第2言語分科会 中日畳語名詞の構文に関する対照研究(譙 燕)................................80 事象の個別具体性と言語表現の具象性(井上 優).............................82 習得研究時代の対照言語学のあるべき姿について(張 「は」と「が」の意味について(張 麟声)...................85 佩霞)...................................88 慶勝).............90 中国語の動詞と日本語の動詞の意味負担量に関する比較(戦 経路表現における日中韓 3 言語の対照........................................93 ――視点と構造(朴 貞姫 崔 健) 複合辞「とたん(に)」の成立をめぐって(毛 文偉)..........................95 相づちの使用場所についての中日対照研究....................................97 ――意識と運用の両面から(楊 晶) 感動詞「あっ」の用法について(友定 賢治).................................99 「だろうではないか」と「まいではないか」について(張 興).................101 存在構文からみた動詞意味と構文意味のかかわり.............................103 ――中国語の存現構文と日本語の存現構文を手がかりに(于 康) 日本語の「に-が」構文....................................................106 ――認知言語学の立場から(趙 蓉) 中国の日本語音声教育における問題(楊 诎人)..............................109 「表す」言葉から「する」言葉へ...........................................110 ――音声コミュニケーションの日中対照のために(定延 利之) 複合名詞に見る日本語アクセントの統語機能.................................114 ――日本語と厦門語の比較研究(朱 新建) (目次へ) 80 中日畳語名詞の構文に関する対照研究 北京日本学研究センター 譙 燕 畳語名詞は中国語でも日本語でも割合多用されるものである。そのうちの多くは成分と 比べて、 「量」の増加が見られる文法的意味を持っているが、中国語では「総数指示」に傾 いているのに対して、日本語では「多数指示」に傾斜すると言える。それが構文上どのよ うに反映されるかを検討するのは本発表の目的である。 「量」の増加が見られる中日両語の畳語名詞は共に大きく「逐一指示」、「多数指示」と 「総数指示」の三類に分類されるが、中国語と日本語とでは構文上必ずしも同じであると は限らない。 中国語では畳語名詞は、形式から見ると AA 型と AABB 型の2種類が見られる。AA 型のも のは単音節の名詞成分による重複であるが、その成分と比べて文中では制限される場合が 多いが、成分の現れない位置に立つ場合も見られる。たとえば、 「人人」 「家家」 「村村」 「年 年」などはそれらの有している意味に制限されて、文中では修飾語の限定を受けないし、 目的語の位置にも立ちにくいが、単独に主語の位置に立ったり連体修飾語としてほかの名 詞を修飾したりすることができる。それに対して、成分のほうは修飾語より被修飾語とし て用いられるのが普通であり、目的語の位置にも立ちうる。 (1)今年春天,村村都推行了这个好办法。 『金光大道』 (2)人人都在笑,都在说祝福的话。 『家』 (3)家家的窗口都映出了桔黄色的灯光,小姑娘更加难过和孤独。 『轮椅上的梦』 (4)越来越多的人开始评判知识青年上山下乡的得失功过了。 『插队的故事』 (5)弟弟们的家,就是我的家。 『关于女人』 (6)岂止殷大哥维护着自己,这小小年纪的海西宾,不也知道帮助人吗?『钟鼓楼』 語の構文的機能は意味とは関わらずに働くのではなく、意味と依存しあったり影響しあ ったりするのである。中国語の AA 型畳語名詞は、「逐一指示」或いは「総数指示」に属す るものばかりで、 「あらゆる、すべての」あるいは「毎~、各~」の意味を表しているので、 どの修飾語とも組み合わせにくい性質となっている。中国語の AABB 型畳語名詞のうちでも、 「年年月月、岁岁月月、世世代代」などはこの類のものとして挙げられる。 日本語では「総数指示」のものはただ「隅隅」と「津津浦浦」の2語だけあるが、「逐 一指示」のものは「日日、月月、年年、家家、国国」など割合多く見られる。「総数指示」 あるいは「逐一指示」を表す畳語名詞の場合、文中における機能は中国語とほとんど同じ である。しかし、次の例のように数詞など修飾語の限定を受ける場合も見られる。 (7)それらの国々との関係がうまくいくだげでなく、太平洋を取り巻く国々の力を借りる ことも必要となってくる。 『激動の百年史』 (8)電車がどこまで走っても、無数にひろがる家々の灯は終りにならない。『青春の蹉跌』 「国国」「家家」などがほかの修飾語を受けうることはそれらが「逐一指示」を表すこ とができると同時に、文脈によって「多数指示」も示すことができるからである。例(7) と例(8)においては「多数指示」を表しているので、自由に修飾語の限定を受けることが可 能となるのである。 81 日本語では「多数指示」に属する畳語名詞が割合多い。そのようなものは主語、連体修 飾語、目的語の位置に立つことができる点では成分とほとんど変わらない。中国語でも AABB 型の畳語名詞には「男男女女、老老少少、花花草草、风风雨雨」など「多数指示」の ものも多く見られる。機能上、日本語のそれと同様である。 中日両語では、「人人」「村村」「家家」「日日」「年年」など同形の畳語名詞も少なくな い。中日の畳語名詞の構文的特徴をみる場合、同形語の角度から考察するのも一つの方法 であると思われる。ここでは中国語においても日本語においても比較的多く用いられる「人 人」を例にしてその違いを考える。中国語の「人人」は「みんな、すべての人、だれもが、 どの人も」などの意味を表し、 「総数性」を強く読み取ることができるが、日本語では「多 くの人たち、複数の人」の意味で、「多数性」が観察される。このような意味上の違いは、 当然構文上にも反映される。日本語では、たとえば、 (9)私はそこに座って往き来する人々を眺めている。 ✶(9) '我坐在那儿看着来来往往的人人。 のように、 「人人」が目的語として用いられているが、中国語ではそういう位置に立つこと は許されない。また、次の例のように、日本語では数量表現などの修飾を受ける場合も見 られるが、それも中国語では見られない。 (10)多くの人々があそこに立っている。 ✶(10) '许多人人站在那儿。 その原因を追究するとすれば、日本語の「人人」は「多数指示」を表すものだから、主 語、目的語、連体修飾語など多くの文法的位置に立ちうるが、中国語の「人人」は「総数 指示」のもので、主に主語と連体修飾語に立つというところに起因すると考えられる。 要するに、「多数指示」の畳語名詞と比べて、「逐一指示」と「総数指示」のものの立ち うる位置は割合限られていると見られる。 また、みとめ方の角度から考える場合、主語に立つ畳語名詞は否定文より肯定文のほう に多く用いられる。たとえば、 ✶ (11)人人都不敬佩他。 ✶ (12)人々が濡れた道路に群っていない。。 などは不自然な文となる。それも畳語名詞の意味特徴と関わっており、中日両言語ともに 見られる現象である。 82 事象の個別具体性と言語表現の具象性 国立国語研究所 井上 優 1.本発表のポイント 中国語においては,「事象の個別具体性」と「言語表現の具象性」が密接な関係にある。 日本語ではそのようなことはない。この違いは,文法カテゴリーとしてのテンスを持つ(日 本語)持たない(中国語)ということが関係している可能性がある。 2.例1:日本語の「Vしない」と中国語の“不V” 日本語の「Vしない」には, 「将来動作が実現される予定がない」ことを表す用法(例 1) と,「現在動作が実現される様子がない」ことを表す用法(例 2)がある。 (1) 今日は太郎は来ない。 (2)(待っているバスが来る様子がない) おかしいなあ。来ないなあ。(=なかなか来ないなあ,まだ来ないなあ) 中国語の“不V”にも,これに対応する二つの用法がある。しかし,中国語では,単に “不V”と言うだけでは, 「 将来動作が実現される予定がない」という意味にしかならない。 「現在動作が実現される様子がない」という意味を表すには,“还”“总也”などの副詞が 必要である(黄 2000)。 (3) a b 李さんは今日は来ない。 小李今天不来。 (4)(待っているバスが来る様子がない) a おかしいなあ。(まだ)来ないなあ。 b 怎么回事,还不来呀。 (5) a b 九歳なのに,乳歯が(なかなか)抜けない。 都九岁了,乳牙总也不掉。 これは,日本語では,「Vしない」と言うだけでも「まだ」「なかなか」という気持ちを 伴った文になりうるが,中国語では,“还”“总也”と言わないとそのような文にならない ということである。 「将来動作が実現される予定がない」というのは,話の上でそうなって いるというだけであり,事象が個別具体的な出来事として存在するわけではない。一方, 「現在動作が実現される様子がない」というのは,その場に存在する個別具体的な出来事 である。中国語でそのことを述べるには,“还”“总也”のような副詞を用いて表現の具象 性を上げ,個別具体的な出来事らしく表現することが必要なのである。 3.例2:程度副詞“很” よく知られているように,中国語では,ある属性が特定の場面における個別具体的な状 態として存在することを述べる場合は,程度副詞“很”をつける。 (6) 今天天气很好。(今日は天気がいい) “很”を用いない形容詞文は,事物の本質的属性を述べる文(例 7),あるいは,比較・ 対比にもとづく事物の分類を述べる文(例 8)になる。 83 (7) 冬天冷。(冬は寒い) (8) 这个教室大,那个教室小。(この教室は大きいが,あの教室は小さい) 日本語では, 「天気がいい」と言うだけで,特定の場面における個別具体的な状態を描写 する文になる。しかし,中国語では,程度を具体的に限定して表現の具象性を上げないと, 個別具体的な状態の描写にはならない。日本語では,事象の個別具体性と言語表現の具象 性とは別の問題だが,中国語では両者が密接に結びついているのである。 4.例3:動詞句の選択 事象の個別具体性と言語表現の具象性が連動することは,動詞句の選択にも影響を与え る。 (9)(教室で授業をしている李に学科長が教室の外から声をかける) a 李さん,ちょっと来て。 b 小李,你出来一下。 (9)は,相手に教室から廊下に出てくるよう指示する場面である。日本語の場合,この場 面では「来て」と言えばよく,わざわざ「出てきて」と言う必要はない(「出てきて」と言 うとすれば,相手が教室に閉じこもっているような場合である)。一方,中国語では,この 場面で用いる表現としては, “来”よりも“出来”の方が自然である(“来一下”と言うと, 「私の後についてきて」という意味になる)。やはり,「教室から外に出る」という動作を その場での個別具体的な出来事として述べようとすると, 「教室から外へ出る」ことを具体 的に表す“出来”を用いることになるのである。 5.例4:文末助詞“了” 「李さんは昨日王先生の家で餃子をつくった」ということを,中国語では,状況変化を 表す文末助詞“了”を用いて(10)のように言う。 (10) 小李昨天在王老师家包饺子了。 しかし, 「李さんは台所で餃子をつくった」ということを文末助詞“了”を用いて次のよ うに言うことはできない(木村 2005)。 (11) *小李在厨房包饺子了。 これは, “在厨房包饺子”と言うと, 「台所で餃子をつくっている」状況がイメージされ, “了”の状況変化という意味と不整合が生ずるからである。 “厨房”はまさに調理をするた めの場所である。そのため,動作の場所を“在厨房”と具体的に限定した上で“包饺子” と言うと,どうしても調理をしている具体的な状況がイメージされるのだと思われる。 6.提案:「内骨格」型言語と「外骨格」型言語 中国語において事象の個別具体性と言語表現の具象性が連動することは,次のように説 明できる。 事象を個別具体的な出来事として述べるということは,その事象を時間軸の具体的な位 置に定位するということである。文法カテゴリーとしてのテンスを持つ(=述語自体に時 間の要素が組み込まれている)日本語は,構造上事象を個別具体的な出来事として述べる ようになっており,事態を個別具体的な出来事として述べるために特別な手段をとる必要 84 はない。時間軸というものを事象に個別具体性を与える骨格としてとらえるならば,日本 語は「内骨格」型の言語と言うことができる。 一方,中国語は,文法カテゴリーとしてのテンスを持たず,述語自体に時間の要素が組 み込まれていない。このような言語において,事象を個別具体的な出来事として述べるに は,言語表現の具象性を上げて,個別具体的な出来事らしく述べることが必要となる。い わば外から個別具体性を付与して,事象を個別具体的な出来事として述べるのであり,内 骨格型の日本語に対し,中国語は「外骨格」型の言語と言うことができる。 「内骨格型」 「外骨格型」という観点が言語類型論的にどの程度有効な観点か,今後検討 する価値がある。 [付記]本論は,井上(2006)の後半部分に若干の修正を加えたものである。また,本論は, 平成 14-17 年度科学研究費補助金(基盤研究(B)「東アジア諸語のカテゴリー化 と文法化に関する対照研究―多様性から普遍性へ―」 (代表者:生越直樹,課題番 号 14310221)でおこなった研究の成果を含む。 引用文献 井上 優(2003)「文接続の比較対照-日本語と中国語-」『言語』32 巻 3 号,大修館書店 井上 優(2006)「日本語から見た中国語」『日本語学』25 巻 3 号,明治書院 木村 英樹(2005)「“持続”“完了”の視点を超えて-中国語(北方官話)の「アスペクト」 的情況に関する一考察」『日本語文法学会第6回大会発表予稿集』 黄 麗華(2000)「否定表現の日中対照―「まだVしない」と「还不V」―」 『日本と中国 こ とばの梯:佐治圭三教授古希記念論文集』くろしお出版 85 習得研究時代の対照言語学のあるべき姿について 大阪府立大学人間社会学部 1 張 麟声 はじめに 言語教育のための研究は,普通大まかに,対照分析,誤用分析,習得研究の3段階に分 けられている。対照言語学は対照分析の時代には盛んであったが,誤用分析の時代を経て, 習得研究の時代に入った今では,その存立の意義が問われるようになっている。本発表で は,習得研究の時代においても,対照言語学は相変わらず十分に価値を有する学問分野で あることを論じ,またそのあるべき姿について,描いてみる。 2 言語教育のための研究の諸段階と対照言語学――英米の事情を中心に 2-1 対照分析の時代:目標言語と学習者の母語の対応非対応関係を研究する時代(20 世 紀 40 年代~60 年代) C.C.Fries,1945,“Teaching and Learning English as a foreign Language” Ann Arbor,MI∶University of Michigan Press. Lado,R.,1957,“Linguistics across culture”Ann Arbor,MI∶University of Michigan Press ○「「SLA 研究」という分野が(今日のように)確立する以前の 1940 年代から 60 年代に かけて,多くの研究者は二つの言語を体系的に比較する「対照分析(CA 研究)を行っ た。彼らは,特定の母語の目標言語との類似点を慎重に吟味することにより,よき 効果的な教授法を案出できる,と確信していた。当時,応用言語学界をリードして いた C.C.Fries は,「もっとも能率的な教材は,学習しようとする言語の科学的記述 と,学習者の母語の科学的記述とを慎重に比較した結果に基づく」(1945:9)と述べ ている。このような陳述は,多くの対照分析研究に大きな刺激を与えた。 対照分析研究に基づく言語教材が一層効果を上げると考えられる理由について, Fries のかつての教え子であり,後にミシガン大学で同僚となった Lado(1957)は, 次のように簡潔に表現している: 個々の外国語学習者は――特定の目標言語を話そうとしたり,その文化圏で行動 しようとする際には能動的に,また母語話者が使用している言語と享受している 文化を把握・理解しようとする際には受動的に――自分の言語の形式や意味と文 化のみならず,その言語の形式や意味とその文化の分布状態までをも,外国の言 語や文化に転移させがちである。(Gass and Selinker 1983:1 に所収)」 < Diane Larsen-Freeman,Michael H.long 著(1991),牧野高吉等译(1984):53> 2-2 誤用分析の時代:学習者の誤用を研究する時代(20 世紀 70 年代~80 年代) Corder,S.P.,1967,The significance of Learners’errors. International Review of Applied Linguistics , 5.161-170 ○「Corder はこの論文で次のように主張している:「研究者は,学習者が犯した誤り を分類することにより,L2 学習者の学習ストラテジーを推察することができ,か つ SLA プロセスに関して数多くのことを学ぶことができる。」このような主張は, 誤りの分類法に大きな刺激を与えた。」<牧野高吉等译(1984):59> 86 「Wardhaugh(1970)は<略>対照分析仮説の強い解釈と弱い解釈を区別する必要がある と提案している。強い解釈は L1と L2との既存の対照分析によって,L2 学習で 犯される誤りの予測と関連している。また,すでに検討してきたように,この予 測は必ずしも証明されるとは限らない。他方弱い解釈では,研究者が学習者の誤 りから始め,これら二つの言語の類似点と相違点とを指摘することにより,少な くとも一部の誤りを説明することができる。このように,対照分析仮説は,その 妥当性が立証されていないかもしれないが,ある実験が行われた後で結果を説明 する力があると強調された。この説明そのものは,誤りの原因を探求する幅広い 研究,即ち誤り研究において,きわめて有効であった。」 < Diane Larsen-Freeman,Michael H.long 著(1991),牧野 高吉等译(1984):53> 2-3 習得研究の時代:学習者の習得のプロセスを研究する時代(20 世紀 80 年代~現在) Sellinker, L .,1972, Interlanguage . International Review of Applied Linguistics , 10.209-231 ○ 主な研究のアプローチ ――いずれも対照言語学が求められていない。 A:生得的アプローチ:生得的な言語能力が第二言語の習得に作用していると考え, その働き方についてさまざまな仮説を立てて研究する。 B:相互交流ア プローチ: 習得を促進するのは意味交渉(negotiation of meaning) をすることに理解可能になったインプットが大切だと考え,その意味交渉の理想 的なあり方を模索する。 C:認知的アプローチ:認知心理学の理論に基づき,認知のメカニズムで第二言語習 得を説明しようとする。 D:新しい認知的アプローチ:コネクショニスト・モデル;競合モデルなど。(小柳か おる(2004)を参照) 3 習得研究時代の対照言語学のあるべき姿について 対照分析時代に生まれたとされる対照言語学だが,実際は必ずしも言語教育を促進する ためだけに行われてきたものではなく,今後も次の数種類の異なる立場から研究を続ける べきだと考えられる。 3-1 ○ 言語教育のための対照言語学 対照研究をして,その成果を教授上のポイントを考えたり,母語転移の規則性を 考えたりするときに参考情報として活用する。 例:張麟声(1992) 「本を買ってくる」の「てくる」は中 「昨日山登りをしてきた」 国語では表現されない。 ○ 研究テーマを,2言語使用者が気づきにくいたいへん微妙な文法,語彙などの相 違に決めるか,または学習者の誤用の実態を観察して決めるべきである。 3-2 ○ 個別言語学を助けるための対照言語学 対照研究という手法を用いて,一つの言語を研究する際に見つからない何かを発 見する。 例:張威(1998)日本語の自動詞がある条件の下で「可能」の意味を表すことを発見。 例:張麟声(2004)「景頗語(Kachin)の主題マーカーについて」 87 進んだ日本語の枠 組みで景頗語を記述。 (1) (2) Ngai go 1 私 は 兄 lam 2 Ngai この (3) 1 Sha ni Nang あなた shi shat を 1 2 la khum 腰掛け hpe 2 は (助動詞) 1 mung だれ 1 sha na tha 2 夕 上 n kam sai. 知っている (文末詞)。 shat 1 go 1 食 は tung ない たい (文末詞) chue も 2 1 n 1 ngai. だ。 ga dai と 3 nga 1 rai2 1 hte 食 かれ を/に ○ hpe go こと 2 昼 (4) ka 1 phu 1 jang 1 ? ? go 1 , 座る (仮定) は sha 1 tun 2 kau 2 u1. 座らせ (助動) (文末詞) A 言語の研究において開発した理論を B 言語の研究に応用するか,確実に新しい 現象を見つけなければならない。ただここは同じ,ここは違うという結論だけで は意味をなさない。 3-3 ○ 類型論志向の対照言語学 対照研究を行い,その成果をある言語の総合的イメージを捉えるのに生かす。 A:池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』 日本語は<出来事全体>,英語は 出来事に関与する<個体>,とりわけ<動作主>としての<人間>に注目する。 B:金田一春彦(1988)『日本語 上・下』 発音,語彙,表記法,文法から見た日本語 など。 ○ 大家のする神業で,軽々しく試すものではない。もっとも部分的なものならやっ てもよいかも。 4 終わりに 新時代の対照言語学は上述の3種類に分けて進めたほうがよいように思われるが,研究 結果の利用はそれぞれの種類に限ったものではない。 対照研究を行う場合はしっかり目的を立てて行うべきであり,日本語だけの記述研究を する力がないから,対照研究を始めるのは軽率である。 参考文献: 池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館書店 井上優(2002)「「言語の対照研究」の役割と意義」国立国語研究所編集発行『対照研究と 日本語教育』 Diane Larsen-Freeman,Michael H.long著(1991),牧野高吉等译(1984)『第2言語の習得』 鷹書房弓プレス 金田一春彦(1988)『日本語 上・下』 岩波書店 小柳かおる(2004)『日本語教師のための新しい言語習得概論』 スリーエーネットワーク 張 威(1998)『結果可能表現の研究―日本語・中国語対照研究の立場から』くろしお出版 張麟声(1992)「「クル・イク」フオームに見る日本語の性格――中国語と比較して――」文 化言語学編集委員会編『応用言語学講座4 知と情意の言語学』 明治書院, 張麟声(2004)「景頗語(Kachin)の主題マーカーについて」益岡隆志編『主題の対照』くろ しお出版 88 日本語の格助詞と連体助詞との複合形式から考えて 1 湖南大学 張 佩霞 日本語では格助詞と連体助詞の複合形式に「での」、「への」、「との」、「からの」、「まで の」、「よりの」がある。然るに、同じ格助詞「が」、「を」、「に」と連体助詞から作る組み 合わせの「がの」、「をの」、「にの」の形は姿を見せない。一方、話し言葉では、格助詞の 無形化ができるのは「が」、 「を」、 「に」で、提題のとき、 「は」と一緒に現れないのも「が」、 「を」であり、 「に」は一部省略可能である。もちろん、この場合、他の格助詞の省略は不 可である。また、格助詞に副助詞が後続されたときは、「が」格は無理であるが、「を」格 や他の格助詞は副助詞と併用される。さらに、いわゆる分裂文の述部に現れない格助詞も この「が」、「を」である。これらの現象ははたして偶然だろうか。もし偶然でなければ、 言葉のどういった内部システムを反映しているのだろうか。本稿では、主に認知言語学的 アプローチを用いて、これらの問題を取り上げたいと考える。 以下は本稿の立場である。 Ⅰ格助詞は名詞類が文の中で述語の動詞や形容詞に対して取る関係のあり方を表す文 法的カテゴリである。日本語の名詞の格形式には、ガ格・ヲ格・ニ格・ヘ格・デ格・ト格・ カラ格・マデ格・ヨリ格・ゼロ格という 10 の種類がある。 Ⅱ格助詞に関しては、これまでに上位の格と下位の格、強展叙の格助詞と弱展叙の格助 詞、文法的格と意味的格、基本的な格と非基本的な格、共演成分と状況成分、必須格と任 意格、アーギュメントとそうでないもの、といったように、様々な分類が展開されている。 しかし、用語こそ違え、基本的な考え方は大同小異のところが多い。総じて言えば、いず れも、述語にとって名詞句が必須のものなのかどうかと関係がある。本稿では、各学説を 元に、日本語の格階層を次のように立てる。 ガ格>ヲ格>ニ格>ヘ格>ト格>デ格・カラ格・マデ格・ヨリ格・ゼロ格 上記の階層は日本語の格成分に対する述語の必須度合いと格成分の振る舞いを反映し 「ヘ格」、 ていると考えてよかろう。そして、そのうちの「ガ格」、 「ヲ格」、 「ニ格」 (一部)2 、 「ト格」 (一部)をまとめて、 「補格」と呼び、他の格形式を「状況格」と呼ぶ。 「補格助詞」 がつく成分は「補格的成分」、「状況格助詞」がつく成分は「状況格的成分」と呼ぶ。 本稿では、上記の立場に立ち、以下の二つの仮説を立て、連用関係や連体関係における 格助詞の顕現を体系的に記述したいと考える。 Ⅰある動詞がどんな格成分を補格成分に持っているのか、スキーマが出来ている。 Ⅱある名詞がどんな動詞と結ぶのか、スキーマが出来ている。 結論を言うと、補格助詞の無形化から言えることは、動詞に、どういった補格が必要と しているのかに関して、人々が認識しているだけではなく、さらに、 「君、何、食べた」と 聞かれたとき、「君」のあとに「ガ」、「何」の後に「ヲ」、というふうに、それぞれ違う補 格助詞をあてることができるということもその言語の母語話者には備わっている能力であ 1 本研究は湖南省社会科学基金の一般項目(05ZC53)である。 「二格」と「ト格」は意味役割によって、述語の必須とするものとそうでないものに分けられる。よ って、一部の「ニ格」と一部の「ト格」は補格、後のは「状況格」と見なす。 2 89 る。そして、人々は「NP 1 のNP 2 」という格助詞の無形化の状況では、二つの名詞の意 味特徴や前後の文脈でその二つの名詞の間に介在する動詞「V」を復元することができる。 復元できなければ、例えば、 「花子の首飾り」は一体「花子の所有している首飾り」か、 「花 子の製作した首飾り」か、若しくは「花子の買いたがっている首飾り」か、というような 「R関係」が分からなければ、コミュニケーションは成功しなくなる。 張(2002)は「NP 1 のNP 2 」に格関係が内包されているという説を取り、二つの名詞 の間に含意される用言の復元容易度の階層をまとめてみたが、今回の考察を通して、また 違う角度から、「NP 1 のNP 2 」の二つの名詞の間に「格関係」が内包されているという ことを裏付けた。そして、これまでに、「NP 1 のNP 2 」における格助詞の顕現と連用関 係の時の格助詞の顕現と一緒に考えあわせる研究は管見の限りでは、見当たらなかったが 3 、 今回の試みは連体関係と連用関係との整合性を考えての研究に少しでも貢献できたならば ありがたい。 最後に、連体関係の格助詞の無形化と連用関係の格助詞の無形化の細部にわたる考察は 紙幅の関係で、今回は取り扱えなかったが、今後の研究テーマとしたい。 参考文献 庵功雄ほか(2000)『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』 スリーエーネットワーク 石綿敏雄(1999)『現代言語理論と格』ひつじ書房 内間直仁(1990)『沖縄言語と共同体』 社会評論社 小矢野哲夫(1989)「名詞と格」『講座日本語と日本語教育・第 4 巻・日本語の文法・文体 (上)』明治書院 片岡明ほか(2000)「動詞型連体修飾表現の“N 1 のN 2 ”への言い換え」『自然言語処理』 Vol.7, No.4, pp.79-98 高野陽太郎編(1995)『認知心理学 2 記憶』東京大学出版会 張佩霞(1998)『中国語の「的」と日本語の「の」』千葉大学博士論文 張佩霞(2002)「含意される格関係から見る日本語の連体助詞「の」」『言語文化論叢』 千葉大学外国語センター 陳訪沢(2001)「日本語の格助詞の無形化及びその原因」『現代外語』 西田佑司(2003) 『日本語名詞句の意味論と語用論―指示的名詞句と非指示的名詞句―』ひ つじ書房 仁田義雄ほか(2000)『日本語の文法1 文の骨格』岩波書店 益岡隆志(2000)『日本語文法の諸相』くろしお出版 村木新次郎(1991)『日本語動詞の諸相』ひつじ書房 山梨正明(1993)「格の複合スキーマモデル」『日本語の格をめぐって』くろしお出版 国立国語研究所著(1997)『日本語における表層格と深層格の対応関係』 国立国語研究所報告(113)三省堂 3 最も、「連体格」と「連用格」に関する北京大学彭広陸氏のシリーズの論文があり、「連体格」と「連用 格」の対立が見られることや、前者はほとんど後者から派生してきたものだと指摘されている。 90 中国語の動詞と日本語の動詞の意味負担量に関する比較 鹿児島国際大学 戦 慶勝 1.はじめに 辞書の記述的意味においては“吃”と「食べる」と eat が対等の意味を担うものとして 扱われているが、三者の意味負担量はけっして均等な関係にあるのではない。中国語の“吃” と日本語の「食べる」はものをかんで飲み込むという意味を担い、「かむ」「かまない」と いう点において事象を区別する基準が設けられ、かまずに飲み込むのなら“喝”や「飲む」 のような動詞で弁別的意味を際立たせるのだが、eat は「かむ」 「かまない」というところ に焦点を置かず、「食べ物を飲み込む」というところに焦点を置いているようである。eat the soup first.のような表現を中国語や日本語に訳す場合、辞書の記述的意味において eat と対等関係にあるはずの“吃”や「食べる」で訳すことは好ましくなく、“喝”や「飲 む」で訳すのがふつうである。 2.第二言語習得における単語の意味負担量について “吃”と「食べる」と eat の意味領域は通じ合う部分が大きいとはいえ、それがぴった りと重なり合うのではない。ずれている部分は意味負担量の違いが生じる原因である。異 なる言語間の動詞は意味負担量が違えば、動詞が統括しうる補充成分の種類なども違って くる。中国語を第一言語とする人が第一言語の経験にもとづいて次のような日本語の表現 をすることがある。 △手が破れた。 △ズボンが痩せた。 (手が怪我をした) “裤子瘦了” (ズボン このような非日本語的な表現は中国語の“手破了” がきつくなった)といった文の中の動詞をそのまま日本語の動詞に置き換えたことによる 誤用だと推測できる。いわば、第一言語の干渉によるものである。しかし、なぜ中国語の “破”や“瘦”などのような動詞は“手”や“裤子”などのような名詞と共起できるのに、 日本語の「破れる」や「痩せる」などの動詞は「手」や「ズボン」などの名詞と共起でき ないか。その原因は辞書の記述的意味において対等の関係にあるとされる“破”と「破れ る」、 “瘦”と「痩せる」の意味負担量が異なっていることに求められよう。中国語の“破” は「破れる」のような意味を担っていると同時に、 「傷ができる」という意味も担っている。 “瘦”は「痩せる」という概念だけではなく、 「着るものが小さく窮屈である」という概念 を表す場合にも用いられる。意味負担量の違いは共起関係の違いをもたらしたのである。 これと同じように日本語を第一言語とする人が第一言語の経験の干渉が原因で次のような 中国語の表現をすることもある。 △ 我休息学校。 “休息”は辞書の記述的意味においては日本語の「休む」と対等の関係にあるとされてい るが、実際の文において互いの要求する意味的条件と統語的条件が異なっている。 “我休息 学校。”のような中国語の文は動詞の“休息”と後続の“学校”は共起できないから、適切 なものとは言いがたい。“我休息学校。”のような誤用はおそらく日本語の「学校を休む。」 という日本語的な発想にもとづいたものと考えられ、 “休息”と「休む」の意味負担量の違 91 いによるものである。 3.ミクロの視点からの比較 ある社会共同体にとって日常生活と密接な関係のある現象ほど、それをきめ細かに具体 的に描写する傾向がある。たとえば、中華料理は火を通して作るのが基本であるため、 「火 を通す」の下位概念を表すものとして次のようなものがあげられる。 焯[chāo]:料理の材料をさっとゆでる料理法。 煨[wēi]:とろ火でゆっくり煮込む料理法。 熘[liū]:油で炒めてからあんをかける料理法。 炒[chǎo]:油で炒める料理法。 炸[zhá]:油で揚げる料理法と湯通しをする料理法。 煲[bāo]:(広東の方言)円筒形の深い鍋を用いてとろ火で煮込む料理法。 煸[biān]:下ごしらえのために材料を油で軽く炒めておくこと。 炖[dùn]:炒めてからとろ火で煮込む料理法。 炝[qiàng]:①調味料などをさっと炒めて香りを出すこと(たとえば、 “ 用葱和姜炝锅”)。 ②材料を手早くゆでて調味料であえる料理法。 烀[hū]:鍋に水を入れてふたをして煮るような料理法。 烤[kǎo]:材料を焼いたりあぶったりする料理法。 (南部方言)蒸し焼きする料理法。 焗 [jú]: 烙[lào]:こねた小麦粉を鍋やフライパンなどで焼く料理法。 焖[mèn]:しっかりふたをし、長時間にとろ火で煮込む料理法。 焙[bèi]:鍋の下から弱い火であぶって乾燥させること。 熥 [tēng]:冷めた食べ物をもう一度加熱すること。 爆[bào]:熱湯で素早く湯がいたり高温の油でさっと炒めたりする料理法。 爊 [āo]:とろ火で煮ること。 熬[āo]:油を入れずに煮込む料理法。 煮[zhǔ]:材料を水や汁の中に入れて熱を通す料理法。 煎[jiān]:鍋に少量の油を入れて焼くこと。 蒸[zhēng]:蒸気をあてて加熱する料理法。 摊[tān]:材料を薄くのばして焼く料理法。 涮[shuàn]:材料を沸き立った湯に入れてさっと湯がく料理法。 烹[pēng]:油でさっと炒め調味料を加え手早くかき混ぜる料理法。 烩[huì]:①材料を炒めた後、とろみをつける料理法。②ご飯やマントウなどと具を混 ぜて炊き込む料理法。 単語レベルにおいては日本語にはこのような下位概念を表す動詞と対等の意味を担うもの が見られず、これらの下位概念を表す動詞の意味を日本語に訳すのならば、説明つきの次 元が異なる表現で言うか、或いは下位概念としての部分的特徴を捨象して上位概念を表す もので対応させるしかない。上位概念を表すもので対応させるのならば、中国語の動詞と 比べて日本語の動詞の意味は抽象的になるため、意味負担量の不均衡が生じるのである。 抽象的な意味を表す動詞は物事の本質的、一般的な面だけをとりあげるため、ある程度の 92 包容性があり、他の成分と関係を結ぶ場合、制限が少なく共起可能な範囲が広いと考えら れ、具体的な意味を表す動詞は物事の細部にわたるため、他の成分と関係を結ぶ場合、制 限が多く共起可能範囲が狭いと考えられる。日本語の「煮る」「炒める」「焼く」「ゆでる」 「蒸す」などに含まれている概念は「火を通す」の下位概念であることには間違いないが、 上記の中国語の動詞と比べて、その意味負担量がやはり大きく、補充成分との共起可能な 範囲が相対的に広い。このことから、加熱する料理法を表す動詞の意味負担量について、 中国語のほうが相対的に少なく、その結果として他の成分との共起可能な範囲が狭いとい う結論が得られるのである。 4.むすび 意味負担量の対照分析は地味な作業が重ねられるべきだろうが、そのような対照研究は 単語の意味特徴などを明らかにするのに有効な手段となるように思われる。だいたいのと ころ、日本語の動詞は上位概念を表す傾向が強く、その意味負担量が大きいと言える。意 味負担量が大きければ、当然のことながら、抽象度も高くなる。 93 経路表現における日中韓 3 言語の対照 ――視点と構造 北京語言大学 朴 貞姫 崔 健 0.はじめに 移動という事象には、移動、移動物、移動空間(起点・経路・着点)、移動標識、移動 様態などの要素が関わっている。本稿では、移動空間の一つである経路表現について、認 知言語学のアプローチに則って、日中韓 3 言語の経路認知の仕方と概念範疇およびその表 現構造を対照して構造に対する新たな意味づけを試み、経路表現における3言語の共通点 と相違点を明らかにすることを目的とする。経路表現構造として、日本語では「NL+ を」、 中国語では“从+NL”、韓国語では“NL+・ ro”が用いられるが、いずれにも他の概 念構造を援用したものである。例えば、 「を」は目的格であり、 “从”は起点格であり、 “・ ro” は道具格である。したがって、3言語の認知主体は、移動経路という客観事象の捉え方に おいても視点を異にし、異なる認知パターンで表現する。 1.経路の基本概念 空間経路とは、空間移動における移動物がある位置(A)から他の位置(B)へ移動す る際に経過する空間である。まず、次の例を見てみよう。 A:a.大橋を渡っていく b.公園を通る c.車が大通りを走る 从大桥上走过去 대교로(ro)건너가다 从公园里穿过去 공원으로(ro) 지나가다 *汽车从大道上行驶 cf汽车在大道上行驶 B:a.垣根を乗り越える 从围墙上跨过去 자동차가 큰길로(ro) 질주하다 cf자동차가 큰길을(reul) 질주하다 ?담장으로(ro)/ 뛰어넘어가다 cf담장을(reul)/ 뛰어넘어가다 b.店の裏口を出る 从商店后门出来 상점 뒤문으로(ro) 나오다 c.公園の前を通りる 从公园前面开过去 공원 앞으로(ro) 지나가다 上記のAグループは「軌道」の意味の経路であり、Bグループは「境界」の意味の経由 点である。経路と認知されるイメージスキーマは、「軌道」の意味の[線状]の経路と「境 界」の意味[点状]の経由点に分けられ、同じ経路標識が用いられる(A-c,fとB-a,dに示す ように、言語によって表現もやや異なっているものの)。上記の事例から我々は、経路と 認知される空間の意味特徴を次のような4つにまとめることができる。 ア.経路は、線的筋道が前提となっている移動の軌道である。(A-a,b,c) イ.経路は、連続的移動中の経過点である。(B-c) ウ.経路は、空間と空間を隔てる境界線である。(B-a,b) エ.経路の移動方向は1方向的である。(A-a~c,B-a~c) 2.日中韓3言語の経路表現の特徴 経路のイメージスキーマは言語を問わず、普遍性を持っており、いずれの言語も「線状」 の「軌道」と「点状」の「経由点」を経路の射程に入れ、同じ構造を用いて表現する。し かし、同じ客観事実であっても、認知の仕方や視点によって表現構造の選び方に相違点が 94 見られる。 2.1 経路の認知パターン 経路概念のイメージスキーマは、1)「経由点=経路」、2)「軌道/軌跡=経路」であ る。「経由点」経路のイメージスキーマは、一般に[+境界]であるが、[軌道/軌跡]経路の イメージスキーマは[±境界]である。なお、この二つの経路のイメージは、一般に次のよ うに「点状」 「線状」 「面状」 「立体状」という空間認知の4つの形状と関わり合って認知さ れ、表現されるのである。 4つの空間形状と関わる「経路」の特徴 ⅰ.「点状」と関わる経路:ある空間から他の空間へ移動する際の境界(経由点)(B-c) ⅱ.「線状」と関わる経路:移動に必要な軌道(A-a,c) ⅲ.「面状」と関わる経路:移動する際に経由する場所(軌道)(A-b) ⅳ.「立体状」と関わる経路:「立体状」空間の内と外を隔てる境界(経由点)(B-a,b) 注:「立体状」の空間を貫く場合は「軌道」 2.2 日中韓経路表現における統語規則: 1) 「線状」経路は、経路の典型的カテゴリーである。したがって、そのNLは通常移動 の軌道をイメージする「道、橋、川」の種の名詞からなっている。ただし、具体的な表現 においては、日中韓3言語にやや相違点も見られている。A-a,c に示すように、日本語と 韓国語では、「線状」と関わる軌道の NL は、一般に「中、上」などの方位詞と結合しない のが普通でるが、中国語では “中、里、上”などの方位詞と結合して用いられるのが普通 である。 2)通常、 「モノ名詞」、 「モノ名詞+方位名詞」は「点状」経路になり得るが、これは日 中韓3言語が共通している。例えば、B-a,b のように「門、窓、垣根、バー、国境、境」 など、境界の意味を持っているNL、あるいは、B-c,d のように[NL+の前/後ろ/上/下/ 中/左/右/内/外]は「点状」経路になり得る。 3)日本語と韓国語では、移動を表す「歩く」類の[+様態]動詞、 「行く」類の[+方向] 動詞、 「通る」類の[+通過]動詞、 「出る」類の[+出入り]動詞のすべてが、 「NL+を/ro」 と共起が可能である。これに対して、中国語では、必ず通過の意味を持つ“过”類の動詞 が加わっている VP でなけれが“从+NL”と共起して経路を表すことができない。 3.おわりに 以上では、日中韓の経路の概念、表現構造ならびに統語規則について概観した。では、な ぜ 3 言語の経路表現には上記のような異同が起きるのか。認知言語学では、言語が人間の 一般認知に基盤をもつものであることを主張する。これに基づいて解釈すれば、日本語の 認知主体は、経路を「ある距離・空間に渡っての直線的な道筋が前提となっていて、運動 が必ず連続的に、一方向へ向かって行われる空間」として認知している。したがって、 [+ 方向性][+連続性][+軌跡]の移動空間であれば、[-境界][-直線]であっても経路の 射程に入れ、 「 NL+を」を用いて表現する(A-c)。しかし、中国語の認知主体は、[-境界][- 直線]の移動空間を背景場所として認知し、 “在+NL”で表現する(A-c)。なお、韓国語の 認知主体は、それを経路や行路あるいは背景場所として捉えることもできるので、話者の 視点により「NL+로 ro」(経路)、「NL+를 reul」(行路)、「NL+에서 eseo」(背景場所)の いずれかが用いる。 95 複合辞「とたん(に)」の成立をめぐって 上海外国語大学日本文化経済学院 毛 文偉 0. 問題の提起 本稿は「とたん(に)」を考察の対象とする。「とたん(に)」は、文において、接続助 詞的な役割を果たしている上に、機能、先行動詞及び後続表現などの面において固定化が 進んでいるため、複合辞として認められている。 「とたん(に)」は「途端に」のほかに、「途端」、「とたんに」、「とたん」という形で使 われているが、歴史的に見れば、これらの形態は同時に現れてきたものではないし、また その使用頻度も決して同じではない。 本稿は通時的な視点から、「とたん(に)」の各形態の使用実態を検討する。それによっ て、「とたん(に)」が単なる言葉の組み合わせから接続機能辞へ転成する経緯を考察し、 形態と機能辞度(機能辞らしさ)の相関を究明したいと思う。 1. データの採集 「とたん(に)」の使用実態を観察するために、筆者は初出が 1900 年から 1999 年まで の小説(計 593 点 3529 万字)をコーパスとして、各形態を年代別に検索した。その結果、 合計 650 例を抽出した。次はいくつかの視点からそのデータを分析し、「とたん(に)」の 使用情況を検討する。(紙面の関係で、具体のデータの提示を省くことにした。) 2. 接続面の定着 まず、先行動詞のテンスと作家容認率(この種の用例がどのぐらいの作家の作品に表れ てきたかということ)を時代別に統計した図 1、2 を参照されたい。すると、1900 年から 1929 年までの小説において、 「とたん(に)」の先行動詞はスル形を取るほうが圧倒的に多 いが、1930 年以降はそれが一変して、シタ形をとるのが普通になったことがわかった。 100% 90% 90% 80% 80% 70% 70% 60% 60% 50% 50% 40% 40% 30% 30% 20% 20% 10% 10% 0% 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 スル 0% 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 シタ スル 图1 シタ 图2 3. 意味面の固定化 従属節の述語が動詞のスル形である場合、 「とたん(に)」は同時性(例 1))、継起性(例 2))と「前件が進行する途中、後件の事柄が発生する」(例 3))といういくつかの時間関 係を表すことができる。 1) 呑みかけの「敷島」を二階の欄干から、下へ抛げる途端に、*たちまち/*すぐ難 96 有うと云う声がして、ぬっと門口を出た二人連の中折帽の上へ、うまい具合に燃殻 が乗っかった。 『野分』 2) …敵の十字架に折柄入りかかる夕陽が煌めいて、燦然輝いたと思う途端、甚兵衛は 『恩を返す話』 すぐ頭上に強いショックを感じて、アッと思う間もなく昏倒した。 『年末の一日』 3) 電球は床へ落ちる途端に彼女の前髪をかすめたらしかった。 一方、先行動詞が「シタ」形である場合、瞬間継起という時間関係しか表せなくなった。 4) だが、やれうれしと思ったとたん、すぐ/○たちまち/*やがてまた波は引きはじ めた。 『筒井康隆四千字劇場』 以上の分析から分かるように、20 世紀 30 年代に、本稿の考察対象は意味と形態という 両面において、定着現象が観察される。そのため、この時期を複合辞としての「とたん(に)」 の成立時期と想定して妥当であろう。 4. 各形態の発達ぶり 本稿の考察対象は「途端に」のほかに、「途端」、「とたんに」、「とたん」という形で使 われている。次は、それが接続機能辞として成立した 30 年代から 90 年代までの各形態の 発達ぶりを概観しよう。各形態の出現頻度と作家容認度を示す図 3、4 を参照されたい。 60% 25 50% 20 40% 15 30% 10 20% 5 0 1920 10% 1930 1940 途端に 1950 途端 1960 1970 とたんに 1980 1990 0% 1920 2000 とたん 1930 1940 途端に 1950 途端 图3 1960 1970 1980 とたんに 1990 2000 とたん 图4 30 年代においては、各形態は使用頻度も作家容認度も低かったが、そのうち、 「途端に」 がより多く現れている。40 年代には、「途端」の使用が少し増えたが、50 年代に入ると、 漢字を使う両形態の用例が急減少し、その後ずっと百万字あたり 5 例以下という低い水準 を維持している。 「とたんに」は 50、60 年代において、盛んに使用されていたが、70 年代 になると、やはり衰退し、 「途端」とほぼ同じくなった。使用頻度から見れば、四形態のう ち、ただ「とたん」だけがずっと上昇の一途をたどっている。 この事実から、仮名表記、格助詞の脱落と機能辞度との関係を垣間見ることができる。 名詞「途端」と格助詞「に」との組み合わせである「とたん(に)」が機能辞として融合し ていくにつれて、頻繁に使用される形態は「途端に」、「途端」、「とたんに」、「とたん」と いう変化の軌跡をたどってきた。つまり、 「に」が脱落して、しかもひらがなで表記する「と たん」の方が、機能辞らしさを図る機能辞度が一番高いと考えられ、それと対照的にある のは「途端に」である。現在、本稿の考察対象はもっぱら接続機能辞として使われている ため、機能辞度が一番高い前者の出現頻度が圧倒的に多いのにひきかえ、機能辞度がもっ とも低い後者は使用率が常に低いわけである。 97 相づちの使用場所についての中日対照研究 ――意識と運用の両面から お茶の水女子大学 楊 晶 1.はじめに 日本語の相づちは会話の円滑な展開に重要な役割を果たしていると言われているが、会 話の進行中、タイミングよく相づちを打つことは日本語学習者にとって決して容易なこと ではない。学習者の日本語による会話を観察すると、相づちが少なかったりタイミングを 誤ったりする場面が時々目に付く。相づちが不自然である原因としては、日本語の会話に 対する不慣れがよく挙げられるが、母語における相づちの使用に関する意識や習慣も大き く影響するのではないかと思われる。よって、日本語学習者は、日本語と母語の相づち使 用における異同を認識する必要がある。 本研究は、中・日両言語の相づちの使用場所に着目して、それぞれの母語話者の意識と 実際の運用の両面から分析し、比較対照を行い、両者の異同を明らかにすることを目的と する。 2.研究方法 2.1 分析資料 ①相づちの使用場所に対して持つ意識を調べるために行った質問紙による調査に対す る回答(中国語母語話者 100 名、日本語母語話者 120 名) ②両言語の母語話者同士による異なる場面での自然会話:中国語会話 8 組(知人同士に よる電話会話 4 組、初対面同士による対面会話 4 組)、日本語会話 8 組(知人同士による電 話会話 4 組、初対面同士による対面会話 4 組) 2.2 分析方法 集計したアンケートに対する回答について、統計的な手法を用いて処理し分析する。 電話による会話における相づちの使用場所については、相づちが打たれた直前の発話(先 行発話)を文法項目別に分類し、主に文法形式による統語的な要因を分析することにする。 対面会話については、統語的な要因の他に、話し手のうなずきも分析することにする。 3.結果と考察 3.1 相づちの使用場所に対する認識 中国語母語話者の被調査者は、「当获得了你想要了解的信息时」(知りたい情報を獲得し た時)、 「在句子结束的时候」 (1つのセンテンスが完了した時)、 「在对方讲话的过程中出现 停顿时」話し手が話している途中にポーズが現れた時)という場合に、相づちを使用する と考える傾向が強いのに対して、日本語母語話者の被調査者は、 「文(センテンス)が完了 した時」「特殊なイントネーションを伴った時」「相手がうなずいた時」に相づちを使用す ると考える人が多いことが分かった。 3.2 自然会話における相づちの使用場所 中国語会話においては、相づちは文末(文が完了した箇所)に集中する傾向が現れてい る。また、一部分の相づちは文末ではなく、文中(話の途中)で行われている。それらの 98 文脈環境について調べたところ、その直前は名詞や動詞が特に多く、 (語気)助詞「呢」 「吧」 「啊」が次いでいる。名詞や動詞の後に使用されている相づちについては、その直前の名 詞や動詞が現れた時点で、一つの情報を獲得したと聞き手が判断したものと考えられる。 また、助詞「呢」「吧」「啊」の後に相づちが打たれるのは、この 3 つの助詞は「文中で息 つぎをする」 (「话语停顿」)、 「文中の息の終わる箇所に用いられ、以下に述べることについ て相手の注意を引く」という機能をもっているからであろう。運用上の上記結果は、アン ケートの回答結果とほぼ一致している。 一方、日本語の相づちの約2/3は、文が終了したところや、 「ね・よね・けれども」 「て」 「格助詞」の後に使用されている。そして特に電話会話では、相づちの打たれた直前の発 話形式が「て」や「ね・よね・けれども」である時、音声的な特徴を伴うものが多いこと、 対面会話では話し手の「うなずき」に呼応して多く使用されていることや、発話権の交替 を行う際に相づちに対して相づちを打つ例も多数あることが明らかになった。 以上より、中国語の相づちの使用場所は先行発話の意味や内容(情報を獲得したかどう か)と密接に関連していると考えられるが、日本語の相づちは定められた形式に対して打 つものであることが示された。これは中日両言語の相づちの使用場所の違いと言えよう。 意識と運用の面で明らかとなった上記結果より、中国人日本語学習者が会話をする際、 話し手の話に対して内容によって相づち使用の必要の有無を判断するという母語の習慣に 沿って相づちを使用する可能性が予測される。これは、中国人学習者の相づちのタイミン グが日本人に違和感をもたらす原因の一つとも考えられよう。 4. まとめ 本研究は、中日両言語の相づちの使用場所について意識と運用の両面から分析し考察を 行い、両者の異同を明らかにした。文末に多く使用されるという点では同じであるが、中 国語に比べて、日本語の相づちの使用場所は一定の形式があり(特徴のある文法形式や韻 律情報及び非言語的表現であるうなずき)、他の要因に余り影響されないのに対し、中国語 の相づちは文末の他に先行発話に定められた形式が少なく、相づちを打つかどうかは話の 意味や内容に密接に関連し、任意性が比較的高いと言える。 今回の研究結果を基に様々な観点から中日両言語に対する理解や中国人日本語学習者 の自然会話の習得への示唆を求めようと考えている。 【主な参考文献】 杉藤美代子(1993) 「効果的な談話とあいづちの特徴及びそのタイミング」 『日本語学』12-4: 11-20 水谷信子(1988)「あいづち論」『日本語学』7-13:4-11 水野義道(1988)「中国語のあいづち」『日本語学』7-13:18-23 「中国人学習者の日本語の相づち使用に見られる母語からの影響―形態・ 頻度・ 楊晶(1997 ) タイミングを中心にー」 『言語文化と日本語教育』第 13 号 117-128 お茶の水女子大学日 本言語文化学研究会 楊晶(2002)「日本語の相づちに関する意識における中国人学習者と日本人との比較」『日 本語教育』114 号 90-99 劉建華(1987)「電話でのアイヅチ頻度の中日比較」『言語』16-21:93-97 99 感動詞「あっ」の用法について 県立広島大学 友定 賢治 1.はじめに 朝、出会う学生のあいさつが、次のように分かれる。 ○おはようございます。 ○あっ、おはようございます。 最初のは多くの学生のもの。次のは「よく知っている学生」である。 ○おはようございました、あっ。 というあいさつは、年配の総務課長さんである。 「あっ」の使用にはやはり一定のルールの あることがわかる。本発表は、現代日本語の感動詞「あっ」の用法を整理し、中国語、韓 国語と対照することで、日本語音声コミュニケーションの特徴の一端を明らかにする。 2.現代日本語の「あっ」の用法 現代日本語の感動詞「あっ」の用法を、下記の7つに大きく分類したい。 (1)気づき ○あっ、落ちましたよ。→財布を落としたのを見て。 (2)驚き ○あっ、びっくりした。→ぶつかりそうになって。 「あっ」で表現する驚きの性格について、冨樫(2005:26)は、 ○あっ、びっくりした。 ○へえ、びっくりした。 とを比較して、 「あっ」は新規の情報に焦点が当たったこと自体に対する驚きである。その情報をど う処理するかという段階には至っていない。一方、 「へえ」が示す驚きは、情報をうま く知識に組み込めたことに起因している。(下線 発表者) と説明している。 (3)恐縮 ○あっ、はい。分かりました。→上司に向かって。 (4)ていねい ○あっ、おはようございます。→冒頭の例 (5)発話開始 例①電話に出た相手が、かけようとしていた本人だと分かると、「あっ」で始めること が多い。 A: はい。山田です。 B: あっ、山田さんですか。 例②会議のとき、進行役の人が、「あっ」で始めることがある。 ○あっ、ではこれから会議を始めます。 (6)くくり ○どうぞよろしくお願いします、あっ。→商談・頼みごとなど この用法は、腰の低い態度や、時には卑屈な態度ともみなせるものである。なお、この ような場面では、定延(2005)のいう「空気すすり」が聞かれることもある。 (7)瞬間 ○あっという間のことだった。→慣用句 3.「あっ」の意味用法の広がり 以上に示した、「あっ」の用法は、どのように広がったものだろうか、下記のような派 100 生の筋道を考えたいと思う。 ↗ ↗ あっ コト向け ↘ 驚き 気づき → ↘ 瞬間 ↗ 立ち上げ → 開始、ていねい ↘ 終結 → くくり ヒト向け→ 恐縮 4. 中国語、韓国語との対照 (1)中国語 ①日本語の「あっ」に近似した用法の語には、 「 啊」 ( 5種類の声調によって用法が異なる。)、 「哎」、「哎呀」、「哎喲」があり、音声面では「啊」がもっとも近い。 ②「恐縮」「ていねい」「くくり」といった意味を、①に記した語だけではあらわさない。 ただ、「啊」が文末に来る場合として、「你好~(哇)!(こんにちは!)」「真新鲜 ~(哪)!(本当に新鮮ですね)」などがある。 ③中川(2005:21)によると、日本人が、ドアに頭をぶつけた瞬間、「痛い!」と形容詞、 あるいは「いたっ!」のような形容詞の中断形で叫ぶことに、中国人は驚くとのことで ある。そして、「多くの外国語の話し手は、「オー」のような単純な感嘆詞から始める。 中国語でも「アー」とまず叫んでから『痛い!』を続ける。」とある。 (2)韓国語 ①「恐縮」「ていねい」「くくり」といった用法では用いない。ただ、ドラマなどで、腰が 低く、卑怯でずる賢い人物には、使わせることがある。 ②「痛い!」といった叫びのとき、 「apu-ta(痛い)」とは関係ない、 「ayaayaaya!」となる。 また、熱い物に触れて思わず叫ぶとき、日本語では「あちっ!」であるが、 「as,ttuke!」 と「as(あっ)」と必ず共起する。 5.まとめ 中国語や韓国語と「気づき」とか「驚き」は共通するものの、日本語では特に、「恐縮」 とか「ていねい」 「くくり」などに特徴が認められる。相手への接し方にかかわる用法であ る。命題だけを述べるのではなく、その前後に「あっ」のような要素を加えて、コミュニ ケーションの態度を表明する。そこに日本語音声コミュニケーションの一特徴があると考 えられよう。 【引用文献】 定延利之(2005)『ささやく恋人、りきむレポーター』(岩波書店) 冨樫純一(2005)「「へえ」「ほう」「ふーん」の意味論」(『言語』34-11 大修館書店) 中川正之(2005)『漢語からみえる世界と世間』(岩波書店) 【謝辞】韓国語は朴英珠(神戸大学大学院生)、中国語は肖婷婷(大連外国語学院講師) の両氏にご教示いただいた。記して厚くお礼申しあげます。 101 「だろうではないか」と「まいではないか」について 北京大学外国語学院 張 興 1.問題提起 「ではないか」が認識的モダリティ形式と共起することに関して、高山(1986)や森山 (1988)等が言及している。 高山(1986)は、次例を取り上げて、<推定形>が<確認要求>の表現に関わっている現象 を指摘している。(下線筆者) (1)お店はもうかってるようじゃない/はずじゃない/みたいじゃない/らしいじゃな い/かもしれないじゃない/にちがいないじゃない? 森山(1988)は、「『じゃないか』は、『*死ぬだろうじゃないか』のように、『だろう』 や命令形と共起しないが、蓋然性判断の形式など、疑似ムード形式をはじめ、意志形など にも共起できる。」と指摘している。 「ではないか」が「だろう」につづかないという高山(1986)と森山(1988)の指摘は、 現代日本語の場合は正しいが、近代日本語になると、事情が違う。以下のように、近代小 説には、「だろうではないか」や「まいではないか」というような例がある。 (2)常談まじりの誇張があるにもせよ、このあくど過ぎる仙吉の鬱憤を前にして、わた しとしては黙って蟹でもむしるほかなかろうではないか。(葦手) (3)「いよいよ池になる時は、あの人たちはどうするでしょうね」 「そりゃ、他所(よそ)へ移り住むよりほかはあるまいじゃないか」 「いいえ、わたしは、そうは思いません」(大菩薩峠 農奴の巻) 文体的にはやや古い。戦前までの小説などにはよく出ているが、戦後の小説などには殆 んど見られない。 本 稿 は 、『 CD-ROM 版 『CD-ROM版 新潮文庫 明 治 の 文 豪 』『 CD-ROM 版 新潮文庫 大正の文豪』 新潮文庫の100冊』所収作品とインターネット上の『青空文庫』所収作品(2005 年12月現在、以上と重複したものは除外とする)、Googleで検索したもの(以上と重複した ものは除外とする)を中心に調べ、「だろうではないか」「まいではないか」及びその変異 体を含む文を抽出してその分布の実態と意味・用法を考察し、その消失の原因を推測して みる。 2.「だろうではないか」と「まいではないか」に対する統計 「だろうではないか」の変異体としては、「だろうではないか」「だろうじゃありません か」「だろうではありませんか」「だろうじゃ(あ)ないか」「だろうじゃないですか」「だ ろうじゃねえか」「うじゃないか」「うじゃありませんか」「うじゃ(あ)ないか」「うじゃ ねえか」等が挙げられ、「まいではないか」の変異体としては、「まいじゃないか」等が挙 げられる。 102 明治文 大正文 昭和作 青空文 総 Google 豪 豪 品 庫 0 0 1 1 25 27 0 0 0 1 1 2 1 0 0 3 1 5 19 5 4 46 46 120 だろうじゃないですか 0 0 0 0 1 1 だろうじゃねえか 2 0 3 16 10 31 うではないか 0 3 1 5 14 23 うじゃありませんか 2 2 1 2 0 7 うじゃ(あ)ないか 4 10 7 4 12 37 うじゃねえか 1 1 2 8 0 12 まいではないか 2 0 0 3 0 5 まいじゃないか 1 1 2 6 14 24 総計 32 22 21 95 124 294 だろうではないか 計 だろうではありません か だろうじゃありません か だろうじゃ(あ)ない か 3.「だろうではないか」「まいではないか」の分析 これまでの研究によると、殆んどの認識的モダリティ形式は「ではないか」と共起でき る。この現象は、機能分担原理から考えると、認識的モダリティ形式が命題めあてなのに 対して、 「ではないか」が聞き手目当てのモダリティ形式になっているということを、物語 っている。 「だろうではないか」の場合も、そのように分析できる。「だろう」「まい」は、命題め あての形式であり、「ではないか」は、聞き手目当てのモダリティ形式である。 昭和になると、「だろうではないか」「まいではないか」という形式は、どうして徐々 に姿を消したのだろうか。その原因としては、「だろう」が確認要求特に「ではないか」 のような認識確認要求の用法を徐々に拡大させて、正果を遂げたのだろう。 その証拠の一つとしては、「だろう」「でしょう」の省略形「だろ」「でしょ」が時代の 変遷を経て勢力を爆発的にその使用を拡大させたことが挙げられる。 明治文豪 大正文豪 昭和作品 だろ 7 2 215 でしょ 0 1 509 総計 7 3 724 つまり、時代の変遷によって、 「だろう」は、確認要求としての用法が拡大しつつある。 言語の経済原則のはたらきにより、この機能上の拡張は、「だろうではないか」という形 式が使用されなくなったことをもたらしたのである。「まいではないか」は、「ないだろ うではないか」と同じで、ある意味では「(ない)だろうではないか」の変異体としても 扱え、同じ原因によって消失したのだろう。 103 存在構文からみた動詞意味と構文意味のかかわり ―中国語の存現構文と日本語の存現構文を手がかりに 関西学院大学 于 康 本発表は、日本語にも「存在構文」と呼ぶべき構文が存在することを明らかにし、その 構文における L が必須項になるメカニズムを考察し、動詞の意味と構文の意味が如何に必 須項の選択に寄与するかを考えてみたいものである。 中国語の「存現文」とは、物事の存在、出現または消失のことを表す構文のことである。 たとえば、①“热炕头上蹲着两只猫。”、②“她头上插着一朵花。”、③“小李家跑了一只鸽 子。”、④“她走到黄龙沟,看见前面来了个老头儿。”中国語の「存現文」は、「静的存現文」 と「動的存現文」に分類できる。これらの文における L は、能動文において任意項である が、ここでは必須項となっている。 日本語の「存在構文」とは、場所詞が必須項としてニ格で表示しなおかつ文頭に置かれ、 事物の存在を情景描写として捉える文のことである。 統語形式から分類すれば、4種類がある。①「L に+NP が+V ている・た」、②「L に+ NP が+V られている・た」、③「L に+NP が+V てある・た」、④「L に+NP が+V られてあ る・た」 ●L に+NP が+V ている・た 「溝のほとりに制札が立っている。」、 「足もとの草のなかに も毬が幾つも落ちていた。」、 「その下に彼の遺体が横たわっていました。」 「深夜の空にはと きどき稲妻が走っていた。」のように、この構文は次のような特徴が見られる。①自動詞が 使われるが、他動詞は使われない。②自動詞といっても、非対格自動詞のほうが圧倒的多 い。③統語レベルのガ格になるものは、通常、意味レベルの対象格である。④情景描写と 動作叙述とがファジーのものもある。④について、 「受付に赤いワンピースを着た若い女性 が座っていた。」 「 そんな薄暗がりのソファーの上に直子がぽつんと座っていた。」のように、 前者は情景描写だとすれば、後者は動作叙述となる。原沢(1998)をふまえて考えてみる と、 「L に+NP が+V ている・た」は、非意志的情景描写と意志的動作叙述の両方に用いら れるものになる。 ●L に+NP が+V られている・た 「瓶には番号が書かれているだけである。」「壁ぎわに 桐ダンスが一つ置かれている。」 「 食卓には料理がいっぱい並べられ、ビールの空壜が二三本 並んでいる。」のように、この構文は次のような特徴が見られる。①他動詞が使われるが、 自動詞は使われない。②他動詞といっても、無対他動詞のほうが圧倒的多い。③統語レベ ルのガ格になるものは、通常、意味レベルの対象格である。④情景描写の場合、V が受動 形によって自動詞化され、非対格自動詞の性格を持つようになる。⑤動詞の形態が異なる ものの、意味上では、 「L に+NP が+V ている・た」と同じものなので、ペアと考えてもよ い。 ●L に+NP が+V てある・た 「窓際に机と椅子が置いてある。」「一番古い日記の一番初 めに、そのことが書いてあるわ。」 「教会の祭壇の壁には一面に世界地図が描いてある。」 「飾 り棚には、いろんな高価らしいものが並べてある。」 「 舗装の路肩部分にダンプカーが止めて 104 あった。」 「封筒のなかには、中身の巻紙に添えて、折りたたんだ煙草の葉が入れてあった。」 のように、この構文は次のような特徴が見られる。①他動詞が使われるが、自動詞は使わ れない。②有対他動詞と無対他動詞の両方が使われているが、有対のほうが多いようであ る。③統語レベルのガ格になるものは、通常、意味レベルの対象格である。④情景描写の 場合、V が「テアル」によって自動詞化され、非対格自動詞の性格を持つようになる。 ●L に+NP が+V られてある・た 「のし袋には「祝必勝」や「祝当選」などとゴム印が 押されてあった。」「軒下の到るところに玉葱が吊るされてある。」「アトリエに木製の事務 机が置かれて、机の上にはたくさんの手紙の束がきちんと整理されてある。」「器棚の中に は数枚の食器が残されてあり、その下にはかなり昔のビール瓶が転がっている。」「路の両 側に溝が掘られてあり、塩の結晶が積まれてあります。」「監獄には時代の矛盾が集約され てある。」のように、この構文は、①他動詞が使われるが、自動詞は使われない。②有対他 動詞と無対他動詞の両方が使われている。無対のほうが多いようである。③統語レベルの ガ格になるものは、通常、意味レベルの対象格である。④情景描写の場合、V が「テアル」 によって自動詞化され、非対格自動詞の性格を持つようになる。のような特徴が見られる。 ●NP が+L に+V ている/れ・られている/てある/れ・られてある」は、 「存在構文」か 「あなたのことが たとえば、 「その横向さんが、早稲田大学のキャンパスに立っている。」 ネットに書かれているんですって」「兄の溲瓶がまだわきに置いてあるような気がした。」 「セルカメラ機材が重厚に展示室に置かれてあり、」のように、この構文は次のような特徴 が見られる。①「NP が+L に+V れ・られている・た」、 「NP が+L に+V てある・た」、 「NP が+L に+V れ・られてある・た」といった実例がきわめて少ない。②「NP が+L に+V れ・ られている・た」、 「NP が+L に+V てある・た」、 「NP が+L に+V れ・られてある・た」の 場合、ガの実例が少ないのに対し、ハの実例が多い。③「NP」が主題になりやすいことや 語順役割のことから、 「存在構文」と認めにくい面があると思われる。④この構文には意志 性が読み取れるが、「存在構文」には意志性が読み取れない。 ●任意項が必須項へシフトするメカニズムと動詞の意味と構文の意味とのかかわり 4種類の「存在構文」を総合的に考察してみると、次のようなことが明らかになった。 ①場所を含意する動詞のみ用いられる。②L は着点の場所ではなく、事物存在の場所でな ければならない。 能動文がオリジナル構文であるとすれば、場所は任意項としてその共起が求められる場 合、文頭に来ないのが普通である。しかし、能動文では、意図性や意志性が関与しやすい ので、その意図性や意志性を背景化させ、情景描写のみを表現する場合、L が文頭に移動 され、 「存在構文」が形成される。それによって任意項の場所が必須項の場所にシフトされ ることになったのである。その決めては構文の意味である。構文の意味とは、文が形成さ れ、使われている内に新たに生起したその文の特有の意味のことである。 要するに、文を構成するには、動詞の意味が重要であり、また、それらは共起項の選択 に決定的な役割を果たしている。任意項を伴う構文は使われているうちにその文の特有な 意味を形成し、その構文の意味は共起項の選択に寄与するだけでなく、任意項を必須項へ シフトさせることにも寄与するのである。 参考文献(一部のみ)小野尚之 2005『生成語彙意味論』くろしお出版、原沢伊都夫 2005 105 テアルの意味分析一意図性の観点からー『日本語文法』5巻1号、杉村泰 1996「形式と意 味の研究-テアル構文の2類型-)『日本語教育』91 号、寺村秀夫 1984『日本語のシンタ クスと意味Ⅱ』くろしお出版、益岡隆志 1987『命題の文法一日本語文法序説-』くろしお 出版、Adele E. Goldberg、1995、 (河上誓作・早瀬尚子・谷口一美・堀田優子訳 文文法論-英語構文への認知的アプローチ』研究社) 106 2001 『構 日本語の「に-が」構文 ――認知言語学の立場から 清華大学外国語学部・北京日本学研究センター 趙 蓉 1.はじめに 1.1 本発表の目的 日本語の文構造には、(1)~ (5)が示されるように、「に-が」構文は存在文、自発文、可 能文などいろいろな意味構造に使われる。それらの文は何の関係もない、それぞれ独立的 な存在であるから、何の不思議もないと思われるかも知れない。しかし、認知言語学の立 場から言うと、言語の形は裏にある人間の認知能力、主体の経験によるものである。そこ で、同じ形をしている文には連続性があり、スキーマがあるはずである。それで、本発表 では、認知言語学の立場から、この多様な「に-が」構文のスキーマ、文頭のニ格と後続部 分の関係について考察しようと思う。 (1) 机の上に花瓶がある。(存在文) (2) 代助には此社会が今全然暗黒に見えた。(自発文) (3) 私には彼が親切すぎる。(主観的判断文) (4) 私には彼が来るのがうれしい。(感情文) (5) 太郎には英語が分かる。(可能文) 1.2 先行研究と問題点 Langacker(1991)は人間の認知活動における「場」と「参与者」の概念を提出した。「場」と はステージに相当するさまざまな事物が存在する変化しない外部領域で、「参与者」とはそ の「場」において動き回り、互い関わり合うサイズの小さいモノである。 「場―参与者」の理論は文の構造研究にすばらしいが、認知文法はあくまでも英語をも とに立てた理論だから、日本語の研究に足りないところがある。特に、経験者が抽象的な 場所として文頭に来て、自発文、評価文、可能文を形成するのはなさそうだから、この理 論をさらに展開して、さらに発展させる必要があるように思われる。 熊代(2002)は日本語の「に-が」構文を存在文、適用文、所有文、評価文、可能文、 主観的判断文、 「いる」所有文に分けて説明した。その上で、日本語は一つの事物がある関 係 (relation) に 参 与 し 、 さ ら に そ れ が 別 の 関 係 に 参 与 す る 階 層 的 連 関 (layered interrelation)が好まれると主張した。また、 「「に-が」という格パターンを持ったすべて の文が何らかの形で「場―参与者構文」を表しているという」ことを証明しようとした。 もっとも、「熱にはこの素材は強い」と「私には彼が親切すぎる」を同じカテゴリーに 入れるのは少し無理があるように思われやすいから、「にーが」構文の外延を検討する必要 があると思う。 2.本発表での「にーが」構文とは この節でまず「に」の二種類から、「にーが」構文の概念や研究範囲を検討しようと思う。 (8) この素材は熱に強い。(森) 107 (8)′熱にはこの素材は強い。 (9) 彼は私に親切すぎる。 (9)′私には彼が親切すぎる。 以上の文は構造の同じものに見えるが、実は違うものである。(8)は基本語順として認 められるが、(8)′には、「熱には強いが、ほかの状況には弱い」という対比の意味が入って いるように感じられる。ここでは、 「この素材は熱に強い」は「この素材」の属性を述べる ものであるから、属性の持ち主、 「この素材」が先に来なければならないのではないかと思 う。 「熱に」は「この素材が強い」の存在の場ではなく、「強い」の対象みたいなものである。 つまり、「熱に」の「に」は抽象的な方向を表すのである。 (9)の「私に親切すぎる」は「彼」の固有表現で、「私」は「親切すぎる」の対象である。その 「に」も方向性の付いたものと思える。だからと言って、(9)′は(8)′と似て、対比を表す わけであると考えるのも不完全である。というのは(9)′の「私には」は「彼が親切すぎる」 という評価の持ち主にもなれるからである。つまり、この(9)′の「に」には抽象的な場と方 向との二つの解釈があるわけである。 (8)′も(9)′も「にーが」構造に見えるが、(8)′は基本語順ではなくて、典型的な「場 -参与者」構文から離れているので、今の段階では研究範囲から除外したいと思う。 3.「に-が」構文の種類 3.1 広義的存在文 文頭:存在の場所+に (10) あそこに椅子がある。(典型的存在) (11) 私の友達にはタイ人がいる。(包摂関係) (12) そこに鳶がとまっていた。(状態の存在) (13) 彼の家に子供ができた。(状態変化) (14) 口元に微笑が見える。(存在+視線) (10)は典型的な存在文。(11) ~(14)は拡張した文である。 (11)は存在よりもむしろ「友 達の一部はタイ人」という部分関係を述べているのである。(12)は状態の存在を表す。(13) は「彼の家」に子供がない状態からある状態に変化した結果を表す。 以上の文の中で、特に注意していただきたいのは例(14)である。例(10)~例(13)は話者 の視線が参照点の場から参与者のターゲットに移り、しかも、話者の視線が背景化された 点に共通している。 それに対して、(14)には話者の視線が「見える」という知覚動詞によ って前景化されたのである。実は、これは視覚だけではなく、ほかの知覚にも拡張できる。 例えば、「いたるところに蜂の羽音が聞こえた。(心)」。 3.2 文頭:経験者+に 3.2.1 主観的判断文 (15) 健にはこのパソコンが一番いいらしい。(熊) (16) 太郎にはこのつまらない映画が面白いらしい。(熊) (15)の「このパソコンが一番いい」は話者の判断ではなくて、「健」の判断である。文末 の「らしい」が話者の推量を表している 4 。 4 熊代(2002)P252 を参照されたい。 108 この主観的判断文で表されたのはある主体にある判断が存在しているということを述 べているのである。 3.3.2 自発文 (17) 私にはうまいものという父の言葉が滑稽にも悲酸にも聞こえた。(心) (18) 代助には此社会が今全然暗黒に見えた(近) (19) 運転手にも、杏子の鹿島行きが不審に思われるらしかった。(あ) 「に」文頭の自発文がある感情、感覚が自然にある「場」に出来したことに使われることは 言うまでもないと思う。ここでは、興味深い点が二つある。 3.3.2.1 自発文と存在文 そして、次の(20)(21)と(22)(23)の対を見れば、自発文と存在文のつながりが分かるの ではないかと思う。3.1 で既に説明したように、(20)と(22)は「見える」と「聞える」によっ て、人間の視覚、聴覚が前景化されたが、知覚主体は背景化されている。それに対して、 (21)(23)には知覚主体(経験者)も前景化された。その結果としては、(20)と(22)は存在 文に属し、(21)と(23)は自発文に属することになった。 (20) いたるところに蜂の羽音が聞こえた。(心) (21) 私にはうまいものという父の言葉が滑稽にも悲酸にも聞こえた。 (22) なるほどその茂みの中に鳥居の一部が見えていた。(あ) (23) 代助には此社会が今全然暗黒に見えた。 3.3.2.2 自発文と主観的判断文 (24) 太郎にはこのつまらない映画が面白いらしい。同(16) (25) 運転手にも、杏子の鹿島行きが不審に思われるらしかった。(あ)(19) 以上の文で自発文と主観的判断文にはつながりがあることが分かってくるだろうと思 う。思考動詞が背景化されるかどうかということに異なっているのではないかと思われる。 3.3.3 可能文 (26) 杏子には、そんな大貫のやっていることは詳しくは理解できなかった。(あ) (27) 私には彼の汚い字が読めた。 3.3.4 感情文 (28) 私にはそれが第一不思議だった。(心) (29) 三田さんにはそれが心配らしかった。(心) 3.3.5 (30) 所有文 私には子供がいる。 4.まとめ ① 文全体は「場―参与者」構文で、文頭には具体的な場所も抽象的な場所(経験者)も来 ることが可能である。 ② 「経験者に」を文頭とする文は全体の表す事象は経験者のコントロールできる意識的な 動作ではなくて、客観的に存在する能力や、浮かんできた感情、目や耳に入った印象のよ うな、状態的なモノである。すべて存在文とつながりがあるように思われる。 ③ 「にーが」構文には次のような印象がある。ア.属性のような恒常的よりも一時的な印 象 イ.動作的よりも状態的 ウ.説明風よりも描写風。この点を証明するにはさらに詳 しい研究が必要だと思う。 109 中国の日本語音声教育における問題 広東外語外貿大学日本語科 楊 詘人 中国の日本語学習者は大体、大学に入ってから日本語を勉強し始めるのであるから、中 国の大学における日本語教育は普通、発音の段階から始まるのである。 中国には方言が多いのみでなく、その差も激しいから、各方言区から来た学習者は、そ れぞれの方言音の影響や負の移転により、いろんな発音問題を持っている。 まずは分節音の問題、中国では呉方言以外の方言区には、有声閉鎖音がないため、日本 語の「ガ行」、「ダ行」、「バ行」音の習得が難しくなる。所謂清濁混同の問題がよく見られ る。中国の揚子江流域、南西部からの学習者には、 「ナ行音」と「ラ行音」の混同問題がよ く見られる。広東方言には[˛]も[s]もないので、そこからの日本語学習者は、 「サ行音」 の「し」と「す」の混同が激しい。 「ガ行音」の習得は上述の清濁の混同という問題があるため、鼻濁音を習得せざるを得 ない場合があるが、それで問題が解決できるかというと、それでもない。また、軟口蓋鼻 音脱落の問題が、広東方言区、湖南などの地区から来る学生の間に見られる。 次は超分節音の問題について考える。中国の声調などの影響により、超分節音を習得す るときにも、いろんな問題がある。一番典型的なのは、イントネーションの問題である。 例えば疑問文の場合、通常上昇イントネーションを使うが、学習者の場合は、あまり上昇 しないか、または、激しく上昇し、詰問の感じを聞き手に与える。 上述のような問題は、学習段階で解決しなければ、学習者のコミュニケーションに支障 を与えることになりかねない。 本来は、こういった問題が出るのは不思議ではないが、適切な指導があれば、問題は大 体解決できる。しかし、問題は、適切な指導や矯正を得ないまま卒業してしまうのである。 それは、中国では、音声学知識を知っている教師が少ないためである。特に、入門期の教 師はほとんどが若手教師であるが、かれらには音声学知識を持っている人はごく少ない。 かなりの教師は、例えば、日本語の無気無声閉鎖音を、有声閉鎖音と無声有気閉鎖音の中 間音と教える。また、「ラ行」の子音は弾き音「R」であるが、それは中国語の側面音[l] として教える。もちろん、日本でも、一部の人は[l]を「ラ行音」の子音としているが、 しかし、中国では、歯茎鼻音[n]と側面音[l]の混同問題が広い地域に存在しているの で、 [l]を「ラ行音」の子音とすれば、 「ナ行音」と「ラ行音」の混同問題はますます解決 しにくくなる。本文はこの問題について検討する。 110 「表す」言葉から「する」言葉へ* -音声コミュニケーションの日中対照のために 神戸大学 定延 利之 1.はじめに 「言葉は使用文脈から切り離せない」とよく言われる。だが、言葉を、われわれにとっ て最も日常的な「使用文脈」であるはずの現実の音声コミュニケーションの中でとらえよ うとする試みは、何語についても、まだ十分には行われていない。 現実の音声コミュニケーションにおける日本語は、さまざまな音韻規則や統語規則から の逸脱に満ちあふれて見える。だが、注意深く観察すれば、そこには驚くような規則性が ある。さらに、その規則性がいわゆる文法とつながっているということも珍しくない(定 延 (2005))。 だが、本発表の中心的な目的は、それらの詳細を論じることじたいではなく、より一般 的なところにある。本発表では、これまでに発表者がおこなってきた初期的な観察の結果 をふまえて、「現実の音声コミュニケーションを視野に入れると、われわれは言葉それじ たいに対する従来の考え方を根本的に変えざるをえない」ということを具体的に示したい。 これは、われわれが音声コミュニケーションにおける言葉の観察や対照を今後さらに本格 的に進めていく上で、重要なステップとなるだろう。 結論として論じられるのは、「現実の音声コミュニケーションの中の言葉は、『話し手 が言葉でなにかを表す』という表現の構図とはしばしば合わない。そのような言葉は、何 かを『表す』ものではない。『する』こと、つまり相手の前でやってみせる行動である」 という考えである。 2.つっかえ 単語をしゃべっている最中につっかえてしまうということは、日本語話者にも中国語話 者にももちろんある。だが、そのつっかえ方が日本語には豊富にあり、つっかえ方によっ て態度が違う。たとえば、「最近テレビではやっているマンガあるでしょ、ほら」に続け て「どくろ仮面」と言おうとしたもののうまく思い出せずつっかえる場合なら、「ど、ど くろ仮面だっけ」(とぎれ型・語頭戻り方式)、「ど、くろ仮面だっけ」(とぎれ型・続 行方式)、「どーどくろ仮面だっけ」(延伸型・語頭戻り方式)、「どーくろ仮面だっけ」 (延伸型・続行方式)など、どれも自然で特に制限はない。だが、「オレ、いま遊園地で どくろ仮面のバイトやってんの」と言われて驚く場合なら「ど、どくろ仮面!」(とぎれ 型・語頭戻り方式)だけが自然で、「ど、くろ仮面!」「どーどくろ仮面!」「どーくろ 仮面!」は自然ではない。 また、店員が商品の在庫状況を考え考え客に語る際、「さい、こは…」のようなとぎれ 型は余裕のない新米店員風、「ざいーこは…」のような延伸型は余裕があるベテラン店員 風という具合に、つっかえ方は発話キャラクタ(人物像)の違いにも結びついている。そ 111 れが最も顕著なのは、政治家や知識人キャラクタに見られる、「構造改革、うーを、進め るに、いーおいてですね」のような、とぎれ延伸型のつっかえである。 このように、つっかえ方は話し手の態度や発話キャラクタと結びつく。だが、だからと いって、「話し手はこれらのつっかえ方をすることによって、自分の態度や発話キャラク タを表している」などと考えるのは、実は正しくない(少なくとも、得策ではない)。と いうのは、単語を発音している最中につっかえてしまう多くの場合、われわれは、その単 語をうまく最後まで発音したいと、それなりに一所懸命になっているはずだからである。 よりによってその局面で、われわれが、「自分の態度や発話キャラクタの表現」という別 の仕事に余念がないという想定は、自然なものとは思われない。 クマの足跡を見つけた猟師は、「このクマの足跡は、このクマがいま最高にうまいこと を表している」などと言えるだろう。だが、「このクマはこの足跡で、自分がいま最高に うまいことを表している」と言うのは、猟師の発言としてもおかしい。クマの歩き方が別 の情報(クマの肉付きや体調など)と結びつくことは、クマのコミュニケーション世界の 外部者(猟師)にとっては意味があるかもしれないが、クマのコミュニケーションを観察 しようとする者にとって有益とはかぎらない。「話し手は何事かを表す」という『表現の 構図』は万能ではなく、その限界は特に音声コミュニケーションに集中して現れる。 発話キャラクタや態度は、われわれがつっかえ方で「表す」ものではない。これらは否 応なしにわれわれが「実践する」ものである。 3.フィラー 日本語には「あからさまに儀礼的なフィラー」がある。路上で見知らぬ人から「あ、す いません、このあたりに交番ないでしょうか」とたずねられた場合を例にとって、「あか らさまに儀礼的なフィラー」を紹介しよう。 いまの場合、返答としては基本的に次の3つのパターンがある:(i) 「交番はあの角を 右に曲がって左側です」などと、相手の求めに応じて交番の場所を教える。(ii) 「ちょっ とわかりません」などと、自分が相手の求めに応じられないと告げる。(iii) 「このあた り交番はありませんよ」などと、相手の求めがそもそも無理なものであることを告げる。 これら3パターンのうち、フィラー「さー」で始められるのはパターン(ii)(iii)だけ である。「さー」は、「このあたりに交番はないか」という問題を検討中に話し手が発す るフィラーではあるが、検討した暁に、相手にとってよくない結果(具体的には、(ii) 自 分が相手の求めに応じられない、(iii) 相手の求めがそもそも無理)が出てくる場合にか ぎって発せられる。「さー」を発する話し手は、自分がいまやっている検討が、やっても 見込みのない検討であることを知っている。「あからさまに儀礼的なフィラー」とはこの ようなフィラーを言う。 少なくともほとんどの日本語話者にとって、「さー」は常にあからさまに儀礼的だが、 文脈しだいでは、さらにさまざまなフィラーがあからさまに儀礼的になる。たとえば、「さ ー」と違って「んー」は上記(i)(ii)(iii)いずれのパターンでも発せられるが、「なにし ろ病人が相手だから、贈り物っていっても、んー、ちょっとないねー」などと言う場合は 「んー」はあからさまに儀礼的なフィラーである。どうしようもない原因を述べる「なに しろ~だから」構文や、否定的な判断を述べる「っていっても」構文を持ち出す段階(遅 112 くとも「なにしろ」の「な」と言い始める段階)で、話し手は、自分のおこなう検討(「あ の病人に対して何を贈ればいいか」という問題の検討)の結果がうまいものではない(適 当な贈り物が見つからない)ことを知っている。 あからさまに儀礼的なフィラーが中国語にあるという観察はない。まったくありえない のか、それとも、「さー」のような文脈を問わない、あからさまに儀礼的なフィラーがな いだけなのかは、今後さらに検討を要する。だが、あからさまに儀礼的なフィラーが「あ からさまに儀礼的」であること(つまり問題を検討しても見込みがない((ii)(iii))と知 りながら、話し手が問題を検討しフィラーを発すること)への無理解が、中国語を母語と する日本語学習者に時折見られることも事実である。そして、この「あからさまに儀礼的」 であることを理解するには、フィラーを行動としてとらえる必要がある。 日本語話者があからさまに儀礼的なフィラーを発するのは、「実は心中では検討してい ないのに検討しているフリをしている」というような偽善ではない。他人から(『このあ たりに交番がないか教えてくれ』のような)依頼をされた場合、ダメだろうと思っていて も((ii)(iii))、ダメもとで「相手の前で検討してみせる」という行動が日本語社会では 丁寧だからである。話し手はあからさまに儀礼的なフィラーで、「自分がいまおこなって いる検討は、見込みのない検討だ」ということを表してなどいない。そんなことをすれば まったく丁寧にはならない。「それなら、おまえはなぜそんなムダな検討をする?馬鹿に しているのか」と、喧嘩になってしまうだろう。 4.空気すすり ここで「空気すすり」と呼ぶのは、歯と歯の間や、舌先と上歯茎の間の隙間から空気を 吸い込んで、摩擦で「スー」「シー」「シュー」などと音を出す行動のことである。凍て つくような真冬の夜道を歩く時、寒さのあまりガタガタ震える歯の間から空気が吸い込ま れ、空気すすりの音になるというように、空気すすりの中には、単なる粗い呼吸音と思え るものもある。だが、多くの空気すすりはコミュニケーション行動である。ここではもっ ぱら、コミュニケーション行動としての空気すすりについて述べる。 改まった公式の場でよく空気すすりがおこなわれるように、日本語の空気すすりはしば しば恐縮の意味を持つ。空気すすりは英語にも中国語にもあるが、この点で英語と中国語 は日本語とは異なる。但し、教師に「宿題をやってきたか」とたずねられた学生が「宿題 はやっていませんすみません」と言う代わりに、うつむいて空気をすするだけというよう な、その後に何ら発言が続かない空気すすりは、日本語と中国語にはあるが、英語にはな い。この点も今後さらに検討の必要があるが、ここで重要なのは、空気すすり(少なくと も恐縮の空気すすり)は、すすらなければ(つまり吸気でなければ)ならないということ である。空気をすする代わりに吐いても、同じような音声は出せる。だが、空気を吐いて も、恐縮したことにはならない。空気すすりにとって本質的なのは、「空気がすすられた 音」というモノではなく、「空気をすすること」という行動である。 * 本発表は、日本学術振興会科学研究費補助金による基盤研究(A)「日本語・英語・中国語 の対照にもとづく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」 ( 課題番号:16202006、 113 研究代表者:定延利之)、総務省の戦略的情報通信研究開発推進制度(SCOPE、課題番号: 041307003、研究代表者:Nick Campbell)の成果の一部である。 文献 定延利之 2005 『ささやく恋人、りきむレポーター―口の中の文化―』. 岩波書店. 114 複合名詞に見る日本語アクセントの統語機能 ――日本語と厦門語の比較研究 愛知学院大学外国人教師 キーワード: 複合名詞 アクセント核 声調 変調 朱新建 統語機能 一般にアクセントや声調は意味を弁別する機能が重要視されているのに対して、その統 語機能は見落しがちである。日本語のアクセントは、複合名詞のアクセントにおいては、 弁別機能よりも、統語機能のほうが重要な役割を果たしていると考える。一方、弁別機能 においては日本語のそれよりは重要であるが、中国語厦門方言の声調は、弁別機能のほか に統語機能の働きも大きい。本発表では、アクセントや声調の統語機能に焦点をあてて、 日本語と厦門語を比較対照し、アクセントと声調は本来の弁別機能のほかに、構文的に統 語機能がより重要であることを明らかにしたい。 a. b. c. d. ちゅう か りょう り ちゅう か し そう ちゅう か じんみん ちゅう か ふう ちゅうかりょうり 中 華 ①+ 料 理 ①→ 中 華 料 理 (①などは前から、などは後ろから1拍 ちゅう か し そう 中 華 ①+思 想 → 中 華 思 想 ずつ数えるアクセントの核。は無核。) きょう わ こく ちゅう か じんみんきょう わ こく 中 華 ①+ 人 民 ③+ 共 和 国 (造語)→ 中 華 人 民 共 和 国 ちゅうかふう 中 華 ①+風 (造語)→中華風 上の例はいずれも前部名詞と後部要素構成の複合名詞であるが、前部名詞のアクセント は後部要素結合によって失い、複合名詞全体に新しいアクセントが付与された。これはア クセントの一種の変調(Sandhi)とも言えるようなものである。複合名詞は拍数が多い場合、 アクセント核を前から数えるより後ろから数えやすいので、伝統表記の①、④などより、 のような表記を提案した(朱 1994)。日本語のアクセントは有核か無核かに分かれるが、 有核の場合、一語にアクセント核は二箇所に分かれて存在しないのが規則である。複合名 詞は付与された新しいアクセントによって一語であると認識され、この新しいアクセント が即ちアクセントの統語機能である。複合名詞のように、音節 (拍、モーラ)が多ければ多 いほど、それだけでも言葉の意味が限定されるようになり、アクセントは自然にその弁別 機能が弱まり、統語機能が強まるわけである。複合名詞のアクセントは後部要素によって 決まり、前部名詞は何拍、何語であっても本来のアクセントがなくなるため、一般名詞の アクセントと比べるとより規則的である。後部要素は1音節語(特殊拍を含む)で、有核の 語では型が多い。なごや①+し(造語)→なごやし(名古屋市)、ペキン①+し→ぺきん し(北京市。「-市」のアクセントは「―し」の直前に特殊拍でもアクセント核がくる独 立性のある語である)。後部要素は2音節以上の語で、a.c.のように有核の語はアクセント 核がいきるが、b.のように無核の語では後部の第1音節にアクセント核が付与される。あ いち①+ばんぱく→あいちばんぱく④(愛知万博)、せいか①+だいがく→せいかだい がく④(清華大学)。この法則はひいては複合語全体に適応できる。 115 一方、中国語で最も古い方言といわれる閩南方言の一つである厦門方言では、ほとんど の音節(漢字)が本調(Basic Form)と変調(Sandhi)を合わせ持ち、そして複合名詞の場合 は、最後の音節(漢字)が本調を保持し、前の音節(漢字)はほとんどすべて変調する声調 交代が起きる。 tsia tsiu tsia tsiu A. 食 4+ 酒 53→ 食 21 酒 53(酒を飲む) tsu tsia hi kuan kua a tsu tsia B.煮 53+ 食 4→ 煮 44 食 4(三食を作る) hi kuan C.戏 21+ 馆 53→戏 53 馆 53(劇場) hi kua a hi D.歌 44+仔 53+戏 21→ 歌 33仔 44戏 21 (厦門の伝統芸能の一つ) (4,53 な ど は 厦 門 語 の 声 調 調 値 ) 厦門語7声調図のように、厦門語の声調は本調7種類、変調も7種類、調値が同じものを 除いても本調+変調は 10 種類がある(朱 1994)。厦門語の声調調類(本調・変調): 第 一 声 : 陰 平 半 高 平 調 , 調 値 44, 第 三 声 の 変 調 。 第 二 声 : 陽 平 中 昇 り 調 , 調 値 24, 第 三 声 : 陰 上 高 降 り 調 , 調 値 53, 第 四 声 : 陰 去 低 降 り 調 , 調 値 21, 第 五 声 の 変 調 。 第 五 声 : 陽 去 低 平 ら 調 , 調 値 22 第 六 声 : 陰 入 中 降 短 促 調 , 調 値 32, 第 七 声 : 陽 入 半 高 短 促 調 , 調 値 4, 第 六 声 の 変 調 。 第 八 声 : 陽 去 中 高 平 調 ,調 値 33,第 一 声 第 二 声 の 変 調 。 第 九 声 : 陰 上 半 高 降 調 , 調 値 32, 第 四 声 の 変 調 。 第 十 声 : 陰 去 低 降 短 促 調 , 調 値 21, 第 七 声 の 変 調 116 厦門語の辞書では、二字以上の熟語の場合、前部名詞の声調は本調と変調が同時表記に なっていることから見ても、変調がいかに一般的であるかが分かる。中国語は声調の種類 によって弁別機能が働くが、厦門語のように常時に変調すると、自然に弁別機能が弱まる ため統語機能が働いて相補う。後部要素の声調が保持し、前部の声調が変調する点では、 日本語の複合名詞の場合と共通するところである。 このほかに、日本語の複合名詞では、動詞的な働きのある名詞が存在する場合、一語と して看做さずに、新しいアクセントによって統語されない。こうむ①+しっこう+ぼう がい→こうむ①しっこうぼうがい(公務執行妨害)。これは「公務を執行妨害する」と いうような意味で、名詞句と考えられる(早田 1999)。厦門語も、名詞でない熟語、例えば gua ai tsia gua ai tsia 主語と述語の組み合わせの語は変調しない。 我 53+爱 21+ 食 4→ 我 53+爱 53+ 食 4。 そして、厦門語も北京語と同じように軽声がある。軽声のある単語は声調であると同時に ストレスアクセントでもある(早田 1999)。厦門語の声調は軽声の場合も変調しない。 sai si sai si lau k‘ i lau k‘ i ua ts‘u ua ts‘u 西 44+勢 → 西 44勢 (西方)、老 22+ 去 → 老 22 去 (死去)、何 35+ 厝 →何 35 厝 (厦門の地名) アクセント(日本語、英語など)はどこに位置するかを問題にするが、声調はどの種類で あるかが問題になる。中国語は音節声調言語であり、日本語は単語声調言語であるが、 「声 調という述語を音節のみが担うものと限定しなければ、日本語の声調は漢語(漢民族の言 語)をはじめとする中国の種々の言語・方言とも比較できることになる」 ( 早田輝洋 1999)。 これからも日中言語の比較研究がいっそう期待されることであろう。 参考文献 朱新建、1994、『厦門語と日本語アクセントに関する一考察』、愛知学院大学教養部紀要第 42巻第1号 早田輝洋、1999.2、『音調のタイポロジー』、大修館 117
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