平成21 年度中央大学学員会岐阜県支部総会レポート 総 会

平成21 年度中央大学学員会岐阜県支部総会レポート
☆ 総 会 ☆
開会の挨拶をする林一成副支
部長
今年度の県支部総会は、6月13 日(土)午後4時 30 分から例年通りホテルグランヴ
ェール岐山で行われました。総会には名古屋支部から中條忠直支部長(学員会副会長兼
務)と串田正克幹事長のご臨席を賜わり総会に花を添えていただきました。
田中支部長の挨拶に続いて、議案審議にはいりました。議案の内容は別添総会議案書
を参照いただきたいが、第 1 号議案・平成 20 年度事業報告、第 2 号議案・平成 20 年度
収支決算並びに監査報告が満場一致で承認されました。報告事項の中で大学創立 125 周
年記念募金に対する岐阜県支部の募金状況が報告されました。それによりますと、支部
目標 1100 万円に対して5月末現在 812 万 9 千円とまずまずの達成状況ですが、募金に
協力いただいた方の人数が 62 人と少ないので小額でも結構なので今後も募金に協力を
いただきたいとのお願いがありました。
本年度は役員改選期に当りますので第 3 号議案として平成 21 年度・22 年度役員の選
出議案が上程されました。残念ながら支部長以下の役員に立候補する方が無く、事前に
現役員会で審議の結果、現役員が全員留任することとしておりましたので、その旨議場
に諮りましたところ賛同を得ましたので今後 2 年間現体制で支部の運営にあたる事にな
りました。
● 支部役員
支部長
田中 良幸(西濃白門会、S37・商学部卒)
副支部長 林
一成(岐阜白門会長、S50・経済学部卒)
議案審議を進める田中支部長
西脇 保彦(西濃白門会長、S43・経済学部卒)
青山 紀久(中濃白門会長、S41・法学部卒)
山内
浩(東濃白門会長、S37・法学部卒)
梶井 正美(飛騨白門会長、S33・法学部卒)
榎本 行雄(各務原白門会長、S42・経済学部卒)
幹事長
平塚 正之(西濃白門会、S39・法学部卒)
会 計
近藤 欣哉(西濃白門会、S59・文学部卒)
会計監査 井口 篤郎(岐阜白門会、S40・法学部卒)
平松 広己(岐阜白門会、S48・商学部卒)
幹 事
6 地域白門会及び 6 職域白門会から原則として各 2 名選任することになっ
ています。
●来賓ご祝辞
総会の議事が終了後に来賓を代表して中條忠直学員会本部副会長兼名古屋支部長のご
祝辞を頂きましたが、その中で母校中央大学は最近復権著しく、進学希望人口が減少する
なかで今年の受験者は定員約 6 千人に対して 8 万 5 千人を超える受験者があったことや、
司法試験合格者が東大に次いで 2 番目となったこと、さらには学生の確保策として新たに
付属高校が設置されたことなどの報告がありました。
お祝辞を述べられる中條忠直
学員会本部副会長兼名古屋支
部長
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☆記念講演会☆
桜の植樹と国際
交流
総会に引き続き記念講演会
に移りましたが、今年は岐阜
県弁護士白門会の川島和男会
長による「桜の植樹と国際交
流」という演題でお話を頂き
ました。(講師の川島先生の
プロフィールは 9 ページに別
掲)
最初に川島先生から「私は
中央大学の門を一度も潜った事が無い」とのショッキングなお話がありましたが、その訳は、岐阜農林高校の定時制を
卒業後、尾西市役所に勤務しながら中央大学の法学部通信課程に在籍し必要な単位は全部取得したのですがスクーリン
グには行かなかったとのことでした。その後、司法試験に合格したこともあって通信課程修了ということで学員会の一
員となり現在は通信課程のOBで組織する学員会の信窓会岐阜県支部長を務めておられるということでした。
講演はパソコンとプロジェクターを使って行われましたが、そもそもなぜ岐阜さくらの会が出来たのかというお話か
ら始まりましたが、国鉄バス名金線の車掌でバスの沿線に桜の植樹をしていて病に倒れた佐藤良二さんの物語を映画化
したのが川島弁護士の中学時代の同級生だった神山征二郎さんというところから、川島さんたちが映画のボランティア
として関わったのが始まりで、佐藤さんの遺志を継いで「岐阜さくらの会」を発足させ岐阜県を中心に植樹したのがだ
が夢は大きくなり世界各地に植樹するようになったとのことでした。
平成 5 年に岐阜さくらの会が発足して昨年 15 周年を迎えたということで今年15 周年記念誌「広げよう桜の輪」を発刊
したということでしたが、別添の川島さんのプロフィールにありますように、川島さんがこの間会長として尽力された
功績により今年第 59 回岐阜新聞大賞の社会事業部門での表彰を受けられました。
この間、世界 18 カ国 30 都市に桜の植樹をしてこられたそうですが、事前の準備打ち合わせは当然のこと金銭的な面
のみならず国情や気候風土の違いなど苦労の種は尽きなかったそうです。それでも多くの会員支えがあって今日まで来
ましたがこれからも可能な限り活動を続けていきたいと 15 年間の活動の記録をプロジェクターで紹介しながら熱っぽ
く語って一時間あまりの講演を終えられました。
中国・杭州市に始まってハンガリー・ブダペスト、オーストリア・ウィーン、クロアチア、スイス・ジュネーブ、イ
タリア・ローマ、チェコ・プラハ、アメリカ・シンシナティ、ワシントンDC、ブラジル・サンパウロ、南アメリカ・
ザンビア、モンゴル・ウランバートル、韓国・安城市、アメリカ・サンフランシスコ、ネパール・カトマンズ、カナダ・
ビクトリア、オーストラリア・アデレード&ゴールドコースト、中国・大連、ドイツ・ドレスデン&フュッセン、ニュ
ージーランド・ロトルア&オークランド、台湾・高尾、ハワイなどなど、これに国内各地での植樹やチャリティコンサ
ートなど毎年数多くの行事をやってこられたようです。驚くべき事は、海外訪問に毎回数十人の団員が同行され親善と
交流を深めてこられたというお話でした。
お話のなかで感心させられる事は多々ありましたが、中でもモンゴルの見渡すかぎりの大草原の中で何処までも続く
地平線と澄み渡った夜空に浮かぶ満天の星、それを眺める為に一晩中寝袋の中で星空を見つめていたとか、折角植えた
苗木が寒さのために枯れて仕舞い植樹しなおしたとか、インターネットのお蔭で数年後の桜の開花状況を現地の方が写
真で送ってくれており助かっているということでした。
約一時間の講演があっという間に過ぎ、岐阜さくらの会の活動の充実ぶりと多彩な国際交流、川島会長が岐阜さくら
の会に賭ける情熱とご尽力の一端を窺がい知ることが出来ました。
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☆記念写真撮影☆
これまでの総会で記念写真を撮影した事は、予算の関係もあって殆んど無かったが、素人写真で何とかならないかと
トライしたところマズマズの出来だったので出席した皆さんにはお送りしたが、ただ残念なことに撮影者が素人だった
ため何人かの方の顔が隠れてしまっていた。撮影する時にくれぐれも前の人と人の間に立つように注意を喚起していた
がこうなってしまった。これが素人写真たる所以でしょうか。一度には撮影できないので 2 組に分けて撮影した。
1 組(A テーブルから E テーブルまで)
2 組(E テーブルから K テーブルまで、ただし来賓、支部長等の役員は両方共に入った)
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☆懇親会☆
午後 6 時ころに懇親会を始める予定だったが、記念写真などを入れ込んだこともあって開始時刻が 30 分以上ずれ込
んで皆さんに迷惑をかけましたが、来賓に中條学員会副会長、串田名古屋支部幹事長に加えて、大学本部から川野正一
125 周年記念プロジェクト推進本部事務局部長、藤森隆生学員会滋賀支部長、父母連絡会岐阜県支部の林寿文支部長、
山村聡副支部長の 6 名をお迎えして総勢 94 名で盛大に開催する事ができました。
左:川野正一 125 周年事務局部長
中:藤森隆生滋賀支部長
右:林寿文父母連絡会支部長
懇親会は例年通り田中支
部長の挨拶から始まり、来
賓の方々のご祝辞、乾杯と
和気藹々のうちに進みまし
た。大学の川野正一部長(中
山常任理事の代理)からは
大学の現況と125 周年募金
の状況のお話があり、岐阜
県支部としては目標達成に
後一歩と順調にご協力いた
だいておりますが、さらに
一層の募金の協力依頼があ
りました。また今回初めて
ご来賓としてお迎えしまし
た滋賀支部の藤森支部長様からは隣
県の誼として今後とも大いに交流し
ていきたいのでよろしくということ
と大学の発展に学員会としてもお互
いに協力していこうというお話があ
りました。林寿文父母連絡会岐阜県
支部長様のご発声で乾杯をしたあと、
テーブルごとの懇談と料理やお酒を
楽しみました
座席は以前から指定席でしたが、
今回から老壮青が大いに交流できる
ように、各テーブルに支部長、地域・
職域の各白門会長を最低 1 名ずつ配
するとともにテーブルごとの名簿を
作成しましたのでそれなりの効果が
あったのではないかと思われます。
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●お楽しみ抽選会
宴会がたけなわとなった頃、恒例のお楽しみ抽選会が始まりました。賞品は、支部長賞(A賞・デジタルフォトフレ
ーム、B賞・モーツアルトCD40 枚セット)
、岐阜白門会林会長賞(ソイジョイ 80+賢者の食卓)
、西濃白門会西脇会
長賞(フレッシュクールクッション)
、西濃白門会三輪副会長賞(清酒白川郷 720ml)
、中濃白門会青山会長賞(会長
手作り有機栽培コシヒカリ 5kg)
、飛騨白門会梶井会長賞(民芸品さるぼぼ)
、東濃白門会山内会長賞(観葉植物)
、各
務原白門会榎本会長賞(各務原百十郎桜はちみつ)など総計 31 本が提供者による厳正な抽籤で当りました。
惜しくも外れた方には、参加
賞として家庭で喜ばれる冷凍や
電子レンジでも使えるワンタッ
チオープンストッカー6 個セッ
トが配られました。
抽選会が終わるころには 8 時
近くになり、恒例の校歌、応援
歌、惜別の歌を合唱する事にな
ったが、今年は東濃白門会から
参加の纐纈満さん(恵那市議会
議員)が見事なエールを切って
くれましたので会場が一層沸き
ました。ところで皆にお配りし
た歌詞カードの「惜別の歌」に
四番の歌詞が付いていたので一
頻り話題になり、この歌に四番
があるなんて知らなかったとか、
作詞者がかの有名な島崎藤村で
あることは知っていても、作曲
者が誰だとか、はたまたなぜこの曲が中大の愛唱歌となったのかということが話題になった。作曲者は中大OBの藤江
英輔氏であること、どういう経緯でこの曲ができたのかを知る人が少ないので、惜別の歌の由来を別紙に添付すること
にしました。
(10 ページに掲載してあります。
)
プロの司会者・前田幸子さんの司会で順調に懇親会は進み午後 8 時過ぎ盛会裏にお開きとなりました。名残は尽きま
せんが、来年もまた再会できることを期して三々五々会場を後にしたのですが、抽選会の景品を大事に抱えながら二次
会に出掛けた人もいたようです。なお、当日会場で 125 周年協賛募金のお願いをしたところ数名の方が快く応じて下さ
いました。有難うございました。
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☆ 抽選会風景☆
田中支部長から支部長賞を笑顔で受け取る升谷昇時事通
各務原の百十郎桜から採蜜した蜂蜜を手渡す榎本副支部長
信社岐阜支局長
林副支部長賞を受取る山田賢治さん(この日の最高齢者)
当選者の榎本さんに賞品の観葉植物を手渡す提供者の山内副支部
長
☆懇親会風景☆
自ら育てた有機栽培のコシヒカリ 5kg の抽籤を行う青山副支部長
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●フィナーレ
フィナーレは、纐纈
満恵那市議会議員
のエールで始まり、
校歌、応援歌、惜別
の歌の合唱と続き、
平塚幹事長の音頭
で万歳三唱、さらに
は西脇副支部長の
閉会の辞で懇親会
の幕を閉じました。
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西脇副支部長の閉会の辞で盛会裏に総会懇親会も幕を閉じました。
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■講師紹介 川島 和男 先生 (中央大学学員会岐阜県支部所属)
・
昭和 36 年 岐阜農林高等学校卒業
・
昭和 46 年 中央大学法学部通信課程終了
・
平成 21 年 第 59 回岐阜新聞大賞受賞
・
現職
弁護士、川島和男法律事務所所長
岐阜さくらの会 会長
㈱トーカイ 監査役
岐阜地方最低賃金審議会 会長
岐阜市芸術文化振興協議会 委員長
ほか
輝く功績 第59回岐阜新聞大賞受賞者
社会事業部門 川島 和男氏(岐阜さくらの会会長)
世界18カ国に桜植樹
「“広 げよう桜 の輪 ”と声 を上 げ、サクラを植 え続 けて15年 。日 本 を含 め世 界 各 地 で花 を
咲 かせるサクラたちは、まるでわが子 のようです」と語 る弁 護 士 で「岐 阜 さくらの会 」の川
島 和 男 会 長 。サクラの植 樹 を通 じて地 域 交 流 、国 際 交 流 を深 めようと同 会 は歩 みを続 け
る。
同 会 は、映 画 「さくら」で、サクラの植 樹 に生 涯 をささげた旧 国 鉄 バス車 掌 の故 佐 藤 良
二 さんを描 いた神 山 征 二 郎 監 督 を手 助 けする形 で、1993(平 成 5)年 に結 成 された。
川 島 会 長 は神 山 監 督 の幼 友 達 でもあり、同 会 ではこの映 画 の成 功 後 も、佐 藤 さんの
遺 志 を継 ぎ、県 内 を中 心 に国 内 各 地 に植 樹 。さらに中 国 ・杭 州 市 やオーストリア・ウィー
国内のみならず世界各地でサクラ
ン市 など世 界 18カ国 28都 市 にサクラを植 え、その数 は1万 5000本 余 に上 る。
の植樹を続ける岐阜さくらの会の川
島和男会長=岐阜市内
植 樹 費 用 は大 きく、会 発 足 当 初 は資 金 繰 りも困 難 を極 めたが、チャリティーイベントなど
で資 金 をこつこつと集 めた。また、当 初 は川 島 会 長 の知 り合 いらで立 ち上 げた同 会 も、今 では県 内 外 の個 人 、法 人 合 わせて
約 550会 員 以 上 が参 加 する大 規 模 な団 体 となり、経 済 的 にも安 定 した。「これだけ大 きくなるとは思 わなかった。会 員 が誘 い
合 って協 力 してくれたおかげ」と振 り返 る。
川 島 会 長 のファイルには、同 会 が植 樹 してきたサクラの写 真 が何 枚 もとじてある。植 樹 した世 界 各 地 から手 紙 と一 緒 に届
いた写 真 も多 いという。「植 樹 することで環 境 保 全 にも貢 献 でき、何 より日 本 と世 界 が交 流 を深 めることができる」と活 動 の意
義 を語 る。
「今 後 も会 員 を増 やし、次 世 代 に活 動 をつなげていきたい」と、川 島 会 長 はさらなる意 欲 を示 す。今 年 はハワイ・オアフ島
に35本 、岐 阜 市 でも市 制 120周 年 を記 念 して植 樹 を行 う予 定 。佐 藤 さんは志 半 ばでこの世 を去 ったが、その思 いは同 会 に
脈 々と受 け継 がれている。
【岐 阜 さくらの会 】 1993(平 成 5)年 に発 足 、国 内 外 でサクラを植 樹 活 動 を始 める。98年 に外 務 相 から感 謝 状 を授 与 された
ほか、岐 阜 市 の姉 妹 都 市 、アメリカ・シンシナティ市 に植 樹 したことから99年 に全 米 姉 妹 都 市 委 員 会 から特 別 賞 を受 賞 。翌
年 には岐 阜 市 政 栄 誉 賞 「市 政 功 労 賞 」受 賞 するなど、各 方 面 から多 くの賞 を受 けている。事 務 局 は岐 阜 市 常 盤 町 の川 島 和
男法律事務所内。
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時代に、いかなる環境の中で作曲をしたか、それを語るこ
とはやがて「惜別の歌」の由来を語ることになる。ではそれ
を述べよう。
「 惜 別 の 歌 」 の 由 来
元商学部教授 猪間 駿一
この歌は、諸君のみならず、世聞の若い人たちのあい
だでも、広く歌われるようになっているが、その作曲が諸
君の先輩の手に成ることも諸君は知っておられるだろう。
作曲者は藤江英輔君といい、昭和十九年に大学の旧制
予科に入学、二十五年に法学部を卒業し、新潮社に入社、
今は「週刊新潮」の政治記事を担当して活躍している方で
ある。歌は御承知の通り
この第四節を歌ってこそ、惜別の歌は、たとえ男子の別
れにはいささかどうかと思われる点があるにせよ、首尾完
結した一篇の詩になる。どうしたことかこれが削られたのは、
私も藤江君と共にまことに遺憾とするものであって、語君
はどうかこの第四節の復活を図っていただきたい。
諸君、今日は十二月一日である。諸君にはあるいはこ
れが歳末の一日だというほかに何の興味もない日である
かも知れない。せいぜい自民党大会で総裁選挙が行わ
れるというのがこの日の第一の関心事であろう。だが私の
ように戦争の経験を経てきた者には、他に深刻な追憶をこ
の日にもち、そうした人々は国民の中になお少なからずあ
ることを記憶されたい。二十三年前の今月今日、氷雨降る
代々木原頭に、学徒出陣ということが行われた。危急を告
げる広大な戦線の配備につくべく、何万の学生はペンを
棄てノートを棄て、教室を去ってこの日戦場に向かった。
その学生たちの何千かは、それきり再びこの国へは帰ら
なかった。それらの中には、諸君の先輩たる中央大学生
も数知れず含まれていた。話はこういう時代を背景にして
のことであることを、諸君はまず以って御承知願いたい。
藤江君が入学したのは学徒出陣の始まった翌年であっ
て、彼は徴兵官の錯誤から出陣ということはしなかった。し
かし教室で授業を受けるという訳には行かず、動員を受け
て板橋の造兵廠へ行って労働に従事することになった。
ほかの大学からも、専門学校からも、中学校からも無数の
学生生徒がそこに集まって、激しい勤務に服していたの
である。青春を調歌すべき年齢期の人たちが、そのように
殺人用具をつくることに月日を徒費していたことを思うと、
いたましいとも何とも言いようがない。かかることは再びあ
ってはならない。しかし歴史を見る場合には、今の判断を
直ちに過去にあてはめるのは誤りである。歴史は当時の
人々の一般的心理に同調し得る余裕を以って対さねばな
らない。藤江君の語るところでは、このような状態ででも、
心は結構楽しかったそうである。苦しい自分の労働が、国
家の安危につながると思う時、旋盤に向かう全身の力は
倍加し、これこそは生き甲斐と感じたという。それに工場動
員の中には女子学生も多数にまじっていた。戦前は男女
の青年が同じ場所に立ちまじるということは今とはちがっ
て、社会的に禁制であった。それなのにこの殺風景な兵
器工場でかえって禁制が解かれるということは、これは私
の推察であるが、男女ともにほのかな喜びであったに違い
ないと思う。私はいかなる抑圧の下にあっても、青春の芽
生えは健やかに育つことを信ずる。
しかしこの歌詞の内容となると、疑問をいだかれる人も
あるかも知れない。君を送るために一枝の花をあげたいが、
冬の日でそれすらもない、と言っているのは、少しオーヴ
ァーじゃないか。冬だって花屋へ行けば、菊でもカーネー
シヨンでもいっぱいあるじゃないか、と今の学生諸君なら
言うであろうからだ。けれども私は、それはいけないと言う。
この歌を歌う時には、やはりこの作曲がなされた時代に即
して歌を味わわねばならないのである。藤江君がいかなる
しかしそうした苦しさの中の楽しさ、陰惨さの中の陽気さ
のただよう中にも、一瞬、全工場がシーンとなる時があっ
た。それは誰かに赤紙が来たと伝えられる時である。戦線
への召集令状が赤紙である。
その来かたがだんだん頻繁になってきたある日、藤江
君は今のお茶の水女子大、当時の東京女高師の女子学
生から「この詩を御存じ」といわれて、藤村の「高楼」を見
せられた。藤江君はヴァイオリンを弾いたりもする。「高楼」
(一) 遠き別れに堪えかねて この高殿に登るかな
悲しむなかれわが友よ 旅の衣をととのえよ
(二) 別れといえば昔より この人の世の常なるを
流るる水をながむれば 夢はずかしき涙かな
(三) 君がさやけき目の色も 君くれないの唇も
君がみどりの黒髪も またいつか見んこの別れ
というのであるが、これを聞いて、別れの歌としても男子青
年の歌ではないと思わない人、最後が完結していない尻
切れトンボだと思わない人は、鈍感といわねばならない。
まったくそうであって、この歌は本来嫁入りのため遠く旅立
つ姉とそれ送る妹とのあいだの別れの歌であり、第四節が
あるのを、藤江君の意思に反してチョン切られているので
ある。
藤江君はこの歌詞を島崎藤村の明治三十年に出した
処女詩集「若菜集」の中の「高楼」という長い詩からとった。
この詩はいま申したように姉と妹との対話になっていて、
その中で妹が「わが姉よ」という箇所を、藤江君が「わが友
よ」となおしたのである。そしてチョン切られた第四節という
のは、次のような詩句だ。
(四) 君のゆくべき山川は 落つる涙にみえわかず
柚のしぐれの冬の日に 君に贈らん花もがな
10
の詩を見て、これに譜をつけようと思ってとりかかり、出来
たのが惜別の歌」の作曲なのである。
こうして出来た「惜別の歌」に発表会の何のという時代
ではない。藤江君が働きながら小声に口ずさむ。隣の友
だちが聞きつけて教えろという。その人が歌うとまた隣で
教えろだ。こういう風にして歌はたちまち工場内にひろまり、
やがて戦争がすんで、動員された学生生徒が学校へ帰る
と、その学校の中で歌われるようになり、中央大学でもグリ
ーンクラブが譜をアレンジして「惜別の歌」という名を正式
にきめるようになったのである。世間へ広まったのは、それ
から後で、新宿に歌声喫茶というのが出来て、ここで毎晩
大声に歌われたらしい。それをみてコロムビアが何とかい
う有名女優と離婚した流行歌手小林旭(笑声)に吹きこま
せたレコードが大当たりに当たって、広く歌われるようにな
ったのである。
しかし、戦時中は、この歌は藤江君たちが働く軍需工
場での赤紙応召者を、同じく勤労動員された学生同僚が
送り出す時のお別れの合唱歌になっていた。その時に、
見送られる人に対する餞として、一体何があったろうか。
日の丸に「武運長久」と書いて、みんなで署名する。その
国旗一枚以外に何もありはしなかったのだ。削られた第四
節“君に贈らん花もがな”の一句は、まことにその時の諸
君の先輩の哀情をうたったものなのである。そして「惜別
の歌」というが、この惜別は単なる別れの名残り惜しさでは
なかったのだ。いま別れれば再びこの世では相見ることか
なわぬという永遠の別れの情をこめての惜別であった。い
ま諸君がこの歌を歌われるには、そこまで考えることはな
いし、出来もしない。単なる惜別に歌っても少しも差し支え
はないが、時にはこの歌が初めて歌われた頃のことを偲
んでいただきたい。
たしましたが、戦後 50 年にあたり、更に多くの学員の皆様
にご紹介するものです。)
2.「学員会大阪支部名簿巻末」より転載。
惜 別 の 歌
(一)
島崎
藤江
遠き別れに堪えかねて
この高殿に登るかな
悲しむなかれわが友よ
旅の衣をととのえよ
(二)
別れといえば昔より
この人の世の常なるを
流るる水をながむれば
夢はずかしき涙かな
(三)
君がさやけき目の色も
君くれないの唇も
君がみどりの黒髪も
またいつか見んこの別れ
(四) 君のゆくべき山川は
落つる涙にみえわかず
柚のしぐれの冬の日に
君に贈らん花もがな
私は先年大学からヨーロツパヘやっていただいた。そ
の際ウィーン大学へ行ったが、そこの玄関には女神の首
の像があり、台座の正面には「栄誉、自由、祖国」右側に
は「わが大学の倒れし英雄をたたえて」左側には「ドイツ学
生団及びその教師これを建つ」と彫られてあった。転じて
ハイデルベルグ大学へ行くと、そのメンザ(学生食堂)の戸
口の上には「喜びのつどいにありても、うたげの装いに輝
く広間にありても、汝らのために倒れたる英雄を思え。幸
福の中にありて、辛酸のかつての年を忘るな。汝らのため
に死せる者はなお生きてありと思え」と書かれてあった。中
央大学にはそういう像もなく碑銘もない。しかしこの「惜別
の歌」があ.る。これを歌われて戦いに赴いて、倒れた英雄
はわが大学にも少なくはなかったのだ。今日のわれわれ
の繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。
(注)
1.故猪間教授の定年退官記念講義(昭和41年12月1
日)よりの抜翠 (平成元年の大阪支部名簿巻末に掲載し
11
藤村
英輔
作詞
作曲