神が神かけて誓う

神が神かけて誓う
ヘブライ書の福音 13
神が神かけて誓う
6:13-20
今日のこの箇所を読んで、スンナリと理解できて感動する人は少ないのか
も知れません。特に、神が約束を誓いによって保証なさったということです
が、第一神は「~にかけて誓う」と言おうにも、自分より上のもの、より神
聖なものをお持ちにならないのですから、御自分にかけて誓った……神が神
かけて誓って保証したというようなことは、普通の日本人には、最小限に表
現しても、実感をもって迫って来ないと言えましょう。
第一、昔のユダヤ人の学者でも、例えばアレクサンドリアでギリシャ式の
教養を身につけたフィロンのような人は、ここはかなり「擬人法」と言うか、
人間が誓う場合に何にかけて誓ったら一番確かか……という古代ユダヤ人の
考え方に合わせて、譲歩した表現である、と苦しそうに説明しています。
全体の議論は、組み立てを見ても、これはユダヤ注解ミドラーシュのパタ
ーンを踏んでいるので、分かり易い人と、ちょっとついて行きにくい人と、
これが書かれた時代にも両方あった、と思いますね。それ位にここは、ちょ
っとややこしい所です。ですから、一読して「分かりにくい」という印象を
お受けになっても、それで当たり前だと、初めに申し上げておきましょう。
ところで、今のと少しポイントが違うかも知れませんけれど、聖書を初め
て学びかけた人のぶつかる問題は、この本にはそんなに人の期待するような
「心温まる」話とか、心の糧になるような感動的な話は少ないんですね。
もちろんそういう感動的物語もないではありません。例えば、命より大事
に保存してあった高価な香油を、びんごと割ってイエスに注ぎかけた、ある
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女の話とか……。放蕩三昧に身を持ち崩して帰って来た息子を迎える父の話
とか……。苦しむ人や病気の人の力になったり、獄中にある人を訪ねて励ま
したりしている間に、地上で主にお会いしていたという話……。つまり、そ
れが全部キリスト様にして差し上げたことになっていたという、マタイ 25
章の話なんかはそうですね。
この最後のテーマなどは、同じ温かい心から出た実話もありますし、寓話
や小説の類いもたくさん作られました。Vandyke という人の書いた“The
Other Wiseman”という物語もその一つです。これはベツレヘムに来ようと
して来られなかった博士の話。星に導かれてイエス降誕の地を訪れたペルシ
ャの星占いの学者たち……いわゆる「東の博士たち」ですが。もう一人、遅
れて主にお会いできなかったアルタバンという人物がいた、という設定です。
彼はユダヤ人の王として生まれた貴い方に捧げるために、高価な宝石をい
くつか携えているのですが、その一つを、途中で倒れていた怪我人を介抱し
て、その治療費に与えてしまうんです。この辺の筋は「良きサマリア人」に
似ています。結局そんなことで手間取ったために彼は、満月の夜の仲間との
待ち合わせ時間に遅れてしまいます。ベツレヘムのその場所も探し当てられ
ないで、この人はその後 30 年間、その高貴な王様を探して、地上を巡り歩く
ことになります。
たった一つの手掛かりになったある老預言者の言葉に、「その王様は、隠
れた所にきっといなさる。貧しい人、病気の人、獄につながれている人の中
に見付かる。」それでアルタバンは、特にそういう不幸な人を探して尋ね歩
きます。体を擦り減らし、持っていた宝も使い果たして、ついにその高貴な
方にはお会いできないまま、最後に一つだけ残った宝石を手に、ある年の過
越祭に沸き立つエルサレムに着くのです。市内のゴルゴタという場所でお仕
置きがあって、「ユダヤ人の王」と自称したナザレのイエスという人が十字
架に掛けられるという噂で持ちきりです。そのゴルゴタへ夢中で駆け付けよ
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うとする彼は、途中、借金の形に売られて行く少女を見て可愛想に思い、最
後に残ったその宝石で買い戻して、自由にしてやります。
こうして無一物になったアルタバンは、突如地を襲った真昼の暗黒と大地
震の中で、建物の下敷きになって死ぬのですが、その彼の耳に、彼が夢に見
た王の言葉が聞こえて来るのです。「お前は私が空腹であった時に食べさせ
てくれた。私が病気で死にかけていた時に、来て励ましてくれた。獄につな
がれていた時にも、お前は来てくれた。」
「主よ、そんな筈はございません。結局私はドジで、間に合わずに、いつ
も擦れ違いでお目に掛かれませんでした。」そう言うアルタバンにその方は、
「よく聞け。その誰からも相手にされなかった最も小さい者たちにお前がし
たことは、私にしたのだ。」これはマタイ 25 章にあるお言葉そのままです。
私はこれを 35 年前に、自分でも台本の脚色を一部触って声優のまねごとま
でしたので、今でも思い出しますし、原作を書いた人の信仰とか優しさには、
今でも感動します。最初聖書を読む人は大体、この種の物語がたくさん載っ
てることを期待して読むでしょうし、教会へ来る人も、そんなのを大体毎週
聞かしてくれるだろうと思って来るんですが、来てみると様子が違ってびっ
くりする。そんなケースが多いですね。
なぜ違うか。一言で言うと、ああいうものは確かに美しいし、貴重ですが、
この感動だけでは人間は変わらないし、死んで腐ったものが生き始めたりし
ないんです。そういうもので燃えて充実した一時の感動もいつか尽きるか、
いい気になっている自分の偽善にイヤ気がさすか、自分の中から噴き出して
くるもっと恐ろしいものとのバランスが崩れるか……。とにかく、いつか必
ず幻滅と絶望で潰れるんです。本当に人間を変えて、そういうエネルギーを
注ぐのは何か、それは……
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イエス・キリストを通して天の父が何をして下さったかに触れることです。
そしてそのためには、神の前に立つ自分の裸の姿がどんなものか、御言葉の
鏡に映して、罪の事実をはっきり見ることが必要です。その自分にとってナ
ザレのイエスという方はどんな意味を持つか……この方のなさったことは自
分にとって何か!
結局、聖書をひもとくというのは、全部そこへ焦点を合わせて読んで行く
訳で、説明する人も、「自分にとってイエス・キリスト様はこうだった。何
をしてくださった」―そこへ絞って行かないと、説教にも証しにもならな
いんです。
今日の一見難解な箇所にも、そういう、福音の焦点と最終的にはつながる
部分が含まれている筈ですから、著者の非常に「ユダヤ丸出し」の臭みのあ
る所も、ちょっと我慢して、著者は自分に与えられた信仰の何をいったい伝
えたいのか、ナザレのイエスは自分にとってどんな重みを持つのか、そこの
所を少しでも読み取る努力をしてみましょう。
1.先祖アブラハムへの神の約束。 :13-15.
アブラハムは旧約聖書の人物の中で、信仰の原型みたいな人です。それで
イスラエルの人たちは、「我らはアブラハムの子」ということを、血統的に
も誇りにしたんですけれど、そのユダヤ人に対して「血のつながりではない。
アブラハムと同じ精神、同じ本気の信仰がなければ……!」と説いた人が、
「水没のヨハネ」だったことは、福音書の最初のところから出てきます。
著者がどうしてここでアブラハムを引き合いに出すかと申しますと、これ
は 2 行前の「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見
倣う者となれ」という所から、その本気の信頼、ちょっとやそっとで投げ出
したり失望しない本気さの見本が、アブラハムの生涯だったからです。でも
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ここは、そのアブラハムを高く掲げて、「アブラハムの爪の垢を煎じて飲め」
とか言うのではなくて、そのアブラハムへの神の約束がどんなに確かな動か
ぬものだったかという点に、重点がおかれています。
13.神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓え
なかったので、御自身にかけて誓い、 14.「わたしは必ずあなたを祝福し、
あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。 15.こうして、アブラハム
は根気よく待って、約束のものを得たのです。
創世記 12 章で、主の約束を信じて、全く未知の世界へ旅立った時のアブラ
ハムは、「子孫を増やす」というお約束を受けても彼自身が全くの子なしで
した。そのアブラハムにイサクが与えられるまでの長い歴史もそうですが、
与えられたイサクに神の祝福の未来が全部かかっていると思われたのに、そ
のイサクの命を献げて犠牲にせよという命令を受けて、老アブラハムはどう
お応えしたか、主なる神の憐れみがどんな形で示されたか……これは、この
後、ヘブライ書の 11 章で改めて出てきます。
「アブラハムは、一度死なせた子を復活させるようにして与えられたのだ」
と、著者は 11 章で断言(:19)しますし、パウロもまたローマ書で(4:17)
同趣旨のことを書きました。仮に今イサクの命が取り去られても、主の約束
はまだ生きているんだ。また一から、いやゼロから始まっても、神の約束に
賭ける!……というのがアブラハムの全面的な信頼でした。
このくだりは、一見アブラハムの徹底した信仰にスポットを当てているか
のように見えますが、筆者の言いたい点は別の所にあります。ここは「神御
自身が約束なさるとき、その約束はいかに不動で確かなものであるか」とい
う点に絞られているのです。これは次の区分を読むと、はっきり分かります。
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2.「誓い」による保証の重さ。
:16-17.
これは創世記 22 章 16 節に出て来る不思議な一句、「わたしは自らにかけ
て誓う」yTi[.B;v.nI
yBi
という、主なる神御自身の宣言にスポットを当てている
のです。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、
自分の独り子をである息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、
あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創 22:16
~17)
最初の言葉は「神が神かけて誓った」ということになります。これは日本
語でもこっけいに響くでしょうし、ギリシャ人なら、そんなのは“同語反復”
に過ぎないと言ったかも知れません。イスラエル人のセンスで
言えば、考え得る限りの最大の重みを込めた約束……地上でこれ以上重い言
葉は無いような約束を神がなさった、ということをこの言い方で表現したも
のです。
16.そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて(「神に誓って天にかけて
……」というような形で)誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけ
りをつける保証となります。神御自身の力と神性、天という言葉の内容と重
み、神殿・聖所の神聖がその約束の重さと不変性を固定します。 17.神は約
束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであること
を、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったの
です。 18.それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたし
たちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。
「二つの不変の事柄」は多分、その一つは神が語られたという事実、もう
一つは神が誓いを立てられたという事実です。元々神御自身の言葉というこ
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とだけでもズシンと重く、不変であるのに、その神が、聖書の表現では「自
分にかけて誓って宣言された」という驚くべき言い方で、これ以上の重さ、
これ以上不動の確実さは無いことを印象づけているのです。主なる神がアブ
ラハムを祝福で満たす。天の星、海の砂のように、アブラハム家の数を増や
すという約束は、それほど重い約束だった!
あまりにユダヤ的で、拒絶反応の強いかたは、それはそれで横へ置いてで
も、次の部分に注目してください。
3.この確かさは私たちのためにある。 :18-20.
二つの不変の事柄で……神の言葉で、神が御自分にかけて誓ってまで保証
なさったこの重みは、何のためにあったか……? それはアブラハムのためで
はない、アブラハムの子孫のためでもない。そけは全部あなたのため、私た
ちがしっかり受け止めるためにある。もう一度 18 節の初めから……。
18.それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわちしたちが、
二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、
神が偽ることはありえません。
英訳ですと“so that we may have~”,つまり、それは外ならぬ私たちが、
目の前にあるこの希望をしっかりつかまえて、強い励ましを自分のものにす
るためにこそある! 「世を逃れて来た」は決して「世捨て人」みたいな意味
じゃなく、何かから脱出して来た者、そこにはもう留どまらない決断をした
私たちです。そこというのは、間もなく崩れて消え去るような罪の世界、ほ
かの人が「これは永続する確かなものだ」と思い込んでしがみついていても、
その終わりを見抜いて、決然見限って、そこから出て来た者が、世界でたっ
た一つの確かな希望をしっかりつかまえて、自分の希望として受け止めるた
めにこそ、それはある!
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19.わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した
錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなの
です。 20.イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、
永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
「至聖所の垂れ幕の内側の内側」は、モーセが主の言葉に基づいて建てた
荒れ野の幕屋の中の仕切りの幕の向こう側、聖なる神のいます所です。エル
サレム神殿で言えば、聖所の重い緞帳の向こう側にある奥殿……至聖所と言
われた最も神聖な場所を指す名です。ここでは本当は、地上の神殿じゃなく、
天の神の臨在の場所を指したものと見ました。ですから、「垂れ幕の内」ま
で入り込んでしっかり固定してある錨という絵も、生ける神のみもとに私た
ちをつなぐ霊の命の保証を象徴しています。この地上で漂流船のように心も
とない魂が、イエス・キリストを信じてこの希望から手を離さぬかぎり、こ
の錨で宇宙の中心、全存在の重心につながれて固定している。波に弄ばれて
いるように見えても、決してそうではない。あなたは既に神の臨在の場所に
つながり、完全な命の源につながって生きているんだ、勇気を出せ!……と
いうことです。
最後の 20 節は、「先駆者」という語に重点があって、この私もあなたも、
間もなくその最も神聖な所へ引き入れられる。聖なる神に最も近い所、天の
至聖所に迎えられることに決まっている。そのためにイエス・キリストが、
大祭司としてまずそこへ入ってくださって、間もなくあなたを呼んでくださ
る。今はその呼び出し直前の短い時間だと知れ、ということでした。
《 まとめ 》
「神が神かけて誓う」というテーマでした。表現自体は単に言葉の遊戯と
してしか感じられない、とおっしゃる方がおられても致し方ありますまい。
これは甚だヘブライ的な、イスラエルの伝統が染み付いたような表現なので
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神が神かけて誓う
すから……。
でもそこに、ヘブライ書を書いた人があなたに何とかして伝えたい意図を
読み取れたら……どうなんでしょう。あれは旧約聖書のあの一箇所だけしか
ない不思議な表現です。元々神の約束、神の言葉というだけでそれは、十分
に重く動かぬものであるのに、その神が御自分にかけて誓ってまで宣言なさ
った、ということの重みを考えよということなんです。あのアブラハムの祝
福、アブラハムへの約束だけは、主なる神が自ら太鼓判を押して保証をされ
た。
多分筆者は、あそこで、独り子イサクを召されて、元のゼロから出発して
もまだ神の約束に「かける」ことができたアブラハムの信仰とか、アブラハ
ムの偉さばかりを人は見たがるが、アブラハムなどは横へ置いておいてもい
いから、あの時点での神の約束の重さを見よ。そこに宇宙のすべてがかかっ
ているような、歴史の重みが全部その一点に集中しているような重さを見よ。
アブラハムはどうでもいいんだ……それを著者は伝えたいのです。
今私たちがそのシンボルでもあるパンと杯を手にするとき、これをケチな
アブラハム家の繁栄の約束と見て、シラーとしているか? それともその祝福
というのは、アブラハムと同じ祝福を受け継ぐあなたを生かす約束と受け止
めるか! 神の子の血であなたの罪を清めてあなたに命を注ごうという「神が
神かけて」誓われたほどの約束と知って、ショックに打たれるか!
もしその誓いの重みが、ズシンとあなたの存在の底まで響いて伝わったら、
「世を逃れて」出て来い。間もなく崩れて無意味になる世界から呼び出され
て、出て来い。私たちの先駆けとして天に入ったイエスを信頼して、この希
望にしっかりつかまれ。綱と錨は天の緞帳の奥まで伸びている。命の根源、
人生の意味付けの中心に固定されている。少なくともこの辺まで分かったら、
多分あなたはアルタバン博士からの感動などよりも、ほんの少し、力の源に
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神が神かけて誓う
近いところに届きかけている。そういうことです。
(1987/08/09)
《研究者のための注》
1.この6章後半の論旨は、古典的なヘブライ式注釈の形を取っています。私たちにとっ
てやや理解困難なところも、筆者と読者の間ではツーカーで通じたのでしょう。
Alexander Purdy は Interpreter's Bible で、ここは創世記 22:16-17 のミドラーシ
ュのような形をとっていて、テキストをレビ 16:2 の「主の臨在」という思想と結び
つけ、最終的には詩篇 110:4 へつないで終わる「一種のミドラーシュである」と説明
します。
2.神が「御自身にかけて」誓うという考え方は、現代人の我々に異様に響くだけでなく、
ギリシャ哲学の訓練を受けたユダヤ人の哲学者フィロンにとっても、説明の困難を感
じさせたようで、フィロンは、旧約聖書の記者が読者の人間的理解を助けるために譲
歩して、この表現をしたものと見ています。ただヘブライ書の著者自身は、そのよう
な斟酌の必要を覚えず、神の保証の絶対的確かさをこれ以上に実際的に説明できない
と確信していたろうと、私は想像します。
3.ローマ書 4 章やガラテヤ書 3 章における、アブラハムの模範の使い方は、このヘブラ
イ書とはいくつかの点で異なっており、パウロは「神が自らにかけて誓った」という
所は素通りします。創世記 22:16 を引用するにあたっても、ヘブライ書は「あなたの
種を」
^[]r.z: が LXX にとはっきり訳されているのにこれを無視して、
「あなたを」増やすと、代名詞に読み替えます。これに対しパウロは「種」にこ
だわり、12:7 では、この
[r;z<
ないしの集合名詞としての慣例を無視して
まで、「種」は単数で「神の独り子イエス・キリストを指す」という議論を展開しま
す。パウロもまたヘブライ的論法を使っている訳です。またヘブライ書の記者は、マ
タイ 5 章やヤコブ 5 章に見るような誓言の危険性は全く考えず、「誓う」というヘブ
ライ的行為をまことに素直に承認して、これを神御自身に適用して(勿論人間の乱用
とは無縁ですが)使っています。
4..「幕の内」(19)については、レビ 16:2、ヘブ 9:3-7、同 10:12-23 を参照し
て下さい。
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神が神かけて誓う
5.神が「御自身にかけて誓われた」という、この目立った表現は、詩篇 105:9、ルカ 1:
73 も注目しています。何よりこの
yTi[.B;v.nI yBi(私は私によって誓った)という創 22
章だけに見る珍しい表現は、ヘブライ語としても、旧約文献の中でも異様に響いたの
でしょう。なお Bruce は、これに相当する神の宣言として
ynIa]-yx;(私は生きている)
を指摘します。後者の用例はイザ 49:18、エレ 22:14、同 46:18 に出ます。
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