多元的世界と建築 團 紀彦 私は、建築とは建築家と様々な状況との間の異種交配によって生み出されるものであると思う。だからこそ、そこに多様性のある"場"(locus)が紡ぎ出 される可能性が秘められている。 しかし、そうした双方向的な建築の生み出し方とは反対に、一方向的でブランド主義的な情報発信を志向する建築も存在する。最近の建築メディア を席巻してきたのはこうしたタイプの建築が多く、このために世界の建築はあたかも空港やショッピングセンターのブランドショップ売り場のような 様相を呈するようになった。色々な商品は並んでいるものの、どこにいっても同じような雰囲気で本来多元的であった"場"の固有性はグローバル化と ともに失われてしまった。問題なのはそうした一方向のブランド指向の末に、建築を取り巻く多元的な文化的脈略に目をとざすようになることであり、 本来建築に備わっていた様々な創造力と思考を停止させてしまうことである。 世界はパッチワーク状に様々な“領域”から構成されており、それらが等価な尊厳と価値をもって共存すべきである。このような多元的な認識モデル は地球規模のスケールから、都市における様々な要素の共存や、生物の多様性の認識に至るまでそのスケールを問わず普延できるものである。 鉛筆スケッチ,1992 こうした異質な領域が隣接することによって生まれる衝突や負の側面を「疎外」と呼ぶことにすれば、この疎外の総和こそが、逆に多元的世界をより 豊かにするための次のステップを生み出すポテンシャルエネルギーになると私は考えている。 そしてこれらの疎外を克服するために、都市デザインを例にとればこれまで歴史的に三つの方法が取られて来たということができる。 その一つは「分離:separation」であって、家と家との間に塀を立てる行為からゾーニング論に至るまで、スケールを問わず数多くこの方法が取られて きた。 第二の方法は「同化:assimilation」である。これは統一性を図るために、一方が他方を同化する考え方で、一貫した秩序は基本的にこの考え方にもと づいて形成されてきたといえるのであるが一方、権力による調整によって新たな疎外も限りなく発生してきた。 第三の方法は「調停:mediation」であって、隣接する2つの領域の性格を変えずに、ある種の調停因子を介在させることによって両者の共存を図ると いう、もっとも可能性のある方法である。 「分離」 、「同化」、 「調停」の概念図 調停を示すものとして歴史の中の実例を見るならばローマ時代のハドリアヌスのヴィラとコンスタンティノポリスの比較をあげる事が出来る。 前者は、ハドリアヌス帝によって造営されたヴィラで、様々なエレメントがパッチワーク状に編成されており、角度のずれが衝突する部分に必ずと言 って良いほど円環(調停の円)が立ち現れている事が判る。この円環は、角度のずれに対する調停要素と見る事が出来るので、この存在によって角度の ずれた諸要素は無限にパッチワーク状に展開することが可能となる。 一方コンスタンティノポリスは、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した最初のローマ都市で、現在のイスタンブールのことである。ここでの 円環は、トリコンティと呼ばれる政治、宗教、行政の三位一体化した都市の中心であり、主要な都市軸はすべてここに集中している。この円環(中心の 円)は、調停要素としてのそれではなく、中心としてのものであるので全く性格が異なるものである。コンスタンティノポリス以前のローマ都市に現れ る円環がほとんど例外なく角度の調停要素であったのに対して、それ以後のキリスト教世界のもとで作られた都市平面における円環は、そのほとんど が中心を意味するものに変化していくのは興味深いことである。この事は、多神教であった古代ローマが一神教としてのキリスト教世界に入る事によ って生じた世界観の変化が、都市編成の手法にまで及んでいたことを示すものとして理解することができる。 ハドリアヌスのヴィラ コンスタンティノポリス 「調停」はさらに、角度のずれや異質なスケールの違いといった計測可能な差異に向けられる物理的調停と、意味の違いや文化的差異に向けられる文 化的調停とに分けて理解することができるが、これらの方法論的な体系化が、これからの都市デザインと環境デザインにとって必要なプロセスである と考えている。 現代の都市と自然環境にたいする認識モデルとしてのコラージュあるいはパッチワークという概念には、二つの異なる秩序が求められるように思われ る。その一つは断片の内部における古典的で構造主義的な秩序であって、これは都市あるいは自然環境における景観形成上どうしても必要な部分であ るように思う。もう一つはポスト構造主義的秩序といってよいのかも知れないが、分離・同化・調停といった方法に示されるような境界領域に宿る新 たな秩序なのである。 "疎外の総和"を転じてより豊かなパッチワーク状の多元的な"場"を招来するためには、20世紀とは異なる"共生"のための新たな論理と方法論を 21 世紀は構築する必要があると思う。
© Copyright 2024 Paperzz