キリストの聖体(Lectio Divina C 年) 5 月 29 日 キリストの聖体 問題含みの奇跡 ルカによる福音書 9章 11 ~ 17 節 11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、 治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言っ た。 「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つける でしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなた がたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありませ ん、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14 というのは、男 が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、 「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」 と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは五つのパンと二匹の 魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ た。17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。 他の朗読:創世記 14:18 ∼ 20 詩編 110:1 ∼ 4 Ⅰコリント 11:23 ∼ 26 Lectio …読む 福音書の記者は、奇跡によってイエスが神であると示された、と考えただけではありません。奇跡 がイエスの宣教の妨げになるとも気づいていました。イエスは教えに重きを置いていたのですが、最 初の奇跡を行なった直後から群衆が集まるようになりました。いやしを求める者がおり、多くは興味 本位で集まっていました。イエスの宣教は、会堂などに集まる少人数に教えることから始まったので すが、やがて広い場所で大勢の群集に対する公けのものとならざるを得なかったのです。 今日の朗読箇所に続くいくつかの章では、奇跡が問題になってくることが見受けられます。真剣に イエスの教えに従おうとしたのではなく、ただいやされ、飢えが満たされることを求めた人々、興味 本位で集まった人が多くいたのです。イエスはそのことが分かっていたにもかかわらず、空腹な群衆 に食事を与え、病人をいやし、悪霊に取りつかれた人を解放しました。 イエスは、奇跡によって力を示そうとしたのではありません。後で問題を招くことになったとして も人々の空腹を満たしたかったのです。父なる神は餓えた人々を良きもので満たすことに喜びを覚え られる方です。イエスはその御子として、人々の必要に応えずにはいられなかったのです。 Meditatio …黙想する 今日の朗読個所である 5 千人への給食は、感謝の祭儀も暗示しています。イエスが丘の上でパンを 割いて群衆に与えたように、数か月後には、イエスは最後の晩餐で近しい者のみとパンを割くことに なり、こうして、聖体の秘跡を定められました。 他の福音書には、丘の上のパンと魚は少年が持ってきたという詳細な記載がありますが、ご聖体の パンとぶどう酒は、さらに大きな主イエスの犠牲−ご自身の裂かれた体と流された血 ‐ によっても たらされました。 イエスは、人々が後にどのように反応するかに関わらず、丘の上で人々の必要に応えらました。そ のように、聖体拝領において私たちの必要に答えてくださるイエスの愛は、尽きる事がないのです。 最後の晩餐を記したヨハネによる福音書 13 章の最初に、イエスは「弟子たちを愛して、この上なく 愛し抜かれた」と書かれている通りです。 キリストの聖体(Lectio Divina C 年) Oratio …祈る 聖体の祝日に思いをはせ、今週ご聖体に与る機会があれば、キリストが私達の必要に応えてくださ ったこと、また多大な代償を払ってまでもその犠牲に象徴されるように、豊かに与えてくだったこと を感謝しましょう。 Contemplatio …観想する 私たちも周りの人々の必要に応えることが求められています。聖体拝領の目的のひとつは、人々の 必要に応えたイエスに私たちが倣うことです。 今週、感謝の祭儀をどのように祝いますか? 典礼だけでなく、キリスト者としての実践において どのように祝いますか?
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