ソニーに必要なキュービック・グランド・ストラテジー

ソニーに必要なキュービック・グランド・ストラテジー
ハードとソフトを組み合わせたデジタルミュージックプレーヤーの世界では、ソニーの
ウオークマンはアップルの iPod に攻められ続けている。これに対して、ソニーは静観の
感じはあったが、最近では反攻の態度も見えている。しかし、その効果はそれほど大きく
ないように思える。果たして、今後のソニーの逆転はあるのだろうか。
ソニーとアップルの戦い
デジタルミュージックプレイヤー
デジタルミュージックプレーヤーとは、フラッシュメモリ1や小型ハードディス(HDD)
2などの記録媒体を使って、楽曲を電子的に記録・再生する携帯機器の総称である。CD
な
どの音源から様々な楽曲をコピーしたり、音楽配信サイトから好きな楽曲をダウンロード
したりして、楽曲を電子ファイルとして取り込み、それを保存した後、ファイルを展開・
し、そして再生して楽曲を楽しむというそう製品だ。
最初に商品が登場したのは 1998 年であり、依然として比較的新しい製品である。1990
年代後半から PC の普及により、多くの PC ユーザーが楽曲を CD から吸い上げて PC に
保存するようになった時期であり、デジタル情報として音楽ファイルを取り扱う環境が整
っていた。このような状況で、音楽ファイルにポータビリティを与える機器としてデジタ
ルミュージックプレーヤーが誕生した。
発売当初、デジタルミュージックプレーヤーは、記録容量が尐なく、機器に保存できる
音楽ファイルはせいぜい CD1 枚分程度であった。それゆえ、頻繁な入れ替えが必要だっ
た。また、操作に手間がかかったり、入れ替え時の転送速度が遅かったりするなど、使い
やすい製品ではなかった。
それゆえ、発売から 2~3 年の間、デジタルミュージックプレーヤーは、デジタル製品
好きなユーザーのためのニッチ商品として位置づけられていた。このように需要が大きく
伸びないにもかかわらず、構造が簡単で、部品さえ調達できればコストをかけずに作るこ
とがでるこの機器は供給サイドから多くの企業の市場参入を見ることになった。
戦いの始まり
こうした状況で、2001 年の年末、Apple が iPod を発売すると、マーケットの状況は大
きく変化した。これまでのデジタルミュージックプレーヤーと異なり、iPod は記憶容量の
大きな HDD を採用し、多くの楽曲をコンパクトな機器の中に保存できるようになった。
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電源を切っても内容が保存される半導体メモリの一種。内容の書き換えが容易なため,記憶
装置などに多用されている。
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コンピューターの外部記憶装置として用いられる磁気ディスクのこと。記憶容量が大きい。
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“ユーザーが持っている楽曲全てを iPod にいれて持ち運ぶ”というスタイルがうけ、iPod
は市場を拡大し、マーケットリーダーへと一気に躍り出た。
さらに、デジタルミュージックプレーヤー市場は、音楽配信という楽曲の提供スタイル
によって、大きく変化する。音源から音楽ファイルを得るには、従来は CD から PC への
リッピングが中心であったが、2003 年(Apple)
、2004 年(Sony)には、ウェブ上のミュ
ージックショップを通した音楽配信のサービスが開始され、CD より安く、しかも 1 曲単
位で購入可能になったのだ。
その利便性によって、従来、難しいと考えられていた有料配信サービスのビジネスモデ
ルが普及しはじめた。その結果、Sony や Apple などのように、ハードウェアとサービス
の両分野に事業ドメインを持つ企業にとって、
“サービスとハードウェアの垂直統合”を構
築する環境が整った。
このように音楽ファイルの保存技術(ソフトウェア)
、記憶媒体の大容量化(ハードウェ
ア)
、ブロードバンド化の進展(通信技術)など技術的進歩に後押しされ、ユーザーが多く
の音楽ファイルを手軽に扱えることがでるようになったため、デジタルミュージックプレ
ーヤーは、カセットテーププレーヤー・ポータブル CD・ポータブル MD の置き換え需要
のみならず、新たな顧客を開拓し、市場を大きく伸ばすことになった。
ソニーの攻撃と変化しない現状
今日、デジタルミュージックプレーヤーの競争状況を見ると、Sony と Apple の差は歴
然としている。
Walkman は 04 年度に 85 万台、06 年度 550 万台(会社予測)を売り上げるにとどまっ
ている。これに対して、iPod は 2001 年の発売以降、順調に販売台数を伸ばし、2004 年
末に累計出荷台数 1000 万台を超え、2006 年一年間の販売台数は 4,643 万台に上った。
2006 年上期のマーケットシェアでも、例えば北米市場では、iPod がマーケットの 7 割
以上を占め、日本でも 6 割前後を維持している。これに対して、Walkman は、北米では
10%を割っており、日本でも 2 割程度を占めるにとどまっている。
デジタルミュージックプレーヤー市場は、iPod の一人勝ちともいえる現状で、その差を
埋めるのは極めて難しい状況になっているといえよう。
このような市場環境の中、
Sony および Apple 両社はさらに新たな戦略を展開している。
Sony では、サービスとハードウェアの垂直統合に合わせた組織変更を行い、音質や再生
時間を追求し機器のコンパクト化を図るなど、従来からの強みを積極的に進める戦略を行
いつつ、携帯電話やポータブルゲーム機に音楽再生機能をつけるなどして、iPod 追撃を試
みている。
一方、Apple は iPod を音楽端末としてだけでなく、動画やゲームも楽しめる機器として、
引き続き積極的な戦略を展開している。液晶ディスプレイの高輝度化や、動画再生機能の
強化のほか、音楽配信サイト(iTunes Music Store)から、動画やゲームをダウンロード
提供するなど、かつて Apple 社が 90 年代前半に失敗した携帯型コンピューターのコンセ
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プトを再び市場に問うているようにも思われる。
さらに、Sony と Apple の動きのほか、Microsoft が新た携帯音楽端末(Zune)で市場
に参入したり、Amazon.com が音楽配信事業に参入するなど、他企業の新規参入の動きも
活発になっている。また、デジタルミュージックプレーヤー機器のみならず、Walkman
や iPod のブランドを冠した携帯電話が発売されるなど、
競争は一層激しさを増している。
今日、iPod をめぐって、さまざまな挑戦的な試みがソニーを中心に展開されているが、
アップル社の牙城を崩すのは難しく、成功していないというのが、現状であろう。ソニー
は様々な戦略を展開しているが、なかなかユーザーを引き付けられない状況にいる。なぜ
か。ソニーは果たして挽回できるのか。どうすれば、ユーザーを引き付けることができる
のか。以下、これについて分析してみたい。
なぜユーザーは変化しないのか
知性的世界3上の取引コスト問題
なぜソニーは挽回できないのか。一度、覇権を取ってしまった iPod は強いのだ。このよ
うな状況では、たんに世界1への直接アプローチとして、ウォークマンの性能を良くすれ
ば、勝てるというものではない。いくら目に見える形でウォークマンのデザインや性能を
良くしても、一度 iPod を買ってしまった消費者がもしある程度満足しているならば、ウ
ォークマンに移行するのは非常に難しいだろう。
ユーザーを iPod からウォークマンへと移行させるには、目に見えない世界3の実在で
ある取引コストが発生してくるからである。すでに慣れ親しんでいる iPod からウォーク
マンに移行する場合、ユーザーに見えないコストの重みがのしかかってくるのだ。この取
引コストの重みを認識してしまうと、ユーザーは、多尐、性能が悪くても現状を維持して
しまうことは、限定合理的な人間にとっては合理的となるのだ。
この同じ現象は、携帯電話の会社を変更するときに起こるのだ。たとえ別の携帯電話会
社の提供するサービスが優れていたとしても、ユーザーにとっては現在の携帯電話会社か
ら別の会社に移行するには取引コストあるいはチェンジング・コスとが発生するのだ。た
とえば、現在の携帯電話会社の携帯を長く使用しているためにポイントを貯めているかも
しれない。また、電話料金も年を重ねるごとに低下するシステムになっているかもしれな
い。このような状態では、ユーザーが携帯電話会社を変更するには膨大なコストが発生す
ることになるのだ。
このように、ユーザーにとって現状を変更にはコストが発生するのであり、このコスト
があまりにも大きい場合、たとえ携帯電話のハードやソフトが優れていたとしても、ユー
ザーを変化させることは非常に難しい。
したがって、ソニーとってこの見えない世界3上のコストを節約するような間接アプロ
ーチ戦略を展開する必要があるだろう。
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心理的世界2上の心の現状維持バイアス問題
しかし、問題はそれだけではない。行動経済学によると、人間は心のバイアスをもって
いるのだ。
このような限定合理的な人間の心理的バイアスを描き出す価値関数を用いると、なぜ
人々はより効率的なウォークマンが出現しても、それに移行しないで、現状の iPod に留ま
るのかを説明することができる。
プロスペクト理論の価値関数によると、この行動は決して非合理な行動ではない。図よ
り、もし iPod のユーザーがある程度プラスの状態にあるならば、現状からあえて変化して
利益を出してもそれほど満足は高まらない。つまり、あまり変らないのだ。これに対して、
現状がある程度プラスであるにもかかわらず、万が一ウォークマンに移行し、尐しでもマ
イナスを感じると、満足は急速に下がることになる。この場合、現状に留まる方が明らか
に合理的となる。つまり、リスク回避的となるのだ。
図表4 価値関数と現状維持行動
v満足
プラスの状態
損失
x利益
マイナス状態
レファレンス・ポイント
不満足
これに対して、もし iPod のユーザーがある程度マイナス状態にあるならば、現状から変
化してウォークマンに移行して、さらにマイナスになったとしても、それほど不満足は高
まらない。
これに対して、
iPod のユーザーが現在ある程度マイナスであるにもかかわらず、
万が一ウォークマンに変化して、尐しでもプラスの満足をえることになると、満足は急速
に高まることになる。この場合、たとえリスクが高くとも、現状を変化しようとする方が
合理的となる。つまり、リスク愛好的となるのだ。
iPod のユーザーに関するかぎり、ユーザーが現状にある程度満足していれば、たとえソ
ニーが技術的に優れたウォークマンを販売し、ユーザーを取り巻く物理的世界1へ直接ア
プローチしても、ユーザーはウォークマンに移行しない可能性が高いのだ。それは、一見、
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非合理に見えるが、実は経済心理学的には効率的なのだ。
それゆえ、このような状況では、ソニーがいくら能力の高い製品を作り続けても、ユー
ザーを変化させることはできない可能性が強い。何よりも、iPod のユーザーが、思ったよ
りもマイナスの状態にいることを可能なかぎり意識させ、認識させるような経済心理学的
な間接アプローチ戦略が必要となるのだ。
CGS の必要性
以上のように、ソニーがアップルを逆転するには、物理的世界1への直接アプローチ戦
略として技術的な側面だけに力をいれても不十分なのだ。ユーザーにのしかかる知性的世
界3の住民である「取引コスト」を節約するような間接アプローチもまた必要となる。さ
らに、ユーザーの心的状態の世界である世界2上のバイアスも考慮した間接アプローチが
必要なのだ。何らかの形で、ユーザーに現状が思ったよりもマイナスの状況にあり、ソニ
ーの製品に移行することによってプラスの状況に導かれることを認知させる必要があるの
だ。このように、直接的アプローチ戦略だけではなく、間接アプローチを駆使することが
ソニーとっては必要なのだ。物理的世界 1 でユーザーに訴えるような直接アプローチ戦略
には限界あるということに気づく必要がある。
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時間の流れ
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