平和公園・原爆資料館の見学や被爆体験講話から 今から約75年前太平洋戦争がはじまりました。そして、1945年8月6日午前8時15分、広島に爆弾が 落とされました。 語り部さんはその当時のことを話してくださいました。肌を火傷したり、ガスタンクが破裂して目が見えなく なったり、けがをしたり病気になったりした人がたくさんいました。みんな、やけどなどがおこるような爆弾だ とは、予想していなかったそうです。水がなく、死にそうな人がたくさんいて、男女の区別がつかないような人 がたくさんいたそうです。 とても目をそらしたい気分だったそうで、中には、目は見えないけど、一本一本涙をながしている人もいたそ うです。男の人は、作業をしていて上半身はだかで、その背中で光をあびて、ひふが垂れ下がっていたそうです。 戦争のおそろしさが深く分かり、とてもおそろしくて、戦争にあった人がとてもかわいそうで、わたしは、戦 争はあってはいけないことだと思いました。 調べ学習から 1910 年の後半から産業の発展とともに、都市に生まれたサラリーマンや専業主婦、職業婦人といった新しい 階層を中心に洋風生活が広まっていました。特に東京は関東大震災の復興で、町の様子が一変し、急増する人口 を支えるため、郊外に住宅地が開発され,鉄道も発達しました。この、新郊住宅地に建てられ、庶民のあこがれ となったのが一部に洋式を取り入れた文化住宅です。さらに、大都市では電機や、ガス、水道なども整備されて、 電化製品や、ガス器具も家庭に取り入れるようになりました。また、労働者や、サラリーマンの家庭では、自由 な時間も増え、レコードなどを聞いたり、はんかがいに着飾って出かけたりするなど生活を楽しむようになりま した。こうして、西洋文化を従来のくらしにうまくとりいれた和洋折衷の様式が、庶民に広がりました。 その頃の、鬼ごっこやチャンバラに夢中になっていた子供たちの遊びは、戦争ごっこ一色になりました。また その遊びが始まってから自分たちで、ヘルメットや鉄棒などのおもちゃをたくさん作るようになりました。それ が盛んになり、多くの子供がそれを真似するようになりました。 女の子の間では男の子の兵隊と並んで、従軍看護婦が憧れとなりました。女の子の間では、その遊びが盛んに なり、従軍越しごっこという名前も付けられるよ うになりました。また、ままごとなどにまで防毒 マスクが使われるなど、子供たちの遊び道具も様 変わりしていきました。 食べ物も不足していたため、一食の量も多くあ りませんでした。そのため人々は、健康ではあり ませんでした。戦争当時の生活は、とても苦しい 生活でした。 世の中が平和になるように自分たちにできること(平和への提言) 私は、ある戦争の本を見ました。その本はこんなことを教えてくれました。 女の子は、ある街に奉公に行きました。その家には、子供がたくさんいてとても大変な家でした。女の子は、 とても優しく自分のことよりも相手のことを一番に考える子でした。ある日、街に爆撃機B29がやってきまし た。子供たちは、防空壕へ向かい、みんな入りましたが、女の子は他の人を優先にして自分はまだ入りませんで した。そして大きな爆発音が聞こえました。女の子は最後に防空壕へ飛び込みました。防空壕に逃げ込んだ人全 員の命は助からず、亡くなってしまいました。 私は、その女の子は、とても偉いと思いました。みんなを優先にして、とても思いやりのある人だと思いまし た。わたしたちは、その子のように思いやりをもたないといけません。友達と仲良くしたり、人のために何かで きることを見つけたり人の喜ぶことをするのが大切です。そうすれば、人々は争いのない平和な世の中を作って いけると思います。 参考資料 『戦争中の人々の暮らし』など
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