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聖霊降臨節第 20 主日 礼拝説教
「信じる生涯」
1
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはで
きなかった。2 そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちを
あなたの手に渡す。3 あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続け
なさい。4 七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七
周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。5 彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなた
たちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、
その場所から突入しなさい。」6 ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、
「契約の箱を担げ。
七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、7 次に民に向かって、「進め。町の周
りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。8 ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、
それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進ん
だ。9 武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行
進中、角笛は鳴り渡っていた。10 ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよ
と命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならな
い。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。11 彼はこうして、主の箱を担いで町
を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。12 翌朝、ヨシュアは早
く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、13 七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らし
ながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。
行進中、角笛は鳴り渡っていた。14 彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、
彼らは六日間繰り返したが、15 七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回
った。町を七度回ったのはこの日だけであった。16 七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュ
アは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。17 町とその中にある
ものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中
にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。18 あな
たたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部
でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。19 金、銀、銅
器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」20 角笛が鳴り渡る
と、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民
はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
ヨシュア記 6 章 1~20 節
17
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けて
いた者が、独り子を献げようとしたのです。18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、
あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返ら
せることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死
者の中から返してもらったも同然です。20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコ
ブとエサウのために祝福を祈りました。21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たち
の一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。22 信仰によって、ヨセ
フは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
29
信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジ
プト人たちは、おぼれて死にました。30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回っ
た後、崩れ落ちました。31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え
入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
ヘブライ人への手紙 11 章 17~22, 29~31 節
1.試みられた信仰者たち
今日、ご一緒に聞いていますヘブ
ライ人への手紙 11 章は、「信仰列伝」と
してのまとまりをもって記されています。
11 章は、大変有名な次の聖句をもって
始まります。「信仰とは、望んでいる事
柄を確信し、見えない事実を確認する
ことです」(11:1)。そして、アベルに始
まりエノク、ノア、アブラハムとサラ、イサ
ク、ヤコブ…この地上を「旅する神の民」
として生きた信仰の父祖たちの従順に
ついて語ります。「この人たちは皆、信
仰を抱いて死にました。約束されたもの
を手に入れませんでしたが、はるかに
それを見て喜びの声をあげ、自分たち
が地上ではよそ者であり、仮住まいの
者であることを公に言い表したのです」
(11:13)。特に、今日の箇所からのテ
ーマとされているのは、「苦難によって
試みられた信仰者たち」です。
アブラハムの生涯のうちに起こった
数々の試練。その頂点となる出来事が、
旧約聖書の創世記 22 章に描かれた、
(新共同訳で)「アブラハム、イサクをさ
さげる」の物語です。聖書の中で、イサ
クは、アブラハムの「独り子」(モノゲネース;
創 22:2, ヘブ 11:17,18)と呼ばれて
います。
アブラハムは、ある時、神から約束
を与えられました。あなたの子孫を大地
の砂粒のように、数えきれないほどにす
る、空の星のように、数えきれないほど
に…と。しかし、これらの約束にもかか
わらず、長い間妻のサラとの間に子ども
が与えられませんでした。サラは年をと
っていたので、アブラハムに召使いの
ハガルとの間になら子を授かるかもしれ
ないと提案しました。そうしてアブラハム
は、ハガルとの間にイシュマエルという
男の子を得ます。しかし、神はなお、ア
ブラハムとサラ夫妻に子どもを与えるこ
とを約束され、その約束を実現されます。
しばらくして高齢のアブラハムとサラとの
間に男の子の赤ちゃんが誕生し、夫婦
はその子をイサクと名付けました。
創世記の 21 章に、アブラハムの
「独り子」イサクの誕生物語が伝えられ
ています。「イサク」とは、ヘブライ語で
「笑い」という意味の名前ですが、イサク
を得た夫婦は喜びで笑わずにいられな
い、幸せの絶頂にいます。しかし 22 章
に来ると、すぐに笑いは途絶えさせられ
ます。神は、アブラハムに待望の「独り
子」をささげるようにとお命じになるので
す。「あなたの息子、あなたの愛する独
り子イサクを連れて、モリヤの地に行き
なさい。わたしが命じる山の一つに登り、
彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさ
い」(創 21:2)と。
2.アドナイ・イルエ …でも
アブラハムが、この時何を思ったの
か、迷ったのか迷わなかったのか、どの
ように苦しんだのか…。聖書にはアブラ
ハムの胸中は、一切語られていません。
イサクが生まれると聞いたときには、ア
ブラハムもサラも、年寄に子が生まれる
はずがなしと言って、心の中で疑い、ひ
そかに笑ったのだと聖書は伝えていま
す。しかし、イサク誕生にまつわるエピ
ソードとはまるで違う、何を考えているの
かわからないアブラハムの姿が、ここに
あります。アブラハムは偉大な信仰の父
です。しかし、このときの彼の心を、だれ
も知ることはできません。
翌朝早く、アブラハムはイサクを連
れて、神の命じられたモリヤの地に出発
したのです。3 日間かけてその場所に
着くと、アブラハムはイサクに薪を背負
わせ、自分は刃物と火を持って歩いて
行きます。イサクが「わたしのお父さん」
と呼びます。アブラハムが「ここにいる。
わたしの子よ」返事をすると、イサクは尋
ねます。「火と薪はここにありますが、焼
き尽くす献げ物にする小羊はどこにい
るのですか?」アブラハムは答えます。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小
羊はきっと神が備えてくださる」 ( 創
22:8)。しばらく歩き、ふさわしい場所
に着くと、アブラハムは「祭壇を築き、薪
を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪
の上に載せ」ました。この出来事は、そ
の衝撃から「イサクのアケダー」(ヘブラ
イ語で aqedah「縛り」)と呼ばれます。
ここでしかし、物語は急展開します。
アブラハムがイサクを手に掛けようとし
たとき、み使いが現れてアブラハムを呼
びます。「その子に手を下すな。何もし
てはならない。あなたが神を畏れる者
であることが、今、分かったからだ」。ア
ブラハムが目を凝らして見回すと、背後
の茂みに一匹の雄羊がいて、アブラハ
ムはその羊を焼き尽くす献げ物としてさ
さげたのです。アブラハムはその場所を
「ヤーウェ・イルエ」と名付けました。
「ヤーウェ・イルエ」とは、「主は備
えてくださる」という意味のヘブライ語で
す。イスラエルの人々は、「ヤーウェ・イ
ルエ」(あるいは「主」を読み替えて「アド
ナイ・イルエ」)という言葉を合言葉のよ
うに使うようになりました。わたしたちも、
何かピンチを抱えていて、それを乗り越
える経験をすると「アドナイ・イルエ」と言
い合ったりします。労苦が多かった神学
生時代は、冗談交じりにもよく神学生同
士で顔を見合わせて「 アドナ イ・ イル
エ!」と言ったものです。わたしたちにと
って、先週の除染工事もそうでした。緊
急に処置しなければならないのに予算
も腕力もない。でも不思議と工事が捗り、
ホッとして「アドナイ・イルエ」です。会計
がかつかつでも「アドナイ・イルエ」。楽
観的な意味に受け止められることも多
い言葉ですが、しかし、この場面の緊迫
と深刻さは息をのむほどです。
3.「イサクのアケダー」をめぐって
「イサクのアケダー」は、物語のハ
ッピーエンドとは裏腹に、「人身御供」の
土着の祭儀と重ねられたとささやかれる、
躓きの多い箇所でもあります。愛するわ
が子を犠牲としてささげようとする父親
の姿は、躓きを与えるものです。信仰深
いということにも増して、自分の信仰の
ために息子の命を犠牲にする盲目的な
父親にも見えます。アブラハムが何を
考え、何を祈っていたのか、一筋の疑
いもなかったのか、わたしたちには問い
が残るのです。
あるとき、牧師である知人のところ
に、洗礼を受ける前に亡くなった我が
子が救われるのか、と尋ねてこられた親
御さんがあったそうです。20 代の若い
ご息女を失くした方でした。その牧師は、
「神様はお嬢さんに必ずよい道を備え
てくださると信じる」といった言葉で答え
たのだそうです。洗礼をなしにして「救
われる」という言葉を使うことがはばから
れたのです。その後、釈然としない思い
になって、「でも、神様が備えてくださる
『よい道』って何?」という話になりました。
この親御さんの問いにどう答えることが
できるのか、という焦点で議論になって
いったのですが、その中で牧師の一人
がこのようなことを口にしたのです。「子
どもが救われていなければ、親も救わ
れない」と。親にとって子どもは自身の
一部なのだから、と言います。それは、
子離れができないとか、親のエゴという
ことではないのです。わたしは人の親で
はありませんので、想像力に欠く面があ
るかもしれませんが、経験的にも妙に納
得するところがあり印象に残りました。こ
のように考えるならば、愛する「独り子」
のイサクを犠牲として縛る決意は、アブ
ラハムにとって、自身の死以外の何もの
でもなかったのです。
4.新たな信仰を生み出すあなた
わたしたちが応えることのできない
要求をされる神。この物語は、躓きと拒
絶を招くものです。神は、アブラハムに
徹底的な試練を与えられます。神が迫
られるとき、わたしたちは逃げ道を見出
せないのです。逃げ場を失ったアブラ
ハムはイサクに向かってこう言いました。
「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が
備えてくださる」と。アブラハムが信じた
「神の備え」はどのようなことであったの
かは、ここでは明らかではありません。
しかし、今日の手紙の著者は他の
解釈の余地のない言葉でこう語るので
す。「アブラハムは、神が人を死者の中
から生き返らせることもおできになると
信じた」(19 節)と。このように語ることが
できるのは、アブラハムの身に降りかか
った究極的な試練が、イエス・キリストの
予兆として、いわばキリストの死と復活
を暗示する出来事として起こったのだと。
このとき、アブラハムの言葉で言い表さ
れることのなかった信仰を、キリストを通
して、わたしたちははっきりと聞き、また
告白することができるのです。
イサクは、修羅場を生き延び、さら
なる試練も免れませんでしたが、この道
には父アブラハムから受けた一筋の信
仰が通っていました。イサクは、年老い
て目が見えなくなっても、将来を見つめ
て子どもたちに祝福を祈りました。イサ
クの子ヤコブもまた、身を引き裂かれる
ような波乱の人生を歩みましたが、自ら
の臨終に際して孫たちに祝福を祈りま
した。ヤコブの子ヨセフも、死に際して
「イスラエルの子らの脱出について語り」
(22 節)、まだ見ぬ約束の地に自分の
骨を運ぶよう希望しました。受け継がれ
た信仰のリレーはモーセに続きます。
信仰列伝の後半には、神の民が奴隷
の地エジプトから救い出された出来事
が語られます。主語は、一人の指導者
「モーセ」から、「人々」に転換します。
さらに主語は「娼婦ラハブ」(31 節)
へと移ります。どのような身分にあるかで
はなく、ただ信仰を理由に、異邦人の女
性の名前がここに刻まれています。旧約
聖書によればラハブは訳ありの女性です
が、彼女は、その信仰によって重要な祝
福の担い手とされます。新約聖書の冒頭、
イエス・キリストの系図になくてはならない
名として、彼女の名前が記されます。わた
したちがどんなに小さな者であっても、頼
りない一人であっても、わたしたちが与え
られた信仰の力は偉大です。わたしたち
の名は、新たな信仰が生み出される物語
の中にはっきりと刻まれているのです。
(祈り)