賀 県 JL 大 学 人 I I j 文ー 化 且4 与 十 音日 耳 A γ酌mF i 長 究 報 主ヒ ロ 入居司玄化 2 、 qu r 即 4EE SCHOOL OF HUMAN CULTURES THE UNIVERSITY O F SHIGA PREFECTURE -もくじ・ 巻 頭 言/高 谷 好 - ・人間文化セミナー アフガ二スタンの今日 映像と現実のギャッブ スルタン・アフマド・サレヒ ー . . . . . .. . . . . .. . . . . . .. . . . . 2 -論文 1 2 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱/田中勝弘 ・…・…・・….... 職業人としての教員を考える/大橋松行・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ . . . . .. . . . . .・・ 2 6 e 0 高校生アーチ工リ 選手を対象としたパイオフィ ー ド J ¥ックトレー二ングを用いたリラクセーションスキル ・・ ・ ・ . . . . . . . . . ー ・ ・ ・ ー . . 3 8 ト レー二ングの事例/栗山明子 . . . . . . . . . ・ ・目 e 繰り 返しにおける表象的ジ工スチャ ーの形状の変遷 /成田啓行 . .. . .. ・ ・・ ・. 4 3 ー ジ工スチャ の極性化と相E行為 ・滋賀県の考古学 第 2回近江の銅鐸研究の現状と課題/木戸雅寿 . . .. . . . . .5 8 ・人間文化通信 滋賀県立大学・韓国国史編纂委員会学術交流協定締結記念 シンポジウム報告 ・ ・ ー ・ ・ ・ ・ ー ーー ー ー ・ ー ・・ ・・ ・ ・・・ ・ ・ 6 2 人間文化セミナー開催実績 ・ー・・ー・… . . . . . . . . . .. . . . . .. . . . .6 4 新任メッセージ ー ・ 一 . .... .. . … …・ ・ ・ …… 一 .. . . . 一. . . .. . .. . ... . 6 4 2002年度卒論・修論一覧 ・ ・ ー ・ー ー .••. •••••••••••.・ . . . . . .. 6 5 I NFO円MATION. ・ ・ ー ・ ーー ・ ーー ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ー ・ ・ … 一. . . . . . . 6 9 編集後記 -山岳都市力ル力一タ・ イタリアは国土の 半分以上を山に囲まれている 。 中世の頃に 外敵の侵入者から守る要塞化した丘上あ るいは 山岳都市が多い。 0kmに位置する小さな街である 。峡 カルカータはローマから 4 谷と峡谷の交差する断崖の台形上は 172mとさほど高くはないが、 ひしめくように建てられている 。教会を中心に中央広場 、共同 井戸、通りに面して 2階は住居、そして出入 口は lつ城門とな っていて、山岳都市の共通の都市構造である 。追いは土地土地 の身近にある天然素材 をそれぞれ上手に生かされている 。 ここ では峡谷の石を用いた簡素な造り、デザインもユニークで美し い。 山の下方には峡谷による石盤が浸食された洞窟を利用した 住居も多数見 られた。現在は家畜小屋やワイン貯蔵庫等に使用 されている 。 もともと洞窟に住みついたのはエトルリア人であ ったという説もあり 、民家は家畜との共存が基本生活スタイル であったようだ。 中世の頃は領地を防衛する兵士のみが暮らし ていたが、次第に 一般の人も暮らし始めて 1 7、 1 8世紀頃が最も 栄えたと 言 われている 。 しかしこの地も各地の 山岳都市の多く と同じように地震や長い年月の風雪のため、現在は廃境を改造 し別荘として生活している人、芸術家、レストラン経営者、民 芸品庖の家族等三 十所帯ー が生活しているのみとな った。風化が 激しく岩盤が崩れ始めているようで地震が心配されるが、 二千 年以上継承されてきた山岳都市の特異な風土、文化の凝縮した カルカータは忘れがたく、再度訪ねたい残したい山岳都市の 一 つであり 、国 をあげての保存対策を念願している 。 絵・文/安 土 優 口 一 一 日吉岡 三 委 度 かす 谷 人間文化学部 女 子 学部長 い│ 際世論を ! I f ,悦してアメリカはイラクを攻幣しそうな気配です。 もしそんなこ とが起 こ ったら、これはひとりアメリカだけでなく 、 人矩!全体の犯 ~ p というこ と になります 。 人 1 : 1文化学などということをや っている 私述にと っても 、凡てよよぬ ふりのできないような・jT態が現実に起こっているのです。 今日の巻 liJ'I にはアフガニスタンのスルタン ・ アフマド ・サレヒ氏 の講演主~J~ を,I&. せました 。 この愛 I J I諸の lJJにぜひ斗をねl Iけていただきたいと j よ l います。 l , i J l i : は お1 株主導の犠牲になってきた弱小民族の恥!とをじ ゅんじゅんと 述べています。 そし てこうした集 ト ) 1が牛き抜 き、希望のねてる 1 1界 をH 1 米するためには、キ糾J 川 l 1 / ぺ │ 救育 1 守 t了 の允;尖 起 j 4 以外にないのだ、と ! l体策とともに決立を述べています。 そして、 i l Jかつて i ,文をしています。 どうかマスコミに刷らされないで、 1 ' 1 以後に私達に l 分の l 恨でIli界を見てほししいとい って います。せっかくの{日中i(!を以切らないため にも、私述はしっかりしなければならないのではないでしょうか。 打同 1 ι { t / i ' < ; ; l ; ! 破壊される前のパーミヤン大仏 宇治) 人間文化 ・ 人間文化セミナー (2002.6.27) アフガニスタンの今日 スルタン・アフマド・サレヒ (808アフガニスタン 映像と現実のギャップ チルドレン) 今日は 「 アフガニスタンの今日 j という題で、アフガ二スタンが冷戦構造の中でどのようにして今日の悲劇的状況に追 い込まれてきたか、また、現在メディアで伝えられているアフガニスタンと現実との違い、そういった問題をソルタン サレヒさんにお話してもらいます。 世界を見るときに、私たちは少なくとも二つのことを心に留めておく必要があると思います。世界の様々芯ところでい ろいろな出来事が起き、その情報が刻一刻と入ってきます。しかし、私たちは、そこに生きている人々と直接関わること は出来ません。そのような形で知り得る人に、私たちはどのように心を傾けることが出来るのか。これが つです。もう 一つは、人々にはそれぞれの立場や歴史があり、同じ出来事を見ても見る人それぞれにかなり変わって現れる乙とです。 そこで、それぞれの現実を是正えて客観的 中立的にとらえようとすれば、それは伺れの側の苦しみも遠ざけてしまうこと に忽りかねません。 世界の人々と心を通い合わせられるかということと、それぞれの立場での現実という問題は、簡単に解きほぐせない多 くの問題を含んでいます。だからこそ、それらを心に留め置き考え続けて欲しいと思っております。 講師のサレヒさんは、私の 10年以上前からの知り合いです。近頃はほとんど交流がなくてアフガ三スタンの情勢力1変わ るたびにどうされているのかと気にしていたのですが、新聞で母国に自立のための学校建設運動を始めたという記事を読 みまして、私だけじゃ左よくて県立大学の若い人たちに、是非アフガニスタンについて話して欲しい、今日世界で起きてい る問題を学生達が自分たちの問題として考えるチャンスとして是非話して欲しいと、お願いしました。 サレヒさんは 1974 年に日本│こ留学でいらっしゃって、その後ソ連の侵攻でアフガニスタンが戦乱に巻き込まれて、帰 国出来左よくなってしまいました。京都大学の医学博士号、大阪大学の工学博士号、アフガニスタンの医師免許を持ってお られるんですが、医療システムの遣いで日本での医療活動はできす、大学の非常勤講師をし広がら苔しい生活をしのいで きました。難民申請をしたときもその認定は大変だったそうです。そういうわけで日本の在日外国人政策にも詳しい。で すから今日のお話は、一方ではアフガニスタンの現状ということですけども、同時にその震には、日本における外国人の さまざま芯問題があるんだということも感じ取って欲しいと思います。では、サレヒさん、よろしく。(黒田末寿) 1.アフガニスタンの今日 お話します 。 そして、 みなさんおはようごさいます。先 ほ ど ご 紹 介 に 阪 1 ; . {1の 12)Jの 24日から今年の 1 J J 1 8 F Iまで パ キ ス タ ン と ア フ ガ ニ ス タ ン に 行 っ た 6 { 1 三くらい I j i j かりました、サレヒです。 私は日本に 2 ときのいくつかの'ザ ~I [ を、みなさんにみなさんにお に来た のですが、 1本 語 学 校 も 行 っ た こ と が な く 斗 見せしまし ょう 。 で党えた日本語ですから、まだ L I本語を流*易に話せ 9 9 3イlに、なんで子どものための まず、なぜ私が 1 ません 。 訴す1 1 ; ¥ ' はがたがたの H 寺があ りますが、よろ 4人で 学校を建設し始めたかというと、夜、は兄弟が 1 しくお願いします。 そのうち 4人を j i 攻守} で 亡 くした ことがき っかけにな 夜、は以初jユネスコの -1 1として研究のため n-1~に っています。 そ の 兄 弟 の 子 ど も 述 を 私 が も し 必 nこ 来て、それから 1{ I ミ問の研究ののちアフカニスタン していなかったら、{}見児院に人れられたかもしれま f達 を 養 子 に し て み て は じ め て 、 そ の l i l I に))~ り、また米 日し て J;.( 郎大学医学部の先生のが{介 せ ん 。 その でjぐ下院生として J ; ( 都大学に人りました。 1 9 7 9 " 1、 jjjJ~~ がどれくらい大安か'/'1]ったし、 f )l'<先の終わる頃、ソビエト述邦のアフガニスタ 私の i も述の 1 ' 1 [ '労 が わ か っ た の で す。 在、の )G~j の子ども j主には私みたいな人がいてサポ ン似攻が起こって / 1 ; /へ帰れなくなりました 。 その後 示者/ ¥大学の研究が終ったのですが、働く場所もなか ったし、ヒザを延長するために大阪大学大学院の w fJ!,のいない f ど ートできるけれども、刻i 民キャンプにはそういう親1民 x r rども述が何万人もいる 。ということで、 1986年 か もいないし、あっても経済的に余桁がある刈}, が な u県れに入り↑I.I}: I:~;ーをとった後 、|刻 1)4/\ 科大学の第 い l生 J li J ' ' { : 教 室 で; 1 昨 日r iとして働き始めました。 ら決心 して、勤めだ、したらちょっとでもお令があまっ 1 . 1 学校 建 設 の 決心 たらそれをテー校建設で使うようにと決めたんです。 やっと、 1 9 9 3年にはちょっとぐらいのお令が貯っ 1 ' 1 分の紹介はこれくらいにします。 ノ 今 7 "川 1 │の彩私、の d には 2つの話題があります。 以初は、荘、が 1 9 9 3年 か て 、そし てペシャワ ール (アフガニスタンに 隣接し らアフガニスタンで学校建設の活動を始めたことを 郎市、サレヒさんの家族もいる)に行って、 2 ・人閤文化 ! ! l J Jの たアフカン難民キャンプがある「パキスタン j J つの アフガニスタンの今日 映像と現実のギャップ A 学校建設用地を平にしている作業 fども述のための学校、私にと しみでしたから│折るわけにはれかず、どうぞ人って っては学校ですけども、みなさんにとってはガレ ー Fきいと 云いました。 そしてー週間経ってからまた ジで/j!:校とは言えないかもしれませんが、そういう 6人になって、私が H+にj ぷったとき や従が明えて 8 や校が始まったんです。それで今 { I ' はその,}:校から は、私の息 4 1 1 1 1日の fどもよ主が字業しました。 ょうかと、連絡がありました。私は断るわけには行 0人の ガレージで、 2 r からまた 2 0人応募してきたのでどうし かないので入ヴ・させました。この JI~\' は、お令がなか 2 爆撃かう逃れた子ども達の学校 ったので、テントも'i' i えなくて、青空で勉強させて 2 )J、先 ほど述べた通り、ペシャワ ールに 去年の 1 いました。 2、 3担 ) 1日後にはテントを j 止を また新しい灘民になって、シャムシャトゥ知氏キャ てて、 4教主作りました。 ンプに大勢やって米ていました 。そこだけで です。 8h人 nって fとも 4つのクラスに分けました。 今では、建物を i l l f幣か ら逃れた人たちが 行くと、今度はアメリカの位' この f ども述のいくつかの 'I/~I[ 比せたいと.lJt ~、ま す。 これは配る J i i jの文 1 ) ;J ~です 。 ご覧の.ìWりに IAf 8}j人のほとんとど、は、 凶 ド │ > : 1j辿主知難I l:'民(1','口,~J ド ちやんと 名 4 字 r 奇 i l 前 府 l J tを王 笠 H 鉱止できなていなカか、つたので、 t I i : . i W とリJ{が別にドH っているのは、イスラムの伝統で!万 の灘民ならちょっとぐらいの食べ物とかクーポンと : 'るのは明ましくないとされているから 久がー桁にかj かそういうものがもらえるけど、析しい難民はそれ です。 こっちが久の了のク ラスです。 ももらえなかったんです。その状泌 を見てもすごく この ) jが先ノ1です。 ソ述がアフガニスタンに似攻 心が摘んで、本当にどうしたらいいのか判らなくな する l i i j、このみはいくつかの学校の校長先生で、そ してカピサ州の教育委 1 1会のチーフもやったんです ったんです。 冬がすごく寒く、いくつかのキャンプでマイナス けども、戦争 のせいで、今、私の学校で本当にすご fども i 主を教えてもら っている状態 2度、マイナス 3]立の寒さで一つの毛布に 4人 5人 く少ない給料で のチどもが入って震えてました 。その時、本当に M なんです 。 本 ~Ií にすごく立 派 な )j です 。 人かの子ども達が命を落としたんです。 1-+:の'つ これは違う自I; )j)~ の子どもで、これもまた追う部族 の NGOからお金をもらって、そのお金で新を買っ の fともです。 アフガニスタンでは、地域や部 b Xに て、難民キャンプに波したんです。 よって衣装がそれぞれ少し速います。迷う 「民族 j fども述のために私ができるこ という, ;葉を私は使いたくなし、。マスメディアはア ととして、新しく!?? 子学校を作ったんです。学校と ( ) j 長の概念をゆがめて使っているか フガニスタンの l それからとにかく fi うとみなさんすごく守派な学校と忽{象するけど らです。 I p ifとか服装の注いで j 主う部族の子どもと も、こんな';::校です。泌の峨が 3mの尚さまであ っ 下 J Iります。 この析しい j ; 1I民キャンプは本 1 1 iにモザイ て、そして地 T t i l 7 う fでこぼこで 1 mぐらいの深い穴も クな人々の集まったキャンプ地でした。 あったし、 : 1を立 って 砂利も買って、平たくして、 ここでもう ーつ見せたいのは、この人は私が 2 0年 fにした fともです。 ? ' l l i i jはムニールです。 ' . 1 : ¥ 1 : 反 もi 町通の本にペン ここでマ y トも買いました。. 前に長 キを 7金っただけです。これはすごく,!?きにくいです。 私はまだ結婚してないけど、イどもが 8人います。 これは子ども達が停っているところです。 i 詰初に 今はムニールが,}:校の 1 1 1 1倒を 令部見ています。私は 難民キャンプのチーフやディレクター達と話し合っ たときは、 6 / ; 友から 8歳の fども i 主6 0人を勉強させ たいと計l 而してましたが、 7 4人の子ども達が応募し、 2歳の その中には 1 fどもも 何人か いました。 この子 ども達にとって学校へ来るのが人生で、ただ つの楽 1本でえ;援を集めることや、五l i 7 5 ・の指導とか、テキ ス 卜を作っています。 1 . 3 自由に水が飲める嬉しさ ・働く子ども達 子ども達にとって学校で勉強以外にもう 一つの楽 人間文化・ 3 アフガニスタンの今日 :映像と現実のギャ ップ 4孤児に文房具や テキストを手渡 しているところ ・ 、 、- 、色、 羽 p lに水が飲めることです。みなさんはびっ しみは臼 R ' t i Tiなんです。 くりすると思いますが、;1<がすごく l この学校から;J<が千に入る場所まで歩いて最低 1 5分 4 り JjIW~ できないと思うからです 。 2.2 クレートゲームの始まりとイギリスの悪意 1 耐えたと かかります。学校に人; きなタンクを!iって 1 アフガニスタンは 1 8 3 9五ドまでは、まとま った同で き 、 n ぃ表せないほどすごく船しかったな 。 なんで はなく、"本の j i 没11 <1時代みたいに色んな古I I } j Xに日 I j れ かと口うと、 I~I 山 にどれだけでも水を飲んでドさい ていました 。 1837{1 に ml朕迎合ができ、 1838イ I ~ から 42 と吉えたからです。 fども達もすごく占んでうれし 年にイギリスのじ攻で第 1次イギリス ・アフガニスタ がったんです。子ども i 主にとって白山に水を飲める ン ì~~/[I が )~こ って、 1 1 動販売機でただで、 ということは、日本で例えれば ' しかし、 1 8 7 8 { 1ーから 8 0 年の第 2次イギリス ・アフカ ジユ ース を飲めるのと l i i jじことなんです。 1けて、外うと絡を:たってしまいま ニスタン戦争では1' もう 一つみなさんに凡せたいのは、この fども迷 はi ; V jに学校へ米て、勉強するんですけども、怜から アフガニスタンが))会ちました 。 8 9 3年にアフガニスタンと脱作てのノ T した 。 さらに、 1 キスタンとの f U jのJ I q 境ー デュランド -ラインをイギ 而倒を見てもらっているおじい さんとか他の組戚の リスカサ l し、たんです。 これはデイユランドという場 Hiいに行きます。絶対働かなければいけない 。 三 i j l r でイギリスの J 栄り人形の人 1 初 カ τアフガニスタンを ぃ忘れましたが、この子ども述はみな狐児です。却 代表した )f~ で !Uf, J1 i!矢 JI[! にサインさせられたのです 。 を亡くしてます。 この[-が一 帯かわいかったです 。 当日午のアフガニスタンの本当の政的はそれを認めな fはおじさんが写点 j i l iりますと行 っても必死で ( 1分の仕事をしてたから、令然カメラの ) jも凡ない、 かったし、これまでのアフガニスタンのどの政 J { J .も この こっちでも Hじ。 カメラの方を凡ないで必死で仕事 それを認めていません。 だから、アフガニスタンの 東南からインダス川へ雫るパシュトウニスタンは、 私たちアフガニスタン人はこれをパキスタンの領地 してます。 でなくアフガニスタンと思っています。 2 .アフガニスタンの現状とルーツ 2.1 地 理 これからアフガニスタンの地 J j l l やj 佼!とについて利 それから 1 91 9年にアフガニスタン の独立j i 攻 守lが起 こったんです。 この第 3;J(イギリス・アフガニスタ ン戦争ではイギリスが沢 1 1 1の犠牲 J Tをだして、それ でイギリスが仕 ) jなく独立を l認める条約にサイン 介したいと思し、ます。 まず、地 J II I についてちょっと し、アフガニスタンは独立国家になりました。 その お話しします。 アフガニスタンの北はトルキスタン 時の[様がアッマヌーラ ・ハ ー ンという方でした 。 とウズベキスタン、 1 !.9はイランです。 束と市はイン l tにl 以対するイスラムの I J ; ( J I [主義粁達が しかし、改 J ダス 川 までは、私たちアフガニスタン人はこれをパ イギリスの働きかけで反乱し、アッマヌーラ ・ハー キスタンの領地ではなくアフガニスタンと思 ってい ンはヨーロッパへ亡命したんです 。 JJ~ 在のザーヒ ます。 ここはパシュトゥニスタンと 言い ます。 これ ル・シャーと同じです。 は後で詳しく説明しますが、 1 8 9 3年までアフガニス タンの領地の一つでした 。 イギリスと i 伐ったときに アフガニスタンがこれを失ったんですよ。 北 の一音1 1 は中国とも按っしてます。 f i ! '史について話をします。 それは、アフガニ 次に L 2.3 冷戦体制の狭間で もう -つみなさんに知ってもらいたいのは、アフ ガニスタンとロシアの関係です。1 9 21 年にアフガニス タンとロシアは、その時はソ連ですが、お互いを尊敬 スタンがなぜ現在このような状況になったか、アフ して侵略とかを絶対しないという平和条約を結びま ガニスタンの歴 史を知らなければその真実がはっき 9 7 9年、ソ述はその条約を破りました 。 した。しかし、 1 4 ・人間文化 アフガ二スタンの今日。映像と現実のギャップ : . . : . . : . . . . . A 各教室にきれい芯マットをひいて、小さい手作りの黒板を 置いた A 子供達は男女別で授業を受けている 川 、予 、炉、 ‘跡、~ 企国連難民高等弁務官に申請していない難民に薪を購入 、四% 、' . . . . 7 ) くは難民キャンブの荒れ地でとても貴重 4この学校に通っている 多くの子供達は家計を 助けるためにこのよう な場所で働かなければ なうない 人間文化 ・ 5 アフガニスタンの今日.映像と現実のギャ ッブ 状の ルーツです 。 これからカfアフガニスタンの珍l ど、また 断 られたときからです。 ソ述の侵略が起こ 1 7 1 l t紀の末までイギリスとロシアの南アジアの支配 ったときに私はアメ リカの大使館に H 芋ばれて、アフ 桜争いが始まったんです。それをイギリスの歴史で ガニスタンのことについて話してドきいと似まれま / j ¥ はグ レートゲームといいます。簡単に言うと大同I した 。その当 1 ; ¥ 私は、アメリカのコングレスライブ のなわばり争いです。そのすlいが始まった頃、アフ ラリィの資料を千に入れていたんです。 それで、ア ガニスタンでは大I / q に扶まれながら凶造りを進めた 1 1 /か見捨てた こと 、 C メリカがアフガニスタンを何 / んです。そしてイギリスとの戦争がありました。 IAはソ).'!!がアフガニスタンにはいることをま1 1って 第 2次世界大j i 没後、アフガニスタンはやっぱり近 たんですが、でもアメリカ政府は対応しなかった こ 代化 をしなければいけないということで、│五 │ 王ザー となどをちったのですが、マスコミはi i fJもそれを信 ヒル ・シャーがまず近代的な国造りのためにアメリ じなかったんです。それで、その │ 時はそばにいたア カに接触したんですが、│新ら れ ました。 アメリカの メリカ大使 に資料を 凡せたんです。そしたら大使は これまでの歴史を見ると、 ! ' I/ : l i / にとって利径がなか 「はい、本当です」 と計 ったんです。 ったら援助をしなし、。人道の而jとか人権の;J::J J . ! とか、 1 878 作、ダウードも共 Ji~ 主義-fí-のクーデターで H自 I i /を援助をした例は絶対な そういうことだけで他の / 殺されました。 それまでアメリカがアフガニスタン S もアフガニスタンはアメリカにと いんです。 このI l に関心をもってなかったから、ソ Aが I I ' d 長介入して ってなんにも利誌がなかったから断られた。そして 社会主 R政府を作ろうとしたんです。 しかし、社会 仕) jがなくって、 / 1 " 1 二が 1 9 5 7年ソ述を訪問l して同 j L 主義の与えんはイスラムのルールに l えするから、そ りのための援助を求めたんです。 ソ述がそういうチ れでアフガニスタンの人たちが泌動を起こして、ソ ャンスをのどから予がでるほど欲しがっていたんで 述との i 伐いが始まったんです。 その U iは本当に i j 攻 守1 す。そしてすぐさま、国 │ ーの戸に符えてスピーデイ が激しくて、アフガニスタンのモジヤヘデインとい に援助をアフガニスタンに始めたんです。 そうなる う吉繋が始めてマスコミで流れました。 モジヤヘデ と、アメリカにとってこれは深刻な問題になりまし インというのは義勇兵のことです。義V: J兵は立i fめは た。それで冷戦時代の陣営拡大競争に負けないため ノド当にすごく に、アメリカもあわててアフガニスタンに援助を始 らくしてからアメリカが、チャンスを凡て武器支援 めたんです。そうして、アフガニスタンの冷戦の 1 . 1 ' ¥ を始めたんです。 代は東側と凶側の援助競争の JI~ で始まったんです 。 凶王ザーヒル ・シャ ーについては今みなさんニユ j l川、武器 でソ述と戦ったんです。 しば アメリカがなぜモジャイリンとか義リ)兵を援助し たのかといえば、二つの理由がありました 。 まず第 ースで聞いてると 以 し、ますが、本由i に色んな面で、 1はソ辿の勢力のf I 1 :Aを阻止するため、第 2はアメ 経済 ・教育 ・技術のどんな而でも近代化を進めまし リカがベトナムでソ述に i !けて、すごく侮辱を受け 2 9 7 3年、ザ た。 しかし、落とし穴がねってました。 1 たらからソ速にお返ししたいという ことです。 です ーヒル ・シャーがイタリアに外遊 1 / 'に従比必の夕、ウ から義見兵はどんな人でもよく 、 とにかくソ 述 と戦 ー ド王子が革命を起こして、アフガニスタンを王,/ 1 / : う人が欲しかった 。それで沢 山の人が集まって、現 から共和同にしました。その時私もイギリスから帰 代兵器をその人迷に波して、ソ 辿 を背しめたんです。 ってきていて、初起きてラジオをオンにしたら、 そのイスラム義勇兵の 中には、その時はオサマ ・ビ 「こちらはアフガニスタン 共和 国のラジオです Jと ン・ラデイン氏がし、ました。 オサマ ・ピン ・ラデイ 言 うんです。私は多分寝ぼけていると思って顔を洗 ンがやっぱりすごく沢 山の援助を受けたのはアメリ った。でもそのアナウンスが続いたんです。重要な カからでした 。 アメ リカが彼の武力と組織を 作 った ニユ ースがありますから 、 ラジオをオンにして下さ のです。 しかし、 1 9 8 9年ソビエ ト軍がアフガニスタ いと続いて、 3 0分後にダゥードがラジオに山て 「ア ンから撤退したときはアメリカも手をヲ │ いたので フガニスタンが共和国になりました」ということを す。いても利主主が何 もなかったからです。 アナウンスしたんです。 ダゥー ドの後押 しをしまし たのはソビエ トが育て 2 _ 4 アフガニスタンの崩壊と責任者 た共産主義者逮でした。共産主義の動きがアフガニ 今アフガニスタンの崩壊の立任者は私の考えで スタンで始まったのは、 1 9 6 3年ダゥ ー ドが近代化の は、アメ リカとソ連と国連です。1 9 8 6年のジェネ ー ためにアメリカに接触して援助を求めたんですけ ブでアフガニスタンに平和を戻すための会議が聞か 6 ・人間文化 アフガ二スタンの今目 。映像と現実のギャ ッブ れましたが、以初は失敗し、 8 8 " 1 二に次の条件 の合立 スラム│選に通じるル ー ツができ、そこの資 J l i 京を干に でや っ と成立しました 。第 1は、まずソ速がアフカ 入れることが出来る 。 ニスタンから撤退すること 。第 2はアフガニスタン(i! ! r 1 1:':を凶に戻すこと C そのために難民を国に帰す前に パキスタンとは別に、 イ I~j はアメリカもタリノ百ン と後触をして、タリパンを 白分の I J 未 ブiにしようとし 難民を受け入れる条件を整えること 。第 3は義勇兵 正以の 「アフガニスタン た。 この動きはアメリカの 1 から武器を取 ってアフガニスタン政府に戻し、国連 のj i 邸前的重15!:性に l 刻する年次報告 j にあります。つ のもとで国民長会議つまりロヤ ・ジルガを行 って、そ まり、アフガニスタンがアメリカにとってどんな戦 れでアフガニスタンに新しい政府を作ることでした。 略上の重要さがあるかというレポートで、それには しかし、それを守る こ とにはアメリカには全然利 今までの歴史上 のアメ リカの やり方が全部載ってい 益がないので何もしようとはしませんでした 。 ソ述 UNACOL)石 ます。 その報告の│時はユナコル ( が撤退してから義勇氏ーや今までj l 従った{i.述が 1 3グル 油会社が参加 しました 。ユナコル社の 60%の株主は ープになって、最初jは本当に暫定的な 政府を作るこ ブ ッシ ュの家族です 。 アメリカが狙 ってたのはカザ とに賛成しましたけども、、│ 王 手L Iがおい、たのはわずか i ? 1で、それらを得るために、 フスタンの天然ガスと 1 に 1年でした 。すぐにこの 1 3グルー プが、お圧いに イランとロシアを通さずに、アフガニスタンから パ i 淡いを始めたのです。 マスコミではアフガニスタン ¥るパイプラインを作 キスタンを辿ってインド洋へ 1 の内戦の主な原因は民族とか宗教の注いであるとい る計 I l h iがありました c いますけども、それは正しくありません。 的かにア しかしその計 I l h lはだめになりました 3 なぜだめに フガニスタンではシーア派とスンナ派の 二つの イス . t l体が、 なったかというとアメリカの制人間イ本、人権 I ラムの派閥があります。また、 i く妙、にしてもタジ夕、 タリパンが久性にす ご く厳しくて女'/"'¥が教育を受け パシュトゥ ー ン、ハザラ、ウスベクの他に多く の少数 るのを祭 1 ししていること、そして外 1 ¥時には体全体 民族がありますがそれはどこに !~\でもある事情です 。 をポルカ で l i : ! .さなかったらいけないとか、他にも沢 内戦の本 当の原!大│ は、J? J iりの凶が白 I J <jの利必のた 山 の J ド人道 I'I~ な jíjl) 正をしているので、タリパンとア めに、それぞれの義男兵とかのグル ー プを文援した f.fは関係を持つなという活動を始めたんで メリカ政 J ことです。例えばソ述は敗北のリベンジのためドス す。 その到Jきがすごく大きくな って、アメリカ政府 タム将軍を応援し 、パキスタンの過激な原理主義者 はれ:) jなくタリバンを批判するようになりました 。 逮がタリパンを支援し、タジキスタンはマスード、 ユナコルは実は、 i fでタリパンと抜 f 9 1 ! し、いろん そしてハザラをイランが、そういうふうにそれぞれ な援助を約点しようとしたのです。 その内実はまず 立が 1 ' 1 分の利益の の、アフガニスタンの回りにある l 学校 ・病院を作 って、そしてテクニカル・スク ー ル 、 ために手を出し、アフガニスタンの破波に参加した 例えば男性が小規模なハンデ イクラフトを学んで、 のです。 その結果、アフガニスタンの政治空 I L I が 女性は看護 ~1å や WJI近婦になるという,';\凶| がすごく多 w 来ました。 それを瑚 1 ~I にしてパキスタンがタリバン か ったc そういうふうにしてアメリカのベースを作 政権を作ったんです 。 って、カザフスタンからのパイプ ラインの純益をア 2.5 タリパンに対するパキスタンとアメリ力の思惑 iしたいという こ とだったけど、タリパ メリカが独, I ンが交け入れなか った。 タリパンは、パキスタンの難 1 1:':キャンプで生まれ そのうちス ー ダンでアメリカ大使館の; 爆似事1'¥ーが て育 っ て、 l点 Jr~ 主義のシャ リア というどf:校でイスラ 起こ って、アメリカはその犯人はビン・ラデインだと ムの教育を受けて成長したチども達で成り立 ってい しました 。それで l I iJ速はいつもアメリカの折導の F ます。 パキスタンは、インドとの戦争に備えてタリ で動くから、国連もタリパン政府に、ビン・ラデイン パンを支援し後押しした 。 プットのスピーチによる を引き波すよう命令して、経 i 庁; ¥ : J I 裁を行ったんです。 と、アフガニスタンに自分の 思 い通りに動く政府が その経済制裁でタリバンではなくアフカン i 玉l 民が 成立したら、インドと戦争が起こ ってi " !けても、武 すごく苫しんだんです。 アフガニスタンの r ¥ ,で難民 持とか兵隊をアフガニスタンに撤退させることがで キ ャ ン プ が 沢 山 あ った ん で す が 、 そ れ は 英 話 で は きる 。 インドはそこまでこれなし、 。 もう 一つ l J l l 白が I n ter na l l yD i sp la c edP e o p l e と古いますが、 1本 J f i I J iI 内難民と H 芋ばれています。 その難民が ある 。 それは中央アジアのタジキスタンとかウスベ では多分、 キスタンとかカザフスタンとい った資源の最古・なイ 経済制裁の大きな犠牲者ーになりました 。 タリバン (1 人間文化 ・ 7 アフガニスタンの今臼 映像と現実のギャップ 1 / 1 : 易L. i . Ut f その破壊の ui T:は、同連にもその . Y ; 品がある 体には本、 1 1 に M も;;;.~響がなか ったんです。 と思います。 2 . 6 タリパンの成功と理不尽さ タリパンがなぜこんな成功をしたか、カブールに 入ったときにみんながすごく歓迎したかということ も言っておかなければなりません。 それまではアフ 2 フ アメリ力が嫌われている理由 ここでビン・ラデインはなぜああいう行動を Jゃっ たか与ーえてみたいと 思います。 ガニスタンの人々が、ラパニ政権、つまり刻化の北 9) J 1 11Iの貿劾センターの'J;:件はビン・ラデイン 部同仰の虐殺、レイプ、強盗という大変非人間的な カf犯人だとアメリカもブ y シュも, iっている けども 行動にすごく苫しんでいたからです。 だから、タリ i . n t 処はな L、 。 多分あれはビン バンが入ったのをすごく歓迎しました 。 夜、がタリパ ! 4 1いません 。 しかしもし犯人だとすれば、なぜ彼が ・ラデインが犯人だと ンの I dを払っていると誤解しないで下さし、。私はタ 1 1山らしきものを与えると、多分、 やったかのかよ' リバンがすごく嫌いです。 アフガニスタンをこんな つには、アメリカがソ述と戦うときはビン・ラデイ 1 1 '伎の点任~ は タ リパンと北川 I ' i )叩で 状態にした 1 ンや A 1 J兵を必泣 としたが、川が 1 !!f,くなったらティ す。 ノ?のカルザイさんもすごく M t¥,、です。 フ 7 "J シ 1 A y シュパ ーパーの ように使い J 7 7てにしたこと 。 2つ fでマスコミ、 には、アメリカが l 引い戦争の 1 1.¥以米、サウジアラビ カメラの l i jに H ' ,ていますが、カルザイさんは私にと アにベースを作ったことがあると 思 う。 そこはイス ョナブルでグッドボーイみたいな様 ラムにと ってはす ごく叩Iなる場所、宅地で怜敬して ってア メリカの操り人形でしかなし 、 支配域を広げたタリパンは、だんだん政策をきっ るんです。 そこにアメリカカf入ったということはア シャリア メリカがそこを j りしたというぷ l 床になるんです。仕 のルールに),I~つ、く厳しい法律を作っ τ 、例えば歩い 方がなくて多分ああいう行動になったと思います。 くして ) I ) V 己から " ' 1 1 1をイ?っていきました 。 ているときでも礼-tl ー のI k ¥ '11]にな ったらど こでもお祈 そしてアメリカが他の而でもなんで こんなに嫌わ りをしなくてはならなし、。 それを怠 って 捕まえられ れてるかといえば、在、の与えではい くつ かの原[J,I が たら、すごくきっく;r,j せられた 。 I A Y )は全然外へ , ' 1 ¥ あります。 まず品i 5 ^ -は冷戦後ソ Aがいなくなってか , られなくなった。アフガニスタンにとっては、この ら、アメリカの似|的と保常が ~fì まったのです 。 それ ことはとても大変なことでした 。 は例をう全げたらいくつかあります。 やりたい欣題ど みなさん、この久性の川辺をマスコミのように 1 1 1 1 こでもやりました 二 1 '1 分に不 I j { . 品 が あ ったらとか、1'1 併しないでください 3 ボルカは本質的な問題ではな 分の立凡に f Tわなかったらすぐそこを爆撃するんで いのです。 それは、アフガニスタンの伝統の宇部で す。 , iいたいことではないけれど、アメリカのIt.モ!と す。 タリパンがひどいのは、 , : y' f 性 t ノ ぐ ; ご 汁 : ' t ' ↑ つたこと、そして, : yY : I が外へ , ' 1 ¥られない、イ: 1' J iがで れば以 初、ヨーロ を よL y パから飢えて逃れるため、 アメリカ大陸に波った移民たちが大陀を文配するた きないようにしたことです。 4 5 ・えてみてくださし、 。 めに、原住民インデイアンを何百万人、 2 3年/11]の戦争で、アフガニスタンはほとんどの、 70%の児科を亡くしたんです。 fども jiの的i 似l を見 るのは久性しかなかったんです。 その久: Y : I がi { V Jきに 殺~ー したんです 。 でも,jjf も何も J わなし、 。 それから 上地を奪 って 、という断!とでした 。 アメリカはそう IU なかったら、 ~1ft が家族を食べさすのですか。 だか いうやり ) iのもとで成り立ってきた 。 らこのことはイい'í に 残酷で JI日イ~J,\. なことなんです 。 経消制裁で苫しかったので、タリハン政縦は巨l . i f MT万人も ずっとカウボーイ l 映I l i jに I l¥てくるやりんーで殺して、 もう一つアメリカの不公、子な経済の拡大です。 グ ローハライゼーションは、アメリカのやっているこ に一つの従来をしました 。 もしアフガニスタンの経 とで ιうとアメリカで作られたものを、生産したも 済制裁 を止めたら、麻薬の子宮先を全古1 ; 1卜めて、人依 のを無理矢 J I [ !にみんなに、マーケットを作って売る を守って y : , Y 1 =も学校に行かせますという条 f l こを出し たが、それをまた I I I.ifとアメリカは組作したのです。 ことです。 マクドナルドを食べて、コカコーラを飲 んで、......。 それがグローバライゼ ー ションです。 そこでタリハンには他の切り札がなくてパーミャン 今まではグロ ーパライゼ ーシ ョンのお陰で I l t界中で の仏像を破壊すると脅かしたんです。 ! I i初は本主に 貧 │本│がすご く広がった 。 1 5 億人、世界の人 1 1 の 4分 旦l も同述の代衣と話し ただの作かしでした 。 でも 31 iではアメリ の lが貧│本│状態にな っている 。 そのー J 合ったが、{りもしなかった 。 だから、パーミャンの カでは農民もすごく設かな生日をしてますし、太っ 8 ・人間文化 アフガ二スタンの今日 : n てる人も人口の 8 0 % に達する 。' 1 j 1 、何千ドルも体 重を減らすために使うんです。 その ) ' 1 ・] ' jで、第 3[ l I 映像と現実のギャ ップ ら、命を落とすんです。 それは 1 r 11 = 1のことです。 治安は残念ですが、まだ:11:--;化しています。地方を 界では体重が減るのを 功 │ ぐのに必死です。 こんな不 コントロ ー ルしている武装勢力がやりたい放題で 手等が広がるのがグロ ーパライ ゼーションであって す 。 その司令官は簡単に 子?うと li~ 同時代の殿様で、す 。 どこでも誰かがマシンガンを持 って、イI f n人か兵上 はいけない。 もう つ、アメリカはいつも自分の価値観を他の 人に押しつけるんです。 1 1 + :界中のそれぞれの回では を持ったら、その人がそこの王線になります。 そう いう状川がまだなくな っていません。 文化とか伝統があります。 その固から文化とか伝統 みなさんがいつも見ているのはカブールとカンタ を取 って、他の文化 を代 わりに入れたら、その国の ハルのー部の映像だけです。でもアフガニスタンは アイデンテ イテイがなくなります。 アフガニスタン カブールだけじ ゃな し 、。 アフガニスタンには 2 9什│が にはイi 名なことわざがあります。 あって、そのうちの今つがカブールです。国連はア 「 人問はカラスの *iiftt~式 はしょうもないと jよl って いるけれど、カラスにとってはすごく立派な結婚式 J です c フガニスタンの治安をす るために、イギリス軍、ア 4 メリカ " : 1 ] 、 ドイツ 、オ ランダ 、 トルコ不合わせて 5 千人で成りすー った ISAFという │ 玉│連平和維持軍を アフガニスタンにはカラスカ tすごく多い c カラス カブールへ送りました。 それで、も私がいた時 、 カブ の結婚式は秋の始まる頃、 l qくl 白jく飛んで、ペアで ー ルて1リ|挽約 25 カ所に ~rti ~奈が人 っ ていました 。 それ スカイダイビングのように急降下するんです。 そこ で、 治安の点任有がイギリス軍でしたので、文句を 言 でi~ 触もありますし、怪我 もして、何羽もカラスが いに行 っ たら、 死ぬんですが、それを結婚式と呼んで、います。 カラ た?タリハンでしたか?Jと聞くので 「いいえ、タ スにとってはそれは多分とっても楽しいのでしよ リバンじ ゃなくて│携の隣の北部│ 口 l 盟の人です」 と答 う。もしそのかわりにアメ リカの価値観を入れたら、 I Jもしてくれなし、。ひどいものでした。 えたら、結局イI ι ! i 1rtì 訟は, li~ でしたつアルカイダでし カラスはカラスでなくなってカウボーイになると カブールで 5T人の ISAF軍がいても治安を守れ います。そんな抑 し付けが、)(き な摩擦の ) ) ; (1 主│ にな ていないので、他の 2 8 1 十 │では 治'ム'が非常 に思いです。 っています。今まで起 こった色んなテロや:段 ' l fの仮 こうした現実はマスコミは決して伝えてくれませ 本は、夜、のJtえでは、やっぱり文化│司 1 : のI I Uに交流 ん。マスコミが I E I. i ! J ! 平和維持軍、ヰ, y 二にアメリカ1: 1や IJ!解が起りなか ったからだと思います。 そして とか J イギリス " IL のお I~ で、アフガニスタンの状況は、 |仁平 [1 倣慢な態度が問題です 。 I~ 分だけはオ ッ ケ一、自分 で安定しているように縦迫しますが、実際は、状況 だけはすごくえらいと 思い、他の文化 を低いと思 っ が非常に忠化して l ほしいのです。 たら、お互いに近づけなし、。 いつまでもその f l Jにギ ヤヅプが残ります。 3.2 アフガニスタンの状況を悪くしている原因 アフガニスタンの忠状況の原閃は次の通りです。 3.ア フ ガ ニ ス タ ン の 現 実 3 . 1 平和は戻っていない マスコミ報道でみなさんは多分、今はアフガニス 3 . 2.1 政権の不安定 n j '~~Î が支配していま 今の。内定政権をほとんと 北部 j ε す。 この北部岡山が 6つのグループでできて、タリ パンを倒すために同 盟しました 。 もともとこれらの タンには平和が戻 っている、安定していると思って グル ー プは敵同上でお花いに長年 i 絞っていました 。 いるでしょうけども、本当に私が2 0 0 2年 1 ) ]にアフ 彼らを紡んだヒモ、言い換えれば、結合は非常に緩 ガニスタンに行って 凡た状態は すごく厳しいもので いので、いつほどけてもおかしくありません。 これ 3年間の戦争でアフガニスタンは道路、学校、 した。2 はすでに現実のものとなりつつあります。 カフ ール 病院、経済基盤、あらゆるものをなくした。 一つも から 1 2 0k m 離れたパキテイア ナ ト │の斤都ガルデイズで 残 っ ていません 。 {りもなし、 。 11J~ 1 1何百人もが飢えで は、最悪の事態が起こ っています。昨年 1 2月私がガ 死ぬ。子ども達が病気で死ぬんで、す。年寄りも病気 ルディズを訪れたときにも 町のど真ん 中で軍閥の衝 で死ぬんです。 どんな病気かと 言 えば、 もし日本で 突が見られました 。一人の男性 のJ ) 旬にロケ ッ ト弾が したらすごく簡単な薬で、治るような病気です。そん れち込まれ、彼の体はーつに裂けてしま った。その な簡単な楽もアフガニスタンでは不足しているか Yé }~t が今も日に焼き付いています 。 人間文化・ 9 アフガニスタンの今日 映像と現実のギャ ップ l k1問の緊張は急激な高まり 数週間の沈黙を経て箪i 0 0 2年 1月3 0日、ついにガルデイズで戦争 を見せ、 2 3.2.5 アフガニスタン復興の支援金の行方 2 0 0 1年の 1 2月のアフガニスタン復興会議で、さま が勃発しました 。一般市民と軍人を1Jj:せて 2 0 0名以 ざまな凶が 4 5億ドルの支援金を約束されましたが、 上が殺されました。皮肉なことに、アメリカの戦闘 残念ながら、今までそのうちのわずかな部分しか支 機はこの虐殺の場面を上空から観察して何の行動も 払われていません。 さらに、そのわずかな支援金で とらなかった。今でもそのような衝突は毎 H 起こ っ すら、どのような使われたか行方不明で、す。 ていますが、残念ながらそれは報道されていません。 3.2.2 治安の悪化 先ほど述べたように、アフガニスタン全二 │ こで、治安 4.まとめ 4.1 世界の不幸のルーツ が非常に悪化しています。 これは、アフガニスタン これまで、アフガニスタンの不手ーな1 ; 犬訓について の復興において切っても切り離せない問題であると 述べてきましたが、現在、世界中のあちらこちらで 私は 1 1います。 アフガニスタン 全体でおよそ 6 0 万人 戦争や不幸な出米事が頻繁に起こり、世界の王子手1を の義男兵がいると 尚一われています。彼らのほぼ全 H 脅かしています 。これらの状況をなくすためには、 が戦時下に生まれ、ソ述との戦いのために育てられ 私たちは版凶を探って fl~4~ からなくさなければなり てきたので、戦争と殺人、{政壊以外{可も j J Iりません。 ません。しかし、原因を調べるときには!恐怖移入せ むしろそれ以外何も教わ ってこなか ったというべき l t ず 、 I 立な立場で、広い視野を持って判断するべき でしょう 。 ソ連との i 淡いが終わ ったとき、彼らには 何もすることがなくなりました。 こうした若者の多 です。例えは、 9 〆 1 1事件の真実をま"るためには、ア メリカだけのニュ ー スに頗るのではなく、 1~I 央ア ジ くは掠奪や身代金 H的の誘拐等にも加担しています。 ア、1/1近束、ロシア、中│亙等の他国の情報にも耳を傾 皮肉なことに、このような状況下での許せない犯 ~ì~ けるべきです。そして、それらの情報と歴史を重ね に対し、アメリカやイギリス、その他の占領軍は黙 合わせたとき、自然に、事実が浮かび │ 二がってきます。 認状態です。 私はこれらを具体的にわかりやすくするために次の 3.2.3 支援物資の掠奪 話を世界が不幸になる構造に重ねて作りました。 支援物資がアフガニスタンに入ってカブールに叩 ある円ある医名のところに食中毒の患者がや って くまでに約半分が途中で追い剥ぎに会います。 それ きました。次の日にはまた同じ症状を訴える 2、 3 から、各地域に到着しでもそのほとんどは、 1 1 1閥に 人の忠者がやってきました。 円を追うごとに、その よって掠奪されます。結果的に、本来消費者となる 症状の患者が増えていくので、医者は原因を探るこ はずの人々にはごくわずかの物しか周きません。 そ とにしました。その原因は水にあるようでしたので、 のせいで、数万人の子どもたちが栄養失調や病気で 患者たちが飲んでいる水源を調べに行きました。 そ やせ衰えています。すでに多数の子供が死亡し、じ こでは、何人かの人たちが細菌をばらまいていまし きに、数千人の子どもが死ぬでしょう 。 た。医者は [なぜそのようなことをするのかJと尋 アフガニスタンで、は lj戎 JI~r下にほとんどの道路が破 ねると彼らは逃げました。医者はその原因を探し続 H彼は病院の薬局の様子がおかしい 壊され、支援物資の分配の大きな遅れの原 l 刻にな っ けました。ある ています。 ことに気がつき、調べてみると地 │ 、主に 2本のトン 3.2.4 難民救済機関の無計画 ネルがありました 。 1つには食中毒の薬が運ばれて 国連難民高等弁務官は 2 0 0 21 ' 1 二 1 月以降、 1 5 0万人 きており、もう 1つには大金が流れていきます。 そ の難民をアフガニスタンに帰国させましたが、ほと うです、このトンネルの奥には、水源に細菌をまい んどの難民は土地や家を武装勢力の指揮官に奪われ た人たちがし、たのです。医者は彼らになぜこんなひ て住む場所をなくしています。 もし、住むところが どいことをするのか尋ねると、彼らはこう 言 いまし あっても仕事や、収入がありません。ですから、何 た。 「 これがお金儲けのゲームの一つなんだ。 このゲ 万人の難民がパキスタンに戻ったり、囲内で難民に ームは手段を選ばない。それが我々のやり方だ」 。 なっています。 この状態をアフガニスタンの諺を借 この話で私が言 いたいことは病気の本当の原因を りれば、 「象を飼う前に、象の住む;場所と餌を用意 なくさないと、 一時的な治療ではいつまでたっても しろ Jということです。国連もこのようなことを考 その病気がなくなりません。同じように、戦争や争い 慮に入れるべきです。 の原因を根元からなくさなければ、世界中で難民や 1 0 ・人間文化 アフガニスタンの今日:映像と現実のギャ ッブ 飢えと病気で亡くなる人今が減らないし、 一方的な 出 *'事がなくなるでしょう 。 空爆や燦 J壊で命を落と す人々も増え続けるというこ とです。 4.2 コミュ二ケーションと相互理解の不足 -後記 講演記録を読み返してみて改めて気がつくのは、 アフガニスタンがイギリス、ロシア (ソ連 )、 アメ i 値観 現在世界ではそれぞれの国が自国の文化や仰l リカの世界戦略にもてあそばれ、パキスタン、イラ にとらわれ 、他 国のそれらに理解や尊敬をしめさな ンからもいいようにされてきた悔しさと、それらに いケースが多く見られます 。東洋と凶洋のコミ ュニ 采じて自己の利益拡大を│苅る軍閥に対する激しい怒 ケーションが不足しているので、誤解や不伝!惑が生 りが、サレヒさんの心に 渦巻いていることである 。 じ、それによってお互いの価値観のギャップがます ソ辿の侵略や内乱で、アメリカの空爆で、サレヒさ ます広が ってい ます 。このギャップが広がれば広が んは何人もの兄弟や税減を殺されている 。 この講i! i i るほど、 w界の τ│弓i Jは負かされます 。なぜなら、伊│人 記録を読めば、それはアフガニスタンの数世紀の歴 のレベルでもお互いに長作の不信感がつのれば、ち i rで" " i説明されて 史の凝縮である ことがわかる 。 誌 "i ょっとのきっかけで敵対関係に陥りやすいからで、 ないが、だか らこそサレヒさんは 、 世界のレベルでも同じ ことが言 えると思し、ます。 フガニスタンを自立させる力をつけることを 4.3 欲 fどもたちにア n燃と し て 学 校 建 設 運 動 を 決 な し た の で あ る c しかし、 / :校へ米るのが人生で、ただ 「この fたちにとって , J 人を非人 rUJ 的なれ動に .~ h り立てるのは欲だと思い つの裂しみでしたから ー… J という 元来には、サレ ます 。 欲が人を支配すると I~I 分以外が見えなくなり、 1 立を 1 =1指す教 ヒさんの心にあるのは、アフガンの1' 他人の領域まで入ります。 これが怪│家間で起これば 育だけでなく、 侵断行為です。他人の領域に入れば必ず衝突が起き をぶしている 。 ます。 これまでの↑什界の!罷史を見ると大きな紛争や 戦争が起こった ) 京区│ は、利益のために他同の主権を fどもたちへの忠いやりであること 1E l : l.独立 ・平手J I.教 飢えと法怖と│凝り合わせの ( 育 ・助 け 合 い ・家 族 ・再 び -。人間が生き る価値 侵害する ことです。 2 1世紀 で、欲の代 表的な例はグ を見いだすものでありながら、私たちがその本来を ローバライゼーションという 言葉をかかげた、平I j 己 見 失っているもの、それらの t 1 i 本がサレヒさんの日 主義な政策で、す。 この 言 葉の裂で、先進/=1<1が世界中 にはは っ きり比えるのだろうと思う 。アフガニスタ の資源を独占し、途 上国 では貧困が広がっています。 1 工 戸を掘り医球活動を続けてきた中村有生さん ンで 1 が 、 「 豊かさは貧しさの '"にあ る」と断言するものも 5.おわりに わかる公がする 。しかし 、では、豊かな貧しさの中に 私たちが住むこの 地球に本 当の平手"を取り戻すた さまよっているような私たちはどうしたらよいのだ めには、世界の出来事を 判断 するときは広い視野を l Uいを受けとめて、答えを ろうか?皆さんは、この j 持って、向己利益だけを与えずに、 ' _ " 1立的に判断す さぐりだしてほしし、。 べきです。 回、田氏、民朕それぞれにおいても ( 1分 SOSアフガン ・ 公演後、サレヒさんたちの:i!!!動 ( の文化 ・仙 i l 値観が大切です。 しかし残念ながら現在 チルドレン ) に 2 3 . 5 0 0円の募令があった 。 サレヒさ では、世界の国々がおT{いの{{-在を認めない状態に んは 2 003年の反から秋にか けて H本人ボランテイア まで、 陥っています。 そして自 │ 主│ の文化・価値観 ・や と共にアフガニスタンに川 i 玉l して活動、 9月に日本 り方を貰くために、他国を傷つけ彼らのイF 在日休を に反ってきたとき、 「皆 さ ん か ら い た だ い た お 金 は 脅かすのです。夜、たちはお互いの文化・旬 l i 値観を尊 31 ¥ に使わせ てもらった 。 感 学校の維持と増設伐の, 1 敬し、コミュニケーションや相互理解を深めなけれ jという連絡が入った 。サレヒさんとは 謝しています。 ばいけません。 そうすれば国家間の緊張状態や破壊 8) Jに偶然会 ったが、ゆっくり 話しする時間もないま 的な戦争は 起こらないでしょう 。 ま別れた 。 今 は 学 校 建 設 ・維 持に加えて、丸裸の国 さらに、私たちは自己利主 主 追求 の欲を抑えて、世 界資源、をみんなで公平に分けて、人 1 M ]の発達と幸福 土に値林をする言1-1 師も推進していると聞いている 。 1末寿 ) ( 黒H のために使うべきです 。 jjf~ もがこのような分かち合 いの精神を持てば、世界 中か ら貧困や病気、不幸な 人間文化 ・ 1 1 論文 一、ー 、 , 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 大津市膳所城下町遺跡の大型掘立柱建物を 「禾津 の頓 宮」 とする 考 え 方 の 参 考 に た なか かっ ひろ 田中勝弘 滋賀県教育委員会文化財保護課参事 ( 成 平13-14年度滋賀県立大学大学院 ) 人間文化学研究科非常勤講師 / と考えられるとヲE 君主した。私もこのことに関わるも 1.はじめに ( Pho. t.図 . 1 ・図 2) 1 1 1 '年 7月に、大 i l n l r膳所城 │ ご 1 1 町遺跡、で奈良 I k J代の のの一人であるが、 この大型抗¥ 1 立f i建物を 「禾津の 大型掘立柱建物 ( S Bl)が発見された 。その概1 1 院を記 ijl~; J と考えたのは、禾 ì~1tを始め、近江に i丘かれた 宇i J ' 表資料および税地説明会資料から抜粋すると以 横川・犬 t・ 世hJ + 1 のそれぞれの頓'山のJ . ( E定地が、壬 c ヰlの年 (672il 三 ) に起きた壬1/1の乱の際の激戦地に 下の通りである 。 重なる原史的な環抗と寺院跡の分布状況に見る考占 ( 1 ) 規 模 東 西 7問 ( 約2 0. 8m)x南北 4間 ( 約1 1 . 9 m)性問 2 . 9 7 m( 10 民)床 r t i , 右' i 2 4 7 . 5 r r i ( 2 ) 建物方位 ほほ南北方向(磁北に対して約 1 1 *に 0 傾いている 。 ) ( 3 ) 柱の規模 ml 川方の柱穴に、 l 立系 40-50 一辺1.6 c mの柱を-t Hえ 、 ヒを少しづっ入れて突 ( 4 ) 構 造 期 とがその出発点で、あった。 もちろん、現地説明会等 で述べているように 、大型抗Ii了'd . Hl物から 1 1 ' ,I ~ した 須忠器や 他 の illf誌との関係から、その丈~立年代が 8 世紀の第 2 1 ! . L l l . .見 j Iのものであり、 81任紀後半代には 下らないと判断していることが大前提である 。また、 き閏めていく「版築」 という技術で柱 その規校や構造が、 IL 城京なと、て、発射される官 11~i 助、 や の J j ' i J P I Iを埋め戻して位を建て上げて い 貴族の邸宅跡の.ilb 没などの巾心主主物に匹敵するもの る。残存している柱穴の i *さは 8 0 c m、 て であるとともに、 A E仁自の内点後股と-I f f定されるも ある 。 のに類似していることも大きな根拠の一つであるこ 一面庇建物 ( 東川 7I I Ux南北 2: r U の身 とはいうまでもない。 合の南北 l i I 刊{ I Jに庇を N 'つ。 ) ( 5 ) 時 学的な環境に、それぞれ共通性が見られ るというこ 8世紀前半(れ穴からの 1 1 ¥ 土地物 や SB2・3との位 i l i : 関係などから判断) ( 6 ) その他の特徴 O建 築 足 場 建 築 足 場 主!と近iI:にお 本稿では、宅武天皇の近江行幸の立 l ける頓 ' 1 ; ' ;. j ( f ' .i . EJ 也の!恋史的・ 4 f占学 1 ' <.1環境をより具体 I 善所城下 1 1 1 ] "遺湖、で、発見された大 化する作業を行い、 J Jf,!)掘立住建物を 「 不;津の頓宮」 とする考え方の一端 と考えられるれ穴が建物の f介することとしたい。 を 中i 柱列の外周と内側、住通りの中間にあ たる規則的な佼 i F fに検出されている O ill 物の外 )~'iJ の足場柱穴は建物の住筋の 2 . 東国行幸の目的と壬申の乱 ( 図 3) E E武天皇は、天、│ 乙12il ム ( 7 4 0年) 1 0月2 6日、大将 1 1 元思う所あるによりて、今 約 3 m外側の位世にあり、!/i f 先の広が 軍大野の朝臣東人等に りの大きさを伺うことができる 。また、 刈の末、町く関東へ Hかんとす。Jと告げて、*国へ Iで検 I Uされた足場柱穴と 7 以側第 1安J の行幸(註①)を開始している。 世紀後半の竪穴住居との市ーなりでは、 いては兵体的に述べられていないが、その直前 9J . J 1 1 1 天思う所」につ 足場柱穴が、竪穴住居が埋まったあと にJ L州で起きた必 ! i l広 i l J l I J の乱から逃れるためとの詳 に品l T Iり込まれていることが保認され 細 i l が主流を占めていた。 しかし行幸が、 ① 円祖父 た。 O 柱の抜き取り痕 である天武天皇(大海人皇子)が壬 / 11の乱 (註②)の 際に吉野告の、ら美濃の不破ヘモった経路とほぼ重な 建物は柱材を抜き取って解体撤去して るものであること、しかも、天武天皇が「 朝I Y J郡の いる綴相である 。柱の抜き取り痕は 1 0 i 庄太川の辺にして、天 m : t 大卒1 Iを望作みたまう」たの c m 大ほどの円{擦を多 く含む軟らかな土 に対し、伊勢国 一 ぷf,j~河口頓宮で、 「 幣 J討を大神宮 で埋め反されている 。堅く踏みしめた に卒らしむ j といった非常によく似た行動をとって ような状況はなく、無造作に埋め戻さ いること、 ②天武天皇は近江へは起を踏み入れず、 れたような印象である 。 不似の野上行常に問まっていたが、 E E武天皇は近江 に入り、しかも、不破il!l' i 宮で、 「 騎兵の司をfiJ! r きて、 滋賀県教育委員会では、報道関係への資料提供、 京に還り入らし」めていること、 ③近江では、壬申 一般への現地説明会を実施し、これを聖武天皇が天 の乱の際の激戦地であった場所を選んで、頓宮を設置 平1 2年 ( 7 4 0年)に近江国に設けた 「禾津の頓宮」 し、宿していること、 ④ 近江最後の地に、壬昨!の乱 1 2 ・人 間 文 化 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 Phot大津市膳所城下町遺跡大型掘立柱建物 (881 )( 西側から撮影) ヘ 一 一θ- イヨ一一 G 一一一 一一「。 τニ r ベ ー llmvl ム一一ーモトー ーや-0-- 寸一寸 。 5 10m 図1大津市膳所城下町遺跡大型掘立柱建物 (881)平面実測図 3 人間文化・ 1 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 i 一一一一 -q--o--a--o一 一 一 一 千 山 ﹂ l却 ( Q ) :8 @J~]J Q l J D ρ l τゴ →r- マ 奈良県明日香村雷丘東方遺跡 ( 淳仁天皇離宮推定地・推定「小治田宮 J) D I ~し-' I I 同 人 --D--t--O - ~--1 │ 一 一 一 一 一一│ 滋賀県大津市膳所城下町遺跡 SB1 :.L: 奈良県斑鳩町上宮遺跡 (称徳天皇離宮推定地・推定「飽波宮 J) 京都府加茂町恭仁宮跡 SB5507 ( 推定内裏後殿) r 奈良市平城京跡 ( 馬寮j正殿) 滋賀県信楽町宮町遺跡 ( 紫香楽宮跡朝堂殿舎) 奈良市平城京跡 左京三条二坊六坪 ( 長屋王 ・吉備内親王邸) O Lτ= コゴ 滋賀県大津市近江大津宮錦織遺跡 ( 内裏正殿) 図 2 古代大型掘立柱建物 ( 二面庇建物を中心に) 14 ・人間文化 1 0 20m 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 の│祭の最終決戦地である 「 禾津」を選び、 f tの寺である「志賀の 山寺 天智天皇の勅1,9 に幸し仏を礼 Jしていること、 ⑤ 行幸途 中の各地でl!易級や免税などを頻繁に行っ ていること、 @ その直後に山城に入り、 恭仁京に遷都していること、などから、 [山城] 「 朕思う所あるによりて J 行われた東国行 幸 は、単に乱から逃れるためだけの行動 ではなく、恭仁京への選都が最大の目的 であり、極めて周 y l jに準 f i l tされた行動で はなか ったかと考えられるのである 。 た だし、不破までは、天武天皇のご 1 ぞ申の乱 の 時 の 経 路 を ほ ぼ た ど っ て い るのに刈 t し、近江からは 、不破で 「 騎兵の司を W きて、京に巡り入らし」め、頓戸;の設 I E ーーー 聖武天皇行幸行程 ー・一 大海人皇子壬申の乱行程 場所に敢えて壬 I れの乱の際の激戦地を選 ぶなど、行幸の内科が全く 変している ことに注意しなければならない 。この こ とは、壬申の乱の│際、天武天皇は、近江 図 3 大海人皇子壬申の乱と聖武天皇東国行幸の行程図 r 日本古代宮 径社 会の f i Jf 究J 0999年)より転載c 一部省略) ( 市U i . 良貞 r 朝や大和の諸勢力に対抗するため、不 l v J ( の野上の行宮に至るまでの聞に伊賀 ・伊勢 ・尾張 ・ ヨ ドを敢行しているのである 。 しかも、その│努の頓宮 美濃などの諸氏族の支持を確保しているが、 今回の の佐世が、壬申の乱の時の激戦地に重なっており、 選都に対しても、反対勢力に抗するため、天武天皇 ここに、あえて近江に足を踏み入れた 聖武天皇の意 の事跡を追うことで、再び彼等の協力を得ょうとし 図が隠されているものと思われるのである 。 このこ た の で は な い か 。 一 方 、 近 江 で の 行 幸 の日的は、 とをもう少し 具体化する前に、東国行 幸 の│努の近江 「禾津頓宮 J滞在中に、天智天皇勅願の 「 志貨の山 の近江での i波乱地を推定 での頓宮の位置とモ申の首L 寺 に幸 し仏を礼」していることが示しているように、 する作業を行っておきたし、。両方の記事を対比させ 天智天皇を始めその 関係者や乱に │ 羽わ った人々の菩 ると次のようになる 。 提を弔うことにあ ったのではないか。不破で武装を 解除し、あえて乱の際の激戦地を頓宮設置場所とし 横川の頓宮 ているのは、壬申の乱とは全 く逆の行為を取ること 7月 2日 近江、精兵を放ちて玉倉音¥ j邑を衝 く。 で、近江での行幸の目的をより 一層明雄にしようと 7月 7日 男依等、近江の軍と、息長の横河に戦い て破りつ。 したのであろう 。 このことは、自身が天智天皇直系 の子孫 ( 註③) であるためだけではなく、そうする ことが、l!易級や免税などを頻繁に行うことも加えて、 犬上の頓宮 7月 2口 近江 ( 1 1 栴)不破を襲わんとして、犬上川の j 筑に軍す。 選都という目的遂行のために必要な手段であ ったと 思われるのである 。 7月 9日 男依等、近江の将奈友;足を鳥箆山に打ち て斬りつ。 3.近 江 で の 頓 宮 の 位 置 と 壬 申 の 乱 (図 4) 聖武天皇の行幸の行程が、曽祖父である天武天皇 の壬申の乱の I 時の吉野宮から不破に至る経路にほぼ 野洲の頓宮 7月 1 3日 男依等、安川の演に戦いて大きに依 りつ。 7月 1 7日 栗太の軍を討ちて追う 。 i 沿 うものであることは早くから指摘されている 。 し かし、天武天皇 は不破から離れず、近江には足を踏 禾津の頓宮 み入れていないのに対し、聖武天皇は、不破で武装 7月2 2日 男依等、E!J jち粟津間の下に箪す。 を解除するといった行為を取った上で、近江への行 7月2 3日 近江の将 ( 目的を粟津市に斬る 。 人間文化・ 15 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 A:米原町三大寺跡 A ' 近江町法勝寺跡 s :彦根市高宮廃寺 s'・彦根市竹ヶ鼻廃寺 C 草津市花摘寺跡 c ':野洲町福林寺跡 c ' " '草津市宝光寺跡 D 大津市国昌寺跡 0':大津市膳所廃寺 ??i p k m 図4 , 近江行幸・壬申の乱と寺院跡位置図 1 6 ・人間文化 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 r il7. fì ,ql; 邑」 は、 ~I事記に 「 正倉吉il; の ì ,日4 に flJ り l lう」 とあるのは、 「沖 ! l l il続 Jに 「栄木の濯を.J: ちて i て息いろ佐しし JI寺、 {~IJ心干~'に ~Itf めましき 。 ,'&、;I-~の ì ,'; でるまで、の戦いを析している 。i i M il U橋 Jについては、 泉をなけて、居日~lf の i青泉という 。 j とあり、今の米 今の庸椅より少し下流で、水底に残されていた僑脚 原U I Jl ' ¥ ' J ,J I付 近 と さ れ て い る 。 i , Q、長の棋がJ Jは、平1 1 の i山花と|刻述造物が発見されている (註 ~)。 名抄に 「 息長郷」 が見え 、 1 ' ¥ , 1 )1 ' ,以束、羽'リJ ; (以' l 可とも、 「 架津 」 は、瀬 H I怖を波った今の架津 1 1 ]の l 判i l ! J 付 また、放 F R9 郷の 一 つ í ~)U!~ 郷 」 は、延~~.式の ,f!Vi 川 近から)民所付近までの純 I J t I を指 していると考えら、 駅と考えられており、駅は円M JI こで、息長ともよんで i: ! ? ii1' lì白jJはその西 iWJ の 山行部 、 「 栄 ì~dT J は、*側の Q、長荘は京大手領で、)('ll}川の J ヒ いたといわれる 。 , 洲 J~: 付近とすることができる 。 「不:1半の ílll'i 山 」 んーの地 J 攻を指している 。 また、天野 J I Iは ,i 'く息長川 、 i '然 、 こ の純 l 川内に存イ! ー すると考えられるのである 。 も、 2i fの 1 1ヶ村令併の│際の村名 と呼ばれており、明治 2 呼称から取られている 。 こうしたことか はこの川の l ら 、 i t 如 1Jは犬山f 川を指し、 4.近江行幸および壬申の乱と寺院の建立 「 息 長」 はその北んーの I J、おおよそ 1 1の息長村付近を'1"心に、尚官J I !は 近江U ( 同 5 ~ 1 立 19 ) IE 武 X ~己 の *ドl 行干の|努に、近江に置かれた頓宮 限チ│二や枝折付近をも含む範│企│と兄てよい 。 従って、 の位世が、壬 'JI の乱の JI:~ の激戦の地と重なるもので 「 横 川 の 頓 宮 」 の 位 置 も 天 野 川 を挟む!よい範 到 │ の'1' あることは以卜.から I l jJ らかである 。 そして、行幸の 1的の で探す必要がある 。 「 犬 J~,)I IJ は、 '1' l~ llI] 北弟、}~・ fl~ , 1 J , ' : , ¥':~ 0;を通り、荒 つが、 l l i, j ーへの参l'1 二に端的に示されている とすれば、1:1/ 1 の乱の I~~~ の i伐乱地)人l 辺で;よられる寺 i八坂にI"J口を 持つI"f) 1 1で、この 神山の北側、彦根 d 院跡の分布に知似 tl を ~'!'I I',そうとすることの君、 l床が 岐に l i f ドを長 河川付近は、地形作Jにも 地倒的 にも、イミ f る天武天皇側の可f に対する近 i J: !f列側の lìÍ]同~~基地にJffij J 1 I ' .JfJff.できるものと与える 。 1 2武天皇の t i ,-: e の際の 「禾津の頓'白] が置 まず、 E している 。「烏 能 I I I Jについては、延?号式兵吉¥ 1 省式 かれ、壬1/1の 乱 の 際 の 「 巣 i t l1 刊の 下 に 市 す 。Jや に 「 近江同駅馬。勢多 三 卜疋。岡田、[1't~ 各 二 |必 。 「 虫色作市 l こ斬る 」 などの rk~ ' J Jが凡られ、段後の決戦地 篠原、 i ' l r 水、鳥龍、横川 各ー l ' f i :疋。 」 とあり、手1 1 名抄 j、最大の激戦が行 となった 「対日り には、その南 } 9 "に駅家とあるのはこの心龍駅を の犬上郡の主 ¥ W Jにあた る人;津市光が丘に、 わ れ た 瀬 川怖 の す ぐ 川 i mし の演は、i l ているとされる 。 近江朝側が可fした犬 UII }j!,~ J J ; l8 "6646Aと阿氾とされる偏向変形忍冬山平文軒 駅付近と考えられ、ここから lú われて í X~ 能 III J へ 1 : . b Lとこれとセ ッ トになる外縁線鋸的i 文複弁八葉軒 、 逃げた近江朝側の将を斬ったと解釈することができ 1 苅 6-5・6) を 1 1 ¥1 こする凶ハ守跡がある 。 ま 丸瓦 ( : .の 頓 符」 は 、 犬 上 川 の 流 域 に 位 る。 従 って 、 「犬 1 rの 置すると見てよい。 なお、現夜、彦根市 A法寺 m た 、 . I t j j、 I J / i J 好 城 1 ; " I I IJj立跡の酉 i W Jの台地仁には、川 日 !l ,7・系の外紙鋸歯文 f U力、八葉軒丸止Lとこれとセ ッ ト 集落' l 刊J I !に 「鳥能 1iJと称する山圧があり、白 ln\JI~ 1 豆1 6-1・2 ) を出土する場 になる凶重弧文粁予瓦 ( 代から公良時代前 j 切にかけての須恵 6 f tおよび瓦を生 所と平城京6 235Bの 複 弁 八 葉 粁 九 瓦 と 平 城 京 6763A ) 産したとされる さ 足跡、が検出されている ( 註 4。 の均整官市文中f平瓦 ( 1 豆1 6-3・4)を 出 土 す る 場 所 i ' Z C) I IJは 、 現 在 の 野 洲 川 で 、こ の川を遡れば、 和名抄に近江田'1]t 7i 市蔵官¥ 1 (久良布) とあり、伊 1 1 U 町に合 i : I Sの地名が比え、中 t ' iI T il日から i : n t : tI I I J桁村{ W Jが i fを射ー屯 へ抜ける 「 会歴道 Jに通じ、*-武天主 1 とが近接して分布するJ I 持所廃守がイf{,tしている ( 図 5。 ) 回円、j tか ら は 、 飛 主 文 を n つ 軒 丸 .i l l F平 瓦 ( 1 立1 6-7・8) 、lj!弁卜 二葉l i J F丸 比 と 唐 草 丈 ' 1 (平 瓦 ( 1 記1 6-9・1 0)も 出 土 し て い る こ と か ら 、 壬 1/1の乱 S I I J付近と される「京[萩貯」に宅る 。 させた 三重県伊賀 I l 白後に創建され、奈良Jl 代後半には、瀬山のド│分寺 下流域は琵琶湖l にI 師した広大な氾 1 清原を布してお が焼失したとき直ちに│正│ 分寺の事務を代行する寺と り、それは、旧の J ヒ流を含む ' ' 1j:, UI]から、守山市と ~II. な ったと考えられており、この寺は、単なる私寺で 津市の境を流れる境) 1 1付近ま で、広がっている 。 i 1 e ; 1 日所廃寺は、壬 ' 1の乱 はなかったようである 。 ブ: 川の演に i 淡いて 」 と あ る の は 、 氾 I l 長j j ; lの 広 が る 野 以前、円以f . l Htに省J I 主主され、奈良I J 寺代後半に、場所 洲 ・ ι~,主 ・ 守山の各市 111] を 合む広い範凶を考えるべ を笈えて再建された I I J i iE:性のあるもので、在地豪族 きであろう 。従って、 1 領; ι 1 ・ のj l , [ i i そも野iJ 1 +川流域と凡 の氏二子と見てよい。 すなわち 、 f f J武天皇の件祖父で るべきである 。 1 1東 d Tをf Tむ範囲で、 「 架 太 jは、現代の草津 市や 1 の際の激戦地で、ある栄津の ある天武天虫の壬申の百L 地に、政j 点1 主 ;式の軒瓦を,'t', I 二 する寺院跡が建立さ 人間文化・ 1 7 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 近 江 大 幅 れ、また、│司じ来ーはの地 主 主 I1 ! ' l U時代に創建さ で 、 C + も れ、行幸後に当たる 8世 油 紀後半に、場所を変えて 再び寺院が建立されてい るのである 。大型州立柱 建物が発見されたのは、 この!防庁J 廃寺の凶 l H 1 J 、わ す、か 200mほどの所なの である 。 " 1 次に、壬 の乱の際に 見られる 「玉 合 部 邑」・ 「息長の横河 Jでは、醒 J 十の束端、天!日' l川とその 支流である丹生川との合 流点で H生川布川、米原 町枝析に 三 大寺助、があ I !をさらに下っ り、天野 J て山塊の合同を越えたそ I の北側、近江 J 8 i i Si戸に j 去 勝寺跡の存在がう、 1 1 られて いる (凶7) 。 二三大寺跡 は、単弁八葉車「丸瓦と四 重弧文軒平瓦をセット ( 図 7-10・1 1)で持つ方 形の基盤を持つ堂宇 1棟 ( 塚 原地区:/: : g !7-B) が発抑調査で検出されて おり、また、その北東部 では、複弁八業1 1 ト │ 丸瓦と J l q I K 扇行唐草文粁平瓦がセッ ト(凶 7-12・1 3)で 出 土することが早くから知 られていて、塚原地区とは i J I Jの堂宇 ( 寺尾地区。!;;{! 図 5 大津市国昌寺跡・膳所廃寺位置図 藤原宮大極殿造営に伴う整地工. ! . J i までの間に創建さ 1-A)が存在していたと考えられている 。塚原地 れ 、7 0 1年 -715年の 1 1¥]に投棄とされたとする平城宮 区の基壇の周聞から多量の瓦が山上しているが、車│一 跡 SD1900頃にこの寺院は廃絶したと見ることがで 丸瓦のほとんどがいわゆる湖東様式で、彦根市竹 ヶ きる 。一方、寺尾地 I ヌの 1 1 [ l瓦は、藤原宮式のものを 鼻廃寺出土のものに最も近似している 。粁平瓦はす 写した本薬f:l1i寺式のものである 。 このことから、 三 べて無顎の四重弧文である 。瓦とともに 1 1 ¥土した須 大寺廃寺では、塚原地区では発品l n 調査の結果 1棟の 恵器杯兼は藤原宮 SDl9 0 1-A下層(天武朝末年 1 1 事 みであることが明らかであり、寺尾地区でも、瓦の 原宮大極殿造営'に伴う型地工事までの│問、飛 鳥 N 1 1 ¥土状況から本核的な伽主主配置は考えにくい状況に 期)、1 高原宮 SD2300、平城宮跡 SDl9 0 0( 王 子 城 1J Y J ) ある 。従って、軒先瓦の異なる 二つの堂宇がモ申の の3 1時期 ( 飛鳥 N'V期、平城 I期)の ものがあり、 乱直後に相次いで建立されたと考えることができ 杯身は藤原宮 SDl9 0 1 下層(飛鳥 W期)、平城宮跡 る。これに対し、近江町法勝寺跡では、明械な堂宇 SDl9 0 0( 平城 u 切)のものであって、天武朝末期 は見つかっていないが、単弁系 l i ' l丸瓦 ( 図 7-1- 1 8 ・人間文化 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 膳所廃寺 /'-. -~' -. f 二:手:~~\J・1 W 1 1 似b E f i ; 1日 i1 ・ 人 . ヱ よ ぎ 詩 ,j J しており、 「横 川 ;劉(民~> - J ifu:i#,'~Ç も「 禾 i l t頓古 」 でよよられた;[丈討に ま i t似 し た 環 境 が 何 、戸;. ~・? ザ グ '~‘ .~ r. ‘ ー . ー 何 . ,: -:. ♂ . -:-- 卵 、 -'-. ~・ず.." . . . "'._ ~山崎r' . . " ' -~ _ .- , . -. ~ " . e ーーー ー ー -- ~、、曲 】 】 匂 同 一 金-~. えるのである 。 、 γ .'-~:' 内 ソ ι ・~ 4 --- -~‘ -'~ . (B地点出土平城京 6235B・ 6763A) (A地点出土川原寺式) 0 5 1 0 C I l l f ) よ I ' . J[ Iの演に軍 す 」 ゃ 「心 龍 1 1 1J での戦いの記事の f~ られる jと上 JI[ の 地法} ; l J i: i l l で は 、 j ょ │川 に 沿 っ て 彦 恨 i [ i 向 ' 品 . 旬 . 在 占ニと竹ヶ ~::!.Jj~ -;/がある ( 調 [ 8)。 山富 Ij~ 寺は、 r V Ji f i 4 4イ ド とl i利 1 0 { Iーに格心従や礎石 が発>~されてい る 。そ の 正 維 な 依 V J 田は現イ上では不 I とな っ ているが、 遊行塚遺跡とされ 6 る場}好とする説が ( 奈良時代後期) ( 飛雲文) ( 藤原宮式 o 5 Lc ー」ι ' ' 国昌寺跡 イl力 で あ る 。ここ 1 0 2 f c m からは、藤原宮式 i i i粁 丸 瓦 の 後 弁 八j 図 6 大津市国昌寺跡膳所廃寺出土軒瓦 と同行!占苧文l[t干平 l : i( 豆 [[ 8-5-7) 4・8) 、複弁系'[[fJ L瓦 ([ ] : { 17-5・6) 、 E弧 文 ' [ 1 f' l e瓦 7一7)が出土している 。 l j i弁八葉市!丸瓦には平 ( 豆 [1 安│時代に下ると忠われるもの ( 図 7-8)があり、ま : Jに珠文を持つもの (図 た、外縁に重圏を持ち、弁 I カ{ I I' , J ーしており、 ' [ ( 1、 │ ι l i:は、大津市回目キ跡、と#津 di 花摘 JJ2 跡;から 11',土している!篠原官の 6646~型式から 二 次的に製作されたものといわれている 。 これは j I 長 : 原1 J f式の軒メUi:と組み合うものとされる 。ここから |よ1 1尽から平安 II.~ 代まで は、単弁系 ' [ l f丸瓦も 1 1 ¥上 し て お り 、 こ の 点 大 寺 遺 存続した可能性が高い 。 当廃寺周辺では、占 I 負H 、 j代 跡に似ている 。 ブj 、 高官 )Ø~ 寺とはわずかl.3 km ほど 7- 1)があって、 ミ引佐は、 初期から古墳の造営が柏;認され、 6世紀に入 って前 西);の f 立置にある竹ヶ免廃寺では、かつて数{聞の礎 方後円積を築くなど、 i l i l J北地方で,/ 1 止大勢力を持つよ 1 ¥され、それらは式内布¥ 1 必神社等に現ヂf ー し 石が掘り 1 うになる古代豪族の縦である息長氏の fl~ 拠地とされ ている 。 ここで出1:している i j i弁八柴判丸瓦(1豆1 ( 註⑥)。 従 っ て、当 )~~~T- は、息長氏の私寺 、 三大 寺 i l l助 、1 1 ¥1 _ ' のものに近似するもの 8-3) は であった可能性が高い 。また、 「息長の償河 Jが、天 I 述 は 飛 鳥 N f~J 、フ〈武r,VJ 末期]まで遡 で 、 従 っ て、自J ている 野川を挟んで三 大寺廃寺から j 去勝寺廃ぶまでの広い る。ま た 、 単 弁 │ 六 葉 お よ び 絞 弁 八 葉[ l 可丸瓦と均整 Eわれることから、 「抄 ' tJ I [のil1I P ;J 範凶を指すものと J 8- 1・2'4) は平城 1 Zのもので、 唐市文,[[+千九 ( 記 [1 もこれまでの醒井とする考えに必ずしも拘 i J eす る 必 奈良時代まで存続していたか、あるいは、この│時に r 要はないと与える 。このように、 「ご 倉吉¥ 1 邑j、 [息長 再建あるいは拡充された寺院と見ることができる 。 l ; 宮式の上L を茸く寺院が百L の横河」 にあっても、藤!J 竹 ヶ 鼻 廃 寺 は か つ て 発 掘 調 査 が 実 施 さ れ 、寺 院 に 関 直後に建立され、横 川 に当たると考える天世I'川を挟 連するものは見つからなかったが、古地時代前期!と んで、息長氏の氏寺と考えられる寺院がすでに存在 7 1 1 1:紀の竪穴住民、 7 1 1 t紀以降の掘立柱建物が検出さ 人間文化 ・ 1 9 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 一一 ♂ 心 h 予 〉 :i 出 ( IP 7 ゾ不日/ ,: ;\t.~\ ・! ‘ . . υJ f , γ γ 1 L : C 1 ¥ ケ つ : ぶ 下 う 勾 勾岐 立 悦 み 友 如 打 1 一 勺〈1 : " i J . . 為 勺 F やZ ~~;~~ゑぎ三F3 究大弓さ~ ~、怒るト~;::: '" I 3 j 去勝寺跡 6 三去{r";"' - 〆‘ し? プτ 丈7 13 1 1 ( 1-7:白鳳時代 、8・9:平安時代) 三大寺跡 (8地点出土 .湖東式) (A地点出土:藤原宮式) 米原町三大寺跡 ・近江町法勝寺跡位置図およ び出土軒瓦 図 7. れてい る ( 註⑦ )。 この ように、 「 犬 t .J lI の的」 にお 蔵の 1 , I i j界受 w と維の 4 fの記抜から、主 1 1 1 ]時代末頃まで いても、イ王池氏族 の氏寺 と考えられ る寺院に近接し 存続していたことが知 l られている 。 その前方の平野 て、壬 1 ' 1の乱 1 1 ' 1 後に JJ~ 原'品'と WJ わりのある 'Ill 1Lを立 I J T7 K J J ; l・北村 ・巾主 J I I J 八犬などで瓦の , 1 ' 1上 郊の野洲 I く寺院が建立 され、氏 寺 にあ っては、行 幸後に再建 することが主1られているが詳細は I Y Jかでな L、 。また 、 あるいは拡充がはかられたと 見受け られるのである 。 福林寺とは野洲川 を挟 んだ左 J f l側 に、守J I 市 主主須寺 件 │ 川 「 安 川 の慣に戦いて大きに破り つ」 とある野 i 跡があり、r'1 h 以j 切から 奈良時代までの軒瓦が, ' 1 ' , 土し 周辺、ある いは 「栄太の i f fを討ち て追う 」 とある架 ているが、"本書紀持統天 早 7年Jl月の条と 8年 3 太1 t 日では、野訓│ 川 イi 岸の 三上 山の焚に野iJ + 川 伺林寺 月の詔から、付近に開}誌の湧く場所があり、これを 跡がある 。 福体寺跡は、*守文占康平 1 13 イ I~ ( 1 1 0 1年) m いて 「諸の疾病人 J を療主主 しており、施薬 I~t 的な と長治元年 ( 1 1 04年) の弁官官旨では、天武 天皇の 1 ' " 1:絡を 1 . ¥ 'った守院であ ったと与えられ、持統天皇 か I 時、岩城村-主千十i 祢 が鋲設 │ 五│ 家を祈願して i l l立した寺 らの支援を受けていた ことがわかる 。 院と伝えている 。Y r城中JE.宿初、は H木書紀天刊 天皇 一 方、現花 の 草津市域で、盟問ト1. 栗太の I~~坊を流 3年 1 2) J 条に 「栗太郡の人芋;城村 = t Jとあり、渡米 れ る境 川の左 岸に、 花 M寺廃三 j とがあり、創建 J U Jの瓦 系の 人かとされている 。 このことから、計城村主は として、 I J 葉原宮式 6 2 7 8Dの品開¥ ' i l l i文複弁八葉 i l F f 丸J L 野洲 ・ 架太両 1~~ に勢力を持つ氏族と考えられ、福林 とl J 長原 1 与式 6 646Bの変形偏行忍冬R 1 7草文!/if 平瓦 ( 1 註│ 寺はその氏寺ではないかとされる 。 出土上 じ に│ 壬│ 鳳期l 9-1・ 2)が , ' 1 ¥土している 。 その 他 に 、 │ 土│ 鳳J U Jの外 の複弁八葉軒丸瓦 と四重弧文iIl f平瓦 (灰19-8・9) 縁 X状判 1 1 線文絞弁八葉 t l t丸瓦、 三 i T i 弧文粁平 瓦 ( 灰1 があり 、宣 旨の内芥を確認する こ とができる 。 その 9-3・ 4) 、奈良 . . .i ド安 H τ I 代の複弁 八禁軒丸瓦 、 均整 他 に奈良時代の 忍冬!青草文車│τ J Z瓦 ( s 19-7) と平 尼f ljl. 文・蓮華文 ~Ff .' [f 瓦 ( 図 9 -5~ 7 ) なとε が /1', 土し 時代の単弁八葉軒丸瓦および均笠唐辛文軒平瓦 安l ているが、 堂土佐の位置は不明で、 ある 。 この ぞ ' iの周辺 ( [ 主1 9-11・1 2)が出土しており、また、 三 t .1 社所 1 1 2km 以 内 の範[!~内には 、 2 0 ・人間文化 │ ご寺 ・志万 1 1 中 ・北大穴 ・長 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 高宮廃寺 竹ヶ鼻廃寺 ( 3:山田寺式、 1・2.4:奈良時代) ( 5 ~7 :藤原宮式) 図 8 彦根市高宮廃寺・竹ヶ鼻廃寺位置図および出土軒瓦 .芦浦・片│高!など、多数の地点から瓦の出上する UI 二する寺院は、野洲川左岸では主n られておら 瓦を I ことが知られている 。渡来系氏族との I !JJわりの強い ず、刻化のところ 、旧野洲川のil!.i 監原の南端辺りに 外縁に細線文 ) .!:施す' ! I f 丸瓦や法降寺式の ' l F f 瓦を出土 当たる境川左岸の花摘寺跡にのみ見られる 。その周 ~t f I Jの宝光寺 する特徴が見らるという 。特に、北大萱 I 辺には波来系氏族と│羽わりの深い寺院が集中して分 4 4 1年)によると、 跡は、興福寺官務牒疎(嘉吉元年 1 布しており、宝光寺跡、などは天武天皇勅願の寺とさ 白鳳 4年 ( 6 7 5年)に天武天皇の勅願により、併定 れるている 。 あるいは、野洲 川の氾濫原は架太郡に 恵により創建されたと伝えている 。 また、幅線文縁 及ぶものであり、また、架太 1 t1¥の石城村主の一族が や特異な単弁八業蓬1(f文、 1 1 ¥ 1に蓮華文を配して 三蓮 野洲郡にも勢力を拡大していることから、花摘寺跡、 ; i 捌r ; ( ' . f f r緩から直接的に 建立の後ろ!丙として、福林寺跡を考えることも可能 弁を十字形に施すものなど、 もたらされたと考えられる文様を持つ軒瓦が r ' I ¥土し である 。また、野洲郡域に限れば¥野洲川右岸の福 ている 。 林寺跡と前田平野音¥ 1に分布する寺院を含む範囲が有 このように、 「 安JlI }i栗太」では、 j 篠原宮式の軒 力であり、今後の調をによっては、藤原宮式の軒瓦 人間文化 ・ 2 1 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 花摘寺跡 福林寺跡 ( 1・ 2:藤原宮式、 3・ 4:白鳳時代、 5 奈良時代、 6・ 7 平安時代) ( 8'9:白鳳時代、 10 奈良時代、 1 1・ 12・平安時代) / / 5 1 君 主 宰E恥 ~~;.~よ三泊、 i 〆 、 c 込 ニ ミ 〉 B ハ""'-包ゃ早乙:-.N,~、 をこ?号白血 ,,--,~と ー ・ ζ ー 刊 明 記 " 9 5 ; : ? ; , 図 9花摘寺跡・福林寺跡等位置図および出土軒瓦 の新たな発見があるかもしれない。 しかし、いずれ 係のある瓦を山上する寺院が存在し、それを支える にしても、 「 安」の範囲をどう考えるかによるが、 ように在地氏族の氏寺と思われる寺院が分布すると 花摘寺跡の位置が壬申の乱の激戦地に含まれること いう共通した事象が認められるのである 。すなわち、 だけは否めない。 日本音紀持統天皇六年間五月の条に、 「 筑紫太宰卒 以仁から、 三大守跡、高宮廃寺、花摘寺跡、国品 河内王等に詔して日わく、 「沙門を大│袈と阿多とに 寺跡の 4寺│史跡、から、 藤原宮式あるいはそれを写し 遣わして、仏教を伝うべし 。復、大東の大使郭務保 た本薬師寺式の ~FI 瓦が IJ\ 上しており、壬申の乱直後 が 、f 副l 近江大津宮天皇の為に造れる阿弥陀{象上送れ」 に建立された ことが明らかであ るっそして、国昌寺 とのたまう 」 。 とあることや、万葉集巻二の 「 穂積 mほどの所、 今回発見された大型抑!立柱建 跡の北 3k Jして近江の志賀の 山寺に逃わしし!時、但馬 皇子に w 物に近接して在地氏族の氏寺と見られる大津市膳所 ;y.統天皇の父に 皇女の御作一首」の枕詞などから、 f 廃寺があり、同様に、 三大寺跡に対しては、天野川 対する強い気持ちを読みとることができるのであ mほど北側に 、この地付近を根拠地とし を挟んで 5k 篠原宮式の瓦を 出土する寺 院跡は、 壬 昨lの乱の り 、 j ーた息長氏の氏寺と考えられる法勝寺跡、がある 。高7 主 ; 際、その激戦地で敗れた関係者の菩提を弔うために 廃寺においても、わずか西方1.3 kmほどの所に、竹 建立されたのではないかと考えられるのである 。近 ヶ非廃寺が知られ、花摘寺跡では、今後の調査を待 接する寺院は、菩提寺建立に I A l J わった在地氏族の氏 ,たな ければならな いが、野洲川左岸の福林寺、ある 寺的性格のものと見たい。 また、この氏寺的なもの いは、宝光寺なとさ周辺の波来系氏族との関わりの深 は 、 8世紀後半に再建あるいは拡充が図られた可能 い寺院のいずれかが関連するものと考えられる 。 ま 性があり、聖武天皇行幸に際しでも重要な役割を果 た、氏寺等においては、同時に平城1?;式の車 l 瓦 を 1 1 ¥ たしたものと考えられるのである 。 土 していることが多く、行幸後の 8世紀後半に再建 以上のことから、聖武天皇は 、その東 国への行幸 あるいは拡充がはかられた可能性がある 。このよう において、不破までの問は天武天皇の壬時lの乱の際 に 、 壬 申の乱の激戦地に、藤原宮出土瓦 と密接な関 の経路をたどり、不破で 「 騎兵の司を解きて、京に 22 ・人間文化 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 還り入らし 」めて後の近江では 、横川、犬仁、野洲、 禾津と壬 " 1 0 'の乱の時に激戦地となった場所に頓 1 与を ったことにほかならない 。 最後に、壬 lドの乱や聖武天皇の束凶行幸について 置き 、持統天皇による近江 側側の人々の菩提を'15 う は、考古学的調査も合めて、まだまだ検討を加えて ために建立されたと考えられる寺院あるいはその故 いかなければならないが、本航は、)活所城下町泣跡 地を巡ることを目 的 とした行幸になっている 。天智 で発見された大型樹立柱建物 を 「 禾津の頓宮」 と考 天皇勅願の寺である 「 志賀の 山寺」へ参持Lしている えた│時に作成した研究ノー トとして見ていただけれ ことに加え、 i 領 宮が設世された場所が壬申の乱の激 ば幸いである 。 戦地 であり、かつて 、藤原宮に │ 刻わる 軒 瓦を茸く i J : 院跡が存在していた場所と重なるという考古学的事 [註} 象が、 一層この観を強くするのである 。また、 I L I 鳳 ①聖武天~ r 東国行幸」 行税記事情し日本紀抜粋) 期におJ I 建され、奈良 1 . ¥ '代にも存続している別の寺院 o ( 天平 1 2年 1 0月)r 巳卯 ( 2 6日)、大将軍大野朝国東 が近按するという共辿した状況が見られるが、これ 人等にあつめ円く、!朕 j tう所有るによりて、今 は、持統天皇による寺院建立に関わ った1' d也氏族の J J の末、瞥く │ 到来へ1tかんとす。 その時に非ず 氏寺であり、 l阪宵設 i 丘や行幸の実行に際しても、そ と難も、事己む能わず。 将軍之を主u りて驚伯.す の任を果たしたものと考える 。J / i所廃寺の場合、│与 べからず。 」 lほ J~J の寺院の廃絶後、奈良 |時代に場所を変えて Il}j主 or ご f :' 1 二( 291 1 )、伊勢のド│ に行幸す。知太政官事兼 7 禾 津 i I ! i l 宮 Jを離れる 式音1 1卿 i E二 位鈴鹿のl'、兵古│湖Ut中衡の大将正 際に、 「近 江 の 国 郡 司 に 佐 一級をl!易う 」 とあること 問位ド i篠原の ';OJI~i 豊 JJ.l(:を持って留守とす。 この されている可能性があるが、 と関連するのかもしれない 。 5 . おわりに 1、 1 1 1辺の耶竹谷村折i i 越の頓宮に到る 」 or 炎未 ( 30日)、!jl)お伊 f I国の名張郡に到る 。J o 卜-J J甲1/'朔 (H I)、伊賀部阿保頓宮に到り宿 r す。大雨 、途泥人馬波煩。」 行幸の途中、 12 月 6 日 、「坂旧の 1~~ 横川の頓宮 」 に至った日に、 「石 大 臣 橘 の 宿 祢 諸 兄 前 に 在 り て 発 し、山城の国私l 楽の 'HlI{j~ 仁 郷 を経略す 。 選者11 を擬す r o 乙酉 (21 : 1)、伊勢の 1 ] < /一志の郡川口の頓宮に到 るG κとを│刻宮と 3 1う。 」 るを以ての故なり 。 」 とあり、この l 時に始めて恭仁 or 丙戊 (3日)、少納言従五位 F大井の王、並びに 1 の意志が明確にされている 。 しかし京国 京への選者1 r l '臣忌部等 を追わしめ、幣吊を大神宮に奉らし 行幸が、伊賀 ・伊勢・美 世では、壬 ' : Hの乱の時の天 Rまります十か│ご │ 。 この目、大 む。車駕 │ 羽宮に f 武天皇 の進攻の経路をたどり、近江では、乱後に見 将軍*人等 言 す 。 jj!土台~,位阿倍野朝臣黒麿今月 られる持統天皇の行動を模すことで、かつての乱の 一 卜二.日丙 fを以て、逆 n 武広嗣を肥 f i i i岡松 i l iの 際と同様に、選都にあたって、再び彼らの協力を得 1]~11i直婦の烏長野村に trn らえ獲っと 。 詔報め FI く、 るための行動であったとすれば、選者1 1という 一 大国 今十 家事業は、単なる思いつきではなく、局到に準備さ 得るを知りぬ。 ( 1 1 1 告 )J れたものであったと与えることができる 。すなわち、 r o -r亥 (4日)、手1 [遡野に遊猟しめ、当国今年の租 を免す。J 天平 1 2年 1 0月26日に、 「朕 思 う 所 有 る に よ り て 、 今 月の末、 i!~r く附東へ往かんとす 。 その時に非ずと日ff o ,J 父子 (5日)、今月 一 けを以て、 肥前回の松浦の ttl~ に於いて、広嗣綱手を斬る巳に詑ぬ (略 ) J も、こと巳む能わず 」 。 という強い立志を持って行 幸が実行されたのは、選者1 1 の実行に際して反対勢力 n二十九日の奏を覧て、逆賊広嗣を捕らえ o r 乙未(1 2 日 ) 、車犯川 I~I より発し、 一 志の郡に至 りて宿す。 」 になると推察される大和の諸氏族に対し、畿外のこ れらの地域の氏族たちの協力を早急に取り付ける必 o ,丁酉(14日)、進みて鈴鹿郡赤坂の頓宵に至る 」 。 要があったからと考える 。 天武天皇と持統天皇の行 o r ' l : I 辰( 2 1日)、陪従の文武官、並びに騎兵及び子 動を模した背景には、律令体制 の動指期に、理想と ~4 等に詔して、 1~ 人ごとに 一 級をl!易う 。 但し騎 した 三都市J I を取ろうとしている笠武天皇にと って 、 兵の父 「 官 j は、陪従に在らずと難も、爵二級 6 8年前、天武天皇および持統天主が、壬月 lの乱の結 I を持った 果として、天皇 を中心とする律令官人体1I,J 理想的な政治支配形態を作り上げたことが記憶にあ を賜う 。 ( 1 1 1 告 ) o ,乙巳 ( 2 2日)、五位以上に総を賜う各差有り 。J o r 丙午 ( 23 日 ) 、赤坂より発し朝町l の ~I に到る 。」 人間文化・ 23 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 o1 戊 1/ 1( 2 5日)、桑名の ' m S, { j 占の頓宮に至る 」 。 o1 己円 ( 2 6日 ) 、 美濃の国首伎の郡に到る 。J o1 炭戊 ( 27日)、伊勢の同の高年百姓百歳以下八 Iりて、出一 間焚きて、寒いたる者を j i l i It日家に主J めしむ。 」 o o1 1 二 月発丑(1E!)、不破の 1 1 t S 不破の制宮に至る 」 。 oI Q' 1 r i(2I::l)、宮成寺及び曳常の泉に幸す。 」 o1 丙辰 (4日)、騎兵の百j を解きて、京に泣り入 郡家に及らんとするに、 」 …… 1( 朝I Y J郡の ) I W i i 圧の 1 1:を発 i i.を発す。 」 ・ ・ ・ … 「この日に、 す。 刊 行) 東山の l 天 皇、桑名郡家に宿りたまう 。 t ! I Jち停りて進さ I~~頭に新維の楽飛 ず。 (尾張大附という者が皇子を迎えて、私邸 騨の楽を奏でせしむ。 」 を ìl'J帰して行官をつくり、 ~.f:t を助成するとこ oI T巳 (5日)、美 濃の医11 t S 司及び百姓の労勤イI る宇f に位 -k &を賜う 。 ( 1 1 作) J oI r X :J ' 二( 6m、不破より発し坂 [ I Jの 1 t l S横川の頓山 にセる 。 こ の J I 、 ; { i大臣備の宿祢諸兄前に在り r 恭仁郷を経略す。選 て発し、 1 1 1 城の国十F I楽の君i ろがあ った ( 続日本紀) J 一一 1(大伴の皇子) *1 : l iにi i Iわす。 …・倭の京に遣わす。 …筑紫 l 国に遣わす。 … に追わす。 ……古制i J o1 丁亥 ( 27日) に、天皇、皇后を ( 桑名郡家に ) 儲めたまいて、不倣に入りたまう 。 郡家に及る 1を擬するを以ての故なり 」 。 者I ころはいに、一 野上に到りたまうに、 市皇 I I IJ 暫より参迎えて、-…天屯、ここに、 子、手n o1 己未(?J I) 、航川より発し犬仁の頓況に重る 」 。 o1 内寅 ( 4 1 1) 、外従六位卜調の述馬主主に外従五位 行官を野 tに興して居します。 」 o1 秋七月以Uil:朔半'% (21)に 、 J. . . . . .1 多臣品 下を授く 」 。 o1 辛円 (9日)、犬ヒより発しiIf i 生1 1 t S に到りて術す。 」 o1 ご F :I 文(011 )、 i i [ j 生l 1 t s の1 I'fより発し!野洲の頓宮に 治二 命して、 三干の衆を率いて、桁萩目?に屯 ましむ。 田中[;J:足麻呂を追わして。 倉}罷道を守 . .. . . I 1時に近江……数万の ~f< を率い らしむ 。J. y る。 j o1 炎亥 (111 )、野洲より発し志賀の t I 日 禾i i l 士の頓官 て、不 T~主を童話わんとして、犬上川の演に寧す 。 ...近江、桁 J :cを!放ちて、忽ちに 玉倉吉1 ¥邑を衝 に到る 」 。 o1 乙] : 0 3 F I) 、志賀の山寺に幸しイムを礼す。 」 o 1丙 7i~ (14F I ) 、近江の国t l 日司に位一級を賜う 。禾 津より発し山 7 Tの凶相楽 1 部玉チ: 1 の頓符に 至 る。j o1 丁タJ I( 1 51 1) 、 皇衛前に在りて恭仁の常に幸す。始 く。 op ' f' F( 一」 5 日 ) に、近江の ー…ー小 問、 IjW~ 111 を越 えて、合 1 ft.に詣る 。劇に営の 1 ' 1に人る 」 。 o1 乙未 (6日)に、小隅進みて 。 荊荻野の営を めて京都を作る 。太上天皇皇后後に在りて至 る。j 童話わんとして急に到る 。 . . . . . . 小 隅 一 人免れて逃 3の乱」進行及びi ② 大海人皇子 「 壬4 1 波乱記事 (1 1 本 げぬ。 …」 o1 丙I . j I (7日) に、児依等、近江の軍と、息長の 書紀抜粋) o1 六月辛酉 ( 2 1日)……速やかに 美濃固に往りて、 安八磨郡の i 易i 木令多品治に告げて、機要を宣ひ 棋i 可に戦いて破りつ。 ……」 o1 戊j 支 (9日) に、ゲ]依等、近江の将秦友足を烏 龍山に打ちて析りつ。J 示して、先ず 7 5 ・郡の兵を発せ。 なお、医l 司等に ふれて、諸軍を差し発して、述やかに不破道を J 美、今発路たむ」 塞け。 J o 1壬寅 03 日 ) に、リ.~1t{等 、安河の涜に i淡いて大 きに破りつ。 」 oI (甲申 ( 2 4日))夜半にいたりて隠郡に到りて、 l i @ . 駅家を焚く 。 ……伊貿郡に到りて、伊賀駅家を 焚く 」 。 o 1 あけぼのに に、 ';VJ I i f 1 J 1 t l Sの途太川の辺にして、 大J ! H大相1を望 J ドみたまう 」 。 …… 十歳以上のものに大税を賜う各差有り 」 。 らしむ 。 皇帝国城を巡縦し、 I jJ~)文 ( 26 什 ) o 1 丙午 07 日 ) に、栄太の~を討ちて追う 。」 o1 辛亥 ( 2 2日) に、男依等 i 頼回に到る 。 … ・ ・ ( 唐 橋での戦い)・ ( 25 日 ) 、荷萩野に至りて、暫く f!~ を停めて進食す。和殖の山口に至りて、高市皇 -大友皇子……僅かに身免れて 逃げぬ。 男依等、E! J Iち粟津岡の下に箪す。 この 日に、……三尾城を攻めて 卑 │ しつ。 」 「大山を越え o1 壬子 ( 23日) に、男イ衣等 、近江の将……を菜津 て、伊勢の鈴鹿に至る 。 …ー高田首新家等、鈴 市に斬る 。 ここに、大友皇子、……すなわち巡 鹿の郡に参遇えり 。員I J ちまた、五百1IIを発して、 りて山前に隠れて、自ら総れぬ。 」 子、鹿深より越えて遇えり 」 … ・ 鈴鹿山道を塞えんとす。 」 …… 「川出│の坂下に . . . . .1 すなわち、 三重の 到りて、日暮れぬ。J. 24 ・人間文化 o1 突丑 ( 2 4日) に、諸将軍等、忍くに絞浪につど いて、 …・ ・ 」 聖武天皇の東国行幸と壬申の乱 o I 乙卯 ( 26 日 ) に、将軍等 、ィ~ { , 政1 J (に も う ず 。 ( 1 :' 1 1 の乱の終結 )J \!) ,t 十1~ dJ 教育委 H 会 r XJ~'[ 山遺跡発品11 前iJ 1E概妥報告占 』 ( , t ・H l d i l . l l版 文 化 I H制 作 報 告 第 2 3集 oI 九) J 己王: 1 の す i j : J 丙r J 3 ( 8日) に 、 車 1 1 1還 り て 伊 勢 I ) に、鈴鹿に の桑名に M りたまう 。] 西 (9F 宿りたまう 。 !ねえ ( 101])に、阿 l 別に宿りたま r 1 9 9 2年) ⑤大j (1 ) ' j ' ; : r 府 杭 泣 跡 j (滋 白 川 教 育 委 員 会 ・JHI守│ 1 992{n i 1 、 人f f . 4白 川 文 化 財 保 護 協 会 ⑤ 白紙 L Z議・1i1 ; . , ; ' ( 司『 琵世 i 市J, ' i J 辺 の 61 "紀を掠る j う。 己亥 ( 1 11)に、名目l え に1 i ' iりたまう 。 j 瓦チ 0995年)・近 江 I / IJ 教 育 委 員 会 [白 、 長 L; tt f t l n ,1一泣 ( 12 1 1) に倭京に祈りて、 ' ' . ; ; _ 1 に住I 1 す。・ ・ ・j 跡詳細 11 分イIJ ;\J,~N(:11 白 , I;: _ j ( 0は約 111告) ~-~I: 1 1 ( [: ; ① 関係人物を中心とした 1 1 作系凶 0 . ' ; : ~:; 2 0集 (近江 I I J文化財調i' t ' 1 1 2 0 0 0 { I ' .) r f Jヶ弘括、He抗Ii調 N + l l; + ; . 手 ;J ⑦ 1ぎ tJ~ d i教 育 委 l i会 l ( , 診 十l u li . l l l 成文化l! 1調1tN l~i; 県犬養三千 代 0 │1 I L 宮子光明皇后 -参考文献 o 1本 市 紀 j " 1 1 ( 1本 1 ; ßI~ 丈学人;系 68 oU , J c1本 紀1 . lìín~i 第2 1集 1 9 9 1年) r { ' ; i 皮, 1 ; ) : 訂 1 9 7 8 { 1 .) ( 羽i け j 1 ' ; H I i II ICI~と人系 < ìH~ J 刻版 ) 1 1川弘 文 館 1 9 7 9イ│ 二) 聖武天皇45 一 O 弘文天皇39 天智天皇 38 元明天皇 43 引草 文武天皇 42 元正天皇44 W弘・ O小 ペ' ; 1 :J i ; l HI 主 ;' 1I 11' i l 川1 1 1リム・林 I d i J i i i 『 近i lー の1 1 ;代、) ' 1 沈J(989) 1 O州1 1 1弘 「近 i l ー の1 ; 瓦]] i M J I 川 .i , ¥ J J . 1ヒ 」 ( r 文化財教本シリ ー ス. J1 8 O州1 1 1弘 1 9 7 7イn 「 近江の I l i l l . I l l i N JJ . U 北 、l ' i " ; l i J ( f文;化l!1数 本 シ リ ー ズ1 .3 3 1 9 79 { l c) oP I . j 川 弘 「近 i [の 11;上LN i h Jr h2J r (文化財 教主シリ ー ス. J7 3 1 9 8 4イn 01 阿川 弘 「近江の 1. ; 土L X 大 il : i4J ( W文化財教'セシリーズ1 . 91 1 9 8 7ド イ) 子 皇 竪 A斗 nU 白王 天 天 武 OI : 殺到 り よ ! と航名勝 k然記念物,' J , ¥ J 作会 r;*~賀県 !と ~j'l t,lJ)l 天然記念物概要 .1 0936イ ' 1) 0 1干 之内徹 「 畿 |人.JJ,'iJ 辺地域 の }J~i lJ~('~'式 'IQ 瓦 讃 1皮 ・ 近i I ー を1 1 '心 と し て ー」 (r ~ 古学 iff 誌 j 第 68 -ß第 1 ~J 1 9 8 2年) 人間文化 ・ 2 5 論文 職業人としての教員を 考える 第1 節教員とは伺か 1 状は、 教 員 と 教 師 と は 異 なる概 念 私たちは i u f段、 「教 t lJと 「 教 師 」 とを I H k ? を fに │ズ t J義 z i Eとして使 っているし、 別せずに、ほとんど / ' k おお はし まつ ゆき 大橋松行 人間文化学部生活文化学科人間関係専攻 t H J j 凶免許状、特別免許状、 │ 即時免許状の 3純 1( 付 寸 lt 等 類 に 大 別 さ れ る 。 普通免許状は、学校の純主矧 ' ρ f 1 主 売 f t 校を│除徐く ) ごとの教:諭 命 l有 の免訂許一状およぴび、主養主;設企教 う 守 学 教f 汗 諭の免己司1 状であり、 それぞれ l似、ぷ与修 5免{色~ 許 , 午 1 乍 判 ; j ) 状 │ リ 伏 丈 j よ 心 、 午 r -符稀i~免 (>.~'I 許 f . ; f ! f i │僚に教育の / I t界においても、耐おはよく混T/Jされる 。 ; / 状 │ 伏 丈 人 、 , I , j { j はr Y Jらかに見なる概念である 。 教只と しかし、 1 校と ρ l 日 ' J校 の 教 口 i 1の 干 1 汗i 泊 l 凶』免戸許 1 午 刊 2 斗 4 状丈は、 各 教 科 に つ い て 授 いう場合は、近代教育制度によ っ て 川 市 ・'/,従を教 f jされ ( 約 4条 5JU)、 い ず れ も す べ て の 郎 道 J { . ) V , l 育することを目 的にして f l i l J ] 文化された学校におい で効力をイi する (第 9条 1J.ii) 。 ね )) IJ 免許状は、 ~t て、公的に認定された 校の干'fi~j'î t r栴をもって立凶作Jな教育 i , 1 j : 1)))に~~( / " Jに 従 事 す る 公 J [ i ' &-i1をiIう 。つまり、教員は、 I立している初等・ 学校制度としてM 1 ' 1~'i; . j~I'j~の科 J I I' , r 教育機関で咋ら教 f f活動を行う教育 l 俄1 1なのである 。 r 今i l t 孝次郎は、 ,教育-i' U とか r t xr : l / d という 1 ' ( 1 '等 教 T I ' 't校および幼祁│刈を除く)ごと (第 4 条 3 J f i l、 各 教 科 に つ [ i ' & 1 1検 定 の f 刊行.r,に授りされ ( 第 5条 2J t f ) 、 き教育 J の教諭の~(>.,i'l 状で、あり 5-1 0: 1 / ての 所 定 J Y Jl / U、 長 I j . f M. ( i 'の 都 道 府 県 に │ 浪り効 ) Jをイjーする ( 第 9条 2J [ i)ものである 。 臨 時 免許 状 葉が職業のいかんを問わず、教育的な影響) Jを 及 ぼ は、学校の純 ~ji す人々を 1~lj\JょくさしてJ/ J いられるのにおI し、 『 教 l lJ 諭の免前状および長波助教諭の免前状であり(第 4 ( I I/ '/,' 教育学校を I{J~ く ) ごとの助教 は 学 校 に 勤 務 し 、 体 給 を 受 け 取 って ' U ; I -を Uて る 教 条 4項)、 i l F i 邑免,t' 1 状を千1する才f を保用できない場 育l 紋μを心、 l はとしている J" と述べて、 「教 1 1Jを 隊員検定に介絡した者にJ 受与され 合に│以り、教育 l 1{fJゃ 「教日/ l iJのド位概念として f i I :; ' ; ; :づけて 「教 1 ( 第 5 条 5 J[f)、 7 J ゴーや教r: という場合、教 1 1以 外 に 、 家 出 いる 。 教 7 Jを有する ( 第 9条 3Jt) ものである 。 幼} w 3 イ|二 /IU 、授 Ij-f?~ 1tの郎道府県に限り I / や 学 内 地 ・刊 l i i校 の 教t f / l i 、さらには人としての 教日 i 生き ) jを教え諭す ; i i教 身 、 芸 , Jiを教える師 / I i :、 子 ど ( 2 ) 教 員免 許 状 と 取 得 科 目 ・ 単 位 l [ もの般を t う親なども合まれるのである 。 f r j 凶免,1' 1 ・状が十三 fj されるための rijí~ 資燃は、),I~ f!た このように概念卜.の│差別をしたうえで、以│ごで教 資約と大''lで申告 { : Jす べ き 最 低 q i .fV:数によ っ て I x J )リさ 員 の 適 性 と 社 会 的 使 命 に つ い て I論じていくことにす i 'iにおいては、 ,'i '11~ ~0. ,i午状は修士の lf: れる 。 基 従 資 t る。 た だ し 、 こ こ で 言 う 教 員 と は 、 学 校 教 育 法 第 l 条にどめる学校 ( 幼稚問、小学校、 校、大学、山等 ~1Ji.門学校、 ' ' 1 学校、出等学 宵学校、持学校、主主設/'{: f'f 、 一 稀免許状は学て/:のうを位、 て 干~T[ 免許状は準ヴ: ー / のF1;けがそれぞれ必裂である 。 また、大手:で修{与す r J 教職に│刻 べき最低単位数は、 「教科に│刻する科/ / 校 、お よ び ' 1 '高 一世 六 年i l l J の' 1 ' 等教育学校)のうち、 する科 / 1J, 教科メは教職に I~J する科Fl 教員免許状を必嬰としない大学:を除いた午:校に勤務 されているし、 J) ) I Jに 規 定 n ". 1 日・養護学校教諭については、 「特 殊 教 育 に │ 期する科 / lJの 最低 単 位 数 (点修免"午 する教員に限定しておく 。 47q l _ f, : 一利 免 許 状 :2 3q i位、 一種 免 , 1 ' 1 状 :13 状 2.教 員 免 許 状 と 教員 の 種 類 i j i f, l )"が 胤 定 さ れ て い る 。 教1 1に な る た め に は 、 公 的 に 認 定 さ れ た 資 絡 、 す 1免許状の取符に│刻しては、 i没 後 初 期 の 教 育 改 教1 なわち教員免許状が必~:であることは既に述べた 。 革 で 「開 放 i l J l 教1 1養 成 」 の 原則 が 成 立 し 、 そ れ に よ 教員免許状とは、教員の教!被専門的能力を社会的に って、教以免許状の取得が、教員養成を日 I'I~ とする 表 示 す る 資 航 証 明 のことである 。 そ れ は 、 教 員 免 許 特 別 の 大 学 ・学 部 ( 学 校 ) [ l i l / J I . 教1 1長 成 人 学 ・学 基準の定める基礎資絡を有し、 q i位 を 修 得 し た 者 ま たは教員検定の合終者に授与される(教育職封免司 法第 5条 。 ) そ し て そ れ は 、 校 種 、 教 科 、 学J 罷 ・' j i . {立修符状況などによる磁頒があり、有効 i m/íJ~ の有無 や適J/J地域主 事の条件が定められている 。 ( 1 )教 員 免 許 状 の種 類 教L 1免 許 状 の 種 類 に つ い て は 、 教 育 職 員 免 許 法 第 - 4条に詳しく 規 定されている 。 そ れ に よ れ ば 、 免 許 2 6 ・人間文化 部 ] だ け に 制 限 さ れ ず 、 一 般 の 大 学 ・学 部 ( 学 校 ) にも 1 m放され、そこで所定の教職に│泌する j i lJ位を取 得すれば教員免許状が授与されるようになった。 m文 化 例えば、滋賀県立大学の場合(主として人f 学部生活文化学科人間関係専攻および大学院人間文 関 係 部 門 )、次のよ 化 学研 究 科 生 活 文化 学専攻人/lU うになっている 。 ま ず 、 学 部 ( 人 間 関 係 専 攻 ) に お いては、取得できる教J.--!免許状は、 ' i '学 校 教 諭 一種 免許(社会)と高等学校教諭一 種 免 許 ( 公民)である 。 職業人としての教員を考える 5J J i )。教諭 1 1 4童の教 これらの免許状を 1 1 児科するために必裂な伝低Ijt 位数 代理し、Y..は行なう ( 第 28条 r i i tに関する科 1 :中 学 校 31 j 1 _ i は次の通りである 。救 J f i 2 8条 6項)。養設教諭:児竜の擁 育をつかさどる ( 白 位 、 n' J校 2 7 l j i イ立、教利に │ 見 l する平 I r I:'1'学校・ 護をつかさどる ( 羽 t ' i 2 8 ・ ' 条 7項)。助教諭:教諭の職務 校 [ n J とも 2 0 l j i位、教科Y..は教職に i 刻する科 1 ・ ' 1' 乍・校 8 8条 9項)。誠 n r l i :教諭メは助教諭に準 を l J } J ける ( 第2 単位、[';守j 校1 6単 位 、 文 部 行 令 で 定 め る 科 1 :憲法 ずる l 倣務に従事する(白( i 2 8条 1 0ば 。必護助教諭 o 養 r実 ( 2単 位 )、 従 成 ・ 体 } j科 学 I、 I ( 各 l単位 )、英 J 1 i 護教諭の職務をlJ} J ける ( 第2 8条 l l J . ! ' i) 。実習 l J } J I ( 2 'j i 位)、情報処 J ' l l i i 1 U' !1(1単位)、i I ' i '~II 利学概 験Y..は実刊について 、教諭の職務をlJ} Jける ( 第5 0条 論 (2 単位) コ。 また、大学院においては、 'ï; ),~Ntft 絡として、 「修寸: Jの学 f 立を有すること、 ② 免許二 1 1 ¥ 1 . f~] に必要なIji 位数として、 利一 免 ; i ' f 状を l [ . I lf~l し 4JJ' 3J 1 i )。 また、 校には、教諭ではあるが、専ら実 [ I I J 験や実刊に-tJ~ わる 「実例教諭」とよばれる教員もい る ( 川工に職業向校 ) 。 大学院の各研究科・専攻ごとに示す.j'2~ 科 11 のう ち、 24 1j i.fι 以仁を修得すること、と いう ~:f/l二 を満た せば、小学校教諭 l, ' , (f l 基免 , / 1 :( 社会 )、 f 1 1 1 1 t学校教諭 1, / 1 l f p;免許 ( 公民 )が取引できることにな って いる l 。 、 1 998イ 1 ') しかし、あいつぐ免司法改正(1988作 によ って 、 の ~:fí ~~、 ~a/f 基 iW i j i , f すがj( I ' /,Iに引き ー自立大学.' } : . m Sにおけ る救 │材難になり、 . 1げられ、そ u免許状取仰が r ) j J f} / i .; j I J Jの ) 1 三骸化が f ι ' I Hされる 。引 に、 1 998年改Li二によって、教 μ 免許状の取れ1~ f'1 で 第 2節 「不適格J教員の増加 さて、近年、救 11 を不明する.(í'がIW えている 。 y~ j ' l L '.生徒数の減少に}J I Iえて、長リ │く情造的粁済不況 の li(~ 科:もあ っ て、救 LH*} IJ ~A!~企は 'r 々 ,',','j f~"1;本をあい f ている 。 数人の保Jl J 枠に Í"Ii' 1 人もの受 !~91 .(í がチャレ ンジするケースも何ではなし、 。 競争は激しくなる J iである コ 救1 1採 J , J li A験とは、公山 l ;校教 1 1の場合、宅 己E試 μ ある教科と教 l 般の各 j I i位 十 ,' 1成が激変した 。 教利に W J 験、'k技法 l 段 、 l i l l技試験、中前)作、 ,l & h ' ,li f定、適性検 する科 1 1 の),~ i ¥ kr p .f.) が人 11111-~ に i"~ 少し、逆に、教職に 1 i 'な どの J ii lによって、 │刻する科 1 1および教科メは教 l 般に │ 主]する利 1 1が大 ' 1 ¥ , '1' か ら、教 11 としての能 力のれリ主を jÎ!i~;I,~ili, ( こ l,~ づ した 。 ちなみに、救科に, I J !Jする利 に増加 l 1では、 i J J 枕国 ・小学校の専修 ・ 千唱で 10ljtf立減 ( 幼:ffíl~il :1 6 → 6、小学 校 : 18→ 8、 ) 小学 校 ." 1 ' ; :校の L l J I修 ・ x 1 1免, i ' I状 l [ . I lf } :(予定 )者の . ! , 1 いて判定するも のである 。 私、〉学校教 1 ¥の場合は、 位 保 川 はうゴ:校単位であり、その際、無試験や1'1治体 i {立の)j!{~試験の ~:N ~~を参与にする場イ?などがある C ' 2験析をイf'U桁 40→ 20)、教職に I J A Jする科けでは、 純 で 20単位減 ( 教lH平川が選々によるのは、 ' 1 "学校の専修 ・-H iて: ' 1 2単位 l 将(19 → 3 1 ) 、 校の -f,に I[~ り、 '}:}j の他に取決な~ぷとして人怖を司'frlli 専修 ・一種 で 41 j i : ¥ f / : : l ' / l( 19 → 2 3)、教干 1 ) (は教 1般に し、~針作t'l の I ,. ' j ぃ-f,をJ1Iiぶという W\'~川 の 'jir lJによる 引。 │渇する利口では、幼稚│京│・小学校 の与修 ・ ・ H lで 1 0 つまり、教 1 1採JlJぷ験は、 「救 1 1としてふさわしい [ I I } m j I t 位j ' : ; r( 24→ 32)、 ' 1 '学 校 の 点 修 ・ 干' T lで 8i P _ f立 ( 専修 :2 4→ 32、 純 o → 8 引)、山校の 主 川 + 修 基 . i 唱 t 科 干 F i でI 凶6 . p, f 似 μ 点 h I : . t 増 t 目 jο (叩 . 巾 (予定) と思われる人 I I UJを選ぶための選別フィルターなの である 竺 そのフィルターをクリヤーしたおーだけが 「 救L l J になれるのである 。 1になりたいという 「 , ↑i U lJだけ したが って 、教 1 ている では教 Hになれなし、 。救 1 1係 川試験に合格するため ( 3 ) 教員の種類と職務 自給何一 ( l [ : } J、人的など) とをl f 耐えていな の資怖と i j (jわる救土i は、校長、教ば{、教諭、助 学校教育に f ければならないのである 。 また、その前従として、 教諭、講師、主主護教諭、主主護助教諭、実習助手であ 本人に救 1 1となるにふさわしい適性が備わ っていな る 。 職務権 I>l{については、学校教育法第 28 条 ":'i~ , 二次 1になれたから ければならなし、。 しかし、実際に教 1 のように規定されている 。校長:校務をつかさとり、 1が学校教育に携わるにふさ とい って、すべての教 1 所属 l 隊員を蛇'{干する(第 28条 3J J ! )。 教頭 わしい 「救 日 の 目 J( 指導 ) Jや 伝 頼 感 な ど ) を備え 校長を r M教 U ( 問題教員 )J 助け、校 I 去を盤明!し、7{び必要に応じ児童の教育を ているわけではなし、 。1 "' には 、 つかさどる ( 第 28条 4羽)。校長に中,';9:があるとき とか 「はずれ教 l lJとか言 われる 「 不適絡」教員も はその職務を代理し、校長が欠けたときはその職務 いるのである 。 これらの教員は、迎 t lと職業とがマ を行なう 。 この場介において教引が二 人以上あると ッチングしていなのである 。引に、 r i i j者 の場合には きは、あらかじめ校長が;とめた順序で、その職務を : j¥ , 、 と d える 。 その自主本が,' 人間文化 ・ 2 7 職業人としての教員を考える J i例をあげておこう 。最近の文部科学併 具体的な ι ( a p t i t u d e)という百業の章 l 床内容から見ておこう 。 二徒と適切な 1 1 J係を築けない公立 の調作で、児童・ I 械業、学業、芸術活 一般に、適性とは、ある特定の l の小 1 '' ( l l Jnし 高校などの 「 指導力不足」教員が年々 l 動などを効栄的に遂行するために必要な知識や技能 ていることがわか った。文部科学省によると、 2 0 0 2 J能であるよう などを学科によ って従仰することが I 年度に東京都、神奈川県、 l 岐阜県、広島県など 1 5 の な 11~1 人の諸特性のことを 言 う 。 つまり、適性がある 教育委 H会が、 r t 行導力不足ではないか」 と指摘さ i れた教 Hに、人: ' j 1 ' i ; J lIlシステムを連川し資自に関し ということは、現代その能力を仇しているというこ た認定作業を行った。 その結来、 2 0 0 0年度以降、指 たが っ て併在的能力をチiJ!iJする Jý! .ú: の諸~,H"I:であ Jわることであり、し ととは異なり、将米の予見に W 導} Jl i Jt.のために研修を受けた教只は延べ 3 5 1人 る。 また適性は、その j 円 切jと和│人の祁特'["[との迎合 ( 2 0 0 0年度 :5 2人 、 2 0 0 1年度:1 1 7入 、 2 0 0 2年度 [9 J11現在 J :1 8 2人) に上り、一方、現場に復加 したのは 6 7人 ( 2 0 0 0年度:1 8人 、 2 0 0 1年 度 :3 7人 、 2 0 0 2 {ド皮 1 2人) にとどまっていることが明 らかに 関係を示すものである 。それには外的適合と内的迎 合とがあり、前者ーは;、身体的、生理' l 的、!長党的、運 動的、知能 ( 1 0な祁側面 i について活動の 要求する条1'1 と存観的に迎合するか行かに │ 刻わるものであり、後 : 事の なった。指導力不必と認定した例として、 「 イ1 者は、併│人がそ の活動に│刻して興味、関心、自m 似 ! な 締め切りが:iuるなどプレ ッシャーがかかると仕事を とを/ f 'すか百かに W Jわるものである 。それで、!liit l :が 小学校)、「協調 ' 1 " 1 ・ に欠け、職場の干1を乱す o 休む J( 認められれば、人びとはそれへの動機づけを高める , 3! V 1j立いがきっく、誤解を招くことが多い J( 小学 校)、 1 1 昨日l 休 1 I 1 !lが多くプリントだけによる 学科が多 に教上i の述i 性について論じていくことにしたい。 いJ( 山校)、「アルコール依存で J 受業が満足にでき な し 、 J( 高校) などがあげられている 。 また、能力 不足などを JI I'~I=I にした校長や教訓の;(ìi "'11 降任 ilìlJ)支に J ことになる 川 。 このように理解したうえで、只体的 t r ( 1 ) 受業の専門家Jを目指すことができる人間であること i EJ 'i : するおにと って、約 まず、数日という職業に f J 主づく[,利T数は、 i l) J えを実施する 6教育委日会で 3 8 1 に ~~3J<:される適性は、 人 ( 2000 If皮 ~2002年度 ) ことができる人 I I Uであることである 。「授業の専門 とな っ ている 。 さらに、文部科学省の 2 0 0 1,1f) 文調査で、 │ 司年 ) j l Jこ 「 授業の.>J,[ I "J 家 」 を 11 指す 家」 に向けて日夜研鈴・努力することを版わない強 何らかの処分を受けた教 員は 、 3 , 9 8 4人 ( 前年度比 靭な立志と熱革、を持ちつづけられる付性を持ってい 14 人 wn で、このうち地 )j 公務 μj去に)~づく懲戒処 なければならない。 分は 1 6 6人噌の 1 , 0 9 3人で、免 J f i 故9 2人、停職 1 8 5人で 林竹 二は 、 「 学校教育の核心は、授業である 。 し あった 。「心の病」 で休戦になった教以も噌加│して たがって、教師i は 、 いる 。 2 0 0 1年度に、うつ病などの精神性疾忠で病気 れは、 ならない j リ }と言 う。「授業の I 1 1 門家 」 こそ、 院の期間を超えて休職になった教員は 2 , 5 0 3人 休H 教員に u f ちする教r.i i l であるというわけで、 ある 。 ー人 一 人が授業の早~1, rJ 家でなけ ( 前年度比 1 1%増、病気休職者の 4 8%) で、過去最 また、教員は、 「 常に子どもと同じ世界にいなけ 高を児新した 。粕 ネ1 [ 1性疾忠の休職者が在職者に占め ればならない j と主張する大村はまは、研究をしつ る割合は 0 , 27% ( 3 7 0人に 1人の割合) となり、 9 年連続して上昇している 7 b このような事例は、すべてとは言えないまでも、 づけることの必要性を次のように述べている 。「 な ぜ、研究をしない先生は 『 先生 Jと忠わないかと r j l しますと 、 子どもというのは 『 身の干~~~Jlらずに伸び その多くが本人の適性と職業とがマッチングしてい たい人』のことだと思うからです o ないことの結果であると 言 えるのではないか。 とり 進したくてたまらないんです。そして力をつけたく .... . . -.~主でも前 わけ、懲戒処分を受けたような教員は、もともと教 て、希望に燃えている 。 その塊が子どもなんです。 員としての適性を持ち合わせていなか ったと 言 って 勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているの よい 。 では、教員の適性として何が必~とされるの が子どもたちなんです。研究している先生はその子 か。そのことについて、以下で論じていくことにし どもたちと同じ世界にいるのです。研究せず、子ど よう 。 もと同じ位界にいない先生は、まず 『 先生 Jとして は失絡だと思います。・ ・ … もっ とも っ と大事なこと 第 3節 教 員 の 適 性 そこで教員の適性ということだが、まず適性 28 ・人間文化 は 、 研究 をしていて、勉強の苦しみと喜びをひしひ しと、日に日に感じていること、そして伸びたい希 職業人としての教員を考える 望が)J旬にあふれでいる ことです。私は、これこそ教 がまず第 lに求められる 。 しかし、授業だけが学校 師の資格だと思うんです J 1。 教育のすべてではなし 、 教員としてやらなければな j ( ) 至言である 。児童 ・生徒一 人ひとりは、それぞれ らない仕下は他にもある 。学級粍営、学校経営、課 に適性や可能性や能 )Jを持っている 。 それらを引き 外活動 の指導、生徒指導、進路折導、教育相談、校 出し、開花 ・育成させていくためには、 「いい授業」 務分掌、 l 隊員会議や各純委員会の会議、学校内外で をしなければならない。「いい授業」 をするために の研修など、教よ」の仕事は 広範問にわ たっている 。 は、教員は官~.に児童・生従と Inj じ世界にいて、彼ら したが って 、教 ~l は 「授業の専 門 家 」 である こ とが 一人ひとりにその適性や可能性や能力をシグナルと 第 1要件であるとしても、それだけで教以としての して表現できるチャンスを与え 、そして、そのシグ l倣占が果たせるわけではない 。 ナルを迅速かつ的雌に把握し て、それらを適切に ) J 育の専門家」 としての力一 世(知識や技能) を身につ もう少し Ipr~ 広く 「教 向づけることができるための J Jli1:を役得す るための けることが必要で、ある 。 それ に必~~な特 性が教員に 努力をしつづけなければならなし、。 それをしない、 は求められるのである c あるいはできない教員は、教員としての資桁に欠け F村哲夫は、教只に欠かせない知識 ・技能として、 ①教育内作 ・カ i 去に │ 羽する知識 ・技能、 ② 児童 ・生 るということである 。 徒に関する理解、 ③教育ないし人間形成に関する深 ( 2 ) 何よりも「人間好き j であること i l i j 察 、 い' 教員は、教員である前にそれぞれに人格を持った Z学校や授業をとりまく;百条1'1'に │ 期する干│ 学的認識の 4項"をあげた 。 これ らの総体が、教 L J 一人の人間である 。教員は職業人として 「 授業の専 に不可欠の知識 ・技能だということなのである 11 門家」 でなければならないが、同時に、児 l i l. 生徒 ただ、これらの知識 ・技能は、いずれも実際に救 i 肢 いい人間 J ) である たちにとって人生の先達(= I に就いてから、学校教育の現場の中で教 l~ としての ことをも求められる 。先述とは、 「 先にその道に通 体験を重ね、日々研鈴 . f : ii1主を続ける j E ¥f;l~ で、獲得さ 達して、他を導く人 J111 のことである 。 れていくものである む これらの努力を怠れば、単に 教員が、児童 ・生徒たち にと って人生の先達であ イ l ' 功を杭んだベテラン教師l にはなれでも、決して りうるためには 、 教員にそれにふさわしい 「 権 }~ J 「 教育の点門家」 にはなれない。 たゆみない向己啓 が備わっていなければならない。その 「 権威 jとは、 発の努力が必要なのであり、それを厭うような人間 それによって影響を受ける 側 の者(=児童 ・生徒) は教員には向かないし 、その資絡もないであろう 。 から、内面的な承認を得られる よう な性質のもので では 、「 教育の専門家」であるためには 、 i f 受業の なければならない。 なぜなら、児童 ・生徒は教員の 4 1 1門家」 としての特性と「いい人 I f I 1Jとしての特性 言動が自分の価値観と一致するときに内而的な承認 を具備していること以外に 何が必要 なのか。 それは をI jえ、それに従うからである l 九 必ずし も一線ではない 。幼稚 │ 刻、小学校、中学校、 この ような権威は、教員が大人であるから備わっ 高校、宵・ 聾・養護学校等のうち、どの学校の教育 ているというわけではなく 、教員と児童 .L I : _従との に扱わるのかによってそれは異なるし、また、 「進 l 討に双方向'1'1:の 「 関係の構造」が椛築されていく過 学校Jとか 「 名門校」 と言われる学校の数日と 「 困 程で形成されていくものである 。 そして、教員一児 難校 jとか 「 底辺校」と百わ れる学校の教員とでは、 童 ・生徒 │ 刻係が信頼関係にまで高め られて 、はじめ 必要と される教以としての適性が異なる 。 て教員の権威 d十全にその威力を発附す る。 このよ 例えば、小学校の教員は、基本的に学級担任をし うな水準にまで高めるためには、教員は何よりも 1当しなければならないの ながら 一 人で全教科を 1 「人間好き 」 でなければならない。教員という仕事 で、それができる教員である ことが求められる 。 だ は 、 「人間を対象とする職業」であるからだ 1:110 が 、 中学校や高等学校では、 特定の専門教科や科円 r 人 聞が好きである 」 ということは、「いい人間」 であ により精通していることが求められる(求められる ることの基礎的要件である 。 教科・科 "の専門性は、 一般に t 学校よりも高校の ' ' ) jが高い 。 ) また、高校段階では、「進学校 JI 就l 殿 ( 3 )I 教育の専門家」になれる人間であること r 校 J 底辺校 j といった地位分化が、学校間で顕著 教I 般が専門職である 以上、それに従事する教員は、 になっていて、このような地位分化に対応する形で、 I t 受業の専門家」 としての職業的要件を満たすこと 個別の学校文化が形成され、維持されている 。各学 人間文化・ 2 9 職業人としての教員を考える 校には 、それぞれ独自の 「 チャーター」があり、教 ことができる 。彼らと!日l じF I 線の高きで見守り、彼 員集 │ 宣│ は 、 それを維持したの、改善したりする方向 J 寺には彼らに共感する らの考えや意見に耳を傾け、 I で、教育活動を組織している 。チャ ーターは、 一般的 ことによ って相互理解が深まり 、「 教育の場」を共 には、 「ランクの高い ( 進学チャーターをもっ )高 有する ことができる 。 「共に学び合える人間である 」 校ほど、威 信の itj い知識を伝達し、 ~'F 価配分システ ことは、良好な教員 ムがきびしいものになる 。逆にラン クが低くなるほ くうえで必要不可欠の特性なのである 。 児童・生徒関係を構築してい ど、管理統制システムがきびしいものになる J1引 という形で機能する 。 したがって、向校の教員の場 合には、このような地位分化 に適応できる特性を持 っていることも、 「 教育の専門家 」 として必~な条 件の一つなのである 。 ( 4 ) 共に学び合える人間であること 教員に求められる適性は、その他にもいくつかあ ろう 。 自然や人 1 1¥]をありのままに受け入れることが 第 4節 教 員 の 社 会 的 使 命 1第 1の社会的使命 教員の社会的使命とは、究極的には教育基本法 ( 19 47年制定) に明記された目標を遂行するために 努力することにある 。では、教育基本法に植われて いる教育の日椋とはどういうものなのか。例えば、 前文には、 「 個人の尊厳を重んじ、 1 2理と平和を希 求する人 I l I J の育成を W Jするとともに、普遍 的にして E義!ぷをありのままに表現 できたり、愛情や情熱や I しかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を判及 できる豊かな感性を持ち合わせていることも必要で 徹底しなければならない 」 とある 。 第 l条では、 ある 。 とりわけ、教育の世界にもハイテクノロジー 「 教育は、人絡の完成をめざし、平和│な国家及び社 が導入され、コンピュータなとの最新機器を使った I 他を 会の形成主;として、兵理と正義を愛し個人の自j 技術主体の授業が数多く行われている今 日、特にそ 1を重んじ、自主的精神に充ち たっとび、勤労と宣 1 のことはiJ!:~である 。 授業の技術は必要であり、多 た心身ともに健 t j{な同氏の育成を W JJすることが、 様なハイテク機器を使いこなすことも必要ーである 。 「 教育の目的 Jであると謡っている 。そして、 「この しかし、それだけでは教員の心や思いは児童 ・生徒 目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、笑 に伝わらない。教員は 「人聞を対象とする職業」で l ! Jし、自発的中市神を養い 、 白他の敬愛と協 │ 努生活に l I J l ある 。 しかも、成長 ・発迷段階の兵一只中にある人I 力によって、文化の創造と発展に貢献するように努 を相手にする職業である 。児i i : J.生徒は生身の人IllJ 第 3条)のである 。 めなければならない J( であって、機器によって操作されるモノではない。 i 文や条文に謡われている教育に│主l する これらの]II そこでは、生身の人間と人間との関係性がMよりも 文青 は、きわめて t l J l 象的であり、理念的である c こ 必要とされるのである 。 児童 ・ 生徒と同じ U~~ の I"} ll!念としての教育を、学校の教員は 、全体のが仕 のf さで向かい合い、彼らとともに長び、悲 しむことの 者として、自己の使命を自覚して遂行するよう努め できる豊かな感性が教只には不可欠なのである 。 なければならない、とされているのである(第 6条 他にもまだ、教員に求められる適性はあるであろ 2J 兵)。 う。その中で、いま 一つ強調しておきたいことは、 しかし、実際に教員が職責として遂行するよう求 教員は 「 共に学び合える人間である 」 ことが必要だ められているのは 、 理念としての教育というよりも、 ということである 。佐藤学は、 「学 びj を 「モノ むしろ制度としての 「 教育」の方である 。佐藤文隆 ( 対象世界)と 他者と自分との対話的笑践 J1がと定 は 、 「 教育においても同民国家の成長 ・拡大と 『 教 義している 。「学びj は 、 モノ ( 教材、あるいは対 育j との結びつきは歴史的に明確であり、教育の将 象山界) と対話し、他者(児童 ・生徒や親や他の教 来を考える│僚にも、将米の国家イメ ージとの関係が 員など)の考えや立見と対話し、自分自身の考えや 重要な意味を持ってくるように思える j と述べて、 床 意見と対話する実践である 。「学 びJは、その立 l 「 教育」は 、 「 学校という制度によ って作られた人間 で、認知的 ( 文化的 )実践であるとともに対人的 観」 に拡張して考えておかなければならないと指摘 ( 社会的)実践であり 、同時に自己のあり方を探索 している 出 。 つまり、現実の教育は、国家日標と結 する実存的(倫理的)実践である べ と佐藤は言う 。 びついた 「 教育 」の次正において機能するように、 共に学び合える教員ならば、必ず目は児童 ・生徒 国家システムの 中に組み込まれているのである 。そ の方に向く 。そして、彼らと同じ世界に入っていく れは、「さまざまな社会状況の将来予測を踏まえて、 30 ・人間文化 職業人としての教員を考える r 教員の似J I から児童 ・生 将来の社会で有為な生活をおくれるよLしになる教育 むにつれて増してくる ; " という ことが 『 教育 jに託すること 」なのであって、 従に I~IJ か つて 歩いていく 」 とは、端的に 言 えば、学 したがって、あまり例性 的 なことは、 「 教 i ' 汗 守 t ,1 了Jに託 校という 1 11:界を児童・生従の すべきでなしい、い』 床している コ ここで言 び」 の場にしていくことを怠 l そして、このような「教育」を、教員が 「全体の 奉仕者Jの名の Fに進行することを、同家は求めて r n分探しとしての学 う 「学び」 とは、 一 人ひとりが個として生活し、個 と例のすり合わせをとおして学び合い、文化的笑践 いるのである 。 この 「 教育 」が、理念としての教育 して、人と人の述 f i ?を築きあう と社会的災践に参加 l を具現する方向性をねったものである場合には、そ J j ) j} i j iを構築し' U l iをデザインするものである お 。 学 l:!う教員の役割は、文字通り 「 十1 : 会的使命」 と れを t 校十│会をそのような よぶに値するであろう 。 それはまた、教 t lにとって 1 の数日に求められている いくことが、何よりも今 1 第 1の社会的使命でもある 。 のではないだろうか。 2 第 2の社会的使命 第 教員の第 lの社会的使命は、/{:校という人 f H Jの集 rびの共同体」 に!呼構築して l [: 5節 定 時 制 高 校 の 変 遷 と 教 員 像 私は、大学の教員になる前に、 1 8: 1 :問 0 9 7 7 { f : ニ4 団を作ってやろうとする 「教育 」 の 1楳を、│ 玉│ 家 J l-1 9 9 5イ│ 三3J j)公伝定時制高校の教員をしていた 。 │ 均・社会的レベルにおいて達成できるよう努めるこ I c ¥ ' f f j I J μ校 そこで、以後に荘、の粁験を踏まえて、じと I とにあるが、それとリンクする )I~ で、伽|々の児 ììi: ・ の救Llf象 jについて述べておきた L、 ただ、私 f l身 、 生徒レベルにおいて、彼らの独自性や個性や i 並 W I 二 な ¥ : l j I Uii'了を離れて 8{I~ の 成 J J が iたれている ので 、 定 1 I. とを自分で見定めて、将米の方一向を i } とめることがで 品近の定 1 1 . ): 札 口j校の実態については、時折かつての きる 「 機会 j や「材料 」 を提供することが教員に求 L I分1'1身で現状を見たり、かつての同 戦場を訪れ、 I められる 。これを第 2の社会的使命とよんでおこう 。 僚から話を│却し 、たりして 似た j J I 比に必づいて述べざ 河合隼 . J i j [は、教員は「一般性のあること 」 は fど るを引ない。 したがって、参与 r m察によって得た知 1 : 参与 r l ' J i .祭に よって似た知 l 見とがi 昆在している 凡と ) もに教えることはできても、彼らの独白性は教えら 1 1 から生まれる れない。独自性とか例性は、本人の 1 が、そのことをあらかじめ断 って おかなければなら のを待つしかない、と指摘する 一方で、子どもは、 ない。 あるれ度の社会性を踏まえてうえで " 1 1己主娠すべき であることを学校は教える必要があるとも述べてい るヨ ヨ この指摘は、学校や教員は 「教える Jことも 必要だが、 「教えることだけが灼'き 」 では、教L1の 1 定時制教育の変遷 まず品中Y Jに、定時制教育のt:遣について概観して おきたし 、 高校の íël l.ï'iliIJ ~財宝は、 1 947 年 3 r J3 1nに 第 2の社会的使命を遂行することはできない、とい 公布され、翌 4 8年 4J11 1から施行された学校教育 うこ とを立味している 。「 教える Jだ け で は 、 児 法により設置された新しい学校制度である 。 制定当 童 ・生徒の独自性や例性の芽を摘み取ってしまう危 H 主の学校教育法においては、定 H 寺制課程は次のよう 険性があるからだ 。 「教える 」 という行為は、学校 に胤定された 。 ①第4 4条 p員 :高等学校には、通常 や教口が設定した一定の教育目標に沿って児童・生 の訪~f'f の外、夜間において J受業を行なう諜程又は特 徒が思考し、行動するように方 向づけるものである 。 別のI I C ¥ e !V l 7 . え び1 f : ' fl i Jにおいて授業を行なう諜程を世く そこには佐々にして、学校や教 ことができる ~ I uの自lIi 値観が . ) J的 0 ~第 46 条・高等 /'j: 校の修業年 I~艮は、 に注入されることによって、児屯.' t従 が│ 司じ色に 3年とする 。 f l l . し、特別の技能教育を施す場合及び 染められてし、く、すなわち「子どもが特定の枠の中 第 44 条第 1 項の i黒字i! を世く場合は 、 その修業年 I~H は、 に強制l 的に押し込まれ、それによって子ども自身の 3i l ミを超えるものとすることができる泊 。 本質的なあり ) jが削りとられ 規格化され i r ' [ されてい くJ" 、そういう危険性が |人~ {j二している 。 そこで、教員が第 2の社会的使命を果たすために i i . J I . ¥ e制諜程は、教育基本法第 3条の 「 教育の機会 均等 」のあ' H I II'o に基づいて 、 11学校を卒業して勤務 J l l l t l で全日制の高校に に従事するためなど、種々の J 1 5少年に対し、 は、教員の側から児 1 1 1・ 止. 1 : 従に l i l J か つて歩いていく 進学できない ことが必要である 。 しかも、その必妥性は、小学校 を与ーえるために設けられた制度である C 特に、 よりも中学校、中学校よりも高校と、学校段階が進 の復問の諜程は、 I F I 制中等学校の夜 I I J謀科を継ぷし J J J校教育を受ける機会 : , ) 校 1 1 人間文化 ・ 3 1 職業人としての教員を考える たもので、 1 947年 1 2月 1 7日に、学校教育局長から都 大の要凶は、赤字地 ) j公 共 団 体 の 急 地 に 伴 っ て 、 道府県知事宛に出された 「 新f l i J l 高等学校実施準備に 1955年に 制定された 地方財政再建促進特別措置法に 関する件 」 では、次のように 述べている。 ある 。 この法律によって 、 l 四9 臼 54 " 年 下 │ 三 ) 度 支 以 以 、 ! ド 降 : 咋 未 、赤字団イ 体 本 r I 日制 ~I ' ι 等学校の夜間諜校は、その科度からいって、新市J I ,, ' ,) : は寄 f 付 4金等の支 l 山 1 ' , が制 │限以されることになつた 。元来、 l i j課程として移行するのは何 のさしっか 等学校の夜 I 者初都11 道 H 庁府一~J り県 ;Z{ 立定 l時時i制 lí削 J対恥リ えもないものであるから 、その殆ど全部が新制高等 の経到賀施設設備の 1 整 在 似 備l 費 賀, や 運 ? 骨 ヲ 背 村 ; ゴ1 釘 t わ) は 、 設i 丘者た 学校の夜間諜程になってよいと考えられる J;;'0 る都道府県が負担すべきものであるが、分校の場合 発足、 ' i 時、定時制の課程は、夜 I I Jにおいて J 受業を f iう諜松 は、地元市 I I J村の語、 志によ って設立されたという開 ( 夜間の課程) と特 別の│時間または l 時期に 設当初の経緯から 、地元市│町村が都道府県に対する おいて授業を行う課程 ( 狭義の定時制の謀程)とに灰 ;寄付という 3 1~ で、その経伐の大部分を負担していた 。 日 J iされていたが、 1 950年の学校教有 i lの」古1改正に しかし 、 この tbイサ の支 IU ~iIJlli~ 措置によ っ て、 亦 字の よって、 「 夜間その他特別の H 手間父は l 時期において 地元市町村の分校経~. ~:ft!抱金の支 出 が析しく l末|難と 夜来を行なう諜紅」 となり、これを定 H 主制の課程と なり、この結果、分校の統廃合が促進されることに 称するようになった 。修業年限については、 なったということなのである 山 。 を超えることができる Jとされていたのを、 r 3年 r 4年 次に、生徒数の舵移について見ておこう 。 生徒数 対象とする課程で、全日 市 J iの3 年分の教育をこれと も学校数と i l i J 線、発足以降しばらく増加│ 傾向 にあっ 949年 ( 1 昭和 2 4 ) から 19561 た。 1 下( 昭和 31)まで、 全く同等のれ度および内容をもって行うには披低 4 全生徒数に対する定時制生徒の比 率は 20%を組えて 年を裂するとの判断によるものである 訓 。 いるが、以後、高校進学率の向上に 伴 って、占 有率 以 上 とする 」 に改められた 。 これは、勤労青少年を 1 953年 8J Jには、勤労占少年数千t の重要性に鑑み、 は急減している 。他 h、g 三1 ,[数は、 1 960年 ( 附和 35) 教育基本法の精神にのっとり、働きながら学ぶ青少 から 1 962年 ( 1 協和 37) まで急減しているが、それは 年に対し、教育の機会均等を保障し、勤労と修学に 次のような原因による 。 第 1に、 1 2村地帯において あj する IE しい信念を確立させ、国民の教育水準を ~I三 は 、 1 960年以降青少年の都 d J 'への流入が急 I 自し、そ 沌能力の向上に笥・ I Lするため、高校の定時制教育お の結果、定時制高校 ( 4.~ に昼間 i.iJI 問 IJ)に進学する よび通信教育の振興を│立│ ることを H的として、 年齢層の青少年が減少した こ と。 第 2に、その減少 r 1 , : ) 等学校の定1 1 寺I I ) J 教育及び通信教育振興法Jが制定さ 数に見合うだけ、 郎会に多い夜 間定時制の生徒が増 れた 。 この法律に基づいて定時制教育および通信教 えなかったこと 。 第 3に、日本経済が尚度成長期 に 育のために必要な設備費等に対し位│ が補助を行うこ 入ったことによって、全日制高校への進学者が増大 ととなり 盟、国庫補助は次第に地徹されてい ったの したこと 。 第 4に、当時の定時制 の教育が、人的 ・ である 。 さらに 、 1 956年 6月には、夜間の定 H 判i リ 諜 物l i サ諸条件の不備およびそれに基づく教育内平等の低 程に学ぶ生徒の健康上の I l i j題を解決するための 一つ 位性のために勤労庁少年を引き 付 ける魅力に乏しか の }j 法として、夜 IHJ ~学校給食の実施に |刻して必要な ったこと 。 そして第 5に、家庭の事情(貧困)、職 事項を定めるとともに、その背及を図るために、 場の事情 ( 雇用主の ! ! O l I U 呼)など勤労青少年の就学を 「 夜間諜程を i l lく高等学校における学校給食に関す 阻害 している社会 的・ 経済的要因、などである 九 る法律 Jが制定され、施設の建設費や設備 費につい て凶の補助が行われる こ ととなったのである 知。 l さて、昭和 2 0年代から 30年代における公立定時制 高等学校数、生徒数の推移は、表 1、表 2の通りで ある 。 では 、現花はどの よ うな状 況 にあるのか。次に、 それについて見てい こ う。 2.定時制高校の現在 今日 、 中卒者の大半が高校に進学するという、い まず、公立定時 f l 川高校数の推移について少し考察 わゆる「高校全入時代」 にある 。 ちなみに 、滋賀県 しておこう 。学校数は発足以 降、 しばらく増加傾向 の 1996 年度から 2000年度における高校進学率は、そ を示しているが、本校では 1 955年度 ( 昭和 3 0) を境 れぞ~'l 96.8% ( 1996年 度 )、 96.8% ( 1997年 度 )、 に、また、全体では 1 954年度(昭和 2 9 ) を境に減少 96.9% ( 1998年度)、 97.2% ( 1999年度)、 97. 3% に転じた 。減少傾向は、本校は 比較的緩やかである ( 2000年度)となっている 。また 、生 徒 数 ( 2000年度) のに対し、分校は急減している 。分校が急減した最 1 で見ると 、全日 制 4 4 . 556人、定 時l f i J l, 315人となって 3 2 ・人間文化 職業人としての教員を考える X 1 百和 2 4 2 5 2 6 2 7 2 8 2 9 3 0 3 1 3 2 3 3 3 4 3 5 3 6 3 7 3 8 3 9 .2 4 、 0 1 1 )1 表 1 公立高等学校数の推移(昭和 24~39 年度 ) i . E1 時i l i リ 訪 : ね 全 r I ~ilJ 総数 本 課程だけ 3 . 2 9 1 3 . 3 8 8 3 . 5 7 7 3 . 6 0 6 3 . 6 6 7 3 . 6 9 5 3 . 6 8 8(3 ) 3 . 6 3 6(4 ) 3 . 6 1 8(6 ) 3 . 5 9 7(6 ) 16 ) 3 . 5 8 2( 3 . 5 2 7(27) 3 . 4 9 1( 3 6) 3 . 4 8 4( 5 0) 3 . 5 9 4( 5 5) 3 . 5 7 2( 7 8) 分校 U己lI. j ; l J J I " 担 れtだ け f J j : i ; " ' , 7 2 2 6 3 5 6 3 5 6 6 7 6 8 8 7 0 2 7 0 7 7 4 6 7 7 6 81 8 8 6 0 1 .0 0 3 1 .0 4 3 1 .1 5 3 1 .3 3 9 1 .4 3 1 十 支 1 .1 2 7 1 .1 3 7 1 .2 0 4 1 .2 2 6 1 .2 8 0 1 .3 1 4 1 .3 3 6 1 .3 3 5 1 . 33 8 1 .3 2 2 1 .3 0 8 1 .1 8 6 1 .1 8 7 1 .2 0 4 1 .2 1 5 1 .1 8 4 1 9 8 2 2 9 2 3 2 2 4 4 3 3 8 3 3 0 3 3 7 3 2 0 3 1 7 3 3 2 3 3 1 3 2 5 31 3 2 6 2 2 3 7 2 2 6 1 . 32 5 1 .3 6 6 1 .4 3 6 1 .4 7 0 1 .6 1 8 1 .6 4 4 1 .6 7 3 1 .6 5 5 1 .6 5 5 1 .6 5 4 1 .6 3 9 1 .5 1 1 1 .5 0 0 1 .4 6 6 1 .4 5 2 1 .4 1 0 、 正 仁 〉1 1 .2 4 4 1 .3 8 7 1 .5 0 6 1 .4 6 9 1 .3 6 1 1 . 34 9 1 .3 0 8(3 ) 1 .2 3 5(4 ) 1 .1 8 7(6 ) 1 .1 2 5(6) 1 .0 8 3( 1 6) 1 .0 1 3( 2 7) 9 4 8( 3 6 ) 8 6 5( 5 0 ) 8 0 3( 5 5 ) 7 3 1( 7 8) 1 1 1 三 2 . 5 6 9 2 . 7 5 3 2 . 9 4 2 2 . 9 3 9 2 . 9 7 9 2 . 9 9 3 2 . 9 8 1 2 . 8 9 0 2 . 8 4 2 2 . 7 7 9 2 . 7 2 2 2 . 5 2 4 2 . 4 4 8 2 . 3 3 1 2 . 2 5 5 2 . 1 4 1 2 5 年の数字は 「文部省第 7 7 ・ 78年 ~llJ 、 26 -3 9 {þ は文部省 ;j,Hì' };;J 統計課の各 年度「学校 基本調交」 によ った。 2 . ( L U所 )1付 は全日 ílilJ~肘E の分校で外数である 。 なお fìl:i可という の は全トl 市 IJ と定時制の両諜 殺をおいているものである 。 長1 1三男・尾形利峨 『夜間中学 定時制向校の研究 j校合書房、 1 9 6 7年 、 p . 17 4 。 表 2 高等学校生徒数の推移 ( 昭和 23~40 年度 ) 比ごご 全I I / i i I J課程 % 昭和 2 3 2 4 2 5 2 6 2 7 2 8 2 9 3 0 3 1 3 2 3 3 3 4 3 5 3 6 3 7 3 8 3 9 4 0 (註)本表 は文部省 1 .2 0 3. 9 6 3 (00) 1 .6 2 4 .6 2 5( 1 0 0) 1 .9 3 5 .1 1 8( 1 0 0) 6 2 (0 0) 2 . 1 9 33 6 9( 10 0) 2 . 3 4 2‘8 2 . 5 2 8 . 0 0 0 (00) 2 . 5 4 5. 2 5 4 (00) 2 . 5 9 2 . 0 0 1 (0 0) 2 . 7 0 2 . 6 0 4 (00) 2 . 8 9 7. 6 4 6 (0 0) 3 . 0 5 7. 1 9 0 (00) 3 . 2 1 6 . 1 5 2( 1 0 0) 10 0) 3 . 2 3 9 . 4 1 6( 3 . 1 1 8 . 8 9 6 (00) 3 . 2 81 .5 2 2 (00) 3 . 8 9 6 . 6 8 2 (0 0) 4 . 6 3 4. 40 7 (0 0) 5 . 0 7 4 . 0 5 9( 1 0 0) 守 % 1 . 0 3 2 . 9 8 1( 8 5 . 8) 1 .2 7 7 . 5 2 3( 7 8 . 6) 1 . 5 2 2 . 6 6 3( 7 8 . 7) 1 . 69 9 . 7 4 4( 7 7. 5 ) 1 .8 1 0 .4 0 4( 7 7 .3 ) 1 . 9 5 0 . 8 3 8( 7 7 . 3) 1 9 8 8 . 5 2 4( 7 8 . 1) 2 . 0 5 0 . 2 8 6( 7 9 . 1) 2 . 1 5 6 . 7 0 0( 7 9 . 2) 2 . 3 5 6 . 6 6 6( 81 . 3) 2 . 51 7 . 1 4 1( 8 2 . 3 ) 2 . 6 7 0 . 0 3 9( 8 3 . 0) 2 . 7 2 0. 4 1 6( 8 4. 0) 2 . 6 5 0 . 2 2 7( 8 5 . 0) 2 . 8 30 . 4 2 0( 8 6 . 3) 1 ) 3 . 4 34 . 0 3 8( 8 8. 4 . 1 5 2 . 2 5 0( 8 9 . 7) 4 . 5 5 9 . 7 5 7( 8 9 . 8) 定 1寺I 1 i リ諜れ 1 7 0 . 9 8 2( 142 % )│ │ 3 4 7. 1 0 2( 214) 4 1 2. 4 5 5( 213) 4 9 3 . 61 8( 2 2 . 5) 6 5( 2 2 . 7) 5 3 24 5 7 7 .1 6 2( 2 2 . 7) 5 5 6 . 7 3 0( 219) .7 1 5( 20 . 9) 5 41 5 4 5. 9 0 4( 2 0 .8 ) 5 4 0 . 9 8 0( 1 8 . 7) 17 . 7) 5 4 0 . 0 4 9( 5 4 6 .1 130 7 . 0) 5 1 9 .0 0 0 060 ) 4 6 8 . 6 6 9 05 . 0) 4 51 .1 0 2 03. 7) 4 6 2 .6 4 4( 1 1 .9 ) 4 8 2. 1 5 70 0 . 3) 5 1 4 . 3 0 20 0 . 2) 句 r l 二 │ 本の教育統計 Jr 設置者別生徒数 J(高等学校)によった。 ( ) 内の 数'?~は著者が算 出 した 。 なお生徒数は本科.7]IJ 科 専攻宇│を含ん だ数である 。 U~II 所:長 lil =: 男・ 足形 利刻1 夜間中 学 ・定時制高校の研究』校念書房、 1 9 67 年 、 p . 17 9o r 人間文化 ・ 33 職業人としての教員を考える おり、定時制生徒の生徒総数に対して占める割合は、 を兼ねる場合、 また、同一定時制の本校 ・分校間 ま わずかに 2 . 9 %にすぎない。 たは分校相互間で専任以外の場所に勤務する場合、 0%を超えたのは、 1 9 7 4年 滋賀県で高校進学率が 9 そのような教員を兼任教員というが、実質的にはほ 度 ( 9 0. 4%) である 。 同年度の定時制高校のぶ!鋭的 lと同じである(私の場合は、その逆のケ ぼ兼務教 i 率は1.0 2 f j -L,であった 。 しかし、翌年度の志願倍率は ースで兼務教員および兼任教誌を体験した。すなわ 0 . 6 5倍と大幅に落ち込み、充足率も 8 4. 3%から 5 8 . 100 ち、私の本務校は定│市l i l j高校だ、ったので、会目指J I 高 へと大幅にダウンしてしまった 。 この年度を境にし 校へ兼務教員や兼任教 i~ として何 i] ーか出諒したので て、以後今日まで、公立定時制高校の,志願倍率も充 ある ) 。 今日では、本務教以と兼務教員の比率は、 足率も低迷状態を続けている 。 R体的に数 ef:で示す 所 ' j -Itの方が向いのであるが、 I I ( ] 相] 2 0年代・ 3 0年代は と、次のようになっている 。 ①志願倍率一 1 9 9 6 { 1 三 本務教員の比率が極めて低かった。 0 . 7 8倍 、 1 9 9 7年度・ 0 . 6 5倍 、 1 9 9 8年度・ 0 . 8 5倍 、 1 9 9 9年度 0 . 7 3的 、 2 0 0 0年度:0 . 9 1情。② 充起率 1 9 9 6 " 1 三度:6 0 . 7 %、 1 9 9 7年 度 :5 4 . 33 ' 0、 1 9 9 8年度 00、 2 00。各年 6 5 . 0 3 ' 0、 1 9 9 9年度:6 4. 3 0 0 0年 度 :6 6. 4 度の入学定員は 2 8 0人で、最も多かった 1 9 5 2年度 0. 12 0人)の4 分の lである 。 度 一 般に、本務教員の 比 率のJ,~'j f氏は、学校教育に大 きく影響する 。教員は、全日 I N J I 高校においても定時 制高校においても「教育の専門家」であることが抜 大 の ~i/l として求められる 。 とりわけ定時制高校の 場合、学科指導や教科指導に r ,yJ しては全 L Ii lJ とは異 なった特二 日 J I な工夫と配版が必要である 。生徒の大半 また、全凶規模での最近の推移は、次のようにな は村 1] 1働いているので、まず同│悶の労'働による j i l, / j っている 。 まず、定時制高校数は、確実に減少傾向 度を考慮に入れた学刊指導をしなければならない c にあり、 2 0 0 1年度の学校数は 8 2 3校 ( 公立 8 1 0校、私 また、勤労生徒は予科 ・復習の時 1 11]がほぼ特例に近 3校)で 、 最盛 H 寺(19 5 4年度 :3 . 2 0 7校・・・公立 2 . 9 9 3 立1 、 f 間内で、完結する授 J 柱、つまり授業 いため、所定の H 校、私立 2 1 4校)のほぼ4分の lにまで減少している 。 時 11 1] 内で生徒の J~解度を深めるような創立と工夫が 分校は、ここ数年 5 0校前後で-1f t移している 。通信制 必要である 。このことは背も今も大きく変わらなし、。 をも合めての数字であるが、単位制が年々 J W加して ただ、今|二|の定 m~' iIIIJ 生徒は、往年の生徒と比べて学 いるのが大きな特徴である(特に公立では、 1 9 9 5年 習 !3~ 欲に乏しいことは台めない 。 そのため、授業の 度・ 4 2校 、 1 9 9 6年度:5 3校 、 1 9 9 7年度 :6 0 校 、 1 9 9 8 創立・工夫 も生徒の実態に合わせてねうことが必要 年度:7 5校 、 1 9 9 9i: l ' 度 :8 3校 、 2 0 0 0年 度 :1 2 4校 、 である 。私の経験からは、 「 而白い授業 j をするこ 2 0 0 1il 三!支:1 41 l X) 。 とは非常・に難しいが、 「 苦痛を和らげる綬業」 をす 生徒数については、 1 9 9 7年度に 1 0万人を告J I ったが、 以後、 t 幹加傾向にあり、現在 l 1)j人弱とな っている 。 , ることは可能である、と 言 える 。 定時制高校においては、教科指導も大事である が、 この現象は、単位I ; I J 高校の ' l i 'J I I および1 柱位 f l i J 導入や それ以上に生活指導 定通 f i j :修の増加等によるものと忠われる 。それでも、 る。全日 f l iJ : I ミ校以 1 -に、さまざまな問題を抱えた 生 徒がいるからである 。定時制山校は、まさに 戸 十 │会 生徒数は、 11~ 盛時 0953 年度 : 5 7 7. 16 2人)の 5分 。 の l以下である 山 3 定時制高校の教員一昔と今 oJ 定指導)の } jが重姿視され の締 l 苅」である 。このことは判も今も変わりは ない。 ただ、定 1 1.\'í~1j生徒が抱えている問題の内特・買に|均 しては、相当様変わりしてはいるが。 したが って 、 これまで定時制日校発足当初から今日までの変選 今 n でも、 「 定 II~JíliIJ j'.';j 校における本務教員の充実は、 過税について概観してきたが、それを踏まえて、定 その教育 1 ) -1容を充実させ、かつ生徒の学習志:欲を向 時f l I J I 市 校の教員について考察してみたい 。一般に、 上させる要因であるのみならず、勤労青少年教育に 定時 f l iJ 高校には本務教員の他に兼務教員、兼任教封、 欠くことのできない生活指導を適正に 行 なうヒに 非常勤講師といわれる教員がいる 。本務教員は定 1 1 1 ' も 、 , I i 川高校を本務校とする専任教員のことであるが、兼 i i 主も根本的な問題であるといえる J: J . ¥ lであろう 。 ところが、昔も今も変わらない大きな問題がある 。 , 務教 1 1は全く別に本務校があ って、定 H 守制では兼務 1つ │ 三 i の大きな問題は、定時l i J I 教員の年齢的配分の 講師として 一定の時間勤務する教員である 。普通、 不均衡という問題である 。具体的に 言 えば、定時制 全日制高校の専任教員がその任に当たっている 。全 高校には経験年数の短い教員(大抵は新任教員)か、 日制 ・定時制併置の学校で、全日制が専任で定時制 またはその学校の主のような極めて勤務年数の長い 34 ・人間文化 職業人としての教員を考える 教員が多く、 3 0 代 .4 0代の Ij I 堅教員が少ないという ことである 。荘、が新任として最初に赴任した定時 1 j J l であった。 改革を要求されている時期j この頃から、定時制高校に入/; ::してくる牛従の質 高校も 、まさにその典型で、教 l~ の 平均年齢は 50代 が大きく変化した。全 日 i ! ; 1 ]高校受験失敗者、全日制 前半であった 出 。 バランスのとれた学校教育を行う J者、附害者など、これま 高校'11退省、極度の低学 ) n Jということを考えた1易合 、 ためには、 「熟練l 立. での生徒とは械めて JI;~ 質な生徒が、fIIil主主体を形成 教員の年齢構成が均衡のとれ たものにな っている こ するようになった。 生徒附が大きく変容し、日i'l9 意 とが必要である 。 しかし、現実は両極に分化してし 識の不明純な生徒や学習立欲の低い不本立就学者、 まっている 。 新作教 L~ の場合には、赴任先の選択権 学校教育不適応性従が増大した。 その結果、内部の はない ( あるのかもしれないが、現実にはそれを行 1 ¥してき 教育事子力だけでは解決できない問題も湧 1 使することはほぼ不 I J能である ) し、他);、ベテラ た。場合によっては 、警察の力を借 りることも必要 了 を r M j I ン教員の場合、他に兼業を持ち 、定時制教 f ; tJと考えている者、あるいは定時制教育に特別打 ぶ」 という教育 J r r r念が形骸化し たことを 意味してい ち込んでいるわけでもなく 、 u r .1さえあれば,',己の極 る。 それはまた、勤労青少年のための教育機関とい J であった。 このことは、定時制教育本来の 「働き学 l 床に興じている 号、さらには虚無主義に陥っている う独,~,の付間づけをもって、その役;i討を*たしてき 暑にとって、定時制出校は 「段通」の職場なのであ た定lI. f i l ; I J教育が、その本*'の役 ; i ; I J を縮小する代わり る C 私自身、このような'fu~i の教 11 を イ1 : 職 中 に何人も に、全日i!i l J高校の r ' i I l i 主的役',I ; JJを*たす ( べき ) 「受け Iしとして、 I " J はできた。 2つ Uの大きな問題は、定時制勤務は r i~)í: 務 」 で 校ピラミッドの段低辺に " fi i " づけられたことを立 l 床している 。 この ようなは i Rづ あるという こと である 。 ー般に、出勤は午後だが、 けは、在、が定時制教育を自f l れる H 主にもイヂヂ1 :していた 退勤時間はあ って ないようなものである の ひとたび が、現住も ' )T.態は大きくは変わっていないであろう 。 生徒指導, ~の問題が発生すれば、深夜でも生徒指導 このような状況の 11 1 で、在、は長年 Ai::1I~iíljIJ 教育に燐 委員会や職員会議ーなどを 刻 │ いて議論し、場合によっ わってきたのであるが、以下で、教科指呼 とクラス ては深夜に保護主;に来てもらったり、こちらから家 担任としての学級経併とに |期して、教員としての,~, 庭訪問をしなければならない。私自身も、クラス担 分を振り返 っておき たいと思う 。 任をしていたころ、何度となく深夜に家庭訪問した 経験がある 。帰宅すると、大抵 "小l が変わっていた。 まず、教科折導についてであるが.私は 1 8年間で 社会科のすべての科 l 'を担当した。科目によって多 何よりも生活そのものが不規則不自然になり、その ~、授業 J をすることは至 少の相違はあるが、 「面 ,, 結果、健康上支' l むをきたすことも多くなる 。 雛の技なので、 守l 撲の家 H 量生活 その他にも、夜勤で、あるからー家 l を犠判ー にすることが必いられることも r l i 1 l 迎である 。 L j t本的に私は、 「背 1f " i を干"らける綬 業」 を実践することを心がけた。私の言 う 「 背泌を 和 らげる授業」 とは、端 的にr-iえば、 ' 1 '徒が関心を 特に、子どもに援する11'\'間が極端に制 I,j~ されるので、 持 っている 私的領域の問題を公的領域の│問題と関連 教育上大きな問題であるし、家族の他 J Mにも大きな づけて授業をするというものである 。 そのために私 影響を及ぼす。 は 、 このように、定時制高校の教只は、職場の内外で さまざまな問;坦を t f o Iえているのである 。 4.定時制教員としての自分を振り返って 主として次のような刀法をとった 。①教科 J ;に よる-I'~業ではなく、プリント学刊を主体とする ( そ れは、教干│占ーを全く他 T I Jしないというのではなく、 1は i ' .に事実関係を M I認する場介に使川すると 教科 1 いうものである 。 ) その│際、 , ' , 分でプリントを作成 最後に、私白身の 1 8年間の定 'I~j ~;IJ ~':j 校の教員 'I.i~ 1 : ]で するのであるが、そのプリントには、その時 1 を振り返っておきたいと 思う 。 在、が定 '~f i!jIJ ,,: j校の教 「考え J J'I'.f~:f Jして欲しい内科を精選したものが古 ¥ 制教育が低迷!日l に入 ったばl で 員になったのは、定 W かれてい る。 生徒はそのために 必要な最低限の 可F 項 r ある 。 また、この時期は、円本経済が低成長時代へ を( 1分で J iきこんでいく、というものである 。②進 と移行した時期でもあり、 ' 1 ゴ 徒数、午従シ ェアとも 度のことはあまり気にせずに、エピソードを随所に に激減し、志願者数が募集定員を常態的に大きくド 散りばめながら、それを ' 1 " . 従にとって身近な問題と 回り、定時制の存在立義そのものが刑われるととも , J l JJ わらせて説明していく 。 ③その際、知識を注入す I i H 揺を抱え、抜本Il0な に、教育的にも多くの困難な I るというだけの 一方通行の長業は避け、できるだけ 人間文化・ 35 職業人としての教員を考える 1 多く生徒に発問し、生徒に考えさせ、生徒!守身の r 1 f l l互J I H W TJと 「伝頼関係 j を構築することができ から 11 1 '分の考え 」 を述べてもらう 。 このようにし たのである 。特に、 3年間あるいは 4年間、連続し て、双方向1 ' "1:の授業を行うことは、夜、と生徒とが「 授 て同じクラスの担任になったときに、そのことを強 ; t ー を0 t イT Jできるようにするための重裂なストラテ く感じた。 ジーの一つなのであった。 こうした授業スタイルを 1 8年 I l i jの定時制高校教員生活を辿して、夜、 │ 土 l 身が とることによって、少なくとも学習指導要領に基づ 学んだことは、教員はit'受業:の専門家」 でなければ いたカリキュラムを、課業という j 杉で生徒に押しつ ならないことはうまでもないことだが、こと定時 けずにすんだのではないかと私自身は思っている 。 次に、クラス m任としての学級経営についてであ るが、在、はクラス担任を通算 10 年経験した ( 4{1~ 制高校に関しては、人生の先述のような 「いい人 I ¥J j であることがそれ以卜に求められるということであ る。 これまでにも述べたように、 A時 i l i l J 高校にくる I I J:11 1、 3年間 1I T I、 1年 1 1:3I r : r l )。 その問、 l i l iiJ高校受験失敗 J 号、全 1 = 1 i ! f J I, ' , ' ; i 校' 1 ' 私は数多くの全 I 1 ' 二 従の多くは、何らかの形で心に傷やコンプレ ill 者、不登校生 ( 中学If S 代)、 J~itÎ :~:者などの生徒と の尚さで向き合い、共感し、 JI~Wf しようとする姿勢 1 1 "会った。彼らに共通していたことは、程度に差は とそれができるだけの力量とが求められる 。そして、 7ク スを持 っている 。 そのため、教員は常に生徒の目線 あるが、学校不信-教師不信を抱いていたというこ さらに 一歩進んで、ともに学:び合う過程を:I!:!Iして、 とである 。特に、全日;j i l J高校中退者にそれが非常に 彼らとともに 「 学びの共同体」 を創造していくこと 強かった。彼らは、それぞれに教仰や学校から、 I 時 には同級生から I j 注目見有」や 「 落伍者」 としてのレ y テルを貼られ、そして、ある者は学校から 「 追放」 も必要である 。 定時制,~,'î 校教只の 11比大の使命は、学 校を 「 娠しの学び介」 に再構築していくことである と言 っても過言ではないであろう 。 され、また、ある-1",-は1'1ら見きりをつけて去 ってい ったという体!.&j t を共有していたのである 。 -註 1 1 見文脈化」 つまり、 f下校や教室の中で、彼らは 1 され、等質的なものと仮定され、学校の規範 (=学 校文化) にうまく趨応できないという ; 1 [ ! 1 : l 1 で 、 I l f J l 題のある子 J1 できない子」 というラベルが貼られ、 それゆえに彼らは 「 教育 J(=矯正)の対象にされた のである 。 しかも、その際、 「同組」 が ネ1 : 会情造的 安│主│を拾象した形で、徹底的に 「 個人」化して捉え られてきたのである 制 。 そこで、私は、基本的にクラスの生徒を単に 「 生 徒集団」 として 「画一化」 し 「 平等化」 して位置つず けるのではなく、それぞれに個性を持ち、家庭的・ 社会的 f T崇を持った 「個人」として位世づけるよう 心がけた。それは、私と個々の生徒という 一対ー と いう形の 「 関係の梢造」 をまず構築し、それをベー ( 1 )今津孝次f!lir 教員 」 編集代表森|品iJi青 R ・北I'~ ) 瓜 ,勉 ・ } i j) ; 点 王< 1r 新 社 会 学 辞 典 j イj斐問、 1 993年、 本I p . 2 8 5 。 ( 2) , 稿i 集代表・平井'1' 1 雄 ・青山義充・管野手I L夫 f 六法 1 平成 1 3' 1 . 1 反1)有斐│ 湖 、 2 0 0 1年 、 p . 2 2 9 0 。 全書 J( ( 3)円乙成 1 4年度 版イ│まの手づ u滋賀県立大学、 2 0 0 2 年 、 p . 3 8 6 。 ( 4 )P F成 1 4年度 履修の手づ 1(大学院 ) j 滋賀県 立 大学、 2 0 0 2年 、 p . 61 。 ( 5) 二輪定宣 「 教員有免許状J1 二屋恭規・平原イ尚子 ・ 三輪定宣・宅井修編若 『 地新学校教育キーワード 0 0 1年 、 p p. 48 4 9 。 事典 j旬報社、 2 ( 6 )三輪定宣 「 教員採用試験J 1 : : . 屋 恭 規 ・予原春好 ・ 三輪定宣 ・室井修編著 『 前J 品書 jp. 15 2。 r スにして (より正確には、それと平行する形で)、 ( 7 ) 中 H新聞 J2 0 0 2年 1 2月2 61 : 1 付。 さらに私と生徒集団という形での 「 関係の構造」 を ( 8 )高橋均 「 適性J1-1本教育社会学会編集 『 新教育主l 構築していくという方法ーをとったのである 。 そのた めに、私は、場合によ っては教員一生徒関係という 制度的関係を離れて、それぞれに 「 人絡」を有した 「 一 人の人間」として、同じ目線の高さで向き合う よう心がけた。 それは、私が彼らの方に歩いていっ て、彼らの世界に入りこんでいくことを意味してい る。 このことによって、結果的には、彼らの思いを 幾分なりとも共有することができ、彼らとの聞に 36 ・人間文化 会学辞典 j 東洋館出版社、 1 9 8 6年 、 p . 6 5 4。 r 朝日新 I : l : H J ( 9 )林竹 二「教師は授業の 1 4 1門家たれ J 1 9 7 5年 1 2月2 1日付。 ( 1 0 ) 大村はま 『 教えるということ j 共文社、 1 9 8 0年 、 p p. 2 1 2 2o ( 1 1) 西尾実 ・岩淵悦太郎・ノj 、 谷i W e夫編 『 岩波国訪辞典 J ( 第 5版)岩波脊!九 1 9 9 4年 、 p . 6 5 1。 ( 1 2 ) 下村哲夫 『 先生の条件 いま教師が問われている 職業人としての教員を考える されなし、 J o こと -J 学│場吉房、 1 9 8 8年、 pp. 48 4 9 。 ( 1 3) 伊 政 一雄 「教育折;q.と学校教台 」 伊 I H i一雄・ 1 1 1本 r 等 教 育 局 JIIJ等 学 校 教 育 課 編 集 ( 刊文部省初等 ' 1 ' f 改訂 芳 孝 ・杉浦健編者i' 教育指導の翌日論と実践一 現 場 高等学校定時制辿信 II)IJ 教育必~~日日本加|徐出版、 で 役 立 ー つ 数 日 を 志 す 人 に -j サンライズ//', 版 、 1968イ │ 三 、 p ll。 2001{F、 p p . 1 2 1 3。 ( 2 8 ) 文i ' i lf ' i 初う; I '' ' 1 -等 教 育I } . J ) , ' ' J , j ' 等学校教育課編集 『 商 j : t t l 手i = J p. 13 。 I ( ' I lT村 利 夫 r I I i 掲f ,T: jp . 6 4o ( 15 1 志 水 宏 古 「学 校 の 成 層 制 と 生 徒 の 分 化一 学 校 文 化 ' f J U l j J口 本 教 育 社 会 学 会 制 (29) 同法は、 ~ì 5条 1項において、 「副 は 、 公 立 の 尚 [教 育 社 会 等学校の設世~.が定 Ih~íl;IJ 教育又は通信教育ーの設備 学 研 究』 第 4 2集 、 ) . j , l i 羊f i l ' :I ' I ' ,版社、 1 987年、 p. 172。 について、政令で定める);~準にまでiJi めようとす 論への I ] ( j l 佐藤学: r 学 び の 身 体 技 法 j 太郎次郎社、 1 997年、 る場合においては、これに要する経貨の全部又は ~ i}IS を、 : li 該設 ;;"ì: 者に対し、 一予算の範囲内におい p . 9 1o て 補 助 す る Jと定めた 。 1 i i l 佐藤学 『 前 掲 書 Jp . 91 。 (1 8げ左 Ij~~ 文|径 「 教育を考え n'( す J 1 l : r 1 i ' l 1 J ' I '.! H崎 勲 ・佐 J I孝 彦 .i E回式J ' 'ß.'J'J ・ 藤凹英Ijl~ 編集 [教 藤学・聞 I 育 へ の 告 発 j (れ 波 講 座 現代の教育 第 O巻 〉 7 当Jpp13-14o 的1 ) 長川 三男・尾 J I 予 利 l i . j i or 1 kl I J i , +" ' ! =・J : t l l . ¥ ei l i l J両校の1iJf ヲ ; I e j校合 J ; + 房 、 1 967年 、 pp. 17 4 -1 75。 文 部 省 初 等 i = I 古 、 1 9 9 8 年 、 p. 214。 岩波, l 1 (9 1 佐版文│径 (30)文部行初 ~I;.; II-' -~~ 教育同 I , .J 等学校教育課編集 『 前 ilJ qr ~f 教育}, I) ,','5 ~'i;;'j:校教育 課税IIf 集 r l i i J l . l喜 jp. 14 o Il i i j掲論文: Jp . 2 2 0o r ( 2 0 ) 鵜川 H. i f i J合隼!iJt 教 育 の 本 11一 千 供 を 字 削 に し ないJ-I本の 「 学 校 」 と し 寸 存 在一』 プレジデント 十 上 、 1997 i : 、 下 pp. 25 ・2 60 ( 3 2 1 長1 1 1 リ 1.I 出│三利雄 rl i i H m l ! : J pp. 17 8 1 8 20 ( 3 3 ) r、 l i ' IJ ) ( :1 3 { I ' . ) 文全 I J q半 I 時i l i l J. i ! 宣 伝i l i l J,内等学校基本調査』 p . 1 0 1o (2 1)近藤邦夫 1 1 ども ・ 学校・教 r~i1îJ天野Njlí夫編 『 教 育 へ の 問 u、 一 現 代 教 育 学 入 門J東京大学山版会、 , (34 )1~ 1 1 1:リJ.I {形利li. l j rI ÌíiJtH~:=.i p. 190。 ( 3 5 ) 私 が> > J i 1 了で赴任して 1 1 : ]も な い 頃 、 あ る 教 日 が 「こ 会て 山だ」と 私 に 言 っ た の を 覚 え て い る 。 こはオジ J 1 9 9 7 { 1 二、 p . 4 7。 J / ( 36 ) よ 、 ,宏占 「学 校 = 同 化 と 排 除 の 文 化 装 置一 被 差 別 白) 下村析史 r1 清掲者 1 .p . 2 2o JH~ 俊 ( 2 3 ) . { 左藤学 I前J 封書 jp . 3 6。 古 ¥ 1 治の経験から ( 2 ' 1 ) 現行の学校教育法では、次のようになっている 。 幸 .~aLl示介・ JJ 見俊 l'iJ<;編集 『 こどもと教育の社 会 学』く お j 皮議出 現 代 社 会 学 第 1 2巻 〉 れ J 皮J j - 4条 第4 p f i:高等学校には、全L1i1iリの諜程のほか、 定 時 制 の 諜 程 を 泣 く こ と が で き る 。 同条 2JJ~ 高 ・ |二 野千鶴子・大洋!~~ ; 1 、 与 1 9 9 6 { 1 " 、p . 7 4o 等学校には 、定時制謀税のみを ;Ù~ くことができる 。 間 現 行 の 学 校 教 育 法 第 46 条は、 1 ,Ji )等 学 校 の 修 業 年 I 浪は、全け市J I の謀程については、 3:i l~ とし、定時 f t l Jの課程及び通信制の諜れについては、 3年 以 上 とする Jとなっている 。 (26)教育),~本法第 3 条 1 項は 、 次のような条文になっ 1 ている 。「 す べ て 1 <1民は、ひとしく、その能 ) Jに 応ずる教育を受ける機会をあたえられなければな らないものであって、人純、信条、性別、社会的 身分、経済的地位又は門地 によって、教育上差別 人間文化 ・ 37 論文 高校生ア}チェリー選手をす橡としたバイオフィードバックト レーニング ひがし を用いたリラクセ}ションスキルトレーニングの事例 やま あき 東山明子 生活文化学科人間関係専攻 -背景 H i i 年 0999 年)に高校生アーチェリー選手を対象 1[ 1 1 1 とし、ItJ J 間は約 7i lM間行う こ とになった 。 さらに、 トレーニング頻度と期 間の効果を検討する とした心拍制御トレーニングを滋賀県立 K高校で行 ためには、 トレ ーニングの残存効果についての検討が った 。 その時にトレーニング併と同等のアーチェリ 必安であることから、 一般にはト レーニングの前と後 一成紡であり、滋賀県近辺の高校アーチェリ一部と に行って比較するパフォーマンステストをさらにトレ いう条件で滋賀県体育協会から京都府立 T高 校 を 紹 ーニング終了から約 1ヵ月経過後にも行った。 介され、コントロール群としての測定に快く協力し ていただいた 。 その年度末にその T高校アーチェリ -トレーニングの経過 一部 l i l f督教以に研究報告をしたところ、その!昨督白 導 入 した心E 里技法・ │倶知、トレーニング 身 が 現 役 の ア ー チ ェ リ ー 選 手 で も あ る こ と か ら T1'"j 校アーチェリ 一部の部員に翌年メンタルトレーニン グを行うことになった 。 l 佐督の担当教科が型1 1 科とい うこともあってか前年にコントロール鮮の i l ! 1 J 定 と し 心拍バイオフィードパックトレーニング 対 象 T高校アーチェリ 一部 2年 生 8名 ( ! J : l チ 3名、久子 5t ' I J W J定や前額皮上屯位測定への W J心 が 強 て行った心拍 i く、これらの機絡を{史JfJしたバイオフィードバ M yク 被験者会員が経験 2年日のアーチェリ一部員である 。 r ' 心としてリラクセーションスキル トレーニングを l アーチエリー J ¥ ' フォーマンステス ト( 行射テスト ): トレーニングを行って欲しいという要望であった。 2 0 0 0 ・ 1 i 6) J1 21( p re )、 7凡3 1/ 1( m i d d l巴 ) 、 8) 13 0 ( p o s t) T高校アーチェリ一部は過去にインターハイ や国体での優勝経験があり、 2~ 3, q 三f 耳 今 に 3位以内 なお、 n トレー二ング期間: 5) J連休明けに T高 校 教 室 に て 、 ア ー チ ェ リ 一 部 2 0 0 0年 6J J1 9 1 1、 6) J2 6日 、 7月3日 、 7月 1 0口 、 7) J1 7日 、 7J2 4/ 1、 7月2 8日の 7回 部員全員を対象として、 OHPを使用しながらメン トレーニング W J問中は p r eとm i d d l eの間に l迎│問 1時 タルトレーニングについての説明と質疑応答を 2 毎 の ト レ ー ニ ン グ を 1人 計 6回 実 施 し た 。 閣強行った。 m i d d l巴 とp o s tの問には通常の練習や試合以外のト 1である 。 白 には確実に人る実力を持つ古¥ その後、監督との話し合いによって、アーチェリ ー経験があり部活動を最も盛んに行 っている 2年 生 レーニングは何も行わなかった 。 場 所. 民旬、テープを用いた l 民主!トレー を対象として、音楽 l 行 射 テ ス ト : 心t l ' l i j ! J I 御( HR)テ ス ト 、 優 勢 前 傾 ニングと心的制御バイオフィードバ ックトレーニン M i r 1i 皮J i l ! 1 J 定 、 POMS 記入 ! 支上電位 ( 慎想のリラクセーション効 グを行うことにな った。 l . . T高 校 教 室 果はヨカ行者や禅の研究から硲認されており、特に 膜!日~!と脳波の関係が報告されている 1 1 : )引例 こと、 : ! I 守 メンタルトレーニングの心理的スキルアップのひと 行射一 トレ ーニン夕、 .T高 校 ア ー チ ェ リ 一 場 T高 校 教 室 測定 内 容 ・ うとしてとりあげられていること ユ等 から、今回の 優勢前額皮上電位. 下レ ーニングにも月]いることにした 。心 拍 1 1 1 1 J御トレ BIOFEEDBACKSYSTEMFM515N、 FM515NK ーニングについては前年の研究 山で も そ の 効 果 が 検 ( フューテックエレクトロニクス株式会社製法用い、 ~il: されたことから引き続き用いることにした 。 トレーニング回数と頻度については、連続したト レーニング頻度で、リラクセーションスキルトレー ニングがパフォーマンス向仁に効果があるという内 容の報告 82、θ3、日 l、日 2、 a3、s1、s2 1 皮を i l ! l J i . と す る。 心拍数:ハートレイトモニターアキュレックスプ ラス mい、 (POLARERECTOR01~ (FINLAND)) を 5秒 間 隔 で 記 録 し 、 実 験 終 f後に専用のイ はみられるが、不述続なトレーニング ンターフェイスでデータをパソコンに転送し、解 11 痛をあけてのトレーニング実施を行っ 頻度や 一 定 1] 析 ソ フ ト に よ っ て 算 出 す る 。心 拍 バ イ オ フ ィ ー ド T高校が本学から高速道 バックトレーニングは、被験者の品も見やすい{立 1I E i]の往 置に H Rモ ニ タ ー を 世 き 、 そ こ に 表 示 さ れ る 心 拍 11 71 た報告がないこと、また、 路使 mで 11時間半かかる遠隔であること、 復に必要な高速道路料金が多額であること、さらに 数を見て行う 。 T高校の行事等を考慮して、 トレ ーニング頻度は週 気分評価 :POMS(行 射 テ ス ト 時 )、 POMS縮 尺 版 38 ・人間文化 高校生アーチェリ一選手を対象としたバイオフィ ード パ ックトレーニングを用いたり ラクセーションスキルトレーニングの事例 ネ 回, 分 「一一一一一 76" - ← 4 7 トレ一二ンゲ群盆盟主主tH = 三之2 ' 丘盟主丞土 (何もせず ) 丘盤主主上 ιιιD D 7 1~ │pre → 約7週間→ middle →約 1力月→ postI 官 官 官 官 官 , , ( fOJもせず)丘担主左上 41/ eo f コントロール群笠盤主丞土 ( 何もせず) 丘盤圭丞上 7 0 pくり U 5 キ 図 1 トレー二ング全体の流れ 図2 心抱パイオフィードパックトレーニング前後の心泊数の比較 % ・ 。 揺 口 眠怨崎 れ4 日 一 / ︺ HRトレーニノグ時 ,1→ * 」ー 」一一一~ー リ ム一一」 “ ム l 1 1 1 2 回目 1回 目 *: p<O.! l5 図3 1セット目を基準としたセ ット毎の心拍率の増減 2包 B a回 目 3回 目 6回目 *: p<I ) . I 丙 図4 1回目を基準と した膜想時と HRトレーニング時の心泊率のi 目減 1 1 1 0 3 0 1 0 2 0 前後 3 0 口じ - 初 刊 M 前後 口己 * 占 * 耳目 " ~一一一- ー」ー キ 1 0l - *: pくり 1う 1t 82 α2 α3 β2 *:pく0 . 0 5 図5 トレ一二ンク前後の POMS 縮尺版の比較 仁] トレーニン グ群 * コ コントロール群 図 6 トレ一二ンク前後の脳波の比較 % 弓 " 1 1 0 1 ( 15 “ } 1 *キ f¥ に 与 正; 7 p ' e p'e *:0く0 . 0 5 図 7 平均行射得点の比較 G 「←一一一 一←一一一一 post こ トレニング群 コントロル群 middle **ロ <0.01 図 8 Pre を基準とした HRテスト時の心拍率の差の変化 人間文化 ・ 39 高校生アーチ エ リ ー選手を対象としたバイオフィ ード : 1 ¥ ッ クトレーニングを用いたりラクセーションスキルトレーニングの事例 (トレーニング時)を 1 1 ' う。 ¥フォ ーマンステストの流れ 表 1 アーチェ リー J 行射テスト 距 離 50m、 lセ y ト 4分 以 内 で 6射 を 3セッ ト行う 。 ① HRモ ニ タ 装 着 ② POMS記入 ①脳波測定 ④心拍布J I 御テスト │心ー さ せ る試一 間)1 + Ix12セット 休憩 (10 秒間 ⑤行射準備 ⑤行射 [6本+矢取り ]x3セット ⑦脳波測定 ( 安静時脳波) ③ POMS記入 手続き ' トレーニング全体の流れを │ 豆1 1に不した 。 preとmiddleの 問 の 7週間、限定」トレーニン グと 心的ノ、 イオフィ ー ド パ ッ ク ト レ ーニン グを 、 1J l ! i ! i il : r U I日j隔 で 計 6 1 実施した。 1I;:(f.1.-\ト レーニングは、音 ;~IN!J:!テー プ ( FUTEK 製庁楽 1 ; : (旬 、 TAPEl-A)を 1 5分: I j i に編集したもの を使 間 し た 。 なお 、 トレーニングの勾~*の評制 li のために、コン トロール併として、J-;(行; 1 府 で T高校アーチェリ一自¥ 1 に 次 ぐ 成 航 で あ る と 認 め ら れ る K, ¥ : j校 ア ー チ ェリ一 部を紹介していただいた。 表2 トレー二ングの流れ コントロール昨・一一 . . . . K高十土 21 : 1/ . : 16: ( , ( VJ 子 3 名、~ f3:( , ) ① HRモニター装着 ② POMS縮小版記入 ③脳波測定 ④摂 想 ト レ 二 ン ク ( 閉眼で音楽隈想テープを聴くリラクセーション法) ⑤心拍 8FT いじ拍数を減少させる試行 ( 50秒間)1 + 1 x12セット │ (木憩 ( 10秒間 ⑥脳波測定(安静時脳波) ⑦ POMS縮小版記入 コン トロール 1 作の行自J .[ 1 :2000年 6月 31 I( p r e)、 7JJ28日 ( middle)、 9} J2EI( post) pre.middle. postの 間 に は 通 常 の 練 宵 や 試 合 以 外 の トレーニングは何も行わなかった 。 圃トレーニングの評価 1)心拍バイオフィ ード Hックトレー二 ング時の心泊数 心 拍 バ イ オ フ ィート‘パ ック トレーニンクー前後 の心 拍 数 の 比 較 を 図 2に示した 。 附 1│ 凶 区12カ か 、 ら、心 心 、f 羽 柏 向 │ 守 市 判 1 市 1 伽 I 初 1 I 心 、 虻 拍l ニ ングを終えた{後愛の,心 段 会 数 女 は 、 L 、 ニング前の ,心 L 心 トレ 拍数よりも有古意:に低くなつた (p<. 0 5 ω)。 さらに、 測 定 日 の 安 静 時心 拍 数を 1 0 0と し た 場 合 の 各 測 定 心 表3 隈想 トレー二ン クの内容(約 15 分間) 拍 数 の 割合 を 算 出し、 1セ ッ ト日 を基準としたセッ ト毎 の 心 拍 率 の 増 減 を 図 3に示した 。 回 ①(軽快な音楽)伸びと弛緩 2 ①(明るくゆったりした音楽)深呼吸 J I Iのせせらぎ音) ③ ( 筋 弛 緩 頬 → 駿→顎→首→背中→お腹→腰→脚 ④(川のせせらぎ音) お腹の温感→身体の温感→ 「気持ちが落ち着いた」 「いい気持ち」 ⑤(静かな音楽) 深いくつろぎの世界でゆっくり身体を回す ⑤(静かな音楽) 5分間) 実現させたいことを心の中で強く念じる ( ⑦(ゆったり した音楽)覚醒 1 慣に力を入れる 足先→綾→お腹→肩 首→頭の1 心 拍 率 =( 社!I]定心拍数 /安 静心 拍数)x1 0 0 区1 3から、心打│ 制御バイオフィ ー ド ‘ パ y クトレ ー ニ ングのセットの半ば頃から 心 拍率 が 減 少 す る 傾 向 が み ら れ 、 最 終 セ ッ トで は 心 拍 率 が 有 志 に 減 少 し た (p< .0 5) 。 したがって、毎回のトレ ーニン グ 時 に 行 っ た 心 拍 バ イ オ フ ィ ー ド パ ッ ク ト レ ー ニ ン グ は トレーニ ング 各 回 に お い て 、 トレーニング前よりもトレーニンク 後 の 方 が 心 拍 数 が低 くなっており 、 1巨│ごとの心拍 制御トレーニングには効果があったと考えられる 。 また、心拍 制 御 ト レ ー ニ ングでの 5 0秒 間 を 1セッ トとした 1 2セ ッ トというセ ッ ト数については、 4 0 ・人間文化 lセ 高校生アーチェリ一選手を対象としたバイオフィ ードパックトレーニングを用いたりラクセーションスキルトレーニングの事例 ット臼から 6セット 1 1 までは心拍率の目立 った減少 はみられないが、 7セッ トu 頃か ら急に減少傾向を J Rはみられなかったが、白 1、日 2、 a3i 皮はトレ ーニング後の方が増加似向にあ った o s2、 θ 2、 示し、 1 2セット目は 1セ ッ ト討に比べて街立に心 : ] ' ( 1 θ3i 皮については、 トレーニング後の方が減少する 率が減少した こと から 、 11 1当たりの心拍制御lトレ 傾向がみられた 。 したがって 、イ王立な差はみられな 2回と 設定したのは妥当であ ーニングのセッ ト数を 1 かったが、リラクセ ー ション 状態にあるときや注立 ったと 思われる 。 集中が高まっているときに優勢率が高くなる引皮の 2)隈想 トレーニング時と心拍トレー二ンク時の心拍率 |民知!ト レーニング nc~ と心 11'1 ト レーニング If.\'の心拍 率を、それぞれト レーニング l回 1 = 1 を基準として図 4に/j,した。 図 4から、 l 民想トレ ーニ ング │ 侍は、 みがトレーニング後に地加│ する傾向がみられたこと から、 トレーニン グが a波噌強に 貢献する ことが示 31:された。 1 5)行 射 成績 トレーニング アーチェリーパフォーマンステストでの行射成績 5 1 , "1 日に心的率が減少した ( p<. 05) 0 心的パイオ は 、 フィ ード、バックトレ ーニ ング H 寺では、 を不した 。 トレーニングの効果は、コントロール併 41 白目には m加した トレーニンク トレーニ ングを したことによ ってやや噌加傾向 (p< . 0 5 ) が、その後は有},.J. な 1 :刊日はみられなかった 。心 心 、 十 拍 可率 l 白 の減少少〉という+悦 比 j t ι } f 円 山 , , I X との比較からみたほうが硲かであるので、 からみると、心拍 ílilJ f~IJ トレーニングよりもむしろ 11頁 た 。 凶 7 から、 惣、トレ ーニング│時に 心作│率が減少しており、 11 ) ; & 想 、 ト l 作とコントロール併のI I ¥Jには + 1立な差はなく、 トレ レーニングの心拍半減少効米が示唆された 。 トレー ーニン グ開始前には 両市 のア ーチェリーパフォーマ 1m1 1 と比 i絞して 、 2 1 n l日 、 ニング 1 fがなかった こ とがわかる 。 ンスに j 1 ; 3 1 旦│ 日 の心拍 N , I ] トレーニ 7に示し ング群とコントロ ー ル仰の行 射 成績を │ 立1 pre では、行射 I&~~'t ,まトレ ーニ ング 御トレ ーニ ング時における心拍率が減少傾向を示し m i d d leとp o s tで1ム トレーニング群のほうがコン たことから、心主l i l i J l 御トレー ニングを経験した こ と . 0 5) 。 トロール昨よ りも布意に 成績が日かった (p< トレーニングを f rった こ とによってア 民知トレ ーニング│日にも HRモニ ターに頼 によって l したカ fって、 らなくても心拍半を減少させる能力が身についたこ ーチ ェリ ーノfフォ ーマンスが向卜し、コントロール とが考えられる 。 併との行射成績に 廷が生 じてきたものと以われる 。 3) トレー二ング前後の気分評価 6) HRテスト時の心泊率 p r e を),~i\ó;とした HR テス ト l 時 の心拍率の差の変化 II;.~ 想 ト レーニングと 心拍 バイオフィード、パ y クト レーニングによる気分の変化 を 、 POMS *fFiJ辻版を附 を同 8に示した 。 l ! J 定し、図 5に示した。「活気 J r疲労」はトレー いて i r e m i d d l e l l¥Jでは、 凶 8から、 p トレーニング訴は ニング後のほうがトレ ーニ ング前より有意に低くな 心的率に変化はみられなかったが、コントロ ー ルi i F った (p<05)。 有意な差はみられなかったが、他 は心拍率が上昇ーした(p< . 01 )0 midd l e p o s t問では、 の尺 l 立もトレ ーニ ング後に 低 くなる傾向がうかがえ トレーニング群はこの間トレーニングを行っていな た。 したが って 、 ' 1 1 率 が上 昇した (p<01) 。 かったところ、有意に心 1 トレ ーニ ングを行ったことによっ て気分状態が良い方 r C J I' こ向 │ かったことがうかがえる 。 これは、この程度のトレーニングでは、約 1ヵ月後 また 本トレーニングで は、サイキングア ップは行わ には残存効果がみられなくなることを示唆してい ずリラクセーション トレーニ ングのみを行っていた る。 コントロール群では、 p o s tの心拍率は preと比 ために、 1 百一気も減少したのではないかと思われる 。 (p<.01 )。 したが って、 ト レーニン グを行っている 期間中は HRテスト時の心 1 '1 率の上昇の汁、レ ーニ ングを行う ことによ って抑え 4 ) トレー二ング前後の脳波 トレーニンク“前後の優勢市l額皮上電位の 山現率の 比較を図 6に示した 。 図 6から、 トレーニンク"]ji i 後の優勢前額皮上電位 絞してさらに t t界した られたことが考えられる 。 しかし、 トレーニン グ終 了後にはその効果が残らな か った ことか ら、さらに トレー ニングを継続する必要があったと思われる 。 の出現率 ( 出現時間の割合)は 、 s1i ,皮のみトレ ーニ 05 ) 。 有立 ング後のほうが有意に低くなった (p<. 人間文化・ 4 1 高校生アーチ工リー選手を対象としたバイオフィードパックトレーニングを用いたりラクセーションスキルトレーニングの事例 -引用文献 ア)トレー二ング終了後 の 戦 果 1) Anand. B. I CChhi naG.S. andShiga . B .( 1961) 2 00 1{ l o )、 トレーニングを トレー ニ ン グ の 翌 年 ( 行った男チ生徒連を中心としたメンバーでインター ハイ団体{却肢を来たした 。 また、 2002年 )、 トレー トレーニングの翌々年 ( S o m e a s p e c t s o f e l e c t r o e n c e p h al o g r a p h i c s tu d ie s i n Yogi s . El e c t r o e n c e pha l ographyandCi lni c a l N e l l r o p h y s i o l o g y .1 3. 4 5 245 6 1 9 9 5)I 1 仮想の精神医学 J ( 春 秋 社) 2 9 -6 0 . 2)安 藤 治 ( ニングを行った女子生従達が卒業後 r l '心 と な っ たメ .L .( 19 92) 3)Eche n h o f e l ¥ F . . Coombs.M. andSamt巴n ンバーで│ 玉│ 体 成 人 女 子 同 体 仮ー J I 券を果たした 。 E G G & P 3 0 0 d i f f e r e n c e s d l lr i ngmedi t a t i o n a n d r e st .P hychopy s i o l o g y .2 9 .s 2 8 f t子.J'J羽 F l i lJ l { j( 19 94)1 バイオフィ ー ドバ 4)星野 1 .まとめ 京都府立 T高 校 ア ー チ ェ リ 一 部 21 " : 1 : 生 8人 を 対 象 ック お よ び H t l 上 司1 I 中 東j 去を刷いたトレーニングによ として、 音 楽限定!テープを!日いた腹恕トレーニング る 心 拍 制 御 が ラ イ フ ル 射 撃 の パ フ ォー マ ン ス に 及 と心柏市 IH~j ハイオフィードパックトレーニングを行 j ; j s 1 J J I F l 制 Pe akPer f ormanc eをもたら ぼ す 影 響 j丹; った 。 そ の 結 果 、 次 の よ う な 成 栄 が み ら れ た 。 す心理的トレ ーニ ング効果の基礎的研究一特に 1 . 11;.&想トレーニングと心的バイオフィードパック B i o -f eedb a c k t r a in i ngによる脳波や自制!神 経 現 象 t ' j 数を減少させる方向 トレーニングによって、心j を小 心 に一 5) 日本スポ ー ッ心 J lFt会 ( 2 0 00)1 ス ポ ー ツメンタ に影響させることができた。 2 . 1週 間 に 11 nl [l日隔で 6回の│慎想トレーニングと 句会テキス ル ト レ ー ニ ン グ 指 導 仁一 資 絡 認 定 講 1 心 拍 バ イ オ フ ィ ー ド パ ッ ク ト レ ー ニ ン グ を 行 って トJp 5 8 . 2 0 0 0 )1 心拍制御トレーニングによる 6) 二 宮 業 チ ( 能力が獲得できることが心 いる期間は、心作│制御l パ フ ォ ー マ ン ス の 向 土 J1 9 9 9年度滋賀県立大学f: J I │唆された 。 3 .1 民想トレ ー ニ ン グ と 心 拍 バ イ オ フ ィ ー ド‘ パ ック I I J額 j 支上電位。 i 皮と トレーニングが、優勢 I ei 皮を 業論 文 j ; j W l附 ( 2 0 0 0 )1 リ道選手における自律訓~*法 7)対 ; 皮を増強させることに寄与すると考 減少させ、日 j をj 目い た バ イ オ フ ィ ー ド パ ッ ク ト レ ー ニ ン グ に よ えられた 。 る 心 狛 制 御 と 的 中 率 と の 関 係」 聖 母 被 昇 天 学 院 k 4 .1 民想トレーニングと心拍ノ tイオフィードバ ック トレーニングの併用は、アーチェリーパフォーマ ンスの向上に寄与した 。 5 . トレーニング終了後にインターハイや同体で」一 位の成績をおさめることができた。 f短 期 大 学 紀 要 第 26号 8)字強・津田久美 ・J J ID Jl i j t弓 ・水谷充良・山1:11 富 美総(1993)1 気 功 及 び 密 教│ 填想の脳波的研究 学 したが って 、 本 研 究 で 行 っ た ト レ ー ニ ン グ 頻 度 で は 、 るが、 トレーニング期間中には心拍制御能力がみられ トレーニングを終了して約 1ヵ月後の心拍制 御 能 力 の 残 存 効 果 は み ら れ な い 。 しかし、その後の インターハイや国体での{愛勝という競技 l!X: t~tt からみ てもア ー チ ェ リ ー パ フ ォ ー マ ン ス 向 上 に 寄 与 し た と 考えられる 。 42 ・人間文化 J Ne l l r o s c i e n c e s .1 9 .Sl Ip plemen t l . 1 4 1ーは4 . 9)山崎正監修 ・山川 1 ;[ 美雄編 (997) 1 癒し の科 "冥恕法 J( 北大路占房 )4 4 6 5 . 論文 繰り返 しにおける表象的ジエスチヤ ーの形状の変遷 ージ工スチャーの極性化と相互行為 繰り返しにおける表象的ジェスチャーの形状の変遷 芯り ジ、 ェスチャーの極性化と相互行為一 た ひろ ゆき 成田啓行 人間文化学研究科 生活文化学専攻 l はじめに 人は l i Rす際に、その話している内容と花:接に関述 e p r e s e n t a t i o n a lg e s t u r e を、表象的ジェスチャー r した手の動きを頻繁に 見せ る。訴される 内容 は ,; 染 という ( 許多 2 0 0 2) 。 される内容を空間jの 中 に 去 象 する こ う し た 千 振 り だけでなく、手によるジェスチャーによっても 指小 表象的ジ ェスチャ ー ( 以 卜 「ジェスチャ ー」 と表 され、i"N i 写される 。 ケン ト ‘ンによってジェスティキ , ì~ ) は、指 Lt しのように形状がある干山主文 化的に 定 ユレ ー ション g e st icu la t i o nと呼ばれるこうしたジェ まっているものもあるが、基本的に衣 1 1にあたって Kendon. l9 8 7 ) は、空fI1 ¥において展開さ スチャ ー ( ,(~ . , ¥、i l lL i 皮 を持った表現だといえる 。 それはそのと れるという点て、背 11 2声認とは大きく予!なりながら きの文脈によって左右されやすく、 も、それと共に怠 l 床の表象に携わるものである 。 以卜ー の Hτl点で表す I;~~ に 、 l ' i Jじ対象を一つ I.ÎJ じ手ぶりが繰 り i起し用い ジェスティキュ レーシ ョンと似て 、身 体動作によ られるとは限らない ( McNel iU992) 。 だが、日常 って伝達 E I 甘な立 l 床表象に l 別わるとされるものには、 での会話場 l 而、特に ーがしきの話題内などにおいて、 他に手話、パントマイム、エンフレムがある 。 それ 人は矧似したジェスチャーの繰り返しによ って│司じ らにジェステイキュレ ー ションを 加 えた│川つは、共 対 象 を ぶ す こ と を 狐 繁 に 行 っ て い る 。 例えば、 起する発話のイf 1 1 1 .、万語 的性 質や似 i 守化の程度、 j D ; , / ¥とj と言いながら右手を 、 i Bさんがし、て j と言 │味的性質の点でそれぞれiX:別される ( l V l c N e 1 iL 2 0 0 0) 0 i i jに保 って1' , したと いながら左手を、それぞれ胸の l i A A計 "の f iいを説 ジエステイキユレ一シヨンとの閃 以 │ 弘刻j{係系に絞つて百え しよう 。 次にその て人のうちの ば¥ T 一 , ; 話 Rはジ エステイキユレ 一 シヨンに欠けている I VJ す るときに、品.fíーがお っ たイ l 千を I~J びl胸の lìíj に 11', f 1 : . 1 T 完 j 1 1 H . 干 i 訴 自 的 サ性 刊一 質を 〉ヒ eじ 令 に イ + 制 似 仙 仏 I 出 1 出えている' . 点 . して似るなとしたならば、 この保った形をした右干 かに呉なる 。 パン ト マイム には党話 が J~ 起しないと の継続使川によ って いう点のほか、 返しぶされていることがわかる 。 さらにこの後、 」つ 一つの身振りが文を作る i j i訴の " P d¥" という登場人物が繰り n al y ti cな ように線状的に任べられるという分析的 a 別しつつ、先に.人を表す手を配置し 人の │ 刻係を I j } tl 記号論的特徴を相違点として指摘で、きる (これに対 た二つの空 I I J位 i 丘の I I l jを下で総 を姉 くようになぞる してジェスティキュ レー ションには、すj 以丈 Nにとら こと もできる 《 ここ ではツ'~IIIJf止 il',: に付うされた丘 l床 一 つのシンボリックな形状や動きが l < .すイ が引き継がれ、そのときの l切り]の対象を指ボするの われず、 メージが、共起する発話文の全体に広がるという統 什 ÉI~syn t he ti cな特徴がある)。 またエンプレムとい うのは、例えば親指と人差し 指 で 1愉を作って r OKJ に利川されているわけだ。 このようにジェスチャ ーの衣 { l ' , に あたっては 、千 の形や1'))きの軌道、あるな l 床を 付与された フ ; :I I I H v :;~ì の立を点すサインのよ うに、特定 の十l 会的 ・丈化的 など、以前にジェスチャーで表さ れた 袋素を部分的 集団内においてその形と立 l 米との 1 1 1 ¥のつながりが共 に引 き継ぎ、再ヰ I J I JJ することがよく見られる のであ イjされている身振りのことである(Ekman&F ri e s 巴n . る。 もちろん、それは 一 人の j 早川者においてだけ見 1 9 6 9) 。 シェスティキュレーションとの以もほ[.(fな 1手のジェスチャ ー を繰り られることとは│取らず、キ1 i .fLl:i主点は、そうした ' [ ' n 7 l 化 の位!主 にある 。 もし親指 返すということもある c と小指で、輸をれることによ って 01¥サインをぷ 1' ,し ジェスチ ャーは、それが J J L{ J : の話の内容に関連し ようとしても、それは tllj 巡 って発行された言(~~のよ た立 I~、を持 っ た表現であるという 点で、 うに、 Jl:.{-fされている標ホ )r~ からの逸脱であるがゆ 動なとの身体動作から│三日Ijされる 。 そして、それは 自 己接触行 えに通川しないだろう ( Goldin-Me adowJ999) 。他 際単 ) 1'; を持たずその場に ~.S: j~~ 的 な表 現であ りながら 方、ジェステイキュレ ーシ ョンは、そうした'~'tI守に も、さらに誰かが訴を継続するときにその手がかり よる氾、 l 味と 1 ) ; ' 状の結びつきが弱 く、産 1 ' , 1 1に よる il の ー っとして、その全体もしくはー古1 ¥ を引 き継ぐ こ 発的でその場その坊に特tf の衣現 として捉えられる 。 年っている 。 とができるというね質を J 発話の -1 4 1として動く手は、話そうとしている対 繰 り 返 し に よ ってジェス チ ャーを 家 出す る こ と 象のある側面に類似した 動 きゃ形状をとる こ とで、 は、それが繰り返し冗のシーェスチャ ー と指示対象を ; ' i J I 羽に それを表すことができる 。 また、発話と共に } 共有 している こと を知覚しやすく す る。砂押 は互い ある存イ五物を指し示したり 、胸 の i l i j な どの Mもない の言;!?に未刊熟な 11 本語話~.と英語話~によ る工場 空間を指差して 、その場所を立 l 味付けた りする こと での作業[f' dこI V Jするやりとりの 中で、ジェスチヤ もできる 。 ジェステイ キュ レー ションの中でも、言市 ーの繰り返しが現イE の話題の T ' i 1 {認や維持に役立って 人間文化・ 43 繰り返しにおける表象的ジ工スチャーの形状の変遷 ージ工スチヤ ーの極性化と相 E行為一 データ 1 ¥/ b ﹁llk 一な一 一 い ヤは一 チで一 l l ψ ス一一一一 エ一ワ一一 寸ン 一ユ= ︿一ン一一 TI l 発韮 アロ阿口 あーなんかこなーみたいな感じでー│シュワーって│あれ? │手の動き ↑〈ジェスチャ -a> │その他 SI手の動き↓〈ジェスチャー c> ↑〈ストローク後の保持〉 ↑〈首を傾げる〉ー ー ー ↓〈ジェスチャ -d> h h h h h ( 0. 2 ) 厚=司とけるだけでシ戸万三│じゃないの │発語 TI発語 h h h hh h h - h - │手の動き↑〈保持続き〉↑〈右手で口を覆う〉 l その他 ↑く笑い〉一一一一一一一一一一一一 一一↑く笑い&頭部前傾〉一一 ジェスチャ -a ( Tによる右手の動作) : ストローク以前・・・指先をすぽめ、つまむ形にした手を口の前に上げ、小刻みに揺る(図 2 ①) ストローク・・・手を少し上げて鼻と口を覆った後、指を開きながら胸の高さに下ろす(図 2②) ストローク後・・・指を聞いた手を胸の高さで保持(図 2③) ジェスチャ -b ( Sによる左手の動作)ー ストローク以前・・・軽く握って左太腿の上に置く C ! X I D ) ストローク・・・手を開きながら、胸の高さに上げる(図 3ストローク後・・・軽く握って、左太腿の上に戻す ジェスチャー c (Sによる左手の動作) ストローク以前・・・手を左太腿から口の前まで上げ、開いた手で口を覆う(図 4 ①) ストローク・・・開いた手で口から首へとなでおろすような動き(函 4一②) ストローク後・・・左手を左太腿に下ろす ジェスチャー d (Tによる左手の動作): ストローク以前・・・手をつまむような形にして、左太腿から口の前まで上げる(図 5一①) ストローク・・・手を聞きながら、鼻の高さに上げる(図 5 ②) ストローク後・・・手を握りながら、左太腿の上に戻す 44 ・人間文化 繰り返しにおける表象的ジ工スチヤ ーの形状の変遷 ージ工スチヤーの極性化と相互行為一 2 0 0 2 )。重要なトピ いたことを指摘している(砂押 . ックを I Y H 在に ノ Fし続けることは、流暢さを欠くコミ ュニケーションの道筋を見失わす、に進めるのに役立 械法のやり } Jにつ つ。 また、シュトレークは、民間l 、ドった ' ) . fi 寅的なジェスチャーを、教不 いての説明に f された側が忠実に再現してみせている場而を 学げて いる ( S t r e e c k. l9 9 4) 。 そ こでは、指示対象の共有か らさらに 一歩進んで、解説話のジーェスチャーが会話 の巾で悦倣笑泌されている 。 それにより受け手の理 解のチェ y クが、 言葉によるよりも具体的かつ l 直接 図1 的に成し遂げられている O この砲の理解チェ y クで r シャーって」 はジ、エスチャーの類似の干り立が強く問題とされるだ , Jけ加 │えられたものは何か。それ のか。 また新たに 1 ろう 。 また、 一連の談話の 中で、共通する特徴を合む複 らを文!脈にl! J Iして検討していくことは、慣習による 数のジェスチャ ーがはられ る部分を、マクニールは 脱定に捕らわれないジェスチャーの表 1 '' , 形態につい キャ yチメントと 1 1 千んでいる (McNe i le ta L .200l )。 -で必変である 。 て問解する 1 一つのキャ y チメン卜 内で 、複数のジェスチャー ( ji 続して表れるとは la~ らない)は、ジェスチャ ー を構成するいくつかの安ぷを繰り返し J I Jし、ること 1からの分析に先立ち、その素材となるデ ー タ 次7 tによ について触れておこう 。 データは 二名の大学 ' 1られる 。 ジ で、同ーの対象を指示していることが生1 る対 l f i会話砂川市からの抜粋である 。 SとTはJ Uこ20 ェスチャ ーを観療することで、 しばしば談話はよ徒数 代前半の女性で、* J ! . し い 1¥j柄であ った。 各人には衣 のキャ ッチメントによって構造化 されていることが J J h U J 何 日1 1にピンマイ クを装ぶしてもらい 、会話 i tt ぢを I YJらかになる 。マクニ ール はこうしたキャ yチメン ト構造を、話-f i が談 I i Eの古1 1 分間をどのように関連づ MDレコ ー 夕、で録 ( ' iした。 また会話中の様寸こを隣宅 l にてハーフミラ ー越しにデジタルビデオカメラで録戸i けているか、 という話者の認知 f 内スタイルや発話産 した。侃影のゾ二施については、']1前に 一人に ; 1 7知し 1 ' ,の内 i ¥ Jな過干tを探泌するための千がかりとしてい 1 " 11はこうしたキャッチメントによる談 る。 さらに 1 てあった c訴の内作については特 に指示しなかった。 話の構造化が、個人 l人j だけ でなく、 11~1 人lI :j において 2 .分析 も}よられることを指 t~首している(占 111.2002 ) 。 繰 り返しの局所的分析 データ 1は Sが Tに、あるラムネ菓子の食!惑につ 以ヒのように、ジェスチャ ーの全体あるいはその いて説明をしているシ ー クエンスの一 部で、ある ( デ 構成要ぷの一 部の繰り返しという現象は、それが対 ータの見方は註 lを参照)。 これ以前の部分につい l 師会話において何を成し透げているかという観点か ては、次ヰrで詳細に分析する。ここではさしあたり、 ら検討される 一方で、、話字;の内的な過程を傑るため データ 1に先行する話の内容にごく大まかに触れて の 「 心の窓」 としても分析されてきた。それらの研 おこう 。 r 似性そのも 究においては、複数のジェスチャーの去i Sは r i分の敏いなラムネの特徴を詰mJするにあた の、あるいは ßti 似から生じる連続性に 1t/.~ が 、 ii てら って、まずラム ネには 「かたいラムネ」と 「やわら れている 。 イド杭はこの焦点を共イf するものである 。 かいラムネ 」 の二純頒があると 述べる 。続いて、 しかしこのような類 似伯 や連 続 性 が j t される│祭 般的なラムネが硬いことを他認したあと、それにあj に、その繰り返しを術成するジェスチャ一間に含ま 比する形で、 I~I 分 の嫌いな r * n れている相違点のほうは 、あまり取 り上げられて こ なかった。 **ラ ムネ (商品名 ) J を持ち出しその三党 I Y Jを始めてい る。 Tの知らない r ***ラムネ j の食 !惑について、 Sは 「シャー 」 そこで本稿では一つの会話抄 を取り上げ、 一連の というオノマトペと共に、聞いた右手を口元からあ で起こる形状の変遷を ジェスチャ ーの繰り返 しの ' 1 ' 微視的に分析する 。繰り返しによって 、先行するも て表現している(凶 1。 ) その説明を 受けた Tは疑 のから何が引き継がれて 、何が引き継がれなかった 義を呈する 。 データ lは、続いて説明 を受けている ごにかけてなぞるように下げるジェスチャーを使 っ 人間文化・ 45 繰り返しにおける表象的ジ工スチヤーの形状の変遷ージ工スチャーの極性化と相互行為一 図 2 ジ工 スチ ャ-a f あーなんかとなーみたいな感じでーシユワーって」 図 3 ジ工スチャ- b f l ! J Iの Tが 、 Sの「シャー」という食!必について思い れた宅 I ¥ I j f 立i iにl 対しては、両行のジェスチャーは似 「 シュワーではないJ :しているところから始まる 。 当たる円身の解釈を表 1 ているとは λえない。 Tの右丁ーの軌道は 11 広から胸 データ l には 「 シュワー」という , i.~ カ, .度みら のl i jへという下 ) j向のものだったのに対して、 Sの れる 。これらはいずれもジェスチャーを伴っている 。 左下の軌道は太腿から!刷の山さにでる上 ) J向である それらのジェスチャ ーは江いに類似していながら、 というように、それらの動きの 向 きと起点 しかし、少しずつ Y i1なっている 。 ここで繰り返され 明らかに見なっている 。 Sは Tによるジェスチャ- るジェスチャーとそれに先行するジェスチャーとの aを引 き継く際に手の形を模倣したが、それ以外の 聞では、仰が同じで何が異なっているのか。 そ の } , ' . ( 要ぶには改変を力 1 1 えて表出していることがわかる 。 終点は に山 1して、二度の繰り返しにおけるジ、エスチャー 1 三状の模 しかしそれでも、発話 「シュワー」と手の ) の変濯をたと っていこう 。 倣、さらには前後に産' IHされているという H 手間的な ε 2-1 一度目の繰 り返し :T→ S Tは 「あーなんかこなー(粉)みたいな感じでー」 と発訴しながら、 J 行先をすほめた右手を uのi l i I に ト ー 2-G ) ) 。 そして 「シュワーって」 げて掃さぶる(出1 に伴 って、 l i手をひらきつつ 11 !Cから)j旬の 1 1 1 J Jさまで 卜ろしている ( 1 記1 2-1 : ) 。 以仁がジェスチャー a 要ぷによって、この Sのジェスチャ ーが先行する T のジェスチャーの繰り返しであることを兄てとるの はたやすい。 2-1-1.Sによる改変 さて、この最初の繰り返しにおける、 I i l i j.{fの外見 の泣いはわかった。次にその立 l 床内作を考慮にいれ である 。 ここで Tは 、 Sがすでに μせた 「オノマト ながら、 Sの改変がどのようなものだったのかを検 ペ+ジェスチャー j のセットを{史って 「シュワー 」 討する 。 そのために先行するジェスチャ -aの持制1 という対案を提出している 。次に Sが 「シュワーで を侃認することから始める 。 はなし づ とTの対案を存定する 。 このときの Sのジ 「あーなんかこなーみたいな感じでーシュワー っ ェスチャーは、 1 !1 2 3のように太腿の卜から)j旬の高さ て」 に伴う Tのジェスチャーのストローク部分 ( そ tげながら、その手を聞くものであった のシ‘ェスチャーが表す立 l 床内作を合む中心的な動作 まで / 1 ' .手を (ジェスチャー b)。 これらのジェスチャーの l b l * 冬 : I ! ( j W i(McNeil . l1 9 9 2 ) )は 、 「シュワー って」 の部分に 段I な形状をよよると、 Tの手のひらが I : : . ) jと話-fi.の身体 i i 1 1 J 1 i i 段│併としてイ i 同期しており、それ以前の部分は ¥ との 1 1 1 '間的な向きをとっている ( 区1 2一① )のに比 手が 11 元に上げられて保持される ;'\11 分で、ある ( I~I べて、 Sの手のひらははっきりと上を向けられてい 2一① )。 ストローク部分の動きを詳細に矧祭して 1 ; . : 1 3一② )という迷いはあるものの、j) J fいた T る ( みると、 Tは故初、その右手を一度顔に引き付け、 m先を; 1 日 の指先が卜に向かつて伸びている点は共通しており、 口元から引に及ぶ範岡を右手で緩った後、 基本的に両.(i.のジェスチャ ーは似ているといえる 。 きつつ 1 ; . I l I J きの到JきをIl J f始している ( 図 2一②宰)。 しかし、このときの手の動き、およびそれがなさ もちろんこのジェスチャーは、ビールや j え般飲料を 46 ・人間文化 繰り返 しにおける表象的ジ工スチヤ ーの形状の変遷 ージェスチ ャーの極性化と相E行為一 飲んだときのような 、 u内に拡がり舟に抜ける発泡 と問 1 i ' : tiÏ'~と 11 やその ちジェスチャ -bには 、特定の ? ばした U J L しているのだろう 。指を │ 二向きに や1 ! ぷ をl ' j 千の形は、 包の弾けた 係 │l I i Jのようでもある 。 他の身体古1 ; 位との ! ! 日 合 をぷ極的に利川 した ことを示 唆する痕跡が認められない。 ( の一 つは、 ジェスチャ -aと bで児な っていた/. こうした身体と千 の{立 i W刻係 はジェスチャ ーによ その動きの方 向で あった 。 Sは Tのジェスチャーに "にと ってiJi:'t:な問題であ る。 手 (もし る怠│味の表 1 合まれた ,, I' , は必ず くは他の身体部位)によるジェス チ ャー表 J m " Jへの動きを 引き継 がずに、自らのジ I ' Jきの 動きを取 り込 んでいた 。 この ェスチャ ーに卜 I 身体, 1 ' , 1 . i l l の 宅I r Jの",で、 1 iわれる 。 しかし、 ) J向付 けは 「シュワ ー」 というオノマトペに合まれ 体と いってもそれはさまざ まな品位 から成り伝って るイメージの ) j向性と近しいよう に思 わ れ る (f 9 ' J・ いる 。 T が 身 体の 1 i , ' Jりを 動くと き、それはどの 身f 本 O : 1 小" , を立;ち 糾 り、 ノ ' J < .f r iに予 って日i j!ける様 気 泡 がi 自 ; 1 位の f l ! J にあり、身体との遠 近 のね度 はとのくらい 汁 l に身 ジェスチャ - a にお なのか、その JI~J の安勢との |期わ りはどのようなもの いても、上に 1 ' "ば される 折 の l i J lきや、あるいは 、 わ かという こ とは、 M l r ' i l 切な会 l i Aの場にいるf,-にとっ 子) 。 もっともその )Jrí'J'I~ は、 ずかではあるが開 始川に丁ー がL 1 1に引 き付けられると て .t~~. に利 川 する こ とのできる 、応、 l味付け のための ft いう動作に合まれているものであった 。 Sはその子 似て、ある 。 そのように身 体を参照す ること で、空lI J i のJr~を悦倣し 、そこにある析の lí'J きと訓和 │ した h l i ' J " [: Ii'l:を I~~JIJ する こ とが "JíìË とな る 。 そのような区別 JIした卜 hへの折 l i ' Jを以わにしている 。 さらに、ジ ェスチャ -aにお は常に立識されている必、~ーはないカ f 、ジェスチャー への動きを加えることで 、 より いてとsっちつかずであった Tのひらの l i 'J きも、ジェ [ ' Jいていた 。以 スチャ - bにおい ては 明らかに上 を I │ ー の ことから、 Sのジェスチャーは Tのそれよりも、 こ の方向性の~素を強調しているといえるだろう 。 二つ 1のキ1 述点 は、表 : 1¥に使川 された宅問 1 , : iii'~ で ある 。 ジェスチャ -aの起 . 1 . ' . ( はr L I 身の 1 1の前一, i rにあ のJ i ( ll ' r あるいはそ の J l ' lf i J 平がなされるときには、部分 (I'~ { こ1 ι、 山化 され 、ヤ1 1 ] iを分 i ' j i J化 Li " ; '味付けるための T立てのーっとしてJlJi,、られるのである 。 l 床を欠 くジェスチャ ー b この 身 体 に 恨 さ し た よく は、オノマトペを介んだ ~~定文 「 シュワ ー ではない 」 に│ 百J J t JJしている 。 トヰ多によると、 日本 I t l Tの擬 i T而・ 擬 fi.~品は一般に、感情や!ぷ党総に jJI'i'J:された的慌 の 1立1 2一① )、 そ れ よ り は 多 少 距 離 が I J f Jくとはい り ( 「生のまま 」 の ぷ J J Lで あ り 、 そ の 広 1よはイメージ的 t休から 20c mと離れていないと こ i i ;・擬 態訊とぷ象的 ジ、エスチャー である 。 また擬音 I え、終点も1'1 身の ろにあった(同 2-① )。 しかしジェスチャー bで は ~ I"',;;\' {こ ~Jl.'r'f,:なタイミングて、 共起す る こ とから、そ は、手は上体と平行に出jき、終始その{所以 1 -の距離 の│ 際努のジエスチヤ一もイメ 一 ジl 的 内 ' │ 杓 ' 1 qな,心 L 心 、 ( 的 │ 内 什 削 甘 ケ 引 1 防 ' │ が上体と手のlIiJにあった 。 この j i l l j{iのジェスチャー とされる 。 ところが、行 主という論 J ! i ! ' I0 操作は命題 と身体との位前 均 │ 係の違いに i t1してみよう 。 1'10 なh'í~li に施されるがゆえに、擬ffj!i- 擬態 Jli を合 まず、 Tはジェスチャ -aを 1 1のすく i l ! J でわうこ む行〉仁文はすわりの J 巴いよとなりやすい ( K i t a. l9 9 i; とで、1'1身の身体感覚に 忠'ノだなぷ象をしているとい ; ヰ 多2 0 0 2)( 託 2) D 本データで S の発話した丈が 1 える 3 さらに Tはその準備 段 階 において、 「あーな ,;j,;話としてとのれ liUI 然にす半くものであるかは w~ い んかこな -Jですでに布千を r l ;じに迩び終え、 「み ておく z ここで寸行 f ,首したいのは、 Tの 「シュワーっ たいな感じでー Jの l I i J 保 て」 という発話、さらに I l i J W Jしている身体と関連付 nしな がら {iTを小さく揺 ! : tに H体性の豊かなイメ Tは 1 1との つ な が りを早くから倣保し、 これから 1 i われる去象との I ' A J けられたジ‘ェスチャ ーが 、 述を予L兆していた 。このように Tのジェスチャーは、 そうした特徴が i-!.~t れている ということであ る c 食感と I A ' J 係の派い 1 1の前で、行われることで 、身 体白; 1 Sは 「シュワ -Jというオノマトペを合んだ否定 丈を発して、パ柴のレベルで、 + l l fの提示した食!長 さぶっている c こうすることで、 m f 立を参 1,し、立!味付けられている 。 ブi、 Sのジ、エスチャー bか らはそのような身体 の参照によって 付'j-される心;味カ f抜け務ちている 。 ージ1' 1 0立 l 床の衣現 であるのに士、jして 、 Sのぷ : 1¥には 1 甘に取り扱っていた 。 このとき、ジェスチャ を命組' 1 ーレ ベルにおいても 、 Tの : 1 "した 2 3 1かなイメージ的 ) ) このジ ェスチャ ーの ス ト ロ ー ク の 終 点 ( 凶 3-J 意味がいくつか欠抗していた 。 ジェスチャ -bが身 において 、上{ 本と子との I I ¥ J I 同は 4 0 c m以 1 あり、しか 体と│刻わるわ1 ' 支の f l tさも、│司則する子?定文 の発話と も予は太 l 腿からまっすぐに 1 ~げられるものであるた 迎合しているように思われる 。 めに、その軌道は上体と、 1 ' 1Jに1 ' "びている C すなわ i に先行する Tのジ しかし、 Sのジ ェスチャ ーは q 人間文化 ・ 4 7 繰り返しにおける表象的ジ工スチャーの形状の変遷 ジ工スチャーの極 性化と相E行為一 j ェスチャーを簡略化しただけのものではない。そこ 出すことはできない。 ただシュトレークのケ ースと にもイメ ー ジ的な立 l 床は含まれている 。 Sが加えた 共通して重要なのは、 ( 1分の発話が終わ った後も、 変更点、上方向の到Jきの強調は、 「シュワ ー」 とい 手が相手から見えやすく、隠 ったときの自然な手の う食践に対して彼 k自身が捉えたイメージを反映し 位i i : : l と はI l j Jらかに異なった J 易 問Jに保たれているとい ているのだろう 。つまり Sのジェスチャ ー bは対象 うことである 。そのような場所で、の手の保持は、ま を命題的に取り扱いながらも、 一方で、相手とは異な だ何かが途中である、ということをほのめかし、場 るイメ ー ジ的な内容を仇:持している 。 ジ‘ェスチャ ー J f Jの兆候と 合によっては、その中断されたもののf1}I がaから bに移る際に、 S自身のイメージが付け加 なるだろう 。 ここでは Tの手の保持と同時に首を傾 えられたことの重要さは、次に Sが白身のジェスチ げている様子 ( この動作も保持されていることに注 ャー bの要素を繰り返して、ジェスチャー dを表Il¥ 意) とから、少なくとも Tが違和感とその対象を提 する際に F l j Jらかになるだろう 。 ジェスチャー dの表 示し続けていることはわかる 。それはおそらく 「と 出については 2-2で検討する 。 2-1-2. Tのふるまい ここまで、 Sが直前の Tのジェスチャーから、身 りあえず i lい当たる節を 言っ てはみたけれど、それ はさっきから Sが説 明 しているラムネの食感とは、 違 っているのではないだろうか?Jという疑念であ ろう 。 体部位の参照に基づく意味を剥ぎ取り、代わりにそ ' 1 'うジェスチャ ー bは、そのオリ 絞く Sの改変を 1 の主な運動の方向を下向きから上向きへと改変し ジナルである Tの保 J J 1 1したお丁ーを l i i j (こ、それと付き て、相手のTi J Iに従示したことを見てきた。 1 必察を続 合わされるように表 I Uされる 。そしてそれに否定を く街i 所に進める前に、 Sの 「シュワーではない」 と 手の逃和感に 1乎 ) ,、 , : i して、 加えることで、十n いう 7 計百中に Tが何をしていたかということを確認 問には相i@},r.s.が存在しているということを明確にし r " 1 分i 主の しておく 。 なぜなら、それはこの対面i 会話の一場面 i ている 。 さらに Sもまたここで同時に首をかしげる において、 Sによる発誌とジェスチャーの引用がど そぶりを見せている 。 こうした Sの振る女F いとも相 のような立 l 床を J すっかということを理解する上で重 ま っ て、,ì~ 行する T の違和感の表 1:1:\の維持は、この 要だからである 。 時点での両者の理解の隔たりを色濃くしているので sr シュワーではない」 に先行する Tのターンの 最後で、 Tは 「あ れ ?Jと言 いながら首を傾げ、 ( 1 らの綻示したラムネの食感に対する違和感を示して いる 。それは続いて sr シュワーではない」の問も 維持されている 。 さらにこの問、 Tはジェスチャ- ある 。 ここで 一瞬だけ、 Tの右手と Sの左手は、ジェス チャ一空間において瓦いに同じ形をして山会うこと になる 。 もし、ここでキ1違点の存証の指摘だけが S の主要な関心事であるなら、 SもTのようにストロ aのストロ ーク を終えた右手を)仰の前で、形状を変 ーク後の保持を行い、両者の手が対位される状況を えずに保持し続けている 。 Sはこうした Tのふるま 長く取ることで、対立を強調するという方 11告が可能 いを前にして、白身のターンでの 言葉とシ‘エスチャ であったかもしれなし、。 しかし Sはジェスチャ -b - bの表出を行っていたのである 。 のス トロー クの後、すみやかに左手を太腿に下ろす。 シュ トレー クは、主な話し手が一時的に聞き手に 彼女は、相違点の存在を明確にする 手 をすぐに l i l収 まわ ったとき、直前の自分のジ‘ェスチャ ーを 「 凍結」 し、続いてその相違点はどのようなものなのかとい させて身体の前に保持する例を観察している 。 そこ うことの説明に移る 。 では元話者が手を話とつながりを持つものとして提 示しつづける こと が、話を再開する準備として機能 それでは、 Tの右手の保持はいつまで続くのだろ うか。 この Sによる否定の表出 ( r シュワー では な していた ( S t r e e c k, l9 9 3) 。本デー タの Tの保持もこ ) が終了すると、 T(ますかさ いJ+ジェスチャ-b の 「 凍結」の一例といえる 。 ただしシュ トレー クの ず笑いはじめる 。この笑いと共に彼女の仁体は揺れ、 例とは異なるタイプの現象である 。 というのも、本 手の形も崩れ気味にな っていくが、まだ胸の前の保 デー タは Sが Tの知らない情報を説明すると ころで 持は続いている 。 Tが笑うとすくに、 Sはジェスチ あり、 「 凍結」 を見せた Tの立場はこの場面におけ ヤー cの準備動作として 、左手を口の前に上げる 。 る主な話し手ではないからだ。 したがって、この T この準備動作は約 0 . 4秒間続き、 Tは笑いながらそ の保持に 、発話の継続を予兆する機能を積僅的に見 れを見ている 。そして Sの準備動作が終わり、 Sが 48 ・人間文化 繰り返しにおける表象的ジ工スチャーの形状の変遷 ジ工スチャーの極』性化と相E行為一 図 5 ジ工スチャーd 「シユワーじゃないの 」 図4 ジ工スチャー C 「 サーととけるだけで」 , i J J U Jしてジェスチャ 「サー ととける 」 という発話と l 二つ日のジェスチャーは「シュワーじゃないの」 -cのストロ ーク ( 詳細は次節で述べる ) を開始する 。 に同期してぷ I Hされている(ジェスチャ-d :凶 5 Sがジェスチャ - cのストロークに人ると 1 , . J t I 寺 参 ! ! の 。 ここ で Sは J l:述の「シ ュワ ーではない 」 に C 川知l したジ ェスチャ -bによく似た身振りを見せて そして笑いながら、その右手の折先を必にあて、手 いる 。 これ ら二つの允誌の意味│付存はほとんと変わ に 、 Tは右手を円 j [ ;に上げ始めて、 「 凍結」 を解く のひらで口を桜う 。 このようにして、 Tが保持して るところがなし、。 しかしジェスチャ - bと dを比較 いた右手は、笑うという行為の一部をなす振る舞 L、 すると、そこには鎖似点だけではなく、当主化がみら ' 1 ,の維持は、 Sが相違点 に阿収された。違和感の表 1 れる 。 ここでのジェスチャ - dは次のようなもので を提出する間保たれ、柱1 :l11};},I~ の内符の説明を IjíI にし 1 三にした左 Tを口の前まで上げ あった。物をつまむ ) て解除されていたことがわかる 。 てから ( 同 5 ①)、子を!日l きつつ 5 4の高さに上げ 次節で、は、続く Sのフレースと同期するジェスチ る ( 1 ; < 15-: I ) 。 その忌終的な干の形状は灰1 3- ~ ャー C 、dについて検討することになる 。そこでは、 のジ ェスチャ -bと頒似している 。 しかしこのジェ Sによる 二度 Hの繰り返しが見られるが、その l f i l、 1 ' ,される空間位置が話者の L Jおよ スチャー dは、表 1 ここで始ま った Tの笑い が途切れずに絞いているこ び品付近であり、その点が 「シュワーではな L、 」の ジェスチャ -bとI l j Jらかに異なっている 。 そのこと とを先に記しておく 。 2-2 二度目の繰 り返し S→ S から折摘できるのは、 Sのシーェスチャー dは先行す 1 1 1位置をとることによ るジェスチャー bと異なる空 1 続くtf! S 分を見てみよう。 Sはすかさず次の発話に って 、 Tによるジ ェスチャ -aと同じ身体部位に根 人る 。「 サ ーととけるだけでシュワ ー じゃないの 」 ざした意味を縫いなおしているということである 。 というのがそれである 。 この文には同月]するジ、ェス 2-2-1. r サJと「シユワ -Jの対比図式 チャーが二つ観察される 。 会 つ 1は 「サーととける」に伴い、 ( 1身の nから これらーつのジ ェスチャー C と dは 、 J tに口の T i i j 首にかけての部分を左手でなでおろす動きである の空間を玄b きの起点としていた。 そこから、段初は ( ジェスチャ-c . 血1 4参! !日 )。このジェスチャーは、 下に、続いて上にと、連続して正反対の向きに振り データ 1以前に Sが 「シャー 」 というオノマトペを 分けられていた 。 そうすることで、 「サー」 と 「シ 用いて食感を拙写した │ 努のジェスチャー(図 1)と ユワー 」の一つの食感は表象し分けられているので 非常に似通っている 。つまり Sは ( 1身のジェスチャ ある 。 ここには Sが 「 サー」 と 「シュワ ー」の相違 を視覚的に明らかにする対比の│主│式を、ジ、エスチャ ーを繰り返し川いているのである 。音の類似と共に、 このジ ェスチャ ーの繰り返しによ っても、ここでの ー空間に作り卜げていることが見て取れるだろう 。 「 サー」 が以前の 「シャー」と同じものを表してい l ' で口という身体部位は、 一つのジェスチャー その r ることを、聞き手および観察者は知ることができる 。 の動きの起点になっているだけではなく、その対比 人間文化・ 4 9 繰り返しにおける表象的ジエスチヤーの形状の変遷 ージ工スチヤーの極性化と相互行為一 の基準点にもなっているのである 。「サ -Jと「 シ 新びたものとなっているのである 。 Sうのかとい ユワ ー」の二つの食感が具体的にどう i さて、 このようにシ、エスチャ ーの極性化という 観 うことは、音のみでは判然としなし、。 しかしジェス 点からみるとき、ジェスチャ ー aと bを未だ極性化 チャ ーの対比によれば、そのイメージの泣いは一 目 されていないものと して 、 -t ;f;りにしてよいだろうか。 瞭然である 。 この Sの表出に沿 って流れるのが Tの 笑 は、ジ ェス チャ -c、dに見られる極性の一極 、 笑いであることだけでなく、笑いながらの Tの以下 上万への動きという要素が明確に表されたのは、ジ のようなふるまいからも、この対比が有効であった ェスチャ - bにおいてなのである 。三度の 「シュワ ことがよくわかるだろう 。 Tはこの対比の図式の完 ー」 に同期したジェスチャ 一表 出にお いて、 Sは T 成する sr シュワーじゃないの j の表 I Uに至っ て 、 によるジ、エスチャ -aを見た後、すくにジェスチヤ 相互注視の状態から外れる 。 この動作の開始は、 ジ - dの表出に向かったのではなか った。 そ こに 至る ために、ジェスチャ - bというステ ップ を踏んでい ェス チャ - dのストロ ー ク部分の終了、つまり対比 る。 そこで Sは相!干のジェスチャーに 1 : ' 1 身のイメー 笑いながら頭部を前傾させ、これまで縦持してきた . 1 J き合わせるように提示して行 凶式の完成と ほとんど同時であ った。 ジを 加えたものを、 Sはすでにあ った素材を拘利用して、この対比の 図式をまとめあげている 。その図式には先に S自ら 定を行 っていたが、その段階の意義はそれだけでは が強調した上向きの動きがそのまま引き継がれて、 上 ドという対照的な方向を 両極とする純性を探り、i ' シ ュワ 重要な役割を担う ことになった 。 Sによる 「 てた 。すなわち、ジェスチャ ー bは、その後のジ ェ ー」 に同期したジ‘ェスチャ ー dは、こ の図式を作り スチャーの形状を分化 させるための手がかりとな っ 上げる過程で身体を参!!なした立 l 床を縫いなおし、対 ているのである 。 比図式の中に編成されているのである 。 ない。ジェスチャ ー bにおける 上方 への手の動きは、 2-3.分析 1のまとめ 2-2-2 ジ、 工スチャーの極性化 三回の 「シュワー 」 というオノマトペに十l ' ってぷ いまみてきた対比図式に含まれる 二つのジ、 エ スチ 山されたジ ェスチャ ーの変遂についてま とめておこ ャー C 、 dには、その運動に上下という正反対の方 、 う。最初の Tによ って表山 されたジェスチャ -aを 向性を指摘できた。複数のジェスチャーに 、こ うし Sが繰り返す際には 、動きおよび手のひらの I ! ljきに た対照的な要素によって互いに参照し合う表山形態 よって上方への方向性が加 えられ、さらに表出され がもたらされることを、ジ、エスチャ ーのJ 極'性化と 1千 る空間位置の変更により、身体との関述性が t;~ くな ぶことにする 。 っていた (ジェ スチャ - b)。次に Sが向らのジ ェ 手によるジェスチャーの外見を情成する姿素とし ては 、運動の軌道とその向き、手の形状とそれが含 スチャーを繰り返す際 (ジェスチャ - d) には、 1 ) 三 状、動きにおいて、先行するものにほぼ忠実な 引 き む方向性 ( 指先や手のひらの │ 向きなど)、表出され 継ぎが見られる 一方で、、表出位世の変更が、 I ヰび身 F、右と左、手 体との|刻~性を強くす る方 I"j ~こなされた 。 またこの る空間位置などがあげられる 。上と の) 1 目閉などのように、 手の形状や運動が本来持っ て 繰り返しの中で、ジェスチャーは根性化されてい っ いる対照的な要素は、それぞれ極性を構成しうる 。 た。 そのようにして、 Tと Sの双方が1'1¥し合 ったジ 複数のジェスチャーが極性の' l 可極 ( 例えば上 ェスチャ ーは、同じ 言葉が繰り返される中で少しず nを、 適切な関連付けをもって表出するときに、そ のジ、エ スチャーは極性を帯びたものとして現れる 。 つ変化していき、弁j比の図式を 作 り 上げることにな った。その最終的な対比の同式は最初から完成して このことを、すでに飢察してきたデータにあては いたわ けではなし、。それは先行するジ ェスチャ ーの めてみよう 。すると、ジェスチャ -a、 bの段階で 引き継ぎや改変、極性化によって、 i 新進的に成し遂 は、それらはまだ極性を帝びたものとして提示 され げられていたのである 。 ていないと 言 える 。そして、続く 「サー 」 と 「シュ ワー」の対比図式の表出にあたり、ジェスチャ -c、 3.分析 2 :談話における連続性 dが一つの発話文の 中で時間的に連続し、また動作 これまで集中 的に取 り仁げてきた部分は 、デー タ の起点 ( 口の前)を共有するという関連付けのもと 2の発話番号 ( 2 4)-( 2 9) にあたる 。 ここで改めてそ に上下に表 1' , し分けられることで、それらは極性を こに 至る までの絞緋を押さえておくことにしたい 。 5 0 ・人間文化 繰り返 しに おける表象的ジ 、 工スチャ ーの形状の変遷ージ 工スチャ ーの極性化と相E行為一 データ 2 Sのジェ スチャ ー I(0 1 ~23 の問、 0 1 S あたしもラムネいらんきらーい 0 2 T あたしもラムネきらいなん * │ 0 3 S おいしくないよねラムネ、あたし[* *]ラムネが一番きらい 04 T うーん T の目立った手の動きは、 頭部への自己樹桁動に限られていた) I01 寸 5省 略 05 T えっ、どんなラムネもきらいやわ ( 0 . 6 ) 0 6T [ h h h h h ] I07 指を軽く曲げた左手を胸の高さにあげ、 0 7 S [あんが]、やわらかいやっ │ 相手の方へ水平に押し出丸手のひら下 ( 1 .0 ) 08 T │ω 図 6、図 7参照 えつ 09 S くつ、ラムネかたいラムネと一、[やわ]らかいラムネがある 1 0T うん 1 2 I12 軽く握った両手を胸の前にあげ、右手を上に │ 1 1 T うそおー 左手を下にと同時に動かし円筒形を僻 S で、ラムネっていうさあ、[こう]ラムネがあるやん 1 3 T I15 図 6と同じジェスチャーをした後、手を保持し うん 1 4 T うんうんうんうん 1 5 S あれ企主ど士会 1 6T わりと 」で一度上下 [左旦よ] かたい[かたし、] 1 7 親指 ・人差し指 ・中指を伸ばし気味にした 1 7 S で、***ラムネはー 左手を胸の前l こ。手のひら上 1 8 T うんー ( 0 . 7 ) 1 9 図 1の後、口の前に右手を戻し保持。 1 9 S シャーってこう口んなか[で凶h ) 2 0 T ファーってとけるん冷て 「ファーって・ ・ ・ j で、両人差し指で自分の喉を [ h hh ] 指しその指をあごへ上げる c 2 1 T えーそれラムネっていうの- 2 2 親指と人差し指で , r r形を作った左手を 2 2 S ***ラムネって書いてあ[る] 2 3 T 胸の高さで左から右へ水平に動かす うそー] ( 0 . 8 ) 2 4 S [ あ0) 2 5 T [あー]なんか粉ーみたし、な感じでーシュワーってあれワ 26 S シュワーではない Cコ データ 1該当部 I 由 2 7T h h h h h ) 2 8 S サーととける[だけでシュワーじゃないの h 2 9T [ h h hh h ) 3 0 T 違うこと考えてるワ 3 1 S うんーちょっと違ったーたぶん 人間文化 ・ 51 繰り返しにおける表象的ジ工スチャーの形状の変遷 ージ工スチャーの極性化と相 E行為一 r 図6( 0 9 ) かたいラムネと r 」 図7( 0 9 ) やわうかいラムネがある」 25)や ( 28)で突如 「シュワー」ゃ「サー j の表現は、 ( 明している 。 として、それまでの文脈と無関係に現れたものでは ない。 さかのぼって検討することで、それに至るこ 1 、 与 Sはジェスチャーによ っても 、この"硬 この1 柔らかい"の対比を衣している(1立1 6、凶7)。 い とになった過程をもう少し長い時間単位で追うこと Sは顔の前でゾ c手の指先をつまむようにして 「かた がI I J 能になる 。その過程には、データ lで検討した いラムネ J( もしくはその硬さ)を去し、次に J I f J い た 対比図式に述続していく~素がいくつか含まれてい f :で る。 また、ジェスチャーの極性化について、デ ー タ を表しているとみる ことができる 。 このジェスチャ tげ、その H与の相互行為 ーは物体の構成要素の凝集と解離のイメージを型取 2に含まれる他の例を取り mで考察してみたい。 の流れとの限 「 やわらかいラムネ J( もしくはその柔らかさ ) ることで、その対比の明石在化に 一役買 っている 。 3-1. r かたいJと「やわうかい」の対比と極性化 まず、データ 2の始まる直前では 「 お某子のおま これら 二つの手は 、指先が接触しているか 1 mいて いるかという点で対照的である 。つ まり、ここにも 徳性化 したジェスチャーをみることができる 。本節 けについてくるキャラクタ一人形」 についての話題 の以下の部分では、 このジェスチャ ーの根性化に焦 が交わされていた。 2人には共通して欲しい人形が 点をあてて検討する 。 あるのだが、それはラムネ菓子のおまけでついてく ( 09)の後二│ 三で表 出 されているのは、手の 1 m閉か るものであった。 これが、 ( 01 )( 02)で 2人がラムネ らなる極性の一極をなす、手を開いた形のジ、エスチ が嫌いであることを互いに告げ合 っている部分を導 いている 。 ャーであった。 これは 「 やわらかし づ という 言葉と r ** 共に現れているが、 同 じ言葉が ( 0 7)ですでにジェス でも 0 3) で Sはラムネの 11 *ラムネ 」 さて、 ( が最も嫌いで、ある、と具体的な商品名を / 1 ¥して述べ チャーを伴って表出されていることに j 主目したい。 る。続いて Tが l 床内容を解釈するのが悶難であるような外見をして r ***ラムネ 」には触れずに、 (05) この ( 07)のジ‘ェスチャーは、その形状や動きから立 「どんなラムネもきらいやわ Jと発言する 。その後、 いた。それは指を丸めて!経く搾ったような左手を胸 Sは *ラムネ j の特徴を述べている 。 ( 07) 「やわらかいやっ」というのがそれである 。 これに の高さに上げて 、相手の方へ水平に押し出すもので r ** ついての Tの反応は、 r l秒の沈黙の後の ( 08 ) えっ J というものだった。 あり、 「やわらかいやっ 」 という対象物を指示して いるのかもしれないが、それ以上の意味内容が推iJ!1j できない。つまり、そこには(09 )での 「 やわらかい 09)で 「く この反応に促されるようにして、 Sは ( っ、ラムネかたいラムネとーやわらかいラムネカfあ ラムネ 」 に伴うジーェスチャ ー との類似点が見あたら ないのである 。 る」と、よくある(と S7 う f考えているであろう)ラ 0 7 )と ( 09)には 「 やわらかい」 と このことから、 ( *ラムネ 」の ムネの特徴と、それとは異なる 特徴を、 “ 硬い /柔らかい "という対比において説 いう言葉の繰り返しはあっても 、 ジェスチャ ーの繰 r ** 52 ・人間文化 り返しゃ要素の 引 き継ぎはない ことがわかる 。 さら 繰り返しにおける表象的ジェスチャーの形状の変遷 ージェスチヤ ーの極性化と椙互行為一 にそれらのジェスチャ ーの間には、極性のイ可無とい ーが見られるようになった 。 ( 07)でのあやふやな手 う~いが桁摘できる 。 前立で分析した場聞では、 の形に比べると、(09 )での「やわらかい」 という性 IriJ ( 1シュワー J ) に同期したジェスチャーが繰 t ' 化されて り返されながら改変を経て、段階的に極't じ言葉 質を Iljj 碍に表す手の )I~ からは、 fl'lí 写において注 11 す る性質が絞り込まれていることがわかる つ しかしそ いた。 しかし、ここで「やわらかい」 という吉栄に の絞り込まれた性質 ( 1体は、 言葉には(07)において 同期する てつのジーェスチャーの形状の間には、引継 ' ' に すでに表れていたものであった 。それは対比の1 ぎや改変といったことを指摘することが新しい。 こ 位世づけられることではじめて、ジェスチャ ーにお こでジェスチャーが極性化するにあたって、起こっ の後 、 いても変ーを現すことになったのだ。つまり(07) ていることはなんだろうか。 この一つのジェスチャ ーの遣いには、 Sが自らの 説明に"T19Iい 柔らかい "の対 比 を持ち出してきた S が 「 知 っ ている者 」 としての \J.~易から説明の万 l略 として対比を J淳人する 。 それが、ラムネの性質に沿 って予を形作る ことを ) ; I I l j づけている 日 (1 : 4) 。 そ ことが強く影響していると忠われる 。 Sがこの対比 うして、まず折;,t:を結んだ手で 「 かたいラムネ 」が を持ち出すに至った続出与を詳しく兄てみよう 。する イくされ、続いてその刈位にあたる n r J "、た千が表 Il¥さ 07) で最初に 「 やわらかい」と述べた後には、 と Sが ( ( こf 1 、 ' ド iうジエスチヤ 一は れることで、 「やわらカか、い Jに l秒の沈黙が観察できる 。 和 村 傾 師 骨 恢 去 則 刊 , ↑ 判 1 1 1 I J ¥の両省のふるまいは以トーのよ この一秒の沈黙のI 時 │1 川 1 川 l 目 l リ l がi 山 前 l i 日 i j f 後走するが、両行の W J係の変化と対比の導 うであった 。 Tは左手で首の後ろの髭の毛を触りつ 入について、(03) から ( 06)にそのIi J芳となる部分カ f認 つ、少しだけ顔を右下に傾ける 。 しかしそれは I l j Jら められる 3 この筒 J 折は 、ノT 凡てきたジェスチ ャーの かに相手から i泌をそむけ、悦 k~j! を外すというほど、 極性化のプロセスにとって興味深い点を合んでいる 。 大きな動作ではない。 よそ見をしているというより ( 03)で Sは 「おいしくないよねラムネ、あたし 本 は、与えているといったふうだ。 - )jSは Tを I Ei 面 f lは話題の * *ラムネが一需きらし づ と述べる 。 中 I から見つめている 。 このように、沈黙の間には、会 1 話以外のものに作意が移ったり、発戸に関するなん るパターンとして、パ反対象の判定化 ・4 、特定化を らかのトラブルが生じたことを制祭可能にする 1 1 1 . , 来 指摘して いる(庁z旺 1 . 1994)。 それはこの Sの言にも 事(例えば、咳払いなど)は何も起こ っていない こ 1 i てはまるだろう 。すなわちこ こでは 言及対象の移 とがわかる c つまりこの沈黙を、会話内容以外の要 行が、ラムネー両党という幼から 凶に帰属させる表示は特に見られないのだ。 いう f t移につ いての論与の ' 1 'で、会前中に頻繁に見られ 1 ***ラムネ Jと F位飯へと、特定化される )j向に進んでいるの その後、 Tは(08 )で「えっ 」 という最小限の 弓語 である 。 しかし Tは、そのラムネについての言及を 的以応を、顔を tげ悦線を Sのほうへ戻しながら、 することで話を続けるのではなく、 ( 05) 1 えっ、ど 返している 。 これによって、先の沈黙で Tは 「 やわ んなラムネもきらいやわ」 と、再びラムネ 一般につ らかいやっ Jに対して思い当たるところを探してい いて述べている 。 この応終は、 Sの行った特定化を たが、特に無かったという I J能性が高いことが、 S l j iに逆方 I f ' jへとなぞり返すものであり、いわば相手 や観察者にとっても鋭い知れる 。つまりここは、 ( 01 ) に肩透かしを食わせるように間こえる 。実際、次の や(02)に見られるような「ラムネカ滞在ぃ」 という立 0 . 6秒の沈黙のr:¥Jには、 Sが nをI J f Jけて肩をすくめる 場を共有した状態から、 「ある純のラムネについて 動作をしており、続いて Tが笑いを表出している 。 t 日っている の構図が移行しつつある場 │ 而なのだ。沈黙や 「えっ 」 ここでは、 Tはまだ 1 ***ラムネ 」 を 「知らな い者」 の 立 場 に 置 か れ て は い な い 。 その状況で、 という反応は、そのことをイT 標化し ている(註 3。 ) ( 07)において、 j J Iらなし、」とし寸状態へと、 二.人の関係 Sは先に T から積極的に応答されな そして続く部分で 「 知っている者 」 としての立場 かった対象を、今度はその特徴を述べる形で、再度 s t f l j Jが行われる 。 そこで Sは 「 か にある Sによ ってr. J 寺ち出している 。 そして、それに 同期するジェスチ たいラムネ 」 との対比で「やわらかいラムネ Jを窓 ャーはまだ極性を街びていなかった 。既述したよう I 床づける万略をとる ことになる 。 に、この後、両者の関係の変化が有限化 される部分 そうした過科を経て、(07 )1 やわらかいやっ」 と を経て、対 比 に沿ったジェスチャ ーの極性化がみら ( 09) 1 やわらかいラムネがある 」 という同じ指示対 象を持つ二つの発諸問で、異なる形状のジェスチャ れることになる 。 その対比は、ラムネ一般という類の下位類同上の 人間文化・ 53 繰り返しにおける表象的ジェスチヤーの形状の変遷 ージ工スチヤーの極性化と相互行為十 比較であり ( rかたいラムネ J / rやわら かいラムネ 」、 十行で円前主9.を 1~i き、 「かたいラ ムネ 」 の具体例をあ ジェスチャ ーにおいては、 ( 0 9 ) で初めて形をなす げる 。推 i ! J J I ではあるが、この I J J筒形は炭酸飲料のラ ものであった 。 しかし言葉では、潜在的にではある ムネの瓶を模したプラスチック製の容部を表してい が、先行する(07)にすでに表れつつある 。 というの 下った るように 思われる 。「 こう 」 という指示詞を f r 05) どんなラムネも Jというラムネ 一般 は 、 Tの ( このジ ェスチャ ーの示すところは相手にもよく伝わ 0 7 ) やわらかいやっ j とそ に対する言及に、 Sが ( ったとみえて、 ( 14)での Tの返事にはひときわ積極 r 位類の特徴を挙げて続くとき、そこでは日J I の特 のF 的な口調と 「うん」の反復が見られる 。続いて(15) 音に示さ 徴を有する下位矧が他にも存在することが H で Sは 「あれかたいやん」 と(12 )で示したラムネを れているからだ(註 5。 ) もちろん、この状態は対 λ東一で指しながら、f!I び 比以前の、その要素が言:業の上で揃えられようとし を用いていることが観察できる 。 「かた L、 」のジェスチャー それに 比 される「やわらかいラムネ 」 は、 ( 17 ) ている段階である 。そうした要素が対比の形をとっ r ***ラムネ 」 にi " i t : きJ 9 4えられて説明されるこ て表されるのは、阿者の立場が変化して、 Sが 「知│ で っている者」 としてそれらを取り扱えるようにな っ とになる 。 (9) はその特徴の l~ 体 f内説明である 。 てからであった。 はこの説明をするにあたり、すでに相手から疑義を S ここで肝心なのは、 言葉のレベルに対して、ジェ 挟まれた 「やわらかい Jという特徴に代わって、食 スチャ ー レベルではまだ対比につながる安主主が何も !ぶという新たな i J ! l JI(~ を探刑している 。 この発活文 の 提示されていないということだ。それは極性化につ I j ' に は 、 てつの オノマトペと 1 1や/ l1 'kに根ざしたジ ェ ながる動きがまだみられていないということでもあ スチャーが比られた。 Sはまず「シャーって 」 と発 る 。 前 ì';~L で分析した 「 シュワ - J と 「 サー 」の対比 話するのに作い、右手を 円疋から顎の下あたりまで │立│式の形成の過程では、直前に Sが表 J I"したジェス 下ろし ( 図 1)、身体と官接な関連のあるイメージ チャーの動きを、極性を J 栄り l . i 'てる手がかりとして をオノマトペと共に表 1 ¥ 1している 。これは既にみた、 r ' 1 1 ら再利用する ことで、図式を段階的に完成させて ( 28) サー ととける」の際に Sが行ったこと(図 4) いた。 しかしここでは対比の導入やジェスチャーの とほぼ同じふるまいである 。 ( 28)では、右手は L Iか 極性化に、そうした手の動きや形状の変選から捉え " 1収されていたが、ここ ら/1候に下りた後太腿の上に 1 られる段階性は指摘できない。 むしろ 言葉に表れる での右手は内-ぴ、L17 じにトーげられ f l lまっている 。 そし 局而に、対比を作りLlJす段階性が認められる 。 ここ てSは 「こう、くちんなかて、 hhhJ と亘っ たあと、 でジ、エスチャーの筏性化の直接の契機となっている 「ファーってとけるんやて 」 のオノマトペ部分と!,fiJ のは、 SとTの 1 1 ¥jの相互行為で起こった両者の関係 . J l : JJして指さしの形にした両手の人乏し指を1 / 伐のあた の変化であ った。 りで 1 、から上に動かす 。 Sの発 言 では(12 )悶様、 以上のように 、 ジ、ェスチャーの純性化 は、いつも 「こう 」という 指示詞が!日いられ、ジ ェスチャーと 械性化以前の手の動きがそのきっかけとなっている それが参照する身体部位への注立が促されている 。 わけではなし、。 しかしそのような場合にも、 J葉の レベルやその場の相互行為の流れの中に、極性化を 2 5) ここで Sが行 っていることの中には、後の ( ~( 28 ) での T と S の両名ーによるジ ェ スチャ -1<11',に 導く契機や段階也を指摘することが可能である 。 とって、直般的に影響を及ぼすこ点が指摘できる 。 3-2. r オノマトぺ+ジェスチャ J形式の使用 第一点は 続く部分の検討に進む。 Tはこ の対比で示された M オノマトペ +身イ木を参照す るジ、エスチヤ ー"の形式が、この 速の談話において初めて月 l 、 し られた ことである 。 この表現形式は、これまで の 「シャー J& 「 かたいラムネ Jの存在に(10 )で 「うん」というあ ・硬い ノ柔らかい"あるいは‘硬い いづちを打つものの、 「やわらかいラムネ Jの存 . 1 ': 「ファ ーj'の 対比では納得できなかった Tによる代 については、(11) うそおー 」と疑義を呈している 。 案( 2 5 ) シュワー 」の挺示 (ジ‘ェスチャ-a :1~12 ) r これに対し 、 Sはすぐに直接その疑義に応じるこ r に、引 き継がれている 。 r とはせず、 「でJという表現でまだ説明に続きがあ 第二 l i 、は、(19) シャーって」 に伴うジェスチャ ることを示しながら、その二種類のラムネについて ー( 図 1)が、その後 ( 2 8 )で Sが見せている 二つの食 具体的に述べ始める 。 (2)の後半で彼女は 「こうラ !惑の対比図式の前半部分 ( 図4fサーととける J )に繰 ムネがあるゃん」 と言いながら両手の親指と人差し り返し採用されることである 。 ( 19 )には 「シャァ ー 54 ・人間文化 繰り返しにおける表象的ジ工スチャ の形状の変遷 ージ工スチャーの極性化と相 E行為一 って Jだけではなく、 「ファーって 」 というオノマ うとする段になって、すでに先行部分の │ 勾にtI"てい U l トペ+シーェスチャ ー衣ぷ↓も存在していたことに i た素材を必什1 おが j I D i~JIJ して再利 JFJ したということで したし、。 というのは、 ( 2 8 )で Sがこのうちの前おを ある 。 選んで対比 │ 立│式に組み込んで、いるからである c 後者 のジェスチャーの方向性(指を , g ( I 1 から口に、すなわ Uから ち│ごから上へ動かす)よりも、前者のそれ ( 4 .おわりに 発訴に1't:う 1 ' 1発的なジェスチャーには、その表 I U Fへ)のほうが ( 2 6) で Sが付 │ 手のジェスチャー 形態に及ぼす社会的 ・文化的な拘束が言語に比べて 古 l ' t '1と を繰り返しながら新たに強調した上方への万 l 格段に緩 いという 特徴がある 。 それゆえ、特に 青葉 顎の 好対照をなす。 すなわちそれらは極性を作り 1 ' , し 、 と州知l して意味│勾符を f N i り的にぷすジ‘ェスチャーに おいて、それは崖1I',1tがその場ーで作り出す創造的な 対比の図式にうまく当てはまることになる 。 この (9)の Sの説 I l jJ には、 (21)で 「えーそれラム 表現としての i l ! JI { l iを強く l l び疑問を投げかけている c ネっていうのー 」とTが T nっている 。 もちろん 、それは 「なんでもあり j というわけで Sはこの疑問に、菓 rのパッケージにラムネという は伏してな L、 ジェスチャ ーの形状には、 ぶそうと H 'ち1 ' , して 1 1 1答する 文字を合んだ名称があることを . する対象のある側 I f Uとの類似性が大きく作用する 。 が 、 Tはさらに 「うそ -Jということで応じている 。 またジェスチャーは、物的 I lt 'N での行為やj;LI ~哉と連 ここ での 川題にはもはや“破い 続1 ' " 1 : を 判 っている ことも J 行摘 されている ( Lebar on 柔らかい の刈比 &S t r e e c k. 2 0 0 02 0 0 2) 。 これ らの抑止と条1'1は 、 ジェ では終えることはできなくなっている コ 0 . 8秒の沈黙を経て、 1 , 1 , j ! > i . は l , i J l l ; ' jに品し始める 二 スチ ャ ーの~(l1', 形態のための 枠組 みを j}{ 1J~する c し Sは途中で発話を止め、 Tが 「シュワ ー」 という思 かしその作はジェスチャーのJI'~をあらかじめ 1",1 定 い虫たる食!惑を:i!日 U ! ぷとc! . t に提示す る ( 25)c これが し、決定してしまうものではな L、 ジェスチャ ーは 新たな対比 "サー シュワー の引 き令となり、 T のジェスチャ ーもそ の巾に組み込まれることに なる その枠組みを保持しつつも、状 Ó~ { こ!ふじてその Jf~ を 会化させる柔軟性を川一っている 。 本論で 1記述したのは、会話の流れの中で繰り返さ のである 。 れるジェスチャーが、先行する炭素を合みつつ改変 3-3.分析 2のまとめ デー タ 2は、冒頭の数行を 徐 │ き、令体的に Tの未 知の情報について Sが教えるという場面だった。 目 頭部分では、そうした両者ーの i ; j 1Iっている 知│らな ' . 1 :じるのに伴い、シーェスチ い」 という立場の遠いが- i がれながら、その姿を l 1 を胞され、また後続に引き t F 2 1 新進的な 次第に変えていく過 で、あった c そうした i 1 7 ぎ 主化のプロセスにおいて、 未分化な ものが極性を 3 びたものへと分化 していく、ジェスチャーの極性化 iJ~ I,~られた c 1',形態は、他者、あ るいは応出 ジェスチャーのぷ 1 ヤーが極性化するところを観祭した 。その後、会話 は Sが提示する情報について Tが疑義を ' ' lし 、 I I }I 支 -!>í~ S が手を変えて新しし、情 (:I~ を Ij, すというプロセスに 能性を含み続けている 。繰り返しを経て、 られる[lJ よって進行していた 。本例において、 Sから Tへの i ' I身によって何度! 日 い られるときに、1f更を加│ え 説明に用いられる対比の t Hl i みの構成立Zぷは、 Sが 完成」 したかのようなジェスチ ある 1的の下では 「 , ャーが現れたとしても、それはなお見なる文脈の q 相手の反応に応じる ' 1 'で辿統的にずらされていき、 J能性を内に泌めたものとし でのさらなる変更の I その変化の流れに治うようにして、繰り返されるジ て、身体の前の雫問に投げかけられているのである 。 ェスチャ ー もまた姿を変えてい ったc 以ヒのように l i i j1'i',でづ刊行した“サー シュワー -謝辞 の対比の l > < 1式が作られていく逃れは、それ以前の部 ~(,論文の執筆にあたって、 ìú 質県立大ザ:人II\ J x . 化 分とも連続性を持っていた 。 その立 l 床で、 ( 28) で 学部細 H~ ' J i ;通先生に御指導いただいた。 ここ に記し Sが揃いた対比の凶式は、先れする白; 1 分によって準 て、謝 ~Ô: を表したい 。 備されていたとも言える 。 ただしこのことは、その 図式の完成をゴールに設定し、先れする古1 ; 分がそれ -註 1 1 "1 面的に収点してい くという侃点をとる こ に向けて 1 トランスクリプトの長記、使月 j記号について とを怠味するのではもちろんなく、出l 式が拙かれよ デー タ 1は、 2段か らなる 。 各段は STそれぞ 人間文化・ 55 繰り返しにおける表象的ジ工スチャ ーの形状の変遷 ージェスチ ャーの極性化と相 E行為一 れの発話と手の動き、 f えび Tのその他の身体動作 「対比」 の使用に焦点を あて、その話旬をJl1いて 一線譜の ように左から右へ進行す の 5行を含み、子l いる 。 る。すなわち l段目の冒頭は S T共に 「あj と発 ***ラム ネJに 「一番Jという 5 ( 0 3)で Sが " [ i r 話しており、 J l i J I I . fに T によ ってジェス チャ -aが / l 位付けをしていることにも留なされたい。 この 開始 されていることを表している 。 2段日は 1段 表現は 「 一番 j ではない他のラムネの符在を合立 目の続きである 。転写に使用した記号は以 ・ あーなんか' Fの通り 。 下線付きの発認は、ジェスチ -文 献 している 。 ヤーが同月l Ekman.P.&Fri巴s en.V.W 1969 The r e p e r t o i r eo f E三豆ヨ" ・…・・四角で囲まれた発話は 、 ジェ 白 スチャーのストロ ー クと同月j している 。 -↑"、“↓.… > 内の動作の継続を表す。 . .( 0 . 2)" …・・…・沈黙とそ の長さを表す。 この 場合 0 . 2 秒のポーズ。 h¥・…... . .. ..笑い。 “ ,?"…・ … …-話l 毛が i 二がっていることを示す。 0":一…………聞 き取れなかった箇所を示す。 │ て記以外に以下の記号が使 J J Jされ ている 。 . .[ ] " 一-… ・ ,*" ・ 一 一…・ o ri g i n s . u s a g eand n o n v e r b a lbehavi o r :c a t e g or i e s, c od i n g .S e m i o t i c { /. 1・4 9 9 8 古山宣洋 2 0 0 2 " [ 発話と身振りの記号論 <>内の動作の J J f J始点を示す。 . .Tの「その他 j に お け る < データ 2では、 している 。 個人内お よび例人間での発話と身振りの協調による談話の r 構造化」斎藤洋典・ 点:多壮太郎(編 )2 002 ジェ 5 5 7 9 スチャー ・行為 ・な 1ぷj,共立出版 : Goldin-Meadow.S. 1999 The r o l eo fgesture i n communication and t h i n k i n g万四 d si l 1C ogni t iv e ,3: 41 9 4 2 9 S c i e n c e s . 1987 On gesture:I tscomplementary Kendon.A r e l a t i o n s h i p wi t h speech. In Siegman.A.W.& F e l d s t e i n .S .( E d . )N o n v e r b { / fb e h a v i o r{ / n dc o n m u m i c a 仰 n . LawrenceErlbaumA s s o c i a t e s .1 nc .: 6 5 9 7 話{i ' J 旬での重複発話を示す 0 ・伏 1 せ字 。 2 しかし、形容動詞的な用法のオノマトペ n o m i n a l 去の mlmet l cs はその限りで はなく、副詞的な用 j オノマトペ a d v e r b i a lmim巴t l C S に比べると、何 定という論理的操作を許容する余地を広く持って K i t a. l997) 。 いる ( K i t a . S .1 997Two-dimensionalsemanticanal y s iso f ] apane s emimetics. L i n g l l i s t i c s .3 5 :3794 1 5 r 喜多壮太郎 2 002 ジェスチャー:与えるからだ j. 金子書房 串I J J秀也 1994" [会話における トピ ック 推移の装世 r 系 J 現代社会理論研究J .4: 1 1 9 1 3 8 C .&Streeck, ] . 2000 Gestures.knowledge. LeBaron. 3 イ王様化については、問阪 ( 1 9 9 9) を参照。 and t h e wor l d. In McNeil . l D. (Ed . )L a n g l l a g eand 4 発話の 産 出過程に|主l するマク ニー ルの J~ 論にお g e 5 t l l r e . Cambr i dge Un iver s i t y Pre s s :1 18 1 3 8 .( 池 いては、 言葉とジェスチャーは同ーの心的表象を 村大一朗 ・喜多壮太郎( 訳)[ "シ‘ェスチャ一、知識、 「 純」 としてその起源に持ち、それが内的に成長 を遂げた後、それぞれの表 1¥ に至るとされている 。 この 「 磁」 は成長点 growthp o i n t とH 乎ばれる、 発話のための思考の原初的な単位である 。} 成 £ 長 長 : } の生成には、背原;となるそれまでの文脈から次な 世界 j斎藤洋典・喜多壮太郎(編)前掲書 1 8 3 ・ 209. ) . lD.1992 H仰 d{ / n dmind:Whatg ' 凸t u吋5r 'e v e a f McNeil { / b o l l tt h o u g h t .Un iver s i t yo fCh i c a g oP r e s s . . lD .2000 1 n t r o d u c t i o n . 1 n McNeil . lD(Ed. ) McNeil i b i d . . Cambr i dgeU n i v e r s i t yPress: 1 1 0 る発話の基となるものを区別する上で、思考にお McNel i . lD .2000 Growth P o i n t s .Catchmen t s. and ける 「 重要な対比 S i g n i f i c a ntcont r a stJあるい Contexts. 認知l 科学 :J. 7 -1 .2 2 3 6 .( 石野美香 (訳) r は 「 対立関係の場 f i e l do fo p p o s i t i o n s J が大きな 「成長点、キャッチメント、文 J J J RJ 斎藤洋y4-・喜 McNei l . l1992, 2000/2002) 。 意義を持つとされる ( 7・24-54) 多壮太郎 (編)前掲 1 こうしたことは、本稿のデータにおいて、 Sが見 McNeil . I D..Quek.F..McCul lough.KE ..Duncan.S せている 「 対比」とも強い関連があると思われる 。 Furuyama. N. . Br y l l, R ., Ma.X-F.&Ansari, R .2001 ただし本稿では、心的な要素ではなく 、 SとTの Catchmen t s .prosody and d i s c o u rs e .G e s 仰 げ. 1( 1 ) 相互行為に顕在している、説明の 1 J1格として の 9 3 3 56 ・人間文化 繰り返しにおける表象的ジ工スチヤ ーの形状の変遷 ージ工スチャーの極性化と相互行為← r 999 会 話 分析 の練習 ー キ 1圧行為の資源と 西阪仰 1 しての言いよどみ」 好 井俗 I l j J・i JI l l J富 秋 ・西 阪 f ! [ J r ( 編 ) 会話分析への招 待 J世界思 想 社 71 1 0 0 S t r e e ck .J .1 993 Gestu rea sc ommunic a ti on 1: I ts C o m m l l n i C a U OIl c o o r d i n a ti o nwi t hg a z eands pe e c h. M o n o g r a p h s .6 0: 2 75 2 99 . S t r e e c k. J .1 9 9 4Gest u reasc ommunic a t i onI I :The .Rιe a r c ho nLanguagea l l d Audi enc ea sc oaut hor 7( 3): 2 3 9 2 67 S o c i a l l n t e r a c t i ol1.2 r 砂 羽 I i 什l 住子 2 0 02 典 文化 問 コミュニケーションに ジ、エスチャ ーが 果 た す 役割 ある 日系 E坊におけ る日米従業員 I l iJでの意思疎通の事例 j 斎 藤 洋 典 - F 1多壮太郎 (編)前掲古一 1601 8 2 Comment そ . , ま ひろみち 細馬宏通 生活文化学科人間関係専攻 近年、ジェスチャー 研 究において、ジェスチャ ー 成田論文ーは、こうした微細! な +11 似性と l::à~1 に踏み の繰り返し構造 ( キ ャッチ メ ン ト) がジェスチャ ー 込んだ点で、これまでのジェスチャ ー州 究 に な い 視 i 二日が 集 ま り つ つ あ に 果 た し て い る 役 割 に つ いて i 点、を持っている 。 特に、干の 1 1~ や運動が必然的に fif lじ予の動き る。 しかし、じっさいには 、 まったく ! 日 びてしまう方 向性が、 単に繰り返されるだけでなく、 が繰り返される こ とは ご く希 で、ほとんどの 「 繰り 異なる安素によって差異化 きれながら事後的に意味 返し構造」 は、手の 動 き 、 1 1 予など微細な古1 1 分が異な リ ]らかにした点が許制i できる 。 を帯びていく過程を l m祝したために、 取 り上げ られた事例じたい っている 。 したがって、 復 数のジェスチャ ー を 「 繰 文脈を り返し構造 j として論じる には、まずジ、ェスチャ ー は I!l~ られているが、 「 ジェスチャ ー の極 性化J とい どうしのや I J が相似で、 { 可が繰り返しなのか、差異は う概念は、他の事例においても応 J J I可能だろう 。 今 何で、そ こにはどんな意味 があるかを論じなければ J待される 。 後 、さらなる事例研究と 、概 念 の 拡 張 が W ならない 。 人 間 文 化 ・ 57 滋 │l 質 │ 県 │ の │ 考 │ 盲l 学1 9 .J 即近江の銅鐸研完の現状と課題 ぽ2 き ( 紛滋賀県文化財保護協会技術主任 木 1.小篠原銅鐸調査会 ど まさゆき 戸 雅 寿 ることは},J i '知l のとおりである 。 この r l 'には、奈良時 それは今を去る 2 1年Ti j iの私がまだ大学の四 1 1生の 銅鐸や崇福寺銅銭を始め、必生 代に発見されたイ'J11 │時のことであった。卒業論文で釘i ' l}撃を扱っていた私 時代の大集落である服部遺跡、の近在から山土してい の元に、師であり小篠原銅鐸発見地の調究者である る新庄銅鐸や琵琶湖湖底で発見された支那釧鍔な 水野正好先生から 一本の電話をいただいた。「小篠 ど、近江の弥生集落を与える仁において重要な銅鍔 原銅鐸を調査することになったから参加しませんか。 」 が含まれてし )る。 とくに、明治 1 4年と昭和 3 7il ー の2 と、もちろん喜んで、手をあげさせていただいた 。 そ 1 立にわたり発凡された小篠原(大岩 1 1 1 )遺跡の銅鍔 して、 H 百 平 1 J5 6iF ' 1 0J Jころ京都駅に集合した私達は t E が、、jC成 8 '9'に加茂宕 t~ 遺跡で 39個の銅鐸が発見さ l f !に乗り込み近江風仁記の 任資料館へとむか った 。 れるまで 1~ -の数を誇っていたのである 。 I i¥ 1 二 し 私の横には大きな胞と)(きな横文字の専門書を持っ た野洲町では、最多は符われたが、まだ日本最大が た方が座られた。そして矢継ぎいにこのように訪ね 残されていると最多最大論争に心、巻くところもある J["沼のう ようである 。しかし、学問的にはただ数が多いとか、 んちは水に浮くかね?J私があっけにとられている ただ大きいだけが屯要な~~ではない 。 ここには釧 と 、 「これからは食の万古学だよ 。 [ , J 。 あははは 」 鍔の研究によ って 弥生社会を語る上で、も っ と大きな は銅鐸だからね、銅鍔のネ と。そして今度は「今 n 立義が│ 揺されているからである。 られた 。「 君は ~~ .rIJ で厄;- 11民りをするかね ? クタイに剣鍔のタイピンに、全部銅鍔のグッズでき ましたよ 」 。 と笑顔満│而で訴された 。風上記の E資 3. 銅鐸研究のながれと小篠原銅鐸 料館についた私は、さ っそくその } Jの手ほどきで銅 近江だけにかかわらず銅鍔研究には、大きな流れ 鐸の扱い方を押った 。「 まず、主さを係かめよう 」 。 止初はいわゆる資料報 ;ifである 。 当然であ がある。 1 といい、紐から手をくぐらせ私に持ち上げてみるよ るが資料の正維な 1~li 告なしに次の研究は生まれない うにいわれた。そして、次に内似J I に頭をつっこんで、 からである 。 これらは I H土佐.置と出上状況の説明に 巾の保子を確認するようにと、勝の哀はどうな って ' J I Iえて、/J' ,上銅鐸の形状が報告されているものが普 いる?内 l 師凸イî~; は?と 。 そしてさらに、バケツにノk 通である 。 たとえば、もっとも,J,い全│主│的なものと を入れ、雑 r l Jとタオルを持ってくるようにいわれ、 しては神 I U公平 「銅鍔 I L¥処考 J 人頒学雑誌 J2明 ( r f lJに扶 おもむろに、銅鐸を持ち上げて鯖を十iLと机のl 治2 1年)が、近江では若林勝手¥ 1" [ 近江国石山寺 出土 ー t l 占の回イ1紙を の銅鍔 J 考占学雑誌 J2 11J f J 治 32年)などがこれ ー気に拓本を採られた。「君 、 に当たるであろう 。 文献的には近江出土の物では1l~1 み、雑巾でじゃばじゃば水をかけ、 のせタオルでたたき、 ( r このようにしてとる んだやってみたまえ 」 。 と 、 M i 和3 i年11¥ 1 二の小篠 ! j l銅鍔以外はすべて認めるやーが出 l 時の私は J j tきとうまくできなかった守 iでショックを 米る 。その後、全 1 1 ; 1的に数が培えるにつれて、*成 受けたことを f 立えている 。 いまなら考えられないよ 本としてひとつの本にまとめようとした動きがあ うな物の扱いであったかもしれない。 とにかくその ようにしてこの委以会は始まったのである 。 委員会 の'1'身についてはあとでもう 一 度ふれる中として、 t ' !g r 有史以 l i i jの近江 J( 1 1 行手"3 る。近汀ーでは白日 I 1 "一)がこれにあたる 。全国的規模のものとしては梅 原末治氏による r : i l 時半の研究 j( 昭和 2年 )がある c この 1 1 4、夜、に銅鐸を通じて、実際に物にふれ ること いずれもすばらしい業総て、ある 。 当時としては l n ' i J則 の大切さや物を観察する事の重要性を教えていただ 的であった 。『銅斜の研究 j は、いまでこそ復刻さ いたことはいまも忘れられない学びとなっている 。 l i Jられなか れているが、当時にあっては 300部しか l 今は亡きありし口の佐原真さんとの ーコマである 。 i鍔 M究のパイプルともいえる T t ったものであり、 針J 先生に感謝するとともにご},~柄をお祈りしたい 。 r f Iな本であった。 この'1'には近江山上の銅鐸が多数 本杭ではこの小篠原銅鐸を通して近江の銅鍔研究 報告されている 。 今方、山 l 二の銅鐸との比較におい の現状と課題について彩えてみたい。 て進められた研究として型式分矧論があった。 これ 2 .近江出土の銅鐸 貞子守氏、悔原末治氏、n'i良信夫氏、森本六爾氏、 三 らはれ問中~I 輔氏、心居 7江 l倍氏、坪 )1: 九,1.!t < 氏、存 i叶 さて、近江で、は小銅鐸やパーツの出仁をのぞいて、 木文 / . ( j U 乏によって進められてきたが、最終的に、佐 mの形態の変選と鍔身紋械とによって 3 1 1 百 │ いわゆる剣鋒といわれるものはこれまでに 7件 3 j 点呉氏による ( 他に伝承として 5件 6例)の銅鐸が発見されてい 分類されたものが現在もっとも以透している型式分 58 ・人間文化 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 盲│ 学1 01 Uî である 。 その後、難波 ì:~ :氏等から分類の比 JI~. し 総式)や一 号鍔 ( 突線i R i l l式 近 畿 +二 三 : i ! i l 式)や七号 と 制H 額が幸l i ; 与されている 。 そして、これを伐として 鍔(突 ~J~ 釦 H 式近議十 三 述式)のように近畿式と こ 銅鐸研究は銅鐸自身が持つ形態と機能、その出土分 ; i h l :; : tの折衷様式と考えられる文紙構成を持つものも 布から弥生 l 時代における制鍔の使命を考えようとす 発見されている 。 このように小篠原銅鐸の特徴は束 る研究へと進化していくのである 。 この中で特に小 と西を結ぶ接点であったことにある 。 その数とバリ 篠原銅鐸はその数と積類に大きな詰;義がある事が r VJ エーションは弥生後)J;) J の銅鐸 L1". I 孟 . の拠点て、もあった らかにされていたのである 。 ことを物語 っているのである 。 銅鐸とはいかなるものかという I I ]¥,、に対しては、 かつて、小林行雄氏は級数↑ 1 ; 1 1 /1',上した絞 ヶ 丘 J l i i H事 古くはさまざまな論があった 。 l : i出説」 がその始 の: I J¥泌を兄て、 「集められた釧鍔」論を j A f唱された 。 |人-11m 凸'出-の{叫fcJ ~h や舌の存化の雌訟 これは氏が 「 同 i'fi 鋭論」 と 「 伝 I lI: i;~ 論j による卑弥呼 以後は、舞という上而の穴から舌をぶらドげで内側 の鏡から見た大手I I ' ; U J径の成立をネ1 1 1 起する形で論じら の 1 11 1 お2 に日 11 きつけて振り I !!~ らす 1 1m く}I,íJ j'f J である れ た も の で あ る 。氏はその前提として効、生時代 の まりであるが、 ことがわか った。 しかし、この形態は弥作川代を通 「ムラからクニ 」への J ,x占への J l '併を符劾にするた して最後まで続くことはなかった 。 I l f Jく銅鐸」 は 、 1 古I j A納剣鍔の意味を めにこの論を従ぶされた 。復 数 1 I 鳥したりするには不具合なくらい巨大化してい 吊し ! かつてムラムラが所有していた物を新たなクニの成 く ことが別式からわかったからであ る 。 これは銅 r~" そのものの機能が I l l H く j ことから 「比る ー ことに 。に、 i i たって治せ集めたとしたのである c 論はある 必 J 1 ; j dl ' I U 持杉然としている c しかし、そこには問題が 1 1' 1' 琢氏はこれを 伐のし集められたは 多数合まれている こランダムに i 「凡る銅 H U へとその機能が変逃 ずの剣鍔がまるで数あわせをれわれているように桧 ' I ¥ J J Lにあ したと考えられた 。 その変化 点が近議式の , 然と I別式と数でセ y 卜の係に、ì~ ぶ僚はそれを物語 っ 転じたためだと考えられており、 I I 制 く銅鐸」 から る 。 近畿式/1 ',現以前は鍔身の紋様 JI~ 態は付12J17 紋. i a ていない ことをボしい るのである 。本来であれば論 水紋 ・袈裟禄紋がその主流を占めていたが、袈裟衿J じる物の分析と ¥ ; ' l ' f l Iが先にあるべきはずで、あるが、 紋に集約され、菱鉛鉛式から出発した外縁鋭、而p y 集められている銅鐸 1 "1身の詳細1 1 な分析をすることな こ く、論に治 っ て佐数 1t~1 は集められたのだと{夜間づけ のようにその生産からは ~lii) tJJが見いだ されるのであ た/)~に問題があるからである 。 これに対し て、いち 鉛式へと変選してきた m は突出~~鉛式に変化した c る。 それにともない扇平釦式以前の銅鍔からうと線 m はやくそのことに気づいていた;j'(!!lT'正川氏は一辿の 式の銅鐸への文化│登l はその規模を縮小して分布を凶 1状泌から総合的に判断され集め 銅鐸の桜数例の/1', : から東へと移行させてし、く 。 しかし、 「聞 く釧鍔」と られたのではなく、そこで生産されてこれから 「配 「比る銅鐸 j は相作れない 。 なぜ銅斜文化が;次 W J ため、もしくは 「配布された残りのもの 」と 布する J に二分されるのかその l 列純な答えはまだない c I l f J してこれを ;1111げされた 。 弥生時代から r~iJt1時代への く銅鐸 j段附の多 l , t III~ 土地は }JII 茂岩合遺跡と似ヶ IÎ ムラからクニへの同家成。ー論を以 I J f Jするに当た って 遺跡である 。 そして、 「見る銅鍔」段階の多 . : j i . : nJ,1 : 絞ヶ圧や小篠原のような多量に , 1 ' 1 I~ する釧鐸が全く 地は小篠原泣湖、で、ある 。小篠原銅 斜はそういう怠 l 床 ~う理解をされているところに{り|究の深さがあるの で釘o J鍔研究の鍵を:1 " 1っていると行っても過, iではな である 。 い。近畿式は機内を'1"{、とし I l yは l i " JiJ}' : L{ J 仁・備 l i j i このように、}l i J鐸を ) 1 1いた折、'1'.1時代社会再構成や までの範囲で分布するが東│以は近 i [である 。 さらに │ ι │家の 1 &' , [を論じるにおいて小篠原銅鍔の存存立義 「見る銅鐸」段階の近畿式から派生したも の として、 は大きいのである 。しかし、小篠原銅鐸がこれだけ展 遠江地方に広く分布し相容れない文化圏を持 ってい ぶされ砂"先の対象とされているが、県下/1¥上の銅鍔と るものに 三述式がある 。三 述式が文化 l 塗!として相作 しては1I11~ -その I E式な報;つがなされていないので、ある O れないという点に共通な物を使いながらも紙式を追 えることでお互いの文化圏を伺立させていることを 示しているものと与えられている 。 しかし、それにもJlj/~ ~ 例外がある c それが滋賀県 4,再び小篠原銅鐸調査会 「小篠原銅鐸調食会 」 は l l i i和 5 6年lO}J1 1日1 0時 、 滋賀県立近江胤 u己の II:資料航 ( 現安│城主I I 調査研 野洲町小篠原銅鍔である 。 ' j ; は ここ には 二 モi l i式のも l i i lが決められるところからスタート 究所 ) でA而 B のが合まれているのである の した c (メンバ ー:佐 M L f L -水出hE女子・丸山竜、!と ・ 号鍔 ( 突線J.Ii皿式 竺 人間文化・ 59 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 古│ 学1 01 ' f { -J K守 1二 ミ・秋 旧桁毅 ・; 1 司本孝子 ・寿稿滋 ・木戸雅 裂ではないであろうか。 それは小篠原銅鐸こそが以 式f)作業の/)サ符は次のとおりである 。 ① ヒが付いた 多最大だけとしてではなく 学術的には弥生社会の構 ままでの写真 11!î }~:~ ( 寿制 )、桁本 ( 岡本)観察 ( 水 成に大きな立義を 見いだせる可能性をもっている 一 野)。② クリーニングして保存処理 ( 元興寺)。①うた 級の資本│ であるからである 。 これなくして、近江の i J ! l J 図の作成 ( 木戸 )0 0ク リーニング後の拓本 ( l f i J o 銅鐸研究の進展はな いのである 。 本)。①写真版影 ( 美子初)。①観察分の作成 ( 水野 ・ 水戸 )。⑦報告書の作成 ( 佐原・水野・丸 山・ 木戸) 5. 銅鐸博物館の建設 であった。①は土が付蒸したままの状況の記録で、る 。 一方 、 二度にわたる銅鐸の ' 1 ' 1 , 土にも │ 刻わらず散逸 U土状況を復元するためである 。 今はない現地でのI- ( I Y J治 1 il 土分は海外まで散逸。 / I { : l 平n 分は県が日戻し ① は将来に向けての保存。①④①①は資料の記録と 税 tt 重~~文 化 財として安土城考 古 t,l,(物 自r: が保 rn 報; 今を行うためであった。 ⑦を残しすべての作業は せてしまった野 i H II / Tでは銅鍔出 土地として情報を収 さ 終了していたように記↑在している 。 しかし 、月!由は 集すべく、/lH 和 63 年に銅鐸博物館を設 立 した 。 ~H事 不明であるが報告 1 1 : 刊 行は未完に終わっている 。 そ だけの 同物館としては全 1 : [ 1 で初であり、 して、あえてここで苦言 を呈するなら、これら 当/ l c f ' とより 1J):年中llj 力的に ~J 鍔関連の 特l' 7J Ij ~震が実施されて 7 ; ?設以はも の資料は現イ巨その所在がまっくわかっていないらし いる 。 また、それにあわせて I J f J 催 されている銅鐸研 い 。 それなら、 こ こで提 言 したい 。 i~í 賀県としては、 71 1 1 1と川 を 究会も 、すで‘に 3 今一度、現在の水¥ i fi.で、これらを資料化する努 } jが必 え銅鐸ファンとともに的発に論議が行われていると 調査会で採られた 水野正好氏直筆の銅鐸観察図 60 ・人間文化 A mね県 内外から講r:w を迎 B │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 宙│ 学1 01 ‘ 第 2図 観察図をもと に復元された銅鐸i 里納状況 ころである 。 こうした地道な展示や研究に当た って 9小 林 行雄 1 9 6 7r 広王い│の I : J J Ur l 王│ 氏 の歴史 1J j }の刊行がより有立義なものに も、原点となる報告 -rl 文h L堂 11 1 0三 1111ì~; -9~ 1 9 6 8I 銅鐸考 JP ; リ j 鮮学卒I U49 なる こ とはいうまでもな いであろう 。 r , 'j{~ の日本 j 近年、考古学の持つ独 特 な閉鎖!ぷが取りざたされ n 1¥土造物の ' 1 "でも銅鐸という特異な種世 の ている 。 1 造物もややもすれば、それに近いと ころがある 。博 J 物館では奥深い金庫のなかで、ひ っそりとそのI I i l l¥ j を すこし、 一般の方々の多くは レプリカというそっく りの偽物を鑑立させられる ' ] 1 : が多 L、 。 また、辺良く 実物を見る事ができても 、 i d i j面・ 上から ' 1 'から全て の箇所を見る 'J~ はなかなかできなし、 。 ましてやふれ る事など。 たとえ 研究者であ っても容易にみたりふ P * r まつり j から 『まつりごと jへ 」 5: t 1 2水 ' f r ' j正好 1 972 占:t f t発生の論理!( ー )J 考古学 81 ' 主 第 4U t i J I究第 1 1 3. 絞 ヶ丘銅鐸 ・釧 j乙 訓f i " ( f W; ' , ' U 1972 14{1.:IJU~ 1 9 7 4 剣鍔の然り J , ',代!と允掘 J5巻 1 5川 内 公 市 1 9 7 5 銅鐸の. l 1 J l . 納 と 鏡の伝│止 J 考 " 1 学 雑 誌. J6 1巻 2~j 1 6水田j . t E H1978 もうひとつの銅鐸飢J 日本版史』 17~ )ぷ秀 M:j 1 978 銅鍔の出納と分イJ Iの 意 味 J t t 1 1 .1 11 ' 1' 琢 1 9 7 0 6. おわりに r r r r r r r r r r 史公論i J ~'î 4 巻第 l3-~J r r r においては 、今、最も 必要な 事は 、研究 の第一歩て、 1 8 . 1出) 1能 - 1978 銅 鐸 そ の 内 なる 1 " : 界J 1 Ri r f泉 文化資料 』 第 3さ 之 第 2日 J I 行 ある小篠原銅鍔の再調査と学術報告書や昔及の F 1 9 .篠川 れたりする こ とはできないのである 。 そういう立 ではないかと与えている 。 そして、 一次資料として I J ]に公IJfJされ るこ とが滋賀県としての 広く国民や学 I 立務ではないか と考えてい る。 おそらく、j,j n J鍔研究 の慌であり 発見時に立ち会った梅原末治氏も、銅鐸 1 ) i 1 究の第 一 人者であった佐Jl; l 真氏も遠いところから r r 2 0難波洋三 1 9 8 6 銅鐸 J 弥生文化の併究 J6 2 1森 成 秀 爾 1987 銅鍔のまつり J 1 1 " 1 立歴史民族 r 博物館研究報告 J1 2 r r r 9 9 4 銅鐸.ll l納 論 J , ' , 代 文 化 』 第4 4 2 2苛 沢 克 1 巻5 6 それを心待ちにされているに違いない。 r 氏 1 979 剣 鍔 の 終 局 に l Y ; j する 一 考 察 」 r uLjs:暦史 J373~J r r 2 3 .春成秀爾 1 9 9 5 象徴としての弥生背負n J時 日Jr J M .t 叫 7 3 圃参考文献 1 1 11 r j ' 巽 1 9 8 6: j J i f l鍔関係資料集成』東京大学山版 2沼 R l w f I 輔 1 9 1 3r 銅鐸考 Jr 考1 ' , 学雑 誌 j 第 3巻 3..I.~府 {j包蔵 1 9 日「銅鍔考 J 歴史地 J g fjt ! ' i2 2巻 4存田 ! ' I吉 1918 r 銅鍔考 JP ぜ!と地理 Jt ! ' i3 2巻 5森本六爾 1 9 3 0r 銅鐸の型式分 m と播磨神科の占 る { す' : i ' i :J 東京人類学雑 誌 j 第45巻 6,直良{パ夫 1933 般 惰 紋 式 の 銅 鐸 J 歴 史 地 理 』 r r r r r 第5 6J l 7三木文雄 1 9 5 5 銅鐸 H I本考占学講座 j第四巻 8 .佐原 真 r 1 9 6 7r 銅鐸形式分類の研究J上下 2巻 2・3号 古学雑誌 I第 5 f 考 2 4進藤 r 武 1 995 近畿式銅鍔と 二 述 式 銅 鍔 J 古 代 文化 J4 7 2 5木戸枚方 1 9 8 2 銅鐸.l'll 納 の 立 義J 奈 良 大 学 文 r 学部史学科卒業論文』 r r r 2 6木戸別t 寿 1 9 8 5 銅鐸と絵画 J 滋到考古学論叢 j 第 2集 r r 2 7木 ) . 5利寿 1 9 9 4 銅鐸の A[ ( 0 'B而について J 奈 良大学文化財論集 1 r 2 8 .木戸雅寿 1 9 9 5 稿平釦式六 │ 亙袈裟偲紋銅鐸の紺│ ' i t 専物館 『 紀 要 j 第 3号 類について 」安士城考 r r r 29木 戸雅 寿 2002 弥 生 社 会 と 銅 鐸 J 共に友子を 立て j安 k 城考古 博物館春期l 展図録 人間文化 ・ 61 人・間・文・化・通・信 滋賀県立大学 ・韓国国史編纂委員会学術交流協定締結記念 シンポジウム報告 歴 史学 と 言 え ば 過 去 に つ い て の 研 究 だ と 忠 わ れ が 滋賀県立大学名符教授がつとに ちですが、美徳キ1. 主張されてき た I 1 夜史学は未来学だ」という言葉の 3 :OO~ [ 第一部 J1 開会の挨拶(西川幸治先生) とおり 、 あ ら ゆ る 場 合 に お い て 、 未 米 を 切 り開くた 本卜慶植文庫の意味について(萎徳相先生) め に暦 史 に 対 す る 考 察 は 不 可 欠 で す。 W杯共催、 萎在彦文庫の意昧について(萎在彦先生) n ~Uj 首脳会談など、 2002 年は 日 本と朝鮮半島との関係 が良くも悲くも 口に見 えて 変 化 した年でした 。 しか し、 ぷ面的にしか取り 1 . . げられていないとの感が存 滋賀県立大学との協定締結に期待すること ( 李 相 先 生) 休憩 ; D J ! 鮮半島のよりよい関係 、 未来を め ませ ん 。 日本と ' [ 第二部 J1 5:OO~ 切 りI J f J くためには 、歴 史 の 持 つ 意 味 を 改 め て 問 い l 白 大正デモクラシーと朝鮮(松尾尊先先生) す 必 ~を!ぷじ ま す 。 十五年戦争下の日本と朝鮮(木坂順一郎先生) 4 滋賀県立大学は、本卜!差値(パク ・キ ヨ ン シ ク ) 文 庫 ・妥在彦(カン ・ジェオン)文庫という、日本と 朝鮮主|二島、そして {i 口 ~UJ 鮮人の 11iH 史をひもとくため の 重 要 な 資 料 を 膨 大 に 所 蔵 し て い ま す。 これ ら の 資 日を J c .な日的とし、 料の共同利j 2 0 0 2年 5J、 滋 賀 りI L 立大学と韓国の同と !編 纂 委 員 会 と の I : ¥jで学術交流協 [ 質疑応答 J16:OO~ 閉会 1 7:0 0 司会河かおる ( その後、本卜慶植文庫 萎在彦文庫の見学と懇親会) 定 が 締 結 さ れ ま した 。 これを記念して、掠│巨│ からは 1 .先生(国 史制 纂 委 韓国近代史を専攻されるづ吋1 会)を、 u n本 間 1 ) -1からは在 [ 1 ' ; リ J f f ! . t人 の 歴 史 家 と し て 斐があったと思いました。 先 !m~ !'I~な存在て、ある、安ぜ正彦先生(イヒ|主!大学客員数 、 i 'I lの 進 行 は │ ¥記のJiliりです。 綬) ・~十色村 | 先 ' 1 :. ( 滋 引 県 立 大 学 名 作 教 授 )、 そ し まず、 j f J徳キ1先 生 に、ごi"I身の経験も交えながら てアジアとの関係を常に念頭において日本!と併究を 朴i 主総先 ' I e が資料収集にかけた熱辺、と夢について詰 ' sK 手先先 続けてこられた!悟史家として},:;(",な、松 J って瓜き、 t : ( I : 1多先生には、ご.l 1 ! IS ' ! !をお廊l ¥,、してこ ・,.j~坂 111員. f m先 ' 1 " (縫谷 k 生 (;lií~k'j~ 名作教J受 ) : ; : : 1 ' , 件数授)をお引きし、 1本と朝鮮、 │ ζ向 、 ひ い て は東北アジアがよりよい関係を築くため、!が~の H' n つぷl 味 、 キト J~f直文 J , lí ・えーイ|二 r't え:Jt ii の今 11 甘立 l 床を与 えるためのシンポジウムっか!とを米米のためにー 1 : I 本 、 初 f f ! . ' i i ' " . , ,)、そしてイ: 11J Jを 2 0 0 2二 │ イl lr J l OI ( 1身のコレクションのとく義について nら語ってn1き . 1で、 1 ' ; . 1 ' と編纂委只会のづ吋1 先 ' 1が t J i J 丈}tjt資料に大いに J U Jf.'Jしているとして、 H体 的 な 今後の資料活I I J);案を提示されました 。 ~":; i ' mをiUlじて、 I J ' J文庫 のイiイE' 1 1 体がまさにイ1 : 1 制鮮人の i ' jか れ た 境 辿 の , j Ilし fJの ようならザ!ー で ました。その あることが浮き JI~J~ りになりましたハつまり、 の i~JJJml 祭 WJ Iii] 'I' にIlHill; しました 戸 私1 ' 1 身 が 4J Jに赴任したばかりで、 , : 1J : U !i~J も人 IJJR もない上に広報W J問が│分でなかったこともあリ、 11 1 , : : の fイr のアカデミズムの i l f J l J 支の'1'で、十1 ( (民地ぶ配やイ1 : 日 いった L、何人が集まるか、)(変懸念していたのです 1例制人!と研究のための資料を系統的に所此してい る と こ ろ が な L、状況の'1'で、 1本はもち ろ ん 尚 北 側 0人を 1 一!日│る参加.fiで会場がJ I Hまったこ が、およそ7 鮮の Iιl 家 n~ 雄投も、大ザ:という制度の庇設も、 とは大変な点びでした c j ; r都 A.' f :大 学 院 で 手ぶ将 1< 11 4 Mも 無いところで、ただひたすら資料を集めるほかなか 人 fff /'{: 生、 京 j~( や金沢からわざわさ !~Iメけつけて くだ っ た 結 栄 と し て 、紅型j-}伏史家伽│人の も と に 膨 大 な 資 さった朝鮮!と制究 J 、 号 料が集められたということです。このことの .~~I~( を I r i Jじl t似 市 内 に あ っ て 植民 地 関係資料をやはり多く所成している滋賀大学経済学 考えれば、両文},i Iに合まれる / 1 同々の資料の稀少性を 部経済経常研究所のプJ、 そ し て も ち ろ ん l R ι大学の 云々することなどはむしろ小さなことのように思え 学'1::など、多様な方今が参加│して下さいました っ ' 1 ' ました 。 で も 、 シ ン ポ ジ ウ ム 後 に 同 収 さ れ た ア ン ケ ー ト月]紙 を見ると、県 内│ 立h ヰ館などの各文イヒ胞設でチラシを 第 二部 で は 、 日 本 史 研 究 者 の 立 場 か ら 1本 と 似 鮮 半向との関係を!照射して TJ'!きました 。 松 Jl1~;i. 先生 見て来たという県内在住の一般市民の方々が予想以 には、大 I i 二テ‘モクラシーの -) jで 、 一 独 立 運 動 へ 上 に 多 い こ と が わ か り 、 苦 労 し て 郵 送作 業 を し た 1 ' 1 の 無理 解 、関 東 大 震 災I I ' Sの朝鮮人虐殺などについて、 6 2 ・人間文化 人・閏・文・化・ 通 ・信 , 一 昨年の教科書問題の I~h~ に 見終 とされていた点の指 して、現。二 │ 立│ J i情報センタ ーで利川 が口j能な資料が 摘も交えてお話し W fきました c木坂JIlf[一郎先生には、 約 lt ; I J、人 11]文化学部において仮捺瑚が終わ ったも 卜五年戦争下で制的'が H本の戦争遂行のための総動 員体:l I Jに組み込まれていく係十1を非常にわかりやす くお話し mきました c 第ー古¥ 1 で浮き彫 りにな ったイ: 1 , I ; I Jは手っかずで、 のが約 4割、残りの 5' 大平は新聞 ~fí 誌類、 Tっかずの 」に t11 煩であるという現状を説明 しました こ「全体が手I J / 1 1できるようになるのはいっ 円朝鮮人の境遇を決定づける l 然史的背以について、 ぱ! の予定かJとの質問には、参加 してくださってい 参加された方々が J'1l併を深めることが ,'I', ~いたと思い た1 > < 1占情報センタ ーのJ I 品川セン ター長と梅山さんが p '(々に努力の 「伏広ぷ r f ! J Jをしてくださるという一 ます。 質疑も活発にわわれました 。付│究者レベルでは深 まる朝鮮史研究も、なかなか一般市民には還元され ていかないように思われるがという県大卒業生の質 助│ 而もありました 。 町 、 1のアンケート 1 " 1符や、 1 1 , ¥ 1 人的に寄せられた感 知、学生が d向l持 ' 講 /f~義妥の小テストの H 問にあjしては、純白Iiの各先生);が悩みつつ真撃に終 などを」比 Lると、参加した方々が このシンポジウムを えられていました 。 それにあい、てなされた、県内で 通じて多くを待て行かれたことがわかり、 t似 i点~. しく j 在日朝鮮人の歴史など学ぶ場をつくられてきたとい います。 う市民の万の御発 己が大安印象深く姥 っています 。 こうした地元の動きと連携しながら朴度航文庫・ r 最後に、このシンポジウムのために連日 深復まで 配付資料や会場設営准備などをしてくれた学生の背 ' F終える 在 j孝文I / j)'を生かしていければとの思いを新たにしま 般のがんばりがなければシンポジウムを無 した。 ことはできなかったでしょう 。 この場をかりて改め また、朴 B E植文 wや支ょヂ!二)多:文1/巨資ギ│の うち、利川 可能な状態にな っているのはとの程度かとの質問を 受け、 ( 資料の点数ではなく )段ボール知数で換 t ) て感謝します。 資料絵} 1 ' J . はr i i j ; 金i 立法ですが、地道に } C t ' j ,},Nりたいと思います。 ( 河かおる ) 「一 滋賀県立大学 韓国国史編纂委員会学術交流協定締結記念シンポジウム ( 2 0 02 年1 1月1 0日)A 2 2 0 1会場の様子 人 間 文 化・63 人・閏・文・化・通・信 -人間文化セミナー 年 度 . 局結実績 平 成7 4 .H14.1 2 . 4体) セミナー .H14. 6 .1 O伺) セミナー 体 験J ( <.J住居論第 3回 議U i t会 ・見学会 I , ' iい民家で、の新しい生前」 棚f i i I 慈自1 ¥ [ふるさとは心の . u 閉山たづ子 ( 写l ' [家・者述業) Wt賀県立大学:人間文化学部地域文 化 学 科 講 師) .H14.1 2. 9伺) セミナー 「 ト|本人と小|主|人 - LI 常感覚からの 1~ }j)~,命 -J 1 1 制 、J 可也 . H1 4 . 6. 2 7( 木) セミナー 「アフガニスタンの今日 映像と現'九+学校建設11! 1~リ~ J (品 11Hr~ 立 大学北京アジア地域似l 究センタ一長教授 ) スルタン・アフマド ・サレヒ医師 ( 1刻凶医科大学 .H15.1 . 2 9樹 セ ミ ナ ー 「中江1 1 長樹に学んだ人たち j 非常勤講師) 中a .H14.1 1 . 8樹 セミナー 彩 ( 安 去 川 町 総 務 課 長 補 佐) 「病気の診断に利 用される両手素と免疫の化学 . H1 5. 2 . 2 8樹 セミナー ー より速くより微量に一 」 最 小 限f U ' T19 1 '1'ハウス j と 「デザインの素」 ) 1上 岡 I J ( S ; (郎大学大 ' [ : 1 涜j 史学研究科食品生物科学専攻教授) 小泉 誠 ( 1 : 1 1 日デザイナ一、コイスミスタジオ下宰) -新任メッセージ f p 月 守 比 呂 志 位 以 必 学 科J l I J ! ) :授j 今年 2月2 41 二l 米原駅にアンジエロ・ガイヤが│年り 立つ。誰が想像しただろう 。珠玉のワインを創造し の中では、歴史的にこれまでネガティブに捉えてい た井伊家や近江商人のイメージが、最近では日本の アイデンティティそのものと 思えるようになってき ました 。 続ける世界最高のエノロジストである彼の目的は、 京まで 毎月の斡凶通いも、名古屋空港を使うとよR 彦根という地方都市の小さな酒屋に訪 問するためで 時間、交通費とほぼ同じという地理的条例のため のl した 。 様々なスーパ ー タスカンを常備しているこの に 、 苦 も な く 持 続 し て い ま す 。 週末の活動拠点が、 酒屋を手始めに、彦根と私の相性がすこぶるよいこ 東京の小石川とソウルのサムチョンドンと共に、春 とに気づきはじめました 。 の四万十 川 も加わります 。 近江・彦根を からは高知 l 深夜になると、ピートの効いたアイラのモル卜や、 中心に、]:j~ コイーパ、モンテクリスト、ダビドフとい った主伺 そうです。 の燥を提供してくれる小さな屋台が w 現する 。 同 H 寺 J m半径450キロの活動圏が研究宅となり 現在の私の活動は、地場産業や絶滅種になりかか に彦ヤンの喧蝶:も 一種のイベントと思えるようにな っている伝統技術などへのデザイン支援と、地域貢 ってきました 。 あとは学生迷の目の届かない閑地さ 献を目指した幅広い悦野を持った人材育成をテ ーマ えあれば。 能 堂 社氏と山日 l~iíJ のタ ッグマッチによる としています。 そのためにも、イタリア、フランス 旨│床の強い、ま ったりとした近江の H 今限。 水に限り 0年以上にわたるデザインの現場 での研究活動と 、 2 なく近い酒を夢見る私にとっては少々重たいのです で経験してきた自分 I~I 身の人脈や鮮明な情報を総動 が、好物の!.f! t ! 寿司には欠かせません。 京のすi 主に対抗 員して 関わ っています。 しっかりとした美しさの尺 して品目の作法で攻めている、たねやの心意気も流石 度を持った大いなる市民と、創造行為への責任感と です。 たねやの文字が日木中にウイルスのように繁 問題意識を持った 'I~J 太の専門家を育てる こと 。 その 殖し始めています。 末広鰻頭は我が家の 3姉妹の大 ためにも、禁明期にある学生遥とともに積極 的 に外 好物です。叔父が旧制彦線日商 出身 であった こ とや、 に出て、彼らに汗をかかせることが必要と考えてい 郷里の速い親戚が彦根に養子にきていたことなど、 ます。失笑をかったり、怒られたりしながら異なる I J Jとは少なからず因縁がありそうです。私 の 頭 この I 佃i 値観の人々と接して、学生時代にいっぱい恥をか 64 ・人間文化 人・閏・文・化・通・信 かせたい。作家而した芸術家、デザイナー述が無責 A r e a S t u di e sで、係々なデイシプリンをfFJいて 一定 任にっくりだしてしまったイl象無象のとんでもない の地域を総合的に研究するというイメージでした 現実を冷静に見紙められる制人を増やしていきたい が、本学科での 「 地域文化学」は、それとは呉なる わけです。 5ちました。 今度は学生時分のように深く考 印象を J デザイン実践活動、 l i JI J 'e出動 と教育活! 1 j Jは二位一 えす、に欣っておく訳にもいかないので、学科の会議 体となって、官lI i 値ある社会活動となるはずです。私 などでの議論もうかがいながら、何かをつかみ l [ Xり が研究室に),サる│侍は、あまり仕事をしていない時か たいと思っています。 もしれません。不イ正のH 寺こ そ本領発f il ( です。 これま での 、まだ短い研究者生活のなかで、 1分 なりに ' ) j} jを注いできたのが資料の整理・公開のイJ: j そ TI J、 お る i i1壬校で‘ある学科院大学東洋文化研究所は ' J i で す。 l ぽ統文化学科諸制 木 {I~j支 4 ) jに地域文化学卒│に着任し、ほぽ 似f!.Jlrf~ /I守的 rlkj 係 .11'の収集したコレクション資料であ 1i j 二 が たちましたが、まだまだ'出れないことが多く、ご迷 る友 j ' l ;文J<iiを所威しており 、主にその整 1 ' 1やi 丹H Jを f iいました 。 ' ' 1 でも、ほぽ半Il H心I I J Iにオ ープンリー 惑をおかけしております。講義や.;'~~命指導など全く ルテープに録音された聞き 取 り資料の出'ド化は大変 初めてで、試行錯誤のくりかえしで反省点ばかりで やりがいのある仕事でした。 その f f : l 床で、本学でも すが、何とか学期jを終えることができ 、ほっとして 「 本卜慶 fl(~ 文 j'li J 核 J'!1に抗わることができて光栄に忠 おります c っています c 資料は州究-itの「研究成来」 よりはる 在、は朝鮮近代史、 4 Jに植民地!切についてイJ i I 究して 凡 j L ι } 点 1 , I ¥ おり、忌近はジエンダ 一の 十 悦 かに申告2 な 豆 、1 床を持って木来に伐ります。特に r l ( I民 地支配に関連する!と本│については、それを悠理公│井j うとしております。滋賀県立大学に赴任したので、 し、広く内外のー特に ' : O j鮮半島の←研究.fiが利川で 今後は朝 !í! 下に j1!i ll\ した 近 ìl~ 1 街人のこと、県内の朝鮮 きる環境を整えることは 、十l ト イ の機関の義務である 人強制j~n l)\j 述跡地、在 1 1 ':川洋 人のことなと、 「 地 とも考えています。特に近年 、昨 1 " 1ではい│家的プロ 域」と植民地という観点ヵ、らも勉強し、講義や研究 ジェクトとして資料の牧1" 11 や屯 f 化 なと"7J ';'~I,ピッチ に以映させたいと与えています。 で進んでおり、その!ょ.I,}~(に卜色分にあずかりながら 私は東広大学大学院総合文化研究科の地域文化研 究点攻というところの出身です。在学 ' J Iに咋攻名に 研究す るにつれ 、 L I本の 山:ち後れた状泌はあんまり だという止l いが強くなります。 ' 1 分( 1 身とし ついて特に深く考えたわけではなく 、 1 r i j任校 では 1 f W J十lきの助手だった こともあります ては主に歴史学の ' 1 'に身を W Lいて{りl 究してきたつも が、大'下改革の佐波に ' n ( j 主 的に をき込まれることは 基良く りですが、iJ¥身専攻と│可じザ:科名のところに i ありませんでした 。 そろそろそういうわけにはいか 赴任できたので親しみを持っておりました 。 ところ なさそうです。 M ' J jも学びつつ (Ijiを持って取り組 が、私が思っていた「地域丈化側 先」 は英訟では んでいきたいです。{り半よろしくお願い 1 / 'し上げます。 . 2 0 0 2 年度卒業論文・修士論文一覧 羽原仁志 地域文化学科 岩本 車 句 「 妖│ 壬」 という記号 実行に J l山あさひ博物村 ・党字川 j 人が舞う ~ I':'I j的説 j 町内墜落活動 亀瀧英之 長州征討から見る島根県 山本 俊 J ヒ l 則東 村上 歩 ・ ) 拘束:北における i 争1 : 真宗 門徒移民 日本中世の i 立子についての 考祭 旦 (旦 ] 峰 ; 頼岡 日 長 上江洲香織 石井豊子 稲継靖之 I Z ' t i :期におけるにおいの感性 同f 象からの呼びかけ 日本近代に 竹歳京子 異界への人口一世話から読み解く おける 花と女性一 田中麻理 山王祭 岩本朋子 旅 ~Iとl 分の 眼 で見るという こ と~ F 互ミ 主 主 ての一 診察 ヱ サハ リ ン ' : v J! M人棄民問題について i 没後処理 一 間われる日本の j ! J I J1 諸宗教における化の作法 行I J j 主とリアルのあいだ -I¥ODA'MAP番外公演につい ーヰ二 に干f~ 児物語をIj-'心にしてー 経塚品子 について 〈 在 [1として ' 1 . :きる こと〉 竹を巡る持らしとその変化 近江の竹 祭りの 「 動」と「静」を見る 中田春奈 タカラモノー私が学んだこと 福岡麻子 旅と世界と大阪と 5 人間文化・ 6 人・間 ・文・化・通・信 成松正行 山口 博美 宗教と人 間および歴史の関連性に 一考 察 ついて 討から 白分 i 夜、生き ) j探し 近世伏見町人 ・一考察 古 畑 雄一朗 ! 大 j 社 役1 3 <1 ニッポン 橋野伸二 人と人とをつなぐモノ 農村集落に分散した野鍛冶の事例 松吉真弓 宮日: 1 太三郎 の 半 生 か ら 見 る 伊藤誠之 北i N道余市1 1 1 ] 大 川泣跡を主とした 清原光治 統制文時代から擦文I I ' }代における 墓1 ; 1 リの変選 伏見1 1/]人像を探る ー 前) j後方墳の平面形に関する 一考察 大島尚恭 一│ 対応;地方を 中心 に一 持続可 能な交辿を目指して 日本と地 の公t J F J -滋 賀 県 内 に お け る 古 げi 坂井美菜子 匡1 .県史跡指定古墳整備の現状と 域と家族から、そして私の思い 玉井明子 近江八怖の 旧市街におけるが;観構成 要素について一銭雄と札を中心に一 小野彰子 課題 琵 琶 湖 の 水 没 伝 承 遺 跡一 尚江千車│ 田川智子 京都府八幡市橋木小金川 ・中ノ I I J 地区における集落の形成と展開過 遺跡に関する考察一 大阪湾型銅 こ えについて 宮脇史聞 門野貰子 勝 聞 大樹 末益昌史 江頭の形成と展開 紺谷敏邦 犬上川 ・字曽川 ・愛知川流域に 分布 林原 仁 子 山│ 食の狐信 仰l する集孫の構成以理に│長l する研究 瀬古 集同意識と民族問題 父親像を求めて 憲孝 湖東における中世城館に l 刻する研究 言語 学 の 悦 点 か ら 見 る 集落との位置関係を ' 1'心に一 藤 井 香織 「食」 と 「民」 をつなぐもの 長浜の尚 ) , ' g街 活 性化 策における修 武田玲子 前 );i~filif に生きる人々 星野志保 ひとのいとなみをたどる 小西由佳 1if~ I ~IJ ):ように描く少 景事業に│長l する考察 宮本祐輔 西桜 、六 叩山 地雨麓地域を中心として 程に関する研究 奥村麻実 器種・型式組成の 比較 検 梨空1Il!fi!.の歴史 機動戦士ガンダムの事例から !針1~ 銀座 illi ) ' , ,;街を'1'心に- -l ( i i 積 1平 方 キ ロ の 底 力 冨 宿 沙織 ' ' 1山道 I''-J宮宿の旅能屋の空間構成 に関する研究 加藤桃子 耳をかたむける 古 関 大樹 地籍図類からみる伝統的水利 孝 治絵 里 奈 ' : ' a カミのし、る l とその結合 田中円撃 地域に自立の坊を求めて 中山 道武佐宿における民家の特徴 j l l 俣 泉 私の! 芹た栗東 トレ ーニングセンタ 一、 中世における八)lffi..千平越に│剥す 安井 静 雨乞 る一考察 佐藤緑郎 竜一 基 層 文化 嬰素としての屯 伊藤雅規 巾世のぬこ 地寺社とその「坊 jの性絡 橋本 享 明 テニスと 生き た大学 生 活 小西洋子 すべては心のなかに 前川朝美 アダルトチルドレン 福森 「 迎 え る 風 景 J一 海 か ら の 制 点一 一 夜、を見つめてー 村田陽子 『わたしのかえると ころ J 渡辺 大 記 地域分析の試み 八重 山諸島 ・波 H 員 ! 日j 島から 犬上川流域における村務の水利 平田美弥子 そこで働く父 と景観に関する考察 稲田孝夫 大原観音寺を素材としてー 松本 篤史 関係から学ぶこと 菊田 裕子 ; ' 1 純旅日記より わたしの ' 京の I I J家に暮らす I U J家とマチとの ーふるさと近江の地:l &f 象ー 近江商人の諮問交易とその影響 江差・ │ 日中村家と近江八幡・f'I' 家との比較ー 阪藤 祥生 伝統的大衆芸能とその変化 大井 桂太 i i 舌きる 」 日本映画 亭島 良太 「 遊 び」 を文化する 生活文化学科 生活デザイン専攻 汀;州音頭をめぐって 五十川涼子 を用いた風呂敷の制作 新しい風呂敷の提案一 我々 │ 杓少年 H 西中 久典 内田和典 6 6 ・人間文化 弥生中 W J土器からみる地域色 木村洋平 一 湖北地域を r ' l心に 木樽 r t津式土器の地域細分についての 型染め及び刷毛染め・ さ i t抗 l iき染め 暁 J U i i ' 事j i から見る"本人の先立識とそれ によ る間接照 明 の快適さの解釈 人・間・文 小林悠太 H本独 特 の仕切り 野原 イラストを揃くこと 英司 吉田 友 映 ・化・通 ・信 [1]の印象 〉の される 印 象 〉と( 実空 1 扉 風 の 制 作一 研 究一 高齢者と若齢!iの比較一 トイレについて 井関麻衣子 複合商業施設における休想ス ペ ー スの { I J i究 と 提案 ー トイレ の今までと これからのト イレのあり方に対する従~← 北村綾乃 i t宅現状からはる高齢おの ( 1伝意 長田佳子 集合住宅における I J f l L I自1 1 の秘楽 一 外付けスクリーンによる 田中ち か子 コンビニエンスストアにおける来 林絵梨子 て ! こ供から大人までの広範聞をター , 子パッケージの i l I J 作 ゲッ ト可能な J j G ! l . のデザイン開発 識に , I ) !J する似f 究 中谷 瑞 穂 ユニバーサルデザインを考える 一 皆が使える飲食庖を目指してー 那須あゆり 高齢者が認識しやすい階段の色彩 原 智美 高 齢 者 施 設 におけ る色彩 ・照明 環 酒井 千春 と照明条件についての研究 境に │ 対する調食付f 究 ー おもりの入った強み木のデザイ ン .f / i J I 作一 平山 和彦 広山篤美 京都市におけるラブホテルの外観デ ザインおよひ地域特性に t J t J する研究 「 点者1 1 m向転車利 J I J促進条例」作成 計 │ 面 大島慎悟 , 背もたれの 低い約イの i l ] l { ' r l i[ 1先進J'il i d iをめざしてー 白i 小学生におけるポータフル MDプ 生活文化学科 食生活専攻 レーヤーのデザイン選好に , I ) !J する 1 t J1 究 中島 純 子 フリーペーパ ーの実態 梶原 1 f U::l着によるアウトラインの幼米 ' 芳 ω ヨ についての研究ー現代の~',: 1 ' 1 の フ 川合博子 進に及ぼすエピガロカテキンと金 同イオンの 1 ; ;料 山本敬子 ベンチおよびフ ェ ンスの色彩と J 2 J i ジカ j レ '1 0• J : Xi i E 石津陽子 研 究一 現 代 における年代別使用色 相│刻 雲出 花びらのアントシアンによる染治 高橋道子 幸子 智子 判長と、 焼肉についての立誠司l BSE ( 狂午病が与えた影響の調査につ いて~男女の比較~ ) 地域社会における子供の遊び場と 豊福志穂 韓│ 到来I f t l l の栄主主学的調食 小杉仁美 韓国料用の栄主主 学 的市;~1t~ 人・集まる 一 彦根における人の集 まる居場所の提案一 BSE が与えた )~t~~,~の調先に ついて 猪口 性 の 研 究ー ポピーの染若性← 付税の居場所の提案 焼肉についての立識調貨と、 ( 1 1I ' c . ~tj;j ) け若の楽しみー 神原 i 汚性酸素生成 に対する茶カテキン類の構造活性 カジュアルドレスの製作一 お出か 幸枝 金J . , r iイオン共イf下 、 │ 二 │ 本人女 t l の 口紅 の色についての の述いー 稲垣 銅イオン .ttlυJL 士~~ J l1 ' {1 ごにおける エピガロカテキンのヒドロキシラ 松村紗絵子 二緒 sugar&び 核 椴 椛 成 塩 基 の 酸 化 促 7 " / シ ョンから ー 辺環境との調干1 1 惑に I ! , l i J する研究 中間恵美 富森和憲 とくに野菜について 木村真喜子 民村ビオトープをおJ I る 高谷葉子 フレキシフル ・オフ ィスの提案 河井美乃 i 長凶│ に見る 日本の食生日 出口恵美子 手"の要素を採り入れた高齢 J 寺中心 下秋陽子 日常生活における身体活動量の犯採 卯野知也 f i把 短 の 問 題 点 身体活動 t 1 1 常生活における身体活動量の把 J 屋 ライフコーダーによる身体活 とくに肉類について のコ レク ティブ住宅 松本 幸恵 森麻理乃 中林夏紀 伊代田由喜 市街地における環境共生住宅の提案 -S恨 の 什 然 ・まちと共生する ー J I賀市僑立 I / I J の1 1 / ] " 、i 在み割台 / I Htみ保存計 可一 l I i その 1 I 川│貨市橋、r : J I J Iの 1 1/]"、恨み調作 I i ] 取 りについてー その 2 r J 1 I I 口市橋立 I r Tの I / I T 悼み調作 I / ] " . ' It みにおける ー その 3 続 立 の I 表椛えの J ; f Q 分けとその特徴 石村紀子 ソファーと l ぷの ( 色見本から : 旬 、 像 動量測定の問題点 拝藤絢子 食品 mlrjO};~w,j の生イ本評価ノ f ラメー ターとしての ~ I: 侵袈心 11' 1 出量 ìJ!lJ 定 の IIJ 能性~食!日!摂取 )~i;粋を評価す る生体パラメ ー ター としての 心拍 a l量 川合智子 生体許制I i ノf ラメーターとしての食 品摂取影響の~i'浸襲心 tFI 出 量 ìl!lJ 定 人間文化 ・ 67 人・間・文・化・通・信 の可能性 トウガラシの娯取が│ 呼 西川直子 iì~ 臭治性成分~フェノール性断分 吸循環器系にうえる彩響 松浦成志 野草メタノール:tI J I I I ¥物に含まれる に合まれる i ' i i 臭出作成分 ト リ プトファン代議h i t物ピコリン 酸が赤血球造 I U l因子エリスロポエ チンの生産に及ぼす影響 池田晴佳 ドクササコの J 与成分を究明するた 生活文化学科一 人間関係専攻 めの基礎研究 江畑 恵 本多奈保子 和田英子 カツオパウダー中のナイアシンの 藤井喬之 中学生の道徳悼の発達 ヒトにおける生物布効性について 中川太陽 児~~虐待とその防止に関わる 一考察 ー いま、なぜ民間l レベルのとりく ナイアシン欠乏マウスの作成 ナイアシンの ULを設定するため の基礎倒究 長田亜紀 舞 因について 考察 田中美歌 幼児の揃画におけ る表現 !Illバ~t につ 秋久美子 青i r H J Jのデイリーハッスルにおけ いて るストレス対処行動とストレ ッサ フタル椴エステルがビタミン B1、 B2代謝に及ぼす影響 富田真理子 小学校高学年の生活実態からの ー フタル酸エステルがトリプトファン ー ナイアシン代謝に及ぼす彩響 マウスにおける景5斜~ . . . 井口和子 大津山陽子 内分泌撹乱物質がトリプトファン ー ナイアシン代謝に及ぼす影響 北村潤子 チどもの円己肯定感とその形成袋 パントテン酸の平均必要社と許符 ヒ限絞 1 T ) (量 鳥落 みなのか 金田右紀 -11 ,江主"、パーソナリテ ィの 閑述 大西満香子 暖エステルがパントテン代 フタル l 謝に及ぼす彩特 安居千景 l i i l .食 ・冷f tに│刻する研究 れんこん 加葉田彩子 青年!日l における ( 1己肯定感と税 f l i ; J係・友人間係・ 家族機能との I i Y J 係j11 について J 也域 j l i使月1 に対する詰;識と新ブJ, [ の県取がヒト体温に及ぼす J;}~響~ の動態的研究 宅 川 美穂 j 1 4食 ・冷食に│対する研究 カニの アンケート調査から一 摂取がヒト休漏に及ぼす影響 和田実留 人名における 旧字体使Jl J の変遷 西川美代 H a食・冷食に関するiiJf究 十iIiの県 小柴雄司 現代の収納ブームとその歴史的背氏 i l iに及ぼす影響 取がヒトイ木j 嶋崎範之 姿勢は注怠・集 ' ' 1 パフォーマンス サ ん同 大学生のスト レ ァサ ー認知とコー 山浦有美 食物摂取がヒトの生体調節系に及 ほーす};:.~特~ごぼうの摂取による身 に影響するか 都丸 ピングについて 体温 ・自律神経活動の変化 、 朝食の欠食習慣と糖質コルチコ 石居愛梨 食物摂収がヒトの生体調節系に及 塩山恭平 ' 1,[ンとした食 1 l I ぼす彩響 大恨を I . . . . . . . . 1 : り l 食の欠食習慣が糖質コルチコイド 深尾沙織 いじめと人間関イ系 小野山武克 メンタル・ローテーションカ王ジェ の概口リズムに及ぼす影科 松原恭子・吉岡尚美 スチャー認ま1に与える影特 辻奈津子 池内千恵子 加藤栄美 区 ・有松絞りの事例からー 平尚子・田尾桃子 三日月理真 の消臭活性成分 68 ・人間文化 後藤芙貴子 小学校国語教科書における 児童文 学作品の扱いについて 野草メタノール抽出物に含まれる消臭活 性成分 カキドオシ ( G f e c h o l l 叩h e d e r a c e a) 伝統工芸品産業の発生と発展にみ るこれからのあり方一名古屋市緑 の物性変化 野草による創u 菌の生育:t f 1 l i i ! I J 越県合併について 1村を I ' F 心に一 一長野県 山 1 キシロースとグリシンによる褐変 │ 時におけるとうもろこしデンプン 「お手玉 j の継承と創造に関する り イi 究 ゲル状デザート菓子の I 瞥好性 河野麻衣・古藤ゆかり 笑いとパーソナリティ ー大学生を 対象にした質問紙調査より 二 J 真取による体表温の変化 、 中学生における交友実態と養育者 からの受字予感との関連性 イドの概口リズムの関係 金岡真知子 滋賀県大における 増井洋文 購買行動時における 役割と購買心理 POP広告の 人・閏・文・化・通・信 吉島健吾 テレビゲームは!J併に込山、か 老 佐藤春香 村津買子 i i J j':f~者、その欲求とl!1'Ij:!~( fJ到J 教日 I l iの 1 . 1 ' ;I " J的ブJ; I : jl 三1 &: ¥ > ¥論 森垣直美 国友慶子 '1" 下 ~I二におけるそE 校 II'I~!恐怖 中島絵美 f とものテレビ悦覚笑態のその ;;f~特 杉 本 靖幸 あJI Wジェスチャ ーにおける . 1 1 ¥ 別ス 甲斐雅人 文子 滋賀 県川l 束 平 野の 伝 統 的 j 長村の生 活 空 間jに I l h Jす る 研 究 1 1 1八p I 削J Iにおける{ム統的 I I J家 に 関 陥における 1 1 1 ]家 する仰│ 究一 近 江 八 l を生 か し た ま ち づ くりー 中川竜則 城下 IlI rltì1~ の陪!と fj() 以 観 ペースの安定性 、I I I TJ ? :飢悩 成 要 素 の 再 評 価 と 一 城7 ジェスチャ 一 空 間 は い か に し て 共 i 円 1 I J に むけてー 有されるか 欠田 J 字 U f f jの 上 下 が 作 用 心 I J 1 II Wに 及 ほ す 生活文化学専攻 ー 修 士 論 文 ' i J t 王 ノ 丹 1担 a 虞j 頼 規子 テアニンの集 ' I ' H t t効 果 房岡純子 地域文化学専攻 「お装.r,-の外 1 m認知│に対する自己 お よ び1 也J ηI ' 1 l 1 l i に│泌する研究」 修 士 論 文 吉津由美 L l 「シ‘エンダ 一 の付悦 点. 色彩 1琉~辺 i立:境に|限閃共刻l する{併 川 i)1)[ 先一ノ小 lト、 J乍F 戸学:校フ雫 R 植村真也 分木ひとみ スポーツ飢 松浦一晃 西田亮介 身体的動機能が斗'r,'j{l~ fí の 止七百円j サッカーのサポーター活動に凡る m病 危 険 │苅 子 に 及 ぼ す 影 科 I ) 'J述 地 域 文 化 と の, 転倒危険因子について [ 励 く こと と 1 ' _ : 1きる Jこと 本田 一 彦 根 の 仏 国づくりから 上 原 勇介 1 川 1 川 i 日 日 l j における色彩1 環 i 宗:境の検百討J J ~Ì'上:R i1:,l);論争からみる IljJ 治末期の 誠 特に i ì:7ð:!,f~ 'I' 状態における Peak P e r f o r mance1 1 . ¥の ' 1 . f 1 i ! 心J I I U I 力検討 なし也しのよしき 盟 INFORMATION [ =生活文化 t . i 左々木隆造 ( さ さきりゅうぞう)食品生命科学、生体情報応答学 .論文、 総 説、 そ の 他 1.KambeT .. N a ri t aH .. Y a m a g u c h i I w a iY _ . H i r o s e ] . .Amano T _ .Sasak i R_ .l V Io r i K_.lwanaga T .&Nagaol V I : _C l o n i n gandc h a r a c t e r i z a ti ono fa . ZnT5. novel mammali an z i n ct r a ns port er n pa n c r e a t i c ?c e l l s_J abundan t ly expr e s s巴di 7 7 .1 9 0 4 9 1 9 0 5 5( 2 0 0 2) B i o LCh em.2 .F l l k l l na k aA .& S a s a k i 2 .Y a m a g l l c h iI w a iY . U e t aR R . :Subc e l l l l l a rl oc al i z a t i o no fA f t lt r a n s c r i p t i o n f a c t o rr e s p o n d st oi ro ns t a tlsi nSaccharomyces i oLCh em.2 7 7 .1 8 91 4 -1 8 91 8( 2 0 0 2) c e r e v i s i a eJB 3.YasudaY _. Okanol V I . .NagaoM . .l V Ia s u d aS . .F u ji t a Y _&S a sa k iR .: E r y t h r o p oi e t i na nde r y th r o po i e ti n 1 l sde mo n s t r a t e dbyi ns i t u r e ce p t o rp r o d l l c i n gc e h y b r i c l i z a t i o ni nm O l l s evi s c e r a lyol ks a c s_Anat S c i _1 n t er .7 7 .5 8 6 3( 2 0 0 2) . TY a n a s eH . . 1 w a n ag aT . .S a s ak iR .a n c l 4.Kobay a s hi, Nagao¥1 . :Epi c l i dym i si san ov els i t e o fe r y th ro p o i e t i n p r o c l u c t i o ni nmouser e p r o c l u c t iv eo r g a n s . Bi o c h e m B i o p h y s .R e s .Comm u n .2 9 6,1 4 5 1 5 1( 22 ) ∞ 5.Y a s l l c l aY . .F l l j i t aY . .M a s l l c l aS . .M l l s h aT . .Uec l a K . .TanakaH . . F l l j i t aH. . l V Ia t s loT . .NagaoNI .S a s a ki R .a nc lKakamllraY .Er y th ro p o i e t i ni si n v o l ve c l i ngrowtha n c la n g i o g e n e si si nm a l i g n a n tt l l m o r s o ff e m a l er e p r o c l u c t i v eo r g a n s _C a r c i n o g e n e s i s 2 3 . 1 7 9 7 1 8 0 5( 2 0 0 2) 6.{ J i々木降 j 主 亦血球を造り J所を護るエリスロポ エ チ ン : {午朋と組織 4~1.: JI;~ 的発現 。 第 1O I t 'l ' i ' }とエ p24( : 2 0 0 2 ) リスロポエチン併究会、 巾 外製薬、 p 7 . イん守木除造 : ' 1 ' . { 本 .に お け る 般 素 の ー 面 性。 杉 1 1 産業化学研究所年初、杉 1 1産 業 化 学 術 究 所 、 p p 1 2 0 1 2 3( 2 0 02) 8.相I ) . . J 大I J J J、 永 厄 雅 哉 、 佐 々木│径 j 主 金属トラン 7 1恒l 必 須 アミノ椴似│究協 議 会 シ スポ ー ター。 第 1 ンポジウム、 p p l 7( 2 0 0 2) 9.S a s a k iR . :B io e n g ine e ri n go fr ecomb i n a nth l l ma n h ropoi et i n l V Io l e c u l a r er y th r o p o i e t i n _1 n官 庁 t B io l o g ya n c lCl i n ic a l Use"( W_ J elkmann e c l l . FP Graham P u b l is hi ng C o . .Johnson Ci ty . TK USAp p _3 0 8 31 8( 2 0 0 2) 1 0.S a s ak iR . :P l e i o t r o p i cf l l n c t i o n so fe r y th ro p oi e t i n 1 n t e r n a ll V Ie di c i ne4 2. 印刷中 ( 20 0 3) 11.仏 々木│径造:エリスロポエチンの' i l 子外生 産 と そ 人間文化 ・ 69 人・閏・文・化・通・信 の 機能。 An nualRe vi ew 腎臓 2 0 03 .' : 1 " 外 医学社、 1 16 -1 21( 2 00 3) 1 2.佐 々 木│ 盗造 :学 会 の 学 術 活 動 強化 。 日本 j 立芸化 7.1 ( 20 03) 学会、 7 食 文化 の 交 流 ( ~ヒ海道大学 」 2 00 2.8/ 17-23) 「日本の 朝 鮮 食 文化 J ( 朝 鮮 史f i J I究 会 2 0 02 . 1 0) J ) 「こ う し て で き る 安 全 な 食 肉J 2 0 0 2 .1 0) J) ( 滋貿 V, ~t主 l勾 í!,\jlt 検 究所 。学外活動 1.1 1 / 1 1:農芸化学会副会長(、 1 < ) & : 1 3年 4) J11 1 より ) 2.招 待 講 演 r ';!Jjm'~ 通信使の妓伺ギl.fllU (神戸市兵庫 I X:役所 2 0 02 .1 1月) O 金属 トランスポ ー ター 。 必 須 ア ミ ノ 酸州 究 協 議 会シンポジウム、 人 j L古d 込J 泉込クグ、ランドホテ l ル レ 弘 剣 鮎I 5 i ) 月 i -土井崇司 ( どいたかし)集住地研究および設計 ( り 1 ! 慢 E 本l り t l l L 人 古 古 可 市I η )、 8) J71、2 0 0 2. ・研究活動 O 赤 血 球 造l f l U 封子(エリスロポエチン)の新たな 生 理 機 能 の 発凡 と 神 経 疾 忠 治 療 へ の 利 H Joi d H ' i l刀1 6 バイオ技術フォーラム、滋賀県立大学、 1、 2 0 0 3. i O赤 血 球 造 1 r ll 主│ 子( エ リ ス ロ ポ エ チ ン )のお た な 生 J 1 I I 機 能 の 発 見 とや1 I 経 疾 患 治 療 へ の 利用 。 佐 賀 大 学海浜f i地 生 物 生 産i t ) f究 セ ン タ ー 。 1 )J2 4 1 1、 2 0 0 3. r 前i 1 1 ] 人 間 文 化 j 1 2~ナで述べたように、ベルリン で行われた2 0 0 1年 度 の Wor ldSoc ie t yf o rEk is t i c s ( WSE)の シンポジウムで r Wha ti st heS l l c c e s so f ah i s t or ic a ll o c alc i t y.Hi k one .i n] a p a ni nt he2 1 s t c e n t u r y?J と題する論文を発表しましたが、今年、 Af lt u ref o rt h e hi s t o ri c al それを拡長整理!し、 r c i t yo fH ikoneJ とJ むして 、 ま も な く 出 版 さ れ る 雑 誌rEk is ti c d の 次 リー にt t l載 さ れ る こ と に な っ て い ます。 -鄭 I l i ・ f ドg) J末から 1 O ) J : i ' 1 J めにかけてイタリ ーと ギリ 大聾(ちよんでそん)食文化 * 1 学以来、皆様方には 今 年 度 で 定 年 と な り ま す。 1 何かとお世話になりました 。 .{of 灘五う i~lIl'ii いました 。 朋 r . 任期l J iI jIに や り 終 え た い こ と が い く つ か あ り ま , シャに旅行し、イタリーのシエナ、フィレンツェ、 ベニス、ヴイチェンツア 、 ロ ー マなどを I lf~Jj し、ナ ポリ、ポンペイ、サンジミイニアーノを訪れ、 1 φ 1 1' N す。 初 鮮 .i !t 図 の 食 文 化 と し て 1本 に も っ と も な じ の 集 i J : r ; ; : i 境へのI J l I l q T tを 深 め ま し た 。 フィレンツ ェ 、 仮 題 ) の本を占:き│ 二 まれている 『キ ム チ と 焼 │ 勾J( ベ ニ ス な ど は 観 光 客 で 一 杯で、 げ る 予 定。 にはいるためには長い列に長ばないと入れないほど 。昨年の研究概略 で す。 早 朝 と 夕 方 の み が 観 光 符 が 少 な く な り 、 ゃ っ 著書、連載など とI l jが ま と も に 凡 れ る ほ ど で す。 祥伝社) 『へ ル シ ー キ ム チ j ( 『まるごと韓 I " U( 大修自s i l { : J 1 t ' ; i 、 J u n ドゥオ モ (大 聖 堂 ) の年次 ギリシャではティノス島で、今年度の WSE 総会とシンポジウムに U\ ni~ しました 。 今年のテ ー マ 『椋国料:F r 'と食文化 j は r Cul t u r eandHl l manS e t tl e me n t sJ というもの ( キ y コーマンフ ー ドカルチャ -N . o4 2 0 0 2) ] a p a n e s eConcepto fCul t ur e Jという題で発 で 、 i ト別鮮の食を科学する 1 .( l j ( 月! f i . ' ( 新 政: i b l 支1 21 日J ) ) j : Il 放とは迷う人間及び都r¥iと自然と 表を求められ、 1 の 関 係 を 話 し ま し た 。 今年度から学会の連常を:tl [う 講演、セミナー ; J s :J 「持田の食文化 と U; E x e c u t i v e Councl iの Memberに 選 ば れ た の で 、 会 ( 松本 T l i千1¥1宵寺文化セミナー 2 0 0 2 . 1月) i r 時間の食文化 の 特 徴」 しなければならず、しんどい会議 議の運営にも参加 l でした 。 ギ リ シ ャ で は 約 4 0年ぶりにギリシャの集{存 2 0 0 2.2) J ) r1斡 お ふ く ろ の l 床J ( NHKホール 2 0 0 2 .3片) ' 1 ' でも以も美しく、 の1 r ~脅国の食文化と日本 」 からの別荘なども多く ()放送大学 京都学刊センター (調理科学会 │ 刻1 ) 4支 部 大 会 2 0 0 2 . 4月) ( 1 丘│立民族学博物館シンポ 2 0 0 2 . 4月) r l l・韓食文化シンポジウム j 「食 品 開 発 を み る 視 点 と 食 文 化J ( サイエンスフォーラム 2 0 0 2 . 5) J ) r 1 1 韓キムチシンポジウム 」 i l lて ら れ て い て 、 観 光 地 化 し てしまい、その土地の人たちはもはやそこには付ん i J f i はなくなっており全く失喰し でおらず、本物の正t . 、するかという雄しい問題が ました 。 観光ととう対 k ど こ に で も 起 き て い ま す 。 むしろ会議のあったティ 名でないためツーリストは少な ノ ス ぬ の ほ う が イI ; 6に散在している く 、 観 光 地 化 が 進 ん で い ま せ ん。 ) ( 2 0 0 2 .5月 隙 同 ]A主 催 東 京 ) 集治は美しく、またギリシャの主催~-につれていっ てもらった山のIj'のひなびたレストランでは食事も r' ; U J鮮 の 食 文 化 と 日 本」 ( 1'閉友好協会静│前J 2 0 0 27月) 「第 2 1 r r l 日韓拠点大学水J ; f学 術 交 流 セ ミ ナ ー , 7 0 ・人間文化 i l l築的にもlIi i ( 1いミコノス l 与 を訪れましたが、やはりツーリストが多く、アテネ 大変おいしく、ここには満足しました。 会議の品後 には、私が20代後半の)\:~、 ときに参加したデロスシ 人・間・文・化・通・信 ンポジオンの最終宣 言 をした場所であるデロスの,J ' , と、私のこれまで‘に発表した少数民族弓訴に関する 代野外劇場に会議参加者全貝が集まってドキシアデ y i :文 論 文 を 手 p ' fし 編 集 し た 単 著 、 Studies o f ィスを初めとする前会員の物欣者をしのびました 。 学 で 開 催 す る こ と を 今 提 案 し て い い ま すc 多 分 実 現 M i n o r i t y Languages i nt l 1eWestern P a c i f i cRim (ELPR P u b l i c a t i o n s Seri e s C006) S u i t a :Osaka G a k u i n Un i v e r s i t y.2 0 0 3 .)を1'1 ] 11した 。「西太、 1 : > 洋 す る と 忠 L、ます。 地 域」 と い う タ イ ト ル を つ け た の は 、 環 太 平 洋 と い この国際会議に│刻しては、 2 0 0 5 " 1皮 9)1に県立大 この他の1JJI究活動としては、現在、 『長 浜 市 史 J J A E l 求 ダJ I ,(;¥の木市内向、*インドネシ う制約もあるが、 地成文化財 i Zの た め に 、 長 浜 市 全 般 の 京 観 アのセラム島、ミクロネシアのカロリン群島の、い について、および、1 : ヒ郷 ' 1 1 1 也区の地域文化財について 1 1 1名 数 が き わ め て 少 な く 将 来 が 危 ぶ ま れ る 言 ずれも 1 昨年夏に学生とともに調査を行った材料などをもと 説の調査研究を合むからである 。 第 7巻 J-杯 で 1 ' ,版される予定です。 に 執 筆 中 で す。 3) 4 砂教育・社会活動 2 0 0 2皮 は 、 人 1 : ]関 係 コ ー ス ( 専 攻 ) 主 任 と い う 大 役をおおせっかった。 あらゆる場 師 │での教員、事務 教育活動としては例年のように多くの綬業のほ ) j、 学 生 の 直 接 の 接 点 と し て 多 忙 で あ っ た た め 、 海 3年 中 の J t l i i J設計課題では、!茅根市立病院跡地 外 で フ ィー ル ド ワ ー ク を 行 う 1 1 . )l i i j的 余 絡 は な か っ の利用、彦根駅およひ、南 J玄似~J(周辺のユニヴァーサ た。 し か し 、 オ セ ア ニ ア に お け る 京 要 な 共 通 語 で あ ルデザインによる設計という 3チ ー ム に 分 か れ て 行 る メ ラ ネ シ ア ・ ピ ジ ン 制 に つ い て 久 し ぶ り に 「メラ か 、 1 ¥しています。 また今年 い、それぞれ而白い案を提 1 1 Hの 成 熟 と 言 葉 遊 び の 発 展 J ( [言語 1 ネシア・ピジン 1 から│岐阜県 3 2巻 2U、 2 0 0 3イ ι看 護 大 学 の 311]牲に r f i 二まい、地域、 nを YJl^(tす る こ と が で き た 。 都 市」 という教養選択科│ 二 │ のi 滞義に ) 1常 勤 講 師 と し て1 1¥講しています。 -安土 優(あづちまさる)美術・造形 社会活動としては引きがしき J~ 根r! i の m5 r! i;片側アド ヴ ァイザーとして、イ' lに ・本年度の主たる活動・制作 4、5同、r!i役 所 に お い て 2 0 0 0 { 1を迎え 1料のさまざまな川足立がクロースア 対 観 の 相 談 に 対 し て 助 Jを し て い ま す。 また│昨年の 1' .くも 35 1 二日になりました こ1 ' , 1 'I ' l i のるつぼ ップされ ' ユニヴァーサルデザイン歩行空間ネ y トワーク構忽 にはまり i i kさ れ る 危 険 を は ら む "今のなかで思うこ 懇話会に参加していた市民イT ぶ と と も に 「ユ ニ ヴ ア とは、 2000 年余りあ弘、てきた JJ(fìÌÌ J:~ 耕社会は次第に ー サ ル デ ザ イ ン の ま ち づ く り 研 究 会」 を叱ち上げ、 火われつつありこれで以いのかと思う 。1 '活文化も Jくなど 理事長に就任し、シンポジウムや研究会をiJf. 大きく変作し、まさに人きな転換期でありこのこと 市動をはじめています。 ま た 交 通 バ リ ア フ リ ー j ょ のI に つ い て 与 え る 今 日 こ の 頃 で あ り ま す。 研 究 テ ー マ に基づく彦根市交辿バリアフリー基本構想策定協議 である制作についても内考しなければと思っていま 1 1によ る彦似駅及び│旬彦恨駅 会の会長として、彦根 1 1は 2 0 0 2イl ' の 制 作 発 表 で す。 す。 以 " 周辺の交通バリアーフリーを目指すための),~本構想 案 を 市 民 や 管 理 者 の 委 員 と と も に 、 こ の 3) Jに 策 定 するのに協力しました。 これは両駅およびその周辺 を 2010 年を U 標にバリアフリー化が鉄道やパスの ~n; 理者及び道路管理者会に義務付けるもので、バリアー フリーの観点からのまちづくりに大きな進以が期刊ー 1)4 6 t1 l i~ 負'り己主術協会民 r J i f t ¥ i 皮る J ( F100号 1 本I l h j1 ' , 品 )2 0 0 2年 3J J 大作 l 従!と博物館 2)第 1 41 " 1F展 「胤 J 1 -I ( 各 F50 号"本画11¥, ' 1) 2 0 0 2 { 1 ム1 0月人│坂 T I T' 1 :美 術 館 3) 第 281111 造 )1~Jl( f ?J (F100号 "1 > :1 国j i J ' , 川) . 日: r りJ I日( 各5 5 c mx1 5 c mx5 2 c m) 2 0 0 2o + :1 1J J i 該自県立近代美術飢 されるものです。 4) -崎山 理(さきやまおさむ)言語人類学 2001 年にづ|き続き、 1999 イ| から1J:'J~fì された文部科 学省の特別領域研究 I 環太、' l洋 の 「危 機 に 瀕 し た 口 詳細1 1 はI1t t p : www 語 」に か ん す る 緊 急 調 査 研 究 J( o e l p r .b u n .k y o t o -u .a c . j pを参!日 の総日釧代ぷとして、 2 0 0 2年 6月には1Rf ; (の1-1--1正教育会館で同 I ) ' Jシンポジ 1 ) Jには同-''!:以都 1 " 1僚会館で 1 " 1 1 努シンポジウ ウム、 1 ムの開催に以) Jした 。 また l i J f究 成 米 の編 集 f l l吋とし て 、 2月現イ1 : 、 進1 J ' 1 'の も の を 合 め 約 4 0 1 1 日の報告 1 l j の 刊 行 に 携 わ っ て き た 。 私1'1身 の 成 果 と し て は 、 第 561 而li~H'lM 美術以覧会 1 J i f t ¥ J I l ¥ 品 ) 2002 イ n lJ~ ( F30日日本l I I l j 滋賀県,',:丈化版業会館 5)4 7 t1 l滋 賀 県 長 術 協 会 民 1 1 1りF : J j( FIOO号1-11 ( l i 可 I L ] , ' o ' , )2 0 0 2 { 1 ' 1 2r J )(i :ltJ1f~と博物館 4 砂社会的活動 栄 i l L r !i 美術民審査1 1-i t f ' : t 野を描く i 下回コンク ール以来査I1 - 滋賀県去術祭実 11 委 μ 会委 þl ・ i1~ fT 以一 文化振興'Ji ~1寸IJl 議員・滋賀県>';:美術鉛ふ;の 会J f j l' j l 4 砂主な所属学会 日本来術教育学会・),H 礎造形学会・大学美術,}: r7自滅の危機に i~顕した世界の~話一 ことばと文化の s市立正術大学)ミ術教育研究会・京高1 5 1本 会・ょ;(m 多様性を守るために j( 共制、 l 列 イl z l i応、 2 0 0 2年 ) 画家協会・ i~1 /t'l U~ 造形集団同 11- 滋賀県美術協会 人間文化 ・ 7 1 人・間・文・化・通・信 -小林 清一(こばやしきよかす)社会・経済政策、社会思想史 0年間、地域別に追跡 を中心に飲み物の実態をこの 1 最近の研究テーマ 調査し、その結果を第 49回 H木栄養改善学会学術総 f学生の飲行動の比較一 地域別、季節目J 1、年 会 ( 女- ( 1 ) 社会政策の国際比較 1 , 1 ) ) I J、経 { t 三別 、 1 1 ) 、 ) i l j '利県)で発表 し、調査 齢!街 ¥ ( 2 )ナショナリスムの形成と社会 (1 ) 桁 ¥' l'1I同家の将来的可能性と展望を、英米系とヨ ー ロ 7 パ大陸1\~と北欧型、 LI 本の比 ;1安をとおして考 1 を論文 ( 久子学生の飲み物の欽 ) J I状況と 結果の」古; 1 5 ;識の 地域別lO{ : I . / f i Jの比較、 1;,j~食牛活学会誌、 13 巻 3万 、 1 7 4 1 8 2( 2 0 0 2 ))にまとめた。 える 。 8Jlには韓同 (ソウル)で I ) f . ) 催された H斡茶文化 現夜は、アメリカの医療制度、高齢者問題、初 祉政策と、介;設 j~~1検制!主導入後の H 本の動向を,ì~ {討究会シンポジウムで 「 茶の成分 行的に整理しているが、これに北欧思lとヨーロ ッ 素 パ大限型の政策パターンの考祭を加えて、将来め 1 1rJ、県立大学で開催した 1 1本食生活字: 会におい て、‘ 1 1 . 成1 4年度 I l本食生活学会学会 ' I T( f茶および ざすべき社会政策のモデルを検討したい。 このテーマについて以近執市した論文は、 カテキンとフッ 」 について講演を行った 。 f l 廷 ! [ )する研究 J )を受賞することができた 。受 茶射に I の科学化と組織化 j、「 優生学と人種主北・ ・ ・・逃伝 賞したもののまだまだぷ完成である茶射の研究は平 の科学と人間の改造」 。 成1 5年度も続行する予定である 。 ( 1)ナショナリズムについての政治思想史的検討。 ナショナル ・アイデンテイティの視点から、 1 1 ' 家 ・同民が生みだされ、 一体性を確保するに 至る また、政々はすでに、番 J 1 5のう創!予防効果を科学 的に I YJ らかにしてきたが、こ の結果を断まえて 、健 康日本 21 で jJ{ lIlJされている 「 う I~'I の数を減少させる 」 プロセスとメカニズム、および現代におけるその の実現を目指し、米イ│ →)支はす[たに、緑茶の飲 J T ) とう 有効性を、アメリカを事例にして分析している 。 蝕予防に関する疫学的調査を実施し、う蝕予防対策 1 9 1世紀後半までの、アメリカの支配的意識であ るWASP的文化とイデオロギーが成立する過程の 分析、および 2 0世紀への i転換期j に、大 i Rに流入し 古川できる1i I J究を行いたい。 にi 上記以外の J 反米は次のようである 。 た南東欧系移民とナショナリズムとの関係の分析 。書 籍 公衆栄養学、共著、 I , ) i文書院 は終えた。現イF、 l 凶9 90イ { I代 イ ' t l こ に ・口頭発表 ι 1 チ.カルチュラリズムを生み J I' ,した附出間関係、 栄養1:養成施設の 41 " 1 生女 f学生の食生活の実態 01月 、 アジア系、ヒスパニック系移民、および黒人アン と評価、第 49阿日本栄主主改 善学会学術総会 ダークラスと (1 人ミドルクラスとの緊保関係を佐 i l j '純,リD J~. しながら、人種とナショナリズムエスニ ック ・その他 集団: r u l ! . ¥ )係、f 日干 1 1 : 1 主│ 家とマイノリテイ ・アンダー クラスの問題を整理巾。 モンゴルの l 喫茶判俗、家庭科教育 7 6 1 2、 7 1 7 5、 ( 2 0 0 2) このテ ーマについて以近執本した論文は 「ナシ ヨナリスム・・・ 1 , ; ) イ ヒ と差異」、「リベラリズムとソ ーシ ャルウェルフェア・ ・ ・20世紀アメリカにおけ る制度と社会立識の展開」 -土屋敦夫 ( っちゃあつお)建築史、都市計画史、都市開発史 昨年度から続けてきた石川県加賀市続立の伝統的 建造物株調査が、最終年になりました。北前船の回 船問屋の基地となった集落で、江戸末期から明治期 -早川史子(はやかわふみと)公衆栄養学、栄養疫学 にかけて建てられた大きな家が残っています。昨年、 滋賀医科大学生命科学捌究室との共同仰 │究で行っ 0l l'ほどの家を調査しました。 回 自l i 業は昭 残された 5 ている茶カテキンの抗酸化作用、殺菌作JrJの作!日機 和期には完全に衰退するのですが、問屋が没決しで 構解明の研究の成果は同│際学会 ( Genaration o f も良質な家なので、買い取られて移築された家がか R e a c t i v eOxgenS p e c i e sbyTeaCatechi nsi nt h e なりありました 。今年は 、橋立から移築された'-O;'d Presenceo fCu2+.X l t hMeetingo ft h eS o c i e t yf o r 11[f の調査、さらに石垣や塀、純物をはじめ 、1f~ 立の Fr e eR a d i c a lRe s e a r c hI n t e r n a t i o n, Pari s .France , J u t y( 2 0 0 2))で発表し、その一部を論文(Ep i c a t e c h i n - 景観を構成する環境資源の調査も行いました。私の copper( t t )compl exes: Damage o fSmal I nt e s t i n a l l i 計画)と合同 金沢工業大学建築学科谷研究室(都 r E p i the l i u m .Cen t ralEuropean Chemi s t r y . 3 9 5 6 ( 2003) にまとめ、公表した。 です。 茶の有効性の科学的解明が進む一方、上l 本人の緑 ゼミと、県立大学環境計画学科富島研究室 ( 建築史)、 さて 、こ の調査は今年で終了して 、今年度 Iドに報 告書を作成せねばなりません。伝建調査の報告書の 茶飲用率の低下が危慎されているがその飲用実態の レベルは高く、質量とも全力投入を要求されます。 変化は明らかにされてきていない。そこで女子学生 3 人の担当者で得意分~}をうまく分担し、ゼミの学 72 ・人間文化 人・閏・文・化・通・信 ' 1 : . の 協} jも待つつ、と にかくや り遂げねばなりませ 出│・遂行・許制i l 学 ぶ の か Jという学校のね賀 、③ 副 l ん。 ほんとうはもうかなりできあがっていて、もう の実践過科のうち、とりわけ 少しだと 言 いたいところですが、 L L i 場 はこれからです。 あらわれる 1 1門性、 1 , ¥ 11 岨 ・構 忽」 局面に f i l l 門l 険 ④ 新教育課利下の fし 性・'.I n " J性 j のありんζ干の諸},',(をふまえ、 「学 校 教 て、!日l 杭を l i 主しました 。 こちらが予定より l 王れたた niJにたいし教 f f n政ゃれ会はどう対 l 必しム; えてい t : の 朝i f t l, ; l ーに取りかかるのがj!王れ め、上記の{云述調 1 くべきかについて l i jJらかにしている O )史の第 7巻 地 域 文化財 柑1は 、 や っ と 終 長浜 d たのです。この本は今年度 j Ilに 1 1 ¥版 さ れ る は ず で す。 私が十円、li したのは 、 j三 ì:l{ di.1 ヒ古1; の J~~ -t J 5 1 )で、 J J c飽 鍛 存・ │伝 I kが 合 ま れ て い ま し た 。 鉄砲という、 Ifiの集 i 雑 誌 論4 5 ーとしては次のものを発表した 。 ' 手} j問 題 を ど う 論 じ る か J( 旬 級 社 『人間と 1) l 教 育 j 33 号 )。 ここでは、新教育,i県程'J~胞にか 当時ではとんでもない兵加を生雌したやjの、丈 化 的 かわる J戸) J百 命/ [ 1についての l が史的な位世づけを 水準は焼くほど高いものがありました。 わい、 「ゆとり 」 路 線 と 学 ) J競争の親利Cl0 傾向 を析出し、教育や学校の役',; I Jを合め 、教 育 実 践 j 並れから学 } j)f~1哀をとらえる視点の意義を提起 -那須光章(なすこうしよう)心理学、教育心理学 している 。 .教育研究活動 青年JtJ j のストレスとコーピングの閥述性、 fども II ! f ,ill康相談支援体 f j J l のあり方、教育カウンセリ の心 J ング的手法を活用した綬業のすすめブiなどの研究を 2) 1 川崎 d i(どもの伶利条約について (教 f f学の ) J( I , q L : t lr 教 育 j 第6 7 7号)。 ここで 1 1 布d ir ともの線利条約の実態調査をふま は、川 1 コメント 手がけています。 卜 分な l戊!,j~は何 られてはいません IU _ 念条例か育かといった条例の性約や教育 え 、 J が 、 H本健康心理学会と 1 1本進路指導協会全│正│大会 命的な条例のね徴の立 I~ç 、 で発表しました 。 ザソ│ ミt 取らとし て は 生 従 の セ ル フ エ の権利の実践的な,己、 l 床なと、内作規定に │ 渇する ステ ィームと桜子, J I ;J係 、 大 学 生 の ' 1 "十各とストレッサ 今後の検討 ( 検 ,i l E l ・ J i項 を柊珂!している 。 ーの関係などのテーマで教育桁導にあたっていますこ 3 )I r, i f l l 1 l i', H づ と』 をどう"命じるか J(' u )宇 ' ; 1 社 『人 I ¥ Jと教 f i J 33~J ) 。 ここでは、そもそもなぜ l i i H l l i. ι 1 , ' :之」 が 問 題 に な る の か と い った、そ 2i l . 'l i i jか ら 行 っ て い ま す 滋 賀 教 育 カ ウ ン セ リ ン グ 州究会がや っ と 、 u本 教 育 カ ウ ン セ リ ン グ 協 会 の ?:H 「 参加・自己決定 」 n支 部 と し て 認 可 さ れ ま し た 。 i 必) : y県での教育カウ の教育ソJ 践における立義を与え、指導~J.;J~ の変 層努) Jしたいと思って ~にみられる 41 徴と ,f')!,:i",','i を l ijJ らかにし、絞心 ンセリングの発展 ・充実に います。 のひとつである 「関心・ 7 二 f : 1 次・態度 Ji W l i lの柏 4 砂地域活動・地域貢 献 村 正( I H Iと I fU ! i l l点 を 格 J ll lしている 。 fど 県の 「滋 賀 の 子 ど も 椛利 を考える懇話会 j、 I 学会│羽述では、次の発衣をわ った。 ものiII:~を考える滋賀県懇話会 」 と 2 つの委 11 会に 1)新教育課程実施と教 n l iの 役 ' h リ変化 ( I ¥ i J r J l j教 育 学 人り、下どもの権利や生きブjを大事にする時代の創 会紀要自(~26J/j' ) 。 生 に 協 力 し た い と 思 っ て い ま す。 収 録。 新教育課程実施をめぐる新たな制!荻原則 これは前イ1'- 1立学会発表の紀~ また、近江八幡 d Tや安公 川 l I I J 、湖北町の青少年育 │1 らかにした の 特 徴 を 教 師 の 役 訓 変 化 の関連をリ Jt.学習振興の計画にかかわらせていただき、 成や生i 肢の特殊性を根拠とする新しい ものである 。 教 l i'l分の勉強の阿が広がりつつあります。 専 門 職 性 の あ り 方 が 、 近f ドの教育改革動向や教 育│ 利難にかかわる低学力論議、 「総 合 的 な 学 i J f i -八木英二(ゃぎひでじ)教育学 本年度の t l ¥版には、人材t教育のイ1 ニ り ) jを批判的に 吟味する編~ r 人柏教育の災践を問う J .( 大} ' J, I { ' I 古) と、共-fi.r 教n wとは 教師の役割と専門性を深める I の│時間J Jなと♂の教育課程編成論議などとかかわ っ ている問題 l~ を検討している 。 2) 大 阪 府 F N i l iに お け る 教 師 の パ ー ン ア ウ ト 調 公 " 三報 第 1 1号)。 こ れ は 、 特 別 課 題 ( 教師教育学会1 (日本教師教 j ' J 学 会 編 集 ・学文相 )がある 。 I j i j!iは、 共同研究にかかわる l i j年 度 学 会 発 表 の 年 報 収 7 1・内容 ・7 i i t .. 許制i などのありんの、ら人体 教育日 4 般の 録。 ①教 師 の ス ト レ ス ・パ ー ン ア ウ ト と 教 i 教育の教育実践的な立味を 論 じ た も の で あ る 。 共有 あり方の関連の解 I~"j、 ②教 147 実践の 三 つの局而 されにくい十l 襟・評価論の特質、マニュアル化の傾 ( 桝 怨 ・ 遂 行 ・評価)にそった分析、 ③ 学 校 診 向を強めている教育方法、人権についての教育内容 断評 frJli 、教民 ~-l 旬lí のあり方の検討、などの方向 の構成、なとrの人権教育の);~本的 特徴を整理し、近 をl i j Jらかにしたもの。 年の人教育政策との │刻述、村十r l爪 動 の白 1 1 1や 表 現 活 動を重税する人権教育実践の条理1を明らかにしてい -灘本知憲 ( なだもととものり)食昂栄養学、食品生化学 m相手の職業である 」 というヒ る。 後者は、 ① 「 人 1 1 講義、実験・実習でのトピック ューマ ンサービス的な 一般的性柏、 ② 「 なぜ学校で 例 年 2田正│ ミを 対 象 と し た 栄 養 学 各 論 で は 、 L iving 人間文化 ・ 73 人・閏・文・化・通・信 Nu t r it i o n( St a r e&M c w i l l i a m slの尚齢者栄養部分の l刻する多くの報 fT がある 。 ヒトの f~lf 質コルチコイド 和訳を講義に平行して行ってきたが、今年は 1戸1 ' 1 二 の分泌 リズムはなか でも古 くから有名な 、 またよく もP r i n c i p a l so fHuma n Nu t ri t i o n(M. E a st woodlの Nu t r i t ionalS t a tus部 分 の 和 訳 を 課 題 と し て み た 。 研究されている分野である 。 日党めに最も高く夕刻 1 [ ¥ 1 1 民1 1 "の夜半過ぎから l f Jくな につれ急速に低ドし 、 1 一 人一 人の訳を而談形式で市正していったが、学生 って し、く .ýj~ fi'J 的な概 [1 リスムとストレスへの応答が ; f :があると感 特徴的な副行皮質ホルモンである 。技々は、lI ' i今│問 じた 。彼 ら が 21 1 ' 1' [ :になったときにどの程度土達し 題となっている i W J食の 欠食何慣との関連を本学学生 ているのか楽しみです。 おかげで、学生の阪を覚え を対象として調有した 。 その結果、欠食習慣者では によって失刊のレベルにかなり大きく I l j Jらかにリズムの 1 Mれている対合が高いことを見い る副産物も収穫だった。 食品 ) J L I工学 J i ;W I では例年、 U本 P i 4 醸造と手1菓子製 6( 2 )( 2003) )。 だ し た (日本栄養食糧学会誌、 5 作うた刊が学生に 人気のようだ。小1 ' ミには分からない が、ベテランの先生 } jの評 f i l i l では、日本酒は大抵 1 1 -吉田一郎 (よしだいち ろう)教育学 m 1 1の背で言う趨特級の l 床わいらしい 。手n 菓子製作も I J i究開心 をこ こ数 教: r の専門'1"1:を究 明するという イ 以内の打手プロの協力 のもと、応頭でしかみれない 年1 1 1 1持ち f 涜けています。 このところの H 1 本的な関心 伝統和菓子数種をそれなりに完成させ、しかもおみ は、教育における人権(権利)保附というテ ーマ を 、 やげとしてテイクアウトできることが人気の泌密ら 救 J[i1k:の \1/r 'J'lt の議論と 1)'.1イElí~ に佼 iì'l づけることがで しい 。今年は新たに荒製づくりにチャレンジしたが、 きるのかということです。 さすがに才7 い火性はアイテ‘アが立 7 江だった 。 北製そ l心にもとづいて、了ーともの人権 このような問題 W のものはとびきり ll1¥来というわけではなかったが。 ( 権利)保附を教育実践における教 D l t iの 指 導 本 質 論 ι 研究上でのトピック のなかで似世づける こ とを試み 、その成果の一音1 1を (1) 食べ物のヒトに I J -える i h i l t 令効果 論よ発衣しました 。 それは、 「教 育 実 践 に お け る 初 i 史) jでいう食品 の1i' l tJ . . : J 米{ i ;え られている食べ物 がry,つ jilt 冷効~~は本当にあるのだろうか 。 Tí{t かに l, if 辛子や 'I~Æ のような得予科が体を ~rti く jLi めるとされ る「熱」 に分類されているのは納得だ 。 ~ミ験動物を J J Jいた Ii[熱竹川も ~JE I.y.J されている 。 しかしその他に 判 1 1 活動の臼 I liJと題するもので、これは、八木兆 r 4 u i 人権教育の実践を 1 1 : 1うj 人 ) J, l , J f; i、 二・絢 川修 f 5) Jにr Y r収されたものです。 1 日動の ' 1 仲1 出 ( 内心の(11 1 1 そこでは、 fどもの1' 11 2002年 、 とぷ JJ[ の白 I L!)を f以降することが、.j"fij4~劫 1111 におい なると、これは全く見、i lがつかなし、 。.:j".l(:今の研究集 て必妥不可欠である ことを、 「 十li 併する I~ 普通の食べ物にこのような温冷効果が尖化する では t 来的に許谷すべき教育桁導の本質から説明すること のか、ゾ〈イ王するのならその本イ本は Mか。将来の応 J J を試みました 。 r l lJ を本 を以望しつつ、地道にヒトを対象とした実験を繰り 教育学の│人j紅白ヲな論 l l l のなかに人材権利)問題 返している 。 今 "1→ーはやli の結;j~が着実なものとなった 1を位 1 1 1づけるという課題か としての精神活動の白 1 (Bi o s c i .B i o t e c h n o . lB i o c h e m .67( 1 ) ,2 3 2 8( 2003)。 ) らいえば 、いまだ、部分的な;命 J fJ!情成にとどま って 「 判lの 食 べ 過 ぎ は 休 を 冷 や す 」 と俗に ,iわれるが、 いる ことを認めざるを科ません 。 │ 勾心の門出や去刻 l の摂取は 1 . Ki ' i i i l i l lを低下させること7'!' 3 i E I J 月さ 実際にわi ' 1山の意義を法学的な観点からだけでなく、 の1 れた 。 ; ; :1 ( りな制点から ( 2) 野草の消央・f1 c l 均 五 ゴj米 と忠います。 ; e j 主 肘究 I l j lする課題がのこされている 1己│山御のために、?i'i-R.H L I I j 成分を 本来他物は ( なお、本論文;の jじになった l論文を、日Ijの坊で発ぶ 1生している!J.!J, ' , ' 1 . は 、 しました 。 l f : l ' )干 1i f i! 1 } Jの ( I r L !- 法学の!日U I ! !と教育実 合んでいる 。 身近にけなげに ~:x.t{'i梢物とはり:なり、ヒトに渡ってもらえない 。 そ r 践学の以理J 古I I { ; 存問題術究J第 1 6 0 号 、 2 0 0 2 { 1 '、 6 J J Jも強いだろうとの 1 1 ¥発点から始めた研究 ) 1と題するもので、これは、基本的なモチーフは、 は、大学近辺の野',1を検索し尽くした 。貯草全般に l iJの『論文と 先の 「 教育実践における精神的動の白 r れだけれ 効米は認められたが、その強さにはかなりのイ│同性が JriJじですが、子どもとの関係における教師の μ世に あった 。特にタカサブロウ、ヒメジョオン、オオニ ついて 、先 の論文にはない法学 1 ( 守な説明を試み、教 l t l l i /J ¥物レベルで シキソウ、メマツヨイグサなどはキI : f l iの教育の1'1tJ論を整 J l j!しました 。 :1'1')製ポリフェノールに匹敵するほどの汗j 央 ( 1 1本栄 昼食糧学会誌、 56( 1 ) (2 0 0 3 ) ) ・抗的効果を示した 。 これらの他に、l!1 同法人 i ìß.fJ刊,~ 1 , 材Il1lJ題付│究所」 の機関誌()Jr リ) に 「 新教育課干Yの背後には、どの 今後はその!之、川と、活性成分の倹索へと研究を進め ような 「 教育改 " I ' ; :J椛恕があるのか」 と題して、 る予定である 。 イ 1 ・ 1¥ 1( 2 0 0 2 .4J 1 -20 0 3 .3J J .) ~引退しました 。 これは、 ( 3) 生活行慣と概十l リズム 内特の 3 割削減、 生命体の概口リズム(サーカデイアンリスム)に 74 ・人間文化 「総合的学科 j や ;~f.本 :IUリの導 入など、大きな i H l J 立 変 ! 1 . . ' : を 行 った新教育課 利 ( H1 4 - 人・間・文・化・通・信 王oI s h i g u r o. KazumiYan agi h a r a, At s u sh i K a n a l 年 度 か ら 本 料 実 施 ) が、 教 育 現 場 に さ ま ざ ま な 混 乱 やとまどいをあたえて いるという JL ; I 犬にあって 、 そ Tanabe. Yuk a r i Ega s h i ra. Hiroo Sanada.& の背後にある教育政策の動l i ' Jを どのようにみるかと . lChem . . 2 7 7( 3 8) 、3 5 1 6 2 KatsumiSh i bat a]B i o いう角度から、今 Hの 教 育 政 策 を 分 析 し た も の で す。 3 5 1 6 7 2 0 0 2 9 ヒトにおける汗及び糞中へのナイアシン排池 J 係をも っ て き ま し た これまでも県内の教育界と/Yi が、今後とも述 J j 5を深めていきたいと思います 。 : , ¥ :JìJ\j-1~秀己、 jlqt 川守、侃渡努、児玉[1'( 柴L L I克 己 -柴田克己 ( しばたかっみ)代謝栄養学、食品機能科学、栄養生化学 f、 ビタミン 7 6( 10 )、4 6 1 -468 2002 1 0 I d e n t i f i c a ti on o f Tox i c Mechani sm o f 1.発表論文 P l a s t i c i z e r s .P h t a h l i cAci dE s t er s .whi c hi sa Pu r i f i c a t i o nandmole cu l a rac l o ni ngo fr a t2 - Putative Endocr i n e Disrupters:Time- amino-3c a rboxymucon a te6 s emial dehyde dependentI n c r e a s ei nQ u i n o l i n i ca c i d and .Tanabe .Y . Egashir a .S d e c a r b o x y l a s e . A I tsMetabol i te si nRatsFedd i( 2 e t h y l h e x yJ ) Fukuoka.K .Sh i ba t a& H.SanadaBiochem p h t h a l a t eD i et .Tsutomu Fukuwatari.Yuko J .361 .5 6 7 5 7 5 2002 Suzuki.Etsur o Sugi moto.and Katsumi 2 定行運動負イ; :f が Trp - NAD 経路に及ぼす ffi~ ヂ11 l Biochem.. 66 S h ibat aB i o s c i . Biotechno. 米合)}~子、 fjf IM~ 康宏、柴田必己、仙波多f 、 1T ( 1 2). 2 6 8 7 2 6 91 2002 藤 J : i ll i j J 、小梨f;I!人、初l 山正己 、長十Jif- 私 t 康i i l J j 主 石i J f 究 1( 1 ) .5 7 6 4 2002 1 1 E f f e c t so fS t r e s s e son t h eU r i n a r yE x c r e t o r y 3 Eluci dat ion o f th巴 toxi c mechani sm o f Re i l a b l eIndexo fNi a c i nS t a t u s .i nHumans p l a s t i c i z e r s . phthal i ca c i de s t er s . p u r a t ive Hidemi Okamoto.Aya Ishikawa. Yutaka Pattern o fl ¥ i a c i n Cataboli t e s.t he Most endocri ned i s r u p t e r s :e f f e c t so fd i e t a r yd i( 2 - Yosh it a k e. l ¥aokoKodama.Mamo r ul ¥i s h imu t a . e t h y l h e x y [ )phtha l a t e on t h e metabolism o f i .& Kats l l m i Shibata Tsutoll1u Fukuwatar Jt ¥u tr .S c i. ¥ i t a m i n o l‘48(5U1 7 4 1 9 tryptophan t on iacin i nr a t s Tsutomu Fukuwatari.Yuko Suzu k i . EtsuroSugimoto 1 2 ラ y 2002 トにおけるインスタントコーヒ ーのナイ and KatsumiShiba t a .Bi o s c i .Biotechnol アシン i , r ↑t .Niacin Aval ia b i l i t yo fI n s t a n t Bi ochem..66( 4).705 71 O 2002 Co f f e ei nR a t s .fl ,i 波努、 1T 1除 ~~[II.'J.i、、佐今木降 ひ3 c a l 加x y m u c o n a t e 4 E x p r e s s i o no fr a th e p a t i c2 a m i n 辺 、 柴 川 克己 h i g hp r o t ei ndi e ta n db ys tr e p t o z ot o c i n i n d u c e d 旺' e c t so fs t r e s s o fn i c o t i n a m idec a t a b o J it e s.Ee on t l l ed i l l r n a l var i a t i o ns .H .Okamoto A 目 I s hi k a ¥ ¥ 'a .H,Y o s i t a k e.J ¥ ' .K odama.: v r .l ¥i s h i m u t a T .Fukuwatari.&K .Sh i ba t aAm .JCl i n.Nutr 5 3 ( 5 ) 4 7 7 4 81 2002 7 7( 2U06-410 2003 6 E妊e c t so ff a t t yl i v e ri n d u cedbyn i a c i n f r e e d ie twitho r o t i ca ci daont hemetabolismo f ' a t a r i . tryptophant on i a c i ni nr a ts .T .Fukll¥¥ Y .Morikawa.E .Sugi m o t o .&K .S h i b a t aB i o s c i . lBiochem . .66( 6) . 1 1 9 6 1 2 0 4 2002 B i o te chno 54 (1 ) .77-82 1 3 D i u r n a l¥ ' a r i a t i o n si nh l l m a nl l r i n a rye x c r e t i o n d i a b e t e s. ]1 ¥u tr .1 3 2( 6 ). 1 1 5 3 1 1 5 9 2 0 0 2 5 ラ ッ トにおける小女ふすま の ナ イ ア シ ン 活 性 ' F也子 、 柴 m, , ' t " : L ' . I l本 家 政 学 福波努、木)II 会誌 1-1~家政学会誌 2003 6 s e m i a l d e h y d ed e c a r b o x y l a sei sa f f ec t edb ya 2 . 書籍 楽しい f七化学 (ビタミンを分 f l l執 筆) 講 談社サイ エンテイフイック 3 社会活動 2002年 r i GrowthPromotingA c t i v i t yo fP y r a z i n o i cA c i d aP u t a t i v eA c t i v eCompoundo fAnt i t u be r c u l o s is 1 . ~"; 11 両1 1本 人 の 水 i 存性ビタミンの必要 l d :に nl ¥ i a c i nd e f i c i e n tR a t s DrugPyrazinamide, i の; K i 存t Jビタミンの 必 要 L tJで 「ナイアシン t h r o u g ht h eI n h i bi t io no fanACMSDA c t i vi ty ! . :Jというタイトルで講泌 の必要 : T .Fukuwatari.E.S u g i m o t o .and K .S h i b日【 a 3) J1 5 1 1) ( i l tプリンスホテル B i o s c i .Biotechno . lBiochem . .66( 7 ) .1 435 1 411 2 0 0 2 . ' ¥ A 8 I d e n t i f i c a t i o n and expression o fa cD e n c o d i n ghuma na a mi no b c a r b o x y m u c o n a t e e - . V!SD)八 k e ) s e m i a l d e h y d edecarboxyl a s e(AC enzymef o rt h et r y p t o p h a n n ia ci npathwayand q u i nol i n a t e hypoth e s is 壬 S hinl c h iFukuoka. < f i 定的実験 Ji り │ 究J 1の 発 J . . : f会 │刈する),! 2 . rH本人 平成凶作 ';j~主主 1: 会で、 r l味覚附 F~: から微量栄主主素の必安 ' l tを考える 」 というタイトルで講演 平成1 4 { I ' .i月1 9 1 1大 i l ! :f.出来福祉センター 3 . ~"; 21 日I rl.f:人の水溶けビタミンの必要以に t従 的 実 験」 ω i究 HI の発ぷ会 r I 1本 人 │ 刻する j の水溶'目ビタミンの必主主 : : . IJで rl本 人 の 水 i 作' 1 ; 1 ,ビタミンの食'j[摂 i 以) ' , " ¥ i 1 O にW Jす る 検 什 の 人 間 文 化・75 人・間・文・化・通・(言 現状と将米」 というタイトルで講演 年 平成 1 4 9月2 0口 安保ホール (名古屋 ) 4.滋 賀 県 立 大 学 公 開 講 座 で l Human Foodの作 ニ。 きまし f 専門のデザイン関係では、あいついでユニパ ーサ ルデザインについて考える機会がありました 。 L'i~ . I & :J というタイトルで、識がi 。 干1 & : 1 4ド 千1 1月2 6 工 業 技 術 総 合 セ ン タ -1 ' .催のセミナーでは 「地域産 日滋口県立大学必学交流センター 業の特色を活かすユニパ ーサルデザイン 」 と題する パネルデイスカ y ション (コーディネータ ・1 1) J1 -鈴木伸子 ( すすきのぶこ)色彩学、服飾造形論 教育活動では、オムニパス方式ではありますが、 今年新しい十 1 1 当利 L I r (人間文化論 Cj) が明えまし た。衣 文化 についてのみとはいえ 、 内容が広くて多 J t根 r l i文 化 プ ラ ザ )c 県 内 デ ザ イ ン I . I J休 の デ ザ HIGAで も 研 究 会 を 立 ち l 二げまし インフォ ー ラム S 日・ た。 また り よ ・ 他民福祉政策謀の主{位する r ì~~ìiJiユニ バーサルデザイン懇話会」 の委員になり、提言のま 1 'から Mをどう組み 立 てて短 すぎ、数多くの材料の 1 とめに関わりました 。 産業の制点と福祉の視点はま いH 引f l jに一述のまとま った講義にするのがベストで だまだ;flEv J l tが大きく、これからそれをどのように融 あるか随分悩みました 。 合 し 、 ユ ニ バ ー サルデザインを収実化するのか、大 研 究活動で、は、大津絵について今 I n lは美的観点か 変革1しい 課題です。 また変わったところでは、県- ら配色分析を行うため、占大津絵 1枚ずつを丹念に Z E産課などが支援して I J f l発された特産品・近 i 1しゃ 寺問を 調べ検討を加えてきましたが、整理に 相 当な H もの普及ポスタ ーデザ インの務査をしました 。 以前 費やしました 。 それがや っ と完成し論文として掲依 時は近江しゃもを使 から殺が家ではトリすきをする I !段はちょっと I f J iいけれど美味。 おす っています。 1i されました 。 ・8大津絵の色彩に│対する研究 (第 2卒1 色 彩 . l26 情成と│妃色 美 の 特 徴 )日本 色 彩 学 会 誌 Vo 月に開催される令国伝統的工 芸 品仏喧仏具展の企聞 r t 結婚式や著名人講演会など に参加Iしています 。 仏Ti N O . 3( 2 0 0 2 ) -他 1件 すめします。 彦根仏用組合との関わりでは、今年 1 0 学会誌に投杭中 。 盛 り 沢 山のイベン トに なりそうです。 今後は、以前のような色彩心 血に係わる研究をさ 1月 に は 私 の 入 院 ・ 手 術 が あ り、 子:会シーズン の 1 らに深めていこうと考えています。 その後す っかり復似しましたが、各 ) J凶に ご迷惑 を 0 01 年1 2) Jから 社 会活動としては 2 NPOL I7ドカラ 0 0 2年 1 2 )Jからは ーネ ッ トワーク協会会員として、 2 t f進 会 nと し て 活 動 を 開 始 し て い ま す 。 内容は、 同 1 I J カラーによる癒しの効栄 (リラクゼーション )を応 ) おかけしました 。 学会はひとつだけ、道共学会でシ したカラーセラピ ー で、休日のボランテイア活動で、 ザイン:道具デザイン!とからの視点」 と題して発表 ,YJ 西では、まだ軌道に乗ると ころまでには至 っ す。 I ていませんので何とかしなくてはー 1 1 です。 と模索 1 y クハウス│問題に │ 刻す る伺究会を立ち上げ、フォ ー ラム 「シックハウスを道具学の立場から考える j を 開催しました 。 私は 「プラスチック道具と近代のデ しました ( 第 6同道具学会研究フ ォーラム・ 9月・ 発1 1 1 ]会館ホ ー ル) 。 { J立 大 で、 非常勤講師 ( デザイン!と ) 後期には京都J -日比喜子(ひびよしこ)調理学 食べ物のおいしさについて、テクスチャ ー を左右 Jにもこちらと 同様、 生活デザイン をしました 。 先 ) のコースがあり 、教 員やカリキュラムの桃成が非常 殿 する澱粉の物性に関して研究してきた 。 今年度は j によく 似 ています。ただ先方は大学院進学率が高く、 粉の糊化に対する共存物質の彩響や i~粉↑生食品保有: 留学 生が多いのがこちらとの大きな追いです。 この ) 1の褐 変による品質劣化 について取り組んだ。 日比 違いは 、大学としての伝統や立地 の違いからきてい l 二 喜 子 .米澱粉のアミロース ・J日質複合体の融解に対 るのか、あるいは 他 に ) ) I Jな要因があるのか、今後の する食塩、砂糖および百十: の影響、日本家政学会誌、 私たちの専攻の方向性を考えてゆく上で検討謀題に 5 3、 8 0 5 8 1 0( 2 0 0 2) 0 1 ::1比喜子 .J 勝田菜実・藤音I 1 智 なりそうです 。 アミノカル ボニル 反応に よる澱粉の 3で は 、 中 心 街 「長浜市 史」 第 七 巻 ・ 地 域 文化 財 1 性状変化、日本調理科学 会近畿支部第 29回研究発表 の旧長浜町地域を担当 。 曳山祭や独自のまちづくり 子 ・ 叫17f~ 由起 1 2。 会、講演要旨集 、 p など、地域にねざした文化・文化財の濃密に残る所 です 。 昨年は十数回にわたって街を歩き回り、行き -面矢慎介(おもやしんすけ)道具デザイン論 夏には休暇をいただき久しぶりにロンドンに行き 喫茶応もできました 。執筆は現在鋭立進行中 。 つけの l 春には刊 行の予定です。 ました 。好景気らしく街には活気があふ れ 、 悪名高 かった食事も最近のグルメブームでついに改善され -竹下秀子(たけしたひでこ )発達心理学 てきたとは現地の人たちの弁。 ミュ ー ジアム巡りの 京都大学霊長まi H リ │ 究所の母子チンパンジー認知I 発 ほか、留学時代の恩師や友人たちと再会、充電して 達プロジェクトでの研究を 継続しました 。 7月には 7 6 ・人間文化 人・閏・文・化・通・信 共同研究者である、ジョージア大学心 J q '学科教授の 時の成果は 9 徴兵f T街のような修行をこなす。 このl ドロシ ー・ フラゲイジ t ' ' , iI~ (比較発達心理学 ) を nから開俄された ?を山ビ エンナ ーレ に出展された 。 宇和 ' 1 '応財 j j b k f T街は 9月と 1 にわた って行 った。 故 2月の 2l t ! 1 I " I Jの研究助成を受けて狛き、その成米を 8n に北京でおこなわれた↓111~X~ 屯長 itJ'}: 会で発表し 山本兵彦氏 の 「 室内 」制 集 部 (1 : 約 三 社)訪 11 ] し 、デ ました 。 今 年 度 公 F Jした"命文は、(1 i )/ j ( ! l ' f '/ i . イl、竹 ザインジャ ーナリズムの本質とモラルを、収編集人 f、牛後 Iヵ ) Jまでのチンパンジーの行動党達 I j !q :評論、 45、 3 5 2 一 母イ‘の夜lIiJ観察から 一。 心 J 、( 2) 林美 1 : 1 1 . 竹 下秀子、ボノボとゴリラ 3 6 4( 2 0 0 3) 物 遊 び」 。 動物心理学研究、 5 2 . 7 3 8 0 の fどもの 「 ( 2 0 0 2) 、( 3)竹卜秀 f、物による傑索 行為生成の ぷ般を探る 。 発述、 9 3.1 0 2 1 1 0( 2 0 0 2) 0 Ui l i yは 、 の鈴木 l f々に伝ほしていただく U[氏よりlI' 'U 下秀 3 ) ]の r l本 発 注 心 J 1 ! i 学会シンポジウム 「見ることか J、4)Jの日 ら読む ことへ一 視線組併の発達と│隼害' 1 1学術集会シンポジウム 本赤ちゃん学会第 21 r I~ 了 C リビ ングデザインセンタ ー・ ディレクターの荻原修氏よ りインテリアデザイン業界の現状と話題の 9坪ハウ スについて 1 mく。 * 以 デ ザ イ ン セ ン タ ー に て 、 、 r WTC9.11テロ j シンポジウムに参加 し ミノルヤ l',身の日本人建築家 2人の話を聞く 。 マサキ事務所 I 5 0同 年 を 迎 えた GKグループを訪問しグラフィック , ' ,' J畠氏より G ス訓社長の, Kの世!とを詳細1に説明して 川万卜 いただく 。 秋には、我が故郷 である,,:H I Iの奥 l のコミュ ニケーション:ヒト以外の動物 の [ t fてに 川フ ィールドミ ュ ージアム梢:IJ.!現地調査に参加し ザ'ぶ W ; j係」 で行いました 。指導大学 院生である、 t : .0 3Il1iJにわた って現地町役場職 1 1や地冗住人と 1 4 L : 後J t f J課程の水野友;有さんは、上述の論文執筆のほ 共にカヌー、マウンテンバイクなどを駆使して調台 か、カナダ ・トロン卜での l 可際乳児行動発迷学会や 交流を行う 。(山知県大 I F . I I I Tl この淵住成米を 2) J 凶内諸学会でも研究成果を党表しました 。 また、 I 事 の問 hlサミッ トにて発 J えした 。冬には、 f l = 宅リフ t 前期課程 l こ迎えた J 十本将よ さんは、初 h'lîj~~ .小 t~ ォーム現場体験と称して 以京小イ l川の戸建て住居の 1 " の 「 到津の森動物公 l 主U でのチンパンジ 1 J動発 収坊を人 ょの肘芥 地氏のもとで ì~ をか く : 達研究を開始しました 。 フイ y クデザイン']1:務所 仰|修 を公共の広 .~i 物を多く 学部 4回作ゼミでは 、 2人が卒業論文にとりくみ 也、グラ f イ Tが け る 株 式 会 社 COAにて引き受けてもらう ご ド :'f u幻幼 j均~V兇 '<'.己 の J打払州 Jh;前iJ川 h1川li | ま した 。 乳 JiU:: で忙しい業界のゾi~ 'I'I'i を JJJ L で主 n る 乙 山玉県以秩父 たものと ド ! 小 ぺ lI 学/生七の道{似忠 怠 識 j故の発 i 迷主と学学:校での迫{徳忠の こ入り体験。 これら の活動 村 ・ 紙波 l 般人JJ!~肝氏へ ~l J J授支 7業走との関辿を f 探北 つ たものです 。 学部 31nl~ ゼミで は地域に点│猷で、きる体力と知忠と人絡をも った学生 ι ; は、赤ちゃんのコミュ ニケーシ ョンの発迷について を育てるためのウォ ー ミングア 文献による学何を進めたのち 、保育園での参与観察 これからは近江だ 。 を開始しました 。乳幼児の遊びゃコミュニケーション .教育活動 1生の道具デザイン出習では地 JLの金城幼稚 1 31 ' " 1 の発達をテ ーマとした卒業研究に結びつきそうです。 社会活動としては、滋賀県日等学校教育研究会 1 良養護学校校 内研 ' 1 {郁府 究会、彦根市立教育研究所調 f E研 究発友会、;; 障害児教育制究部会研究集会、 y プと与えている 。 ' r :した「幼児のための の協 )Jを得て段ボール紙で、製 f 紡子 」 の調作・デザイン ・製作・ 試 の 1ft の課題作品の ・つ が、 mを行 った。 こ こ のイドの *;~t デザイナ ー 公立幼稚関長会研 修 会 な ど で の 講 師 を 務 め ま し た 。 ズウィ ー クに選定された 。 また、その作品は東京 の illÚ 主主護学校の保護符や教 師で jifi めておられる|産~Î: i: j . ' l 段ボールメーカーから戸がかか り現 { ' t i f~,C;,イヒにむけ 山 .{í"I~ 活文援活動にも 、 f f iめられている 。 製作 { て検 , iは現在そ のメ ー カ Hが j y 生とともに参加 l しまし 人 , I~JI か ら依頼されて、 たc また、 これまで、 J 根 I J Ij保育 tI ーと他の昨j , ' 0 P~l 発についても協力を依頼されビジネ 1 随時発迷相談を実施してきましたが、臨床発達心 J i 1 . ス展開が!切符されている 。 滋賀のメーカ ーにも刺激 Lとしての実践的な活動に 今後も積極 的 にとりくん を与えたいものである 。 i 且f L計 111論にはデザインの を招き、講義後も含 J J i場で活躍する 2人の外部講師i l でいきます。 め 11学生迷とつきあってもらった 。現場の臨場感 -印南比呂志 ( いんなみひろし)道具計画論 で、とても刺激的であり、 地方 の学生にとっては興 ・研究室活動 放する、人を知│ る 、 現場を経l を!惑じられる講義は、学生が将米 目標を模索する1::. nをかくを様請にゼ * i 味 いものであ った だろう 。 これら講義や課題のド l J j述れ回して鍛えたつもりである 。春に ミ生を 1年 f キュメンテーションは J 舌デ / -'の、生 i J i イ E新しく製作 t ; ' i J辺の北陸地域アルミ産業ベル ト地帯 ( は富山 } 三協 ザイン専攻のホ ームペ ー ジ上で発表予定である 。 アルミ他) を祝祭ヒアリングをわう 。 互には銭 山大 4 砂デザイン活動 y プ釜 山」 に 今年の活動はプロダク ト、グ ラフイツクデザイン ゼミ生 他 31旦 I/I~ も合め参 加 。 釜 山港ま で船で渡る 。 分腎のみならず、コンペティションなどのコンセプ l Jから集まった 2 韓国 r 50人 の韓凶の大学生達と共に ト策定とい ったソフト面での 1 1わりが多かったよう 学 で行われた r SAサマーワークショ 人 間 文 化・77 人 ・閏・文 ・化 ・通 ・信 に感じる 。 具 体 的 に は 、 ホ ン ダ 新 本 社 ビ ル 桁 名コン が 、伝 統 的 染 色 技 法 の 押 符 も TTチ ー ムとして参加 l し、次点となった。 ペに N 生かしたいと 思 っている 。 1 . 1 1 折し 、 教 育 ・研究 に ifli~術情報大学削際コンペには 11 本チームとして参 今 年 度 の卒 論 生 は 、 不 安 定 な 色 素 の た め 、 色 を 保 ドイツ、オーストラリアチーム~ つことや、本来の鮮やかな色相 l を山すことがi)' しく、 と故終まで争い故後秀 f tを獲得した 。 これから現場 結倒的には月 ]v、られなか ったイヒびらのアントシアン がものを 言 う世界だろう 。 パラウ に向け ては政治ブJ ん だ。 そ の 結 果 、 簡 単 による染着性の研究に取りおl 11i.lll~~ 空港・サインデザインが新J,f T I I 々に竣工した o NTT-DATA弱J I l :川 ピ ル ・ サ イ ン デ ザ、インは 6) J 少 し 検 討 を す す め る こ と に よ り 、 花 び ら の 染色 に │ 勾 竣工予定である 。 2 0 0 31,fーがに新製品発表を行うコト する J リ J ' r l iを 伝 え る こ と が 出 来 る と 思 わ れ る 。 加l し、フランス、 ブキ都市別ストリートフ ァニチュアのデザインデイ I f J 行 っ た。 I SSEYMIYAKEニュ レクションを半年 I n t 1 ¥米、 尖 J T J性 の あ る 染 色 1 Ji去をぶした 。 もう に染色 1 / I J ' t搾 学 習 講 座 ( 秋 季 ) 社会活動としては、多貨 I 草木染め請出を 11~ 当 した 。 自然の草木に忠まれてい ーヨー ク !Ji オリジナル 1車製 lll~ I~出去をイタリア・フ イ るtJ也制をイi 効に生かし、身近かな植物で染色し、 レンツエの J 阿波人とのコラボレーションにより製作 U I Jおこし染色グループの誕生の必など、ほのかな!制 納品。 ソウル日本領事館以の商業f l jの複合ピルイン Jった。 作を J テリアデザインを担当し、 4Hに 唆 T+ i i : :。 他グラ l : i f l l i r J iW J血 NTTフ ァシリテ ィー ズ フイツクデザイン分野の活動としては、 天 │S I I社広報物デザインや、 q請 の エ デ イ トリ 北点事務所広報物テ‘ザインなどI/I/I 置大橋松行(おおはしまつゆき)政治社会学、教育社会学 本年度の 1 うな 活 動 は 次 の 通 り で あ る 。 1 著書(単著) r i l :'~I 'j の学び合 ・ 縦しのうをび?? : " r労 を し た 。 また J J L伝、 仙 鉄 鋼 述 i P . ! ( IH 品目íH~ アルで = f ! 日 目¥ 1 )か ら の 依 頼 で 次 1 1 :代 に お け る 鉄 に よ る 環 境 づくり構似を行っている 。 こられの活動を少しずつ ; J , リ 山 校 2 分担執筆 r i!!f, J~r 政党 の 成なと 11,(初の??辿選小 」 f i1');とリンクさせていこうと与えている c 研究室の i ・学会・社会活動他 6月 に ソ ウ ル I q liL芸術大学で C HOI¥ VOOK 講座の 変わりゆく定時 1サンライズ出版、 2 0 03年 3)~J 。 滋賀民 m 全1: f f t Jr 近代の i ゑt lj ? f i t ' i民版社、 2 0 0 2 { 1 . 9H。 3 論文 r 目 、' i o 9月 に は ソ ウ ル で れ わ ゲストクリティックを J 「職 業 人 と し て の 教 μを考える J 人 間 文 化 j 第 れた H EYRIMICROPOLIS以 に 参 加 し た 。 1 0月末に 1 3り、滋賀山了i大 学 人 1 m ) : .化 学部州究報告、 2 0 0 3 年 2) J 。 1 1]にわた って同専攻の而矢先生と J tに滋1 1 P , L は 2日1 ユニバーサルデザインセミナーのコーディネーター 4 . 新聞掲載記事(評論、 コ メン卜) I I 研究部会で、 「地 場 産 業 へ の デ ザ は経営問限学会B r i ゑ賀県知事選挙 Jr 朝日新聞』 ( 2 0 0 2 { 1 ミ6片 1 61 1) 霞ヶ関ビ イン支援とまちづくり Jを テ ー マ に 講 演 ( 「U I L議 会 議 以 彦 根 I I J選挙区新I i 選J 読 売 新 聞J ルI NFORIUM) 。 ( 2 0 0 2年7) J 4H) を務めた (ホ テ ル ・ボ ス ト ン プ ラ ザ 革 沖 )0 2 )Jに r r 「公 職 選 不 法 改 正 J 毎 日新 聞 』 ( 2 0 0 2年 7 ) J1 9日) -道明美保子(どうみようみほと)染色学 r 「県 東 市 長 選 挙 J 読 売 新 聞 1 染め織りの分野において、その ~U!志と暦!とを考え ( 2 0 0 2年 1 0月26ト1) 「八日 r l iJ r i 長 選 挙J 読 売 新 聞j ( 2 002年 1 1 ) ]9日) るとともに、染色の伝統的技法を現代の科学から検 r 証し、さらにそれらを発以させていく方法を探ろう としている 。 r 「長 浜 市 の 合 併 住 民 投 票 J 1 1 "日新│封J 学会活動としては、身近かな野草であるセイタカ アワダチソウを染料として 利 用 す る こ と を 試 み た 結 ( 2 0 0 3年 2 ) i6日) 4回 大 会 で 発 表 し た 。 果 を 日 本 家 政 学 会 第5 1 2 1郷 町 長 リ コ ー ル の 住 民 投 票 Jf r l 'R新 聞』 また、ここ数年取り組んできた古代から近 1 f tに か いられた色素の鑑別のなかで、特 けての染織布に月 j に江戸時代の緑色染織布に使用された色素の鑑別結 L5 4 果について論文発表した(! 二 │ 本家政学会誌、 Vo NO. 1 1 7 2 6( 20 03) )。 ( 2 0 0 3年2月 111 : 1) 5 講演活動 r r ・伊吹 山文 化 資 料 館 講 座 「文 化 財 教 室 J :J f J i 台- H 白 羽1 の 大 合 併 J(於:伊吹 山文化資料館、 2 002 年1 0月23日) r 今 年 度 後 期 か ら は 、京 の 型 染 め l 織人塾での研修が -草 津 市 民 5 i ! c 法講座 : 地) j分 権 改 7 1 Eは 今一 特 に 加 わ った 。 これまで非公開l だった京都の伝統的な型 r i lU f J村 合 i f j:問題をI/ J心 に一 J(於:草津市 立 南 。 1 1 L津図書 u 5R) 、 i ' i 2003年 3月 1 染め関述技法を 現 代 の 名 て か ら 学 ん で い る 。 染 色 を 科学的な側面からみてきた私には戸惑うことが多い 7 8 ・人間文化 人・閏・文・化・通・信 6 . 共同研究 新 自 治l i J I究 会 ( 代 表 青木I; J げ 刊l J 教大学社会学 部教授) で、本 { I 二度は全 l 王j).此伎の 1 ' 1長調 1 -tをわーっ た。 来年度 1 /々にデー タ分析を行い、調i ; 1 7 1 iを出 す予定である 。 7 白治体史 [ 高J J I / I pと』 の編纂 ' J i業も 3年 1 1 に入り、脱在 第 1巻 (ビジュアル資料編) F I J行に向けて、中J'j)J 的に資料収集活動が行われている 。 8 . その他 3 . Smokingc e s s a t i o nprogramu s i n gt h ei n t e r n e t I n t ε r n a t i o n a lj o u r n a lo f BEHAVIORAL O . 9 .2 0 0 2 MEDICTドEV 4.気 分 が 注 立 集 中 や 'UJ心 J II 現象に及ぼす影響 11 本体育学会有Îl 53 州大会 ~J. 2 0 0 2 5 .1 呼吸 i tが午理心 J ' l l現象に及ぼす影響 114~ スポ ーツ心理楽保第 2 9回 研 究 抄 録 集 2 0 0 2 6.~:k~~ 成分テアニンの y'Ì;\i!、集中効果 健 康 支 援 5 -1 . 2 0 0 3 7. 優 勢 I j i r額皮上',[ ; : 1 立からみたクレー射撃競技力向 ・彦般 d 1行政改本委員会委員 。 │ーの検討 r I I jt~ jÆ動ネ y トワーク滋 ri J の代ぷ として、本年度は① 救利 J i採択川題、 J7 [ 2 必i 法 .¥ I i 民卜I J体 f I J i ] , i f 支 援5 -1 . 2 0 0 3 - 岡 本 秀 己 (おかもとひでみ)健康栄養学 lr 県議選 d i l (イニシアチブ」 に取り手l I んだ。 1と互に つ い て は 、 削 1、 読 γ ' e, 1 I H I、 にとっても大きな転換W Jで あ り ま し た が 多 く の }j 京郎、中 11 の各紙で (:I~ 道された 。 のおかけ、で認 I Jさ れ る 辺 び と な り 、 ょ う や く カ リ 問題、 今年 l えは ) ' : ifljl 栄必上長成課f'1~ 1 1, 1 ' 1 1 と食生活 d μ文 キュラムも決まり、新人1 'を 迎 え る ば か り と な り 1 f t -のれ l!i栄養 1 : 1~t J 求施設として、健 ました ミ よ り1 -東山明子 (ひがしやまあきこ)スポーツ心理学 W Jわ ってきた同体選子のメンタルトレーニ 学外で' J Eか な 社 会 を 築 く 優 秀 な 人 材 を 送 り だ し た い 康で l i l ι が大 * 1 川こア ップしたり、ジュニ ングで昨年よりHlf と思 っています c 1 ' "にがれ、たり、アジア大会代1-<.)立 Tに j l ! in~ され ア2 .研究の概要 1 . 1' ' ; ; ¥ ' ' 1日における身体川助 1 1のJ 巴促 fd!泌を維持 I l t進するために J A動 の 市立t ' I " 1 ー が1 ト は たり、選 Tと共感しあえる允'ょした l年1 1 ¥jでした っ 点*をもとに、さらに JtH1 i J f 究 昨年の受託研究で、の l を進める,\1 '1 1可も始まろうとしており、 {iJI 究私ii 米が R~j 品化に生かされる Hが 近 く な っ て き ま し た 。 また、 r u 修士課程で前五 支上 1 E位とピークパフォーマンスの 的競技 研究を共同で、 Mみ│ーーげてきた本川誠れが、身、j と脳波の関係'自に迫る研究を tl~ 気強く積み卜げて|臨 れていますが実際 n分の身体的動 i i Iや辺助 b fにつ jが 身 体 i 活 いて犯}I;;することは│本│ 雌です。 舟止の ) 動l d :について継がしして関心をもて、的坊で正維な i J ! l )J . ei 土について検, 1 ' )しました 。 2. 食品県取が生体の代謝に及ぼす ;j:.;~~~ んだ学会発表で他の似│先行たちに強い W J心を示して i J lo } )裂 な 子 i 1 、 をJ I Jv 、 た' l ' 体長十 1 1 iノfラメータの l l 学会公認スポーツメンタル もらえました 。 H本心Jf 統 fT と J,i:.;JIJ 化 」 、、 1; 成 14~16{1 号!支文部利ヴ:tì 科学 トレーニング指導士の資絡認定にも介絡でき今後は 研究l y( I~j ; . ;: 的 研 究 )、食品が栄主主、健保、疾病、 有資給者としてメンタルトレーニング指導ができる J!l!![fJ) 、ストレス~"こ及ぼす m~~n~~ について JHiJllúl ìJ!l) 定 ようになりました 。 9月に行われた同際ブレインニ による ' 1 : .体長│イl i 日パラメータを J I Jいて検討しました c ュートリションシンポジウムでの座長とパネリスト 3 . その他 の経験は、養 ~ð,;f,:司 111士や白川修 一 郎博 1: などのそ J'μ|二労働行 21111一紀き'1 医療 l!fH{iff~ 進{引先半業 ( 生 うそうたる研究将に │ 羽まれ緊張しながらも立重な経 川 FI'~'りIì.j 分野 í ll~ 人の水浴性ビタミン必袋討に 1 ¥jの論 i 寅I I lI 数も 6 0回を越えまし 験でした 。最近 4年1 │ 刻する),!;:礎 l u l究 」 の l i J f 先に本 n j ' J ;で す が I V ,)与させて た。 ここ数年、学内での研究だけでなく、 / t外での 係々な活動がそれなりに尖を結びつつあることをう 「ヒ ト に お け る 汗 お よ び 糞 " 1 'へ の ナ イ ア シ ン 排 出 れしく感じています。 J l l 来年度からは、ピークパフォーマンスと性別心 J 現象について北礎的研究をさらに重ねていくととも に、スポーツ選手のメンタルトレーニングの ' l h ' lも もっと積んでいきたいと考えています。 4 砂学会発表 1.社会人スポーツ選手を対象にしたリラクセーシ ョンスキルトレーニング尖胞の試み し、ただきました 。 . 研究 成 果 健康之援 4 -1 . 2 0 0 2 2 . 指導者のことばがけと選手のパフォーマンス I l本 1 1 l J 1 大会発友抄録集 . 22 幼少児健康教育学会第 2 ∞ :I~: J 、ビタミン、 v o . 1 7 6 . 1 0. 4 6 1 4 6 8 . 2 0 0 2 i E f f e c t so fS t r e s s e so nt h eU r i n a r yE x c r e t o r y P a t t巴r no fl ¥ i a c i nC a t a b ol i te s .t h eMostR e l i a b l e Index o fl ' ¥i a c i nS t a t u s .i n Humans.J. ] l ' ¥u t r i t i o n a lS c i e n c eand Vitami no l o g y,v o . l4 8 4 1 7 4 1 9 .2 0 0 2 「バ ナ ナ 照 取 が 6 000¥ 102max運動│侍のエネルギ一 代謝折棋に及ぼす;汚物」、第 5 7 1日 │ トl 本体力医マt会 o . l51 .6 大会、体力科学 v 「ノtナ ナ 摂 取 形 態 の 追 い が り 久 運 動 時 の エ ネ ル ギ 人間文化 ・ 79 人・間・文・化・通・信 一代謝および疲労度に及ぼす影響」、 H本体力医 7回近畿地方会 学会第 1 1 1 木建築学会の建築と色彩心埋 W G主催のシンポジウム 「 建築色彩の比え方と心 J 1 l i C) )は 、 総研究 ( 効果一 色彩設計との按点 Jで発表を行うことができ -細馬宏通 ( 1 まそまひろみち)コミュニケーション論 ました 。 また、 「有I n打・建築 ? を1 1 Jの科学:一 環境心理 ここ 4 年の|日l にゼミ ~!と訂 っ てきたジェスチャー ~tJ'li からのアプローチ ( 共杭 ) 技法堂 11 \ 版」 で 「 室 研究がようやく形になり始めてきた。 第 1回 1 _ 1 1 努ジ 内の色彩計 l ' l i jとその評伽 i Jとしてまとめるとともに、 A u s t i n . T e x a s)では対話 ェスチャー研究学会大会 ( ' H I 均変化、 1 「加齢に伴う色彩の見え方の心迎 ・生 l する 二者間の距)i i l fとジ ェスチャーのタイプとの関係 木!!罰則委封会誌.V o 1 2 0 .Nol JI COLOREFFECT について発表した。また、動物行動学会大会(11月) では、ことばとジェスチャーで空間配置の枠組みを OK A ROOM FOR THE OLD,ICEE 2002 J1! 1 古川による色彩の見え方の生 J J l [,心 ( Fukuoka) 表現するときの問題点について、ポスタ ー とビデオ 理的影響 それぞれによる発衣を行い、人工知能学会 ( 汗声・ に研究成果を発衣しました 。 今 { I ー度は、室内色彩 4年度照明学会大会 j 日齢者の場令、平成 1 言語 J 'l!解と対話処理研究会)では、左右概念と発 (ソファと床 ) について高齢者を被験才?とした評価 3 ! ?・ジ ェスチャーの問題について rいました 。 実験を f ( ポスター )、お よび、祭礼における空 ! l f H 巴阪とシ‘ ェ スチャーについ て(口頭)発表を行った。 ' , ' [ 子Lネットワークにおけるチャ ッ トシステムカサヰ っている時 j l i j椛造については伊藤勇 ・徳川直人編 『 キ !l i行為の社会心理学』北樹社に執筆した。 例年の滋賀県消防学校での災害心理学の講義に加 えて、彦根来高校、河瀬高校で、も心理学の講義を 1t~ M iされた 。正 ,j ' 校生にアンケートをとってみると、心 I ' Hザへの興味はいわゆる性的テストや 「サイコドク 京都 k子大学生以 J U J大学部の図 I I ! n助教授・との共同研 究 (科学研究費 tl~~a:研究 (B )) 1 住宅における効果的 I J I J(jt環境の快適性に関する基礎研究Jでは、 昼光不J LIGHTINGI NA 昨年度の実態調査の結果をまとめ、 I LIVINGROOMI NTHEDAYTIME.LUXPACIFICA ( New D e l h i)J10PTICAL ENVIRONMENT H DAYTIMEAI ¥D PSYCHOLOGICALEVALUATIOl ¥ ' . LUXPACIFICA( NewD e l h i) J";<)-;で研究成来の発点 , を行いました。 また、今年度は 、昨年肢の住宅の実 ター 」 などのマンガや T V番組への興味から米てい 態調査をふまえ、実験主による昼光条件再現を試み ることがわかる 。人の宇?みの不思議さを知る入口は た実験を行 っています。 I I )だけにあるのではない。社会 ・ '1"1:絡心血!や臨床心 J さらに、昨年度に引き続き、)i } ; ! !て住宅のアプロ 発注・教育・認知 1'知 J tなど l 幅広い心理学があるこ ーチの実態剖査を行いました 。今年度は尚業地、 1 1 1 とを知 ってもらいたいと思う 。 市街地を中心とした調査を進めました。現在、昨年 昨年発刊した 『 浅草十ごー 階』がき っかけとなって、 度までのデータと今年度のデータをまとめ、データ 明治・大正 }~J の浅草ト ー二階に|期して浅草テフ。 コ館で ベース化する作業をすすめているところです。 その の講 i t f i、日本下水研究会ノ〈ルトン忌の記念講演など 結果から、今後のアプローチの在り方について提案 を行った 。 できればと与えています。 背!京和孝氏、 J 除旧│登f!1j氏とれっている静岡県水待 I I Jの凶 i l i田楽の調査は 三年めを迎えた。能衆の人々 ・社会活動 滋賀県男女共同参画審議会、滋賀県建築審査会、 からの 1 mき取り調査も進んだが、祭りをめぐる人々 早津市者¥ 1 l r l 計阿審議会、彦般市工場設 i E奨励審査会 の生活にはまだまだうかがし、知│ れない深さがあると 等の委民として立見を述べる機会を得ることができ 1 1 1 λ。 , じ 、 ノ ました。 夏期休暇を利用して、必前から気になっていたポ ーランド各地のパノラマ館を調査した 。ワルシャワ、 0 0年前 ヴラツワフのパノラマは 、いずれもおよそ 1 -藤沢 史子 ( ふじさわふみと )調理と食品機能 ここ数年、生活 Î~l 慣病がクロ ー ズアップされるよ のものなのだが、それは単なる造物でなく、ポーラ うになり、その予防の観点から、食に関心、が持たれ ンド分割以降の複雑な歴史が刻まれた現役の見世物 るようにな っ てきている 。 また、 I~I 然食 I鳴好からち であり、館員の一人は 「このパノラマは私たちの心 ょっとした漢方ブームになってきている 。ところで、 だJとまで、言 った。地域と建築、地域と見世物の │ 主 l 漢方医学では食物は温熱性のもの、寒涼性のもの、 係を考える上で、重一 要な体験だった。 あるいはどちらにも分類されないものに区 別 され、 体を温めたり冷やしたりする性質があると 言 われて -宮本雅子 ( みやもとまさと)インテリア計画 今年度は、昨年度に引き続き主に 3つのテーマに ついて取り去l Iみました。 まず、高齢者の色彩感情について(科学研究費基 8 0 ・人間文化 いる 。 しかし、その分類の基準は経験的なものに基 づいており 、科学的恨拠に欠けている 。 そこで、ここ数年、漢方等で言 い伝えのある食品 の温冷効果について、その科学的笑証を日指して研 人・閏・文・化・通・信 究を進めている 。今までにいくつかの食 1 1 1 1について -山根 皮膚 j 1 4の変化を指標として、 i A l・冷効果があるのか .研究室活動 否か食品計三~iJに検宗してきた 。 本年は j美方で分類さ 周(やまねしゅう)地域生活空間計画 『川上村本│丘地 2 0 0 2j れている通り、一定の傾向がみられた食!日1を選び、 公良県,1 . n n J1部川上村をフィールドとして、木造 雌認実験をすると共に、 q ; ¥に自 1 十 ' 11経, i f ; ' i f i Jの i J ! i J 定方 r . c 現場である森林について学 住築、木村、その生 J1 法を取 り入れて温冷効果の発現のイ l 組みを探ろうと : r を経過した。近畿から 6 ぶサマースクールが 5イ 4 1 1 11 F I本栄養 ・食糧学会で (ショウ した 。一部を第 5 大学 が参加 l し、今年度は間伐材を利 J + Jして、林道 ガのヒト末梢 j h i iに対する影響)発表した 。 !協の広場に 1 ; f , ! ' ! f l 胞設を共同 f l , J I 作した 。 2 0 0 3年度か また、食品の価絡を通して食文化現象の変遂を探 ' U 1 iテ、ザイン 土 井外実習 」 のプログ らは、新科 1 r ろうとしている 。動物タンパク食品の官lIi 格調貨から ラムとして実施する訂 p l i jで、ある 。村 i l ! I Jとの連携体 2 0年間l の栄養価基準の変化を検討し、、 I L 成1 4年度生 i l j l Jも深まりつつあり、村内弁 J 也医の生活関連公共 活文化!と学会総会で発表すると共に、論文 (タンパ I 作へ l i ' Jけた以聞ができる事を W J 設備への従業、:I,J ク質の価格にみる栄養価必準の変化・生活文化史 待している 。 ( 2 0 0 2 . 8) N0. 43 )にまとめた 。 .海外調査 立r l ' 学校スクールランチ 社会所動としては、彦根1/1 「インド凶部地誌による歴史的建造物・ { 1 j区の被 実施 i\~1JiIJ 委員会委以になり、生徒の食生活の実態を 害実態とその修復、似 9'~ 手法に IJ,lJ する調脊研究 」 知│る機会を得ることができた 。 そこで、成長期j にあ ( 20028)において、インド、グジャラート州カ 思想的な食生前を目指し、 う だj } i J j : J i i ょにか る中学生の E ッチ地方で現地調査、ブージ l打、パドレーシュワ かる検討を重ねると J~ に、械告書の作成に携わ っ た 。 ル十l を 仁' l心とした歴史的建造物、 { 1 j区の被害調査 をおこなう 。 消臭効果あるいは抗菌効米を持 っている野草の探索 4 砂学会等発表 r AS t u d yo nt h eF o r m a t i o na n dt h eT r a n s f o r m a t i o n o fB r i t i s hC o l o n i a lC i t i e si nl n d i a-TownP l a n n i n g a n di t sT r a n s f o r m a t i o nA f t e rI n d e p e n d e n c ei nKew D e l h i J4 t hl n t e r n a t i o n a lSymposiwno nA r c h i t e c t w a l I n t e r c h a n g ei nA s i a .C h o n g q u i n .C凶n a( 2 29) を行 ってきましたが、その結果、顕著な効果を持 っ ・報告書 .; 南部貴美 子 ( ううべきみこ )食品加工保蔵 M 脱 5 J : 斉J Iとして民間伝承されていたドクダミのii'i 良作用を明らかにする. ということから始ま った本 研究も、身近に自性している野草を対象とした研究 へと進んできました 。 ここ数年、卒論 1 ' 二とともに、 ている野草を見いだすことができました 。 またこれ ら一連の研究によって、地物系素材から活性成分を Ilj~ らかにするうえでの方法も確立できたのではない かと思 っています。 本年度は、それらの結よいを踏まえて、著しい消臭 効果を示した野草から活性成分の分離を試み、いく つかを単離することができました。 ただ、新規の物 質かどうかについては現在解析中です。 また、抗菌 5 1因 1 'fIである黄色 効果をぷす野草も多く、食中毒の 1 ∞ 『干成 1 4年度公良県川上村木│芹訣活動記録幸i i f 1 7 , ~i jJ lI卜村木 I J i :塾制集音1 ¥ 2 0 0 2 . 1 2 .その他 「文 化 財 ?/,/:校建築?それとも i j iなる公共仁 、 J j : ?ー 詮 郷 小 学 校 改 築 I i I J 題 Jr 建築雑誌j 2 0 0 2 . 3 「者同i }日;住の伝統と知恵一 アフマダーバードの ポルに凡る階照的集{主主r:¥Jjr 建築 ~ffr 誌 j 2 0 0 2 . 8 「長浜市史 第七巻 地域文化財編」 の執筆 J 円 ブドウ球菌に対しでも強い増殖抑制作川を示す野草 、 ' í 。 附,' .I~ I J I九 k l 豆、事 1 1 1 1 1地 │ メを担当し、地区内に を見いだすことができました。 今後は、抗菌活性成 分布する地域文化財の調脊、資料収集。 現在執 分を明らかにしていくとともに、応崩研究へと進展 争中 。近刊予定。 していきたいと考えています。 .発表論文およ び学会発表 -野草 t l lI出物のメタンチオールに対する消臭効果・ 日本栄養 ・食糧学会誌、 5 6 巻 、 1 号 ( 2 0 0 3) -福j 度 努 ( ふくわたりっとむ)食晶栄養学 ヒト、実験動物、培養細胞を!日いて、ビタミンや 1 1 1成分とヒトの生 J .!Jl機能の問に成 アミノ酸なととの食 1 ・野草に含まれる ? i ' i臭 i 市性の主I l 分画と消臭力の比 立する複雑な相互関係を解明することにより、食生 第5 6 1 1 1 1U本栄長・食糧学会大会発表 ( 2 0 0 2年 活を通じて現代人の健康に寄与したいと考えていま 較 7月、北海道大学) す。現在は 「食品中のビタミンの生物有効性に関す l l l, ' l ¥物による微生物の生育抑制効 野草メタノール t る研究」、「内分泌悦乱物質がビタミン代謝に及ぼす F I本食品科学工学会第 4 9回大会発表 ( 2 0 0 2年 影響」、「 特殊な状態におけるビタミン代謝に関する 果 9月、名城大学) 研 究」 などに取り組んでいます。 人間文化・ 8 1 人・閏・文・化・通・信 。発表論文 地域文化 I : j がTrp-NAD経路に及ぼす拶響 ・走行運動負 T ] 健康創造研究 ( 2 0 0 2)1( 1) . 5 7 6 4 . .E l u c i d a t i o no ft o x i cmechanismo fpl a s t i c i z e r s . -高谷好一 (たかやよしかす)地域研究 p h t h a l i ca c i de s t e r s . ap u t a t i v e endocrine 家庭の都合に加えて学部長という縛りもあ って調 ) di s r u p t e r :e f f e c t so fd i e t a r yd i( 2 -et h y l h e x yj 査旅行は海外はもちろん、国内もあまりできなか っ p h t h a l a t e on t h e metabolismso ftryptophan た。そのかわり多くの H 主問をゼミ宅で学生とともに t o niacm i nr a t s.B i o s c i .B i o t e c h n o . lB i o c hem ( 2 0 0 2) 66( 4 ) . 7 0 5 7 1 0 ・幼若ラ ッ トにおける小麦ふすまのナイアシン活 過ごせた。そのゼミで賎しか ったのは、福岡麻子と 村田陽子の 2人の 4: "1'-生が彦恨の ' =1]央中学校から呼 ばれて、 6 00人の全校生徒の前で講演をしたことで 円本家政学会誌 ( 2002)53( 5). E f f e c t so f ある 。 これは 2人の共著 「あんなインド、こんな 2 f a t t yl i v e r induced by n i a c i nf r e ed i e tw i t h 人一麻子と│湯チのインド珍道 r l I1 : 1記 J 人と地主主 j o r o t i ca c i d on t h e metabolism o ft r y p t o p h a n 1 9号. 2 0 0 2il :6月)が同校の校長先生の Hにとまり、 t on i a c i ni nr a t s.B i o s c i .B i o t e c h n o . lBiochem ( 2 0 0 2) 6 6( 6 ) . 1 1 9 6 1 2 0 4 . 乎ばれた “中学生を力づけてほしい.ということで H 性 .Growth-promotinga c t i v i t yo fp y r a z i n o i ca c i d . ( r ものである 。 私が主査にな った半論は 5紙 面I Bた。岩本朋子 町長 ap u t a t i v ea c t i v ecompoundo fa n t i t u b e r c u l o s is 一 自分の│阪で見るということ . 1、中社│春奈 『タカ drug pyrazinamide. i nn i a c i n d e f i c i e n tr at s through t h ei n h i b i t i o no fACMSD a c t ivi t y 間および歴史 の関連について 』、福岡麻子 2 0 0 2)6 6( 7) . 1 4 3 5 B i o s c i .B i o t e c h n o . lB i o c h em.( 界と大陸と j、村田陽子 『わたしのかえるところ 1 4 4 1 わたしの沖縄日記より Jの 5編である 。修論として ・ヒトにおける汗および糞中へのナイアシン州刑 量ビタミン ( 2 0 0 2) 7 6 ( 1 0 ) . 4 6 1 4 6 8 .E f f e c to fs t r e s s e s on t h eu r i n a r ye x c r e t o r y ラモノ 私が学んだこと は上!以免介の 1 、成松正行 『 宗教と人 I 旅と世 Hl t 越のよしき jが I J ¥た。 これらの中 で異色だったのは福岡と上原のものであ った。初 │ 吋 は漫画を多く t ! . ' iき、」二 l l Iはほぼその全てを写真で構 p a t t e r no fn i a c i nc a t a b o l i t e s .t h emostr e l i a b le 成した。両方とも一部の教官からは疑義が呈された .Nutr .S c i i n d e xo fn i a c i ns t a t u s .i nhumans.J Vitamino . l( 2 0 0 2) 48( 5) .4 1 7 4 1 9 法を追求していて迫力があったからである 。 こうい .I d e n t i f i c a t i o no fa t o x i c mechanism o ft h e p l a s t i c i z e r s .p h t a h l i ca c i d es t e r s . which a re が、私は秀作と認めた。極めて意欲的に独自の表現 う形で、いわゆる卒業論文が卒業制作にかわって定 着 していくことは望ましいことである 。 p u t a t i v ee n d o c r i n ed i s r u p t e r s :t i m e d e p e n d巴n t l , F J 共存時代の民業 J( 民文協、人 私自身は 『 多文 I i n c r e a s ei nq u i n o l i n i ca c i dandi t sm e t a b o l i te s i nr a t sf e dd i( 2 e t h y l h e x yj )p h t h a l a t e.B i o s c i . 之、満足 間選書) を出した。一気に書 き終えたが、 -J B i o t e c h n o . lB i o c h e m .( 2 0 0 2) 6 6( 1 2) . 2 6 8 7 2 6 9 1 ・ ラ ッ トにおけるインスタントコーヒーのナイア シン活性 日本家政学会誌 ( 2 0 0 3) 54( l ) .7 7 -82 .Diurnal v a r i a t i o n si n human excretion o f u t r nicotinamide c a t a b o l i t e s . Am.].C l i nトJ ( 2 0 0 3) 7 7( 2) . 4 0 6 4 1 0 ・R o l eo fg u s t a t i o ni nt h er e c o g n i t i o no fo l e a te and t ri o l e i ni n anosmic r a t s . Physio . lBehav ( 2 0 0 3) i np r e s s ・学会発表 「フタル酸モノエステルがトリプトフ ァン ナ イア シン代謝におよぽす影響」 日本民芸化学会 2 0 0 2年度大会 ( 平成 1 4年 3月・仙台) “The E f f e c t so f Phthal a t e Esters on t h e できるものにな った。あるいはこの書物と昨年出し た 『 新編 ・〈 世界単位〉から世界を見る J( 京都大学 弘文堂) が評価 学術出版会)、『地球地域学序説 J( されたのであろうか、 1 1月には京都新 l I : H文化学術賞 をいただいた。地域研究に独自の視座を聞いた、と いうのが受賞理由であ った。 県や市の仕事も少しはさせていただいた 。県のも のでは 「 心のふるさと 」椛想委員会の会長を勤めた。 故郷の守山市では P I ' 1 i i 志』編さん委員長 と下之郷逃 跡保存推備検討委員会会長をやらせてもらった。つ がやま市民教養文化講姥の事務の手伝いもした 。 -脇田 晴子 ( わきたはると)女性史、中世商業史 2 0 0 2年もまた、多忙で、明け暮れた。 3 ・4月にオ ーストラリアのモナシュ大学のお招きをうけて渡豪 T r y p t o p h a n N i a c i nM e t a b o l i s m "1 0 t hI n t e r n a t i o n a l した 。芸能史の研究会でご一緒だったアリソン・ト M e e t i n go nTryptophanR e s e a r c h( Ju n e .2 0 0 2・ P a d o v a .I ta l y)他、日本栄養・食糧学会、日本 ビタミン 学会、日本家政学会など 1 0編 キタさんから、誘われたものである 。義務は講淡一 82 ・人間文化 つだが、別に能楽の動産1 1 子 を宍番 、 H本研究所と演 劇部の共催で舞 って、その方が講演より人がたくさ 人・間・文・化・通・信 ん集まった 。 円本前近代関係の方々の持ち凶りで、 1 ; : .性史関係の資料を読み、楽しく皆で会食す 芸能 . る研究会もたびたびゃった 。 アリソンのお世話で/,J ; 最W Hこ、?{z業し M処にいても先生の葬式には参列し、 山の"炊 ・ !.~ij の歌 ・ 考,':1学エレジーを合 H目すること 。 l OJ1 9、 2 0 1 1に比叡山山麓の西教守にて、華甲記 大学やラトローブ大学の H本関係粁はもちろんとし 見ゼミ生 .Jじゼミ生、そして他のゼミ生、ゼ 念会を j て、西洋史の ) j '々ともお話が出来たのは幸いだった。 ミ卒業生が開催してくれた 。総 数58名の集まりだ、っ 若名な考古学在、ゴードン ・チャ ー ルズの自殺した た。2J J11には / i l J様の会を笠間山松本亭において、 ところへも行った。 ここのブI々は、とてもホスピタ 奈良山岳遺跡、研究会のメンバーが開いてくれた 。 こ リテ ィがあって楽しく アッとすぎた 2カ月だ った。 れから、おのれの年を考えて行動したい 。 帰ってきたら、科学研究費の「近江商人 Jが当たっ 夏J U Jにはゼミ生を中心に 8名を引率して、北京一 ていて、嬉しい悲鳴 。研 究会でいろいろ企画が出来 0年ぶりに泰山にも 山東一 上海の遺跡を巡見した 。 2 るのは楽しいが、結構お金勘定に時間が潰れる 。 1 登山した。 別に、科研費の調査で 3回の訪中調査を O 月には、ここ 5~6 年の懸案『日本 r/.I 世被 差 別民 行なった 。 2 0 0 3年 6月には 3 5 0買のその図録が出版 の研究 J( 岩波書応)を上梓した 。 相 当の苦戦だっ 6日から 28日は文部科学省所 できそうである 。 1月 1 たが、ユックリいい本を作りましようと編集者にい 管の地球科学 総 合推 進 機 併 の 委 託 で ベ ト ナ ム カ ン われただけあって、装丁などの I U来仁がりは上々 。 ボジアの調査を実施した。また、税固に 2回出娠した。 5 なお、大学:の研究室にl. J i務室をおいている古代武 年間のプロジ‘エクトの『石見銀山 j 史料集・年表 ・ I /大会を 1月 1 2、 1 3日に開催し、会 探研究会の第 4I 論文集の 三部作の編集の総仕上げがダフ って、合宿 誌 3を発行した 。; 1 山 十 │ 考 , ' , 1りも刊行できた 。 この 先ーから病院に通ったりという始末だ、った。 良くも悪 返符'にはゼミ生が ± iたり、研究から出版まで、携わっ くもあったイドがすぎて、ヤレヤレである 。 ている 。 -菅谷文則(すがやふみのり)考古学 を奈良県で、文化財得議委日を和歌山県から安 l 属さ 好評で 二 ヵ月で再刊になった。秋に夫の病気と、 A 世界文化泣産関係 ( 紀伊半 J 誌の信仰の道)の安只 本年度も会議の多い年であった 。 Jに 3/ 日 │の火lI i 1 i 1が会議日であるので、ゼミを変 W J 的に火│ 限 1の夕 ぷくしたのも本作の,巳川、,' 1 ' ,であると れ、その実現に j i l l l J村からの i l I跡調査のア いえよう 。 別に 、以内の d 刻以降と木眼目の夕刻以降に行っている 。木 l I ? f !日は められることも多くな ってきた 。 あと 卜‘パイスをよR = 1 主英 字 諸 説 ゼミ生 1 5年となった滋賀県で、の生活で、少しは滋釘県に恩 nArchaeology-Theories MethodsandP r a c ti cd) を行なった 。 i 寅宵は 3 / " 1 返しをしたいと思っている今 1この頃である 。 生 5名 、 41口 │ 生 4名、修士課程 4名、│卓上謀程 1~, ( 留学中)で行なった。 2 0 0 0年 9月から同資 f l i p f 'を していた川上博子君が帰国、 2 0 0 2年 3Jから古林大 2日に侃回 学に私自留学を していた市 7C塁れも 2J1 してきて社会へ出ていった 。 1J Y J生からの学部ゼミ 卒業生が 23名となった 。 この数が多いか少ないか -小貫雅男 ( おぬきまさお)遊牧地域論、モンゴル近現代史 犬上川上流域、鈴鹿山中の大 ' { 1ヶ対1 1 に“里山研究 1 J t t t N o m a d " をかまえたのは、 2 0 01 1 ' -6月。 ヰや l { I ミ半が経過した 。 こ こ に + 拠 丸 処 処 ! . ' 点 " r ' 1 1 然と、人/:Ijと、 l 時代を f N iくJであり、その は、よくわからないが誠立を持って、学生に抜して は 、 きた。 その中で、学生にゼミ十カ条を示している 。 ために白らには、 「辺 境」か らの視点,変革と創造, 其ノ壱、笑顔を絶やさず I V Jる く暮らす こと 。 「地域 jとの述携,研究の 1 ' 1立と主体何:という、いく 其ノ弐、恋愛は祭止。 つかの灘題を課してのスタートであった c 其ノ参、何事も恥ずかしがらずにする(歌のリク エストが 1 ¥たらすぐ;欣う)。 其ノ問、酒を欽んだら風 ιに入るな 。 入らず死ぬ 者未だナシ 。 ここで、の最初の仕事は、 - 1 作年 1 1J J に出版した 『菜 │ 刻家族レボリューション Jで提起した 「菜園家 族」 構想を、より精殺なものに練りあげ、 「地 域 」 の現実の要請に堪え得るものに仕 tげてゆくことで 其ノ五、長幼之序)~有。 あった 。 2 0 0 2年は、この諜題に多くの I 時間を貨やし 其ノ六、学問は1-1進月歩 。 日1-1これに励むべし。 ている 。 文ノ七、地べたに時って l 肢を冷やすこと無かれ。 L。 内 l iITから光らせよ 。 お金と│時 其ノ八、化府「禁 l 間を学問に費やせ。 其ノ九、茶安禁止 。 身体安府は~て父母からうえ 琵琶湖のlUi 芋に広がる ' / L 野古1 / 。 この広がりに位 i l : する巾都r/ l } 多 一 根。近江の!;/ミの周縁に述なる鈴鹿山中 の水系に散保する、数々の過疎集落。これら 「後進」 山岳・森林地帯と 「 先進」平野部とを、一つのまと られたものであり、孝経の教えである 。 まりある 「広f 或」 と捉えたとき、この 「広域」 は 、 外l 主│人から見ればアイデンテイテイの無 : j不在、 はたしてどのように映るのであろうか。 人 / さを表わしている(わたしの友人談)。 経済効率優先の従来の価値とは逆転した異なる発想 人間文化 ・ 83 人・間・文 ・化・通・信 で、小 「 地域」大君ヶ知1という 「辺境 Jをこの 「 広 950年代半ばからはじまる高度経済成長が、 戦後 1 域」 の中車1 1に鋸えて、この 「 広 域」 全体を捉えなお 日本列島を覆 っていた森と海を結ぶ数々の{同性豊か な流成循環型の地域闘を分断し、森の過疎と平野官1 すことであ った。 この問、鈴鹿山 J D Rと抑j を結ぶ犬上川・芹川流域に の過寄を出現させ、日本経済が絶対的な過乗J I 雇H Jと 活動のほとんどを集中することにな ったが、それで 過剰設備の躯限に迷し、身動きできない状似に陥り、 も逮}Jでの活動としては、主だ ったものとしてはい 毎 経済破綻のふちに立たされている現雀、この森と i くつかあ った。 2 002年 2月には、岡山県 f 見 出J ' l I l f の山 を結ぶ流域循環型地域 l 到の再生が、いよいよ避けら 田養蜂場で、差是的暮らしの復杓を唱える若き社長山 れない大きな課題にな ってきたことは確かである 。 出英生氏との対談があり、そのついでに養蜂場周辺 先の 「 菜園家族」存立の条件である場を何に求める と津山盆地の平野部を貫流する吉井川流域を散策し かということになれば、それはとりもなおさず、再 た。北部の山岳・森林地帯と 平野音1全体を展望しつ 生されたこの森と海を結ぶ流域循環型地域医!なので つ現地に 立っとき、 「 菜 同 家 族」 と 「流域循環型地 ある 。 そして再生されたこの地域医│を、市場ーから相 J 所樫に具体I ' ¥Jなイメージとな って 域圏 」の構想が、 J 対的に自 立 した地域圏としていかに育ててゆくかと 初制 I~ とするのを党えた 。 いうことが、この地域圏が 「 菜 園 家 族J存立 の坊と 3月には、農水省、阿蘇郡 1 1 1 ]村会、熊本大学三者 共催の阿蘇国際高原シンポジウム M 魅力の出園を活 かす"に参加した 。 イギリス、モンゴルおよび E U なり得るかどうかの分かれ目なのである 。 週休五日 i l j l Jによる 三 世代 「菜園家族」 は、森と海 を結ぶ流域循環型地域圏再生のまさに十qい手であ における農村の地域資源を活用した地域づくりの事 り、主体でもある 。 そして、森と j 耳を結ぶ流域 f J i f iI ; l 例紹介と提案ということで、夜、の分担としては、 型地J 或圏は、 「菜陸│家族 j の成長・開花にとって不 “ 可欠の場でもあり、必姿条件にもな っている 。 した モンゴル遊牧民に学ぶ 阿鮮高原の地域形成" を報作し、とくに次の 2点を強調した 。 lつは、地 域の ~~il~ に 「 菜倒家族 」 を、 2 つ目には、阿蘇高以 へのモンゴル遊牧方式の導入である 。 シンポジウム が って、この両行は、不可分一体のものとして築か れ な け れ ば な ら な い 。 この 一 年間は、 「菜 園 家 族」 構想のこうした課題に集中して T l 'X.り組んで、きたよう 開始前の 2日間にわた っておこなわれたワークショ に jill う 。 その成栄は、 ップでは、 I'"J 蘇 ~tれ :J 森 111]" の赤牛飼育の#業出家を現 エリアの形成 J ( 仮 題)として、本学非常勤講師の伊 地税記きした 。農業の後継者問題は予想以上に深刻で 藤忠子さんとの共著で近く J i 反される予定である 。 あり、 「 菜│京│家政 J構 想による新たな発想で、この これらの成果をふまえて、 2003年 4月 1 9日からは 問題の解決を急がなければならないと痛感した 。 r ~ 森と海を給ぶ ~ 菜園家族 ¥ n 毎月第 3土曜日に、“菜園家族の学校.と M i打って、 6) Jには、ユニークな保育尖践で有名な旦の原保 「 大地にゆ]E Iを姉く 2lJをスタートさせることにな 育陸1( 大 分T I ))で、父兄や保 l 止さんたちを対象にし っている 。 これによ って 、 「地 域」 の人々との連携 た『四季・遊牧』 の上映と 「 菜園家族」構想を語る をいっそう強め、各界の人々からもご意見を受けた 会に参加した 。 f供たちが育つ環境についても、こ まわりながら、 「 構 想」 をい っそう豊かなものにし の保育園の実践からも多くを 学 ぶことができ、この てゆきたし、 。 「 構 恕」 を育児の視点からもも っ と豊かにしてゆか なければならないと思 った。 こうした岡山、熊本、大分など遠隔地での活動や 視察、そして里 I I J研究庵を拠点に展開してきた鈴鹿 -トゥムル ・ナム ジム 中央アジア ・ ロシア極東地域論 以下の 3点を執筆し、出版しました 。 1.著書‘ THEECONOMYOFMONGOLIA .From 山脈∞犬上川 ・芹川流域での調査や、鈴鹿の過疎山 " '( Second T r a d i t i o n a l Times t ot h e Present 村・大君ヶ畑での生活体験から、当初設定した 「菜 0 0 2,TheMongo i l aS o c i e t y .I n c .3 2 2 edi t i o n ),2 園家族」構想、の精綴化 ・豊富化の謀題も、ょうやく 目標に近づきつつある 。 「 菜園家族」は、剥き出しの市場原理の世界では、 自然に発生し自然に成長してゆく、といったような ものでは決してない。市場原理の抑制と緩和、こう した 一定の条件が満された場の形成をまってはじめ GoodbodyH a l ,l I n d i a n aU n i v e r s i t y .USA . 2 .共著 『モンゴルと日本ーその交流の過去と現在-j, ウランパートル, 2002年 本 人 担 当 分 「モ ン ゴ ルと日本の未来ー さらなる互恵進展のために 」 ( モンゴル語) 3 . 論文 「モンゴル ・円本交流の推進とその意義J , てその誕生と成長が可能になるのである 。 つまり、 『国際関係研究 jN . o1, ウランノくートル, 2002 人間の欲望のおもむくままではなく、人間の理性と 年(モンゴル語) 善意が高度に要請され、またそれが機能する地域圏 の形成によってはじめて可能になる 。 これは、この 問、地域の現実から学びとった核心部分である 。 84 ・人間文化 -応地利明 ( おおじと しあき)地繊研究 昨年 3月に母を亡くした 。 自宅近くの横断歩道で 人・閏・文・化・通・信 の交辿事故死であった 。 そこは 1 9 6 0年代初めに開発 -高橋美久二 ( たかはしょしくに)考古学、歴史地理学 条良平安時代の占代交通の考, ~.地理学的な研究で された郊外住宅地で、実家は小さいが、まわりには 敷地 l 訂f i ' i 6 0 0ぱを越える住宅が並んでいる 。 母の 1 E は、Ji t r i fに)'::"、た 「交通関係遺跡 J(W地球JJ;' i 境調査 を通じて、郊外住宅地の -f ( l i をかいまはることがで ' j ; '91~ j フジ・テクノシステム、 2000 年刊行 F 定 ) 、 きた。 がF J I行 さ れ た c 今 年 度 に は まず死の直後から、相l 断l i 主道子前の 7 l i >t:よのたもと fIliイtの官道と下fl;~J J (r 1~1 リ考 11; 学 j 第 80 i J )、「 地│百│・地名 Jf 泣跡 J( 京 には、花束が献花され始めた 。 その数は、日増しに 都I ( " J相楽 . I n ;けi1 1城村 増えていった。 1 ]内の多くの方々が、 I L I 宅に弔問に 地│支│に見るは観の変 j g iJ他 (長浜 d i 長浜市史 来てくださった。 通夜と葬儀は離れた場所で営んだ ) なと‘の論文等を T':'一いた 。 また、 『最新地理学 観編 J が、そこにもかなりの方々が足を運んで下さった 。 川:!?辞典 j ( 大 I~ J 堂干1]) 、 『 歴史昨典 j ( 小学館刊 ) な 1 後に、友人のバイオリニストと 葬儀が終わって数 1 1 の項 Hを分担した 。 また、iJl 陽道備 ど の 辞 書 の 寸1 ともに霊前で、手を合わせ、鎮魂の曲を i 寅奏してくだ 1 '' 路 ・係i 後日行、兵庫県務 地遺跡、 さった方もある 。 この死を無駄にしないためにと I J 広島県前 h R i l i i跡 ( 事前後同芦 間駅跡)などの交通遺跡; 内の万々が運動され、警察はかなり渋ったようであ tにも行って来た 。 の現地調 1 ったが、年末には横断歩道に点滅信号が設 i 置された 。 一辿のことを振り返ると 、感謝とともに、成熟し た郊外住宅地の良さを感じた 。取り澄まし疎遠なよ うにも見える郊外住宅地にも、機実に地域社会が成 r 1 十 i 1 1 1城村!と資本│糾J j )、「古 r 景 (1話磨岡野磨駅跡、)、 交通遺跡関係以外の調査では、 i~1 袋県岐阜県下の 条I l . 1f l i J l i l l構の調査、銘文 !史料の *1釘 ,1 )究、持・匙の 食文化の造物の研究も進めた 。 2 0 01 年 にも、地域!との調査研究に も積極的にかか 立しているのだ。化というのは、家族を単位として わってきた 。 1 1 1 ,年は みれば怖かに非日常の事件である 。 しかし空間と│時 は r 1 十山城村!と j P T : x 1 場市史 第 1巻』が、今年 資料編 』 が一 │ 刊 行 され、 『長浜市史 間を広げてみれば、 I c l 常的な‘J T件である 。 そうした WrJt輔lIìJ の FIJ 行も間近し、 。 彦十l<!dj~l J,U係の調 11':とし 市される J j ) j 日常的な事件に対しでも多くの厚意が発J て、 所には、たしかに地域が存住する 。 v;~ \'O:.";:~ に来て、 J i ' [I r i ' のi J ! l J .u~ , v , 村 正 を2 0 0 1・2 0 0 2 (1 1 . 立もおこなった C 今 ムラだけがあたかも l 唯一の地域 ・地域社会であるか 1 1の i J ! l J lu:調作では、新たに i ? 出1 1 山の l 頁 kで大規模な 1 山1 12日刊~ ¥工大学に 1 1 止も近い [ 1 出H fである>1Lf 4 ¥ のようにいう 言説に俳易している私には、よき経験 l i i) j後円墳が体認され、それを対象に測量を実施し であった 。 た。 l片噴はうそ長約 114mに迷し、滋 貨県下第 3位の こうしたこともあって 、│作ゴ │ 二 は 十数年ぶりに i i i f外 に出ない年となった 。残している仕事のいくつかを 片づけることにした 。つぎのようなものである 。 J、網野善彦ほか編 『コ 「 認識を間としての 「日本 J 主代前)tJ J の ,1 f tで、あることが ' I ' I J I列した 。 規模の古漬 H 1 2 0 0 0年からはじめた湖 北 の木之本町の遺跡分布調査 も継続している 。 2 0 0 2イ │にも古漬や氷室などJ i ! I J 量 調 作をおこな った。 これら の成果を、本学の学生たち 岩波誠庵 「天皇と王権を考え スモロジーと身体 J( 1 '心にな ってまとめて、『木之本町!l!l.蔵文化財調 が' るJ8)、所収。 公報子7 1 i第 3集 「 市場一 イラン 」、青木 保ほか編 I セI I i J アジア 木之本町遺跡分布調査概部 2j として刊行した 。 これらの調査には、私の体調が惑 への問い J( fアジア新 世紀 J1) 岩波書応、所収。 く令而的には参加はできなかったが、高橋ゼ ミの院 「 環境調和理l農耕としてのデカンのミレット栽培」、 λ │ ・学生を中心 l こしてよく調査 ・刊 行までこぎつけ 柳沢悠編 f 開発と環境 J( f現代南ア ジア J4) 点 京大学 1 1',版会、所収。 を係認できて熔しかった 。 f ParamariboとCuracaoJ、 fVigan ー スペイン植民 都市論」 ともに科削報告 I 植民都市の起源 ・変容・ 転成・保全に│渇する調査研究 j、京都大学、所収。 「 七 つ の 王 都 が 生 ま れ た デ リ ー 宅 角 地 」、 「デリー 都市物市 た。私の体制不良のおかげで 、ゼミ4.遠の成長ぶり もし地│ ニに楽 │ 京│ ありとせば、そはここな り」 ともに 『 世界の 1 00 都市 デリーとアーグラー j 朝日新 I l f J社、所収。 博物館学';'::f1課程の教育 、研究もおこない、学芸 l J課程で発行している減告書 [滋賀県立大学 学芸 μ課程報 ; i 7 1 ? 第 4号j も編集・執筆し、刊行した。 令│ 玉│博物館学講応協議会西日本部会で編集を進めて きた、新カリキュラムに準拠する 『 概説 が刊行され、 博物館学 J 2 0 0 2年度から教科書として利用するこ とができた 。 書n 論文 「長 F H俊樹『ムンダ人の農耕 lMUJr l 十 j アジア研究 J1 4。 1 1 城とコスモロ この ほか印刷 中のもの として、 「者 ジー」 がある 。 4 J Jには刊 行されよう 。 -武自尚彦(たけむうたかひこ)社会学、地域研究 。地域貢献活動 大学も地域、ゼミも地域。人が集まる場所は、ど こでも地域。 地域に出かけて、地域の現実を知る 。 いわゆる 「現 場 主 義」 。 そうして「人が育ち、地域 人間文化 ・ 85 人・閏・文・化・通・信 が育つ j。 これが私たち 「人と地域 Jゼミのモット .講演 ーである 。いつの間にか、それがゼミ運営の哲学に 「地域文化 を生かしたまちづくり 」、安曇: J 1I I I J Tf 藤 もなっている 。集まってくる学生たちは、人として 、2 002年 5月3l E I 。 樹の盟ふれあいセンター J の生き方に、そして地域の在り方に、どことなく関 心を持つ学生たち、いずれ劣らぬ犯者ばかり 。 l 践を つき合わせ、ともに語り合う 。彼らの姿勢は、実に 謙虚で真撃である 。 むんむんする熱気と豊かな志、 .講演 「地域を生きる -i 授、賀の宗教風土J、京都西本 願寺、 2 0 0 2年 6月 2F I。 .展示 自分たちで考え、自分たちで行動する、まことに 「写真 で見る昭和 3 0年代 -i J i l J 国の風景一」 、能登 j j ' r々しい。せまい演習室、それが返って外部志向を 川│ 町立博物館、写真で見る昭和1 3 0年代の地域を研 助長する 。海外や囲内で、地域に根ざした活動を展開 する学生たちが、本年も大いに目 立 った 。 2 0 00年の春から出版を始めた地域学フォーラム誌 5号を迎えた 。 2002年の 『人 と地域 j は、ょうやく 2 春、大学院生を中心とする編集委員会が発足、 2 0号 からはスタイルも内容も 一新された。読者からの要 請で、学生たちが I . H張講演をしたり、 f l ' 日 ,の出張展 0 0 2年 7月 3日- 7月28日。 究する会、 2 .講演 「地域をいかに生ききるか」、安曇川町教育委員 会 「 藤樹の盟創年塾」、 2 0 0 2年 1 2月 5日。 .講演 「ぽんなり 一 近江の宗教風土-J 、つがやま市民 教義文化講座「ふるさとの歴史と風土に学ぶ」 示をする機会も明えた。平成 1 4年 1 2月 l lLl、彦根中 2期)、財団法人守山市野洲郡勤労福祉会館 ( 第2 央中学校の要請を受け、 41 旦│ 生の福岡麻子と村山陽 f R i s e vi le 都賀山 J 、2 0 0 3年 1月1 8日。 子が 「あんなインド、こんな 三人一麻子と陽子の珍 道巾 J(第 19号所収) と題して、 4年 1 mに学んだ ことを体験談をまじえて披露した。 ゼミ生を中心 とする地域活動で、 は、今年度はその 。調査研究活動 .在外研修 「日本とイギリスおよび北海周辺地域における近 (7J']l 3 卜1 ~ 1O月 1 6E1 ) では、欧 代化の比較側先 J 主力が湖東から湖西に移行した 。 安公川 IIlf 教育委 i~ 州各地をめぐった 。 イギリスではヨーロッパ抱近 会による委託研究、安曇川 I J T 生涯学習まちづくりモ 代の現状を、 デル事業 「 地域文化を活かしたまちづくり j プロジ 動向と地域文化の変符特性をつぶさに見聞した 0 ェクトカfスタートしたからである 。 このプロジェク トでは、上田洋平が開発した 「 心象図法 jを用いて、 ドイツやフランスでは最近の EUの .受託研究 「 安曇川町生涯学習まちづくりモデル事業 地域 収き取りによる 「 地域文化の表現」 というユニ ー ク 文化を生かしたまちづくり 」、安曇川町教育委員会 な課題に取り組んでいる 。 その他、昨年度に引き続 ( 2 0 0 2年 8 1日-2003年 3月3 1日)では、地域に 入り込んで上記の活動を展開中である 。 いて 「地域文化の発掘・再生・保存 J( 虫郷小学校 所蔵ガラス看板写真を素材に)、「リヴァー・ウオ ッ n ・特別研究 安曇:小学校の諜外活動)、「エコ ・ツアー 」 チング J( 「 近江文化の発掘 ・十厚生・保存一地域の未来像を ( 西浅井 J I I J)など、いくつかの地域活動にも取り組 めざしてー J( 平成 1 3年度より継続) では、虫色郷 んでいる 。 小学校所蔵のガラス看板写真を手掛かりにして聴 こんなふうに、既存のディシプリンを超えて、新 取調査を行い、 地域文化の発侃・再生・保存に取 の活動が、 しい地域学の未来を切り拓く 「地域学徒J り キ1 1 んでいる 。研究成果は、出版物にして公表で あち こちで目立ち始めている 。 その思想と運動は今 きる段階に近づきつつある 。 n、全世界的な佃i 値観の大転換と結び合 っていて、 .論文 何とも頼もしい。今後の課題は、いかにして地域と 「地域文化を聴くということ J 、 「豊郷 I I J Jの n (1和十 大学の連携をシステム化するかである 。 これは難問 年代ー ガラス看板古写真を聴き取り素材として である 。お知恵、を拝借できれば有り雛い。 その他の活動には、次のようなものがある 。 .長浜市防犯推進協議会会長 2 0 0 2年 3月 8円-2003 ,11 三4月3 0日0 ・出 演 」、「 古写真に見るJl j q和 3 0年前後の近江の伝統行 事と地域の芥らし 理を終えて 故浅岡利三郎氏所蔵ネガの整 」、いずれも滋賀県大学等学術文化 振興助成金、研究機関連携推進事業「環琵琶湖地 域の生態、文化と保存修景 」 研 究成果報告 il.~、第 「ラジオ・キャンパス 」、 KBSi t t賀ラジオ 「さん 9j l J 、 f i 胡辺の景観と人びとのかかわり皿 」、生 さんわいど滋賀・彦綬・にぎわい ・まち暦 J 、彦 態・土地利用 ・社会研究会 玉j (l . 成1 4年 3月)所収。 被夢京極サテライトスタジオ、 2 002年 5月 1 7日 、 1 5時 3 5分 -1 51 時4 5分。 -黒田末喜 ( く ろだすえひさ)人類学、地主 主文化学 さまざまなことがあ って全部を思い出すことが難 86 ・人間文化 人・間・文・化・通・信 しい。世界も日本も政治 ・社会状況がますます不透 明になりつつあるが、今年の卒業生たちがそれに負 . i 貴崎一志 ( はま ざきかすし )都市史、保存修景 2月にはシリア・アラブ共和国において在外研修 けずに元気がいいのは本当にうれしい。環琵琶湖文 をおこなった 。大学院生 3名を同行し,ローマの植 化論実習では湖東 I I I T '大沢の方たちが学生をホ ーム 民者I 1d 1 時代の遺構を精査し ,造常尺の復原 のための ステイさせてくださった。学生たちには落ち清いた 資料を収集した 。 地域の生活が強く焼き付けられたようだった。 湖底L 祭には学生諸君が地域文化学市場を企画して大沢の 2月から 6月にかけて,国際協力事業団(jICA) の文化財保作修復技術コースのコース・リーダーと 方たちも招くことができた 。 知r;J;~ 菜栽培の畑もまる して制修イ本:¥;Ijを組織し,ホンテ'ユラス,ケニア,マ 6年。チンゲンサイが最高においしい。暮れから全 レーシア.モンゴル , ミャンマー,ペルー,ポーラ をはじめた。大学を 学の有志 とエコキャンパス計画i ンド,サウデイ ・アラビア,タイ,チュニジアから 循環型社会のモデルにすべく、春から活動にはいる 0 0人を対象に捌修をおこなった 。 また,講 の研修生 1 ・研究活動 6月 シンポジュ ーム 師の 委託を受 け,約 3週間にわたり,保存修復技術 r 1 1 ' , 産の進化と暦史一 分娩を めぐる身体・他者・ I : , 1 j 度」 に参加│発表 ( 人類 Ch a n g i n g ンティティの変容会議に参加発ぷ ( J a p a n e s eI d e nt it i e si nMu lt i c u lt u r a lCanada の建築部材の寸法から造営尺の彼元を試みた C o n f e r e n c e,ビクトリア 大 学 ・アジア太平洋 C 'Res t or a t i o no fTombFi nt h eS ou t h e a s tN e c r o p o l i s : ' p p. l6 6 -1 8 1 ) 同じく 3JJ に前イ|ーに~,\j 1'tを実施した彦恨 d i J J 巴阿川J カナダ多文化社会における日系移民のアイデ 地域先導センター 主催、ビクトリア ) 9月 同際人知学会 ' ' 1間会議シ ンポシ、ユーム: HumanBody,Appl i a n c esandT e c h n o l o g i c a l C j l l 発表(1王│ 際入額学会 i , 1 U l 、 ! l ' U;O C u lt u re sに参} 1 0月 全体構造法全国研 究 会招符講演 「ポノボ ピ グミーチンパンジーのコミュニケーションが 意味するもの J( JIST研究会主催、静岡 ) 1 2月 シンポジューム 「進化を考える j に参加発表 ( プリマ ー テス研究会主催、犬山) .論 文 「後氷期におけるニホンザル頭輩骨形態の小進化」 A s i a nP r i m a t pl ogyv o . 1 2 : l1 5・1 2 5 「 写真に見る滋賀県の戦前カナダ移民の文化変谷 J ( 印刷 9 ) ' 「ボノボ /ピグミ ーチンパン ジーのコミュニケー 印刷巾 ) ションが意味するもの J( 「溜 池 の あ る 風 対 : 特 殊 重 粘 │ 二地 帯 の 農 と 風 土」 ( 向 ] 布I J 9 ") 「今丙錦司の自然の捉え万ー自然 の創作 ・理!定!型 ・ 型J( 印刷中) .著 3Jには. シリア・アラフ事共和国パルミラの東南 TOMBF-Tombo f BWLH andBWRP-SOUTHEASTNECROPOLIS ' ,版した 。 この中で F号墓 PALMYRA,SYRI.A.'を 1 学会進化人類学分科会主催、京都) 8月 の講義をおこなった 。 墓 地 Fサ墓の発掘調査報白書 l 針作の鹿 J3 家の旅行ユi を発 h した (r 珍;fJ~ の悟史的 ,;; t r mとその構成要ぷ JIt 版 dJ~と;式 rm;';lí 会 ) には /J(路に l 訂したカワトや, 0 J l i島家 仁lIiJのおけ l ! l i ¥ ,' r ' ,.排水 1 1 I のスイコ ミがほぼ完全な状態で保存されていた 。 7) Jには環境科学部の浮田教授らとともに 『日独 まちづくりシンポジユウム j を開 f 佳し, ドイツの I B Aエムシャーパークと滋賀県の事例について報告 し. )佳史的建造物の保存と 活 1 1 Iの日独比較をおこな った。 9) Jには, パルミラのひがし l 有墓地において 実施 した H号墓の発掘調査に参加し,彫像のある石棺な J ! l J 量をディジタル・カメラを用いておこなった。 どの i 9刀には特定非営利治!l! ) J法人 I l t界遺産ネ ッ トワー 主および自然遺産の保存, クを立ち上げた 。 文化遺 l 環境ノ│ 三態の保全や社会教育の t f進をはかるために, 同際協力活動をおこなうものである 。 二 │八脈 I r fや武佐 ,江頭にお このほか近江八幡市の H いて l I I Jなみ調交を実施した 。 書 『アフリカを歩く 一一フィールドノートの余 I L I に』 -林 博 遇 ( はやしひろみち)考古学 、 地域研究 共編著、以文社。 ブラックアフリカが病と内乱で塗 ① 今年度の湖底追跡の訓査 はゼミ 学生とともに米原 りつぶされているかのようなマスコミ報道に対抗 町制妻筑摩地先 の「尚江干 1 [ ' 1 ' 遺 跡」 を中心に実施 し、人々の生活の疎かさと ( 1然の魅力を具体的に現 した 。 し伝えるためのエッセイ集。夜、のエ ッセイは立の巨 ! ; i j ]妻j 奏地区では猛暑の 中、平板測 量で湖岸から 木の話。 湖底にかけての地形を広範囲に視J I 韮した。湖底部 . 社会貢献 は1 t I尺を t 7 j 二つ人の背が立つギリギリの深さまで 2 5 安曇川町教育委員会主催の講演などを数回 。 この cmコンターで i J ! l J 宣したが、水位が下がるたびによ 春からは幼児の泥遊びの場をつくるなど、いくつか り低位のコンターを追う作業を繰り返し、より広 のNPOの計画に協力する予定。 範な地形を図化することができた 。 9月頃は藻の 人間文化 ・ 87 人・間・文 ・化・通・信 繁殖が著しく、湖底を歩くことすら困難なほどで、 良部 j 台祉.t i t定帯方郡 j 台土止、大同江 を 9基、推定楽 j Bす作業は全 潜水して湖底に散布する造物を娘し I の河口、植君│凌その他 を見ました。大阪・鴻陽 聞の A N A使があり、それにあわせて 1")麗航空の、子境使 く不可能であった。 筑摩祈l 社沖地区は、以前発見していたiJI ' 合約 が開設されているので、朝大阪を出れば、夕方には 31 0m、水深 3. 8m地点のイ i iio~ をスターパダイビン 平壌におくことができます。 もっとも前緩行けば 2 グのできる学生数名が中心 となり 2 0分の l の実 i ! l J I 1 時間くらいでしょうが。その後のいわゆる投致問題 図を作成する ことができた。 この際、石群の聞か で、いろいろと心配なことがおきております。特に ら7 -8世紀のな[盟、器の横 j L f ( の口縁部が発見され、 朝高の学生などに対するいやがらせは、どういうつ その山上状況からこのイゴ群は須思待の示す年代に もりでしょうか。不況による修怖をそんなところで 地上に構築されていたものが、その後何らかの姿 はらそうというのでしょうか。心の貧しさ何とかな 因で湖底に没した ことが明 らかとなり、湖底遺跡 らないものでしょうか。今年も 北へ行こうと思って 研究に大きな進展をもたらすことができた。 立 おります。向こうは歓迎すると 言 っております。J ②1 9 9 9年から 3年1 I J 1、滋賀県大学等学術文化振興助 成金による研究機関述燐推進事業の一環として進 致問題はそれとして解決する必要がありますが、わ たしの友人・知人はそれとは関係がありません。 めてきた 「 琵琶湖がつくる近江の歴史」研究会に 韓国は、 7回行きました。 2月には、わたしの科 よる、近江の歴史 ・文化の研究成果を 7月に出版 研で、背谷さんや徳島大の束さんとい っ しょに国立 f . ! ' 物として刊行することができた。 これは近江の J 毎博物館な 済州博物館・東義大学校博物館・凶立金 j !とに多大の影響を及ぼしてきた琵琶湖そのものに どの調査をしました。そうした調脊は、それぞれの 視点を据えた 、これまでとは違った角度からの研 機関にいる友人たちの力を借りなければ、実現しま -r 城と 究である 。多くの方の活用が望まれる 。 せんが、こちらがお世話になっている上に、昼夜と i 制!と近江jサンライズ 出版 4 . 5 0 0円。 接待されることになります。 F 1 7 j 立に来たときにお返 ③1 0月末 -11月初旬に中国東北部に、在外研修とし しをする ことにしていますが、その機会は少なく、 て高句麗の古代山城を踏交した。漆協に到将した いつも恐縮です。 3刀には、知人たちを案内して全 第 11日はこの地域での初雪の u で、│年り和もる 総道の │ 両方後円墳を 兄てきました。何度目かのとこ 重の ",でのびしょ濡れになりながらの 山城踏査 車協の最近知られるように ろが多かったのですが、 i は、この地の気象条件の厳しさをまざまざと見せ なったものも見ました。 5月連休には学長 ・美徳キfI つけられ、それを実感せずにはおられなかった 。 1 . ' 4 :編纂委員会との提携調印に行 先生にお供して、P; 結局、この績雪が最後まで響き、険しい山中での の公州大学校でシン きました。 5月中旬には、公ナト│ 雪中行軍が続くことになった。それにしても高句 ポジウムカ fあり、招待されました。 8) J にはわたし 1 皮な岩 山を利用した要害の山城 麗山城はなんと厳1 の科研で、匡│ 立公州 博物館 ・国立扶鈴博物館 ・国立 であったことか。 扶除文化財研究所などの文字瓦の調査をしました 。 ④1 2月にはがJl月間、断続[ 内 にわが国の古代山城、 この科研 は 4年計 I lf j で 、 2f j :目です。 9月にも科研 三尾城跡の確認調査を高島町の協力を得て実施し で、国立慶州博物館の新羅文字特別展その他を見ま た。今回の調査ではその硲認はできなかったが、 した。その展示図録には、わたしも写真を提供して 3月には別地点の分布調査を実施し、継続してそ の探索を行うことにしている 。 おります。1 0月は、 中医│ へ行く前後に寄ったもので、 国立扶鈴博物館での百済文字特別展展示の資料を休 館口に調査しました。 このように多くは、科 研 の調 -田中{愛明 ( たなかとしあき)朝鮮古代史、古代日朝関係史 2 0 0 2年における研究・教育活動の報告をします。 査だったということになります。 3月に行ったとき に、去年研究生で来ていた仁術大の金楽起君といっ 学外の人から、 これを読んだという連絡があり、喜 しょに、徳、和島へ行きました 。庸寧が百済攻撃の際 んでおります。例年、剖査の報告からしております 津郡 に、新縦船団といった合流した ところです。翌E が、今回も同様です。 7月に 1 0 年ぶりで北朝鮮を訪 に含まれます。韓国では市・郡単位で行ったことが 問しました。小泉訪朝の前で、そんな ことがあるこ ないのが、これで新安郡のみになり ました。 とも知らない時期です。平壌には友人がおりますが、 中国は 3回です。 8月下旬に、山東半島沿岸部、 今回は連絡しませんでした。知り合いの研究者には および I L J東から遼東への航路をとって遼東半島の先 連絡し 、結局 、ひとりとだ けホテルで会いました 。 端部を見ました。張保皐をはじ め とする新羅人の海 いわゆる分国論の第一人者です。何年かぶりかで会 上活動の痕跡を尋ねるのが主で、あわせて中国から ったのですが、わたしと同年齢の彼は、わたし よ り ず、っとバイタ リテ イがあり 、社会科学院歴史研究所 斉・新総への航路について硲認をするた 高句麗・百 j で妹腕をふるっております。 7泊 8日で、壁画古墳 る 、 中国東北の古代 山城の分布調査に行きました 。 88 ・人間文化 めです。 1 0月には大学の在外研修で、毎年進めてい 人・間・文・化・通・信 今|口|は遼寧省の lúll l 縦 ・ 寛旬が rl:1心です 。 II~日緑江川 u ! f.台である 。 1 i 引せ」 に、神さまたち る。「泌尿 Jが t からやや内院に入ったあたりです。 1 2月には、徳 μ が「湯浴み 」 にやってくる 。 i 易に浸か つて 、英気を 大の束さんの科併で、 l 菊五(の都城.illM ; l.1 唆必をよL ま やしない、力を│叶復するというわけであろう 。「 春 した。倭の l iE I 時代の岡際, ) I !j 係、ということで、今 1さま 」ゃ 年からスタートです。 ほかにも 2つの科 j i J fに関わ っ クサレさま j、 1 1 '鬼j や「おなまさま Jがやってく 「おしらさま」、「オオトリさま 」 や 「オ 1 1 j J i : 1 へのお誘いがあったのですが、│時↑H Jが ており、 1 る 。 ;(r~~ に各地で信ぶされている t 1 1 1 霊になんらかの とれないために│析らざるを何ませんでした 。 I l : ¥ i示をうけて性的づけ されたと 思われる干1たちばか 今年度、活字になっ たのは、 「 百i 斉郡城と公山城」 りではな L、「 カオナシ 」のような、たぶんに脚色さ (r 行済文化を通してみた ~l 代束 アジア世界 J 公州大 れたと思われる "lll~~ I 下 J イ I イl ーもや ってくる 。「湯屋」の館 l or 学校百済文化研究所ほか)、 I WJ f 9 . ' i l代における小 l i q 内は、 「 八白一万の干1 1 リ たちの会席でごったがえす。 の領域拡大と王椛 J( 初期 E 権研究委員会編 『 古代 , ' 1 1 1 'は、ある「祭り 」 がモデルになっ このアニメイ111 t J 川苫 J 8l 、 11 可済と . 1 ヒ 王権の誕生 JL%アジア朝日 f ているともいわれる 。 それは、 「遠山の箱月祭り 」 斉 J( 干 |日 稔・宇野 |経夫)~編 『 東アジアと f 半島空 である 。信州のけj 部、*は赤イi l l l J 派、凶は伊万 1 ¥ 山地 r : l J 山点下島と遼東半山 』忠文│ 品 . JW版)の 3本の みでした 。 もう少し 1 1 事をしなければ、と l lってお 地に、いくつかの集落が点々としている の狭陥な 1 j : ( あ ります。 ただ今年度執筆して校正 中のものが 4L が 、 1 1併の霜 ) J、 「祭り 」 は 、 ります。 ほぽ 1JJ~ 夜、各地 lメでおこなわれる 。 昨年からはじめた生探教育関係活動 (カルチャー センタ ーは除く)、今年も引き出しておきます。 にはさまれた、かつて 「 述山郷」 とよばれた、谷筋 祭り 」 では、 1 " 1 1 ほどのあいだ、 l i 必敗 」 が舞台である 。 火を炎き、 易を沸かす。 ) j形の木枠にしつらえられた紙街i l 釜に i 2 0 0 2年 1rJ 26 日 仕) I~- 代の点アジアを考える会大阪 りが、径のうえの天井から、ぶらさがっている 。湯 11 任 JJ~H ~J{.J J を nu う 一継体・欽 WJWJ の H 本と JJll lfl;J がi 弗き、 i L J気がもうもうと i f _ちのぼり、紙針i lりが、 ( 於大阪科学技術センター) 1 1 の降│邸をあらわすかのように、ひらひらと揺れる c 相 2月 3日間 n緯占代文化研究会 r税志J*夷伝の I I ~~ り 」 は、この湯のが Il く祭の J ,'.11) 11 に築かれる 11'! な 於アピオ大│ 奴) 世界 J( る空 1 m、すなわち 「湯殿」 に、相1 1々に米 l 臨を願い、 4 J J1 1日( 柄、4月2 51 : !( 柄、 5 J J 9日( 木) 、5月2 31 了 J ( 材、 6 J J J J 2 7日( ね 1 3日刷、 6 場を│拡 1 -するのである 。 判l 々の招待 ; I ) (とも│呼べるものがある 。 1 1 l j lZ ' 1 I 阪 」 滋賀銀行 KEIBUN文化講座 「 加耶と倭一 占 1 e の である 。 その 「リスト Jには、全│主│一宵をはじめ、 1 本 J(於しがぎん 1' 1 1 ,津ビル ) 朝鮮半島南部と1" 津々 4月 1 5日( 月) 日朝友好促 進婦人会談 r任 )JI¥j間一題と I 古代日朝関係 J(於ウイングス京都 ) 6月 7日( 剣池田銀行 TOYRO歴史講演会 「 古代の 韓国と日本 J( 於阪急タ ー ミナルビル) i r l i々のおもだった十1々が記依されている 。 長時 1 1 jにわたって、 一社も漏らさず、いちいちの有1 1 の名 がていねいに読みあげられ、来 │臨が願われる 。 村の人たちは、しかしながら、 これらのメジャ ー な神々には、それほど関心 が ないように見える 。 よ 6r J8日比)帝塚山大学:考古学研 究所 ・市民大学講座 り親近感をおぼえているのは、もちろん、土地にゆ 「 新羅の王京寺院」 かりの、そこここにまつられている身近な神さまた 7月 7日( 日) 日韓古代文化研究会 1 1 11 東半島をめぐる ちである 。 こちらの利lさま た ちは、 1 ì~j 立て 」 のク 於大阪市中央青年センター ) 新縦 ・百済 ・高句麗 J( ライマ 8月1 7日出 歴史をたのしもうかい 「新維の警徳王と 真徳王 二 回統ー を準 1 1 l iした女 王 たち J( 於堺 市 総 が唱えられて、 合福祉会館) 浸 かっていただく にも、 「金比羅さま Jにも、湯に i y クスとでもいいうる場而│ で、いちいちの名 i 易が献上される 。 こうして、近くの 「お稲荷さま 」 にも、 「浅│切さま 」 にも、 「 八幡さま 」 のである 。こちらの方の「 リスト」には、そのほか、 -梅原賢一郎(うめはうけんいちろう)美学、芸術学 「 八百万の神」とはどういう こと なのか。 いろい ろと考えさせられる 一年だった 。 u 佐一絶対の 神を専 ー に信奉するのではなく、いろ この土地で非業の死をとげたと伝えられる遠山一族 の死霊が布Ji格化した とされ る村l 霊も、そしてなによ りも 、土地の守護神 「 天伯さま 」も ふくまれている 。 ひとまとまりの時間のうち に、まさに 、 「八百万の いろな判lをまつるという 。一つの神社の境内にも、 千 IJが 、 いろいろなネ1がまつられている 。一つの村を歩けば、 れていくのである 。 l J i'i番をなして、来臨し、湯でも って饗応さ さらにおおくの神とまみえる こと ができる 。しかし、 ところで、ある地区の祭りに来ていたときのこと 「八百万のや I I J とは、たんに、いろいろなや1 1 の空間 である 。他の地区とおなじように 、 「湯立 てj のク 的な並立を容認するという ことに あるのだろうか。 ライマ ックスで 、神さまたちの名が II~ えられていく 。 宮崎駿のア ニメ作品に 『千と千尋の神隠し 』があ なにか音の響きに違和!惑がある 。周囲の熱気をかき 人間文化 ・ 89 人・間・文・化・通・信 r r と間こえる 。 さらに、 「 観世音菩薩 Jr 十 回観世背 弥軌菩薩 Jr 普賢警薩 Jr 文殊菩薩 Jr 菩薩残 菩薩 Jr わけで、耳をそばだててみると、 「 釈迦牟尼仏 J 大 r r 目 立1来 J 薬師如来 J 阿弥陀如来 J 如来残らず」 らず」と続いていく 。 この r i 易立て」では、おおく の仏教関係者(仏) も 「リスト 」に載せられている 筆。かなり圧縮したために少々読みにくくなったか もしれない 。第 4次 r 1 ]本史講座 J( 東京大学出版 会)第 4巻に 「巾世村治の景観と構造」 を執筆、近 刊。 きわめて短期間で普いたが、かなり影響力のあ る企阿なので、失敗していたときの悪評が心配。 3 年間にわた った琵琶湖博物館・京都大学および新旭 のであった。おいうちをかけるように、 「 弘法大師」 町教育委員会との合同による山門木津荘 ( 現新旭川 ) 「 道元禅師 Jと続いたときは、正直い って、たまげ の現況調査が無事終了し、 『 近江田木津荘現況調査 てしまった 。 ふと、こんな想念がよぎる 。 「スゴ 近江 │ 到木津荘をめぐる 報作者. 1 1が発刊、第 2章 「 イ!なんでもアリダ 1これだったら、世界中の神や 緒1 1 1 ] 也 :j を執筆。『調査報告 " i l J :J2 ( 近刊 )では、 r 的には可能とチガウダロウカ 1。 テロ 霊たちも原理r 調査成果と課題をまとめ、総括した第 5主 「 おわり で無念にも命をおとした人たちも、報復戦争でいわ に 」 を執筆した 。 滋賀県では ~-ri 初の本格的な荘悶現 。帰路、山あい れない死をむかえた人たちも…..J 地調査であり、琵琶湖の環境変動など、例別荘園研 のその村は、私の記憶のなかで、まるで一つの独立 究にとどまらない内容をもつものにできたと、 国であるかのように、いつまでも憧々と輝いていた。 している 。 4年間続いた中央大学を幹事校とする 4 I~I 負 だが、と思う 。「八百万の十I/I Jとはどういうこと 大学述合の丹波函山国荘(京都府京北町)の共同研 なのか。 こうして、ひとまとまりの空間のなかに、 丹波国山匡│荘調査報告書jの第 3 7 2 t民 究も終了 。 I あるいは、ひとまとまりの時間のなかに、判lや仏を 観調査を担当 。 また 『 琵琶湖流域を読む 』上・ド 包括的に共立 させることが、 「 八百万の神」 なので ( サンライズ出版) に 「 多賀大社 Jと 「 延暦寺の建 あろうか。そして、私はそのさまをどこかで眺めて 立」 を執筆。 これは短いもの。 いればいいのであろうか。 I 1 1 = i l '度よりスター卜した高rJI I I J史の編纂では、徹 私は、ほほ二年間にわたって、角川書応刊行の小 1 i文 底的に地域に密着した方法をとりたいと考え、 i I I t子 『本の旅人jに 「身体の古 N 号Jというタイトル l ,地問類の収集、水利や民俗の調査などを進め 書やi で、:iili載を続けてきた。 この連載を通じて強調した た。第 1 1 1 1 t日は!と料編のうち景観などを中心 l こした かったことは、まつられる対象の多機性ではなく、 巻を予定している 。 なかなか当初のな気込みどおり むしろ、まつり方の多様性であった。あるいは、宗 にはいかず、編集委員と役場、地元との連絡 ・協力 教的な身振りの多様性であった。青森県の岩木山の 態勢のい っそうの緊密化を図らねばならないと思 っ 「お山参詣」で、私は土地の人たちと 一緒に山頂で、 I L 4"の清水山城 ( 新1 也1 1 1 ] " ) の国 ている 。 また新しく市] ひたすら祈 った。倫中神楽では、太夫が藁蛇にすい 史跡指定をめざした調査委員会がスタート 。県立大 よせられるようにして舞 っていた。宮古島では、お 学と京大の文献史学と!必史地週!学のメンバーが主 ばあさんたちが山に箆もり、祖霊とな っておりて く 力。今年度は城下 4地区の伝承や地名、集務の祭犯 るということであ った。事 i j的な身体について述べた や募制、水利システムなどの調査を進めた。城をめ 去について触れたことも こともあった。密教的な行 j ぐる広域的な地域の歴史的環境・景観の記録作成と あった。俗信のなかに潜む宗教的な感性について論 復原を目的としている 。 このような調査に│民生・学 じたこともあった。 また、路傍の地蔵に化杭して祈 i l~奇書:や図の作成に協力してくれ る 生らも参加し、 幸 る人たちもいた。食べることがほとんど祈りである が、他大学の研究者・ 学生や地元古老たちとの接触 こともあった 。そのほか、この国には、実にいろい はたいへんよい刺激になっているようである 。 ろな宗教的な身振りを見いだすことができる 。 5) ' Jに仰l 凹学会の関係でインドネシア・パリ島の j l J とは、まつられる対象の多機性を 「 八百万のネI 水日比!司査とシンポジウムに参加し、 1 1 ) ]には中国立 包容することばかりにあるのではない。 まつる身体 州省 ・広西チワン族自治区のミャオ族・トン族の村 の多様性を包容することにもあると思う 。 「 八百万 落剥査を行 ったが、村落の境界や水口│景観など、非 の身体」 を包容することにもあると思う 。 常に興味深いものがあ った。東アジア 全体の中での 戦争がおころうとしているいま、なにごともない ようにかのようにあまりにも静かなキャンパスのな 日本の特質を考えるために、今後も継続して朝鮮・ 中固などの村々を歩きたいと思っている 。 かで、私は、以上のようなことを愚考している 。 2 0 0 3年度には、単著を刊行する予定です。 -京築真帆子 ( きょう う く まほと)日本古代史 ! 二目、伊吹山の美 しさに魅せられる卜│々です。 着任 2i 今年は 今 までためていた仕事を 一気に片づけるこ -水野章二 ( みすの しよ う じ)日本中世史 藤井譲治編 [街道の日本史 近江 ・若狭と i 却 ] J とが目標でしたが、完墜には達成できませんでした。 ( 吉川弘文館)の近江中世史関係 4 0ページほどを執 しかしながら、仁木宏編 『 都市 90 ・人間文化 前近代都市論の射 人・間・文・化・通・信 程一J( 青木寄宿、 2 0 0 2年)に 「平安京の 「かたち J J くの川に橋をかけるなどの事業をしました。かなり という論文を掲載しました。 これは今まで分析して 多而的な才能を持った人で、医学の大家として、ま I論んだ きた平安京の人的ネッ トワークの空間]化を F たラモと呼ばれる民衆歌劇の創始者としても知られ ものです。平安京がどのような形として志向され、 ています。 実際はどう変形して認識されたのかを明らかにしま プチェンは!I!. H l (の状態で、安I Jを腹に突き 立てたり、 した 。 同世代の友人たちとの共同研究の成果です。 主│を煩に通すなどの色々なパフォーマンスをしま このグループはさらに新たな都市論を目指して、爪 I.;J:r.でもあり芸能でもある彼らの態依の儀式を す。やJ 動を再開しております。 これから調べてゆきたいと思っています。 また、 『史風』 第 6号に「都市城壁探訪記」 とい 最近始めたもうひとつの研究テーマは、ブリヤー うエッセイも掲載しました 。 この雑誌は前任校であ 卜の僧アグワン・ドルジェフに │ 刻するものです。彼 った茨城大学の史学専攻学生が自主的に運 1 i ¥ '発行し 3 1 止の 帥でもあり、 1 3世とロシア宮廷 はダライラマ 1 ている研究雑誌です。私の後任高橋修助教授の 「 殿 の仲介符とな ったことで知れれています。 日本では 様の 「 戦同合戦」研究」、松後のゼミ生深作兵美さ M U慧 i f ij:などの著作を通じて、 ι │ 毛僧ドルジェフとし んの卒論 r iJí 代における強姦について 」 と ;ìf~ んで、絞 て、ロシアのスパイであるという見万がされてきま っています。 した。 その他、社会活動としては、~;fl~市教育委員会の 今彼の自伝的メモワールを読んでいるのですが、 千成 1 3年度)が その知性、情熱、政治的見識、行動力には目を見張 1¥来てほ 完結しました。最後まで告き │ 二げることがI るものがあります。 とてもロシアのスパイで片づけ っとしております。 さらに、来年度は愛知川町史の られるような人物ではないのです。彼の構想した、 生渡学習通信講座 ( 歴史発見講座 古代編を執筆することになりました。地元を歩きな しかし実現しなかったチベァト仏教世界の在り方と i きたい がら、古代に思いを馳せて、 地域の!ピ史を1N は何であ ったのか、という ことを考えてみたいと思 L lっています。 とj っています c そして 、京築研究主では彦根の女性史研究を始め t fの生活などについて ました。彦被在住の女性から こ 聞き取り調査を進めています。文献史料に残されて -河かおる ( かわかおる)朝鮮近代史 本年度 4月にポ任し、ゼミを持つのも教壇に立つ いない新発見があったり、なかなか有意義な調査だ のも初めてで、 と自負しています。県の特別研究費をいただき、ゼ 「これだけはし っかりやろう j と思ってきた朴度稿 ドタパタの一年でした。 赴任前より ミ生たちの協力の下、成果をまとめつつあります。 文庫整瑚は、前任校で(ii J f究所助手〉 として資料運 さて、今年の海外調査は、ベトナム・イタリア・ r nに携わ った経験が役に立つだろうと思 ったのです フランスでした。特にフランスは県の在外研究費を が、あまりの彪大さに、 一年かけて何とか現状を把 頂き、都市城壁の資料収集につとめました。 フラン 握し、 i l l点研究の研究 uて、で、きる │ 仮り作業を進めた ス認もやや上達し、石造りの城壁を分析する Hも1 1 ' , 来てきたように思います。 Jmでは、 程度です。 同文庫との朕J 5月に、韓国の国 !と編纂委員会と本学との問に学術交流協定が結ば れ 、 7) Jには同史編纂委員会の方が来訪、 1 1月には -棚瀬慈a s(たなせじろう)文化人類学、チベ ット学 下年度に引き続いてインドのヒマーチ ヤ 今年度も H l j : j J 委員会からも講師をお迎えして記念シンポジウム ル ・プラデーシュ州、スピティ地区で住み込み調査を 彼が住み込んだのは、襟' i ' ,: j 4 0 0 0メートルを越える、 さい ) 。 また、 │ 五' l よ!編纂委員会から助成を得、キト圧を M文庫の概 1>>告と、文庫中の録音資料についての報 告 i ! ?をまとめました。 12)Jには滋賀大学経済経営研究 所主催 r l E I植民地関係資料をめぐる戦前期文献保存 多分世界でも有数の高地にある村です。幸い住み込 のワークショ ッ プ ~ 朝鮮・満洲・中国・台湾 ~ J に おこないました。今回はゼミの 31 D : 14の学生を伴い、 彼には私の住む隣の村に住み込んでもらいました。 み先の家族からも大事にされたようで、 9月の始め を開きました ( 詳細は本号掲載の報告を参照して F おいて本学の: m状について報告を行いました。 に雪 に閉じこめられるなどのアクシデントにも負け [ 教育活動 ] 1ヶ月 1 m独りでよくがんばりました。 今年の調査の収穫は、プチェンと呼ばれる l 依能的 シャーマンに接触することができたことです。普通 になりました 。反省点を生かしてよりよい授業作り ができるように頑張りたいと思います。初めての環 ず 、 講義の準備や採点などは大変でしたが、良い勉強 シャーマンには何らかの神 的存在が態依するのです 琵琶湖文化論実科では、朝鮮通信使と近江商人につ が、プチ ェンに滋依するのは、タントン ・ギャルポ いて調べるグループを担当 しました。近江商人につ というチベ ッ ト中世の有名な行者だということでし いては専門外で、 内心渋今でしたが、調べていくうち た。 タントン ・ギャルポはチベット中を遍歴し、多 に明治、に入って朝鮮半島に進出した近江南人がいた 人間文化・ 9 1 人・間・文・化・通・信 ことがわかり、大きな収穫でした。今後調査を深め 003年 1月には、学位論文 文となりました。 また、 2 られればと思っています。8月には学生と韓国旅行。 「日本近世における漁政・漁村史の研究」 により、 実は 6年ぶりの訪韓でしたが、私の l 唯一の特技 「隣 京都大学 t~\ì 士(文学)を 取得しました 。 現在は、科 国語でしゃべっても日木人だとパレない j が通用し 学術究費補助金 ( 若手研究 B :-2004年)の交付を i l r本近 UI : 城 f ll l f i . < < I .師の史的特質解 I V ]Jを研 i J I究只の裟永問先 ' " 1 たので大満足でした。県大客以 l 受け、 の桁介で鯨 l 主1 .国民大学校の教綬・学生たちとの交 究課題とし、各地の城 f ll I 町方漁師の作 町に居住した 1 流会も持て、学生たちにとっても有立義な旅行だ っ 在形態の分析 ・比較をわ っています。 よい、ます。 たと j では、 1 1 下年度末の 「 彦根務の存在政機構研究班」講 [ 研究活動} 新生活に慣れるのが精一杯であま り進展しません でした。 4月に朝鮮史研究会関東部会の月例会で書 琵琶湖研究 演会 ( 於彦根城博物館)での仰│ 究報行 「 彦線藩の船 奉行 」 を、原稿化しました。 学内古文書の推理は継続中です。今年度特別研究 0月に税悶で聞かれた「批判と述 評。 4月に伊豆、 1 費の交付を受け、 帝のための束アジア歴史フォーラム J共同ワークシ 「 稲l 丑村藤野家文占」の整理を行い、目録作成にい 3回生有志とともに、本学所蔵 ョップに通訳を兼ねて参加。執筆した原稿はこれを たりました 。「野洲村野口家文書 Jの弊 g gも相変わ 書いている時点ではまだ活字になっていませんが、 らず続いており 、『 滋賀県立大学学芸員 謀程報告書 j 以前に書いた 「 総力戦下の朝鮮女性 J< r庭史評論』 第 5号 ( 2 0 0 3年 3 } J )に 「日銀 ( 3 )Jが掲載されます。 m史刺さん室のご協力を得て、本学医13 612、 2001年 4月)が韓国の雑誌に翻訳掲載され、 また、彦根 前任校で手がけた朝鮮総仔府関係者の聞き取り資料 情報センタ一所 11迩「彦:fl~i審家老木俣家文書 」 のマイ 字活字化の仕事が稼国で単行本として翻訳出版され クロ写真鍋影を実施しました。幕末の彦根の状況が たのが賎しい知らせでした 。 f連れ赴任のため、大 わかる良質な史料です。紙焼、製本が j 斉み次第、図 阪や京都で週末に聞かれる学会などには一度しか顔 書情報センタ一、及び、人f,l]文化学部棟文献資料宅 を出せませんでしたが、もう子供も彦恨の暮らしに ( D3-305) に写点帳を配梨し、問覧可能とする段 慣れたようなので、徐々に行動範囲を広げたいです。 取りです。私口身も近いうちに史料紹介を執筆しよ うと考えておりますが、ご関心のおありの方は、ど -東 幸代 ( あすまさちよ)日本近世史 うぞご利川ください。 本学に械を得て 4年目に入りましたので、そろそ 滋賀県内の自治体史の仕事が、本格化してきまし ろ瓜抜き (?) にいそしむべきなのですが、欲張 っ た。『永源寺町史』 の山林についての原稿執筆の仕 ilIぷと淡水両方の術究に従事しております。 てi 事が目下の課題です。 また、 『高月 1 f 1 T史j 編纂委員 前者については、今年度は、これまで取り組んで 成城主¥ 1 調査班近世文書調倉員とし や、新旭町清水山 j きた U本海漁村の研究に、小さいながらも 一区切り て、史料調査 ・経理活動等を行いました。折角機会 をつけることができました 。 まず、 H 下年度史学会大 をいただきましたので、より良いものが書けるよう 事務政と漁獲 会シンポジウムにおける報告 「 丹後宮 i に尽力したいと考えております。 物流通」が、『水産の社会史 j ( 山川出版社)掲載論 92 ・人間文化 -編集後記・ 先日 、 事 務 方 よ り 、 「人 間 文 化 」 を 電 子 フ ァ イ ル 化 する 可 能 性 に つ い て 打 診 が あ り ま し た 。 県 財 政 厳 しい 折、 印 刷 物 を 電子 ファ イ ル 化する こ とに よって 、 で き れ ば 出 版 に か か る 費 用 を削 減する こ とができな い か 、 という こ とだった ろ うと考えています 。 最 近 図 書 館 な ど で も 、 所蔵 文 献 を 電 子 フ ァ イ ル 化 し、 インタ ー ネッ トで 公 開 す る所が増 えてき ま した。 わ ざ わ ざ 足 を 運 ぶ必 要 が な い の で 、 利 用 者 に は 大 変 便 利 なものです 。 しかしそういったもの は 、 研 究 な ど、 明 確 な 目 的 を 持 つ 者 以 外 は 利 用 が 難 しい の が 実 状 で す 。 本 誌 の 人間文化学部のチャンスン チャンスンとは朝鮮半島全体に広がる土着文化の 一つ であ る。堅い木材や石材に人や 神の姿を象り彫刻されたもので 、 見開かれた目、大きな鼻、歯をむきだしにした口が特徴的で ある 。魔物を威嚇して接近を 阻んでくれているのだという 。 チャンスンの役割の一つは魔除けである 。村の入り口に立 てられ、株々な病気や災厄が入 ってくるのを退けた。村 郡 の境界に立てられたものは「ソウル五十里、利川五十里」な どと書かれて里程標ともなった。また、寺などの境界や領域 を示すために立てられたものもあったという 。 日本でいうと 道祖神に近い存在である 。 チャンスンの多くは男女一対で立てられ、男は冠を被り女 は答を挿している 。顔の下にはそれぞれ「天下大将軍 J 地下 女将軍j と記されている。天 と地、 すなわち世界全体の守護 神なのである 。 長い棒の先に木製の鳥がつけられたものはソッテという。 豊年祈願のためのものだそうだ。 ように 、 より広い 、一 般 的 な 読者 を も 想 定 し て い る 立場では 、やはり現在の冊子の形式が有効だと思い ます 。 本 誌 の 電 子 フ ァ イ ル化は、 少 な くとも当面はなく な っ た よ う で す 。 しかし 、貴 重 な 県 民 の 税 金 を 用 い る 以 上 、今 後 も皆 様 の ご協力 をい ただき 、 より質の 高 い 紙 面 を 目 指 し て い き た い と 思 い ま す。(棚 瀬) 編集委員・ 灘本知憲 ・面矢慎介 ・林 博 通 ・東 山明子 ・棚瀬慈郎 r この人間文化学部の敷地に立つチャンスンは昨年退官され た萎徳相先生が残していってくださったものだ 。 このチャン スンには “ 滋賀県立大学人 間文化学部を朝鮮研究の新たな拠 点、としよう"との思いで 7年間勤めて こられた萎先生の熱意 が込もっている 。 大きなチャンスンは高さ 3mほど。小さな 1mほどのチャ ンスンは名前のない ままで滋賀県立大学へやってきたため 「伊吹大将軍 J 琵琶女将軍」と名 付けた 。 もちろん滋賀県の 最高峰 ・伊吹山と滋賀県の象徴 -琵琶湖からの命名である 。 日本と朝鮮半島の関係が問い なおされている 。チャンスン はこの滋賀県立大学が朝鮮研究の拠点であることの象徴とな ることだろう 。 また、その道 しるべ となってくれますように。 チャンスンは今日も琵琶湖の風を受けながら西の空を見つめ 立っている。 滋賀県立大学人 間文化学部大学院/真木玲奈 r 人間文化 1 3号 13号 2003年 3月 31日 滋賀県立大学人間文化学部研究報告 発行日 発 行 滋 賀 県 立 大 学 人 間 文 化学 部 〒5228533滋 賀 県 彦 根 市八 坂町 2500TEL0749-288200附 発行人高谷好ー 印 刷 サ ン ラ イ ズ 印刷 株式 会 社 本誌は再生紙を使用しています。 ) C 3 ﹀ O 一 ↓︿ AW 同 一 4R 亙 ↓工 m c z- くm 刃ω 哨 r 耳- ω工一の︾ 市 n w mo ↓C2m ﹂ 一 F 刀Em 滋賀県立大学 山W ~〆 汁 ~ 箔oMH ωの 工O O ﹁ 0 1 工C?hbz oc ﹁↓C 刃mω 人間文化学部のチ ャンスン 芸
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