク船であったと記されていることなど
から同一人物であるとも考えられている。
種子島氏に伝わる記録には、ポルトガル人により持ち込まれた鉄砲は明治の西南戦争の
際に消失したとされる。また、国産第 1 号と伝わる鉄砲が存在している。
4-3. 鉄砲の記述
『北条五代記』に、関八州に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、1510 年(永
正 7 年)に唐(中国)から渡来したという。
見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せら
れしは、我関東より毎年大峯へのぼる。享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけな
く鳴物の声する、是は何事ぞやととへ
ば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に
初て渡りたると云て、目当てと うつ。
我是を見、扨も不思議奇特 成物かなと
おもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持
て下り、屋形氏綱公へ進上す。
(中略)
氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張り
の名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法
師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、
今見れば人毎に持し、と申されし
大久保忠教の『三河物語』では、松平清康が、熊谷実長が城へ押し寄せた際に、四方鉄
砲を打ち込むと記載されている。1530 年(享禄 3 年)のこととされる。また、今川殿の名
代として、北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、
出版社の欄外の解説には、この役は、1506 年(永正 3 年)のことで、鉄砲はこのときない
として、
『鉄炮記』の記述を支持している。
5. オランダ海上帝国
オランダ海上帝国(Dutch Empire)とは、17 世紀から 18 世紀にかけてオランダが本国及
び植民地を拡大して築いた植民地支配及び交易体制を指す。
17 世紀初頭、ネーデルラント連邦共和国はオランダ東インド会社を設立、東インドに進
出してポルトガルから香料貿易を奪い、さらにオランダ西インド会社も設立するなどして
次第に植民地を拡大し、黄金時代を迎えた。17 世紀から 18 世紀にかけて植民地主義大国と
して飛躍したことから、本国及び植民地一帯を指してオランダ海上帝国という。
ただし、
「黄金時代」にあっても、オランダの貿易額の 2/3 はバルト海貿易、残り 1/3 の半
分も地中海貿易であった。つまり、オランダの富の源泉はヨーロッパ域内であり、同時代
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でも既に指摘されていたが、海外植民地は、維持費がかさむだけで大した利益をもたらし
ていないのが実情であった。
そして、度重なる英蘭戦争で北アメリカの植民地を奪われ、さらに南アフリカの植民地
も超大国に成長したイギリス帝国に敗れて失うなど、列強としてのオランダの国際的地位
は凋落していった。この時期では長崎出島での日本との独占貿易権が東アジアでの唯一の
牙城であったが、続くナポレオン戦争での敗戦により海外覇権はほぼ消滅する。
最終的には、オランダ領東インドとオランダ領ギアナ(スリナム)などの植民地が残り 、
20 世紀半ばまで保持していた。第二次世界大戦で東インドは大日本帝国の侵攻を受けて占
領された(蘭印作戦)。またオランダ本国も、それに先立つ 1940 年にナチス・ドイツに占
領された。第二次世界大戦の終結後、オランダは植民地支配を復活させようと軍隊を派遣
して、インドネシア独立戦争が勃発したが、戦闘の激化に抗し切れず植民地を手放すこと
になった。オランダ領ギアナも 1975 年にスリナムとして独立した。
6. 南蛮貿易
6-1.
南蛮貿易
南蛮貿易とは、日本の商人と南蛮人(スペイン、ポルトガルの商人)との間で 16 世紀半
ばから 17 世紀初期にかけて行われていた貿易である。
1543 年に種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着し
ていたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易
を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船
はマラッカから日本に訪れるようになった。
1557 年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・
ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。
織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れてア
メリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本を訪れ
るようになった。
徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン
領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的
利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結
成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。
しかし、その後の江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したの
で海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり 、
1624 年にスペイン船の来航が禁止され、1639 年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸で
の交易を禁止するなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。
6-2. 火縄銃
火縄銃(種子島)はポルトガルの銃を模倣したものである。1543 年、ポルトガル人 Fernão
Mendes Pinto が中国船で鹿児島県の種子島に漂着した。その際最初の 3 丁の銃が日本に輸
入された。その際の地名を取って火縄銃のことを種子島と呼ぶようになった。厳密に言え
ば 270 年ほど前に日本には火薬は中国から輸入され原始的な鉄砲と呼ばれる銃は日本国内
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に存在はしていた。しかし、非常に使い勝手が悪く、戦闘では主流な武器にはなれず、せ
いぜい農民が害獣を追い払うのに使用する程度であった。
しかし、伝来した火縄銃は、マッチロック式で容易に点火出来る銃であり、従来の物とは
比べ物にならないほどの速射が可能であった。各地の大名は、伝来当初こそこの新兵器の
実力を疑問視したが、合戦でその効果が証明されるとこぞって買い求め、自国での量産化
に奔走した。火縄銃は、世界的に見ても異常な速度で瞬く間に日本全土に普及し、戦国時
代の戦闘の形態を一新させた。一説によれば、当時の日本の銃の保有量はオスマン帝国と
並んで世界最大規模だったと推定されている。
6-3. 貿易品
輸入品:鉄砲(火縄銃)
・火薬、中国産の生糸・絹織物 など
輸出品:銀、海産物、刀剣、漆器な
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