「宗教学通論」ハンドアウト(6) 「宗教学通論」授業用ハンドアウト(6):現代世界と宗教(2) ──カルト・セクト:教団論(宗教集団類型論)と現代の社会問題── Ⅰ はじめに──現状と課題の概観 Ⅱ 「カルト/セクト」という語の現在普及している用法 Ⅲ 「カルト」という語の元来の意味と従来一般的であった用法 Ⅳ 宗教社会学の教団論(宗教集団類型論)における「セクト」「カルト」概念の用法 Ⅴ 「カルト」概念のその他の用法 Ⅵ 「カルト」に対する新しい見方:「カルト」は「宗教」とは限らないが…… Ⅶ 資料(「反カルト運動」「カーゴカルト」「人民寺院」「UFO カルト」) 参考文献) 棚次正和・山中弘(編著)『宗教学入門』ミネルヴァ書房、2005 年(教科書)、第 4 章 「教団」pp.190-191、 「カルト」pp.200-201 竹下節子『カルトか宗教か』文藝春秋、1999 年(文春新書 073) 井門富二夫『カルトの諸相──キリスト教の場合──』岩波書店(叢書・現代の宗教 15)、 1997 年 阿部美哉『現代宗教の反近代性──カルトと原理主義』玉川大学出版部、1996 年 井上順孝(編)『現代宗教事典』弘文堂、2005 年 「カルト」「カルト運動」「オーディエンスカルト」「カルト・セクト問題」 「マインドコントロール」「脱会カウンセリング」「反カルト運動」 「チャーチ・セクト論」「デノミネーション」「UFO カルト」「カーゴカルト」 南山宗教文化研究所(編)『宗教と社会問題の〈あいだ〉──カルト問題を考える──』 (シンポジウムの記録)青弓社、2002 年 Ⅰ はじめに──現状と課題の概観 2006 年夏休みには、「摂理」(「MS」、「モーニングスター」)が日本の大学のキャンパス でも密かに活動しており、かなりの数の学生が性的暴力の被害に遭っている可能性が高い という報道がなされ、「カルト」や「危険な宗教団体」に対する注意が呼びかけられた。 現在、入学式の後に、「宗教団体」による勧誘に注意するようにという指導をほとんどの 大学が行っているのが現状である。(「対宗教安全教育」と呼ばれる。) では、(1)これまで、宗教学・宗教研究の世界において、「カルト」や「宗教集団」と いった概念がどのように議論されてきたか? (2)また現在、宗教学者・宗教研究者は、 現代のカルト問題にどのような態度で臨もうとしているのか? 現在、日本やアメリカでの「カルト」と呼ばれているものは、現在、フランスやドイツ では「セクト」と呼ばれている。特にこの「セクト」という言葉は、「教団論」あるいは 「宗教集団類型論」における「学術用語」として、伝統的に「宗教社会学」において用い られてきた言葉でもあり、この伝統的な「宗教社会学」の「教団論」における「セクト」 概念と、現在世間を騒がせている集団を指す場合の「セクト」概念とは、密接な関連を有 -1- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) してはいるものの、明確に区別して考えなければならない。 「カルト」という概念も同様、 本来は、現在注目を集めているような集団を意味する概念ではなかった。 ○宗教学者(宗教社会学者)vs.脱会支援の牧師や弁護士などの活動家の対立 ○「カルト」とはどのような特徴をもつものか ○「カルト」は「宗教」か Ⅱ 「カルト/セクト」という語の現在普及している用法(教科書 pp.200-201) 「カルト」=社会問題化した宗教や団体のこと(後出の 4、特に 4.2) トマス・ロビンズ、ディック・アンソニーによれば、一般社会で「カルト」と呼ばれる 宗教や団体の特徴として次のものを挙げることができるという。 ①非因習的で秘教的 ②非難の的になっている ③権威主義的 ④組織が緊密でコミューン的 (commune フランス語 自治的共同社会) ⑤攻撃的に改宗を求める ⑥教義の植え付けや集団儀礼の点で徹底的・ 情緒的 さらに「破壊的カルト」とされる集団の基準 ①コミューン的一体主義 ②権威主義 ③カリスマ的指導者 ④暴力 ⑤児童虐待 ⑥性的搾取 ⑦集団生活における強度の情動 ⑧マインド・コントロールの手法の使用 これらの用語法は「記述的」というよりも「規範的」、つまり「価値判断」を含む。 「科学」は客観性を目指すが、「反カルト運動」家は「価値判断」を求める、という点で 両者に不一致が生じる。 Ⅲ 「カルト」という語の元来の意味と従来一般的であった用法 「カルト cult」はラテン語の cultus から出来た言葉で、「崇拝」「儀礼」「祭儀」などの 意味で本来は用いられる。 「信仰に何らかの実践的表現を与えるもの。本来「聖なるもの」 に対する人間の制度化された「崇拝行為」であるから、どのような宗教集団にも、また民 族宗教にも見られる。 3.1 例えば、ローマ・カトリック教会などの「聖人崇拝 cult of saints」。 -2- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) 3.2 従来の宗教学や文化人類学:崇拝対象を取り巻く信仰と儀礼のセットのこと。代 表的用例:「カーゴカルト cargo cult」(19 世紀末からメラネシア各地で起こった現象) Ⅳ 宗教社会学の教団論(宗教集団類型論)における「セクト」「カルト」概念の用法 しかし、さらに「カルト」は、「宗教集団類型論」ないしは「教団論」の用語として特 別な意味を担ってきた。 また、「セクト sect」も「宗教集団類型論」ないしは「教団論」の用語として従来使用 されてきた概念である。 4.1 従来の教団論(宗教集団類型論)における「セクト」概念 4.1.1 チャーチ・セクト論(church-sect typology) M.ウェーバーが嚆矢であり、E.トレルチが基礎を固めた類型論。ヨーロッパのキリスト 教諸教団の理解のために構成された。 チャーチ: 社会の支配層に結びつき、ヒエラルヒー構造をもち、世俗を肯定して、社 会全体の成員を包括しようとする「恩寵の独占機関」。信仰は個々人の選択に委ねられる 問題ではなく、生まれ落ちた時点で「チャーチ」への加入は決められており、ここでは宗 教は運命。恩寵を授けるのは「司祭」という職務に由来する権威であって、個人の宗教的 ・倫理的資質に影響されない。社会学的な視点からいうと、この「チャーチ」はとりわけ 社会を維持する機能を果たす。最盛期のローマ・カトリック教会がその例として挙げられ うるが、国教会となった主流のプロテスタント教会もこれに数え入れることができる。 セクト: 社会の下層あるいは社会の不満分子と関係を持ち、宗教的・倫理的に資格を 有すると認められた者だけが自らの意思で参加する自発的結社であり、「万人祭司主義」 を原則とする平等主義的結社。メンバー間の人格的・直接的な交わりを重んじる。世俗社 会に対しては無関心ないし敵対的態度を示す。規模は相対的に小さい。社会学的機能につ いて言うと、この「セクト」は、「チャーチ」とは反対に、社会対する挑戦的機能を有す る。つまり、社会を批判し、これを破壊する機能を担う。例としては、(ローマ・カトリ ックに対する)プロテスタント諸派、バプティスト、メノナイトなど。 ミスティシズム(神秘主義)――トレルチによる:神秘主義的宗教経験を重んじる個人 主義的交わりを言う。直接的な体験を重視することから、個人が基盤となり、そのため、 儀礼や教理などの歴史的要素の意義が後退し、伝統から離れる傾向が強い。この点で、後 に類型とされる「カルト」概念――主流文化の宗教団体の枠組みから離れた不安定な小集 団という点で神秘主義と傾向を共有している――に転化してゆくと見ることも出来る。 ヨーロッパで現在、一般に「セクト/ゼクテ」と呼ばれている教団は「チャーチ・セク ト論」で言われる「セクト」と一致しない。「チャーチ・セクト論」の「セクト」はあく まで「チャーチ」に対する批判的機能を果たすもの。 4.1.2 デノミネーション(denomination) リチャード・ニーバー(R.Niebuhr)『デノミネーショナリズムの社会的起源』(1929 -3- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) 年) 「セクト」は時の経過とともに変質する。伝統的宗教組織と切り離されたところで生じ た急進的「セクト」は、入信当初の熱狂が薄れてゆき、課せられる厳格な生活規律がメン バーの信用を高め、彼らの社会的ステイタスを上昇させることになると、円熟・変質し、 世俗と妥協し、他教派とも共存するようになる(批判機能の減退)。宗教性の表現も穏当 で社会的に受け入れられやすいものになる。移民集団(「セクト」)のつくった国アメリ カ合衆国で独自の活動を展開する諸派が、このような変質した「セクト」の実例だとニー バーは言う。 (元来「セクト」は「チャーチ」に対する「セクト」であるが、ヨーロッパの「チャー チ」支配から「セクト」が逃れてきた先であるアメリカ合衆国には「チャーチ」が存在せ ず、出自を異にする同程度の勢力の多くの「セクト」だけが存在し、これが新天地アメリ カ合衆国に忠誠を誓うところから、元来の「セクト」からの変質が生じ、「デノミネーシ ョン」が生じることになったというのが、ニーバーの理解である。) デイヴィッド・マーティン(D.Martin)「デノミネーション」(1962 年) 「デノミネーション」はそれ自体、歴史的に特異な宗教形態であって、進化論的過程の 中に位置づけられるべきではないとしてニーバーを批判した。 特定の支配的宗教組織のない、政教分離の社会体制の下で、伝統・民族・国家などの外 圧とは無関係に自発的意志によって選択した信者が組織する集団のこと。脱退も個々の加 入者の自由意思にもとづく。同一社会内に複数の宗教組織が存在し、それらの間に信者獲 得の市場的競争原理が働いていることが前提。(「チャーチ」は存在しない。)他の集団と の並列状態を受け入れ、one of them であることを甘受し、絶対性主張を和らげ、国家、 地域社会、他教団といった周囲の社会的条件と調和的になる。そして、それによって当該 宗教組織に一定の社会的地位と社会的認知が付与される。 4.2 20 世紀以降の「宗教社会学」における「カルト」概念 キリスト教の伝統の枠内に収まらない新しい宗教運動が顕著になり、それに対して「カ ルト」という類型が「宗教社会学」においても案出されるようになる。 4.2.1 1920 年代に見られる社会科学者の用法 主要な宗教伝統に属さない米国発生の宗教(「クリスチャン・サイエンス」、「ヴェーダ ンタ協会」など)を指す。 秘教的(エソテリック)教え、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝、緩やかな信徒集団をもつ教 団を示す概念で、宗教社会学において洗練されていく。 4.2.2 ミルトン・インガー(J.M.Yinger)、ハワード・ベッカー(H.Becker) 「カルト」とは「個人主義的忘我経験や精神的身体的な癒しを求める人々による緩やか な結合であり、既存の宗教伝統から逸脱する教えをもち、それゆえに周辺社会から不審視 される」。→既存伝統の拘束力が弱まり価値観が多様化した現代社会であるからこそ、「カ ルト」の活動は活性化する。 4.2.3 ロ ド ニ ー ・ ス タ ー ク ( R.Stark)、 ウ イ リ ア ム ・ シ ム ズ ・ ベ イ ン ブ リ ッ ジ (W.S.Bainbridge) -4- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) スタークとベインブリッジは、「カルト」は、信仰の再確立を目指して母教会から分離 する「セクト」とは異なり、既存の伝統から逸脱する新しい教えのもとに形成される集団 であるとしたうえで、組織化達成度によって3つの下位類型を設定した。 A 「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」)(=「呪術」) 新奇な神秘的なものについての情報をメディアを通して知り、関心を寄せる人々をメン バーとするもの。彼らは宗教的な情報の消費者であり、それらによってスリルやエンター テインメントを得ようとする。しかし、消費者同士で、また情報提供者とより深くつなが ろうとする意欲には乏しく、さらに情報提供者の側もオーディエンスを組織化する意図に 乏しい。神秘主義的なテーマを扱う講演会、書籍・雑誌或いはテレビ番組が開催され、発 売され、放映されて、人々が集まり、読者や視聴者が現れるとき、そこに「聴衆カルト」 (「オーディエンスカルト」)は成立している。ウェブサイト上にも。気軽に参加でき脱 退も容易。(教科書の「消費」の項目も参照のこと。) B 「クライエントカルト」(=「呪術」) 治療者やカリスマ的人物のもとを人々が訪ね、来談者(クライエント)となり、セミナ ーやセラピーに参加する。「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」)よりは主催者と来 談者との関係は密になっているが、明確な教義の枠組みや来談者相互の間の明確な組織は 欠けている。 C 「カルト運動」(=「宗教」) 「聴衆カルト」や「クライエントカルト」ではスリル、エンターテインメントや病気快 癒などが求められているにすぎないので、これらが与えられてしまえば、それ以上これら の「カルト」に関与し続ける必要はないため、集団の組織化は進まない。実際的・具体的 な目的を達成するための手段として、これが利用されるところから、これらは「呪術」に とどまるとされる。しかし、「永遠のいのち」や「魂の救い」などは、すぐに確認するこ とはできない。このようなものが与えられるという保証を有効にしておくためには、この 保証を受ける側は供給側と持続的に関わることとなり、そこで組織化が必然となる。この 保証を供給する人間組織こそが「宗教」に他ならない。 また、「カルト運動」は人々を回心に導き、社会変動を誘引しようとするもので、二重 のメンバーシップを許さない厳格な組織であるが、多くが虚弱な組織であって、指導者の 得た新たな啓示や霊的メッセージを主題に定期的に催される勉強会のようなものが一般的 形態である。 しかし、メンバーに高いレベルの関与を要求し、厳しい道徳的生活を要求するケースも ある。その場合、「カルト運動」は現実社会と緊張関係に置かれることになる。 Ⅴ 「カルト」概念のその他の用法 5.1 1930 年代からの保守的福音派の考え 異端的キリスト教(「モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)」、「エホバの証人 (ものみの塔聖書冊子協会)」など)を指す。特定の宗派から見た価値観を含む用法であ り、アジアやアフリカから移入された諸宗教や非正統的キリスト教を指し示す。 -5- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) 5.2 「反カルト運動」による 1970 年代以降に広まった用法。 「破壊的カルト」という見方。教団や教会に批判的な元信者、現信者の家族、「脱会カ ウンセリング」の専門家による用法。彼らは当該教団を「マインド・コントロール」を行 う集団と規定する。この用法は、「反カルト運動」がマスメディアにアピールする中で今 日最も広まった用法。 「人民寺院事件」以来、また日本の新宗教団体が当事者になって起こした諸事件以降、 「邪教、反社会的宗教団体」というネガティブなニュアンスを持つ言葉として定着した。 学問の用語とは異なる。 宗教学者(宗教社会学者)はここでいう「カルト」を実体ではなく、ラベリングである と考えてきた。つまり「カルト」は存在せず、社会的実践(異端としての批判、反社会的 集団としての告発・介入)の正当化のための言説に過ぎないと見る。「宗教社会学」の主 流派は「カルト」を社会的に構築された概念として捉え、「反カルト運動」の研究を「カ ルト」研究の後に開始している。 Ⅵ 「カルト」に対する新しい見方:「カルト」は「宗教」とは限らないが…… 6.1 社会の病理現象 竹下節子氏などは「カルト」を集団のあり方・動き方に求め、その集団が表面的・外観 的に宗教団体であるか商業・営利団体(「ビジネス・カルト」――竹下氏は韓国の「統一 教会」やアメリカの「サイエントロジー教会」も実態はこの「ビジネス・カルト」である と考えている)であるか、環境保全団体であるか(「環境カルト」)、第三世界支援団体、 人道活動団体であるかといったこととは関係がないと考えている(竹下氏は「シンプルラ イフカルト」「健康カルト」などといった概念も用いている)。彼女によれば、「カルトと は数名以上のグループの動き方の一つを指すもので、集団で閉鎖に向かい、その中の個人」 が「健全な識別能力や批判能力を失っている」ものである(p.16)。「現代のカルト現象の 特徴は、正統と異端の関係の中での「マイナー宗教」という側面から離れたことだろう。 カルトは「宗教」社会現象ではなくて、社会の病理現象の一つの形であるに過ぎない。宗 教の名を冠している場合も、霊的なものを実際に追求しているというより、救いを求める 人々に対する単なる誘い文句であったりすることが多い」(p.23)。「現代のカルトの実態 は、外部の社会は悪に染まったもの、悪魔の仕業などと決めつけて外界と縁を切らせ、極 端な教条主義、ラディカルでピュアイデオロギー、内部では、しばしば社会から弾圧・迫 害を受けているという犠牲者の感情が育ちやすい。実は宗教的な看板の裏で、グループの 目的の第一義は上層部における「権力」の追求であったりする。その権力は、信者を宗教 的な「教え」に帰依させて得るものではなく、事実上、信者を心理操作することでのみ得 られる」(p.23)。「カルトがカルトたる理由は、その教義(宗教カルトであるなしにかか わらず)そのものにあるわけではない。勧誘方法、編成方法、外部からの隔離、脱出の困 難さなどにある」(pp.25-26)。「カルトがカルトになるのは、メンバーの自由や人権に抵 触するグループの機能の仕方にある。リーダーやメンバーの行動をじっくり観察して良識 のフィルターにかけねばならない」(p.54)。 ○「カルト」は人々の不安感につけ込む。留学などで一人不安な海外生活を送っているよ -6- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) うな人がしばしばターゲットにされる。筑波大学のように1年生の多くが親元を離れて初 めて一人暮らしをするような大学は、この点で「カルト」のターゲットになりやすいと言 える。 ○「カルト」は金集め・人集め・権力掌握などの本音をカムフラージュする。孤独を癒す サークル活動、仕事上の能力を育てる自己改革(自己啓発セミナー)、第三世界に中古衣 料を支給する慈善団体、難病治療を推進する団体、文化団体などの姿を取ってターゲット に接近する。しかし、もっともポピュラーなのがやはり「宗教」。「詐欺師、ビジネス人 間、あるいは妄想や人格障害をかかえたリーダーが、宗教者を装ったり自分で宗教者でだ とか神だと思い込んだりしてしまう。もともとカルトと宗教とは親和性があるのだ。/し かし、宗教カルトの本質は宗教ではなくカルトにある」 (p.35)。 (基本的に「宗教カルト」 としての旨味を享受しつつ、「宗教」が警戒されていることから、さらに別の形態をとっ てターゲットに接近するという、二重にカムフラージュしたカルト(《本質》金集め・人集め→ 宗教団体→慈善団体《見かけ》) が多いこと、今後もこの形態がふえるであろうことにも注意を 払うべきであろう。) ○それでもなお、「カルト」が「宗教」の姿を取りやすいのには幾つもの理由がある。ま ず、「宗教」の姿を取り、宗教法人として認可されれば、「信教の自由」という言い逃れ を利用して自己保全を図ることができる上、さらに税制上の大きな優遇も受けられるから である。 6.2 宗教社会学からの新しい提言 北海道大学の櫻井義秀教授など。 (1)「カルト」には a)集団の凝集性(内的抑圧と外社会からの分離) b)成員に対する動員力の強さ(統制と服従) が共通の特質として指摘されうる。 (2)宗教集団は多くが救済を独占する集団であることから、凝集性が高くなる特徴をも つ。そして、これが、信者や外社会に対する暴力的行為として認識され、社会的批判を受 けることが「カルト問題」である。つまり、社会的凝集性と動員体制が強い集団のうちに は《宗教的組織》と《非宗教的組織》があり、その《宗教的組織》は、いずれも教祖のカ リスマが強く、熱狂的な信仰と献身が存在し、そのカリスマが信者の服従を導く権力の源 泉になる危険性がある。しかしだからと言って、そのすべてを「カルト」と名づけて問題 視するべきではない。宗教のこのような特徴は、そもそも社会を《活性化/破壊する》と いう両義的効果を持つ可能性を有するのであり、これをもって、そのような宗教的組織を 一概に否定するべきではない。 (3)しかしながら、勧誘・教化過程における精神操作、信者に対する精神的・性的虐待、 一般社会や信者からの金銭的収奪が認められ、そのために社会問題化し、法律家や精神医 学者が集団に介入する正当性が認められるケースが存在するのも事実である。このような 集団(「破壊的カルト」)(A)は、宗教集団の下位類型ではなく、宗教集団が、違法性・ 病理性を伴うと判断された非宗教的組織(C)のもつ特徴と重なる特徴(それ自体は「宗 教的」なものではない)をもつことによって成立する概念である。つまり、問題とされる べき「カルト」は、社会集団一般に起こりうる病理現象(人権侵害、社会秩序からの逸脱、 -7- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) 精神病理的行動)を伴うようになった「宗教集団」のみを指し、極めて強力なカリスマと 献身とを特徴としていても、病理現象を伴っておらず、社会問題化もしていない宗教集団 (B)とは、明確に区別するべきである。 (4)また、当該社会において問題化されなかったが、全体主義集団・国家も、指導者の カリスマや構成員・大衆の熱狂・自発的服従といった総動員態勢があったことが政治学に よって考察され、歴史的反省がなされてきた。 (5)そこで、カルト問題の精緻な議論のためには、次のことが必要である。 (i)カルト問題における「カルト」概念を(A)に限定し、(B)の宗教研究、(C)の法律学 ・精神病理学、(D)の政治学における、それぞれの固有の対象と区別する。 「カルト論」 「マ インドコントロール」などの特殊領域の議論を他の領域に適用しても生産的ではない。 (ii)カルト問題の指標が「人権」侵害、「社会秩序」からの逸脱であることを明確にし、 当該社会で、さまざまな出来事がどのような理由・過程で社会問題化されてきたのかを考 察することが「カルト問題研究」の主たる課題である。そこでは、社会集団における凝集 性のメカニズム、その否定的側面を研究する心理学や社会学が有効である。さらに、教団 固有の論理は宗教学が明らかにする。また問題に介入する法律学や精神医学、心理療法が、 社会的実践の学としてカルト問題への対処を論じることになる。 (6)まとめ 1)「宗教社会学」は「カルト」はラベルにすぎず、実際にはどこにも存在しないと主張 すべきではない。「カルト」は現に存在する。 2)しかし、それは、これまでそのように論じられてきたような「宗教集団」や「教団」 の「類型」と考えるべきではない。「カルト」を「カルト」とするのは、病理的現象と社 会的批判である。(「宗教社会学」も、これらの存在を否定すべきではない。) 3)その上で、「カルト問題」の研究は、「宗教学」とは区別して、学際的に行われるべ きである。 保呂の補足 ○「カルト」と「宗教」の親和性:宗教においては日常的で利己的な自我に死んで、普遍 的絶対的な者との一致を体現する新たな自己を生きることが求められると言ってよかろ う。民俗宗教、民俗宗教など、人間の個我の確立以前から存在する宗教の場合、このよう な古い自我の死と新たな真の自己への目覚めを特に強調しないが、それはこれらの宗教の 場合には、そもそもそのような閉じられた利己的自我が存立していない状況を想定してい るからであり、初めから各人が普遍的な集合的自己に開かれた状態で生きる世界そのもの を表現しているからである。これに対して、利己的個我の確立以後の世界に登場した世界 宗教は、この利己的個我の破壊を第一の課題としたわけである。ところで、この利己的個 我への執着を絶つことは自己の判断力の全面的な放棄ではないし、そこから生まれる新た な普遍的自己も、当の自我自身の本来の主体として当人の外部にある権力などではありえ ないのであるが、一見すると、これまでの自己の判断力への依存をはなれて、盲目的に外 的権威に依存することと、表面的には類似する点がある。このように、「カルト」は宗教 の本質的で重要な局面と本質的にはまったく異なりつつも表面的には類似する点がある。 だから宗教もまた十分に注意していなければ、いつでも「カルト」(「宗教カルト」)に転 -8- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) 落しうることを銘記しておくべきであると思われる。(竹下氏はローマ・カトリック教会 内部のある公認グループがかつてそのような「カルト」へ転落し、公認を取り消されたい うケースの報告も行っている。) Ⅶ 資料 ○「反カルト運動 anti-cult movement」 「カルト」視される特定集団に批判的な人々や、「カルト」問題を社会的に啓発しよう とする専門家によって推進される様々な社会活動。「反カルト運動」という言葉は、「カ ルト」概念に批判的な宗教社会学者が用いたもので、活動の当事者たちや一般社会ではあ まり用いられない。 アメリカ合衆国で 1960 ∼ 1970 年代にかけて東洋系の新宗教がオールターナティブな価 値観を求める学生や中間層に広まったが、その教義や活動は、アメリカでは非正統的であ ったため、異端扱い(異様な儀礼としてのカルト)を受けることとなり、家族が子どもを 教団から取り戻そうとしたりした。人民寺院の集団自殺事件以降、マスメディアも「カル ト」の危険性を報道するようになり、これに精神病理学や臨床心理の専門家が介入するよ うになり、「マインド・コントロール」という精神操作の概念や「カルト」という全体主 義的組織の概念が生み出された。 しかし、アメリカ合衆国においては、元信者が教団を訴える裁判において勝訴する例が 少なく、脱会カウンセリングが問題視される傾向にある。「反カルト運動」により「カル ト」は社会問題であると広く社会に訴えることには成功したが、実質的な司法・行政上の 問題介入は避けられている。 ○「カーゴカルト cargo cult」 19 世紀末から 20 世紀にかけてニューギニアを中心とするメラネシアの各地において生 じた一連の宗教的社会運動。フィジー、バヌアツ、ニューギニア、ソロモン諸島などの各 地域で、特に両大戦間の時期に類似の現象が報告された。 まもなくこの世に大異変が起こり、ヨーロッパ人の富(船や飛行機の積荷「カーゴ」cargo) を満載した船或いは飛行機が自分たちの元にやってくるという信仰で、これらのヨーロッ パ人の富を作っているのが、自分たちの先祖であり、その先祖の世界から船や飛行機がや ってくると信じられた。しばしば啓示を受けた預言者が出現し、この預言者の元で先祖や カーゴを迎えるために飛行場の建設、従来の社会制度の破壊、新しい町作りなど、様々な 行為が組織的に行われた。このような一連の現象がカーゴカルトと呼ばれ、積荷崇拝、船 荷崇拝などと訳される。 これらの運動には、現地の伝統的世界観とキリスト教の教義が共に見られ、質的・量的 に圧倒的な差をもつ文化間の接触が重要な発生要因であるとされている。 発生初期には、「精神疾患」「狂気」の現象のように扱われたが、その後、ヨーロッパ 社会と接した現地住民が彼らなりにヨーロッパ社会との関係を理解しようとした結果、生 じた運動として扱われるようになった。圧倒的なヨーロッパ人の富を、神(自分たちの先 祖)が作ったもので、何らかの手段によって自分たちの手にも入ると考えたことから、様 -9- 「宗教学通論」ハンドアウト(6) 々な活動が生じたと説明される。 また、カーゴカルトは、理想郷の到来を目指すことから、「千年王国運動」の一部とし て扱われることもある。 ○「人民寺院 People's Temple」 牧師ジム・ジョーンズ(J.Jones,1931-1978)が 1953 年にインディアナ州インディアナポ リスにクリスチャン・アセッンブリー・オブ・ゴッド教会を開いたが、1964 年頃までは ディサイプル教会派に属するようになり、ジョーンズも福音主義キリスト教や再臨派の流 れに位置する。 しかし彼はラディカルな人種平等思想をもち、人種の統合された教会を造ろうとしたた め、白人社会から警戒・迫害され、次第に社会主義にも傾倒。1965 年にカリフォルニア 州ユカイア市へ移住。」CIAによって迫害されているという意識や終末思想がさらに強 まり、1974 年南米ガイアナ共和国でジョーンズタウン農業プロジェクトを立ち上げ、宗 教コミューン的生活を開始した。 しかし子どもの養育権をめぐる闘争や、マスメディアでの否定的報道はさらに加熱し、 ジョーンズも信者の忠誠心を高めるため、迫害の意識や恐怖心を煽った。ジョーンズは自 らをメシアとし、反キリスト勢力との最終戦争に勝つと主張した。そして、想定される「暴 力的迫害」に対抗して武器を持つようになった。 1978 年 11 月、人民寺院に反対する米国国会議員のライアンと報道陣、憂慮する家族等 がジョーンズタウンにやって来た時、信者たちは人種差別的ファシズム社会の謀略による 攻撃がついに始まったと考え、ライアン一行を飛行場で射殺した後、900 人あまりの信者 が青酸カリなどを用いて集団自殺した。この事件は世界を震撼させ、 「カルト」による「洗 脳」の最悪の事例と見なされ、 「カルト」を危険視する傾向を一段と強めることとなった。 ○「UFOカルト UFO cult」 1947 年、ケネス・アーノルド(アメリカの実業家、1915-84)が自家用飛行機を操縦中 にUFOを目撃したと主張。また 1950 年代、宇宙人にあった(コンタクト体験)、UFO に乗って宇宙を旅したと主張する人が現れるようになる。こうしたコンタクティ(宇宙人 会見者)の主張を超越的真理として信じる人々が結成した個々のグループが「UFOカル ト」と呼ばれている。 代表的なものとしては、次の2つをあげることができよう。 (1)1952 年、カリフォルニアの砂漠で金星人にあったと主張したジョージ・アダムスキ ー(G.Adamski,1891-1965)を信奉する団体。「日本GAP」はアダムスキー信奉者団体と しては世界最大規模である。 (2)1973 年にフランスの中部山岳地帯で異星人エロヒム(Elohim)に会ったと主張する クロード・ボリロン(C.Vorihon,1946-, ラエル)が主宰するラエリアン・ムーブメント。 「宇宙人」は既成宗教における神や天使のような存在で、「コンタクト体験」は既成宗 教における啓示のような役割を果たしていると見ることができる。 - 10 -
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