常識で考えた魏志倭人伝」

常識で考えた魏志倭人伝 20130118/20130228/0524/0917/20140226 堀江
1、はじめに
三国志(著者、陳寿(233-297 年))倭人条「魏志倭人伝」につき、
「常識で考えた日本古
代史」なる WEB サイトを見て、かなり学校教育で受けた知識がもろいものだと、知ること
になった。大筋で WEB 主催者の見解に同意するが、肝心な事項につき幾つか私の見解を記
録しておくことにした。
2、
「魏志倭人伝」の記載と見解
「倭人在帶方東南大海之中,依山島爲國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。
從郡至倭,循海岸水行,曆 韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里。始度一海,千
餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深
林,道路如禽鹿徑。有千餘
,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,
名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,
差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘
,濱山海
居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都
國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘 ,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。」
(1)
「至」と「到」の違い
ここで「至」は、比較的楽な行程で其の地に達することを意味し、
「到」の方は大変な困
難な行程の後に其の地に達することを意味する、と考える。
「楽浪郡」から「狗邪韓國」へ
は「乍南乍東,到其北岸狗邪韓國」と記載されていて、「到」が使用され、難儀な行程で
あったことが知られる。「狗邪韓國」から「對馬國」へは「千餘里」であるが、
「至對馬國」
と記載されている。これは、外国、すなわち中国若しくは朝鮮の外洋船で「狗邪韓國」か
ら「對馬國」に達するには困難が少ない、もちろん長期間の旅程ではあるが、少なくとも
困難は無いからだ、と考える。ところで其の旅行期間はどれ程だろうか? 当時の「千里」
は現在の 100Km 程(「千餘里」は 1400 里位らしいが、これが現在の地図上で約 130Km ほど
に相当する。)であるので、20 日もあれば到達しただろう。魏国採用の「短里説」では、1
里75m程であるが、当時はこれが通用していたと考えられる。
「對馬國」は、絶海の孤島
「所居絕島」であって、晴れた日には対岸から見えた筈である。この 20 日が長いと考える
人は、随書の記載、7 世紀において百済から済州島に達するのに 3 ヶ月を要したこと、を思
い起こす必要がある。10 世紀(930 年)の外洋船でも、紀貫之が高知から淀川を経て京都に
帰任するのに凡そ 55 日を要し、其のうち 1 ヵ月半は海路上に在った。海路は、やたら時間
がかかるのである。帆を操作して航海する術を取得していたかも知れないが、大きな帆で
はなかっただろうし、向かい風で航行できただろうか。潮流の強いところ、たとえば対馬
海峡では予め異なる方向に漕ぎ出さなければならない。通常は人力なので昼間しか漕がな
いし、夜は港に入るか、碇を下ろして舟が潮で流れるのを防いだはずである。なお、他の
模写文献では、
「對馬國」ではなく「對海國」となっていたようだ。航海する人(中国人)の
立場に立てば、納得できる名前である。「始度一海」、「又南渡一海千餘里」とある。また、
「對馬(ツマ)國」も、馬韓に向かい合う国という意味らしい。命名の視点が大陸側にある。
ついでに言えば、
「一大國」を梁書及北史では「一支國」とするが、これも航海する人の目
からして、対馬と対比し、
「一つの大きな島」に映ったはずで、印象的な名前である。
同様に、「對馬國」から「一大國」へは「千餘里」であるが、
「至一大國」と記載されて
いる。さらに、「一大國」から「末盧國」へは「千餘里」であるが、「至末盧國」と記載さ
れている。何れも船旅で、船の客にとって時間さえ経れば到達し、その間漕ぎ手である奴
隷以外に疲れる人は居ない。人力による荷物の積み替え、運送が不要であり、時間を除け
ば困難ということはできない。もっとも、これでも当時最速(恐らく、人の歩く速度より
少し遅い程度の船速、時速 3Km 程だったろう。
)の長距離移動手段であっただろう。
これに対し、
「末盧國」から「伊都國」へは「陸行五百里」であるが、
「到伊都國」と記載
されている。大変な困難の後に到達した、ということだ。これは「陸行」なので当然であ
る。船積みした荷物を載せ替え、かつ、人力で担ぎながら歩かなければならない。
「其地無
牛馬虎豹羊鵲」だからである。しかもその道は、
「草木茂盛,行不見前人」である。私は、
1 日にクネクネ道で 10Km 進めば良い方だったと考えている。
これは地図上の直線距離で 5Km
程に過ぎない。
「道路如禽鹿徑」であれば、文字通り道を切り開いて進むことになり、恐ら
く、1 日に 2Km も難しかっただろう。しかも、使節が持参した舶来品を大事に運ばねばなら
ない。雨が降れば、当然陸行は中止になり、雨宿りすることになる。天気のおかげで毎日
は陸行できない、当然だろう。
「陸行五百里」(50Km 程)の全工程は基本的には「山越え」で
あって、困難な道のりであり、少なくとも 20 日は要した、と考えている。
「末盧國」の位
置が何処かにも因るが、
「東南陸行五百里」であるので、九州北部を分断する「背振」山系
を越えたことは間違いないだろう。行き着く先は九州内陸部、更に有明海である。
(2)
「末盧國」と「伊都國」の位置
「末盧國」の位置は、現在の東松浦半島と考えている人が居る。残念ながら半島には平野
がなく集落に適さない。
「有四千餘 」と在るような、大きな人口を養えないのである。従
って、到着点の可能性のあるのは現在の唐津市や松浦市、更には伊万里市であろう。魏志
には、
「又渡一海,千餘里至末盧國」と記載されている。平戸市では九州内陸から遠回りに
なる。ここで何故方角が記載されていないのかが気になる。
「對馬國」から「一大國」へは、
「又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國」と、南下したことが記載されている。これは、
方向を明確に示せる海路を採用しなかった、ということだろう。唐津市であれ松浦市であ
れ、東松浦半島を回避し、クネクネと進行しなければならない。
このとき何故「末盧國」に来たかが問題である。魏国使節は、
「對馬國」や「一大國」の
高官名を知っていた。これは直接国王及び高官と面談したことを意味する。とすれば、最
終目的地「邪馬壹國」への道のり、特に最短経路を聞き、場合によっては道先案内人をも
支給された可能性がある。答えは簡単だ。他のルート、例えば随書に記載された筑紫を経
由する「邪馬壹國」へのルートは未だ開けていなかったか、知られていても陸行等が困難
で、遠回りになるのである。国防上の理由で遠回りさせた可能性も捨て切れない。もう一
つの理由は、先に「伊都國」へ行きたかったと考えられる。
「伊都國」には検察官の「一大
率」(将軍)が駐在していて、それ以後の旅の安全と手助け及び献上品の保全をしてくれた
はずである。
「伊都國」を「郡使往來常所駐」としているが、その理由は「陸行五百里」の
帰路、
「山越え」に備えるためでもあっただろう。
ところで「伊都國」を九州北岸に有る現在の糸島半島若しくは旧「イト」郡であるとの
説を唱える人が居る。現在の地名程当てにならないものは無い。仮に糸島半島に在ったと
して、何故困難な「陸行五百里」を採用したのだろうか? 外洋船で「一大國」から直接「伊
都國」へ行けば良いでは無いだろうか?
魏国使節は、できる限り外洋船で行こうとした
はずである、何の追加的努力が要らない。
「伊都國」を九州北岸に有るとする説は、明らか
な誤りである。他方、九州北岸から平戸島を経て迂回し有明海に直接至るルートは知られ
ていなかった、と考えられる。現在の地図上でも九州西岸を迂回する、相当困難な海路で
ある。陸行する外は無い。私見では、
「伊都國」は筑紫平野の奥のほう(隋書の「竹斯國」
の南)に存在した、と考える。筑後川等があり、「邪摩堆國」に属する諸国を監視するのに
便宜である。
(3)
「水行」の意味
「東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。南至投馬國,水行二十日,官
曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶 。南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。
官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戶 。自女王國以北,其戶
數道里可得略載,其餘旁國遠絕 ,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次
有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴
國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有爲吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次
有躬臣國,次有巴厘國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗
奴國,男子爲王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。」
「伊都國」の後、
「不彌國」を経て「投馬國」に至る。「不彌國」から「投馬國」へは「南」
に「水行二十日」である。この記載から、幾つかのことが判る。「伊都國」は海に面して
いない内陸国か、そうでなければ良い港を有していない、ということだ。
「有千餘 ,世有
王,皆統屬女王國」と言う記載から、かなりの小国で、山間に形成された国と見るのが自
然だろう。海に面していれば、通常は直接船を出せたはずである。わざわざ「不彌國」を
経たのはそれが海に面し、若しくは十分な川幅と深度を有し、良港を有する国だから、と
考えられる。
「水行」には数多くの問題点が存在する。
第 1 に、川での「水行」を含むのか、という問題である。四国の四万十川がそうであるが、
自然な川というのは相当の水量を有しており、かなり上流まで航行可能である。ただ、川
の流れに逆らって遡上できたか、とすると問題がある。雨が降れば増水して勿論遡上はで
きないが、それが収まって航行可能だとしても、相当低速で、時間と労力を要した、と考
えるべきだろう。
第 2 に、船はどのようなものであったか、具体的には外洋船であったか、和船であったか
であるが、問題なく和船だった、と考える。
「陸行五百里」により「伊都國」へ到ったので
あるから、外洋船は九州北岸に置いて来ている。更に、川を航行するには底の浅い和船に
頼る外は無い。その和船であるが、10 人乗り程度の小型船で、帆はなく、漕ぎ手が 4 乃至
6 人程度であろう。魏国使節の総人数は分からないが、倭人を含め総勢で 50 人程度であり、
持参品を携帯しているのであるから、数隻の和船を連ねて「水行」したことになる。
第 3 に、「水行二十日」の意味である。先も説明したが、当時の旅行は雨が降っても、風
が吹いても、波が高くても、更には占いの結果が悪くても船は出ないのであり、如何なる
トラブルであっても港(津)に釘付けになる。この点につき、当時の人は旅の安全につきお
祈りの神事をしてから出発したという説がある。当然行われたであろう。「水行二十日」
であるが、実際には 10 日くらいしか航行しなかった、と考える。おまけに夜は暗く危険だ
し、漕ぎ手のために寝ているし、更に、旅の安全を図るために津から津への拠点間 U 字路
航行である。効率が著しく悪いのである。しかし、船旅が最も楽で、時間など気にしない
のが当時の人間の気質であった、と考える。最大でも 1 日に 20Km 程、日平均で 10Km ほど、
地図上の直線距離で 5-10Km 程度しか進まなかったはずである。「水行二十日」とは、実際
には全工程で 100Km 程度、地図上の直線距離で 50Km 程度に過ぎない。和船の船速は、積荷
にも因るが、流速を考えなければ時速 2Km 程度であったろう。川を遡るには時速 4Km 程度
は欲しいが、可能だとしても人力なので長時間の航行は難しい。また、雨で河川が増水し
たときは、勿論待たされることになる。それなのに、和船の船速に過大な期待をして、魏
志の記載が誤りで、「九州南方海上に」「邪馬壹國」が有ることになる、と言う者がいる。
倭国の後進性を無視する乱暴な意見であり、全くのお笑いである。当時の先進国、中国の
正史にいい加減な記載があるはずがなく、むしろその使者の鋭い観察眼に驚かされる程だ。
ところで、
「南至投馬國,水行二十日」であるが、和船による川下りの可能性が高い。
「伊
都國」の後、
「不彌國」を経て「投馬國」に至るが、何れも山間の小国であり、海岸沿いに
あるとは思えない。海沿いであればその記載があっただろう。「不彌國」から筑後川等(一
級河川)を川下りしたのであれば、
「南至投馬國,水行二十日」は川下りで海岸を目指した
ことになり、大国の「投馬國」は海沿いにあって、今度は和船で海を南下し「水行十日,
陸行一月」で「邪摩堆國」へ至ったことになる。
「水行十日,陸行一月」は、勿論双方を順
に足して読む。海岸から少なくとも 30Km 程内陸にあったようだ。処で、この記載を「從郡
至倭」の 1 万 2 千里の総行程の記載であるとの説がある。当時の移動手段の拙さや慣習を
無視した無謀の議論であって、現在の交通手段と比較する誤りに陥っている、としか言い
ようがない。
話題から外れるが、
「投馬(つま)國」を現在の薩摩(さつま)に対応するとする説が有
る。その通りかも知れないが、地名は人間が決めるものでその地域を移動する可能性があ
る。九州南部ということにはならない。もう一つ、「奴國」であるが、魏志では 2 回出て
くる。「伊都國」の「東南至奴國百里」の北「奴國」と、「其餘旁國」である南「奴國」
である。後漢書の記載では、「之倭國極南界」とあるので、楽浪郡に使節を送った、金印
で有名な「奴國」は、南「奴國」と謂うことになる。しかし、楽浪郡に使節を送る情報を
取得できるのは九州北部の先進性が必要であり、何れか判らない。なお、土中から発見さ
れた、その金印の発見場所は、そこで祭祀が行われていたのであれば、その地は「奴國」
ということだろう。その金印の「漢委奴国王」という文字であるが、古田氏によるとその
記載方法は統一性があり、「委奴(イド)国」と読むべきだし、「奴國」ではないとする。
また、その「委奴国」は、「伊都国」ではなく、「邪馬壹國」のことだと、いう。すなわ
ち、
「匈奴」に対する「委奴」で、前者は漢王朝に対する強暴を意味し、後者は従順を意味
する、という。成程、と感心した。
(4)
「邪馬壹國」は何処にあるのか
私は、明確に九州説をとる立場である。
「常識で考えた日本古代史」の WEB 著者は、
「自
郡至女王國萬二千餘里」の記載を重視し、九州北岸から 2 千里(200Km)以内であるから、近
畿大和にあるはずはない、と断定している。全く同感である。私はこの説を補強する話を
幾つか取り上げることにする。
その第1は、
「自女王國以北,其戶 數道里可得略載,其餘旁國遠絕 ,不可得詳。」と言う
記載である。この記載は、前記「末盧國」、
「伊都國」、「不彌國」及び「投馬國」が、「女
王國」である「邪馬壹國」の「北」にある、と読むことができる。逆に言えば、「邪馬壹
國」は「末盧國」等の「南」に在る。九州中部若しくは南部である。しかし、その南部に
は「其餘旁國」が 21 国あり、その南には更に対立する「狗奴國」が在る。これ等の記載か
らは、
「邪馬壹國」は、九州中部と考えるのが自然である。ところで「狗奴(くや)國」は、
現在の「球磨(くま)
」若しくは熊(くま)本と発音が似ている。仮にその何れかだとして、
当てにはならないが、これも「邪馬壹國」の九州中部説を裏付けるかも知れない。
その第 2 は、
「邪馬壹國」の南部にある「其餘旁國」の国名である。国名の中に「蘇」の
字を使うものが 3 カ国在り、それぞれ「對蘇國」
、
「蘇奴國」
、
「華奴蘇奴國」である。
当時「阿蘇山」が知られていたか定かではないが、三国志(290 年頃)に遅れること 400 年の
随書(636 年)には「阿蘇山」が明示されている。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。」
この記載からすると、唯一取り上げた自然の景観(ランドマーク)であり、倭国には阿蘇山
が(中央に)有る、と読めなくもない。例えば、富士山がそうであるが、誰でも識別できる
ので、山の名前は 1000 年くらい経っても変わらない。魏国使者がその名前を知っていて、
「蘇」の字を意図的に国名に割り当てた、とも考えられる。そうであれば「對蘇國」等は
阿蘇山の周辺の諸国と謂うことになる。この説は、
「邪馬壹國」が阿蘇山の北側にあった、
と言うことを示唆する。
その第 3 は、倭国の都に関する。三国志では倭国の都を明示しておらず、隋書では三国
志で「邪馬臺」としていたとし、現在は「邪摩堆」とする。発音が変わって当て字も変わ
ったと見るのが自然だが、
「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
」であって、7 世紀に至る
少なくとも 400 年間倭国の都が同じ位置に存在した、と記載されている。そこで、
「邪馬壹
國」(ヤマイコク)の都が国名と異なりその当時から少なくともその音が「邪馬臺」
(ヤマ
タイ)であった可能性は残る。その人口は、三国志では「可七萬餘
」、随書では「戸可
十萬」と言うので、この間 1.5 倍に増えている。
この時、近畿の「大和」では 7 世紀始めで推古天皇、聖徳太子の時代で在るが、この地
は「神武東征」(神武から 33 代目で推古であるので、その間約 200-300 年>3世紀)により
打ち立てられた。新唐書は「彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州」とするので、
近畿大和のその地(=洲)は全くの未開地だったようだ。最も平地に築城するという点では
湿地は優れている。日本書紀には、「筑紫日向宮」から「大和橿原」に移転してきたと記
載されている。「神武東征」当時、「居筑紫城」(筑紫は倭国の都ではなかった。)であっ
たので、九州北部に「筑紫国」が既に存在していた。しかるに、3 世紀の三国志に「筑紫国」
の記載が全くなく、「竹斯國」は隋書に初めて登場する。この矛盾は、「神武東征」若し
くは宮殿の移転(少なくとも都の移転ではない。)が 3 世紀以後に行われたと考えると、解
消する。近畿の「大和」は3世紀以前に倭国の都(都市の形態ではないが)ではなかった、
と言えるだろう。なお、神武生誕につき紀元前とする日本書紀の記載は創作だろう。その
頃日本は石器・土器時代であったはずで、船や通行路は整備されておらず、遠征などでき
るはずがない。また、神武天皇は日本書紀の作り話で、実在が確認された天皇は10代目
の崇神天皇からという説がある。
ところで「大和」
(ヤマト)であるが、地域名であって都市の名前ではない。その読み方
も「訓読み」であって、漢字読みすれば音からして「ダイワ」だろう。この字は「大倭」
連想させる。既に倭国が別にあって、それを併合して、その名前を拝借して名づけた創作
的な、即ち発案して命名した地域名と考えるのが自然である。
実際、旧唐書では、
「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている。
「
「倭国
伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は 648 年の記事で終っている。これに対
し「日本伝」は、
「日本書紀」などの記述と矛盾せず、飛鳥・奈良時代の大和政権のことで
あることがあきらかである。
」と、解説されていた。
その第 4 は、
「邪馬壹國」の国名である。中国正史では、野蛮人に関し、漢字に悪い意味
のものを割り当てる中華思想で溢れていた。元の意味が「山一国」であれば、その山とは
阿蘇山だろう。
最も、「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。」とあるので、海岸沿いに
なく、内陸国には違いない。
「水行十日,陸行一月」は、勿論双方を順に足して読む。海岸
から少なくとも 30Km 程内陸にあったようだ。都である「邪摩堆」が「邪馬壹國」の中心に
在ると考えると、国境から 30Km として、
「邪馬壹國」の大きさは最大で 40Km 四方位であろ
う。かなり広い。最も「可七萬餘
」で、当時最大の人口を有している。
(5)
「邪馬壹國」の国名
魏志倭人伝の「邪馬壹國」の国名のうち、「壹」の字は「臺」の字の誤りであるとして
梁書等で「邪馬臺國」と改定している問題で、これは誤りで「邪馬臺國」はなかった、と
主張する者がいる。後年の文献が先年の文献を軽々しく改定すべきではない、と痛烈に批
判している。
「臺」の字には中国の中央官庁や王宮の意味が在り、そのような高貴な文字は
三国志著者の「陳寿」が避けたはずだ、というのである。なかなかの分析で、納得すると
ころがある。これをどう読むのか(多分、ヤマイコク)は不明であるが、中国との往来が繰
り返された後の事なので、後の文献がその都の音を使って「邪摩堆」等の字を当て直した
ものだ、としても不都合は少ないだろう。都の名前と国の名前が異なっていた可能性は残
る。
実質的な名称が「邪馬」(ヤメもしくはヤマ)にあったとすれば、想像だが「八女(ヤメ)」
市が近いかも、、、。現在の地名との比較は、ほとんど意味がないけれども、九州説の中
に福岡県旧山門(ヤマト)郡瀬高町という説もあり、これもその近所である。仮に「八女
一国」であれば、女が一番多い国という意味だろう。女独りが治める国という意味で「治
女一国」あれば、その女は「卑弥呼」ということになる。
その第 5 は、
「倭国」の広さにつき、魏志では「參問倭地,絕 在海中洲島之上,或絕 或連,
周旋可五千餘里。」といい、随書では「夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南
北三月行、各至於海。其地勢東高西下。」
、即ち、東西 5 ヶ月(行程)南北3ヶ月(行程)の広
さで、南と西は大海だという。という。これは女王国の支配地域が陸続きであることを意
味し、海を渡った地域では個別に明示された「狗邪韓國」、「対海国」、「一大国」が存在す
ることになる。このことからも近畿大和は女王国に含まれていない。
「周旋可五千餘里」は、女王国の支配地域であり、丁度九州の半分の大きさ位である。東
西の方が長く、南北の方が短いのは旅程でその長さをあらわしたからである。当然中央に
阿蘇山を抱える東西の陸行の方が困難で、長く掛かる。南北は船でも行けるし、平地を歩
くことが可能である。倭国の西側が低く、東側が高い理由は、その中央に阿蘇山等が在る
からであり、当然だろう。なお、1万里以上も離れた本州中部地方(南アルプス)を女王国
の東端と考えることは、到底できない。更に、旧唐書の記載で倭国に付き「四面小島五十
餘国、皆附属為。
」とするが、九州周辺の内海の大きな島々(半島を含む)、例えば、島原や
天草のことだと考える。瀬戸内海の小島を含めたいが、九州から距離が有り過ぎ、
「四面」
(内海)に含むのは難しい。なお、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。」という記載
であるが、佐田岬を有する四国のことだと考える。四国は銅鐸につき北九州と同じ文化圏
に属する。
「又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在
其東南,船行一年可至。」の記載は伝聞で、確認はされていないであろう。ただ、四国南
部に「侏儒國」が有った可能性は残る。これに関し、三国志に新羅国の東方に昔身長3丈
の「長人」が存在し、火食していなかったという記載がある。その後記載が出てこないの
で滅亡したのであろう。同様に、背丈の低い人種が戦争で不利で、滅亡した可能性もある。
その第6は、隋書には中国皇帝の使者が倭国の都を訪れた時の記載が在る。
「明年、上遣
文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至
一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、
達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。」この記載では、
「都斯麻國」から「一支國」へ至
るのに「東」へ行ったと記載されている。隋の都、西安から見れば「東」なのかも知れな
いが(恐らく、地球を丸いと考えていない。)、地図上では誤りであって、
「南」若しくは「東
南」の方向である。
また、方向につき「東」しか出てこないので、中国人使節は「都斯麻國」>「一支國」>
「竹斯國」>「秦王國」と、ほぼ一直線上に在ると認識している。従って、
「竹斯國」の隣
(東南)に在る「秦王國」は九州中部に存在し、その付近に「邪摩堆國」があり、途中まで
来た隋国使節を倭王の臣下が出迎えたことになる。この直線は魏志倭人条では、
「南」とさ
れていた。倭国を訪れた時の季節によるのかも知れない。隋国使者「裴清」は、日本書紀
では 4 月に倭国に来たとされているので、太陽の位置はずれていた可能性がある。
「又經十餘國、達於海岸。」の記載は、九州東側の海岸と言うことになる。当時 1 国あ
たりの平均の長さは 10Km も行かないので、
「秦王國」は、九州東南岸から 50-100Km ほど西
北側に入った内陸、即ち九州北部若しくは中央に有ることになる。なお、これも根拠はな
い自説であるが、
「竹斯國」の名前が気になる。
「新羅」(シンラ)はその昔「斯羅」
(シラ)
と呼んでいた。従って、
「竹斯國」は「チクシンコク」とその音が近い。その「シン」は「秦」
を想起させる。中国人が 「竹斯國」と聞いて、
「築秦國」をイメージしてもおかしくはな
い。その場合、
「秦王國」の手前(北西側)に「築秦國」があり、その国は秦国人が築いたと
いうように、聞こえる。名前の由来は当てにはできないが、秦国人の「深慮遠望」かも、
と疑いたくなる。また、三国志の辰韓の条で、秦国人の話が出てくる。その昔秦国の始皇
帝の従役が厳しく、秦国から亡命して馬韓からその東部に辰韓の地を与えられたとしてい
るので、倭国内の秦王國が同様に、秦國亡命人(中国人)の作った国である可能性は高い。
「又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。」であり、調査しても彼等の起原を
彼等自身知らなかった、ことになる。
ここでは倭国の軍隊についての記載が面白い。隋書には「倭王遣小德阿輩臺、從數百人、
設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。」とある。三国志では
「其地無牛馬虎豹羊鵲」としていたのに、ここでは「從二百餘騎郊勞」であるから、かな
りの軍馬を有していたことになる。これだけの数の馬を全部輸入したとは思えないので、
400 年経って倭国国内で馬の生産を始めていた、ということだろう。
「鼓角」とは、太鼓や
角笛のことで、その太鼓の皮も馬皮を使った可能性が在る。因みに平安時代になると牛車
も登場する。しかし、当時農耕・運搬に牛馬を利用する程、その生産数は多くなかったと
考える。これに対し後漢書の辰韓伝では、既に 3 世紀当時辰韓で「乘駕牛馬」の習慣が存
在した。もう一つの観点は道路の整備である。「從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎」の記載
からは、「邪摩堆國」から「秦王國」へ儀仗隊が通れる道路が整備されていたようだ。
「至」
の字を使っているので、
「一支國」から「竹斯國」及び「秦王國」へは、陸行であるのに、
困難なく行けたらしい。また、
「從二百餘騎郊勞」とするので、少なくとも騎馬軍団が通れ
る通行路が「秦王國」「邪摩堆國」間に存在した。
「草木茂盛,行不見前人」と言うのとは
大きく異なることに注意したい。一般道路の殆どは自然に形成された道路であるので、く
ねくねしていたはずである。最もその道路は舗装(石敷き)されていなかったであろう。
「倭
地溫 暖,冬夏食生菜,皆徒跣」であるので、人も馬も「土」の方が歩きやすい。これにつ
いては、九州中部に道路跡である土塁の史跡が残存している、という。
(6)
「常識で考えた日本古代史」なる WEB サイト
この WEB サイトの著者の記載には同意するものが多い。
「邪馬壹國」九州説のうち、幾つ
か紹介したい。
第 1 は、
「自郡至女王國萬二千餘里」であり、これを最も重要な記載で、文節の最後で強
調されている、とする。そして、楽浪群から「狗邪韓國」まで「七千餘里」、また「對馬
國」まで「千餘里」、「一大國」まで「千餘里」、更に九州北岸である「末盧國」まで「千
餘里」であり、残りは 2 千里(200Km)以下と謂うことになる。ここから近畿の大和までは1
万里以上有るから、魏志の記載が真実であるとする限り、「邪馬壹國」近畿説は明らかな
誤りである。ところで1里が何 Km かという議論があったが、三国志中では一貫して短里
(100Km 以下)が用いられていることが論証され、長里(450Km 程)ではないことが明らかにな
った。
第 2 に、
「倭地溫 暖,冬夏食生菜,皆徒跣。」と言う記載であり、この暖かさはやはり九
州である。他にも有る。
「有薑、橘、椒、蘘荷,不知以爲滋味。」とあり、
「橘」
、即ちかん
きつ類で品種改良もなく自然に取れるとしたら、四国・九州であろう。
「出真珠、青玉。」
との記載も、現在では伊勢・志摩半島で「阿古屋貝」も有名で在るが、自然に産するとした
ら暖かい地方である。また、前記 WEB サイト著者の言うとおり、内陸国につき説明してい
るのだとしたら、海に関する記載が多すぎる。狩猟採集生活で、かなりの食料を海に依存
していたとすれば、少なくとも内陸国ではないだろう。更に、
「以硃丹塗其身體,如中國用
粉也」の記載から、顔料として「硃丹 (朱)」を用いているが、その産地は地理上の中央構
造線に沿って産し、阿蘇や大分も含まれている。
第 3 に、隋書「其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。」(607 年)で、日本史
では聖徳太子(厩戸ウマヤドの皇子)が送った遣隋使と言うことになっているが、前記 WEB
サイト著者の言うように、その当時日本は推古天皇(女帝)の時代で、聖徳太子は実質的な
皇太子であったが、少なくとも「倭王」ではなく、
「其王多利思比孤(タリシヒコ)」と言
う記載から、男王(彦)に違いなく、日本史の通説及び日本書記の記載は大変に怪しい。そ
の推古天皇の支配地域はまだ九州に及んでいないで、九州を代表する別の「倭王」が、使
節を派遣したとも考えられる。隋書には中国皇帝の使者が倭国の都を訪れた時の記載が在
り、それは倭国の位置を九州中部若しくは北部と強く示唆している。このタリシヒコは三
国志原文では「多利思北孤(タリシホコ)」となっていたようだ。勇ましい名前になるの
で、人名に「鉾(ホコ)
」を付けていた、可能性も捨てきれない。
新唐書「日本伝」の「次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。」
という記載に有るように、推古天皇の2代前の用命天皇は「目多利思比孤(メタリシヒコ)」
といい(宋史は、「自」とする。「目」は「自」の誤りで自称「タリシヒコ」の意味か)、
隋の開皇末に始めて中国に使節を送ったとされる。最もそれが天皇の個人名であれば、日
本書紀に全くその名が見えないと言うのも不可思議である。また、隋書に「開皇二十年(600
年、推古 8 年)、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。」とあるので、この
ことを指すとも考えられる。また、新唐書「日本伝」の記載から、
「日本国」側が意図的に
「多利思比孤」を使い続けた可能性も在る。しかし、少なくとも隋国使者は「多利思比孤」
に会っており、それが存命している用命天皇であれば、その時摂政でもない聖徳太子(当時
26 歳)がその 1 年前に遣隋使「小野妹子」を派遣した、と言うことはおかしい。
ここで、隋書には「名太子為利歌彌多弗利」と、「太子」の「個人名」の話が出てくる。
「歌彌」
(カミ)
(地方神)と「弗」
(仏)では仏の方を多く尊ぶ(利する)という有り難い名
前「利歌彌多弗利」
(リカミタフリ)で有り、
「多利思比孤」が自ら我が子に名付けたので
あろう。隋国使者は珍しい名前として取り上げたと考える。ただ、
「利歌彌多弗利」が慣習
に留まる呼称だった可能性は残る。大和の呼称には類似のものに皇子を指す「若翁」
(ワカ
オキナ)がある。「阿輩雞彌」等には「號」の字が使われ、正式称号だったようだ。
「阿輩
雞彌」(大君)の呼称に係る話は日本書紀の歌の中にも頻繁に出てくる。
(7)日本書紀の創作
日本書紀には、隋使「裴(世)清」が倭国を訪れたときの記載が在る。それに拠れば、推古
15 年 7 月に推古天皇は大礼「小野妹子」を派遣し、翌年 4 月に「小野妹子」は隋使(隋の成
立を知らなかったのか、
「大唐使」と記載する)「裴(世)清」以下 12 人と共に筑紫に到着し
ている。随書で「(大業三年の)明年」(608 年)に「上遣文林郎裴清使於倭國」とある部分が
対応する。随書では隋使がそのまま帰国したように記載してあり、
「復令使者隨清來貢方物」
とする。しかし、日本書紀の記載は、随書よりもかなり詳細に記載されており、筑紫滞在
後同年 6 月に大和へ来た、と云う。この記載が真実なのか、随書が正しいのか定かではな
いが、中国正史の方を信じるべきだろう。嘘をつく利害関係がない。特に、日本書紀には
隋国に関する記載がなく、隋国の滅亡も知らず、一貫して「大唐使」とか言っていた。唐
の時代には正式の遣唐使を派遣したかも知れないが、その前は創作だろう。これに関し、
日本書紀における唐代の認識が 10 年ずれていると、つじつまが合う、とする説がある。
隋使「裴(世)清」の身分につき、隋書では「文林郎」(煬帝の側近)とするのに対し、日
本書紀では「鴻臚寺掌客」
(外交部門担当役所)となっていて、唐代になってその身分を降
格されたと考える説である。成程、と感心した。
日本書紀での、
「小野妹子」が煬帝の国書を「百済人」に取られたという話も気になる。
取り上げたのは「百済人」ではなく、使いの途中で寄った九州「倭国」の大君だろう、と
想像する。自分たちが倭国(複数国)の代表であり、中国との貢献を築き上げてきた、とい
う自負があったはずだ。
「小野妹子」は、処罰や戦争を恐れたのではないだろうか。近畿政
権が倭国の代表と見られず、国書を唐側が受け取らず、作成もしなかった可能性もある。
記載された時期(607 年)に、中国側文献に遣隋使「小野妹子」が隋に到達した、と言う明
文の記載はないそうである。ただ、日本書紀には遣隋使「小野妹子」を中国側が「蘇因高」
と名づけた、と言う記載があり、実際に煬帝に面会した可能性が残る。また、
「10 年のずれ」
を考えると、唐が成立した後に国書を交わしたとすれば、面会したのは煬帝ではなく唐の
初代皇帝だったのではないか、という話になる。最も、名字まで中国名というのも変で、
音訓混合の当て字でおかしいとの指摘もあり、これも中国側正史との整合のための創作だ
った、とも考えられる。全体が作り話で在る可能性も捨てきれない。特に自分の国を「倭
国」と、明文で強調するところがおかしい。しかも、推古 15 年の「秋七月戊申朔庚戌、大
禮小野臣妹子遣於大唐。以鞍作福利爲通事。是 冬、於倭國、作高市池・藤原池・肩岡池・
菅原池。」という箇所にしか出てこない。自分の国の国名を明示することは通常はない。
この他では、翌々年(609 年)9 月に遣隋使「小野妹子」が帰国したとき、通訳の「福利」が
帰国しなかったことが気になる。
「秋九月、小野臣妹子等、至自大唐。唯通事福利不來。」
隋に到達できず、若しくは、またまた国書を受け取れず、大和朝廷の処罰を恐れたと考え
られる。
「小野妹子」帰国の詳細も記載されていない。その後処罰を受けたであろう、と想
像する。
「大唐使」の「鴻臚寺掌客」
「裴(世)清」が国書を読み上げたとき「其書曰、皇帝問倭皇。」
と記載されていたことから、近畿大和政権が朝貢関係を認めていたとの説がある。
「皇帝」
の用語は中国皇帝に固有のもので、朝貢する国の国王を「天子」とか皇帝とかは呼べない
ので、「倭皇」という造語を作った、というのである。なお、「世」の字は「李世民」に遠
慮して略字としたのであろう。これに対し、倭国九州政権は、自分たちの朝貢関係を認め
ていなかったので、新州の刺使高表仁が来た時、
「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」
事件が起きた。その理由は双方が皇帝として譲らなかったのが原因である、とする説があ
る。
(8)景初 3 年問題
魏志倭人伝では
「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、
次使都巿牛利奉汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。汝所在逾遠,乃遣
使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王,假金印紫綬,裝封付帶方太守假授汝。
(以下略)
正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,並齎詔賜金、帛、錦
罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。」
と記載されているが、この「景初二年(238 年)」につき、梁書では「至魏景初三年、公孫淵
誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。」と訂正してあり、晋書に「宣帝
之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。」とあって 238 年に魏が「公孫淵」
を滅ぼした後に卑弥呼が朝貢したと記載されていることから、これは三国志著者の「陳寿」
の誤りである、とする説がある。これに対し、「邪馬台国はなかった」の著者古田武彦氏
は、原文の「景初二年 (238 年)」が正しいとし、後の文献が前の文献の記載を安易に訂正
すべきでなく、合理的な根拠を要求する。その説では、卑弥呼の魏国への朝貢は「景初二
年六月」で、これは未だ「公孫淵」滅亡前の戦中遺使であったので、魏国の大歓迎を受け、
「景初二年十二月」の詔書で詳細に記載された理由でもある、とする。この後明帝が崩御
(239 年) して少帝の「正始元年」となり、始めて「景初二年十二月」の詔書の内容が(「公
孫淵」滅亡後に)実行された、としている。
(9)風俗の変遷
昔の倭人の殆どが刺青をしていた、というのは衝撃的である。三国志倭人条には「男子
無大小皆黥面文身」、「諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。」と記載され、
刺青が階級と密接に関連していることを示唆する。実際、梁書職工図には倭人の使者の大
げさな刺青を入れた絵が描かれている。夫人については記載がないので、刺青をしなかっ
た人も居たようだ。最も、「以硃丹塗其身體,如中國用粉也」であるので、顔を赤く塗り
たくっていたようだ。この「黥面」であるが、何故か江戸時代の歌舞伎役者の化粧に似て
いる気がする。この後 400 年後の隋書には、刺青につき、「男女多黥臂點面文身」とする
ので、その風習は受け継がれている。しかし、良く読むと肘の刺青と顔面の部分刺青とな
っており、少なくとも赤黒混じりの「黥面」ではなくなっている。また、顔を赤く塗る風
習も記載されていない。