■ ﹃稲穂﹄ インタビュー⑤/下島正夫さんに聞く 戦前から戦後へ、 デザイン・編集の世界を駈ける 摩美術学校。今の多摩美術大学︶に行きました。 戦後もかなり経ってから、僕も多摩美のデザイン科 帝美では杉浦非水という人がデザイン科長をして いて、僕は杉浦さんがいるから帝美に行ったんです。 下島さんは飯田中学 回の卒業ですが、お生ま ―― れは? に行っていたんです。僕は藝大ではなくて、中学卒 う会社、名取洋之助が中心になってつくった会社で その中に河野鷹思さんというデザイナーがいまし て、その河野さんは当時、初期の﹁日本工房﹂とい 方々が来ていました。 宅には、絵描きや小説家、デザイナーなど、多くの 下島 帝美に在学中から須山さんには大変お世話に なりました。東京・自由が丘にあった須山さんのお 帝美︵多摩美︶を卒業してからは⋮⋮ ―― の教授を務めることになるんですが、それはずい分 あとの話。 人生振り返れば、まずは戦争 下島正夫さん 下島 大正三︵1914︶年一月四日生まれだから、 今、九十四歳です。よくここまで生きてきたと思い か? 飯田高校の同窓会室に、下島さんが描かれた絵 ―― がかかっていますが、絵描きを目指していたのです ます。だが、人生振り返れば、まずは戦争ですね。 31 下島 飯田中学の大先輩に、須山計一さんという方 ︵中 回︶ がいて、 上野の美術学校 ︵今の東京藝術大学︶ 22 業の二、三年前にできた帝国美術学校︵その後、多 25 人との出会いが、 また新たな出会いを生んで⋮⋮ 『稲穂』インタビュー⑤/下島正夫さんに聞く すが、そこにいたんです。その頃は銀座の交詢社ビ ルの中に会社がありました。 須 山 さ ん か ら 紹 介 さ れ て、﹁ 作 品 を 持 っ て こ い ﹂ というから、木炭や繭などの伊那の産業や、天竜峡 などの観光地を写真にとって、自分で現像、引き延 ばしをし、それをモンタージュした作品、これは卒 業制作の作品だったのですが、それを持っていきま した。 ﹁是 その作品を、河野さんが名取さんに見せると、 非会いたい﹂という話になり、日本工房に伺うと﹁明 日から来い﹂ということになって、翌日から日本工 房の社員になりました。 飯田市観光協会第 1 回飯田観光ポスター (1936 年。多摩美在学中) 錚々たるメンバーが集う﹁日本工房﹂ 当時、日本工房は対外宣伝季刊誌の﹃NIPP ―― ON﹄という雑誌を編集していましたが、 今思えば、 錚々たるメンバーがいましたよね。 下島 デサイナーに河野鷹思、山名文夫、亀倉雄策、 あとから写真で土門拳も加わりましたし、嘱託で木 村伊兵衛さんもいました。 藤本四八がひょっこり顔を出しまして、 そんな時、 ﹁なんでここにいるの?﹂って。藤本と私は親戚関 係になるんですが、四八さんはすでにこの日本工房 の写真部に在籍していたんです。 名取さんに﹁なんだ、お前たち親戚か?﹂と言わ れ、﹁そうです﹂と答えると、 ﹁じゃあ、しっかりや れよ﹂と言われました。藤本四八は人間としてはス カッとした男で、死ぬまで付き合いましたよ。 戦争中、四八さんは中国に行っていましたが、土 門は嫌って、中国には行きませんでしたね。 亀倉雄策さんはその後、日本のデザイン界の大 ―― 御所になりましたが⋮⋮。一連の東京オリンピック のポスターが代表作ですよね。 下島 亀倉とは二、三年、同じアパートに住んでい 26 の店に行くと店の親父に、﹁大晦日なのに何をぼや 人とも食いっぱぐれて行くところがなく、いきつけ なけなしの金を持って銀座へ行ったり、大晦日、二 て、同じ鍋をつつく、兄弟のような付き合いでした。 土門拳も嘱託としてここにいましたね。 月の初めての空襲も、そこの窓から見ていました。 名取さんからも﹁君は振興会向きだよ﹂と言われ ました。間もなく開戦。昭和十七︵1942︶年四 れまして、嘱託としてこのKBSに移りました。 言われて、少尉待遇で行っていました。 からはKBSの仕事ではなく、軍の仕事をやれ﹂と 下島 KBSにいた時に召集されて一年半ほど、フ ィリピンに行っていました。 ﹁ お 前 が 下 島 か。 今 日 戦地に行かれたことはありますか。 ―― ﹁驚くなよ。ここをどこだと思う?﹂ もしたりして、けっこう重宝がられました。 僕はそこで出版物や写真、映画などの美術関係の 仕事をしていました。また、タテ看板のレイアウト ぼやしてんだ﹂と言われて、仕出しの余りを出して くれたりしたこともありましたね。 やがて日本工房︵その後、国際報道工芸に名称変 更する︶は築地に移って、ひとつのビルの地下から 四階まで、全フロアを借りていました。でも、戦後、 ばらばらになって⋮⋮、今思えばたくさんの貴重な 写真も散逸してしまいました。 ﹁日本工房﹂から﹁国際文化振興会﹂へ 下島さんは戦争が終わるまで、日本工房にいた ―― のですか? その戦争も末期、﹁何日の何時何分、どこどこの 飛行場に来るように﹂という軍の命令で、新聞記者 や カ メ ラ マ ン ら 十 人 く ら い が 飛 行 場 に 集 め ら れ て、 下島 いえ。まだ戦前のことですが、国際文化振興 会︵KBS︶という組織がありました。二重橋前の ビルの七階を使っていました。近衛文麿が会長で、 行 く と こ ろ も 分 か ら ず に 飛 行 機 に 乗 せ ら れ ま し た。 ﹁ラバウルなら生きて帰れ ﹁ラバウルらしいぞ﹂ を飛んでいるのか分かりませんでした。 窓にはブラインドがかけられていて、まったくどこ 堀田善衛さんもいました。 もあって、面接に行くと﹁すぐ、来てくれ﹂と言わ 27 そこでデザイナーが一人欲しいという話があり、 お偉方を知っていたし、給料もずっとよかったこと 『稲穂』インタビュー⑤/下島正夫さんに聞く 農で先生が足りないからということで行ってみる ち着くことができました。そうこうするうちに、下 くことなんて、何もないよ﹂﹁ないならないと書け﹂ と、校長先生が喜んでくれて、﹁しばらくここでや ないな﹂﹁遺言でも書いておいたほうがいいぞ﹂﹁書 というようなことで、何か書いて渡しました。 その後、どこかの島に着陸したが、そこでは降り ず、また三、四日、飛んだり降りたりして、﹁どうも 語は、私がフィリピンにいたと聞いた校長が勝手に 画と英語の先生になりました。図画はともかく、英 ってくれますか﹂﹁いいですよ﹂ということで、図 ラバウルには行かないようだ﹂と思う頃、着陸しま 担任にしたんです。面白いものですね。 で、また上京することに⋮⋮。 ―― した。そこは上海でした。ところがまた飛び立った。 食べるものには困らなかったね。ウイスキーやコ ンビーフなど、機内にはアメリカの食糧があり余る 下島 そう。しばらく田舎にいたが、このままでは しょうがないと思って、再び東京に出てきました。 ような人を欲しがっている﹂と聞いて、行きました。 ほどあった。 しばらくウトウトしていると、﹁おい、おい﹂と 起 さ れ た。﹁ 来 た な。 こ れ で お 終 い か ﹂ と 思 う と、 そこでも﹁すぐに来てくれ﹂と言われました。それ 東 京 に は 古 い 友 人 た ち が い て、 ﹁ある出版社が君の 新聞記者が﹁驚くなよ。ここをどこだと思う?﹂と が角川書店でした。 のデザイナーの草分けのひとりとして活躍した人で の人で、飯田中学を中退して上京し、その後、日本 さんにお願いすることになりました。原さんも飯田 当時の社長の角川源義さんと﹃絵巻物全集﹄の装 丁を誰にお願いしようかという話になった時、原弘 どの大作をいくつも手掛けました。 仕事は面白かったですね。﹃世界美術全集﹄や﹃世 界文化史体系﹄ ﹃絵巻物全集﹄、 ﹃図説茶道大系﹄な 言う。九州だった。 列車に乗せられて、東京へ。まるで夢のよう。あ の飛行はいったい何だったのか、未だに分からない。 東京に戻ったものの、KBSは解散して跡形もなく 消えていました。 一日一枚のスケッチを楽しむ 路頭に迷うかたちになったのですね。 ―― 下島 それで、飯田へ戻りました。飯田でやっと落 28 下島 僕の在学していた頃、飯田中学に三浦晁古と いう日本画の先生がいました。私も絵が好きで描い の思い出を⋮⋮。 この大冊の編集を通して、﹁源氏物語絵巻﹂や﹁伴 大納言絵巻﹂﹁鳥獣戯画﹂など、国宝や重文クラス ていたところ、その先生が親父のところに来て、息 す。 の本物を見ることができました。本物を見た強みは でも、絵は自己流でした。上京してから、画家の 鶴田五郎の世話になったり、いろいろな絵描きさん と言ってくれました。ありがたかったですね。 父は弁護士でしたが、私には﹁好きなようにしろ﹂ 子さんをぜひ美術学校へと薦めてくれたんです。親 「福富草紙」から、荷を持つヒゲの行商人の 自筆のスケッチ それからずい分、編集の仕事に役立ちました。 一枚、スケッチをしています。それが今の私の楽し みのひとつとなっています。 のところに顔を出したりしました。その頃僕の描い た絵が、今、飯田高校にあるんですね。 飯田は菱田春草も生まれていますし、文化的な背 景がありましたね。空気のいいところ。言うに言わ 19 飯田には言うに言われぬよさがある それでは、もう一度遡りまして、飯田中学の頃 ―― れぬよさがあると思います。 飯 田 に い た 頃 は、 熊 谷 元 一 さ ん や、 若 く し て 戦 病死した市瀬文夫さんたちと交流がありました。よ く う ち へ 来 た も の で す。 一 緒 に 食 事 を し た り し て ⋮⋮。元一さんは北原寛サに気に入られて、﹁寛サ のお弟子﹂と言われていました。 回︶﹀ 29 今回の﹃稲穂﹄には熊谷元一さんや市瀬文夫さん も出るんですか。それは楽しみですね。 ︿インタビュー 清水茂則︵高 : 足が弱くなって出かけられないので、この﹃絵 今、 巻物全集﹄から動きのある人物を取り上げて、一日 『稲穂』インタビュー⑤/下島正夫さんに聞く
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