PrivacyとPropertyの微妙なバランス: Post 論文を切り口にして Warren

論文
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:
Post 論文を切り口にして Warren and Brandeis 論文を読み直す
A Subtle Balance between Privacy and Property:
Re-reading Warren and Brandeis with Special Reference to Post
林 紘一郎*
要 旨
プライバシーの権利を初めて世に問うた1890年のWarren and Brandeis論文は、人格的利益として
のprivacyの概念を提唱し、世界各国に普及させる上で決定的な影響を与えた。しかし、この論文が
もう1つの重要な要素としてproperty概念を対置し、それら2要素のあり方を(未公表著作物に対す
る)著作権を事例としながら論じている点を、わが国法学界は見落とすか過小評価している。米国で
は論文100周年に当る1990年に、多数の回顧行事や論文が出現し、こうした複眼的・大局的分析を再
評価しているが、わが国ではそのような分析は乏しい。本稿は、100周年記念論文として出色のPost
論文を切り口にして、Warren and Brandeis論文の今日的意義を探るものである。
ABSTRACT
Warren and Brandeis (W & B) published a paper titled “The Right to Privacy” in 1890, which became a seminal work to establish “the right of privacy as an inviolate personality” and to legislate for it around the world.
However, it is sometimes overlooked or neglected in Japan that the same paper posed “property” against
“privacy” and investigated the subtle balance between them, using author’s right to unpublished work as an
example. In and around 1990, there appeared a lot of academic papers to celebrate the hundredth anniversary and to reevaluate the broad scope of W & B’s work, among which Post’s paper is distinguished. This
paper tries to analyze the present value of W & B through the lens of Post.
* Koichiro HAYASHI
1.問題の所在
のまま不法行為を構成するものとして、Restatement
ii
iii
プライバシーの権利を初めて世に問うた、1890年 (Second)of Torts に明記された のは1977年のこと
のWarren and Brandeis 論文(Warren and Branであった。制定法においてはじめてプライバシー侵害
deis [1980]。以下、W&B論文という)は、その後米
を規定したのは、1903年のニューヨーク州法と早い
国のみならず世界各国の立法や法解釈に決定的とも
が、その対象は氏名や肖像などの不正利用に限られ
いえる影響を与えた。しかし、それが法制度として定
ていた。しかし、この法律制定後幾つかの判例を経
着するまでには、米国においてさえ半世紀から1世紀
て、連邦法として公的部門に関する1974年プライバ
にわたる期間が必要であった。
シー法が成立した。W&B論文から約80年を経たこと
iv
プライバシーの概念が、Prosser [1960] によって4種
になる(石井 [2006]) 。
の異なる保護法益(著作権の支分権に近似するので、
このような長い歴史を経て、プライバシーの概念が
以下「支分権」という)を包括したものであると再定
認知されてきたことは、裏を返せば、それほどこの論
i
義された のは1960年代である。また、それがほぼそ
文の先駆性が際立っていたというべきだろう。確か
Vol.30 No.3 (2012)
29
に、人格的利益としてのプライバシーの概念が、この
「所有権」よりは「財産権」に近いと思われるものの、
論文を嚆矢として誕生したことは疑いのない事実であ
やはり英米法に特有のニュアンスがあって邦訳しにく
ろう。しかし、この論文を金科玉条として、個人デー
い 。私も一度はこれに挑戦したが、不本意な報告に
タの保護もこの論文の射程に入っていたかのごとく考
終わらざるを得なかった(林 [2010])
。この2つのハン
えるのは、W&B論文の著者にとっても迷惑至極であ
ディキャップが、わが国でのW&B論文の理解に、大
ろう。
きな壁となっているものと思われる。
viii
なぜこのようなことを言うかといえば、わが国の法
ところで米国では、論文発表後100年目に当る1990
学界では、個人情報保護法の実効性に関する検証も
年に、多数の回顧行事や論文が出現し、歴史的論文
ないままにv、社会保障と税のための共通番号方式に
の再評価が行なわれた(Halperin [1990]、Case West-
おいて、その路線を単純に延長するのみならず、刑事
ern Reserve Law ReviewのSymposium [1991]、
罰の付加にも進もうとしているかに見えるからであ
Bezanson [1992]、Bratman [2002]、Chemerinsky
る。ここでは、W&B論文の「人格的利益」としての
[2006]など)
。大方の論者は、こうした複眼的・大局
側面だけが強調されており、この論文がもう1つの重
的分析を称えているが、中でもRobert C. Postの論文
要な要素としてプロパティ概念をも検討し、それらを
(Post [1991])は、称えるのみならずその現代的意義
(未公表著作物に対する)著作権との関連で論じてい
と残された問題点を指摘している点で出色である。そ
こで本稿では、Post論文を切り口にして、W&B論文
る点が見落とされている。
W&B論文が、しばしば説かれるように、当時台頭
の今日的意義を探ることにしたい。
vi
しつつあったイエロー・ジャーナリズム から「放っ
2.Warren and Brandeis 論文の概要
主張された、という評価(例えば、堀部 [1988])が間
まずはW&B論文に何が書いてあるのか確認してお
違っている訳ではない。この論文が書かれた歴史的背
こう。なお同論文には章や節の区分がないが、外間
景としては、まさにそのとおりであろう。それ故、著 (訳)[1961] が独自の区分と小見出しを採用している
者たちの心情からすれば、既に確立されている名誉毀
ので、本節と次節においては、それを利用させていた
損の法理に次いでプライバシーという概念に、思想や
だく。ただし翻訳文については、本稿の目的に合致す
感情といった精神的価値を保護するための拠りどころ
るよう、ある程度の修正を加えさせていただいた(修
を求めたことは、容易に想像できる。
正した場合は、その旨付記してある)
。
しかし、その権利を正当化するための説明は、著者
また、英米の著作権制度にはもともと「著作者人
ix
たちの心情や、その時代背景とは著しく異なってい
格権」の考え方はなく 、制定法で定められた著作権
る。
「未公表著作物はコモン・ローで保護されるか」 (著作財産権)のほかは、コモン・ロー上の著作権とし
という問いかけから始まり、
「公表された著作物がプ
て、主として大陸法系における「公表権」が議論され
ロパティとして保護されるのに対して、未公表著作物
てきたことを、予備知識としてお持ちいただきたい。
を保護するには、プロパティとしての保護とは別の体
2.1 「第1節 序―問題の状況」の概要
系が必要ではないのか」という論点をめぐる議論が、
第1節は、2つの分節で構成されている。第1分節は、
あまり感情を交えることなく淡々と展開されているか
コモン・ローが個人の身体と財産の保護について、時
らである。
代の変化とともに、その範囲を拡大してきたことにつ
この点の理解は、前述のとおりわが国の法学界では
いて述べている。身体については、当初他人の身体に
長く欠落しており、現在も未だ見落とされがちであるvii
対する現実の暴行が要件とされていたが、次第に恐怖
を生ぜしめる不法行為が含まれるようになった。そし
のに対して、論文発祥の地のアメリカでは十分行き渡
て現代では、騒音などに対するニューサンスや、個人
っているように思われる。アメリカの著作権法に特有
の秘密保持、名誉毀損などに拡張されている。他方、
の発想や、プロパティという概念が日常生活の中に深
財産についても、当初は土地と家畜が対象であった
く根付き、自然に修得されているからであろう。
が、現在では無体財産に対しても権利が認められてい
これに対して、コモン・ローの伝統とは縁遠いわが
る。
国において、W&B論文の論点を正確にフォローする
第2分節では、
「一人で放っておいてもらう権利」と
のは一仕事である。加えて、プロパティの語感は、
ておいてもらう」
(to be let alone)ための権利として
30
情報通信学会誌
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:Post 論文を切り口にしてWarren and Brandeis 論文を読み直す
して生成しつつある権利を、明確に規定する必要があ
差止の対象になるとしている。既に1820年に日記の
ることを論じている。その根拠は、プレスがあらゆる
公開について同種の判決があり、ここでは「プライバ
面において、
「たしなみと分別の明白な限界をふみは
シーこそが、侵害をうけた権利である」と、前述のプ
ずしつつある」
(外間訳による。ただし、プライヴァ
リンス・アルバート対ストレンジ事件の大法官コテン
シーをすべて現代的にプライバシーと読み替えるほ
ハム卿は述べている。
か、適宜句点を追加している。本節において、以下同
じ)からである。
第4分節は、以上の議論を小括して、
「書簡または
芸術を通じて表明された思想や感情に与えられる保
そこで、
「本稿は、現行法が、個人のプライバシー
護は、その意義が公開の阻止ということにある限りに
を保護するために適切に援用されうる原則を提供する
おいては、
『一人で放っておいてもらう』という、よ
かどうかを考察し、そしてもし提供するとすれば、そ
の保護の性質と範囲がどのようなものであるか、を考
り一般的な権利の一例に過ぎない」
。これらの権利は、
「所有され、または占有される」
(being owned or pos-
察しようと意図したものである」と結んでいる。
sessed)
。したがって「財産と考えることもそれなり
2.2 「第2節 コモン・ローとプライバシーの権利(1)
」
に理由がある」が、
「私的財産の権利ではなく、不可
の概要
第2節は、5つの分節で構成されている。第1分節で
侵の人格(inviolate personality)の原則である」と
する。
は、プライバシー侵害が表面的には名誉毀損と似てい
第5分節は、以上の結論を補強するため、著作物性
るが、両者は全く異なる法益を対象とするものである
のある表現は保護されるが、一般的な会話等はプライ
とする。すなわち名誉毀損にあっては、
「他人との交
バシーとして保護されない、という説に反論してい
際関係において彼に損害を与える直接的な傾向を持
る。著作物のみを守るという根拠が費やされた労働量
つ」ものだけが対象である。逆に言えば「彼の自分自
にあるとすれば、日常生活において「正しく身を処す
身についての評価や、また彼自身の感情に及ぼす効果
努力」のほうが、より大きい場合もあるので採用でき
は、訴訟原因の不可欠の要素とはならない」
。つまり
ない。結局、思想や感情が「書面によって表明される
名誉毀損による賠償は、「精神的なものであるよりは
場合、あるいは行動、会話、態度、表情などによって
むしろ物質的なものである」と述べる。
表明される場合、いずれの場合であるかを問わず、同
第2分節では、名誉毀損を持ち出さなくても、コモ
じ保護をうけるべきである。
」
「より一般的な個人の秘
ン・ローでは既に「知的芸術的財産」の公表は、プラ
密保持権―つまり人間の人格の権利―の一部として
イバシーの権利の一例として認められてきたとしてい
のプライバシーの権利をのぞいては、この種の(中
る。自分の思想や感情をどの範囲で表示すべきかを決
略)権利を基礎づける根拠は何も見当たらない」とす
定することは個人の自由であり、それは公表後の著作
る。
権(財産権)とは別物で、公表によって消滅するもの
2.3 第3節「コモン・ローとプライバシーの権利(2)」
とされてきた。この権利の根拠は、財産権のエンフォ
の概要
ースメントだという考え方もあり得るが、非公開の目
第3節では、コモン・ローの伝統に従って過去の判
的が「精神の平和または安心感」の場合には、その説
例を分析することで、前節の小活を検証している。第
明は困難である。プリンス・アルバート対ストレンジ
1分節では、以下の4つの判例がいずれも、財産権的
事件xでは、エッチングについての記述が保護の対象
根拠に加えて、黙示の契約違反・信託または信頼の
とされた。
違背を根拠にしていたことを、歴史的にトレースして
第3分節では、これを有体物に拡げて考えてみると、
xi
いる。アバネシー対ハチンソン事件(1825年)は、信
権利の本質が財産権ではないことがより鮮明になると
頼の違背。プリンス・アルバート対ストレンジ事件
して、
「ある人が宝石か骨董品のコレクションを持っ
(1849年)は、信頼または契約の違背。タック対プリ
ていて、それを秘密にしておく」場合を上げている。
ースター事件(1887年)では、
(判事たちは著作権の
xii
プリンス・アルバート対ストレンジ事件の副大法官も
存否について意見を異にしたが、それでも)契約違反
この点に気づいていて、
「
『特定の人々に手紙を書き、
を認めた。ポラード対写真会社事件(1888年) では、
あるいは特定の問題について何かを書いた』というこ
黙示の契約と信頼の違背。
とを公開することは、私的な事がらの暴露」として、
Vol.30 No.3 (2012)
xiii
第2分節では、裁判所が上記のような論理構成を採
31
ったのは、
「公の道徳、私的な正義、あるいは一般の
便宜が、そのような法則の承認を要求しているという
ことの、司法的な宣言にほかなら」ないとする。そし
て技術が進歩した現在においては、ここで止まること
はできず、法の保護を「もっと広い基礎の上に根拠づ
け」なければならない。すなわち不法行為法により、
⑤ 公開された事がらの真実性は、抗弁とはならな
い。
⑥ 公開する者の「悪意」
(malice)の欠如は、抗弁
xiv
とはならない 。
2.5 第5節「救済」の概要
第5節では、
「名誉毀損の法や文学的芸術的財産に
「最も広い意味における財産権(the right of proper-
関する法において用いられている救済が参考になる」
ty in its widest sense)―すべての占有(posses-
として、以下のように述べる。すなわち、すべての事
sion)を含み、すべての権利や特権を含み、したがっ
件において損害賠償が認められるであろうこと、それ
て不可侵の人格(inviolate personality)に対する権
に対して刑事罰は「より狭い範囲に限定することが妥
利を含む―のみが、個人の要求する保護の根拠と
当」であると思われ、差止命令は「恐らく非常に限ら
なるべき広い基盤を提供する」
。
れた種類の事件において」認められるであろうと 。
xv
第3分節は転じて、黙示の契約違反や信頼の違背と
いう法理では、
(善意の)第三者に対しての差止を求
3.Post論文の構成と意義
めることができないことを指摘する。
「商業上の秘密」
3.1 冒頭における問題提起
(trade secret)についても同様の問題があるが、い
W&B論文の発表後100年目に当る1980年には、多
ずれも差止が認められてしかるべきである。すると結
くのロー・スクールやロ−・ジャーナルがシンポジウム
局、これまでに論じてきた権利は、
「契約または特別
や特集号を組んで、彼らの業績の再評価を試みた 。
信託から生じる権利ではなく、世間一般に対する権
そして多くの追悼・再評価論文が生み出されたが、
xvi
利(rights as against the world)
」である。
「個人的
中でもPost論文(Post [1991])は冒頭で以下のよう
な書面や、その他知性または感情の産物を保護する
に問題提起しており、視点が出色である。その部分を
この原則は、プライバシーの権利で」あり、
「何も新
拙訳により、まず紹介しよう。
しい法原則を構成する必要はない」
。なぜなら、
「法律
「W&B論文の100周年に当り、この『記念碑的論
上の権利侵害を構成するとすれば、救済を求めるのに
文』が必須だとして再読する人々に与えるのは、一種
必要な条件が存在する」からである。
のショックである。この論文の権威と影響力の大きさ
2.4 第4節「プライバシーの権利の意義」の概要
からして、それが包括的な視野と反論できない論拠を
第4節は、第3節までで展開されたプライバシーの
与えてくれるものと期待しがちである。しかし、レト
権利の、意義と限界を明らかにしようとしている。そ
リックとして有力な(しばしば引用されもする)報道
こで指摘されている諸点は、以下のとおりである。
機関の無責任さへの批判の文章を除けば、この論文
① プライバシーの権利は、公のまたは一般の利益
となる事がらの公開を妨げない。
② プライバシーの権利は、次のような情況のもと
は未公表物の著作者・芸術家の法的権利に関して、
法技術的かつドライな説明に終始しているからであ
る。論文が実際に伝えているのは、コモン・ロー上の
で公開がなされる場合には、いかなる事がら
著作権は通常プロパティと観念されているが、その実
―その性質上私的なものであっても―の表
『より一般的な人格の不可侵性、すなわち人格権の一
示を禁止するものではない。その情況とは、名
種としてのプライバシーの権利』に基づくものと見る
誉毀損の法によって、ある表示が特別に許され
べき、ということである。
」
た表示(privileged communication)となるよ
うな情況である。
「実際、W&B論文の訴求点は、プライバシーをプ
ロパティから分離することであり、論文の後世への影
③ 実害がない場合には、口頭による公開によって
響力も、この点で成功していることによる面が大き
惹起されるプライバシーの侵害に対しては、法
い。ある裁判では、W&B論文の指導的役割を以下の
は、恐らく、いかなる救済も与えないであろう。
ように的確に指摘している。
『基本的に、プライバシ
④ プライバシーの権利は、当該個人による、また
ーの権利を認めるということは、財産権や契約上の権
は彼の同意に基づく、当該事実の公開によって
利が認められず、損害の内容も心理的不安でしかな
消滅する。
い場合にも、侵害を認定することを意味する』と。
」
32
情報通信学会誌
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:Post 論文を切り口にしてWarren and Brandeis 論文を読み直す
「ここには少なからざる皮肉が込められている。共
シー」と「規範的(normative)プライバシー」の両
著者は論文執筆の主たる動機の1つとして、
『何年に
面が書かれている 。前者は有名な「一人で放ってお
もわたって』膨らみ続けてきた『感情(feeling)
』
、す
いてもらう権利」で、
「思想や感情」 の侵害に対す
なわち『本人の承諾を得ないで、私人の肖像を公開
る緩衝材として、
「孤立とプライバシー」が必要だと
することに対して、法が何らかの救済を与えるべきで
いうことを根拠にしている。この延長線上に、著作物
ある』との気持ちがあったことを認めている。それ故
を公表するか否かの決定権が含まれる。
xviii
xix
彼らは、プライバシー侵害の『最も単純な例』として
一方後者の「規範的プライバシー」は、当時のジャ
『私人である限り、肖像を公開されない権利』を挙げ
ーナリズムがモラルを欠いていたことに対して、
「礼
た。しかし初期のプライバシー裁判で、
『肖像の無断
節の境界」を画定することを意味する。前者が客観
利用』を争ったものでは、
『人は利益を生む源泉とし
的な物理的空間を想定できるのに対して、後者はコ
てのプロパティであることを根拠に、自身の絵画や写
ミュニティ・メンバー間の「尊敬(respect)
」を源泉
真に対して排他権を有する』という、明確にプロパテ
とする社会規範の側面がある。したがって、個人の感
ィに基づく根拠付けが多かったのである。
」
情自体を害さない場合であっても、救済される場合が
「さらにW&B論文の70年後に、ウイリアム・プロ
ッサーがプライバシーに関する不法行為を魔法のよう
ある。
「記述的プライバシー」も必要だが、その難点は、
に4分類した際には、彼は次のように書いている。
『不
どのような場合にパーソナリティが侵害されるのかの
正利用(appropriationxvii)
』
、つまり被告が『自らの
尺度がないことである。一方、
「規範的プライバシー」
利益のために―原告の名前や(肖像や似顔などの)
の侵害態様はより明確だが、W&B論文の欠点は、そ
類似性(likeness)を勝手に利用した』という訴えは、
の両者の区分が限りなく曖昧な点にある。プライバシ
『人のアイデンティティの側面で原告の名前や類似性
ーの支分権のうち不法侵入(intrusion)と無断公表
を排他的に使用するに際し、一身専属的な権利とい
(disclosure)は「規範的プライバシー」の範疇に属
うほどには精神的なものではない』
。現在私たちが不
し、これらは「理性的(reasonable)な個人」という
正利用の不法行為と呼び、W&B論文が肖像の公表禁
規範的な判断基準で判定可能である。一方、不正利
止権とでも呼んだであろうものは、長い間プライバシ
用の態様は、W&B論文自体のように曖昧である。そ
ー的構成とプロパティ的構成の間をさまよってきたの
れはなぜか?結論を先取りすれば、不正利用がプロパ
である。
」
ティと分かち難く結びついているからである。
「このような曖昧さを残した歴史は、まさにW&B
論文が最初に意図したプライバシーとプロパティの峻
3.3 「第2節 コモン・ロー上の著作権、プロパティと
パーソナリティ」の概要
別に疑問を生じさせる。不正利用の不法行為が人格
当時のアメリカの著作権法は公表後の著作物にし
的権利とされずプロパティとされることによって、ど
か及ばず、未公表段階ではコモン・ロー上の著作権
のような差異が生ずるのだろうか? 答えは、多分、
が存在し、これはプロパティに関する権利の一種とさ
論文の画期的業績を注意深く再読することに求めら
れよう。
」
れてきた。そこでW&B論文は、これを一般化して、
「思想や感情を、どのような範囲の人と交換するかの
3.2 「第1節 プライバシーとパーソナリティ」の概要
決定権」に拡張しようとした。第2節は、その可能性
第1節では、まず上記の問題意識の下に、W&B論
を検証しているが、検討方法は、①権限の視点から
文の核心が次の一文にあるとする。
「個人的な書面や
する議論と、②パーソナリティの視点からするもの、
その他すべての個人的な作品を、窃盗や物理的な剥
の2つである。
奪から保護するというのではなく、あらゆる形式にお
「A分節 権限の視点からの議論」は①に立脚する
ける公開から保護するという原則は、真実において
ものだが、その根拠となる判例は前述のプリンス・ア
は、私的財産の原則ではなく、不可侵の人格(パー
ルバート対ストレンジ事件だけで、今日的な意義はさ
ソナリティ)の原則である」
。しかし、
「不可侵の」と
して大きくない。大法官コテンハム卿が、
「過去の判
いう概念はあいまいであり、何が侵害に当たるのかが
例に照らして差止を認めるに、さしたる困難を感じな
真の問題である。
い」とし、その根拠が信頼・信任・あるいは契約の違
W&B論文には、
「記述的(descriptive)プライバ
Vol.30 No.3 (2012)
背であったことは、既に述べた。
33
ここで、より重要なのは、プリンス・アルバートと
コモン・ロー上の著作権の根拠は、それに費やされ
ビクトリア女王がエッチングの所有者であり、プロパ
た「労働」に求められる 。この根拠付けは、文学作
xxi
ティに基づいて複製等を禁止することができる、とい
品にはぴったり当てはまるが、日常的な手紙や日記
う原則である。共著者にとっての疑問は、エッチング
(これらも保護対象である)となると、怪しくなって
そのものではなく、そのカタログの公表を差止めるこ
くる。そこでW&B論文は、投入された労働量や、推
とができるのはなぜか、であった。この点に関してコ
敲の程度や、作品の市場価値などが問題ではなく、
テンハム卿は淡々と述べている。
「複製はエッチング
「より一般的な個人の秘密保持権―つまり人間の人格
の印象を伝えるものであり、知識や情報を伝える手段
の権利―の一部としてのプライバシーの権利をのぞい
に過ぎない。その点ではカタログもまた、同じ役割を
ては、この種の(中略)権利を基礎づける根拠は何も
果たすものと考えることができる」と。
見当たらない」とする有名な文章を導いている。
果たして、そうだろうか?副大法官のブルースは、
この決定的な件においてW&B論文は、労働と権利
「カタログも彼の作品のリストとして、芸術家の思考
が比例関係にないことを暴き、その根拠を、労働では
傾向や感情や嗜好を表すものである」から、差止が認
なくオリジナリティに求めた。そしてオリジナリティ
められるとしている。この表現は、
「知的活動の成果
が創作活動の成果というより、
「創作者の心情」の問
物」という狭い範囲を越えて、より一般的な「パーソ
題であることは、ブランダイスも気づいていた。今日
ナリティの産物」を対象にしたかった、W&B論文の
では通説となった「著作権の保護対象はアイディアで
助けになった。W&B論文は、ブルースの理論付けに
はなく、その表現形式である」という法理は、既に19
乗れば、
「厳密な意味で文学的・芸術的作品に対する
世紀中庸のイギリスの判例に見られ、20世紀のアメ
権利」にとどまらず、単なるリストの公表も禁じられ
リカにも継承された。
ることを見通していた。
しかし、こうした議論の欠点は、ブルースの方法論
この観点から単なる手紙も、保護の対象であること
が明らかになった。この点において、パーソナリティ
をより柔軟にすることによって、先例を誤って解釈
こそ権限の源であるとするW&B論文は正しかった。
し、本論から外れてしまうことであった。プラット教
現に彼らが予言したように、1968年のヘミングウェイ
授が示したように(Pratt [1975])
、
「アルバート事件
の著作権裁判では、手紙やエッチングといった有体物
を報じた新聞にはエッチングのリストが載っていた。
に固定された表現ではない、日常会話もまた保護の対
判決が禁じたのはリストそのものではなく、リストの
象とされたxxiiのである。
内容であったが、大法官によれば、どちらも複製と同
3.4 「第3節 プライバシー、プロパティ、そしてパー
じ効果を持つはずのものであった」
。
ソナリティ」の概要
歴史的にも、その後のイギリスの判例が、アルバー
W&B論文は、
「コモン・ロー上の著作権の根拠が
ト事件におけるコテンハム卿の見解を踏襲したという
実はパーソナリティにあることを一旦認めさえすれ
事実はない。しかもブランダイス自身が、後にこの論
ば、プロパティによる理論付けからプライバシーによ
文での立場を変更している。彼は、インターナショナ
るそれへと移行するのは、必然である」と信じてい
ル・ニューズ・サービス対アソシエイテッド・プレス
た。しかし、法はパーソナリティをプロパティと位置
事件xxの少数意見で、プロパティに基づく差止を認め、
づけることもできるが、名誉毀損のように不法行為的
「差止の対象は、創作者のアイディアではなく、その
表現形式である」ことを明確にしている。
「B分節 パーソナリティの視点からの議論」は、
救済を与えることもできる。どちらによるかは政策の
問題で、対象の本質の問題ではない。よって基本的
問題は、法がパーソナリティを保護すべきか否かでは
前記②に立脚するもので、A文節の「あくまでもコモ
なく、法の目的に照らし、パーソナリティをどのよう
ン・ローの伝統の中からプライバシーの権利を抽出し
に概念化するかである。
たい」とする方法論は、共著者にとっては意味があっ
そこで「A分節 プロパティの権利と人格権」にお
たが、今日的意義は薄いとする。むしろW&B論文の
いては、両者の比較が詳しく展開される。コモン・ロ
革新性は、プライバシーとプロパティの相関性と、コ
ー上の著作権で保護されるのはプロパティであるか
モン・ロー上の著作権の本質を浮き彫りにした点にあ
ら、それは「譲渡可能」
(alienable)なものと考えら
るが、これはその後十分に深められたとは言えない。
れる。一方、プライバシーの権利は、一身専属的なも
34
情報通信学会誌
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:Post 論文を切り口にしてWarren and Brandeis 論文を読み直す
ので、不法行為に基づく損害賠償は被侵害者のみが
よ本題である「プライバシーとプロパティの見方」に
訴権を持ち、その訴訟を他人に譲渡することはできな
迫ろうとする。パブリシティの権利は人格を「物すな
い。
わち客体」に変化させ、価値が市場で評価される「商
コモン・ロー上の著作権によるプロパティ的保護は、
品(commodity)化する」ため、創作者の生死を越
著作物の所有者から切り離された存在であるから、著
えて存続し、創作者以外の人にも所有され使用され
作物の所有者が死亡しても消滅せず永久に存続する
る。真の創作者の人格的要素は極小化され、せいぜ
し、遺贈も州際譲渡も可能である。これに対してプラ
い「個人の利得がインセンティブとなって努力を促
イバシーの権利は、当事者が死亡すれば訴訟は消滅
す」程度のものとなる。コモン・ロー上の著作権が
するし、相続もできない。W&B論文は、これ以外に
「語の並べ方」に「商品化されたパーソナリティ」を
も重要な相違を念頭に置いていたと思われるがxxiii、イ
見出すように、これは「記述的プイラバシー」の要請
エロー・ジャーナリズムとの関連では損害賠償が問題
に対応したものとなる。
になる。
一方、W&B論文が提唱したプライバシーの権利
コモン・ロー上の著作権のレンズを介した損害賠償
は、パーソナリティを具体的な個人に紐付けしたもの
は、
「不当利得」
「機会損失」といった市場テストで判
である。したがって権利は譲渡できず、当該人格の存
定されるが、W&B論文はこれに代わって、
「心労や
命中に限られる。この権利の目的は人生の開花を促
苦痛(distress and anguish)
」といった「精神的損害」
すことで、規範的理論と「理論と権利の相互関係」
に対する補償を主張している。当時のコモン・ローの
を共に前提にしているから、
「規範的プライバシー」
伝統では、これには反対が多かったが、それでも暴行
である。ここでは個人も社会規範としての尊敬に依存
や違法投獄といった個人の尊厳や名誉が直接侵害さ
するものとされ、法の機能は、こうした規範を支持す
れた場合には、認められていた。W&B論文の特徴
ることである。
は、こうした救済を中心に据え直した点にあるが、そ
これとは対照的に、コモン・ロー上の著作権やパブ
れはパーソナリティの尊厳にとってプライバシーが必
リシティの権利は、個人の人格に依存せず、むしろ切
要だという説得に成功したことによるものであった。
り離し可能なものと観念されている。商品化された人
プロパティからプライバシーへ、という変化に含ま
格は「個人から切り離され所有される」ので、抽象化
れる法の再構築の必要性は、ジェローム・フランク判
され無差別的な存在となる。法の役割は、そのような
事が「パブリシティの権利」と名づけた不法行為法上
存在を支えることである。
の権利の出現によってxxiv、劇的に明白なものになっ
このような分析の後で、以下のような凝縮された表
た。
「不正利用」を出自とし、あるいはその代替とし
現が続く。
「プライバシーとプロパティの差として問
て、パブリシティの権利は有名人の社会的ペルソナと
題なのは、個人を法としてどう位置づけるかである。
いう信用(goodwill)を守るため、プロパティの一種
個人のアイデンティティは、特定の社会的仕組みに埋
として設計されたものであった。つまり有名人が「彼
め込まれ社会に依存せざるを得ないと見るのか、それ
のアイデンティティに基づく経済的価値」をコントロ
とも個人の自己開発力がより重要であると見るのか、
ールする権利である。
の違いである」
。
プライバシーの権利からパブリシティの権利が生ま
「もちろん、どのように洗練された社会的心理的自
れる過程は、長く混乱を伴うものであったが、最後に
我においても、アイデンティティの二面性―埋め込み
はコモン・ロー上の著作権の特質そのものを引き継ぐ
と独立性―の存在と必要性を認めるであろう。自我
ことになった。つまりパブリシティの権利を求める訴
にはこの両面があるからこそ、どちらか一方の法制化
訟は、譲渡も遺贈も州際取引も可能である。加えて、
は無益である。そこで問題は、どちらかが促進され、
「パブリシティの権利がプライバシーの権利と著しく
他が抑制されるべきかではなく、どのような環境下な
違う点は、損害の算定方法にある。前者が経済的損
ら、どちらに重点を置くべきかである。この結論は、
失を償うのに対して、後者は精神的苦痛を償うもの
無内容と思われるかもしれない。しかし不正利用の不
である。結局、パブリシティの権利は著作権と変わる
法行為法を絶え間なく苦しめる不確実性が数ある中
ところがない」
。
で、どれが問題なのかを示すためには、いささかの役
「B分節 プライバシーとプロパティ」は、いよい
Vol.30 No.3 (2012)
に立つものと信じたい」
。
35
3.5「第4節 不法行為法における不正利用」の概要
第4節は、これまでの理論的考察に代わって、不正
利用が不法行為法の実務でどのように扱われているか
を考察している。Restatement (Second) of Tortsは、
「他人の名前や類似性を自己の利益のために利用する
者は、プライバシーの侵害責任を負う」と規定する。
xxix
Harris という1910年の判決で、既にプロパティとし
ての性格付けがなされている。
仮に、日常的な手紙にも著者のオリジナリティが反
映されているから、プロパティだというなら、各人が
持つイメージの不正利用も、自然権としての著作権
の侵害だといえよう。仮に著作権が、著者の構成する
文面は単純であるが、
「それはなぜか」と問われれば、
語の順序にも及ぶとするなら、不正利用禁止は原告
たちまち明晰さを欠くことになるとして、以下の分析
に特有の顔つきを固定し特徴付ける「独自性、線、
をしている。
特徴」をも守ってくれると考えられる。このような理
「A分節 不法行為法の現状」においては、不正利
解に立てば、不法行為法制はプロパティとしての「も
用が不法行為となる理由付けとして長らく支持され
の」の限界を定める、記述的プライバシーに依拠して
てきたブラウンシュタイン説が紹介される(Bloun-
いることになる。
stein [1964])
。彼によれば、不正利用は本来的に「苦
しかし、これでは尊厳と心理的苦痛の側面を、犠
役、屈辱、格下げ」をもたらすものだから、こうした
牲にすることになる。不正利用がプロパティ寄りにな
精神的苦痛に対して訴訟を提起する権利があるのだ
ることは、保護の客体はイメージや氏名の「市場価
とする。この理由付けは、W&B論文の最初の適用例
値」になり、著作権の対象になる。ところが著作(財
だとされるPavesich v. New England Life Insurance
産)権侵害では、心理的苦痛は損害賠償の対象にな
Co.xxv で採用された。原告が、自分の写真が無断で生
らない。W&B論文は、この差を良く理解していたの
命保険の広告に利用されたとして訴えたのに対して、
で、プライバシーをプロパティから分離しようとした
ジョージア州最高裁は、特段の損害が発生しなくて
のである。Canessa判決では、プロパティで理論付け
xxvi
ながら、精神的苦痛も損害に含めているので、自己矛
も、プライバシーの侵害であると認定した 。
これは一見、規範的プライバシーを指しているかに
盾に陥っている。
見えるが、その実記述的プライバシーの用語で述べら
「B分節 不法行為法の将来」では、現代のディレ
れているので、根拠として弱い。写真の利用そのもの
ンマは次のようになるとしている。Restatement
は、近代フォト・ジャーナリズムの始祖カルティエ・
(Second) of Tortsで採用された、記述的プイラバシ
ブレッソンのように誠実な方法で使われれば、侮辱に
ーとしての不正利用は、プロパティと親和性が高い
ならない場合もある。また、使い方次第で不法行為を
が、個人の尊厳や精神的苦痛への救済とは両立しが
xxvii
では、
たい。後者を重視すれば、規範的プライバシーに依拠
ナバホ族の子供は写真を取られることは承諾したが、
せざるを得ないが、そうすると、Restatement (Sec-
それが脳性麻痺基金の募金カードに使われると知っ
ond) of Tortsの不法行為とも、そのプロパティ志向と
て、
「不運の前兆」ではないかと心配して拒否した。
も両立し難い。しかもプロパティ寄りの不正利用に近
さらに、無断で商業利用してさえ、尊厳を損なわな
似したパブリシティ権が登場したため、さらに複雑に
構成するという場合もある。Bitsie v. Walston
xxviii
いケースもある。Canessa v. J.I.Kisla
では、8人家
なっている。
族が住む家が探し当たらないので、とうとう「探し
1つの解決策は、プロパティ志向の不正利用と、尊
物」欄に広告を出したところ、不動産屋がこれを助け
厳志向のそれを分離することであるが、記述的プライ
たとして、写真付きで地方紙に報道された。不動産
バシーに依拠している限り、それも難しい。尊厳を守
屋がこれをコピーして、会社のロゴを付きで配布した
るためには、最初のRestatementにあったxxx、規範的
行為が、不正利用とされた。
これらのケースでは、ブラウンシュタインの理論は
当てはまらない。そこでCanessa事件の判決では、
プライバシーに戻る必要がある。この場合、
「理性的
個人にとって高度に不快な」といった要件を加えるこ
とになろう。
「広告的利用」という概念が確立された後は、それが
しかし次なる課題は、人格をこのような形で法制化
「通常人の感覚で」侮辱的か否かは無関係である、と
するには共同体の規範が明確でなければならないが、
判示している。ここまでくれば、
「人的な侵害」では
それは果たして可能かという疑問である。他方、パブ
なく「プロパティの侵害」に近くなる。Munden v.
リシティの権利を拡大することは、すべてを「譲渡可
36
情報通信学会誌
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:Post 論文を切り口にしてWarren and Brandeis 論文を読み直す
能」なものしていくことだが、それはマルクスの描い
た世界ではないのだろうか?
重人格者にとっては現実の問題となった。彼女は
1955年に20世紀フォックスと契約し、
「私の人生につ
現代の法制度は、一方で不正利用の前提としての
いて、これまでに公表されたもの、今後公表されるで
共同体の規範と、他方でパブリシティの前提としての
あろうもの、更には未公表のものを含め、一切の制限
市場化の、両方の中間に位置する個人を想定してい
のない権利」を譲り渡すことに同意した。フォックス
るものと考えられる。この二重構造は、共同体の規範
は「イヴの3つの顔」という映画で成功した。1989年
が市場の基準に溶け込んでいるからこそ、また私たち
の夏に治癒した彼女は最新の自伝を出版し、映画に
が活動的で進取の気性に富んだ自己に価値を見出し、
したいとする者が現れたが、フォックスが反対したた
市場が自己実現に必要な社会的条件を備えているも
め裁判になった。
のと考えるからこそ、持続可能なのである。しかし、
このケースは、プロパティが屈辱的な方法で強制さ
この構造は見かけほど安定していない。不正利用は社
れる場合があること、不正利用が共同体の規範を守
会規範に埋め込まれた人格を前提にするものであり、
ろうとするのに対して、それを破壊する場合があるこ
代わってパブリシティは社会規範から自立し変容する
とを示している。市場の秩序と共同体の規範の観点
可能性を含んだ人格を前提にしている。
でいえば、個人の全人生を客体化して譲渡可能とす
このように2つの仕組みは非常に異なる源流を持っ
るのは法にもとる。サイズモアの「死ぬ前に自分を取
ており、原告が選択できるものではないし、パブリシ
り戻したい」という訴えは、退けることができない。
ティの権利が不正利用を全く除外してしまうこともあ
この場合には、パブリシティの権利は不正利用に道を
る。例えば、自己のイメージを売り出したとすれば、
譲るべきだろう。
それは人格とは別の商品になる訳だから、後刻自己の
結局、現代の不正利用を2つに分け、一方は尊厳を、
アイデンティティが損なわれたと主張することはでき
他方はプロパティを守るものとして、原告の選択に委
ない。憲法修正1条の言論の自由についても、同じよ
ねることはできない。最終的に、このどちらかを選ば
うな専占(preemption)が認められ、氏名やイメー
ねばならない時期が来るかもしれないが、この論文は
ジがメディアの対話で使われる限りは、不正利用の不
その任に堪えないので、細部を知る人に委ねたい。こ
法行為は一時停止される。
こでは、W&B論文がコモン・ローは懐が深く、
「社
このような制約があることは、自立を前提にする社
会の要請に応える」永遠の度量を持っていると信じて
会構造と、個人への尊敬を前提にするそれとの間に、
いたことを、確認するだけで十分としよう。
システムとしての緊張関係があることを示している。
3.6 結語
市場で取引可能なプロパティという概念は、理性的
結語の部分はごく短いので、全訳しよう。
自律というよりも「意思の力」による自律を維持する
「W&B論文の偉大な貢献は、私たちの社会生活の
よう設計されている。このように考えると、プロパテ
ためには、パーソナリティの尊厳と財産的価値の両側
ィを根拠に公衆の対話が制限される場合があること
面について、法的保護が必要だということを見抜いた
に、憲法修正1条がどうして柔軟なのかを理解するこ
ことであった。彼らの貢献を受けて、今度は私たちが
とができる。
尊厳を保つために必要な前提条件が法的措置として
パブリシティの権利が不正利用の不法行為の適用
安定的か、そしてそれらが市場環境との接点を見出
を除外してしまうこともあるが、逆もまた真である。
し得るかどうか、また如何にしたら見出し得るかを、
パブリシティの権利は、個人を二分してしまう。片方
決定する番である。
に客体化されたイメージ、すなわちペルソナがあり、
W&B論文の遺産には、洞察と警告の両面が含まれ
それは所有され譲渡される価値を体現したものであ
ている。洞察は、法は社会生活を形成する強力な仕
る。もう一方に、ホームズがいう「自然の自己」があ
組みだということ。警告は、法が創出する形式が私た
り、それは新しく別のペルソナを生むものと考えられ
ちが住みたいと思うものであるかどうかを、注意して
ている。こう考えただけでも、自然の自己が創造され
いなければならないことである」
。
た自己によって耐えられないほど服従させられる可能
性が生まれる。
これは単なる可能性ではなく、サイズモアという多
Vol.30 No.3 (2012)
4.Post論文を踏まえた若干の考察
前節までで本稿の目的である「W&B論文の意義を、
37
Post論文を踏まえて再評価する」という役割は、ある
は、厳密には異なるものであるが、ここでは、
程度達成したかと思われるが、折角の機会なのでもう
個人情報保護をプライバシー保護のための手段
一歩踏み込んで、
「Post流に見ればプライバシーの保護
と捉える」
(牧田 [2010])ことまでは認めるにし
xxxi
はどうあるべきか」について、私見を述べてみたい 。
ても、それが有効な手段であることは誰も証明
4.1 W&B論文の正しい読み方
できていない。場合によっては「有害無益」な
That the individual shall have full protection in
person and in property is a principle as old as the
xxxv
手段であるかも知れない
。
4.2 プライバシーの再分類
common law; but it has been found necessary from
そこで改めて、私なりにアメリカではプライバシー
time to time to define anew the exact nature and
がどう捉えられているのかを一覧にしてみよう。現在
extent of such protection.
のアメリカの一般的な理解は、プロッサーの4分類を
これはW&B論文の冒頭にある表現だが、前節まで
xxxvi
超えた点があり
、表のようになる。なお、ここで
の説明で、共著者の問題意識として如何に重要であ
四角で囲った部分(未公表著作物を公表されないこ
るかが、再認識されたのではなかろうか。つまり
と)がW&B論文の主たる論点で、薄いグレーで色づ
W&B論文は、単に「人格権としてのプライバシー」
けした部分がPost論文の要点である。
の重要性を説いただけでなく、その財産権との微妙な
係わり合いをも解こうとしたのである。ここで財産権
との係わり合いを解く際のキーワードは、
「alienability」
(譲渡可能性)である。
ここで、以下の6点ばかりを注意事項として上げる
ことができよう。
① 不正利用とパブリシティの権利が、プイラバシ
ーの権利から派生して生まれたことは、Post論
Alienとは、かつて映画の題名になったように、
「私
文の紹介の中で指摘した。
とは違った存在」を示す言葉であり、これを経済取引
② 一方、
「私的領域への侵入」という最も古典的な
の場面で使えば、私という身体とは切り離されて、そ
プライバシー概念から派生して、宗教などの内
れ自体が商品として取引されるもの、ということにな
心の自由と共に、「性的志向や、(女性の場合)
る。つまり、経済学のいう「財貨」や、法学でいう
子供を生むかどうかを自分が決定する権利」と
「財物」がalienableなもの、ということになるxxxii
xxxiii
。
本稿の文脈でいえば、プライバシーをプロパティと
してもプライバシーが主張され、市民権を得つ
つある。これは一般に「自己決定権」
(あるいは
捉えるということは、これらがalienableだと考えると
「憲法的プライバシー」
)と呼ばれているxxxvii。
いうこと、つまり「財産権」として処理することであ
③ 上記①と②をプライバシーに含めれば、それは6
る。ここから先は日本人には分かりにくいが、
「財産
つの支分権から成る「権利の束」(bundle of
権」として処理するということは、その反面として、
rights)となり、これらを一括りで性格づけす
人格権の要素を限りなく捨象する、ということと同義
ることはできない。プロッサーにおいて既に4分
xxxiv
である
。
以上の分析を踏まえると、わが国におけるW&B論
文の読み方は、少なくとも次の3点において不適切で
あると言わざるを得ない。
① 専ら「人格権」の視点からする議論だけであり、
化した権利は、現在では6分化している、と考え
るしかない。
④ しかも上表には、
「個人データ」も「個人情報」
も登場しない。これらはプライバシー侵害のも
とになる「原材料」だと考えられるが、原材料
W&B論文のもう1つの視点であるプロパティに
からどのような侵害が発生するのか、必ずしも
ついては、全く無視するか軽視している。
因果関係が明確ではない。にもかかわらず世間
② 特に、不正利用(appropriation)とパブリシテ
では、個人データの喪失はプライバシー侵害に
ィの権利は、両者の結びつきを解く上で格好の
直結するかのごとき、誤解が蔓延しているxxxviii。
材料であるはずのところ、わが国では分析が乏
⑤ もっとも、プライバシーと個人データの漏えい
しい。
③ 「プライバシーの保護」と「個人データの保護」
38
を切り分けて論ずることは、不可能に近いのか
もしれない。Swire and Litan [1998]も、EU指令
が直線的に結び付けられてしまっている。仮に
に対する反論を展開する前に、以下のように断
百歩譲って、
「個人情報保護とプライバシー保護
っている。
「Although the actual title refers to
情報通信学会誌
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:Post 論文を切り口にしてWarren and Brandeis 論文を読み直す
表.現代アメリカにおけるプライバシーの分類
区分(支分権)
定義
○
0 自己決定権
性的志向や、(女性の場
合)子供を生むか生まな
いかを、自分が決定する
権利
人格権(基本的人 「憲法的プライバシー」
権の一種)
とも呼ばれる
① 不法侵入
他人の干渉を受けないは
ずの私的な空間に侵入さ
れないこと
人格権
他人に知られたくない事
実を公開されないこと
(未公表著作物を公表され
ないこと)
名誉毀損とは別という 人格権
のがW&B論文の立場だ
が、実際上は競合する
場面が多いかと思われ
る
② 私事の公開
類似の概念
人格権か財産権か
③ 誤解を招く公表 ある事実が公開されて、 同上
他人に誤った印象を与え
ないようにすること
④ 不正利用
人格権
他人が自己の名前や類似 コモン・ロー上の著作 人格権寄り
性を無断で利用し収益を 権(大陸法系では、公
上げることを防ぐこと
表権)
⑤ パブリシティの 有名人が、自分の氏名や わが国では「競走馬の 財産権
権利
肖像・似顔絵などを、商 パブリシティ」が争わ
品化して売り出す権利
れた
“data protection”, we have chosen to use
備考
プロッサーの4分類の1
種。
「空間的プライバシ
ー」
同上。次項と合わせて、
「情報プライバシー」
同上
同上。これも情報プラ
イバシーと言えるか?
④と混同される場合も
あるが、Post 論文は明
確に区分
[謝辞]
“European Privacy Directive” in the title of this
本稿は、情報通信学会情報知財研究会(2012年3月
book to communicate the nature of the subject
29日)
、同29回学会大会(同6月24日)での発表を経て、
matter to a wider audience,」( p.2 )
査読をいただいたものである。これらの機会を提供
⑥ さらに不可思議なのは、
「自己情報コントロール
し、またコメントを加えて下さった方々に感謝する。
権」という概念である。この権利が仮に個人間
取引にも適用されるなら、それはまさにalienableなものとして扱われること、すなわち「自
己情報が商品になること」を意味している。一
方「自己情報コントロール権」を主張するのは
大概公法学者で、人格権の一種と考えているや
xxxix
に見受けられる
。著作権法における人格権と
財産権の並存でさえ問題が多いのに、実定法上
の根拠を欠く「自己情報コントロール権」に、
このような強力な救済を与える論拠は乏しいと
xl
言わざるを得ない 。
[引用文献]
青柳武彦 [2006]『個人情報「過」保護が日本を破壊する』ソ
フトバンク新書
石井夏生利 [2006]『プライバシーの権利の史的展開』勁草
書房
新保史生 [2001]『プライバシーの権利の生成と展開』成文
堂
鈴木正朝 [2011]「
『個人情報』と『番号』
(識別子)
−法規制
の対象とすべき番号とは何か」
『月刊税務事例』43巻8
号
田村善之 [2008]「知的財産法政策学の試み」
『知的財産法
政策学』Vol.20
Vol.30 No.3 (2012)
39
林紘一郎 [2010]「Property、Property Rule、そしてProperty Theory」
『アメリカ法』
for a Right to Privacy’, “Public Law”, Summer, Sweet
and Maxwell
林紘一郎・鈴木正朝 [2008] 「情報漏洩リスクと責任―個人
情報を例として―」
『法社会学』第69号
Prosser, William [1960] ‘Privacy’, “California Law Review”,
Vol.48, No.3
堀部政男 [1988] 『プイラバシーと高度情報社会』岩波新書
Radin, Margaret Jane [1987] ‘Market-Inalienablity’, “Harvard
Law Review”, Vol.100, No.8
山本隆司 [2008]『アメリカ著作権法の基礎知識(第2版)
』
太田出版
牧田潤一朗 [2010]「アメリカのプライバシー保護法制の日
本への示唆」
『Law & Practice』No.4 also available at
http://www.lawandpractice.jp/files/yongou/makita.pdf
Bezanson, Radall [1992] ‘The Right to Privacy Revisited:
News, and Social Change, 1890-1990’, “California Law
Review”, Vol.80, No.4
Bloustein, Edward J. [1964] ‘Privacy as an Aspect of Human
Dignity: An Answer to Dean Prosser’, N.Y.U. Law
Review, Vol.39, No.4
Bratman, Benjamin [2002] ‘Brandeis and Warren’s the Right
to Privacy and the Birth of the Right to Privacy’, “Tennessee Law Review”, Vol.69, No.2
Chemerinsky, Erwin [2006-2007] ‘Rediscovering Brandeis’s
Right to Privacy’, “Brandeis Law journal”, Vol.45, No.3
Drone, Eaton S. [1879] “A Treatise on the Law of Property
in Intellectual Productions” General Books
Solove, Daniel and Mars Rotenberg [2003] “Information Privacy Law” Aspen Publishers
Swire, Peter P. and Robert E. Litan [1998] “None of Your
Business” Brookings Institution
Symposium [1991] ‘The right to Privacy one Hundred Years
Later’, “Case Western Reserve Law Review”, Vol.41,
No.4
Warren, Samuel D., and Louis D. Brandeis [1890] ‘The Right
to Privacy’, “Harvard Law Review” Vol.4, No.5 外間寛
(訳)[1961]「プライヴァシーの権利」
『法律時報』31巻
6・7号。また、戒能通孝・伊藤正己・橋本敬(編著)
[1962]『プライヴァシー研究』日本評論社、所収。
[注]
i
Prosserの4分類とは、以下のものをいう。①他人
の干渉を受けないはずの私的な空間に侵入される
こと(intrusion)
、②他人に知られたくない事実を
公表されること(public disclosure of private
facts)
、③ある事実が公表されて他人の目に誤った
印象を与えること(false light)
、④氏名や肖像な
どが他人によってその利益のために利用されるこ
と(appropriation)
(この解釈は、林 [2005]によ
る)
。
ii
Section 652A。なおRestatementとは、連邦法が
限られている米国において、州法の標準化を図る
ために学者や実務家を中心にして起草された、い
わば法案の雛形のようなもの。最終的には各州の
議会の議決を経て、州法となることが期待されて
いる。
iii
Section 652Aと注1のプロッサーの4分類を対比す
ると、あまりの近似性に驚かれるに違いない。
iv
W&B論文の影響を最狭義に捉え、論文を直接引
用してコモン・ロー上の不法行為を認めたのは、
1998年のミネソタ最高裁の判決かもしれない。少
なくともSolove and Rotenberg [2003] の共著者は、
そのような理解で同判決を収録したものと思われ
る。
v
そもそも個人情報を保護することが、プライバシ
ーを保護することにつながるか否かが検証されて
いない上に、今後は個人番号まで保護しようとし
ているかに見える(鈴木 [2011] 参照)
。
Gavison, Ruth [1980] ‘Privacy and the Limits of Law’, “The
Yale Law Journal”, Vol.89, No.3
Halperin, Sheldon W. [1990] ‘The Inviolate Personality--Warren and Brandeis after One Hundred Years: Introduction to a Symposium on the Right of Privacy’,
“Northern Illinois University Law Review”, Vol.10, No.4
Landes, William and Richard Posner [2003] “ The Economic Structure of Intellectual Property Law”, Harvard
University Press
Lessig, Lawrence [2002] ‘Privacy as Property-Part 5: Democratic Process and Nonpublic Politics’ , “Social Search”
Vol.69, No.1
McCarthy, J. Thomas [1987] “The Rights of Publicity and
Privacy” (2nd Edition), Clark Boardman Co, Ltd.
Post, Robert C. [1989] ‘The Social Foundations of Privacy:
Community and Self in the Common Law Tort’, “California Law Review” Vol.77, No.1
Post, Robert C. [1991] ‘Rereading Warren and Brandeis: Privacy, Property, and Appropriation’ “Case Western Law
Review” No.647, (also available at http://digitalcommons.law.yale.edu/fiss_papers/206)
Pratt, Walter F. [1975] ‘The Warren and Brandeis Argument
40
情報通信学会誌
PrivacyとPropertyの微妙なバランス:Post 論文を切り口にしてWarren and Brandeis 論文を読み直す
vi
有名人のゴシップなどを大きく報道することで、
販売部数の拡大を図った新聞。黄色の紙に印刷さ
れていたので、このように呼ばれた。
vii
私は、林・鈴木 [2008] 以来一貫して、個人情報(あ
るいは個人データ)の保護を、著作物(著作権)の
アナロジーで説明しているが、日本人の読者には
なかなか理解してもらえないでいる。
viii
Warren and Brandeis [1890]を邦訳した外間 [1961]
は「財産権」としており、それはそれで間違いでは
ないが、読者がproperty概念の奥深さを知らずに、
読み飛ばしてしまう危険もある。
ix
アメリカも1989年にベルヌ条約の加盟国となった
ので、その後「著作者人格権」がどのような変化を
受けたかが興味をそそる。しかし連邦法を見る限
り、視覚的・映像的著作物の人格権を除いて、さ
したる変化は見られないようである(山本 [2008]
参照)。州法においては従来から、約半数の州が
「著作者人格権」を法定している。しかし、法定の
有無によって保護の程度が異なる、との結論は導
けないようである
(Landes and Posner [2003]参照)
。
なお、後述の注xxxivを併せて参照されたい。
x
Prince Albert v. Strange, 1 McN. & G. (1849)
xi
Abernethey v. Hutchinson, 3 L.J.Ch.209 (1825)
xii
Tuck v. Priester, 19 Q.B.D. 639 (1887)
xiii
Pollard v. Photographic Co., 40 Ch. Div. 345 (1889)
xiv
アメリカ最高裁は、約70年後の New York Times
v. Sullivan, 376 U.S. 254 (1964) において、公務員
はその言説に対してプレスが「現実の悪意」をもっ
て報じたと証明しない限り、名誉毀損による損害
賠償の請求は認められないとした。
に近いように思われる。
xviii
Postは、この論文より数年前の論文で、この2分法
を提案している(Post [1989])
。コミュニタリアン
であるPostの考え方を理解する意味では重要な視
点であるが、本稿はprivacyかpropertyかという視
点に集中したいので、以下の記述では必要最小限
の言及にとどめる。
xix
外間
(訳)
による。原文は、thoughts, sentiments,
and emotions
xx
International News Service v. Associated Press,
248 US 215 (1918)
xxi
このような発想には、John Lockeの影響が強かっ
たようである。
(田村 [2008] 参照)
。しかしポスト
は、W&B論文の10年ほど前に出版された Drone
[1879] を引用している。
xxii
Estate of Hemingway v. Random House, Ind., 23
N.Y. 2d 341
xxiii
中でもPostは、プロパティなら差し止めができる
がプライバシーには認められそうにないことと、憲
法修正1条の「言論の自由」を重んじるアメリカで
は、
「個人のプライバシーを守ることが言論の自由
の制約になるとすれば、最高裁の解釈する修正1条
に敵対することになる」点を挙げている(注94)こ
とが重要だとする。
xxiv
Haelan Laboratories, Ins. v. Topps Chewing Gum,
Ins., 202 F. 2d(2d Cir. 1953)
xxv
122 Ga. 190, 50 S.E. 68 (1905)
xxvi
こうした経緯については、新保 [2001] 参照。
xxvii
85 N.M. 655, 515 P.2d 659 Ct. App. 1973)
この節は非常に短いが、示唆に富む指摘を含んで
いる。とりわけ刑事罰や差し止めの可否は、イン
ターネットの時代には、ますます重要性が増して
いる。今日的状況に対して、どう対処すべきかは
真剣に論議すべきテーマと思われるが、解決の難
しさを察知したのか、こうした分析は乏しいよう
に思われる。
xxviii 97 N.J. Super. 327, 235 A. 2d 62 (1967)
xvi
主なものとして、Case Western Reserve Law
Review、 Tennessee Law Review、 California
Law Review、Brandeis Law Journalなど。
xvii
ここでは「不正利用」と訳しておいた。根拠は (1)
権利者に無断である点では著作権法上の「公正使
用」に近いが、(2). その意思に反し、(3) 営利を目
的とする、という2点で、その対極にあるからであ
る。 Black のLaw Dictionary においても、①予算
の配分、②その割当額、などに続いて、③(不法行
為法において)不正利用、となっている。わが国で
は「不正使用」
「冒用」などの訳語が当てられること
が多いようだが、これらはむしろmisappropriation
xv
Vol.30 No.3 (2012)
xxix
153 Mo. App. 652, 134 S.W. 1076 (1910)
xxx
Restatement (First) of Torts (1939)
xxxi
ポスト氏と私的に会話したわけではないので、以
下の記述はすべて私の自己責任で書かれており、
私の前の論文(林 [2010])の続編のつもりである。
xxxii
この概念も技術進歩や社会倫理の変化とともに、
常に揺らいでいる。たとえば、
「血液を売る」とい
う行為は貧困問題と不可分で、倫理的には勧めら
れないにしても、世界中で継続されており、自分
の血液もalienableと観念されていることになる。
自分の臓器を売買の対象にすることは、倫理的に
はさらに非難されることであろうが、先進国では
禁止されても途上国では黙認される、といった事
態は避けられない。
xxxiii これに対してinalienableなものとは、自己と切り
離して商品としては取引しにくいもの、というこ
とになる。一般的にはinalienabilityは「精神的自由
41
権」に対応する権利と捉えられる面があり、それは
それで(少なくとも先進国では)正しいが、その外
延が普遍的に確定されているとも言い切れないの
である。なおラディンは、alienableとinalienableと
いう二分法では不十分で、その中間にmarketinalienableという分類が存在し得るとする(Radin
[1987])
。ちなみに彼女のいうmarket-inalienableと
は、
「無償で供与することはできるが、有償取引に
は馴染まない」もののことで、売春・児童売買・代
理出産が例とされる。
xxxiv この問題は、著作物や著作権についてより鮮明で
ある。アメリカは長らくベルヌ条約に加盟しない
ままであったが、1989年に遂に同条約の加盟国と
なった。したがって、同条約の「内国民待遇」を遵
守するという観点から、外国の著作者や著作物に
関しては、著作者人格権を尊重せざるを得ない。
しかし、内国著作物に関しては、著作者人格権は
「視覚芸術著作物」
(works of visual arts)の著作者
に対するごく限られた範囲内しか認めていない 。
こうした態度は、大陸型の著作権制度に慣れた日
本人には「奇異」以外の何者でもないが、alienable=財産権と考えるアメリカ人からすれば、当
然の帰結かもしれない。
この法律に基づいて直接プライバシー侵害の損害
賠償が請求できる訳ではない。言うまでもないが、
プライバシー侵害が不法行為(民法709条)の要件
を満たすためには、①故意または過失、②他人の
権利・利益の侵害、③損害の発生、④行為と損害
の間の因果関係、の4要素が必要である。また、プ
ライバシー侵害による損害の認容額は、さほど高
額にならない。
xxxix 個人データに関する、いわゆる「財産権理論」
(property theory)を理解しようとしている学者で
さえ、アメリカ的なproperty=alienableなもの、と
いう発想が十分には理解されていないようである。
xl
自己情報コントロール権の問題点としては、青柳
[2006] が指摘する4点が致命的かと思われる。①自
己情報コントロールは手段であって目的ではない
(目的と手段が取り違えられている)
、②コントロ
ールする人に絶対権があるとすれば保護の範囲が
広すぎる、③逆に、平穏・静謐といった旧来の概念
が保護の対象に含まれていない、④技術革新が早
く、実際上コントロールできない。
xxxv 個人データの漏示に記事罰を科すなど、個人デー
タを最大限に保護したタックスヘイブンの仕組み
が、闇金融をもたらし世界経済の不安定要因にな
っている例を想起せよ。この例に示されるように、
いわゆる「個人情報保護の過剰反応」のケースは、
ほとんど個人データ保護=プライバシー保護という
思い込みに基づくもののように思われる。なお、
EU study on the Legal analysis of a Single Market for the Information Society, New Rules for a
new Age, November 2009は、珍しく両者を明確
に区分しているが、プライバシー保護のためには
データ保護を強化せよという限りにおいて、一体
説と変わらない。
http://ec.europa.eu/information_society/newsroom
/cf/document.cfm?action=display&doc_id=833
0 と表記した「自己決定権」としてのプライバシー
xxxvi ○
は、日本人には馴染みが薄いが、アメリカでは服
装やライフスタイルはもちろん、趣味や性的嗜好
なども含んだものと考えられている。とりわけ女性
における人工妊娠中絶の選択は、対立点が少ない
大統領選挙の終盤では、必ず浮上し賛否が分かれ
る。
xxxvii Postは憲法学者でありながら、この点への言及を
避けている。おそらくは、論争の多いこの点に深
入りすると、本来の目的であるW&B論文の論評と
いう趣旨から逸脱することを避けたかったのであ
ろう。
林 紘一郎(はやし こういちろう)
1963年 東京大学法学部卒業。経済学
博士(京都大学)
、博士(法学)
(慶応
義塾大学)
。
1963年―1996年 日本電信電話公社、日
本電信電話㈱および関連会社。
1997年―2004年 慶應義塾大学メディ
ア・コミュニケーション研究所 教授。
2004年―現在 情報セキュリティ大学
院大学 教授(前学長)
著書に『インフォミュニケーションの時代』中央公論社(1984)
、
『ネットワーキングの経済学』NTT出版(1989)、『情報メデ
ィア法』東京大学出版会(2005)、『セキュリティ経営』(共
著)勁草書房(2011)ほか多数。
xxxviii しかも、わが国の個人情報保護法は行政法なので、
42
情報通信学会誌