フィリピンは日本人の出稼ぎ先だった。 - a

(注 ) 以 下 は、「日 刊 まにら新 聞 」のコラム「連 載 」をコピーしたものです。
移 民 1世 紀 第 1部 ・1世 の残 像
1. 「優 しい道 」は祖 父 の道
二 十 世 紀 初 頭 、フィリピンは日 本
人 の出 稼 ぎ先 だった。約 五 千 人 が
比 へ渡 り、建 設 ・農 園 労 働 者 として
バギオ市 やダバオ市 で根 を張 って
いった。移 民 の大 半 は農 村 出 身
の男 たち。比 人 妻 と子 供 たちは太
平 洋 戦 争 の戦 地 に取 り残 され、戦
中 ・戦 後 を「比 人 の敵 」として生 き
た。一 九 八 〇年 代 半 ばからは日 比
の位 置 関 係 が逆 転 し、日 本 へ向
かう比 人 出 稼 ぎ者 が急 増 。日 比 間
結 婚 が年 間 五 千 件 を超 える中 、比
へ移 住 する日 本 人 「新 一 世 」も増
え、離 婚 や子 供 の養 育 など新 たな
問 題 を生 んでいる。二 〇〇三 年 は
「日 本 人 の比 移 民 百 周 年 」。年 間
企 画 「移 民 一 世 紀 」として日 比 の国
境 (くにざかい)で生 きる人 々の姿 を
追 う。(酒 井 善 彦 )
ルソン島 中 部 に広 がるパンパン
谷 底 から山 肌 をはい回 るようにしてバギオ市 へ続 く
ガ・デルタ。その北 端 からベンゲット
ベンゲット道 路 。土 砂 崩 れで再 三 通 行 止 めになる
州 バギオ市 へ標 高 差 約 千 五 百 メー
トルを駆 け上 がる古 道 がある。一 九 〇五 年 (明 治 三 十 八 年 )三 月 に開 通 したベンゲ
ット道 路 (別 名 ケノン道 路 )だ。
リンガエン湾 へ注 ぐブエド川 に沿 って約 四 十 一 キロ(有 料 区 間 三 十 三 キロ)、岩 肌
がむき出 しになった山 々の間 を縫 うようにして走 る。見 通 しの利 か ないカーブの連
続 。全 幅 は六 メートルほど。対 向 車 が来 ると、思 わずブレーキに足 が掛 かるが、走 り
慣 れた地 元 車 はブレーキランプを点 灯 させることなく坂 道 を上 がっていく。
通 行 料 金 は現 在 五 ペソ。れっきとした有 料 道 だが、料 金 所 は一 九 九 〇年 の大 地
震 から約 八 年 間 閉 鎖 されていた。料 金 徴 収 係 のウィルソン・ティオさん (30)は「地
震 直 後 は、各 所 で土 砂 崩 れがあり通 行 止 めになった。九 八 年 に再 整 備 工 事 が終 わ
るまでは料 金 を取 れるような状 態 ではなかった」と振 り返 る。
料 金 所 の記 録 によると、平 日 の通 行 量 は上 下 線 合 わせて千 台 程 度 。行 楽 客 が
高 原 都 市 バギオへ押 し寄 せる週 末 は、約 三 倍 の三 千 台 前 後 に跳 ね上 がる。一 分
間 に二 台 強 が目 の前 を通 り過 ぎる計 算 で、山 間 の道 にしては結 構 な交 通 量 だ。
バギオ市 はルソン島 北 部 に広 がる山 岳 部 最 大 の都 市 。周 辺 部 から同 市 へ入 る道
は、戦 前 に建 設 されたベンゲット道 路 (パンガシナン州 ロサリオ町 ~) とナギリヤン
道 路 (ラウニオン州 バウアン町 ~、全 長 四 十 六 キロ)、戦 後 完 成 したマルコス・ハイ
-1-
ウエー(同 州 アゴオ町 ~、同 五 十 キロ)の計 三 本 ある。
状 態 は二 〇〇一 年 に大 規 模 整 備 されたマルコス・ハイウエーが一 番 良 いとの評 判
だが、バギオ市 で長 年 運 転 手 などをしている日 系 三 世 、パトリック・ヨシカワさん (62)
の評 価 は若 干 違 う。
「確 かにマルコス・ハイウエーは良 くなった。だけど、急 こう配 が続 きすぎてジプニー
やトラックには厳 しい。車 に一 番 優 しいのは今 もベンゲット道 路 。坂 道 と平 坦 な部 分
が交 互 にあり、車 の負 担 が減 る。人 力 だけで切 り開 いた道 だからだろうね」
平 坦 な場 所 には小 集 落 と簡 易 食 堂 、休 憩 所 などがあり、標 高 の低 い場 所 から順
に「キャンプ1、2、3・・」と呼 ばれている。最 後 はバギオ市 の数 キロ手 前 にある「キャ
ンプ8」。いずれも一 九 〇一 年 (明 治 三 十 四 年 )に始 まった道 路 工 事 の飯 場 の名 残
だ。
工 事 には、日 本 人 も契 約 労 働 者 として従 事 した。移 民 第 一 陣 とされる百 十 四 人
は、〇三 年 十 月 にマニラ港 へ到 着 。以 後 、〇四 年 末 までに五 千 百 人 が渡 比 し、そ
の大 部 分 が道 路 建 設 に携 わった。ヨシカワさんの祖 父 、長 崎 県 出 身 のマスタロウさ
んもその一 人 。ヨシカワさんにとって「優 しいベンゲット道 」は、日 本 軍 侵 攻 前 に比 で
病 死 した祖 父 の残 像 でもあった。
◇
「移 民 一 世 紀 」の第 一 部 では、ベンゲット道 路 建 設 を起 点 にルソン島 北 部 へ散 っ
ていった移 民 一 世 たちの後 ろ姿 と二 世 たちの戦 後 を中 心 にリポートする。
移 民 1世 紀 第 2部 ・ダバオで生 きる
1. 沖 縄 移 民 2世 の「古 里 」
二 〇〇二 年 八 月 二 十
五 日 、フィリピン航 空 の
チャーター便 が沖 縄 ・那
覇 からダバオ国 際 空 港
に着 陸 した。降 り立 った
のは「慰 霊 と交 流 の旅 」
に参 加 したダバオ生 ま
れの日 本 人 約 百 四 十
人 。戦 死 した親 兄 弟 を
供 養 しようとする人 がい
れば、生 き別 れた幼 なじ
みとの再 会 や、子 や孫
に生 まれ育 った山 野 を
見 せるため に参 加 した
人 もいる。「旅 」は戦 後
三 十 八 回 目 。七 十 代 中
少 年 期 を過 ごしたダバオ市 マガリヤネス通 りに立 つ並 里 さん(左
心 の参 加 者 に共 通 して
から2人 目 )。左 端 は父 が「竹 川 ハードウエア」を経 営 していた竹
いるのは「来 年 はもう古
川 豊 さん
里 に来 られないかも」と
-2-
いう悲 壮 な思 いだ。
ルソン島 北 部 でベンゲット道 路 の建 設 が終 わった一 九 〇五 (明 治 三 十 八 )年 。前
後 してミンダナオ島 南 部 ダバオ市 では麻 (マニラ麻 )の栽 培 が始 まり、日 本 人 移 民
の受 け皿 となった。時 代 が戦 争 へと転 がる中 、軍 需 産 業 としての側 面 を持 つ麻 栽
培 は興 隆 を極 め、同 市 在 留 邦 人 の人 口 は最 大 で一 万 九 千 人 を超 えた。
中 でも沖 縄 出 身 者 は「麻 移 民 」の半 数 以 上 を占 め「(本 土 から来 た)日 本 人 は不
況 時 代 に何 の因 果 でかかる所 に来 たのかと気 を腐 らしたが、沖 縄 県 人 は蛇 味 線 を
弾 き、好 きな豚 肉 を味 わい、平 気 で暮 らして大 きな勢 力 をなした」(古 川 義 三 著 「ダ
バオ開 拓 記 」)。
「旅 」の参 加 者 百 四 十 人 は、戦 前 入 植 した移 民 一 世 たちの子 供 にあたる。その一
人 、並 里 裕 人 さん (70)=那 覇 市 小 禄 =の父 は、市 中 心 部 で「並 里 旅 館 」を経 営 し
ていた。旅 館 のあったマガリヤネス通 りには、みそやしょう油 を扱 う「大 力 商 会 」、日
本 から輸 入 した中 古 エンジンや金 物 を扱 っていた「竹 川 ハードウエア」、邦 字 紙 「日
比 新 聞 」の社 屋 などが立 ち並 んでいたという。
同 通 りは当 時 と同 じ名 前 で現 存 。地 区 の区 割 りも当 時 のままで、街 角 に立 つと少
年 時 代 の思 い出 があふれ出 てくる。「家 の前 はカナル(水 路 )で真 っ黒 なドンコ(ハゼ
科 の魚 )が泳 いでいた」「向 かいのレストランに一 杯 十 センタボのラーメンを食 べに行
った」「あそこの映 画 館 ではマニ(落 花 生 )を食 べながら米 国 の喜 劇 映 画 を見
た」・・。
戦 前 、通 信 社 特 派 員 として比 に二 年 間 滞 在 した故 中 屋 健 一 氏 が著 書 「フィリッピ
ン」(四 二 年 出 版 )の中 で「商 店 街 は横 文 字 と日 本 語 がチャンポンで ちょうど軽 井
沢 の本 通 りか横 浜 の弁 天 通 りを歩 いている気 分 」と記 した風 景 。六 十 年 以 上 を経
た今 も、並 里 さんの心 の中 では当 時 使 ったフィリピノ語 混 じりで刻 まれている。
並 里 さんが古 里 を去 り、兄 と二 人 で初 めて両 親 の郷 里 ・沖 縄 の土 を踏 んだのは開
戦 直 前 の一 九 四 一 (昭 和 一 六 )年 十 一 月 だった。「ダバオでは靴 を履 いていたの
に、沖 縄 はみな裸 足 でイモを食 っている。これでは勝 てないと思 った」。当 時 小 学 四
年 生 だった並 里 さんの直 感 は的 中 し、ダバオの日 本 人 社 会 は敗 戦 とともに崩 壊 。
一 人 ダバオに残 った父 は敗 戦 間 際 に山 へ逃 げ込 み、亡 くなった。遺 骨 はない。
戦 後 、比 の最 高 峰 アポ山 のすそ野 から海 岸 に至 る一 帯 を埋 めていた麻 山 はヤシ
林 に変 わり、旅 館 前 を流 れていた水 路 は埋 め立 てられ黒 ハゼも消 えた。 父 が命 を
落 とした原 生 林 の山 は伐 採 ではげ山 同 然 になった。「それでもね」と並 里 さんは言
う。「生 きている限 りダバオに来 る。私 たち(移 民 二 世 )はここから 生 きていったのだ
から」 (つづく)
◇
年 間 企 画 「移 民 一 世 紀 」の第 二 部 では、戦 前 に比 最 大 の日 本 人 コミュニティのあ
った「ダバオ」を軸 に、戦 争 で生 き別 れた人 々や戦 地 に取 り残 された日 系 二 世 らの
今 を取 り上 げる。(酒 井 善 彦 )
(2003.4.14)
1. 行 方 不 明 の父 はどこに
-3-
日 本 人 のフィリピン移 民 開 始 から百 周
年 を迎 えた二 〇〇三 年 四 月 下 旬 。西 ネ
グロス州 バコロド市 内 のホテルで比 日 系
人 会 連 合 会 (会 員 約 一 万 人 )の第 七 回
全 国 大 会 が開 かれた。参 加 者 は、戦 後 、
比 に取 り残 され苦 難 の道 をたどってきた
日 系 二 世 とその子 、孫 ら約 二 百 五 十 人 。
「失 われた二 世 の戦 後 」を日 本 出 稼 ぎで
取 り戻 そうと熱 い議 論 が続 く中 、会 場 外
の人 気 のないロビーに一 組 の母 子 が立
っていた。「日 系 人 会 の会 員 ではありま
せんから…… 」と会 場 に入 るのをため ら
っていた。
マイケルさん(左 端 )が大 学 を卒 業 する直 前 、デリアさん(中 央 )に
母 はバコロド市 生 まれの比 人 女 性 、デ
末 期 がんが見 つかった
リアさん(55)。子 は長 男 のマイケルさん
(26)。マイケルさんの父 親 は、一 九 七 〇年 代 に首 都 圏 で旅 行 ガイドをしていた日 本 人 男 性 (51)で、
七 四 年 十 二 月 にデリアさんと結 婚 した。しかし、マイケルさん誕 生 から二 カ月 後 の七 七 年 五 月 、マニ
ラ市 内 にあった自 宅 から突 然 姿 を消 した。
「一 カ月 ほどたって知 人 から『あなたの夫 は日 本 へ帰 った』と告 げられた。夫 はいつも比 人 の悪 口
を言 っていました。比 と私 たちを捨 て日 本 へ帰 ったと悟 りました」とデリアさんは当 時 を振 り返 る。
母 は化 粧 品 セールスなどをしながら子 供 を育 てた。子 は菓 子 売 りなどで家 計 を助 けながら、通 常 よ
り数 年 遅 れで小 学 校 、高 校 を卒 業 、奨 学 生 待 遇 で大 学 入 学 を果 たし母 親 の期 待 に応 えた。
しかし、大 学 の卒 業 式 を間 近 に控 えた二 〇〇三 年 四 月 、デリアさんが末 期 の子 宮 がんにかかって
いることが判 明 。さらに、学 費 の一 部 三 千 ペソが未 納 だったため卒 業 証 明 書 を受 け取 れず、「大 卒
として就 職 活 動 もできない。アルバイトで稼 いだお金 は鎮 痛 剤 代 と食 費 に消 える。どうしても三 千 ペ
ソをためることができない」(マイケルさん)状 態 が今 も続 いている。
末 期 がんの母 。そして三 千 ペソに就 職 を阻 まれるもどかしさ。マイケルさんは「最 後 の希 望 」という
父 を探 すため、機 会 があるたびに父 の名 前 をコンピューター画 面 に打 ち込 み、果 てのないインターネ
ット空 間 で同 姓 同 名 の人 捜 しを続 けている。最 近 も「父 と同 じ名 前 の人 が米 国 にいることが分 かっ
た」と言 う が本 人 かどうか確 証 はない。
地 元 の国 会 議 員 を通 じて、在 比 日 本 大 使 館 に父 あての手 紙 を送 り、所 在 確 認 を依 頼 したこともあ
った。
手 紙 には「あなたが去 った後 、私 たちの生 活 は惨 めなものに一 変 しました。人 生 は暗 闇 に沈 み未
来 はなかなか見 えません。いつか私 も父 親 になるでしょう。同 じ辛 苦 を子 供 に味 わせたくありません。
母 を助 けるという夢 も壊 したくありません。(中 略 )あなたを愛 しています。あなたに一 目 会 いたい」と
父 への思 いをつづった。大 使 館 からの返 事 は来 なかった。
どうしようもない現 実 に八 方 をふさがれる中 、母 子 は「ジャパニーズ・フィリピーノ(日 系 人 )」という
言 葉 にすがるようにして大 会 会 場 外 のロビーに立 っていた。「夫 、父 のことを知 っている人 がいるので
はないか」。「誰 か助 けてくれる人 がいるのではないか」と。
(つづく)
-4-
年 間 企 画 「移 民 一 世 紀 」の第 三 部 では、戦 争 で比 に取 り残 された戦 前 ・戦 中 生 まれの日 系 二 世
の存 在 を踏 まえながら、父 親 に捨 てられるなどして生 活 に困 窮 する戦 後 生 まれの「新 日 系 人 」にス
ポットを当 てる。(酒 井 善 彦 )
(2003.9.8)
援 助 パソコン盗 難
1. 日 本 政 府 が高 校 に無 償 提 供 したパソコン類 を狙 う窃 盗 事 件 がルソン中 部 で続
発 日 本 政 府 の無 償 援 助 でフィリピン全 国 の公 立 高 校 に贈 られたパソコンやモニター
を狙 った窃 盗 事 件 がルソン島 中 部 で、二 〇〇二 年 三 月 ごろから連 続 発 生 している
ことが六 日 、分 かった。盗 まれたパソコンや周 辺 機 器 の総 数 は五 百 点 以 上 。ロハス
貿 易 産 業 長 官 は同 年 四 月 、学 校 の警 備 強 化 などを書 面 で内 務 自 治 省 に求 めた
が、被 害 はその後 も続 き、〇三 年 十 一 月 下 旬 にもパンパンガ州 内 の高 校 からパソコ
ン二 十 台 が盗 まれた。容 疑 者 は未 逮 捕 。各 州 本 部 や各 警 察 署 は情 報 交 換 など捜
査 協 力 をほとんどしておらず、被 害 は今 後 も続 きそうだ。
在 比 日 本 大 使 館 は「事 実 関 係 を確 認 した上 で、適 切 な措 置 を講 じたい」と話 して
いる。
事 件 発 生 が確 認 されている州 は、タルラック、パンパンガ、パンガシナン、ラグナの
四 州 。被 害 に遭 った公 立 高 校 は少 なくともタルラック五 校 、パン パンガ五 校 、パン
ガシナン三 校 、ラグナ一 校 の計 十 四 校 に上 っている。被 害 品 はパソコン本 体 だけで
二 百 六 台 。モニターやプリンターなど周 辺 機 器 を含 めた被 害 総 数 は五 百 点 を超 え
る。
援 助 事 業 は「公 立 学 校 のためのパソコン・プロジェクト」で事 業 費 は総 額 六 億 ペ
ソ。貿 易 産 業 、教 育 両 省 を通 じて比 全 国 の公 立 校 一 千 校 に新 品 パソコ ン二 万 台
(一 校 当 たり二 十 台 )と関 連 機 器 が無 償 提 供 された。学 校 への引 き渡 しは、二 〇〇
二 年 一 月 の小 泉 純 一 郎 首 相 来 比 に合 わせて始 まり〇三 年 六 月 までに完 了 した。
被 害 は同 年 三 月 ごろから出 始 め、ロハス貿 易 産 業 長 官 は内 務 自 治 長 官 に宛 て
た同 年 四 月 二 十 五 日 付 の書 面 で、「公 立 高 校 一 千 校 を対 象 にしたコン ピューター
教 育 事 業 で、これまでに六 百 十 校 にパソコンなどが引 き渡 されたが、うちパンガシナ
ン州 の三 校 、パンパンガ州 二 校 、ラグナ州 一 校 から計 六 十 六 台 の パソコンが盗 ま
れた」と指 摘 、警 備 強 化 などの対 策 を求 めた。
しかし、被 害 はその後 も続 き、〇三 年 に入 ってからもタルラック州 ラパス町 (八 月 二
十 一 日 )▽パンパンガ州 ルバオ町 (八 月 三 十 一 日 ) ▽パンパンガ 州 マガラン町 (十
月 )▽タルラック州 コンセプション町 (十 一 月 八 日 ) ▽パンパンガ州 サンルイス町 (十
一 月 二 十 八 日 )・・などの公 立 高 校 が相 次 いで狙 われた。
州 単 位 の被 害 統 計 はまとまっておらず、警 察 当 局 がまだ把 握 していないケースも
多 数 あるとみられる。
各 州 の警 察 署 によると、午 前 一 時 ・二 時 ごろに鍵 を壊 すなどしてコンピューター教
育 専 用 の教 室 に忍 び込 み、車 でパソコン類 を持 ち去 る手 口 。いずれも援 助 事 業 で
贈 られたパソコンや周 辺 機 器 だけが盗 まれている。
-5-
パンパンガ州 にある国 家 警 察 ルバオ署 の捜 査 担 当 者 は「手 口 に共 通 部 分 が多
く、特 定 組 織 の犯 行 の可 能 性 が高 い。援 助 事 業 のパソコンは他 のパソコン の三 倍
以 上 の値 段 で売 れるようだ。容 疑 者 は安 いパソコンには手 をつけず、援 助 事 業 のパ
ソコンだけを持 ち去 っている」と話 している。同 署 の管 轄 地 域 内 では少 なくとも〇二
年 三 月 と〇三 年 八 月 の二 回 、事 件 が起 きた。
(2003.12.7)
1. 生 きる碑 、朽 ちる碑
約 三 十 年 前 、初 老 の日 本 人 男 性 数 人 が日 系 二 世 、栄 幸
一 さん(77)∥ミンダナオ島 ダバオ市 マリログ地 区 ∥の元 を突
然 訪 れた。「日 本 陸 軍 山 田 部 隊 の生 き残 りです」と名 乗 り、
栄 さんの自 宅 敷 地 内 に戦 友 のための慰 霊 碑 を建 てたいので
土 地 を提 供 してもらえないだろうかと申 し出 た。
栄 さん宅 はダバオ川 の支 流 、スアワン川 のほとり近 く。敗 戦
間 際 、日 本 兵 と日 本 の民 間 人 が逃 げ込 み、飢 えや疾 病 、戦
闘 で命 を落 としたタモガン渓 谷 の入 口 にある。山 田 部 隊 も同
渓 谷 で多 くの戦 死 者 を出 したという。
自 身 も一 九 四 四 年 から約 一 年 間 、旧 日 本 陸 軍 工 兵 隊 に
属 し、同 渓 谷 へ敗 走 した経 験 のある栄 さん。「慰 霊 碑 を建 て
ても守 る人 がいない。日 系 二 世 が近 くにいると比 人 に壊 され
ないだろうと思 ったのでしょう。わたしも軍 人 でしたから、どう
ぞ(土 地 を)使 って下 さいと言 いました」と当 時 を振 り返 る。
「激 戦 地 追 悼 碑 」と名 付 けられた慰 霊 碑 は一 九 七 四 年 に
完 成 し、「一 九 四 五 年 にここで戦 死 した多 くの日 本 と米 、比
の兵 士 を追 悼 する」と英 語 の碑 文 が刻 まれた。四 年 後 の七
八 年 八 月 には、台 座 部 分 に「我 ら今 、この碑 前 に立 ちて語 る
べき言 葉 もない。限 りなき春 秋 の身 を国 難 に殉 (じゅん)じて
流 した君 ら将 兵 の鮮 血 は今 、ふるさとに輝 かしきみどりとな
りて燃 えている(後 略 )」という日 本 語 の碑 文 も新 たに掲 げら
れた。
逃 避 行 の現 場 、スアワン川 の河 川 敷 に残
る戦 没 者 慰 霊 碑 と栄 さん(上 )。栄 さん宅
にある山 田 部 隊 の「激 戦 地 追 悼 碑 」。03
年 から2年 続 けて慰 霊 団 らの足 が途 絶 え
ている(下 )
山 田 部 隊 の生 存 者 ・遺 族 はこの後 、毎 年 欠 かさず慰 霊 碑 を訪 れてきた。しかし、十 年 ほど前 に山
田 元 部 隊 長 が亡 くなり、二 〇〇三 年 にはついに慰 霊 団 の足 が途 絶 えた。「日 本 から連 絡 がないので
理 由 はよく分 かりません。みな年 寄 りになっているからだと思 います。もう二 度 と来 ないかもしれませ
ん」と栄 さん は言 う。
栄 さん宅 から歩 いて十 五 分 ほど離 れたスアワン川 の河 川 敷 には、もう一 つ日 本 人 の建 てた戦 没
者 慰 霊 碑 がある。一 九 七 四 年 、日 本 政 府 の遺 骨 収 集 団 が 遺 骨 を一 時 納 めるために設 置 し、収 集
活 動 終 了 後 にコンクリート製 の台 座 に木 製 の碑 を埋 めて慰 霊 碑 とした。遺 骨 収 集 は一 週 間 ほど続
き、最 後 は台 座 部 分 内 部 の納 骨 室 がほぼ埋 まったという。
今 は雑 草 や野 生 のバナナの木 、竹 などに覆 われて、碑 を目 的 にこの場 を訪 れる人 はいない。深 い
緑 の向 こうからせせらぎの音 が聞 こえてくるが、川 面 は見 えない。碑 へ案 内 してくれた栄 さん自 身 も
一 九 九 〇年 代 半 ばから約 十 年 間 、訪 れることはなかったという。
-6-
木 製 の碑 はすでになく、台 座 部 分 には盗 掘 被 害 とみられる大 きな穴 。納 骨 室 内 はこけむし、風 に
乗 って穴 から吹 き込 んだらしい竹 の葉 が朽 ちている。日 本 の遺 族 らにとっては逃 避 行 の現 場 に立 つ
大 切 な慰 霊 碑 だが、それと知 らずに訪 れた人 には、もはや正 体 不 明 のコンクリート塊 にすぎない。
今 年 七 十 八 歳 になる栄 さんは、自 宅 に建 つ山 田 部 隊 慰 霊 碑 を大 切 に守 るよう息 子 や孫 に言 い聞
かせている。毎 年 八 月 には家 族 で線 香 を上 げ、花 を手 向 ける。しかし、河 川 敷 にある慰 霊 碑 は、息
子 たちにその由 来 を詳 しく伝 えていない。家 族 でお参 りすることもないという。
(酒 井 善 彦 )
◇
太 平 洋 戦 争 の激 戦 地 フィリピンでは、旧 日 本 軍 の戦 死 者 約 二 百 四 十 万 人 の二 割 強 、約 五 十 二
万 人 が命 を落 とした。戦 後 、戦 友 や遺 族 の手 で比 国 内 に建 立 された日 本 関 係 の慰 霊 碑 は少 なくと
も百 六 十 六 (厚 生 労 働 省 調 べ)に上 るが、近 年 は遺 族 らの高 齢 化 で参 拝 者 が減 り、朽 ちる碑 も目
立 つようになった。これら 慰 霊 碑 の建 つ元 戦 場 は同 時 に、日 米 両 軍 の戦 闘 に巻 き込 まれて死 亡 し
た比 民 間 人 百 十 一 万 人 (比 政 府 推 計 )の最 期 の場 でもある。二 〇〇五 年 は戦 後 六 十 周 年 。日 本
関 係 の碑 を訪 ね歩 きながら、碑 と隣 り合 って生 きる人 々の思 いや戦 争 の記 憶 に耳 を傾 けた。
(2005.1.2)
1. 共 存 する日 米 の慰 霊 碑
太 平 洋 戦 争 の最 激 戦 地 の一 つ、レイテ
島 。フィリピン全 土 での日 本 軍 戦 死 者 は
約 五 十 二 万 人 、うち約 八 万 人 がこの地
で命 を失 った。日 本 兵 慰 霊 碑 のほ ぼ二
〇%がこの島 に集 中 しているゆえんだ。
戦 後 すでに六 十 年 、戦 争 を経 験 した世
代 が去 り、戦 争 を思 い出 させる物 も消 え
てゆく中 で、碑 の周 辺 に住 む人 々の記
憶 だけが日 比 関 係 史 の陰 の部 分 を照 明
する。レイテの現 在 と過 去 をタイムトラベ
ルした。
(藤 岡 順 吉 )
北 レイテ州 ドゥラグ町 。国 道 が州 都 タク
ロバンからヤシの樹 列 を縫 うように走 る。
連 合 軍 上 陸 の地 、レッドビーチに立 つマッカーサー将 軍 らの群
その道 沿 いの集 落 に嶋 本 忠 男 さん (60)
像 。後 方 はレイテ湾
=兵 庫 県 淡 路 島 出 身 =が住 んでいた。
終 戦 の年 に生 まれた嶋 本 さんは三 年 前 、妻 の郷 里 であるドゥラグ町 に定 住 した。この土 地 のゆっ
たりと流 れる時 間 とおだやかな暮 らしを愛 している。
だが、ドゥラグの町 には嶋 本 さんが「来 るまで知 らなかった」という血 塗 られた戦 争 の歴 史 が隠 され
ていた。「レイテがかつての激 戦 地 とは知 っていたが」と嶋 本 さんは浮 かない表 情 だった。
ドゥラグ町 の隣 、パロ町 の海 岸 は米 軍 に「レッドビーチ」と呼 ばれ、太 平 洋 戦 争 で連 合 軍 のフィリピ
ン反 攻 作 戦 の火 ぶたが切 られた場 所 である。一 九 四 四 年 十 月 二 十 日 、マッカーサー太 平 洋 地 域 米
軍 総 司 令 官 率 いる連 合 軍 部 隊 は大 挙 、レッドビーチの砂 浜 に上 陸 作 戦 を敢 行 、平 和 な島 は血 と鉄
の戦 場 と化 した。約 八 万 人 の日 本 兵 が死 亡 したレイテの戦 闘 はここから始 まった。
-7-
現 在 、この地 はフィリピンを日 本 の占 領 から解 放 した司 令 官 の武 功 をたたえて「マッカーサー・ラン
ディングパーク」という公 園 になっている。園 内 には上 陸 するマッカーサー大 将 と側 近 ら七 人 の金 色
に光 る像 が立 っている。
マッカーサーはじめ比 亡 命 政 権 のオスメーニャ大 統 領 らの視 線 は日 本 軍 が防 備 していた島 央 のヤ
シの森 に向 いている。像 の背 後 には海 が拡 がり、遠 くサマール島 を展 望 する。
レッドビーチから南 へ十 五 分 ほど走 り、ドゥラグ町 に入 ってすぐの国 道 脇 に「ヒル120」(百 二 十 高
地 )がある。日 米 両 軍 が激 しい攻 防 戦 を繰 り広 げたレイテ島 戦 を象 徴 する古 戦 場 である。文 字 通 り
の丘 陵 地 で、斜 面 には、飛 来 する銃 弾 を避 けて地 面 に張 り付 く米 兵 や勝 利 して星 条 旗 を掲 げようと
する米 兵 のコンクリート像 が並 ぶ。
頂 上 の平 地 には直 径 二 ・五 メートルほどの大 きな米 兵 の緑 色 のヘルメット。そこから見 渡 すと、西
へ向 けて延 々とヤシの森 が続 く。米 軍 は六 十 年 前 、日 本 軍 を山 地 に追 い込 みながら西 進 していった。
ヒル120のふもとには米 兵 の慰 霊 碑 と伴 に、日 本 人 戦 没 者 の慰 霊 碑 が建 立 されている。
嶋 本 さん宅 はヒル120から目 と鼻 の先 にある。妻 の母 、カタリナ・アシス (74)は戦 時 中 、両 親 が家
を日 本 軍 に貸 していたという。カタリナさん一 家 を含 めた集 落 の人 々は「(占 領 されていたのだが)日
本 軍 と平 和 に共 存 していた」と話 してくれた。
しかし、米 軍 の上 陸 作 戦 とともに集 落 に緊 張 が訪 れた。カタリナさんは「日 本 兵 の死 体 が町 のあち
こちに転 がっているのを目 撃 した」と語 った。やがて、日 本 兵 は山 奥 の方 に逃 げて行 ったという。おそ
らく集 落 の人 たちにも大 きな被 害 が出 たのだろうが、カタリナさんは黙 して語 らなかった。
娘 が日 本 人 と結 婚 し、一 緒 に住 むことになったことについて、カタリナさんは「違 和 感 はない。昔 も
村 で日 本 人 と一 緒 に住 んでいたから」と微 笑 した。
嶋 本 さんにこの話 を伝 えると心 の底 から驚 いたようすだった。「(義 母 から)一 度 も聞 かなかったし、
ほかの誰 からも聞 いたことがなかった」。そう言 って考 え込 んでしまった。
妻 と知 り合 ったのが十 四 年 前 で、二 人 の子 どもも育 っている。嶋 本 さんはこの沈 黙 をどう解 釈 して
いいのかわからないようだった。
ドゥラグ、パロ、ブラウエンの三 つの町 で、日 本 人 戦 没 者 の慰 霊 碑 は少 なくとも五 つはある。ヒル1
20にある日 米 の慰 霊 碑 の裏 側 は鉄 くずなどが山 積 みになっていた。慰 霊 碑 前 でジャンクショップを
営 む男 性 が鉄 板 などの商 品 や道 具 を置 いているのだ。
「訪 問 者 が多 い八 月 から十 月 には片 付 ける。それ以 外 はあの通 りさ」とそっけない。碑 がなければ、
さらに道 具 置 き場 を広 げられるのにと思 っている。「わたしたちには、商 売 に邪 魔 なだけだからね」。
フィリピン人 の温 かい人 情 に引 かれて移 住 した定 年 退 職 者 すら覚 えていない戦 争 。その犠 牲 者 を
悼 む慰 霊 碑 が現 地 の人 々の生 活 の一 部 になっている。(続 く)
(2005.6.13)
1. 結 び直 された縁
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旧 日 本 軍 戦 没 者 の慰 霊 碑 を守 り続 け
て約 四 十 年 。クリスティーナ・ラミレスさん
(80)=北 部 ルソン地 域 パンガシナン州 ウ
ルダネタ市 =には、若 き日 の秘 めた思 い
出 がある。
時 は、約 六 十 年 前 の太 平 洋 戦 争 中 。
場 所 は、父 の生 まれ故 郷 サマール州 。
開 戦 直 前 、ウルダネタ市 から同 州 へ渡 っ
たラミレスさんは、侵 攻 してきた日 本 軍
の兵 士 に求 愛 された。当 時 十 七 歳 。「タ
カハシ」というその兵 士 は二 十 歳 。片 言
の英 語 で「戦 争 が終 わったら日 本 へ帰 る
が、必 ずここに戻 ってくる。一 緒 に 日 本
へ行 こう」と約 束 したという。
玉 砕 の丘 に立 つ慰 霊 碑 と慰 霊 団 が途 絶 えた今 も清 掃 を続 けるラ
ミレスさん
約 束 から五 カ月 後 、タカハシは戦 死 す
る。一 九 四 五 年 だったが、正 確 な月 日 は思 い出 せない。その朝 、「ゲリラを殺 しに山 へ入 る」と告 げ
たタカハシ。ラミレスさんは「気 をつけて」と見 送 った。昼 すぎ、日 本 兵 四 人 の遺 体 が村 へ担 がれてき
た。その一 人 がタカハシだった。
「タカハシの誠 意 は片 言 の英 語 から伝 わってきた。遺 体 を見 た時 は涙 がこぼれました」と追 想 する
ラミレスさん。同 州 から生 まれ故 郷 のウルダネタ市 カバルアンへ戻 ったのは戦 後 の一 九 四 八 年 三 月
だった。
同 市 に近 いリンガエン湾 は開 戦 時 と戦 争 末 期 、日 米 両 軍 の上 陸 地 点 となり、激 戦 は地 元 住 民 か
ら家 や田 畑 、家 畜 など財 産 を根 こそぎ奪 い去 っていた。ラミレスさん一 家 の自 宅 も跡 形 なく消 え、宅
地 跡 周 辺 には人 骨 やヘルメットが散 乱 していたという。
家 を再 建 し、骨 などを拾 い集 めながらトウモロコシや野 菜 を植 えると、思 いもしない事 が起 きた。
「採 れる作 物 がみな通 常 より大 きいのです。近 所 では『兵 士 の死 体 が肥 料 になったからだ』とうわさ
になり、私 は絶 対 口 にしなかった」
「うわさ」を裏 付 ける日 米 の局 地 戦 が戦 史 に刻 まれている。戦 いの舞 台 は、ラミレスさん宅 のある小
高 い丘 。一 九 四 五 年 一 月 、鹿 児 島 県 出 身 者 で構 成 される旧 陸 軍 歩 兵 第 七 一 連 隊 所 属 の大 盛 支
隊 約 九 百 四 十 人 が丘 に陣 取 り、米 軍 の艦 砲 射 撃 や爆 撃 にさらされ約 二 週 間 で八 百 人 強 が戦 死 し
た。ラミレスさんが戦 史 を知 ったのは、遺 骨 収 集 団 が丘 を訪 れ始 めた六 〇年 代 に入 ってから。以 後 、
遺 族 らの依 頼 で丘 に立 つ慰 霊 碑 の清 掃 を続 けるようになったという。
慰 霊 碑 は一 九 八 二 年 に建 て替 えられ、今 はマンゴーなど木 々の深 い緑 が周 囲 を包 む。戦 争 の痕
跡 が消 えようとする玉 砕 の丘 。碑 を訪 れる鹿 児 島 県 の慰 霊 団 は二 〇〇二 年 を最 後 に途 絶 え、タカ
ハシとの出 会 いから六 十 年 以 上 続 いてきたラミレスさんと日 本 人 との「縁 」も切 れようとしていた。
そんな縁 を新 たに結 び直 すような慰 霊 祭 が〇五 年 二 月 、丘 で行 われた。参 加 者 は地 元 住 民 や日
系 人 団 体 関 係 者 ら約 三 百 人 。慰 霊 祭 前 で祈 りをささげたのは、日 本 人 僧 侶 ではなく比 人 カトリック
神 父 。「日 本 側 遺 族 ・戦 友 不 在 の慰 霊 祭 」だった。
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慰 霊 祭 を実 現 させたのは、退 職 後 にウルダネタ市 へ移 住 、比 人 女 性 と結 婚 した斎 木 一 さん (64)=
東 京 都 大 田 区 出 身 。「この地 に住 む日 本 人 として、碑 の意 味 を妻 や娘 、比 の人 たちに伝 えていきた
い。そのことが日 比 友 好 と碑 を守 ることにつながる」との思 いに突 き動 かされたという。
ラミレスさんが慰 霊 碑 の清 掃 を一 人 続 けていることも、斎 木 さんを通 じて鹿 児 島 県 遺 族 会 に伝 わり、
ラミレスさん八 十 回 目 の誕 生 日 の〇五 年 十 一 月 十 五 日 、遺 族 会 から「二 十 一 インチのカラーテレ
ビ」が贈 られた。高 齢 のため丘 へ来 れなくなった戦 友 ・遺 族 らの謝 意 が込 められていた。(酒 井 善 彦 )
◇
年 間 企 画 「慰 霊 碑 巡 礼 」の第 三 部 では、日 本 の遺 族 らがルソン島 各 地 に建 立 した慰 霊 碑 と、これ
ら碑 と隣 り合 わせで生 きるフィリピンの人 々の今 をつづる 。
(2005.12.5)
比 日 国 交 回 復 50 年
1. マニラ日 本 人 学 校 、在 校 生 減 なら運 営 に支 障 も。セブは新 2世 受 け入 れで倍 増
教 育 サービスの提 供
マニラ・池 会 長 設 立 目 的 は会 員 の懇 親 と医 療 を含 む安 全 の問 題 、子 弟 教 育 、
日 比 友 好 。このうち、教 育 についてはきちんとしたサービスを提 供 できていると思 う。
ただ、マニラ日 本 人 学 校 の児 童 ・生 徒 数 は校 舎 設 計 当 時 の「五 百 人 」という基 準 を
かなり下 回 る約 四 百 六 十 人 となっている。ファイナンス面 でも 「五 百 人 」を基 準 に償
還 を進 める計 画 で、若 干 不 足 気 味 になっている。さらに減 少 すれば学 校 の維 持 が
問 題 になることもあるだろう。
セブ・岡 会 長 セブ日 本 人 補 修 授 業 校 はマニラとは対 照 的 に児 童 ・生 徒 数 が激 増
しつつある。現 在 九 十 二 人 で、一 年 前 の五 十 三 人 から九 割 近 く増 え た。〇六 年 は
どれほど増 えるのか読 めず、苦 労 している。入 学 条 件 は「両 親 のいずれかが日 本
人 」で、母 親 が比 人 の子 供 も受 け入 れている。
ダバオ・三 宅 会 長 会 員 の七 割 程 度 は比 人 と結 婚 しており、子 供 の教 育 は「比 人
としての教 育 」がベースになっている。日 本 人 親 にも「日 本 人 として の教 育 」を深 く
考 えている人 もいると思 うが、実 際 に受 けさせることは難 しい。残 り一 割 程 度 は商 社
の駐 在 員 で、子 供 の教 育 をどうするのかという問 題 を抱 えられている。ただし、会 員
の割 合 では一 割 程 度 なので、日 本 人 会 全 体 の問 題 にはなっていないし、なり得 ない
状 況 だ。
日 本 語 能 力 の違 い
岡 「セブ補 習 校 へ行 けば、結 構 日 本 語 が話 せるようになる」という評 判 が口 コミ
で広 がり、ここ一 ・二 年 で急 速 に増 えた。児 童 ・生 徒 数 が百 人 を超 した場 合 、マニ
ラ日 本 人 学 校 のような学 校 に移 行 できるのかというと、現 実 的 には難 しい。文 部 科
学 省 の基 準 に沿 って校 舎 を整 備 すると何 億 円 という資 金 が必 要 になる。「セブ日 本
人 学 校 」は現 状 では絵 に描 いたもちと言 わざるを得 ない。
池 マニラ日 本 人 学 校 の児 童 ・生 徒 は企 業 駐 在 員 子 弟 が多 いことから資 質 が均
一 で、日 本 国 内 の「学 級 崩 壊 」や「登 校 拒 否 」のような問 題 も極 めて少 ないし、レベ
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ルも高 い。日 本 の公 立 学 校 より安 心 して通 わせられるのではないだろうか。
岡 セブ補 習 校 在 校 生 の七 割 は比 人 の母 と日 本 人 の父 の間 に生 まれた子 供 たち
で占 められている。日 本 国 内 の学 校 と同 等 の授 業 はできない。日 本 から 教 科 書 が
送 られてくるが、小 学 四 ・六 年 生 の分 は使 えないのが実 情 だ。日 本 語 能 力 の差 が
あるので、最 初 の一 ・二 年 は日 本 語 学 級 で勉 強 してもらい、ある程 度 意 思 疎 通 が
可 能 になってから実 力 相 応 の学 年 に編 入 させている。
池 頭 を痛 めているのは、母 親 が比 人 のケース。日 本 人 の父 親 が同 居 していない
家 庭 もあって、そういう子 供 の中 には言 葉 の問 題 で授 業 についていけない児 童 もい
る。授 業 料 を滞 納 する家 庭 もあるし、他 国 の日 本 人 学 校 には少 ない、比 特 有 の問
題 だ。
学 校 選 択 は親 の責 任
マニラ・家 田 理 事 セブの場 合 、七 割 程 度 が新 日 系 二 世 の子 供 たちということで
すね。マニラ日 本 人 学 校 はどうでしょうか。
池 比 人 を母 親 に持 つ児 童 ・生 徒 の割 合 は二 割 程 度 でしょうか。マニラの場 合 、
正 規 の日 本 人 学 校 なので、日 本 国 籍 を持 っていない子 供 は入 学 対 象 に していな
い。なおかつ、入 学 条 件 として、日 本 人 の親 が比 で子 供 と同 居 しているケースに限
っている。具 体 的 には、日 本 人 のお父 さんが日 本 にいる家 庭 の子 供 は 原 則 お断 り
している。
家 田 日 本 人 親 が同 居 していない場 合 、セブ補 習 校 ではどうしていますか。
岡 比 国 籍 だけでも間 違 いなく日 本 人 の子 供 という場 合 なら受 け入 れている。
家 田 父 母 は補 習 校 に通 うメリットをどのように考 えているのか。
岡 いずれは日 本 で教 育 を受 けさせたいという教 育 熱 心 な父 母 が多 い。実 際 に、
その通 りに行 くかどうかは分 からないが・・。また、「日 本 人 の子 供 だから何 とか日 本
語 を覚 えさせたい。自 分 (日 本 人 親 )が英 語 やフィリピノ語 を話 せないから」というケ
ースも少 なくない。
家 田 子 供 が親 のエゴの犠 牲 になっているという感 もあるが・・。
池 セブの場 合 は補 習 校 なので、日 本 語 が少 し分 かる程 度 でもいいが、マニラの
場 合 は全 日 校 なので「(比 国 内 の)現 地 の学 校 を捨 てて、日 本 人 学 校 に通 う」という
ことになる。将 来 、本 当 に日 本 に帰 るつもりがないと、かえって中 途 半 端 になってし
まうのではないか。(つづく)
(2006.1.3)
1. 「第 3ターミナル問 題 」
二 〇〇四 年 末 に政 府 が強 制 収 用 して以 来 、補 償 金 支 払 いや所 有 権 問 題 をめぐる法 廷 闘 争 が泥
沼 化 したマニラ空 港 第 3ターミナル。今 年 三 月 末 に仮 開 業 の見 通 しだったが、予 定 日 を間 近 に控
え予 想 外 の事 態 が起 きた。ターミナルビル到 着 階 の天 井 が突 然 崩 落 し、悲 願 の仮 開 業 が急 きょ延
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期 されたのだ。事 故 をめぐっては、施 工 主 の竹 中 工 務 店 に非 難 が集 中 、結 局 、四 年 前 に進 ちょく率
が約 九 八 %とされた同 ターミナルの最 終 工 事 は、今 年 も完 成 に至 らぬまま、年 を越 すことになった。
天 井 崩 落 部 分 は約 百 平 方 メートル。マニラ空 港 公 団 はじめ比 政 府 側 は、設 計 に欠 陥 があり、資
材 の品 質 が水 準 以 下 だったなどの点 を指 摘 、竹 中 工 務 店 に全 面 的 な責 任 があると結 論 づけた。
事 故 から九 カ月 。修 復 作 業 は最 終 工 事 と同 時 に開 始 される。残 りの工 事 は手 荷 物 取 り扱 いシス
テム、チェックインカウンターなど空 港 が機 能 するために必 要 な設 備 で、工 事 の契 約 内 容 などについ
て竹 中 工 務 店 と同 公 団 などの交 渉 は最 終 段 階 を迎 えている。
その中 、アロヨ大 統 領 は十 一 月 末 に現 場 を視 察 、ターミナルビルの準 備 作 業 状 況 を自 ら確 認 した。
これに基 づき政 府 は、順 調 なら来 年 三 月 末 までに仮 開 業 できるとの見 通 しをあらためて表 明 した。
しかし、最 終 工 事 以 上 に複 雑 でやっかいな問 題 が同 ターミナルの所 有 権 、補 償 金 をめぐる法 廷 闘
争。
ターミナルの事 業 主 体 、フィリピン・インターナショナル・エア・ターミナル社 (PIATCO)が補 償 金 五
億 二 千 五 百 万 ドルの支 払 いを求 めた申 し立 てを受 け、シンガポールの国 際 商 業 会 議 所 (ICC)仲 裁
裁 判 所 は八 月 末 、ターミナル収 用 中 止 を政 府 に命 じ、PIATCOの所 有 権 を事 実 上 認 めた。
これに伴 いMIAAは、国 営 銀 行 にある供 託 金 約 三 十 億 ペソを補 償 金 の一 部 としてPIATCOに支
払 いターミナルの占 有 権 を獲 得 。
しかし、ターミナル建 設 費 などを含 めた補 償 金 総 額 については現 在 、パサイ地 裁 が任 命 した専 門
家 三 人 が算 定 しているが、最 終 額 が確 定 するにはまだ数 カ月 以 上 かかる。
仮 に同 額 が確 定 しても、PIATCO、政 府 の双 方 が納 得 しなければ、新 たな法 廷 闘 争 が繰 り返 され
ることになる。
同 裁 定 申 し立 てに加 え、PIATCOの株 式 約 三 〇%を所 有 する大 株 主 、ドイツ系 企 業 のフラポート
AG社 も米 ワシントンの世 界 銀 行 国 際 投 資 紛 争 解 決 センターに四 億 二 千 五 百 万 ドルの支 払 いを求
める、別 の仲 裁 裁 定 を起 こし、現 在 、審 理 が続 いている。
補 償 金 支 払 いの遅 延 による混 迷 状 態 を懸 念 するドイツ外 務 省 は今 年 四 月 、「比 独 間 の政 治 関 係
に悪 影 響 が及 んでいる」と厳 しく警 告 。比 日 本 商 工 会 議 所 も同 一 月 に公 表 した「比 ・タイ投 資 環 境
比 較 調 査 報 告 書 」の中 で「第 3ターミナルの問 題 解 決 なくしてインフラ事 業 への投 資 はあり得 ない」
と主 張 。比 政 府 の歯 切 れの悪 い姿 勢 に国 際 社 会 から批 判 が寄 せられている。
フィリピンの空 の玄 関 口 として登 場 した第 1ターミナルは開 港 から約 三 十 年 もたち、雨 漏 りなど老
朽 化 が進 み、空 港 施 設 としてはもはや限 界 に達 して いる。それだけに第 3ターミナルの早 期 開 業 が
期 待 されるが、その実 現 の成 否 は、アロヨ政 権 の毅 然 とした姿 勢 と公 正 な決 断 にかかっている。(水
谷竹秀)
◇
政 府 転 覆 計 画 の発 覚 、相 次 ぐ自 然 災 害 、宗 教 界 も巻 き込 んだ憲 法 改 正 問 題 など、フィリピンを揺
るがした二 〇〇六 年 の主 要 ニュースを五 回 にわたり検 証 する。
(2006.12.27)
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