ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって

ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
Die Dialektik der Grenze in Hegels “Wissenschaft der Logik”
太 田 信 二
はじめに
存在の自己矛盾的な、それゆえ自己超出的な構造をとらえるカテゴリーの一つである《限
界》概念は、「内在的超出(immanentes Hinausgehen)」の論理としての弁証法(§81)(1)を
自らの存在把握の原理に据えるヘーゲルにとって、根幹をなす重要な概念であるといえようが、
本稿の目的は、この限界の論理を通じて、ヘーゲルの存在観の一端を明らかにすることである。
ところで、限界概念がこのような意味をもつことは、論理学のなかでのその位置を考えあ
わせればより明確に了解されよう。というのも、限界概念は「滅亡の萌芽を自己の自己内存
在(Insichsein)としてもち」、したがって「その生誕のときはその死の時なのである」(S.
116)とされる《有限なもの》が展開される直前に位置づけられ、まさにこうした有限なも
のを有限なものたらしめるものとされているからである(2)。
さて、限界概念は、いわゆる〈有−無−成〉のトリアーデが展開される『論理学』の第一
巻「有論」の第一編「質」の第一章「有」に続く第二章「定在」の「B 有限性」において、
その冒頭部「(a)或るものと他のもの」を受け、「(c)有限性」へと続いていく「(b)規
定、性状、限界」のなかの「3」で、(α)、(β)、(γ)の3段階に分けて展開されている。
したがって、限界概念の考察を課題とする本稿も、体系内でのその位置を意識しつつ、この
ヘーゲルによる3段階に即して ―― なおかつ、具体的には後述することになるが、(γ)の
理解にはさらに先立つカテゴリーの考察も必要となるが ――その内容を確認していくことに
なるが、その際、限界論にかんして起こりうる誤解にも言及していくことにしたい。という
のも、ヘーゲルの限界論のなかには、たとえば「或るものは、自己の限界において、あると
ともにない」(S. 114)といった限界概念と弁証法という観点から、きわめて魅力的な、しか
しその実、それが登場する論理的脈絡に即した場合、むしろ限界論の反弁証法的な理解に通
ずるような表現、つまり論理的に追っていけば、実はかえって本来限界概念が表現するはず
の事柄とは逆の内容となってくるような表現が見いだされるからであり、それらいわば限界
論自身が孕んでいる陥穽を明らかにしていくことも、限界論の動的な側面をより鮮明に描き
出すことに通ずるものと考えられるからである。
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國學院短期大学紀要第23巻
Ⅰ「限界」論のヘーゲルによる展開と陥穽
Ⅰー1−(1)《他者の非存在》としての限界
さて、限界論の冒頭(α)において、まず最初にヘーゲルによって確認されるのは、「或
るものは……限界を他者にたいするものとしてもっている」(S. 113 f.)ということである。
つまり、「限界において、自己の他者を限界づける(begrenzen)」(S. 114)ことによって、或
るものAはAでありうるということである。この点にかんしては、特段問題になることはな
いであろう。この特徴づけにしたがえば、或るものは、他者を限界づけ、他者を自己から排
除し、自己における他者の非存在を定立することによって、自己関係する定在たりうるので
ある。その意味から、われわれはこの節の表題として掲げたように、限界をまず《他者の非
存在》を意味するものというようにまとめることができるであろう。
ところで、ヘーゲルは、「限界」論の第一段階(α)において、もう一点論点をつけくわ
えている。すなわち「或るものが他者にたいしてもつ限界は、また或るものとしての他者の
限界でもあり、それによって他者が、最初の或るものを自己の他者として自己から遠ざける
他者の限界でもあるのである」(Ibid.)。一見、まどろっこしいこの文章も、そのいわんとし
ていること自体ははっきりしているといえよう。最初の或るものをA、そのAがもつ限界に
よって、限界づけられる他のものをBと呼ぶとすれば、他のものBもAと同様に定在するも
の(Daseiendes)であることにかわりはなく、Aがもつ限界によって、その非存在が定立さ
れるのだとすれば、Bから見れば逆のことが成り立つというわけである。自らが設定する限
界によって、AがBを自己から排除し、AにおけるBの非存在を定立するのだとすれば、そ
の限界によって、同時にBがAを自己から排除し、Aの非存在を定立してもいるのである。
Ⅰー1−(2)
《自己安住》への転化
ところで、こうした限界の特徴からすれば、或るものAがもつ限界は、Bの非存在を意味
すると同時に、A自身の非存在も意味するともいえよう。ヘーゲルのことばをもってすれば
「限界はたんに他のものの非存在であるだけではなく、両方の或るものの非存在……でもあ
る」(Ibid.)のである。限界が《他者の非存在》として、Aによる自己からのBの排除を意
味するのだとすれば、その限界は同時にBによるA自身の限界づけをも意味し、Aの排除、
Aの非存在の定立ともなっているのである。そのかぎりにおいて、或るものAがもつ限界は、
他のものBの非存在を意味するだけではなく、或るものA自身の非存在をも意味していると
いうように表現することはできよう。したがって、Aは、限界によって他者Bの非存在と同
時に自己自身の非存在を定立するのであるということもできるのである。もちろん、かかる
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ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
限界は、前節の確認にしたがえば、同時に自己の存在の定立をも意味していたわけであるか
ら、あえていえば、或るものAは、限界を介して自己の存在と自己の非存在を同時に主張し
ているということもできよう。
しかし、或るものAの存在と同じく或るものAの非存在を同時に主張するかのような、一
見すると限界の弁証法的な本質を特徴づけているかにみえるこうした指摘は、その実むしろ
弁証法とは正反対のもの、本来の限界が 《自己超出》の論理といいうるとしたら《自己安住》
の論理にすぎないというべきであろう。
というのも、この段階で行われていることは、Aに即していえば、実際にはBをAから排
除し、Aを非Bとして確立するということであってみれば、かかる排除によって、あるいは
非存在の定立によって、AはAとしての存立を確固としたものとしてもつことになってしま
うからである。あるいは、たしかにAは非Bであることが明確にされることによって、いわ
ば囲い込まれはするであろうが、しかしその囲い込みのなかに収まっているかぎりは、Bの
侵入もなく、かくしてAがBによって破壊されるということもなく、あるいは、囲い込みの
なかにとどまっているかぎりは、AはA=Aとして存在しているのであり、かくしてA自身
の内部的な崩壊の要因が存在するということもないのである。比喩的にいえば、自己の分を
わきまえ、あるいは、身の程を知って、あえて自己を囲い込んでいる境界線を乗り越えよう
としないかぎり、或るものAは、自己に安住していることが可能になるのである。同じこと
は、Bについても成り立っているわけであるが、こうした結果をもたらす要因は、一見弁証
.......
法的な外観にもかかわらず、たとえばAの存在とAの非存在が同一の観点から出てきたもの
ではなく、「観点の移動(Perspektivenverschiebung)」つまり「或るものの観点から」見たと
きと「他のものの観点から」見たときの相違にもとづいたもの(3)だからであるというよう
にいうことができよう。いずれにしても、こうした理解にしたがうかぎり、AとBとの間に
限界が設定されることによって、肯定的ないいかたをすれば、限界内でAはAとしての存在
を確保するのであり、BもまたBとしての存在を確保するのである。
ところで、こうした問題は、同時に否定性をどのように理解すべきなのかという問題とも
連なってこよう。というより、ヘーゲルの論理学思想の核心が否定性の論理にもあるとすれ
ば、限界の論理についての上述のおよび後述するいくつかの誤解は、まさに否定性というヘ
ーゲル論理学の核心部分をめぐる誤解でもあり、かつ否定性にまつわる典型的な誤解にもと
づくものであるというべきであろう。
今の場合に戻っていえば、たしかに、他者との間に《排除》という関係がある以上、或る
ものと他のものの間に《否定的関係》を見ることは当然できるわけである。その際、たしか
に或るものAは、他者Bへと否定的にかかわることによって、Aでありうるのであり、そし
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國學院短期大学紀要第23巻
てまたかかる否定性は、少なくとも、Aに即した否定性ということもできようし、Aがもっ
ている否定性にもとづいた否定性とも、さらにはAの内在的契機である否定性にもとづいた
ものともいうことはできよう。さらには、上で確認したように、かかる否定性は、他者の非
存在、他者の排除にとどまらず、自己にも向けられ、自己の排除、自己の非存在の定立をも
引き起こしてはいるのである。
しかし、こうした否定性は、それが一見どれほどラジカルに見えようとも、実質的には上
で述べた論理構造にもとづくものである以上、A=AとB=Bとを判然と区別し、AはAと
しての存立、BはBとしての存立を確固たるものたらしめる否定性にすぎないのである(4)。
「生」は「死」ではないものとして、「死」を自己から排除し、他者「死」を否定すると同時
に、逆に「死」という他者によって ―― 「死」が「生」によって排除され、否定されるの
と同じ論理構造にもとづいて ―― 否定されるにしても、それは他者による否定にとどまる
かぎり、その否定性は「生」が自己のいわば領分にとどまっているかぎり、限界の論理に不
....
可欠な生の自己否定としては機能してこないのである。
Ⅰー2ー(1)或るものと他のものの中間点としての限界
さて、ヘーゲルは限界論の(β)を、「或るものは、自己の限界においてあるとともにな
い(ist und nicht ist)」(S. 114)という一見刺激的な表現で始めているが、これ自体は実際に
は(α)で述べられたことを整理したものにすぎない。重複をいとわず記しておけば、〈或
るものが自己の限界においてある(ist)〉のは、まさに限界が《他者の非存在》であり、限
界によって他のものが限界づけられることにもとづいて、或るものAがAとして存在しうる
ということを意味しているということであるし、他方この或るものがもつ限界は同時に他の
ものBが或るものAにたいしてもつ限界でもあることからすれば、〈或るものは、自己の限
界においてない(nicht ist)〉ということなのである。
その意味では、限界論の(β)の冒頭部分の表現それ自体は、限界の論理にかんするなん
らかの前進にもとづいたものではないということができよう。むしろ、ヘーゲルがこの(β)
の冒頭部分でいいたいのは、《あるとともにない》という一見弁証法的な表現から期待され
.....
..
るようなことではなく、有論というエレメントないし境域内での、(α)の《あるとともに
ない》の帰結にかんしてなのである。つまり、「直接的、質的区別」(Ibid.)という有論のエ
レメントにしたがって、《ある》と《ない》という二つの規定、今の場合でいえば、「或るも
のの非定在と定在」とは、限界を挟んで「たがいに分離」することになる(Ibid.)という点
なのである。あるいは、限界がまずもって《他在の排除》、《他在の非存在》とされ、そして
そのことによって確保された或るものの自己関係性という構図がその場合の下絵をなしてい
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るということを補った方がよりわかりやすいかもしれない。まさに、この下絵をもとに、有
論の流儀にしたがって描き続けるならば、或るものの《ある》と《ない》は、―― ヘーゲル
的意味で ―― 悟性的に二つの別のものとして単純に区別され、限界を挟み、あるいは限界
を中間点(Mitte)(5)として、いわば限界の右と左に別のものとして割り振られることにな
るのである。とすれば、ヘーゲルがいうように、
「或るものは」―― 先の確認にしたがえば、
当然われわれは「他のものも」とつけくわえることができるが ――「自己の限界の外に
(außer)」あるいはいいかたの違いだけであるから、ヘーゲルも補足しているように、「限界
の内部に(innerhalb)」といっても同じことである ――「その定在をもつのであり」、したが
ってまた「限界の彼岸に(jenseits)」「その定在をもつのである」(Ibid.)。
さて、このように「限界の彼岸に」、或るものが、そしてまた他のものも同様に、定在を
もつのであるとすれば、或るものと他のものの「両者の中間点」である限界において、当然
「両者は終わる(aufhören)」(Ibid.)ことになるのであり、したがって限界は「おのおのの非
存在」であり、(α)で指摘したことにもとづけば、まさにかかるものとしての限界は、或
るものの存在から排除されるものとして或るものにとっての他者であり、したがってまた他
者からみれば、他者にとっての他者ということにもなろう。ヘーゲルのことばをもってすれ
ば、「おのおのの非存在としての限界は、両者の他者なのである」(Ibid.)ということになる
わけである。
もし(β)でのヘーゲルの指摘が以上のように理解できるのだとすれば、われわれは(β)
は、限界を《他者の排除》とするような悟性的な思考様式がもたらす一つの必然的結果、つ
まり限界そのものが、或るものの他者として、或るものから排除されるという結果を明らか
にしたものということができるであろう。ヘーゲル自身が例示しているように、この(β)
の理解にしたがえば、「線は線として、その限界である点の外にのみ現れる。また面は面と
して〔その限界である〕線の外部にある」(Ibid.)ことになるのであり、こうした限界のと
らえ方では、「点において、線はまた始まりもするのである」という限界の動的な側面、つ
まり「点のこうした運動」
(S. 115)は現れてこないということになるのである。
Ⅰー2−(2)境界線としての「中間点」的限界理解
以上、見てきたように、(β)の冒頭部分に含まれる、「或るものは自己の限界においてあ
るとともにない」という文言は、悟性的な二分法にもとづいて、さきに言及した表現を使え
ば〈或るものから見たとき〉と〈他のものから見たとき〉現れる事態を指すものと思われる
が、かりに、「あるとともにない」という文言が、境界線上での話だとしてみよう。〈生死の
境をさまよう〉というような場合が、そうした場合の例ということができようが、たしかに
─ 65 ─
國學院短期大学紀要第23巻
その場合、《境》つまり境界線上では生きているとも死んでいるとも明確には決めがたいと
いうことはいいうるであろうし、その意味で境界線上で《生》は《存在している》と同時に
《存在していない》ということができるかもしれない。かかる境界線上では生と死の区別が
混とんとした状態だからである。
しかし、本来限界の弁証法ということで明らかにされるべきなのは、それぞれの存在が限
界をもっているからこそ、それ自身において《自己超出》の構造をもっているということ、
あるいはそれ自身のうちに他者性が内在しているからこそ、そうした構造をもち、だからこ
そまた有限な存在であるということなのではないであろうか。
それにたいして、境界線上で問題になるのは、《生》と《死》という二つの或るものが、
それぞれ《生》と《死》としての性格を変えることなく、したがって、それぞれが独立した
別のもの、つまり《生》は生として、《死》は死として存在していることにかわりはなく、
ただその別々のものである両者が、渾然一体となっている状態なのではないであろうか。
.... ........
《生》なら生の存在と非存在との区別が、ヘーゲル的にいえば直接的で、質的に区別されて
..
いるかぎり、《生》の存在と非存在とはたがいに分離し、むしろ限界の彼岸においてそれぞ
れ《生》の存在と《生》の非存在つまりは《死》として、それぞれは単純な、一重の(einfach)同一性という存在性格を変えることなく存在しているのである。
Ⅱ 「限界」における弁証法
Ⅱー1 《共通の区別》 ―― 区別と統一との統一
以上、ヘーゲルによる限界論の(α)と(β)を見てきたが、これまでの考察が妥当なも
のであるとすれば、この(α)と(β)とは「限界」をいわば悟性的に考察した場合の帰結
について指摘したものであるということができるであろう。とすれば、自己超出の論理とな
るべき限界論の積極的展開は、当然残された(γ)の部分でなされていなければならないと
いうことになろう。こうした視点から、以下(γ)の部分を見てみよう。
さて、(γ)の出発点をなしているのは、(β)の冒頭部と同じように、先立つ分析の整理
ないし先立つ分析がもたらす帰結についてである。実際には(γ)の冒頭は、次のような内
容になっているといえよう。すなわち、限界が中間者的位置づけを与えられ、限界づけあう
或るものどうしがその存在を限界の彼岸に持つということは、一つには限界が或るものにと
っての他者としてとらえられることになるということ、そしてそれにともなって、或るもの
と他のものとは《並存》し、いわば第三者による比較にもとづいてはじめて区別されるよう
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ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
な、たがいに無関与的な(gleichgültig)二つの或るものとしてとらえられるということ、お
よそこのような形でヘーゲルの(γ)の冒頭部での指摘は理解することができるであろう。
別のいいかたをすれば、(β)の分析に際して指摘したように、定在がもつ《ある》と《な
い》、《有》と《無》とが悟性的に二分され、二つの或るものに、あるいは或るものと他のも
のにといってもいいであろうし、さらにまた或るものとその限界に、といってもいいであろ
うが、いずれにしても別々のものとして分断されることによって、本来は定在に内在してい
るはずの否定性の契機が、定在そのものから離脱してしまい、否定がこれまた第三者的視点
からの否定性としてしか機能しなくなってしまうのであると言い換えることもできるであろ
う。
こうした(β)の帰結が《内在的超出》を主眼とする限界論の本来の核心をなしえないと
すれば、問題点はそもそもどこにあるのであろうか。こうした視点からヘーゲルの叙述を見
たとき、ヘーゲルがまずはこうした(β)の帰結に触れた後で、(γ)の核心部の書き出し
を、「しかし、この或るものと他のものとの両者のまずもって直接的な定在は、今や限界と
しての規定性をともなって定立されているのである」(S. 115)と始めていることに注目する
ことができよう。この指摘を念頭に置いて(α)の冒頭部―― まさに(α)と(β)を通じ
て、その問題点が明らかになった、或るものと他のものとの悟性的並列化をもたらした視点
といってもいいであろう―― を見てみると、ヘーゲルは「それゆえ、或るものは直接的に自
己に関係する定在であり、限界をまずもっては他者にたいして(gegen)もっているのであ
る。つまり限界は他者の非存在であり、或るものそのものの非存在ではないのである」(S.
113 f.)としているのである。この(α)の冒頭部の或るものは、まずは自己関係的な存在
.....
としていわば自足的に存立し、しかる後に他者にたいする限界が、A=Aとして存在してい
.......
る或るものに、いわばつけくわわってくると考えることができるであろう。あるいは、或る
ものと限界とは、少なくとも後者が前者の内部へは入り込んではいない関係においてあると
いえよう。そして、そのように理解されるかぎり、限界は、すでに本稿で検討したように
《他者の排除》として―― したがって限界の本来のあり方とは違った形で―― とらえられる
のである。
それにたいして、今や明らかにされるべき本来の或るもののあり方、少なくとも有論の限
界論まで進展した論理の高みから見えてくるはずの或るもののあり方は、「限界……をとも
なって定立されている」ものとしてとらえられており、それが本来の限界論の分析の出発点
に据えられているのである。図式的にいえば、《A》+《限界》ではなく、《A(限界)》が、
本来の限界論をめぐる分析の出発点であるといってもいいであろう。あるいは前者の場合、
或るものと他のものおよび或るものと限界は、たがいに打ち消しあう別々のものとして、文
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國學院短期大学紀要第23巻
字通り《と》で結びつけられた、したがってそれら自身に即した内在的な統一の構造がない
区別、いいかえれば、たんなる悟性的な区別にもとづくものとして存在していたとすれば、
後者つまり《A(限界)》の場合は、或るものと他のものは《区別と統一》においてあると
されているのであり、熟さないことばではあるにしても、《共通の区別(gemeinschaftliche
Unterschiedenheit)》のもとにあるとされているのである。
すなわちヘーゲルはいう、「しかし、この或るものと他のものの両者のまずもって直接的
な定在は、今や限界としての規定性とともに定立されており、そして限界において、両者は、
たがいに区別され、それらがそれであるところのものなのである。しかし、限界は、……両
者の共通の区別であり、両者の統一であるとともに、また区別でもあるのである」(Ibid.)。
もちろん、この《gemeinschaftliche Unterschiedenheit》がいかなる事態を表現したものなの
かは ―― 悟性的な区別と統一ではないことは明らかであるにしても ―― 必ずしも明確なも
のにはなっていないといわざるをえないが、少なくとも次の諸点は確認できるであろう。
第一に、「共通の区別」が区別と統一とも特徴づけられていることから知られるように、
本来の限界の有りようで問題になるのは、限界づけあう或るものと他のものの、当然たんな
る統一であるのではないばかりではなく、たんなる区別でもないということである。換言す
れば、たんなる区別が問題ではないということから推し量ることができるように、本来の限
界で明らかになるのは、或るものによる他のものの非存在の定立およびその逆の他のものに
よる或るものの非存在の定立の論理にとどまりはしないということである。
第二に、同様に、区別と統一との統一が核心なのであるとすれば、本来の限界の論理で明
らかにされるはずのものは、たがいに他方にたいして無関与に存在し、外的な第三者の視点
............
が持ち込まれることによってはじめて区別されるような、表象が思い浮かべるような、ある
............
いは外的反省にもとづくような或るものと他のものとの関係でもないということなのである。
第三に、しかし、区別と統一の統一ということにとどまるのだとすれば、それはあまりに
一般的な規定にすぎないということもできよう。というのも、そもそも論理学自体を貫く観
点がまさに区別と統一との統一あるいは区別と同一性との同一性ということにほかならない
からである(Vg1. S. 54)。だとすれば、論理学のカテゴリーがいかなる事柄を表現しようと
したものなのかを明らかにする際に肝心なのは、それぞれがどのような段階での区別と統一
を明らかにしようとしたものなのかという視点であるといってもいいであろう。その点で、
参照すべきなのは、『初版』で、ヘーゲルがこの限界の本来の有りようを問題にするときに、
即自存在と向他存在との統一ということを下敷きにしているということである。つまり、限
界論で問題にすべきなのは、たんなる区別と統一との統一一般ではなく、限界論が展開され
る段階での、あるいはその高みでの、区別と統一との統一のあり方、つまり即自存在と向他
─ 68 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
存在との統一、より規定的にいえばヘーゲルが「即自存在へと取り入れられた向他存在」(6)
というように即自存在と向他存在というカテゴリーを使って表わした統一のあり方なのであ
る(7)。
では、この「即自存在へと取り入れられた向他存在」という統一のあり方とはどのような
ものなのであろうか、限界論の核心を明らかにしようとすれば、まさにこの問いに答えるこ
とが必要であろう。
Ⅱー2ー(1)即自存在と向他存在とは
さて、この《即自存在》と《向他存在》の両者が、基本的には、それぞれ自己関係と他者
関係を表すものであるということは、まさに《An-sich-sein》と《Sein-für-Anderes》というこ
とばそのものから明らかであるといってもいいであろう。くわえて、ヘーゲル自身明言して
いるように、この両者が、一つの「定在するもの」の内在的契機として存在するものである
以上(8)、即自存在と向他存在は、一般的に自己関係と他者関係を問題としているのではなく、
一つの《定在するもの》に即して自己関係と他者関係をとらえかえそうとしたものであると
いうことも確認しておく必要があろう。
さて、即自存在と向他存在とが、このように自己関係と他者関係との定在するものに即し
た統一の論理化という意味をもっているという場合、なによりも留意しなければならないの
..
.
は、たとえば〈或るものは、即自存在という側面を持ち、また向他存在という側面も持って
いる〉といった理解、あるいは〈即自存在と向他存在は、或るものがもつ、自己関係と他者
...
関係という二つの側面を表す〉といった理解では、その十全な把握はできないということで
ある。
つい
とりわけこうした観点から興味深いのは、ヘーゲルがまずもって向他存在およびその対と
しての即自存在を、〈他者そのもの論〉と呼びうるものに引き続いて論じているという点で
ある。ということは、向他存在と即自存在を通して、或るものと他のものとの関係をリアル
に問題としようとするとき、ヘーゲルはこの関係をたとえば両者のうちの「いずれを、まず
もって或るものと呼ぶのか、そしてまたただそれだけの理由からそう呼ぶのかは任意であ」
(S. 105)り、或るものと他のものの割り振りは「第三者の外的比較」(Ibid.)にもとづくの
であるといった形では理解してはいないということなのである。というのも、今触れた理解
――こうした理解を或るものと他のものとの表象的理解と呼ぶことができるであろうが ――
は、実はヘーゲルが〈或るものと他のもの論〉を三つに分けて展開しているうちの「第二に」
のなかに含まれている指摘であり、ヘーゲル自身は、この「第二に」に続いて、上で〈他者
そのもの論〉と名づけた部分をさらにつけくわえているからである(9)。
─ 69 ─
國學院短期大学紀要第23巻
つまり、或るものと他のものの展開、したがって〈向他存在と即自存在論〉につながって
いく箇所は、ヘーゲル自身の「第一に」「第二に」という区分を追っていくと次のようにな
っているのである。
「第一に、或るものと他のものは両者とも定在するものあるいは或るものである。
」
「第二に、同様におのおのは他のものでもある。
」
「第三に、……他者は孤立したものとして自己自身への関係においてとらえられねばなら
ないのである。」(S. 105 f.)
こうした展開が示していることは、たしかに質という規定性をもって存在しているという
かぎりにおいては、たがいに同等ではあっても、まずもって「存在するもの(Seiendes)」と
しての直接態においてとらえられた定在を指すものとしての、したがってヘーゲル的意味で
の「肯定的規定」(S. 104)である《或るもの》とは区別される定在の存在の仕方を明らかに
するために《他のもの》というカテゴリーが導入される必要性をヘーゲルが想定していたと
いうこと、つまり「他のもの」をそれ自身として、「自己自身への関係において〔したがっ
て、或るものとの関係においてではなく〕」、つまり他者そのものとして考察する必要性を主
張しているということである。そして即自存在と向他存在というカテゴリーが、すでに上で
指摘したように、或るものと他のものとの関係を問題にするものであるとすれば、そうした
関係は、まさにこの〈他者そのもの論〉を踏まえたものとして展開されなければならないと
ヘーゲルが考えたということにほかならないのである。
......
では、他者そのもの とはいかなるものなのであろうか。この点については、ヘーゲルの
『論理学』の展開に即して既に検討したことがあるので詳細はそれを参照していただくこと
として(10)、ここでは他者そのものが備えている特徴を、同じく定在するものでありながら、
《或るもの》の他に、その存在様式において区別されるべきものとしていかなるものが想定
可能かという問いにもとづいて考えてみよう。そうすれば、この両者の区別ということで、
.
.
定在が有と無との統一態であったことに即して、《無と統一した有 》と《有と統一した無 》
という二つの統一のあり方の違いに着目すことができるであろう。
すなわち、定在するものが、まずもっては先立つ展開の成果として、有と無との直接的統
一態であるとすれば、或るものとは「非存在をともなった有(Sein mit einem Nichtsein)」
.
.
(S. 97)として、《無と統一した有》、《無をともなった有》といいうるのにたいして、他方、
他のものとは、「非存在をともなった有」という上の或るものの特徴づけになぞらえていえ
...
.
.
ば、《有をともなった非存在》つまり《有をともなった無》であり、《有と統一した無》にほ
かならないといえよう。つまり、有と無との統一態であるというかぎりにおいては、同じく
《定在するもの》と規定しうるにしても、有と無とのいずれをいわば基盤に据えた統一態な
─ 70 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
.
.
のかという点で、《無と統一した有》と《有と統一した無》が区別されうることにもとづい
て、前者を《或るもの》、後者を《他のもの》とカテゴライズしたというように理解できる
であろう(11)。
こうした確認にもとづいてさらに続ければ、他のものとは、有と統一した無として、いわ
...........
ば無にアクセントを置いた統一態であり、かかるものとして、まずもって否定的なものであ
り、しかも自己否定的なものである「他のもの」は、まさにそのかぎりにおいては「自己に
端的に不等なもの(sich schlechthin ungleich)」(12)なのである。しかし、同時に忘れてはなら
ないのは、「他のもの」が、無にアクセントを置いたものであれ、有と無との統一態として
《定在するもの》である以上は、「自己に端的に不等なもの」としての他のものも《そこにあ
る》こと、つまりは定在していること、特定のものとして存在しているものであるというこ
とにはかわりはないのであり、かかるものとして、他のものは、《自己に不等なもの》であ
ると同時に、他方では《自己と同一なもの》として自己同等性、あるいは自己関係性もまたも
っているのである。
われわれは、なによりも即自存在と向他存在というカテゴリーが、こうした〈他者そのも
の論〉に引き続いて論じられているということ、したがって向他存在がもつ《他者にたいし
て》という性格自体が、こうした流れのなかで論じられているということ、あるいは《他者
にたいして》という性格が、有を基盤にした無との統一態としての定在という視点からでは
なく、無を基盤とした有という視点から出てくる観点だということ、即自存在の《即自》と
いうことも、同様にたんに、自己に即してということにはとどまらないのであるということ
に留意しなければならないのである。即自存在と向他存在というカテゴリーを理解する際に
肝心なことは、向他存在およびその対をなす即自存在が、〈他者そのもの論〉の展開を踏ま
えて登場してきていること、つまり、《自己に不等なもの》として《自己関係しているもの》
という《他のもの》の二つの特徴に対応するものとして登場してきているということ、ある
いは《他のもの》のそうした二つの特徴を基盤とした上で、懸案の自己関係性と他者関係性
との関係を明らかにするためのカテゴリーとして登場してきているのである、ということな
のである。
以上のことを前提して、自己関係と他者関係との関係についての考察を続けよう。
さて今、自己同等性を他のものにたいする或るものの基本性格としていいのであるとすれ
ば、他のものはそれ自身、自己同等なものとして或るものでもあるのであるといっていいで
あろう。とすれば、 ヘーゲル自身の指摘を念頭に置きながらいえば、「或るものは、自己の
非定在〔=他のもの〕において自己を保持しているのである」(S. 106)ということができよ
う。したがって、他のものそれ自身が、上で述べた意味で或るものでもあるという面から見
─ 71 ─
國學院短期大学紀要第23巻
.
れば、今度はかえって或るものとしての他のものからすれば、他のもの、他在は、《非‐自
己》なのである。しかしまったくの《非‐自己》として自己にたいして無関与なものではな
く、まさに自己それ自身であることにはかわりはないことも当然であろう。かかるものとし
て、或るものとしてとらえられた他のものは、自己とは区別された他在、しかしそもそもは
自己である他在と「関係してはいるのである」(Ibid.)。かくして「他在は同時に或るものの
うちに含まれており、かつ同時になおそれから分離してもいるのである。すなわち或るもの
は、向他存在である」
(Ibid.)のである。
いいかえれば、たとえ否定的という規定がつこうと他のものも自己関係態であることには
変わりないのであり、そのかぎりで、それは或るもの的性格をもつし、自己関係態というこ
....
とにアクセントをおいて理解するかぎりにおいて ―― したがって即自存在として理解す
るならば ――《否定的》自己関係態とは別のものであり、他のものをまさに他のものたら
しめていた《否定的》自己関係態をいわば自己の外に放逐するわけである。しかし、この自
己関係態は、放り出すということを介してのみ、存立しうるのであるということからすれば、
そこにはたしかに《関係》は存在しているのである。さしあたって、これが自己関係態にお
ける向他存在の側面であるということができるであろう。
あるいは、次のように考えてもいいであろう。すなわち、自己不等なものであり、しかし
また定在するものであることにはかわりはない存在として明らかにされた他のものは、たし
かに定在するかぎりにおいて、自己同等性、自己関係性をもっていると同時に、他方、あく
まで自己不等性にアクセントがあるかぎり、その自己関係性は単純な《自己=自己》、いわ
ば自己のうちで完結している自己同等なものではなく、自己完結性と対照的にいえば《外に
開かれたもの》であり、かかるものとして、他のものとしてとらえられる或るものは、
《外=他のものに開かれたものであり、他のものと関係するもの》なのである、というよう
にである。
このように理解していいのであるとすれば、《自己に不等なもの》がもつ自己関係性を表
すカテゴリーが「即自存在」というカテゴリーであり、同じく他者関係性が「向他存在」と
いうカテゴリーであるということができるであろう。さらに、両者は、まずもって「悟性の
威力」にもとづいて明確に区別されるべきだとすれば(13)、即自存在とは有と無との統一態で
ある定在するものにおける自己関係態のことであり、しかしさらにいえば、まずは「他者へ
の関係にたいする(gegen)自己関係、自己の不等性(Ungleichheit)にたいする(gegen)自
己同等性」(S. 107)のことであり、同様に、今、即自存在についてのヘーゲルの指摘を下敷
.....
きにしていえば、向他存在とは、有と無との統一態である定在するものにおける自己関係性
.....
.... ........
.....
にたいする(gegen)他者関係、同等性にたいする(gegen)自己不等性であるということが
─ 72 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
できるであろう。
あるいは、即自存在と向他存在の特徴は、次のようにも考えられよう。すなわち、即自存
在は、存在にアクセントを置いた有と無との統一態に特徴的な自己関係、自己同等性の面を
とらえたものであり、したがって「他在の非存在としてのみ自己へ関係」(Ibid.)するもの
であり、そうした意味で、「自己へと反省した定在」(Ibid.)であるとすれば、即自存在とし
ての或るものは、
「他のもの」の自己からの排斥を意味しているということができよう。
他方、向他存在は、まずは無にアクセントを置いた有と無との統一態、あるいは《有をと
もなった非存在》としての「他のもの」に根ざしており、自己に不等なものであるとすれば、
そこからは ―― 即自存在の場合と同様の論理構造にもとづいて ―― 有、存在の契機は排除
されていると考えることができるであろう。その場合、排除される有、存在の契機は、それ
がそこから排除される「他のもの」にとっては、《自己の非存在》なのであるから、たとえ
排斥的にであれ、他のものはそれに関係しているのであり、かかるものとして「向他存在」
なのである。
以下、まとめも兼ねて、ヘーゲル自身のことばで両者を特徴づけるとすれば「或るものに
おける存在は即自存在なのである。存在、自己への関係、自己との同等性は、今やもはや直
接的にあるのではなく、(自己へと反省した定在として)ただ他在の非存在としてのみ自己
へと関係するのである。同様に、非存在も、存在と非存在とのこうした統一における或るも
のの契機として、一般に非定在であるのではなく、他者なのであり、そしてより規定してい
えば、存在のそれからの区別にしたがって、同時に自己の非定在への関係、向他存在なので
ある」(Ibid.)というようにいうことができよう。
こうした意味で、「或るもの」と「他のもの」とがなお相互外在という特徴をもっていた
とすれば、「即自存在」と「向他存在」とは、まずもって互いの関係において存在している
ということができるであろうし、或るものと他のものとが「一個同一のものの契機」として
定立されたものであるということも了解されよう。
Ⅱー2ー(2)向他存在と即自存在との同一性
ところで、さきに「たいして(gegen)」という関係で特徴づけられていたように、まずも
って即自存在と向他存在の両者は、たがいに否定的な関係において存在しているということ
も容易に知ることができよう。即自存在は、他者関係とは対立した定在するものにおける自
己関係性であり、逆に向他存在は、自己関係に対立した他者関係をまずもっては意味してい
るのである。まさにヘーゲルがいうように「即自存在は、第一に非定在への否定的関係であ
り、他在を自己の外に持っており、また他在に対立している。或るものが、即自的に〔自己
─ 73 ─
國學院短期大学紀要第23巻
に即して、自己のもとに〕あるかぎりにおいて、それは他在および向他存在から切り離され
ている」(Ibid.)のであり、「向他存在」にかんしても同様の、しかし当然即自存在とは逆向
きの論理構造をもっているものということができよう。
あるいは、さらに両者の間に相互媒介的関係を見ることもできよう。というのも、即自存
在からいえば、それは抽象的に自己関係態なのではなく、あくまで《非‐向他存在》として
即自存在だからであるともいえるからである。ヘーゲルのことばをもってすれば「即自存在
は、非存在をまたそれ自身自己のもとに(an ihm)もっている。というのも、それ自身は向
他存在の非存在だからである」(Ibid.)。同じように、向他存在の側からいえば、向他存在も
「存在の単純な自己関係の否定」(S. 108)であると同時に、そこにはとどまりえないからで
ある。というのも、もしここにとどまるならば、それは「固有の存在を欠いたもの」(Ibid.)
とならざるをえないが、さきに論じたように、向他存在もまた自己関係態の一側面である以
上、それは「自己自身へと反省した存在としての即自存在を指し示している(hinweisen)」
(Ibid.)からである。
もしこのようにいえるのだとすれば、即自存在と向他存在は、まずは《たいしてある
(gegen)関係》として、しかしまたそれにとどまりはせずに、さらには《指し示す(hinweisen)関係》としても理解されなければならないということができよう。
しかし、ヘーゲルにしたがえば、即自存在と向他存在の間の関係は、この《指し示す》と
いう関係にすぎないものでもなく、むしろ、両者は端的に同一のものである(14)。つまり、ヘ
ーゲルによれば「或るものは、それが即自的にそれであるものを、またそれの元に(an ihm)
もっているということ(15)、そして逆に或るものが向他存在としてそれであるものは、また即
自的でもあるということ、これが、或るものそれ自身が、両契機の〔基礎にある〕同一のも
のであり、それゆえ両者は或るものにおいて分離されることなくあるという規定にしたがっ
た、即自存在と向他存在との同一性ということである 」(Ibid.)。
見られるように、ヘーゲルにしたがえば、この両者は、端的に同一性の関係においてある
のである。だからこそヘーゲルは、この両者と、本質論でいえば《内面性と外面性との関係》、
すなわち前者は後者へと《発現》するという関係、つまり後者は、前者が外的に現れ出たも
のにほかならないという《内面性と外面性との統一》との、そしてまた、概念論での《概念
と現実性との統一である理念》との対応関係を指摘するのである(Vg1. S. 108)
。ヘーゲルに
とって、理念とは「概念と客観性との絶対的な統一であ」り、「その観念的な内容は、諸規
定における概念にほかならず、その実在的な内容は、概念が外的な定在という形式のうちで
自己に与える表現にすぎない」(16)からである。
まさにこのような対応関係が想定されていることからも知られるように、ヘーゲルにとっ
─ 74 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
て即自存在と向他存在とは、なお有論というエレメントからくる制約をともないつつ、《即
自存在は向他存在である》という同一性の関係においてあるのである。
では、この両者の同一性とは、どのような論理を背景として主張されるのであろうか。こ
の問いにたいしては、今一度、両者の関係をとらえ直すことによって、実はこの両者が、メ
ダルの裏表といった関係にあると考えることによって答えることができよう。
というのも、即自存在と向他存在とは、同一の「或るもの」、あるいは、上で確認したよ
うにその出自に即していえば、同一の「他のもの」の自己同一性、自己関係性の面を表した
ものが「即自存在」にほかならないのであったし、他方、その「他のもの」の否定的自己関
係態という面から出てくるのが「向他存在」だったからである。換言すれば、即自存在とし
てみれば、自己関係性において存在する、一個同一の「他のもの」は、しかし、それに内在
する否定性の契機にもとづけば《自己に不等なもの》であり、《他者に開かれたもの》であ
り、かかるものとして向他存在であり、他者関係において存在しているということにほかな
らないのである。その意味で、上でこの両者がメダルの裏表という関係にあると評したので
ある。今、かりにこうした他のものをAと名づけるとすれば、即自存在とは、自己関係性と
いう面から見られたAのことであり、向他存在とはその同じAが否定性の面から見られたも
のなのである、といってもいいであろう。その意味で、「或るものは、しかしまた規定ある
いは状態(Umstand)を、この状態が或るもののもとで(an ihm)外的であるかぎり、つま
..
り向他存在であるかぎり、即自的に(ここではアクセントは an にある)いいかえれば或る
......
もののもとに(an ihm)もっている」(Ibid.)といわれているのである。
こうした意味で、われわれは即自存在と向他存在との同一性というものを考えることがで
きるであろう。
この同一性ということにかんしては、ヘーゲルが人間を例にして、その「規定」ないし本
性を「理性」をもっている存在、「思惟する理性」とし、さらにその意味で「人間は思惟自
体(Denken an sich)である」(S. 111)ともいえるとしていることに即して考えてみればより
明瞭になろう。
まず、思惟それ自体としての人間といったこうした特徴づけは、人間をその自己関係性に
おいて、あるいは端的に人間を人間たらしめている純粋自己関係性においてとらえた場合の
人間の特性なり、本性を表したものと理解することができるであろうが、この場合、問う必
要があるのは、こうした思惟それ自体としての人間、理性的存在としての人間は、まさにそ
うしたものとして、現実にはどのように存在しているかという点である。そうした問いにた
いしては、他者との関係のなかで、つまりわれわれを取り巻く外的存在とのかかわりのなか
で、と答えることになるであろう。われわれは思惟的存在として、現実的、具体的な場面の
─ 75 ─
國學院短期大学紀要第23巻
なかで、さまざまな思考活動を営んでいるのであり、あるいはそうした外界とのかかわりの
なかで、感覚・知覚情報を獲得しているのであり、さらには外界にたいして実践的に活動す
る主体として存在しているのである。
.
というより、そうしたまわりとのかかわりのなかでの活動を抜きにしては、即自存在は現
.......
実的な即自存在ではありえないのであり、また、そうしたかかわりなしの即自存在は、なん
ら積極的な内実をもった規定とはなりえないのである。そのことは、ちょうどヘーゲルがカ
ントの《物自体(Ding an sich)》が「知りえない」のは、それが「すべての向他存在が捨象
されるかぎりにおいて、すなわち物がすべての規定なしに、無と考えられるかぎりにおいて」
(S. 109)のことであってみればいわば当然のことにすぎないのであると評したことを想起す
れば明らかであろう。いいかえれば、《自体的なもの》、《即自的なもの》は、《外的なもの》
と切り離されたたんに《内的なもの》ではないのである。そうではなく、まさに、さきに触
れたように、外的なものは内的なものの《発現》であるという関係、今の場合に引きつけて
いえば、即自的なものは、外的なものとして現れ出るものであり、即自存在は、外的な他者
との関係において存在するものであり、だからこそまさに向他的なものにほかならないので
ある。
そしてその場合、たとえば対象を思考する存在とは、「向他存在」の面にもとづいた「人
間の固有の自然性および感性」(S. 111)という対他者関係のなかでの、人間の即自存在の現
実的な場面での具体的な現れ、すなわち、理性的存在としての人間の即自存在が、向他存在
として、具体的な場面でどのように存在しているのかを示したものにほかならないであろう。
.......
あるいは「思惟自体(Denken an sich)」である人間にとって「思惟はそれ自身の元に (an
ihm)」おいても存在するのであり、「人間は思惟するものとして定在するのであり、思惟は
人間の現実存在であり、また現実性である」(Ibid.)のである。つまり、さきのヘーゲルが
挙げている対応関係にもとづいていえば、即自存在として「思惟それ自体」である人間と具
体的な場面で、現実的に思惟活動を営む人間とは、《内的なもの》とそれの《外的なもの》
としての《発現》形態との関係と等しいということができるであろう。かかる意味において、
即自存在と向他存在とは同一なのであり、あるいは、有論的エレメントということを念頭に
置いていえば、即自存在は、向他存在と《成って》いるのである、というようにも表現でき
よう。
.
いずれにしても、即自存在と向他存在とは、たんに即自存在と向他存在としてだけではな
く、そしてまた「或るものは、向他存在から出て、自己へと帰ってきているかぎりで即自的
である」(S. 108)だけでもないのである。理性的存在としての人間は、まさに対象を具体的
に認識するという活動主体としてはじめて実際に存在しうるというように、したがってまた、
─ 76 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
たんに自己の内にとどまってはいずに、他なるものとの現実的な具体的連関のなかで、まさ
に向他存在としても存在しなければならないのであり、《即自存在は向他存在である》とい
う同一性の関係にあるということができよう。
Ⅱ−3 限界の弁証法
われわれは即自存在と向他存在との同一性をこうした意味で理解することができるであろ
う。この両者の同一性、それは『初版』の表現では「即自存在へと取り入れられた向他存在」
のことであったし、さらにそれを《即自存在それ自体は向他存在を取り込んだ存在》でもあ
るといい換えることも可能であろうし、あるいは、《向他存在となって現れ出ている即自存
在》とすることもできるであろうが、いずれにしても、このように表現できる事態とは、と
りもなおさず、向他存在を介した《他者の内在化》ということにほかならないといってもい
いであろう。
もちろん、こうした即自存在と向他存在との、区別を内に含んだ同一性と前節の考察の出
発点となった限界論での「共通の区別」とはただちには同一ではない。というのも、ヘーゲ
ル自身は『第二版』では限界論そのものに先立って「規定」と「性状」というカテゴリーを
展開しているからである(17)。もはや、この点について詳論するゆとりはないが、骨格だけ確
認しておけば、次のように理解することができよう。すなわち、限界に先立つ「規定」と
「性状」は、註(7)でも指摘したように、即自存在と向他存在の特性を、或るものつまり
定在するものがもつ規定性という側面から考察したものであり、それゆえ限界は、定在する
............
ものとこうした規定性との否定的統一態として問題とされているのである。つまり、限界論
の冒頭に存在する定在は、そうした規定性との統一態として、「自己に反省した或るもの」
(S. 113)であり、そうしたものとして「他者の質的否定」(Ibid.)をともなった或るものな
のである(18)。
し た が っ て 、「 向 他 存 在 が 或 る も の の 自 己 の 他 者 と の 無 規 定 的 な 、 肯 定 的 な 共 通 性
(Gemeinschaft)である」(Ibid.)とすれば、他者の質的否定を踏まえた共通性として、限界
で問題になるのは ―― 向他存在の場合の共通性と対照的にいえば ――《規定された、否定
的な共通性》であるということができよう。ヘーゲルが、限界論の核心部で、「共通の区別」
.....
という表現を使い、また区別と統一を問題にする理由はここにあるということができるであ
ろう。
つまり、即自存在と向他存在との同一性が、まずは或るものの契機としてとらえられた或
るものと他のものとの関係であり、自己関係性と他者関係性との関係をめぐったものであっ
たとすれば、規定と性状の展開を経た限界の論理は、「他者の質的否定」を踏まえた、した
─ 77 ─
國學院短期大学紀要第23巻
がって一方では、或るものと他のものとの自立化を踏まえた上での両者の同一性の再確立で
あるというようにおさえておくことができるであろう。
したがって、ヘーゲルは、次のようにも指摘するのである。
「限界は或るものの自己へと反省した否定として、或るものと他のものとの契機を自己の
うちに観念的に(ideell)含んでいるが、この二契機は区別された契機として、同時に定在の
領域内では、実在的に(reell)、質的に区別されたものとして定立されているのである」
(Ibid.)。
ヘーゲルは、そこに限界概念が有論というエレメントに属することを起因する「錯綜
(Verwicklung)」、「矛盾」の発生根拠(Ibid.)を見ているのであるが、ここでいわれる後半部
分つまり実在的区別にかんしては、今上で指摘したことから明らかであろうし、「観念的に
含んでいる」という前半部分にかんしては、まさに前節で述べた、そしてここでも冒頭で触
れた即自存在と向他存在との同一性のことにほかならないであろう。その意味では当面のわ
れわれの課題であった限界論の真のあり方を考えるためのいわば道具立ては整ったというこ
とはできよう。限界の論理、限界の弁証法の見地からすれば、或るものと他のものとは、一
方では「実在的には」「質的に区別」されるが、しかしたとえば或るものは或るものとして
「観念的には」他者との同一性において存在しているのであり、まさに両者の区別と同一性
とが同時に成立しているのである。
こうした規定が意味する事柄を、Ⅰで述べたことも踏まえつつ、例も示しながらもう少し
詳しく見てみることにしよう。
まず確認すべきなのは、本来の限界の有りようを理解するためには、たとえば《点》と
《線》でいえば、点は点として線とは無関係にまずもって存在していると考えてはならない
ということなのである。同様に《生》と《死》であれば、生は生として死とは無関係に存在
しており、一定の局面に至ったときにはじめて死という、まったくの他者が迫ってくるとい
うように考えてはならないということなのである。限界の論理が明らかにした事態にもとづ
けば、自己は自己として存在しており、しかるべき時に他者が登場してくるといった関係で
はないのであり、即自存在は向他存在とは無関係にまずもって存在しているのではないので
ある。自己が自己としての自己関係性をもつということが、他者との関係を踏まえてはじめ
て可能だからであり、さきの『初版』の表現を念頭に置いていえば、即自存在性としての自
己関係性は、それ自身のうちに向他存在性としての他者関係性を取り込んでいるからである。
このように自己関係性が他者関係を取り込んでいるのだとすれば、まさにヘーゲルがいう
ように、自己の存在でもって《他者が始まる》のであり、「限界はそれが限界づけるところ
のものの原理」(S. 115)なのであるといえよう。すなわち、「点は、線がたんにそこで終わ
─ 78 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
る(aufhören)……という意味で、線の限界である」(Ibid.)のにとどまるものではないので
ある。あるいはいいかたを変えれば、自らの限界内において存在する点は、他者としての線
を自己から排除し、他者としての線がそこで終わるという意味での限界にとどまるのでもな
いのである。むしろ限界としての点は、点として存在することにおいて、自らの自己関係性
のなかに取り込んでいる他者関係を同時に定立するのであり、したがって自らの存在が同時
に「他者が始まる」ことであり、すなわち自らが限界づける他者である線の定立作用でもあ
るのであり、まさにこうした意味で、点は線の《原理》なのである。つまり、そもそも点は、
その即自存在において、他者との関係を一切遮断した、あるいは他者との関係に無関与な、
純粋に点そのものとして存在しているのではないのである。そうではなく、点は、線という
他者とのかかわりのなかではじめて点なのである。とすれば、点が点として存在していると
いうことは、同時に線という他者がそのことによって定立されているということであり、そ
の意味で、
「点において線は始まる」
(Ibid.)のである。
くわえてヘーゲルが、「自らの限界のなかでの或るものの不安定さ(Unruhe)」、「自己を超
えようとする矛盾」(Ibid.)について語るのも同一の論理構造にもとづくものであることも
今や了解可能である。というよりも、ヘーゲル自身が指摘しているように、限界がもつこう
した特徴は、「或るものに内在する限界の概念に含まれている」(S. 116)ことなのである。
というのも、上述のように、限界によって、他者がたんに《終わる》のではなく、むしろ
《始まる》のであれば、つまりは「自己の内在的限界」にもとづいて、或るものは、まさに
自己であることによって、他者を同時に存在させているのだとすれば、点は自己が存立する
ことによって同時に自己を超え出ているのであり、むしろ、この自己が超え出て向かう先こ
そ、自己を自己たらしめているものであるとさえいえようからである。ヘーゲル自身のこと
ばを引用しておこう。
「点、線、面が、それ自身で(für sich)自己矛盾的なものとして、自己自身で自己を自己
から反発する端初であり、したがって点はその概念によって、自ら線へと移行し、自ら運動
し、線を生じさせるものである等々ということは、すでに或るものに内在する限界の概念の
なかに含まれていることなのである」
(S. 115 f.)
もちろん、その場合、自己を超え出、他者を「生じさせる」点とは、線には無関与な、抽
象的に自己に関係するだけのものと表象されるような点ではない。そうしたいわば自足的な
点は、たとえいかに稠密に並べられようと、けっして線にはならないのである。そうではな
く、再度繰り返しておけば、他者関係を取り込んだものとして自己関係する点が、本来の限
界概念から浮かび上がってくる点のあり方、自己を超え出、他者を同時に生じさせる点のあ
り方なのである。
─ 79 ─
國學院短期大学紀要第23巻
あるいは、別の例でいえば、本項の冒頭でも引用したように、有限なものは「その生誕の
時はその死の時なのであ」(S. 116)り、ある時、まったくの他者が突然襲いかかってくるこ
とによって、有限なものにその滅亡の時が訪れるのではないのである。有限なものは、それ
自身「滅亡の萌芽を自己の自己内存在として」(Ibid.)もっているのである。それはまた、
生が他者としての死をまったくの他者として、自己の外に、自己に無関係なものとして排除
するという構図のもとにあるのではないといっても同じことであり、同様に、さきの『初版』
の表現を念頭に置いて、生の即自存在それ自体が、生にとっての他者である死を取り込んで
いるのであるということもできるのである。あるいは生と死との関係の限界の論理が明らか
.
にする本来のあり方は、《生と死》なのではなく、《生》は《生(死)》としてはじめて存立
しうるという関係なのであり、かかるものとして、生の他者である死は、生とともに《始ま
る》という関係なのであり、生は、自己の存立と同時に他者の存立でもあるという「不安定
さ」をもつものなのである。
こうした意味で、限界内において存在するということは、一面的な、自己=自己という自
己安住の場の定立なのではなく、かえって自己の即自存在を成り立たしめている、あるいは
自己の即自存在の構成契機である《内なる他者》との関係を浮かび上がらせていることにほ
かならないのである。かかるものとして、限界の論理とは、内在的超出の論理なのであり、
したがってまた有限なものを有限なものたらしめているものなのである。
註
※引用文中の傍点はすべて引用者のものであり、さらに……は引用者による中略箇所、
[ ]内は引用者による補充を
示している。
※本稿でのヘーゲルからの引用は、その大多数を占めるいわゆる『大論理学』の「有論」部分からのものは、
G. W. F. Hegel, Gesammelte Werke, hrsg. von Friedrich Hogemann und Walter Jaeschke, Bd. 21( Wissenschaft der Logik.
Teil 1. Die objektive Logik. Bd. 1. Die Lehre vom Sein(1832)), Düsseldorf 1985 のページ数を、本文中にたとえば
(S. 124)という形で示すことにする。以下、この全集にかんしては“GW”と略記して示す。なお、『大論理学』
初版については、『ヘーゲル 大論理学 1 1812年』(寺沢恒信訳)以文社、1977年、『大論理学』第二版の該当部分
については、『改訳 大論理学 上巻の一』(武市建人訳)岩波書店、1956年および『大論理学 上巻』(鈴木権三郎
訳)岩波書店、1932年を、そして『小論理学』については『小論理学』(松村一人訳)岩波書店、1951年を適宜参
照したが、対応するページ数は、煩瑣になるのを避けるため記載しなかった。
(1)G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden, hrsg. von Eva Moldenhauer und Karl Markus Michel, Frankfurt a.M. 1970,
Bd. 8(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften Ⅰ),§81, S. 172. なお、以下、このいわゆる『小論理学』
からの引用箇所は、たとえば§81というように節番号のみで指示することとする。
(2)ヘーゲルはいう、「自己の内在的限界をともなった或るものが、自己矛盾として定立され、そのことによって
自己自身を超え出る、またそのように駆り立てられるとき、それは有限なものである」
(S. 116)
。
─ 80 ─
ヘーゲル『論理学』における限界の弁証法をめぐって
(3)Alexander von Keyserlingk, Die Erhebung zum Unendlichen. Eine Untersuchung zu den speklativ-logischen
Voraussetzungen der Hegelschen Religionsphilosophie, Frankfurt a. M., Berlin, Bern, New York, Paris, Wien 1995, S.
123 f.
(4)したがって、たとえば否定を他者による否定と解し、さらにそのことを限界、そしてさらには有限性と結びつ
ける次のJ・ハルトナックのような見解は、本稿の理解からすれば、むしろ或るものの自己安住を結果するも
のにほかならないということになろう。すなわち、ハルトナックはいう、「否定するということは、或るもの
を、それではないものによって ―― それゆえなんらかの他のものであるものによって―― 規定することを意
味しているがゆえに、否定は必然的に限界づけること(Begrenzung)(有限性)を含んでいる。」Justus
Hartnack, Hegels Logik. Eine Einführung. Frankfurt a.M., Berlin, Bern, New York, Paris, Wien, 1995, S. 21.また、否定
をたんに他者による否定とする点では、「端初の無は、有において内在化しているにしても、非存在あるいは
否定へ、すなわち存在者の、他のすべての存在者からのたんなる区別へと弱体化している」とする『エンチク
ロペディー』のコメンタールのなかでのB・ラーケブリンクの指摘も同類であるといわざるをえないが、この
否定性が本来どのような繋がりのなかで登場するものなのかを明示している点では興味深い指摘となっている
ということができるであろう。本稿の立場からすれば、否定性の出自についてのこうした理解にもとづいて限
界の論理は展開されるべきものだということになる。(Bernhard Lakebrink, Kommentar zu Hegels 》Logik《 in
seiner 》Enzyklopädie《 von 1830. Band Ⅰ: Sein und Wesen. Freiburg, München 1979, S. 120.)
(5)ここでの“Mitte”は、ヘーゲルの推理論でのキーワードである“Mitte”の働きとは明らかに相違しているこ
とから、たとえば「媒辞」といった訳語ではなく、鈴木氏を初めとした『論理学』の翻訳者が「中間」や「中
間点」としている(たとえば、前掲、鈴木訳、189ページでは「中間」
)のに倣った。
(6)Hegel, GW., Bd. 11(Wissenschaft der Logik. Erster Band. Die objektive Logik(1812 / 1813)), Düsseldorf 1978, S. 69.
なお、本文でそうしたように、以下『論理学』の初版は『初版』と表記する。また、『初版』といわゆる第二
版(GW. Bd. 21)とを区別する必要がある場合には、後者を『第二版』と表すこととする。
(7)
『初版』と『第二版』では、限界そのものの体系的位置のずれに対応して、若干カテゴリーの配置において相
違がある。つまり、『初版』は、まさに今指摘した向他存在と即自存在との関係から、基本的には限界に移行
しているのにたいして、『第二版』では、この関係が展開されたのに続いて、限界が論じられるのに先立って
「規定」と「性状」というカテゴリーが配置されているのである。しかし、「規定」と「性状」が、即自存在と
向他存在を「規定性」という側面から考察したものであると特徴づけることができるとすれば、『第二版』で
は、『初版』とは違って、限界が即自存在と向他存在の直後に登場するものではないとしても、基本的には
『初版』での特徴づけ、すなわち「即自存在へと取り入れられた向他存在」を踏まえたものとしてとらえる観点が
『第二版』においても、妥当するものと考えることができよう。この点については、Ⅱ-3でも再度触れることにす
る。
(8)この点にかかわるヘーゲル自身のことばを引用しておこう。「最初のもの〔或るものと他のもの〕は、その規
定性が関係を欠いていること(Beziehungslosigkeit)を含んでおり、或るものと他のものとは相互に分離するの
である。しかし、両者の真理は関係であり、それゆえ向他存在と即自存在は、一個同一のものの契機として、
或るものと他のものという規定が定立されたものであり、関係であり、統一のなかに、つまり定在の統一のな
かにとどまっているのである。
」
(S. 107)
。
(9)したがって、たとえば「一定の或るものが、他者から区別できるようになるのは、ただ外的な立場からのみ可
能なのである」とする見解には同意できない。Chong-Fuk Lau, Hegels Urteilskritik. Systematische Untersuchungen
zum Grundproblem der spekulativen Logik, München 2004, S. 122.
(10)
「
『或るものの他者』と『他者それ自身』 ―― ヘーゲル『論理学』の定在章における他者理解によせて ―― 」
『國學院短期大学紀要』 第11巻、 1993年。
─ 81 ─
國學院短期大学紀要第23巻
(11)このような区別は、一見するとたんに論理的可能性にもとづいただけのものにすぎないと映るかもしれないが、
実際には、定在するものを、《相対的に安定したもの》としてみるか、あるいは《動的なもの、可変的なもの》
とみるのかに応じた区別ということができよう。
(12)Hegel, GW., Bd. 11, S. 60.
(13)Hegel, GW., Bd. 12(Wissenschaft der Logik. Zweiter Band. Die subjektive Logik(1816), Düsseldorf 1981, S. 41.なお、
「悟性の無限の威力」すなわち、「具体的なものを抽象的諸規定へ分離し、そして、唯一同時に諸規定性の移行
を引き起こす威力である区別の深みをとらえるという悟性の無限の威力」にかんする筆者の理解については、
拙稿「ヘーゲル『論理学』における『論理的なものの三側面』について」
『一橋論叢』第123巻 第2号、2000年
を参照されたい。
(14)即自存在と向他存在との関係について、「向他存在」を或るものの外的他者との関係として理解し、そして、
或るものはかかる他者との関係のなかでのみ、或るものでありうるから、「或るものは、つねに自己矛盾して
いるのであり、即自存在と向他存在との間の闘争(conflict)なのである」とする見解があるが、すでに述べた
本稿の見地からすれば、向他存在が或るものにとって「それではないもの(what it is not)」としての他者への
関係とされる場合、そこに現れるのは、矛盾ではなく、むしろ自己安住の立場にすぎないということになる。
Errol E. Harris, An interpretation of the logic of Hegel, Lanham, New York, London 1983, p. 106.
(15)
「即自的(an sich)」と「それ自身の元に(am ihm)」については、前者を「可能的に」「潜在的に」、後者を
「顕在化した」といった意味合いで区別しようとする寺沢氏の訳者注での見解が参考になる。寺沢、前掲訳書、
389、390ページ。なお、鈴木氏も両者を「未顕の状態」と「顕現の状態」として区別している。鈴木、前掲訳
書、671ページ。
(16)Hegel, Werke in zwanzig Bänden, Bd. 8, §213.
(17)註(7)でも取りあげたように『第二版』とは異なって、『初版』では〈限界−規定−性状〉という展開にな
っている。
(18)だからこそ、限界論(α)で、まずもって取りあげられるのが限界がもつ《他者の非存在》という特徴なので
ある。
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