ファック、巨大な丸いおっぱい

村松 高校東京 同 窓 会会報
平成 22年 (2010)大 会号
写 真 は東 武鉄 道 が墨 田区に建 設 中の電 波塔 ・ 東京 ス カイツ リー
本 文 13ペ ー ジに 説 明記事 を掲 載
5月
3日 大橋撮影
新潟 県立村 松高等学校東京 同窓会
NQ曇
9
新潟 県立村松 高等学校 東京 同窓会
第 53回 定 期 大 会 に 臨 ん で
大会実行委員長
石黒 四郎
同窓生の皆様、今年 も恒例の松高東京同窓会第 53回
定期大会の時期 がやって参 りました。年に一度のこの大
会 に於 いて、多くの会員の皆様 とお 目にかかれることを
楽 しみにしてお ります。 ここ数年 ご好評を頂いてお りま
した 「KKRホ テル東京」が改修工事の為に使用出来な
くなり、新たな会場探 しに東奔西走 し、数ヶ所 の候補を
選んで交渉を致 しましたが、いずれも帯に短 し欅 に長 し
で、担当された役員の皆様には大変お手数をお掛け致 し
ました。苦労の末、九段下の 「ホテル グラン ドパ レス」
(五 泉応援団で も使用 )を お借 りすることが出来、 ご尽
力 いただきま した方 々には深 く感謝申 し上げます。
私は毎年続けて 30回 近 く大会に出席 してお りますが、
当初の頃は旧中 0旧 高女の諸先輩方が大勢参カロされてお
り、ご指導 ご販撻を賜 りながら暖かいご交誼を頂戴致 し
東 京 同窓 会 第
日時 平成 22年 7月
第 一部
(日
)正 午開会
9回 )
ました しかし、近年はご参加 くださる方も少なくな り、
時の流れ の無情を感 じて寂 しく思 つてお ります。
半世紀以上に亘 り東京同窓会を継続 して来 られた こと
は、諸先輩や皆様方の熱意 とお力添えによるもの と心か
ら敬意を表 し、感謝申 し上げる次第です。3年 前、関東
地区にお住まいの高校 11回 卒以降の方々に対 し、アン
ケー ト調査を実施 して参加を呼び力ヽすたところ、若い人
達の参加が次第に増 えて来ました。真 に喜ばしいことと
存 じます。 この流れが もつ ともつ と拡が りますよ う役員
一 同ひたす ら念願 して止みません。
来年は村松高校が百周年を迎えますが、伝統ある母校
の益々の発展を願いながら、同じ校門をくぐつた者同士、
胸襟を開き充分 ご歓談を尽されまして、有意義な一 日を
お過 ご し下さいますようよろしくお願い申し上げます。
53回 定 期 大 会
11日
(高
会場
v
プ ロ グ ラ ム (敬 称 略 )
ホテル グラン ドパ レス 3F「 白樺」
石黒 勝夫 (高 14回 )、 林 信子 (高 25回
会
―一司会・進行―一
0・ 0・ 実行委員長 石黒
・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 開会のことば
00・
・・・・・・・・・・・・・・ 00会 長 鈴木
2 東京同窓会長あい さつ
3 村松高等学校同窓会長あい さつ・・・・・・・・・・・・・・・会 長 相 田
4 村松高等学校長 あい さつ・・・ 0000・ ・・・・・・・・・・校 長 小形
5議 事 ・ … … … … … … … … … … … … 司 会 石黒
総
'
四郎
(高 9回
多喜男
豊
(高
(高
4回
9回
)
)
)
賢1台
勝夫
(高 14回
)
① 総務委員会・ 00・ ・・・・・・・・・・・・・・・委員長 郡司 正大
② 財務委員会・ 0000・ 0000・ ・・・・・・・・委員長 塚 田 勝
〇会計 監杏報告・・・・・・・・・・・・・・・・ 00監 事 熊倉 富次
③ 広報委員会・・・・・・・・・ 00・ ・・・・・・・委員長 大橋 貞夫
(2)役 員 の改選
① 次期会長 の提案 と承認 ・・・ 0・ ・・・・・・・・・司会者 石黒 勝夫
1高 16回
)
(1)平 成 21年 度委員会活動報告
7
② 新会長あい さつ
(3)そ の他
閉会 のことば 00・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・実行副委員長 郡司 正大
1高 8回
1高 9回 )
)
(高 10回
)
(高 14回
)
(高 16回
)
第二部
ソプラノ リサイタル
第二部
石黒 勝夫 (高 14回 )、 林 信子 (高 25回
懇親会
――司会・進行一一
00・
00・
000・ ・・・・ 00・ 司会者
・・
・・・・
・・・・・・・
1 開 会
0000・
0・
・・・・・・・・ 0・ ・・ 出席者 の中か ら
2 乾 杯・・・・・・・・・・・
。
3 お楽 しみ抽選会・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・幹事 山田 俊治 (高 14回)・ 他
4 校歌・応援歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 0・ 0・ ・ 0参 加者全員
5 手締め・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 000・ 幹事 篠川 恒夫 (高 2回 )
6 閉会・お開き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・司会者
ソプ ラノ歌手 丹藤 亜希子
阿賀町 (旧 津川町)出 身
)
三
平 成
5月
16日
(土
2■ 年 度
東 京 同 窓 会 の 動 き
052回 大会 について
)第 ■ 回 幹 事 会
14:00 新潟県人会館
052回 大会案内状発送作業
464通 (442通 郵送
・役員及 び今後 の活動 について
・名簿 について
0月
)
5月
27日
・ 52回 大会 の件 について
・ そ の他
(水 )第 一 印刷 へ 平成 21年 大会号
1月
)薪 証集 会請義 (会 報 48号
13:30 新潟県人会館
07日 (土 )第 5回 幹 事 会
14:00 新潟県人会館
17日
(土
)
No.47号 の原稿送付
6月
7月
7月
27日
(土
)第 2回
14:00
)東 京 同 窓 会 52回 大
12:00 KKRホ テル東京
出席者総数 111人
会報配布数 120通
18日 (土 )第 3回 幹 事 会
14:00 新潟県人会館
・会報発送 355通
052回 大会総括
04日
13日
2月 26日
1月
幹 事 会
新潟県人会館
・ 52回 大会 の件 について
実行委員長報告 と打ち合わせ
・ そ の他
(土
)会 報 48号原稿 を第一印刷 ヘ
(土 )第 6回 幹 事 会
14:00 新潟県人会館
・会報発送 436通 (メ ール便
(金
会
忘年会開催
2010年
2月 20日
(土 )
2月
20日
(土 )
3月
20日
(土
・ そ の他
9月
9月
12日
12日
(土
(土
)総 務 委
13:00
員 会
新潟県人会館
・総務委員会 の活動方針・検討課題
について
・ その他
)紡 誕萎 雀請義 (会 報 48号
14:00 新潟県人会館
9月
12日
(土
)第 4回
14:35
・
幹 事 会
新潟県人会館
(会 幸
腱49号 )
新潟県人会館 3B
・ 平成 22年 大会号 の編集方針
第 7回 幹 事 会
13:45 新潟県人会館 3B
・第 53回 大会について
司会者 、 ア トラクシ ョン
会場 の打 ち合わせ 、役割分担
・ 実行委員会
編 集 会 議
13:00
)編 き 請畠 (会 報 49号
`隼 `箸
13:30
新潟県人会館 3A
)
・編集方針、原稿 の確認等
・ その他
)
・ 平成 21年 新春号 の編集方針
・ その他
)
・幹事会 ・ 53回 大会 の件
・幹事会終了後 ライオ ンにて
3月
20日
吐
)第 8回
14:00
幹 事 会
新潟県人会館 3A
・第 53回 大会について
大会役割分担、第 二部 の催 し
‐
ψ ‐ .1帝 ‐
ギ
・
左の写真 2枚 は 53回 大会 につ いて真剣 に討議中のもの。 いつ もボラ
ンテイアなが ら熱心 に会の運 営 にご参加 いただき感謝 いた します。
上の写真は 21年 度 の忘年会、お疲れ様で した。ライオ ンにて
あ りが とうござい ま t
①平成 21年 度年・会費を納入された方々
五 十嵐
一郎
伊藤
斉藤
佐藤
寺田
成海
勇五
和男
豊夫
徳隣
正弘
松尾
貢
武藤
青木
畔田
『可部
安部
朝倉
新井
二郎
敏和
昭義
勇
賞
克巳
康夫
秀雄
貞夫
修吾
小黒
正恒
笠原
梶屋
加藤
加藤
静夫
庄佑
清治
喜七
金子
金子
鶴男
健二
川合
川村
亀山
敏男
莞爾
知明
杵渕
木村
桐生
政海
寿一
光憲
熊倉
熊倉
富次
道雄
雲村
俊惟
倉田
(敬 称略)
佐 々木
秀和
二宮
文三
渡辺
八郎
鈴木
雅子
佐藤
佐藤
佐藤
佐藤
良平
匡秀
栄治
克
根本
羽賀
俊夫
道信
渡辺
嘉樹
田川
百合子
塚野
ミイ 子
下野
柴野
新保
文幹
暢夫
優
昌子
治
玲子
節子
トヨ
栄子
つ る子
昭
赳允
俊昭
近藤
佐藤
佐藤
鈴木
藤崎
高橋
高浜
澤井
澤出
酒井
五郎
吾一
三男
修治
守
高志
愛子
草月
桂子
五 百子
長 谷川
長 谷川
長谷川
服部
浜田
原
一氏
小林
高尾
高岡
原田
賞
阿部
ミサ子
堀
直昭
杉本
杉山
鈴木
芳男
喬
健司
堀川
俊郎
平山
誠一
芦川
安達
荒井
靖子
繁子
る り子
市川
伊藤
俊
起子
五十畑
キヨ
治 田 レイ子
波多野 紀子
林
信子
上杉
礼子
広瀬
満子
大島
緒方
エミ
康子
深見
星野
洋子
孝子
増田
訓英
松尾
一広
松尾
間藤
慎 一郎
謙一
三室
茂和
丸山
宮川
水戸
宮沢
貞次
裕皓
勉
正由
武藤
武藤
村川
村川
村川
正昭
寛
恭平
五郎
忠司
人木
山中
又一郎
滋
健五
鈴木
関塚
関谷
瀬倉
高岡
高岡
多喜男
豪
雄二
武志
雄三
英治
郡司
正大
高岡
光夫
剣持
小出
小 日山
小柳
近藤
近藤
小鍛 冶
常泰
博三
芳栄
実
尚志
洋輝
直昭
高地
高山
滝沢
滝沢
塚田
彰
幹雄
信喜
義則
勝
斎藤
正義
坪谷
弦巻
弦巻
次郎
功
等
豊
卓夫
英輔
恒夫
辻川
登
簗取
正通
佐 々木
恵美
中嶋
中川
中村
久巳
善隆
雅臣
山崎
輝雄
光男
恭信
斎藤
坂上
佐久間
篠川
山崎
豊吉
佐藤
佐藤
綾子
人重
秀三
永田
毅
俊治
清
キヨ
勲
山田
吉井
白石
佐 々木
鈴木
合計 =199名
則子
安中
信夫
安中
新井
幸男
二郎
石黒
石黒
久七
四郎
石黒
石本
五 十嵐
今井
今井
岩野
伊藤
五 十嵐
勝夫
方雄
健夫
孝宏
英雄
析史
隆造
丈郷
今井
敬弥
今井
今井
大江
一義
貞夫
勝司
小山
大野
大和 田
大橋
大橋
大倉
た
平成 21年 度会費納入者数
②平成 21年 度・寄付された方々
寄付合計金額 =78,820円
テル
寺山
征子
徳永
中島
中村
中村
道子
和子
エツ
俊枝
岡部
海谷
ユキ
升本
久子
比 呂子
片柳
川村
ムツ
イク
増田
松本
真水
京子
知子
道子
神田
正子
三宅
紀子
木村
孝子
向山
森田
律子
勝美
久我
マキ
熊倉
小島
斉藤
マ サ子
典子
英子
(敬 称略)
○男子 の部 (5名 )金 額 =15,000円
7,000円 川合敏男
3,000円 高岡雄 三
2,000円 武藤 二郎、小 日山芳 栄
1,000円 大岩信也
○女子 の部 (3名 )金 額 = 6,000円
2,000円 小林早月、緒方康子、小 島典子
027,820円
杵渕政海 (ハ ガキ現物寄付 )
030,000円
同窓会本部 よ り活動 助成費
出ロ
山下
栄子
山西
渡辺
愈 佐子
厚子
平成 21年 度会計収 支決算書
(平 成
21年 4月
1日 よ り平成
22年
31日
3月
)
新潟県 立村松高等学校
収入 の部
(単 位 :円
特 別会 計
第 52回 大会収入 (No48既 報 )
892,00C
2
591
0 0
0 0
0 0
一般 会 計
21年 度 会費
男子 138名 (内 2名 前年度済 408
183
女子 61名
計 199名 (内 2名 前年度済)
(単 位 :円
特 別会 計
第52回 大会支 出 (No48既 報 )
1
1
支 出 の部
)
一般 会 計
52回 大会
)
1,021,363
129 363
補填
48
会議費
(幹 事会 ・ 広 報委員会 )
356,280
2
3 会報発行 関連費
3
平成 19年 度 分会 費後 納
男子 1名
平成 20年 度 分 会 費 後 納
男子 1名
No4 3印 刷代
000
3,000
000
寄付金
男子 5名
女子 3名
は が き現物 寄付
同窓 会 本 部 (活 動 費助 成 )
15,000
6,000
27,820
30.000
*寄 付金者名 は 4ペ ー ジ に掲載 してあ ります
128,100
(500部 )
会誌用封筒 (含 印刷代 )
発送費 (メ ール 便 ・ 郵 送 )
No4 4印 刷代 (500部 )
会誌用封筒 (500部 )
発送費 (メ ール 便 )
発送費 郵 送 ・ 宅配 等
発送用宛名 シール
4 平成 21年 度
公U
︿口
平成 20年 度 か ら繰 越
郵便貯金
現金
計
676,09C
784,55C
749,816
34,740
1,460,64C
17,325
34,880
1,280
1,920
105,900
コ ピー代
宅配・郵便
封筒
年会費振込手数料
はがき交換 ,不 足 ,手 数料
9,340
14,040
3,227
11,620
3,010
対応費 (交 際費 )
県人会賛助 .理 事会費
本部総会対応費 (参 加 4名 )
20,000
90,000
消耗 品等
封筒 ・ ラベ ル ・ 用紙等
イ ンク
蹴習
8 緒雑費
21年 度 収 入 合 計
16,275
28,400
128,100
132,507
4 通信費
切手 /は が き
270
6 利子
東京 同窓会
21年 度 支 出合計
平成 22年 度 へ繰越
郵便貯 金
現金
△
口
計
14,630
110,000
813,732
646,914
643,986
2,928
1,460,646
上 記 の通 りご報告致 します。
平成 22年 5月 2日
東京 同窓会長
財務委 員長
鈴木多喜男
塚田 勝
①
①
上記 の決算書 は監査 の結果 、適 正 と認 めます。
平成 22年 5月 2日
会計監事
会計監事
佐久間
熊倉
英輔
富次
①
①
高 4回 生 ・ 東京地区 「 お 花 見 と 懇 親 食 事 会 」
鈴木 健司 (高 4回 )
表題の恒例行事を、比較的お天気に恵まれた 4月 8日
に実施いた しました。午後 2時 、新宿御苑の新宿門入 り
口に男女 7名 が集 いました。
ソメイ ヨシノやチ ヨウシュ ウヒザクラが満開で、それ
より早咲きのカンザクラ・ヒガンザクラ・オオシマ ザク
ラなどは花弁を散 らしていました。 ウコン・ヤエベニシ
ダ レ・ ギ ョイ コウ・ フゲンゾウな どが満開や五分咲き、
或いは咲き初 め等、 さまざまな状態で私達を出迎えて く
れました。新宿御苑は桜が多品種な うえに、ヤマブキ・
ハナ ミズキ・スイセン・ムラサキハナナなど他 の花 も沢
山あり、それ らの彩 りの調和 が素晴 らしく、花盛 りの期
間が永いのが特色で、春のお花見には最適の場所ですれ
救 命 処 置
渡辺 嘉樹 (高 4回 )
昨年 8月 25日 付けの読売新聞社会面に、都 内の小学
6年 の男児が 自宅で就寝 中に突然′
醐市停止状態 に陥 り、
電話を してきた父親が、 119番 の指令室員の指示通 り
に心臓マ ッサージを行 い、奇跡的に命を救った。 この様
なケースは、 3分 以内に応急処置を施 さない と致死率が
50%に 達する。と写真入 4段 抜きの記事が載 っていた
通報から4分後 に到着 した救命隊員が救命処置 を施 して
一命を とりとめ、搬送先 の病院で 「突発畦心停止」 と診
断されたが、その後、家族 と笑顔で会話が出来るまでに
回復 した と報道 されていま した。
この記事を読み、東京消防庁で救急業務 に従事 してい
た昭和 45年 頃のことを思い出 していました。勤務地の
四谷消防署では、出場 して大体 5分以内に目的地へ到着
し対応 していました。人王子へ転勤 になると、八王子消
防署は管内が広く、山林地帯があるとは云え前任署 より
約 50倍 の広さと住宅地が方 々に散在 していて、出場指
令を受 けて現場 に到着するまで 20∼ 25分 もかかる地
域があったのですこ当然その中にはもつ と早く至J着 出来
れば救命できた事例もあつたと思います。そんな中、年
間 1∼ 2回 救急隊長会議があ り、大手町の本庁庁舎で都
内 70余 りの消防署か ら代表 1名 が参加 して、救急部の
新宿門から大木戸門へ抜 け、地下鉄で虎 ノ門に移動 し、
「レス トラン立山」で午後 4時 から懇親食事会 の運び と
え総勢 14名 とな
な りましたが、ここか らの参加者を力日
りました。年後 5時 半に散会 とし、女性 6名 は別室でお
茶会に移行 され、例年通 りお喋 りを楽 しまれたそ うですЭ
男性はそのまま散会 とな りま した。
今回の特色は、お花見会・懇親食事会 とも、それぞれ
参加者 が少なかつた ことです。男女共通で一番多かった
原因は、①本人の体調不良、②家族や身内の体調不良で
介護が必要 と云 うことでした。我 々年次生は昨年、今年、
来年と、それぞれ喜寿を過ぎた り迎えることになりま丸
しみ じみ 「そ うい う年齢になつたのだな !」 と痛感 した
次第です。
しか し、健康 と体調に留意 して もつ ともつ と長生きを
し、次の機会 には大勢で元気 にお会 い致 しま しょ う。
上司から各種の指示ヽ気 令を受けるのです。そ して最後
の質疑応答の とき、私は日頃から考えていた ことを進言
してみました。「119番通報を受信 した係員が、通報者
から病人や睡我人の容態を簡潔 に訊き出 して、救急隊が
到着するまでの間に応急手当ての方法等を解 り易く簡単
に指導 しておいて欲 しい。例 えば、意識 が無い人には枕
を外 して横向きにし、顎を前 に突き出 して気道の確保 を
すると。大 1獄 をしている人には、傷 口にタオル等で圧
迫止血をする等…」 と提言をしたのです。それ に対 し救
急部の上司は 「それは良い考 えですね、持 ち帰 って検討
してみましょう」と言 われたのです。現場のことをあま
り知 らない上司から一方的に命令を受 けているだけでは
進歩がない と′
思つていたのですも もつ とも当時│ま 、現在
の よ うに一般住民に対 して応急手当の指導 が余 l,為 され
ていない時代だったか も知れません[呼吸や心臓が止ま
つてから3∼ 5分以内に心臓マ ッサージを開t台 しない と、
大脳皮質 (見 た り、聞いた り、計算 した 1、 考えた り、
判断 した り、記憶 した りする組織 )11百 枚 状態 となつて
壊死 してしまい、例 え救命出来た として t 植 物人間」
になつて しまいますc
皆 さんも万一の時にそなえて一 度、芯急手当の講習を
受けてみては如何でしょうか:そ れほど難 しい ものでは
ありませれ い ざとい う時にきつ と役に立つ と思いますЭ
高 4回 生 (東 京地区)懇 親食事会
レス トラ ン立 山 にて
講習は、お住まいの近 くの消防署か、 日本赤十字社の支
部 で開催 してお りますこ
超
“花 冷 え
"∼
消 え て ゆ く郷 上 の 歴 史
で も、心 は春暖
本間孝平 (高 12回 ・五泉在住)
2006年 10月 に 3年 5組 のクラス会があ り、水上
温泉に 19名 が集 りました。その時、次回は古希・高卒
50年 の節 目に当たるので盛大にやろ うとい う事になつ
たのです。そ して 2010年 4月 14日 、五泉市咲花温
泉で 20名 が参加 して開催 されま した。
村松公園で寒 さに震えながら花見気分を味わい、母校
を訪れて正門の前で記念撮影を しました。蒲鉄の電車が
なくな り、親 が子供の登下校を車で送迎するケースが、
増 えてい るとの事 で九
ゆつ くり温泉に浸かつた後の宴会では、恒例の各人の
近況報告 となりました。担任の伊藤先生は散歩中に転倒、
骨折 し欠席となり、「皆 さんにお会いできず、誠に残念 で
す」とのメッセージが伝えられました。91歳 のご高齢 に
も拘 らず、今で も英書講読を続けてお られます。高三の
英語授業で副読本 として 」0ゴ ール/ズ ワージーの「リンゴ
の木」を訳読 しました。その新訳文庫本を千葉の安部賞さ
んが持参 し配布 されま した。 当時 としてはかな り高度な
学習内容であつたと改めて実感 しています。宴会後 はカ
ラオケ大会で盛 り上が り、深夜 まで続 いたので寝不足に
な りました。
と対岸 が真 つ 白
翌朝、起床 してびっ くり仰
―
つ
まるで墨
桜に雪、冬に逆戻 リーー
絵そ くりの風景が展
開 していました。思いがけない雪見の朝風呂そ して朝食
後、貸切の屋形船 で「阿賀剛 ││ラ イ ン舟下 り」を楽 しみま
!
した。ガイ ドの名調子で往復 50分 の舟下 りを満喫 しま
した。 (雪 見酒 を・・・ とい う声 も・ 00)
新緑や紅葉の頃の舟下 りも格別であろ うと想像でき、
その頃再び来たい とい う願望が湧 き上がっていました。
「蝕 官」に帰着 し、「昨夜の懇親会はもちろん今 日の舟下
りも楽 しかった」と大好評・大満足でした。旧友 と再会 し
たい とい う強い同心円的欲求が、次のクラス会 に結実す
ることを願 い、元気 をもらい分かちあ う会 として発展・
継続することを祈念 いた します。
幹事役 の皆様、本 当にあ りがと うございま した。
See
You
Again !!
12回 卒 3年 5組 ・ 古稀 を迎 えて ク ラ ス 会
平成 22年 4月 14日
於 五 泉市咲花温 泉 佐 取館
村 松 高校
村松高校一年一学期 まで在学 堀 直昭 (高 8回 )
新 しい電子辞書から 「村松」が消えた。少 し前の電子
辞書 には『 新潟県中部、中蒲原郡 の町t堀 氏三万石の城
下町 として発達。古 くか ら織物業 が盛 ん。』 とある。
町の名前 が消えてゆくのは寂 しい。 この伊豆半島で も
「伊豆市」「伊豆の国市」な どが町村合併で生まれ、修善
寺も湯ヶ島も分からなくなつた。略 が消えると同時に、
町の歴史が消 されてゆくのが悔 しい。
我が家に勝手に出入 りするマ ドンナたちは 「五泉市っ
ていい名前ねぇ、五つの泉で も湧いていたのか しら」と
ロマ ンチ ックなことを言 うが、生 噌、五泉市の由緒来歴
は知 らない。誰 か教 えて下 さい。
最新の電子辞書 に残 つてい る堀氏は、いまや堀秀政だ
けになつた 『 1553∼ 90伊 散22-天 正 18)織 豊期の武
じめ斉藤氏に
‖
孔 通称久太郎。美濃のノ、 父は秀
=は
の
て
え
ち
に登用
さ
田
れ
近江長浜城主となる。
織 信長
仕 、
山崎の戦いなどで 16万石をあたえられる。小牧、長久手
の戦いの後、 `85伊証H3)越 前北之庄 18カ 石の城主と
なつたが、小田原攻 めに従軍中病死 した。』 とある。
天下の三陪臣と言われた堀監物直政の名前も消えた。
三陪臣の一人、直江兼続などは大河 ドラマにもなリスポ
ッ トライ トを浴びてい るのだが ………。
風俗史に残る 「丹前」には『 承応∼明暦 (1652-58)
ごろ江戸神田佐柄木町の堀丹後守の門前にあつたふろ屋
の湯女の もとに通 う男たちの伊達姿劃 とあるが、ある辞
書では堀丹後守が松平丹後守に変わっている。松平丹後
守 つて、いつたい誰 だべ え ?
町も堀の名前も歴史から消えてゆくが、野尻啓五 さん
から南條範夫著『 一十郎 とお蘭 さま』 の情報を頂いた。
高見まことの共著のコミック (全 二巻)も あり、最初の
ページに村松城が描かれてい る。南條範夫は残酷時代小
説の第一人者 とい うから、村松藩ではよほど残酷な物語
があったのだろ う。戊辰戦争で村松藩 は官軍に投降、
「責任者を出せ」と言われ、「その役、私が引き受 けませ
う」 と名乗 り出て処刑 されたのがオ レの五代前の先祖、
悪家老、堀右衛門三郎 である。以来、我が一族の流浪の
旅 が続 いてい る。 まさにボヘ ミア ンである。
記録からも記憶からも消えてゆく城下町や―族の歴史
だが、同窓のマ ドンナ深見姐さん、ユサ コ様から 「村松
お城の會」出版の 勝総 の歴史と風劃 が届いた。故郷
の歴史や風土を愛 し、資料を渉猟、十年の歳月をかけて
出版 された貴重な本だ:そ れ以前から郷土史の研究に生
涯を捧げた立派な人たちが存在 した。いまやほとんどが
故人 となられたが、その人たちの志を継承す る有志たち
がこの快挙 をな し遂げたのだろ う。
町村合併も時代の趨勢だ し、どうせ 2012年には地球は
『を喪失 した人、根無
滅亡する、いまやデラシネ族 α漱
ス
フ
し草、 とい う ラン 語)と 成 り果てているア ッシには
関わ りの無いこと、 とアキラメていた心に一条の光が射
した。世 の中、未 だ捨てた もん じゃない。
天 皇 陛 下 ご即 位
20年
佐 渡 お け さ 流 し踊 り を 披 露
真水 道子 (高 10回 )
平成 21年 11月 12日 、皇居内堀通 りを新潟県代表
として、伝統芸能である佐渡おけさ流 し踊りで参加 した
主催は、東京おけさ会 (代 表 高橋和子氏、東京新潟県人
会常務塵勃 が担当、私達 松高組も会に所属 しており、
先輩の熊倉富次 さんを始め山田俊治さん、五泉出身の阿
部丈二 さんと真水が参加 した。他にも今回都合がつかず
不参加だつた林信子さん、波多 ミサエ さん等々が会員と
して日頃から練習に励んでいる。 下は当日参加の仲間
内堀通 りを流すおけさ会の参加者 前列中央が筆者
今年は、東京新潟県人会も 100周 年記念事業が盛 り
沢で、秋 には、 9月 24日 に新潟市で前夜祭が始まる。
東京新潟県人会主催であるが、女性委員会が中心となつ
て、約 1000名 の踊 り手による、新潟駅から古町まで
佐渡お けさ流 し踊 リパ レー ド (新潟県内と東京方面の県
出身者 との合同)が 行われることに決定 したcま た 9月
25∼ 26日 には、朱鷺 メッセで大交流会のイベ ン トが
当日の祝賀パ レー ドでは、真冬の厳 しい寒 さに震えな
がらの出番待ちであつた。午後 2時 過 ぎ、国民祭典第 1
部奉祝まつ りの祝賀パ レー ドでは全国各地か ら 16団 体
が参加、佐渡おけさは 13番 目にスタンバイ し、皇居前
内堀通 り570mを
25分 力ヽすてのスター トとなつた。
総勢 110名 (地方 10名 、立方 :踊 り手 100名 )が 、
数ヶ月前か ら5団 体の合同練習を積み重ねた成果をいよ
い よ披露する時を迎 える。
揃いの紺地に白い波模様の着流 し姿にすげ笠をかば り、
唄い手や囃子方の乗つた車が先導 し始 める。一糸舌レtず、
5列 で 60mほ どの長 さのお ヽで進むと、哀調を帯びた、
しなやかな舞の佐渡おけさ踊 りはいつ も好評で、沿道 に
詰 め掛けた観衆からは盛んに拍手や フラッシュを浴びた。
寒 さで縮んだ体も終わ り頃には暖か くなり、沿道の観衆
の大声援 には、一 同が感謝 と踊 り切 つた達成感 とで、満
足感に満 ち溢れた一時を過す ことが出来た。
夕方からは、皇居前広場で 「国民祭期 が開催 され、
約 3万 5千人もの人達が集 う中、6時 30分 頃には天皇、
皇后両陛下が二重橋までお出ましになつた。気温 12度
と冷え込んだ中でも、「ご即位 20年 」のお祝いは熱気を
帯びてきて、ご健康を祈る提灯行列 と、 日の丸の小旗を
高く掲げて打ち振る行列の様子は、まさに圧巻であつた
その後、東京駅地下街にある県人会会長の平氏が経営
する店 「日本 旬J動 に於いて一体み。 110名 の仲間
達 と今 日一 日の行事が無事に達成出来たことに感謝 し、
ついた。
自、
冷 えた体を暖 めてホ ッと一′
開催 される。
合間を縫 って、 6月 5日 ∼ 6日 に│ま 佐渡金山で開催 さ
れる今年で 9回 目になる音頭なが し 「宵の舞」にも松高
の踊 り仲間 と参加する予定でい る
.
あるザ ル 碁 打 ちの戯 言
今井 孝宏 (高 10回 )
月に 10日 は碁を打ちにc自 称正義 の味方.弱 きを挫
き、強きを助 く。一石た りとも出るを惜 しみ、入るは無
限に求む (も つ とよこせ │こ れでもか │こ れでもか !│
即 ちや らずぶ つたくり動 。勝敗の究極│ま 半目を得て良 し
とするを知 りつつ も、根がケチであることの証かcげ に
勝負事、 とりわけ碁 とい うゲームは本性を如実に顕わに
為すな り。
最近 に至 り正統派の敵を得た り。常先で│ま 全く届かな
い ものの、碁の楽 しさを改めて知る.果 たして齢 70に
して、ス トー リー性のまるで無い、結果オー ライ型棋風
を脱 しうるか、 これまた楽 し。
先 日、ひ ょんなことからプ ロの某九段 │二 お 目にかかる
ことが出来、いつ とき日本棋院市谷本院を ご案内いただ
いた。小規模ながら地下の資料室 も非常│二 興味深い もの
、
があつたが、何 より普段我 々が立ちフ
る事 の出来ない、
│)、
エ レベー ターを
ロ
ロ
5階 のプ 棋士の対局 フ アー に至
降 りた途端に空気が一変 いまだかつて経験 したことの
無い、身の引き締 まる感 に包まれる思tヽ がした。 またと
無い冥土への土産を得たものである= じつに、我が人生
最大の 自慢 の種である
.
皇 居 特 別 参 観 の 記
森 田勝美 (高 16回
3月
22年
27日
平成
(Dに 、友人の案内で 「皇居」
)
「吹上御苑地区」を参観 して来ま した。
の「1日 西の丸地区」
此の地区は一きヽ開されてい ません。
周知の事ですが、「江戸城」は、御 │1幕 府の将軍の居城
で した。明治元年 に「東京城」
翌 2年 明治天皇が、東京 に
「
お移 りにな り、更に 皇城」 と称 されるようにな りまし
た。又、明治 6年 5月 に失火全焼 した 「旧西の丸御殿跡」
に、「明治宮殿」が完成 したのは、明治 21年 10月 の事
ですが、此の時から戦争後の昭和 23年 迄 「官城」 と言
う呼称 が長 く使用 されてきま した。
現在、「皇居内」には、天皇皇后両陛下のお住居である
聯断 」を始 め、「宮殿」「官内庁庁舎等の建物」力`
あり
ます。
「旧西の丸地区」への玄関は、皇宮警察官が警備 して
いる 時霧巨
Fヨ 」から案内 されました。入城 して直ぐに右
「
手に 窓明館」、「皇宮警察」の建物が有 ります。南西方
面に歩いて行 くと、緑豊かな景色 の中に 「富士見櫓」が
左側に、石垣の上に建つ 「伏見櫓」が、樹木が水面に映
える 「二重橋濠」を従 えて答 え建つています。「二重橋」
の右側は現代の東京の ビ漁 の風景です。いやが上にも、
歴史感 を持たざるを得ないスポ ッ トで した。
伏見櫓 を背 に二重橋で記念撮影
次に案内された地域は、天皇皇后両陛下のお住居のあ
る 「吹上御苑」です。北の丸公園の方向に 「乾門」があ
ります。やは り皇官警察官が警備 をしている 「乾門」か
ら再入城です。入ると直ぐに右イ
則
lに 「
御苑」が有 り塀沿
「
いの道に出ます。 御所」は、塀沿いの参観だけだったの
ですが、そ こか ら見える木々は、自然林で奥深 く、件ま
いが広大で荘厳なお屋敷の雰囲気がしました。 まもなく
すると左側に、幽力ヽこ紅葉山の中に建つ 「御養蚕所」の
屋根が見えます。「御養蚕所」は、美智子皇后が絹糸を紡
威容を誇る富士見櫓
高い石垣の上に響えていま丸 「富士見櫓」を右手に緩や
かな坂を歩いて行 くと、端正な感 じの 「宮内庁庁舎」の
建物が見えてきます。「旧西の丸地区内」にも、敵からの
侵入を防ぐ為に、高い石垣、お濠 が多数あ り、常に樹齢
を感 じる樹木を従 えて存在 しています。まさにタイムス
リップした思いで、その辺で刀を差 した姿のお侍 と出会
うのではと錯覚を して しまいそ うです。此の景観の中を
暫 く行 くと 「豊明殿」、昨訂峨 」が建 つている 「宮殿」
に到着 します。「豊明殿」は、「官殿」の中庭に面 してい
て大きな饗宴が催 される時に使われていま丸 眼 和殿」
ルあ り「宮殿」の中で最長 の建
│ま 、長 さが 160メ ー ト
物です。
下の写真 は長和殿
「長不
口
助 の広場を過ぎると、美 しい姿の「正門鉄橋 (二
重橋 」に出ますし二重橋に立って 「宮殿」に向かって
がれる所です。御反物 になさり、訪 日される国賓にお土
産 として差 し上げられますしなお、塀沿いの道を行 くと
「大道庭園」に着きますしそ こには驚 く程の、大きく幹
の太い松の盆栽が、多数手入れをされていました。庭園
の次に、「お清 めの建物」が 自然林の中にひつそ りとした
什 まいで現れました。此処は、その先にある 「賢所」に
御出席なさる妃殿下の方 々力ν卸身をお清めになる建物で、
現在実際に御使用になられてい らつ しゃる所 です。「賢
所」の建物は、質素な雰囲気ですが、威厳 と品格を持っ
て建 つてい るかの よ うでした。天皇陛下と皇太子殿下の
ご使用 にな られる玄関が左右違 う造 りになつています。
「賢所」は阜室の式典が開催 される所です。「義 ゝを後
にして、来た道を 「乾門」に戻 りました。「吹上御苑」を
後にして、石垣のある急坂の道を歩き、皇宮警察官の警
備する門から一部一般解放 されている 「東御苑地域」に
退城 しました。最後に案内 されたのは、「剰 幼樹世力 の
「旧三の丸地区」にある阜室力v卸 刺羽になられる 「御刺
や 「御用具」が管理 されてい る建物ですし明治天皇力Y卸
使用 になられた 「御朝 、昭和天皇の御結婚式に御使用 の
「御車」を観覧 させて頂いた時は、現代の史実を目の前
にして感激致 しました。皇居の参観時間は、 3時 間程で
したが、「江戸城の昔 と今」を実感、体験させて頂いた貴
重な一 日で した。
地域 デ ビ ュー
雲 取 山 を 目 指 して 、 そ の 後
高岡 光夫 (高 15回
38年
昭和
、村松高校 を卒業するとき、体育の松田先
)
生に 「苦 しい時は何クソ !と 思つてがんばれ」 と励まさ
れました。人生の節 目毎にその励ま しの言葉が思い出さ
れ、一生懸命仕事 に打ち込み、昨年 6月 に46年 余 りに
及ぶ勤 め人生活を無事に終えることができま した。
勤めを終えたら、やろ うと思つていたことの一つが地
域デ ビューです。取手市に住んで 32年 、図書館以外 に
地域での居場所があ りません。昨年、市の広報誌で 「男
性講座開催」とい う記事を見つけ参加 してみることにし
ました。講座の中で、元気 に暮 らす高齢者を増加 させ る
方法の一つ として、茨城県が健康体操の普及に力を入れ
ている事を知 りま した。私もその方法を学ぼ うと、県が
主催す る 「体操指導士養成講習」を受講することにしま
した。
講習は、水戸市で週 2回 、 4週 間にわたつて行われ、
午前中に身体の仕組みを学び、午後か ら実習 とい う内容
で した。 さらに、 2回 目からは習ったことに関するテス
トがあ りました。講師から 「見て触れて、紙に書いて声
に出 し、繰返す ことで覚えられますDが んばつて下さい。」
と励まされ、小学生に戻つたよ うに声を出して筋肉や骨
格の名称を覚えた り、体操の方法を学んだ りしました。
7回 のテス トを無事にパス して、今年の 2月 に県知事か
ら体操指導 の認定証をいただ きま した。
取手市は人 口 11万 人、上期駅から常磐線で 40分 の
ところにある自然環境豊かな住み良い町です。 しか し、
4人 に 1人 が 65歳 以上と高齢化 も進んでいます。市内
には、体操指導士会 とい うボランテ ィア団体があり、各
所で高齢者 の健康づ くりのため、健康体操 を指導 してい
ます。私も体操指導士会に入会 し、地域デ ビューするこ
田中 芳子 (高 16回 )
い
で
還暦ま あと数ヶ月 と う時期に十数回の転居を経て、
漸 く終の住処に落ち着 くことが出来た。 これからは腰を
据 えて、楽 しく何かをや りたい と考えている時、友人よ
り東京都主催の山のイベ ン トに参加 してみないか、 との
誘 いがあった。登山1蒻 虫身の頃、職場の同僚 と数回経験
したのみで、不安は大きかつたのだが心が動いた。その
イベ ン トは、東京都奥多摩観光協会主催で “
雲取山 (2
目指 して"で ある。
5月 の第 1回 日は秩父多摩甲斐国立公園の現状、 日常
の トレーニ ング、地図形、天気、装備、安全な登山の歩
き方などの言
葉乱 6月 の第 2回 目からは実践で、都の職
員 4名 、 レンジャー (ボ ランテ ィア)6名 、参加者 30
余名で本仁 田山に登つた。想像以 上に急峻で、苦 しい個
所 もあつた 9月 の第 3回 目は六ツ石山登山であつたが、
下山途中に 14時 頃にもかかわらず辺 りが真 っ暗にな り、
霧 が出てきて lm位先 までしか見えず、鴨飲る な !」 の
声が響 き、急いで雨具を装着 した途端に激 しい雨が降 り
出 した。地元の山をよく知つている人達の案内なので、
私達は安心 して下山することが出来たが、つ くづ く山の
恐ろ しさを思い知 らされた。
10月 の第 4回 目になって、い よい よ雲取山に登るこ
とになつた。雲取山は東京都の中で 1番 高い山で、皇太
子殿下も何度か登 られたそ うである。 また、多摩川の源
泉で、都民の水道水の 2割 を賄 っている水源林を再生・
017m)を
保全の為の手入れが進まない民有林を都 が買い取る話も
出ているそ うだЭ無事に登頂 して山荘に到着 し、皆で乾
杯 した味は格別で話も尽 きない様子 であつたこ翌早朝、
雲海から朝 日が昇 り始める様子を観て、身体が震えるほ
どの感動を覚えた。
とにな りま した。
「高齢者が元気 でいること。それは、社会貢献」と意気
込んでいますが、果た して松田先生の よ うに上手く教 え
ることが出来るので しょう力、 結果は、またの機会 にゆ
ずることに致 します。
感動的な日の出
その後、参加者の有志で山の会を作 │,、 毎月 1回 実施
して 48回 目を迎えたE昨年│ま 世で云 う百名山の両神山、
谷川岳、会津駒ヶ岳、そ して別ルー トで再び雲取山に登
つて来た。何故登のか と考えれば、志を共にする人 と自
然 との一体感、汗を流せ る爽`1夫 感 と達成感 であろ う。
Iθ
良く、幹径 2 0cmほ どの銀杏の若木が植えられていた。
この本 の将来 の運命 が気になつた。
鶴 岡 八 幡 宮 の 大 銀 杏
新保 優
3月
(高
10回
)
10日 の暴風雨で、鎌倉 は鶴岡人幡宮の大銀杏が
根 こそぎになつて倒れた。 この本は人幡官その ものを代
表する有名な古木 であ り、倒れ るとは予想もされていな
かつたので、マスコミを賑わす大きなニュースになつた
新聞などによれば、 この本は内部が空洞になつて根 も
弱つているので、植 え直 して元に戻すのは難 しい とのこ
とであつた。 しか し何 とか生き返 らせたい と、上部を切
つて 4mほ どの高さにした根元を植 えなお し、祈祷 して
再生を願 つたそ うである。
鶴岡人幡官は今から800年 以上前 (1180年 )に 、
源頼朝によつて現在の場所に建立された。 この本がその
ときに植 えられたな らば、 800歳 以上になる。
しかし鎌倉幕府の 3代将軍、源実朝 が 1219年 にこ
こで殺されたとき、暗殺者が この本の後 ろに隠れていた
とい う説がある。それが事実なら当時すでに人を隠す程
の幹周 りがあつた ことになる。そ こでさらに数百年を力日
だいたいこの銀杏 の本は、生えていた場所 と樹齢が特
別なだけで、特別な実や葉を付ける貴重な固体で もなか
ろ うか ら、DNAや クロー ンにこだわるのは的外れな気
がする。 この本 としてその寿命を尊重 し、その後は次世
代 に任せ るのが 自然であろ う。
とはいえ、関係者の気持ちや、 この本 にまつわる宣伝
効果 を考慮 した、人の行 うイベ ン トとしては大 きな意味
があるだろ う。私 自身がそれに乗 じた一人であるし、多
くの人が私 の よ うに木 の株 の写真を撮 っていた。
今年は 3月 末に真冬に戻つたよ うな 日が続き、行 った
当日もつめたい風が吹いていた。 4月 3日 の例祭に向け
て、雪洞で飾 られた段葛 の桜 も、 2分 咲き位 のまま固ま
って しまつたよ うだつた。しかし時 々日射もあつたので、
えて、樹齢 1000年 以上の本であるとも言われている。
このよ うな歴史を持つ木の倒れた姿を、公表 して人 目
にさらすのは失礼な気 がする し、切 り株 にしてまで、無
理や り生 き延ば しを図るのは残酷なようだ。 しか し木に
意識があるとは思えない し、仮 にあつたとして も人とは
異質な植物に、人間の価値観を当てはめて も意味がない
であろ う。
鎌倉 までは、私の家か ら自転車で 1時 間ほどの距離で
ある。そ こで野次馬根性に運動不足解消をかねて、 3月
の末にその後の銀杏の様子を見に行 ってきた。
銀杏は社に登る階段の上 り回の脇に鎮座 していた。実
際に見るまでは、惨めな姿を想像 していたが、 さすがに
年を経た老木だけあって、切 り株 になつて も堂々 とした
威厳 と貫禄 を示 していた。
結構人出が多く、歩道 には人の列が途切れることなく続
いていた。そ して神社の境内には倉
台売 りなどの屋台が出
ていた。桜 の満開の頃は相当な混雑であろ うと予想 され
た。場所柄 と時代の流れのためか、外国からの観光客が
特に多い よ うだった。
その後、残 つた木の根か ら新芽が出たとい うニュース
を聞いたので、様子 を見にいつた所、数 え切れないほど
の芽が根株を覆い、元気 に伸びていた。 ともかくも後継
者 の心酉己はなさそ うである。
仮にこのまま芽が出ないで終わるとして も、歴史を伝
える記念碑 として、ここに置いてお く価値は十分にあり
そ うだ。
この株 が根付かない場合に備 えてか、そばには手回 し
残 つた 木 の 根 か ら新 芽が
バ ッ ク ロ トウ ・ ザ ・ 古 き 良 き 時 代
滝沢 義則 (高 22回 )
人生の年後 を迎える日が近づいてきま した。
村松を離れ、第二次オイルショックを経験 し、憧れの海
外での仕事や生活 も送つてきま した。 また学生時代 に始
めたテニスは未だに現役で、 30代 の′
自子 みたいな人た
ちとチームを組 んで、大田区と川崎市の実業団 リー グに
出ています。健康で人並みの人生を送 っていると言 つて
良いで しょ う。 (感 謝 です !)
そんな環境の私に一昨年、突然、“
新潟県立村松高等学
"な
こ
ると ろか ら『 第 51回 東京同窓会』
校東京同窓会
へのお誘いの葉書が舞い込んできました。松高を卒業 し
て 40年近 く経 ってのこ とで した。
『 同窓会』 とい う詞は、`究輩 (女子学生も含 めて)ヘ
の敬意や瞳れ"、 “
絆 “
同 じ (松 高の)血 を引いている
人達 とのふれあい"を もう一度経験できる場所を想像 さ
せて くれました。早速、総会に出席 して直ぐに東京同窓
会の幹事 を引き受 けることにな り、先輩達 と一緒の時間
を過 ごしながら色々 と学び、そ して忘れていた大切な仲
間 と巡 り会 って、楽 しい交流を続 けていますも私のこれ
からの人生は、 より充実 した ものになつてい く筈ですЭ
'、
あなたも
バ
・
ト
ゥ・ザ・古き良き時代』
『 ック
経験 してみませんか !そ して、実 りある一 日を
!
素晴 らしき仲間その 1 平山誠一君
愛宕中学、松高時代 の 6年 間、一緒 に過 ごしながら顔
も知 らなかつた。松高時代はテニス部のキャプテ ン。今
はスポーツ関連 グッズの卸会社経営。同世代の人間が少
ないことを憂慮 して、テニス音Б
繋が りか ら方々全連絡 し、
へ
多数の仲間を総会 集 めてくれた。その結果、 9名 の同
期生 (高 22回 )+1名 (潮 │1高 卒の樋 口君)参加 とい
うことになる。総会当 日まで、お互いの顔を想像 しなが
らの電話会話 が続 く。
そして、平成 21年 7月 4日 の東京同窓会第 52回 定
冒
期大会で受付を していると、彼が現れ た。カ ッコ良い中
常に落ち着いていて、 ピンチにも動 じない。そんな印象
をずつ と抱かせてきた男。そ して、最近わかつたことで
あるが、歌 うことが大好き。甘い感 じの歌、バ ラー ド。
′
振 り付け、ア ドリブ 休日
思相愛 ?だ った女性の名前 と力9
が付 くこ とも。
素晴 らしき仲間その 3 佐藤 雅晴君
平成 21年 12月 25日 /新 宿 (忘年会)
彼 の実家 (お兄 さんが住υ は、私の家か ら100m程
離れている。我々は旧村松町簿 )││の 出兄 雅晴君の家
の前では、 よく “
缶蹴 り"を して遊んだ もの。村中が範
囲だから鬼は大変だったろ うれ 剛 青君、覚えています
か ?』 。そんな彼 は、川内中学の陸上長距離のエースであ
つた。やがて、松高陸上部で活躍6放課後 に トラックを
黙々 と走る姿が 目に焼きついてい る。本当に直向きで、
誠実な男だ。
素晴 らしき仲間その 4
樋 口雄―君
平成 21年 11月 某 日/銀 座 ライオ ン (調 査 目的
津川高出身の平山君の親友:現 在プロデ ューサー、クリ
)
エー ター として活動。漫画家やなせたかしさんと一緒に
仕事を した りと、幅広い人脈の持 ち主。平成 21年 7月
4日 の総会へ飛び入 り豹 叱やつぱ り、クリエー ター几
素晴 らしき仲間その 5 藤波雄作君
平成 22年 2月 6日 /赤 羽 (守 君の壮行会)
守君 が中学校野球部仲間の雄作君を呼んで くれた。
川内小学校には分校が二つあった。居平分校と上杉鍼
雄作君は小学校 5年 生になると毎 日8キ ロ歩いて本校ヘ
通 つてきた。冬には一人がよ うや く歩けるよ うな狭い雪
道を。よく相撲をとつた。背が高く足も長 く、内股を得
意技に していた。いや ぁ、強かった。 あの距離 を毎 日歩
いていたんだから強いはず。今はヘア ドレッサー。 40
年間女′
性 との会話を欠か した ことがないc(羨 ましい)
子を被 り顎碁をはや し、手には誘 つた女師 のためのプ
レゼン トを持参 して。気配 り抜群
!
素晴 らしき仲間その 2 濱田守君
平成 21年 7月 4日 総会受付
(^^)し ながら私の方に歩み寄る男性、 2m、 1.3m、
60cm、『 守 ?』 と声を力ヽすると、ゆつ くりと頷いて『義
則君、久 しぶ り』
松高野球部の一番バ ッターで名 ショー トス トッパー。
しかし、私 にとつて守君IJ II内 小学校 の選抜野球チーム
のチームメイ トとしての思い出の方がずっ と強烈である。
とにかく野球センスは抜群し どこでもこなす。そ して、
12
平成 22年 4月 21日 /神 田
出席者 樋 口、滝沢、平山、濱田、佐藤、藤波の各氏
か あち ゃん 本舗
ス カ イ ツ リー
催 7 事 て夕ι
表紙の写真は今年の 5月 3日 に撮影 した ものである。
大林組が 1昨年 7月 に着工 してか ら、今年の 3月 3日 で
598日 経過 し高さは 31lmに なつた。 4月 6日 には
338mと な り、東京 タワーを越 えた。 5月 5日 (工 事
開始から661日 )に は 368mに 達 し、第一展望台 (高
さ350m)の 工事が女
台まって、12日 には筒状の塔体
から外側 にせ り出す鉄骨 が見えてきた。6月 末には鉄骨
組みが終わ り、塔 は帽子をかぶつたよ うな姿になる予定
第 1展 望台は、その上に塔を伸 ばしてい く工事の中継
点になる。現在最上部にある 3基 のク レーンが 1基増 え、
展望台の屋根に 4基 を固定する。地上か ら鉄骨を吊り上
げて屋根に置 くク レーン 2基 と、屋根から上に鉄骨 を持
ち上げるク レーン 2基 に役割 を分担す る。
東京スカイツリー (完 成時 634m)は 、広州タワー
(610m・
中国)を 抜いて、電波塔 としては世界一の
高さになる超高層建造物で、使 う鉄骨は総計 3∼ 4万 ト
ンになる。直面するのは、直径 2.3mの 円形の鉄骨など
巨大な材料 もあ り、前例 のない難 しい作業 が続 く。
また、スカイツリー は トイ レの高さも日本一。下水管
∠岬 `
榊専
を流れ落ちる汚水は秒速 10mを 越えるとい う。その勢
いで管内が真空にな り、便器 にたまつて蓋の役割をする
水 が引き込 まれると、悪臭 が逆流 してしま う。 その防止
策 となるのが、縦の配管の連結に採用 される 「減速継ぎ
霊峰 白山 を仰 ぎ見て、しみ じみ と自然豊か な こ
の地で暮 らせ る こ との幸 せ を感 じます。広大な蒲
原平野 、清 らかな水 。そ の風景 は私 たち を いつ も
や さ しく包み込んで くれ ます。そ して、この地 に
は 自然 に 逆 らわず 黙 々 と仕 事 をす る愛 しい作 り
人が い ます 。
村松 の 食 を守 るその人 々に感謝 した い と思 う
気持が生 まれ ま した。こんなに美 味 しい村松 の 食
を多 くの方 々に おす そ分 け した い と思 うよ うに
な りま した。
どんな人 にも自慢 でき る「ふ るさと」が あ りま
す。挫 けそ うな時、涙す る時、また頑張 ろ うとす
る時、懐 か しくこい しく思 う「ふ る さと」が あ り
ます。
そんな「ふ るさと村松」の 自然の恵み をた つぷ
り育んだ 「村松 の 自然 と食 」を、心 を こめてお届
け した いと “か あちゃん本 舗 "を つ くりま した 。
手」だ。出つ張 りをつ けた部材で、菅の内側に張 り付 い
て落ちる汚水 の勢いにブ レーキをかけ、落下速度 が半減
するため管内は真空 にならない。
スカイツリーは半分以上まで成長 して来たが、次第 に
「そ り」 と 「むくり」ある独特の姿が現れた。「そ り」は
頂点か ら脚の部分 に流れる日本刀 の よ うなカーブで、「む
‐
か あち ゃん本舗
〒 959-1704
1疇 │::::耀
新潟県五泉市村松甲 2039番 地
酬;111
その他、座禅の体験や手作 リコンサー トなど多様な活動
を行 つてい る。
くり」は平安謝院の柱 の よ うな中央部分のふ くらみa
相反する要素が溶け合 った不思議な形状で、角度 によつ
てはね じれてい るように見 える。
開業時の ライ トア ップでは上 と下の両方から光を照 ら
し、「そ り」 と「むくり」の美 しさを際立たせ る。照明設
備 はパナ ソニ ック電工の担当。
東武鉄道は、墨田区に建設中のスカイツリー と周辺施
設の開発資金 として、みず ほコー ポ レー ト銀行や 日本政
策投資銀行な ど、計 21の 金融機関か ら総額 850億 円
の協調融資を受ける契約を結んだ:東 京 スカイツリー は
2012年 春に開業する予t
融資額の うち、みずほコーポ レー ト銀行 と日本政策投
資銀行がそれぞれ約 160億 円 と最 も多く、中央三井信
託銀行は約 110億 円。 ほ力ヽこ埼 玉 りそな銀行や足利銀
行、常陽銀行、千葉銀行、千葉興券金飾イテ、ラ
耗和 イ予、ノk
`飾
十二銀行、京葉銀行なども参加する。
*上 記は主に東京新聞を参考に してツリーの説明文 とした。
大橋 記
Iθ
小 出博 三 氏 の 油 絵 展 に て
訃
報
第七代東京支部長
見方 謙策 氏
(旧
中 18回 卒)
かねてから、病気療養中だつた見方氏が
平成 22年 4月 23日 9時 26分 、 ご逝去
されま した。
長年 に亘 り東京同窓会の発展 に多大なる
ご尽力を賜 り、会員一同心底 より御礼申 し
上げます。
ここに謹んで哀悼の意を奉げ、 ご冥福を
お祈 り申し上げます。
飲 ん で よ し、塗 って よ し
日 本 酒 美 肌 効 果 メカニ ズ ム を解 明
名 古 屋 市 立 大 研 究 グループ
今年 の 3月 7日 (日 )か ら 13日 (Jま での 1週 間、
小出氏 (高 8)の 第 12回 油絵展 が、昨年 と同じ有楽町
レ ヾサ ロンA)に於いて開催
の東京交通会館 Bl(シノ
された。連 日、多数の方々が鑑賞 して行かれたよ うであ
るが、12日 には同窓の方々 も立ち寄 られて、久 し振 り
に楽 しく鑑 賞 されたそ うである。
私は、漸 く最終 日に都合がついたので、お昼過ぎにお
邪魔 したところ、五泉応援団で時お りお 目にかかるFヽ命
氏 とばつた り鉢合 わせ して、予想外だつたので少 しびつ
くりした。小倉氏には、五泉応援団の幹事会・総会の写
真や故郷の資料な どを度々送 って戴 くのだが、お礼 も忘
れ がちで大変失礼 してい る。
吹を漂わせる風景
小出氏の作風は、ゆたかな 自然の′
自、
い
画 に特徴がある。今回、鑑賞 して て気付いた ことは、
いつ もより静物画の多かったのが珍 しく、なにか新鮮に
感 じられた。理由をお尋ね したところ、遠出が少 し億劫
になられたとのこと。 しかしながら12回 連続で油絵展
を開催 された、/1ヽ 出氏の制作意欲 には心から感服すると
ころであり、同窓の皆様には暖かいご支援をさらにお願
い 申 し上 │ヽね ヽ
。
大橋
SI ヽ
さ一
ぶ
名古屋市立大の岡嶋研二教授 (展 開医科学)ら の研究
グループが、日本酒の美肌効果のメカニズムを解明した
肌に塗つても、そのまま飲んでも良い と云い、風呂に入
れるなど日本酒の美肌効果は知られているが、科学的に
立証 した形だ。
‐
■
■ ζ鑢
着 目したのは、 日本酒を造る過程で、米麹 と酵母菌 に
よつて作 られる糖 アル コールの一種 「α― グル コシル グ
リセローノ (α GG)。 研究グループはマ ウスの知覚神
L/」
経細胞 を培養 し、 αGGを 加えると、伝達物質が放出さ
れるこ とを確認 した。
次に、マ ウスの肌 に塗ると、その伝達物質を介 して、
糸
剛包の再生や血流増加、汗腺の活薗 効 果などを促す「イ
ンス リン様成長因子― I」
すること
(IGF― I)が ナ
勤目
12日
に訪れ た同窓の方 々 と小 出氏 (右 端 )
を突き止めた。 αGGの 濃度 を 0.005、 0.01、 0.
05、 0,1%― と変えて実験すると、O.01%の 溶液が
最 も皮膚の IGF― Iを 増やす ことが分つた。皮膚の コ
ラーゲ ン量も 1.2倍 になつた。
さらに、二十台から四十台の女性で実験8十 二人に α
GG溶 液を二週間肌に付けて貰い、専用機器で肌の弾力
を比べ ると十二人が向上 「肌がしつ とりした」と好評だ
つた。
美肌効果に適量の αGGが 関係 していることが分 り、
日本酒 の美容へ の応用の幅が広が ると云 う。
岡嶋教授は 「日本酒の αGG含 有量1絲句0.5%だ から
肌 に塗る場合 は 50倍 に薄めると良いだろ う。飲んで も
効果があるし、熱 で も壊れない」 と話 してい る。
(1月 6日 東京新聞 より)
Iイ
最終 日、小倉氏 に会 う
(中
央)
記
│
ルクノ
∼
平成 22年 4月 8日 、入間カン トリー倶楽部に於いて
松高東京同窓会の第 13回 ゴルフコンペが開催された。
当日は好天に恵まれながら少し肌寒く、とにかく桜を
バ ックに恒例の記念撮影をして、午前 8時 28分 に1組
目がスター トして行った。
穿 町
θ″魂効塵
″ ゴθ〃 ゴル ノ コン ペ
成績 (敬 称略 )
優勝 ・佐藤 克、準優勝 ・ 片柳 ムツ
3位 口今井 英雄
・
参加者名 0贋 不同 敬称略)
1組 亀山 知明、片柳 ムツ、吉井 清
2組 鈴木 輝雄、大橋 貞夫、石黒 勝夫
鈴木 理恵子
3組 今井 英雄、詞 │1 守、長谷川 三男
佐藤 克
今回、初参加の知 │1守 (高 12回 )氏 、長創 ││三 男 (高
18回 )氏 など 11名 の参加 となつた。ゲーム終了後、
いつ もの楽 しい懇親会 となつた。席上、亀山会長が今回
新 しく寄贈 された 「持ち回 りの優勝杯」が披露 された。
栄誉ある第 1回 目の優勝杯を手にしたのは、シングル
ハ ンデの佐藤克 (高 21回 )さ んである。
今回もまた亀山氏、吉井氏のお二人には何かとお世話
にな り、心か ら感訪寸と御ネLを 申 し上げたい。
″ ゴイ回親 睦 ゴ ル ノ分 のお知 らせ
平成 22年 10月 28日 lbl、 入間カン トリー倶楽
部 に於 いて第 14回 親睦 ゴルフ会を開催いた します。
持ち回 り優勝杯に名前を記 して、この会に永く栄誉を
刻みたい方、 ドラコンに自信のある方、ニア ピンならば
俺の もの、いや、私の もの !等 と腕に覚えのある方も、
ない方も、老若男女を問わず大勢の方々に意地 と名誉を
かけ、挑戦 して頂きたい もの と念願 して居 ります。
い ざ、挑戦 してみようと決意された方は下記へ ご連絡
下 さい。
吉 井 清 (高 8回 )■ L&Fax 042-527-6482
亀 山 知 明 (高 3回 )■ L042-572-5096
表紙 の題略・題字は佐伯益一氏
新 潟 県 立 村 松 高 等 学 校 東 京 同 窓 会
東京同窓会事 務 局
電 話 ・ FAX番 号
〒 201-0005
狛江市岩戸南
03-3488-2117(石 黒 四 郎 )
(旧
中 27)
編 集 後 記
発 行 人
第 49号
普天間問題で迷走を続けた鳩山政権も、福島社民常
党首が消費者相を罷免されたことで、三党連立は大き
な転機を迎えた。確りしたブ レーンを持たない首相が
思い付きで発言し続けたため、今日の結果が生まれた
ように見える。よほど優秀な人でも、単独では最善手
■ 確りしたスタ ッフを確立
を見 つけるのは難しかろ,
して、国内外 の諸問題に対処してもら いた い。
﹁
調子の良いことば つかり、こきやが つて!﹂なんて、
昔からこう云う人は稀に存在したが、近年、こう云う
無責任な人種が増えて来たような気がする。信義を忘
れず、世 の平安を祈るの 。
み
広報委員会 大橋
平成 22年 7月
一
丁︻釧∞ ooOさ
大橋 貞夫 宛
次 は どなたの手 に ?
世 田谷区玉川四︱ 二十1人
ローヨ∞いP ∽0一∞〇︱OOnσ卜・∽ol●①計・つ①。
一
o
亀 山会 長 か ら佐 藤 克 さん に優 勝 杯 の 授 与
原稿送付先
桜 を背 に決 意 も新 た な メ ンバ ー
書
広 報 委 員 会
2-14-14
15
校
旧・ 村松高等女学校
旧・ 県 立村松 中学校
浮田
辰平
曲は
旧軍 歌 よ り
歌
作詞
県 立 村 松 高等 学校
御風
作詞
相馬
御風
作詞
大 和 田愛 羅
作曲
中山
晋平
作曲
相馬
塵 の 巷 を遠 ざけて
愛宕 の 山 の む ら松 の
雲 た ち ま よふ 白山 の
み ど りの 色 の 常盤 な る
普 く照 らす 天 つ 日の
光 を浴 び て 年 々 に
麓 に立 て る松 の 群
操 を胸 に 日の 本 の
伸 び て しや ま ぬ 若 松 の
見 よ凌 雷 の 気 を含 む
をみ な の 徳 を磨 か ばや
ときわ の 志 操 い や 堅 き
学徒 われ らの 在 る と こ ろ
落 葉 を く ぐる流 に も
心 は身 は も真 夏 な ほ
岩 石 砕 く力 あ り
日に輝 け る 白山 の
清 き は水 の 姿 にて
雪 に もま さる清 さもて
強 き は 誰 が心 ぞや
正 しき道 を進 ま ばや
明朗 の 和気 み な ぎれ り
2.
見 よ質 実 に清 純 に
進 取 の 生気 湧 き溢 れ
文 化 の花 の 咲 く ところ
夫 れ 英 雄 も人傑 も
そ の 名 も高 き この 里 の
希 望 は常 に輝 け る
人 の 子 吾 等 が類 な り
あ ゝ松 城 の 健 男 児
桜 の 花 の うら うら と
道 に我 らを進 ま しむ
の ぼ る朝 日に匂 ふ ご と
努 め な ん い ざ もろ ともに
奮 ひ て 起 つ べ し諸 共 に
気 高 き姿保 た ばや
あ ゝ松 城 の 健 男 児
勇 み て 起 つ べ し諸 共 に
2.
第 一 応 援 歌
第 二 応 援 歌
第 二 応 援 歌
緑 濃 き臥龍 が丘 に
臥龍 原 頭 幾 星 霜
松城健 児 六百 が
轟 くは我 等 が 歓 呼
切 磋 琢 磨 の 功 を経 て
祖 国 の 為 に剛健 の
若 人 の 高 鳴 る血 潮
た た え つ ゝ春 の 日廻 る
花 紅 の 香 に匂 ふ
大 図 を こ こ に定 めん と
誉 れ は 高 き松 城 の
送 りい だせ し我 が 勇 士
健 児 が 胸 に血 や 躍 る
覇 権 を譲 る こ と勿 れ
い ざ叫 べ 若 人 の 誇 り
わ な な け る力 の 腕
我 等 六 百 こ こ に在 り
2.
我 等 が え らぶ 丈 夫 の
3.
今 壮 快 の晴 戦
見 よや 君 歓 喜 の 胸 に
誉 れ は海 の 湧 くが ご と
輝 くは永 久 の 勝 利
望 み は雲 の 行 くが ご と
見 よ雄 叫 び の 只 中 に
月 の 桂 をな譲 りそ
我 等 が望 み 一 筋 に
栄 あ る名 をぞ と こ しへ に
肩 にぞ か か る勇 戦 士
覇 権 を譲 る こ と勿 れ
我 等 六 百 こ こ に在 り
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