ヘロデ王

ヘロデ王
ヘロデ(ヘブライ語: ‫、הורדוס‬英語: Herod、紀元前 73 年頃 - 紀元前 4 か 1 年)は、共和政ローマ末期から
ローマ帝国初期にユダヤ地区を統治した王(在位:紀元前 37 年 - 紀元前 4 年)である。ハスモン朝に代わっ
てヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築して統治した。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残
した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる。
古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノ
ス 2 世の側近にイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロスという武将がいた(イドマヤはハ
スモン朝によってユダヤ教化させられた土地であり、ユダヤ人からは軽視されていた、と書かれている)。ヘロ
デはこのアンティパトロスの息子である。父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することで
ユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功した。
カエサルの暗殺後、父アンティパトロスはローマ東方へ勢力を拡大したガイウス・カッシウス・ロンギヌスらの
リベラトレス側へ味方した。ヘロデはガリラヤ地方の知事として統治した。紀元前 43 年に父がマリコスという
ユダヤ人に毒殺されると、即座に彼を捕らえて処刑した。ヘロデの専制的なやり方はユダヤ人最高法院の反感を
招くものであった。紀元前 42 年のフィリッピの戦いではリベラトレス側を支援したが、戦闘はリベラトレス側
の敗退に終わり、ヘロデは三頭政治側のマルクス・アントニウスへ帰順した。
ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。政教一致政権であるハスモン朝において大祭司でもあった
ヒルカノスの甥アンティゴノスがパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。エルサレムにいたヘ
ロデの兄ファサエロスも捕らえられて殺害された。ヘロデはヒルカノス 2 世の孫娘であるマリアムネ 1 世を妻
としてハスモン朝との関係を作っていたが親ローマであったため身に危険がおよび、ガリラヤから当時クレオパ
トラのもとにいたマルクス・アントニウスの援助を求めてアレクサンドリアへ逃れ、そこからローマに渡った。
ヘロデはローマにおいて元老院にアピール、父の代から続くローマへの忠誠を評価されてローマの軍勢を貸与さ
れ、エルサレムへ向かった。エルサレムはローマ軍の精鋭の前にあえなく陥落。紀元前 37 年、ヘロデはついに
ローマ皇帝に従属することを約束して、ユダヤの分封王となることができた(ヘロデ朝の成立)。
紀元前 31 年のアクティウムの海戦でアントニウス派に味方したがオクタウィアヌス派に敗北を喫した。戦後、
ヘロデはオクタウィアヌスへ帰順した。ヘロデはローマの指導層との友好関係こそが自らの政権の唯一の基盤で
あることを熟知していたのである。王位についたヘロデが徹底したことは前政権ハスモン朝の血をひくものをす
べて抹殺することであった。紀元前 37 年に最後のハスモン王アンティゴノスをローマ人によって処刑させた。
そして、ヘロデは、紀元前 34 年頃妻マリアムネの弟アリストブロスを暗殺し、紀元前 29 年に妻マリアムネを
処刑し、紀元前 28 年に彼女の母であるアレクサンドラを処刑し、BC7 年にマリアムネとの間に生まれた自分
の二人の王子アリストブロスとアレクサンドロスを処刑した。また自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導
層最高法院の指導的なレビ族の祭司たちを迷わず処刑している。これ以降最高法院の影響力は弱まり、宗教的な
問題のみを裁くようになる。
ヘロデは都市計画において業績を残した。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグスト
ゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカ
イロスなどはすべてヘロデの時代につくられた計画都市である。それだけでなくヘレニズム君主としてパレステ
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ィナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供している。この行為はギリシャ系住民の間
でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになった。
しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのはソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大
改築であった。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ
人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。
ヘロデ大王の最晩年は後継者問題が彼の頭を悩ませた。また、エルサレム神殿に金の鷲をすえようとしたため、
ユダヤ教指導層と対立することになった。紀元前 4 年、死去。
ヘロデの死後、遺言に従って息子のヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリッポスおよびヘロデ・アンティパス
の三人の兄弟たちが後を継いだ。ユダヤ人たちはローマに使者を派遣して、ヘロデ朝の支配を廃してくれるよう
要請したが、聞き入れられなかった。しかし、父ヘロデ同様に王を名乗ることをアルケラオスが申し出たが許さ
れなかった。後にアルケラオスは失政を重ねたため、住民によってローマに訴えられ、解任されてガリアへ追放
された。その後のユダヤはローマ帝国の直轄領となった。他の兄弟たちも父のように王を名乗ることは許されな
かったが、分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認められた。
パルティア
アルサケス朝(古典ギリシア語)、アルシャク朝(中世ペルシア語:‫انیاﺷ ﮑﺎن‬, Ashkâniân)とも呼ばれ、中国
史書では安息と音訳された。中世ペルシア語名「アルシャク」は古代ペルシア語形ではアルタクシャサで、アケ
メネス朝のアルタクシャサ王(古典ギリシア語形:アルタクセルクセス)に相当する名前である。パルテヤとも
表記される[1]。
古典ギリシア語ないしラテン語である「パルティア」は元々、パルティア王国の故地である東北イランのパルサ
ワ(古代ペルシア語:Parthava)を転写した地名でしかないが、王国の領域は現在でいうアルメニア、イラク、
グルジア、トルコ東部、シリア東部、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタン、クウェ
ート、サウジアラビアのペルシャ湾岸部、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦の領域にまで拡大した。
最も初期の都はミトラダトケルタ、次いでカスピ海南岸のヘカトンピュロス、更に遷都してバビロニアのクテシ
フォン(現在のイラク)。また、歴代のパルティア王は「アルサケス」という称号を継承しており、もともと初
代王の個人名であったものが、後にパルティアの君主号として定着した[2]。これはちょうどローマ帝国の「アウ
グストゥス」や「カエサル」に類似している。
バビロニアとの関係
紀元前 3 世紀中頃にはセレウコス朝の支配力が衰え、紀元前 250 年頃にその支配下からバクトリアが独立した。これと
ほぼ同時にパルティア地方とヒルカニア地方では現地の総督アンドラゴラスがセレウコス朝より独立していたが、パルニ
氏族を中心とした遊牧民勢力が、アルサケス 1 世(前 247 年頃 - 前 211 年頃)と弟のティリダテス 1 世を指導者としてア
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ンドラゴラスの勢力を放逐して周辺一帯の支配権を得た。この年代はおおよそ紀元前 247 年ごろと推定されている[3]。ア
ルサケス 1 世とティリダテス 1 世の関係には様々な説がある(それぞれの項目を参照)。
以降、パルティア地方に定着した彼らは「パルティア人」と呼ばれるようになる。アルサケス 1 世とティリダテス 1 世による
征服以前から「パルティア」という地名は存在したが、その時代の「パルティア人」と一般的に知られている「パルティア
人」は同一ではない。
アルサケス 1 世らは、初めニサ(現在のアシガバート近郊、ミトラダトケルタだとする説が有力)を根拠地としていたが、ヒ
ルカニア地方(カスピ南東部)に進出し、ヘカトンピュロスを首都とした。その後、長くパルティアにとってヒルカニア地方が
本拠地となった。同じくセレウコス朝より独立したバクトリアのディオドトス 2 世とは紀元前 228 年頃に同盟を結び東方を
固めた。しかし、セレウコス朝シリアのセレウコス 2 世の遠征に遭い、アルサケス 1 世は一度はサカの地に避難したもの
の、セレウコス 2 世がシリアで没する(紀元前 226 年)と再び帰還した。その後は町の建設を行い、国固めを行った。 ア
ルサケス 1 世の死後、歴代の王は全て王の称号として「アルサケス(アルシャク)」を用いるようになった。
王位を継いだアルサケス 2 世(在位:前 211 年頃 - 前 191 年)の時代にはメディアのエクバタナを占領したが、セレウコ
ス朝のアンティオコス 3 世の東方遠征によってにエクバタナを奪還される。さらにアナーヒター神殿の財宝を奪われ、最
終的には本拠地のヘカトンピュロスにまで進軍されたため、セレウコス朝の優位を認め「同盟者」となった。
次の王フリアパティウス(在位:前 191 年 - 前 176 年)からはティリダテス 1 世の子孫が王位を継いでいくことになる。彼
の時代の前 189 年、セレウコス朝のアンティオコス 3 世がローマとの戦いに敗れ、この直後に再びセレウコス朝の勢力下
から離脱した。フラーテス 1 世(在位前 176 年 - 前 171 年)の時代にはエルブールズ山脈へ進出。さらにマーザンダラ
ーン(カスピ海南岸)を征圧し、メディア侵出の足がかりを得た。
総じてこの時代のパルティアは中央アジアに近い地域の一角を占める地方勢力でしかなく、古代の記録者達も彼らに対
して格段の興味を示してはいなかった。しかし、やがてパルティアはイラン世界の覇を唱える勢力に成長していくことにな
る。
中間時代
ミトラダテス 1 世(在位:前 171 年 - 前 138 年)の治世にはパルティアは飛躍的な拡大を遂げた。まずエウクラティデス王
が率いるバクトリアに東征して 2 州を奪い、西方では長期に渡る戦いの末、紀元前 148 年または紀元前 147 年にはメデ
ィア地方をその支配下に置いた。これによってセレウコス朝の中核地帯であるバビロニアへの拡大が視野に入ることとな
った。
セレウコス朝の内乱も手伝ってバビロニア方面への侵攻は大成功に終わり、前 141 年までにはバビロニアの中心都市セ
レウキアを陥落させ、翌年にはスシアナの中心都市スサも陥落、エリマイス王国もその影響下に置いた。
しかし、このミトラダテス 1 世の征服活動の結果、パルティアの支配地域には多数の異民族集団が内包されることになっ
た。ミトラダテス 1 世以降のパルティア王達は異民族の統治に非常に気を使ったが、パルティアの支配を忌避し反パルテ
ィアの政治傾向を長く持ち続ける集団も存在した。
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ミトラダテス 1 世は北西インドのサカ人が本拠地のヒルカニアに侵入したと言う報せを受けて、ヒルカニアへ出向いた。そ
の間にセレウコス朝のデメトリオス 2 世はエリマイス、ペルシス(ペルシア湾北岸)、バクトリアと協力し、バビロニアで挙兵
した。しかし、王の留守を預かったパルティアの将軍たちはこの軍を打ち破ってデメトリオス 2 世を捕虜とした。この時セレ
ウコス朝に味方をしたエリマイスの都市アルテミスには制裁として略奪が行われた。
ミトラデタス 1 世はその後インド北西部を征服し、王はバシレオス・メガロス(大王)を名乗った。フラーテス 2 世(在位:前
138 年 - 前 128 年)は初め幼少であったため、 母リインヌが摂政となった。
彼の治世に捕虜であったセレウコス朝のデメトリオス 2 世の弟であるアンティオコス 7 世が、失地奪還のために兵を起し
た。デメトリオス 2 世の侵入時と同じく、パルティア領内の旧支配層はセレウコス朝の「マケドニア人王」の到来を歓迎し、
この軍に参入していった。こうしてまずメディア地方が、紀元前 130 年にはバビロニア一帯が占領された。このとき和平交
渉により、フラーテス 2 世はデメトリオス 2 世を返還した。アンティオコス 7 世は更に東方へと向かったが、現地住民に圧
力をかけ不評だったため、住民は重圧に抵抗する態度を見せ始めた。パルティア側は市民蜂起の工作を行い、蜂起軍
にパルティア軍を参加させ、蜂起を盛り上げた。前 129 年にアンティオコス 7 世は反乱鎮圧中に戦没した。アンティオコス
7 世の子は捕虜となり、パルティアで丁重に扱われた。また、同年アラブ人ヒスパネシオスによってメソポタミア南部にカ
ラケネ王国が建てられ、一時バビロンとセレウキアを奪われた。フラーテス 2 世は勢いに乗じて、シリア侵攻を計画したが、
傭兵として雇っていたサカ人やバビロニアのギリシア人捕虜が反乱を起こし、紀元前 128 年、フラーテス 2 世は戦死した。
続くアルタバヌス 1 世(在位:前 128 年 - 前 123 年)は、即位後、遊牧民であるトハラ人に悩まされた。トハラはアムダリ
ヤ川の北を本拠とし、アルタバヌス 1 世はトハラ人との戦闘において腕に毒矢を受けて戦没した。この結果サカ人はドラ
ンギアナ北方(現在のアフガニスタン、ヘラート市近辺)に移住し、この一帯はサカスタンと呼ばれるようになった。
ミトラダテス 2 世(在位:前 123 年頃 - 前 87 年頃)の時代にはサカ人の圧力をかわすことに成功し、西ではセレウコス朝
を攻めてメソポタミア北部を制圧。さらにカラケネ王国および小アジアのアルメニア王国を服属させた。都をクテシフォン
に移し、この時代には再びメソポタミアからインダス川までを支配する大国となり、ミトラダテス 2 世はイラン地方の覇者の
称号である「バシレウス・バシレイオン」(諸王の王)を名乗るようになった。この時代がパルティアの最盛期と評される。
前 92 年にはローマと会談し、初めての接触を持っている。
ヘロデ王との関係
ミトラダテス 2 世の後、王位継承を巡って内紛が勃発し、更にローマからの侵攻を幾度となく受けることになる。前 63 年に
はセレウコス朝がローマのポンペイウスにより滅亡し、パルティアもローマと直接向き合うこととなった。この時期は政治
混乱のために記録が少なく、パルティアの内情は不明な点が多い。
紀元前 1 世紀半ばにはオロデス 2 世とミトラダテス 3 世との間で王位継承の戦いが行われたが、敗れたミトラダテス 3 世
はローマ領へ逃れその支援を受けた。結局ミトラダテス 3 世は敗死するが、前 53 年にはローマ軍が自らパルティアに侵
入した。この戦争ではカルラエ市近郊で行われた戦いでローマ将軍のクラッスス親子を戦死させ、パルティアが勝利を収
めた(カルラエの戦いあるいは第 1 回パルティア戦争)。
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前 44 年にローマのカエサルがパルティア侵攻の準備中に暗殺される。その後の内紛に乗じてオロデス 2 世は前 40 年に
ローマに侵攻してシリアを奪った。しかし翌年からの第 2 回パルティア戦争でシリアを奪還され、戦闘を指揮していたパコ
ルス 1 世は戦死する。
後を継いだフラーテス 4 世は、その治世の前 36 年にアントニウス率いるローマ軍の大挙侵入を受けたが、これを撃退し
た。前 31 年にティリダテス 2 世による反乱が起こり、王は一時スキタイ方面に避難した。スキタイ人の力を借りたフラーテ
ス 4 世はティリダテス 2 世を追い出したが、その後も内紛は続いた。
フラーテス 4 世を暗殺したフラーテス 5 世以降、王位継承を巡る争いは更に深刻なものとなった。最終的にローマ帰りの
王ヴォノネス 1 世の即位を見るが、彼の親ローマ政策は国内の大きな反発を買い、アルタバヌス 2 世が敵対者によって
擁立された。
アルタバヌス 2 世はヴォノネス 1 世に対する勝利を収めた後、アルメニアの王位継承に介入しこれを支配下に置こうとし
たため、帝政となったローマ帝国と第 3 回パルティア戦争を引き起こした。その後もアルメニアの帰属を巡って両国の関
係は紛糾し続けた。パルティアがアルメニアへ対して軍を派遣しようとした所、36 年にローマの手引きによりアラン人の
侵入を受け、同年に和平を結んだ。その後、アルタバヌス 2 世は貴族たちの不満から退位させられ、一旦はキンナムス
が後を擁立されるが、すぐに退位してアルタバヌス 2 世が復位する。なお現アフガニスタン、パキスタン方面を支配してい
たスーレーン氏族のゴンドファルネスは 20 年頃に分離独立してインド・パルティア王国を建てた。
アルタバヌス 2 世は復位後すぐに死去し、再び内紛が起こった。最終的にゴタルゼス 2 世が勝利して、51 年にその後を
ヴォロガゼス 1 世が継いだ。53 年、ヴォロガセス 1 世は再びアルメニアを占領するが、58 年にコルブロ率いるローマ軍に
奪い返され、63 年にネロ帝との間に和議を結んだ。
その後、しばらくはローマとの間は小康状態となり、その代わりにアラン人対策に追われることになる。ヴォロガゼスはア
ラン人討伐のため、ローマに援軍を依頼するが不調に終わった。
参考資料:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2 Parthia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%87%E5%A4%A7%E7%8E%8B Herod
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