日露戦争・・ルーズベルト大統領を日本びいきにした金子堅太郎

2006年
2006年8月
世界が
世界が尊敬した
尊敬した日本人
した日本人(
日本人(13)
日露戦争・・
日露戦争・・ルーズベルト
・・ルーズベルト大統領
ルーズベルト大統領を
大統領を日本びいきにした
日本びいきにした金子堅太郎
びいきにした金子堅太郎
前坂 俊之(
俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
静岡県立大学国際関係学部教授)
明治三十七 (1904
(1904年
1904年)二月四日夕、
二月四日夕、日露戦争の
日露戦争の開戦を
開戦を決定した
決定した御前会議
した御前会議を
御前会議を終えた
伊藤博文(
当時・
伊藤博文
(当時
・ 枢密院議長)
枢密院議長) は、官邸に
官邸に帰ると、
ると 、すぐ電話
すぐ電話で
電話で腹心の
腹心の金子堅太郎(
金子堅太郎(前
農商務大臣、
族院議員)
んだ。
農商務大臣
、貴族院議員
)を呼んだ
。
伊藤は
伊藤は「ついに開戦
ついに開戦が
開戦が決まった。
まった。戦争は
戦争は何年続くかわからない
何年続くかわからない。
くかわからない。私も鉄砲かついで
鉄砲かついでロ
かついでロ
シア兵
覚悟だ
ちにアメリカ
アメリカにとび
にとび、
シア
兵と戦う覚悟
だ。君は直 ちに
アメリカ
にとび
、親友の
親友のルーズベルト大統領
ルーズベルト大統領に
大統領 に和平
調停に
すよう説得
説得してもらいたい
してもらいたい」
げた。
調停
に乗り出すよう
説得
してもらいたい
」と告げた
。
金子はこの
金子はこの時
はこの時51歳
51歳。
旧福岡藩士で
旧福岡藩士で明治 4 年、岩倉遺外使節団で
岩倉遺外使節団で渡米し
渡米し、11
ハーバード大学法科大学
大学法科大学を
卒業、
セオドア・
年にハーバード
大学法科大学
を卒業
、セオドア
・ルーズベル
米大統領(
1901―
1909)
とは同窓生
同窓生で
ト米大統領
(在任 1901
―1909
)とは
同窓生
で、以来二十
数年、
交友を
めていた仲
であった。
電話王・
ベルとも
とも友
数年
、交友
を深めていた
仲であった
。電話王
・ベル
とも
友
日本きっての
きってのアメリカ
アメリカ通
であった。
人で、日本
きっての
アメリカ
通であった
。
「米国の
米国の友好的な
友好的な対日世論を
対日世論を形成せよ
形成せよ」
せよ」の密命を
密命を帯びた金子
びた金子は
金子は 3 月 26 日、ホワイトハウスに
ホワイトハウスに大統
領を訪ねた。
ねた。
数十人の
数十人の客が待っていたが、
っていたが、大統領は
大統領は自ら廊下を
廊下を走って出
って出てきて「
てきて「君はなぜ早
はなぜ早く来
なかったか。
っていたのに」
きあって大喜
大喜びし
びし、
執務室へ
れた。
なかったか
。僕は待っていたのに
」と肩を抱きあって
大喜
びし
、執務室
へ招き入れた
。
開口一番、「
開口一番、「今回
、「今回の
今回の戦争で
戦争で米国民は
米国民は日本に
日本に対して満腔
して満腔の
満腔の同情を
同情を寄せている。
せている。
軍事力を
軍事力を比較研究した
比較研究した結果
した結果、
結果、必ず日本勝が
日本勝が」と大統領が
大統領が断言したのには
断言したのには金子
したのには金子の
金子の方が
いた。
以後、
金子は
ハーバード人脈
人脈を
フルに
活用して
して、
全米を
って世論工作
世論工作、
驚いた
。以後
、金子
はハーバード
人脈
をフル
に活用
して
、全米
を回って
世論工作
、外
債募集にと
債募集にと獅子奮迅
にと獅子奮迅の
獅子奮迅の活躍が見せる。
せる。
ルーズベルト大統領
ルーズベルト 大統領も
大統領 も『 日本の
日本 の 最良の
最良 の 友 !』として
!』 として努力
として努力する
努力 する
ことを金子
金子に
約束した
した。
ことを
金子
に約束
した
。
全米での
での日露戦争
日露戦争への
への関心
関心は
金子は
政治家、
財界人、
全米
での
日露戦争
への
関心
は 高く、金子
は政治家
、財界人
、
弁護士、
大学人らの
弁護士
、大学人
らの
パーティーなどに
などに引
りだこで、
講演依頼が
殺到する
する。
パーティー
などに
引っ張りだこで
、講演依頼
が殺到
する
。
英語スピーチ
英語スピーチの
スピーチの達人の
達人の金子は
金子は大聴衆を
大聴衆を前に日本軍の
日本軍の強さ、
武士道精神を
して感銘
感銘をあたえ
をあたえ、
日本びいきを
びいきを増
やしていった。
武士道精神を説明して
説明して
感銘
をあたえ
、日本
びいきを
増やしていった
。
一方、
一方、ロシア側
ロシア側も巧妙な
巧妙な PR 戦を展開、
展開、米紙に
米紙に「日本は
日本はノミ、
ノミ、ロシアは
ロシアは親指だ
親指だ。二、三ヵ
でひとひねりにつぶす」
豪語するなど
するなど、
しい外交戦
外交戦の
火花を
らせた。
月でひとひねりにつぶす
」と豪語
するなど
、激しい
外交戦
の火花
を散らせた
。
戦争は
戦争は連戦連勝で
連戦連勝で日本側に
日本側に有利に
有利に展開した
展開した。
した。ルーズベルト大統領
ルーズベルト大統領はまるで
大統領はまるで日本
はまるで日本の
日本の
参謀役のように
のように軍事戦術
軍事戦術、
参謀役
のように
軍事戦術
、外交面で
外交面で金子に
金子 にアドバイスを
アドバイスを寄 せた。
せた。大統領と
大統領と 金子の
金子 の友
親密さを
さを示
エピソードは
奉天会戦の
大統領から
から金子
金子に
会談したいと
情、親密
さを
示すエピソード
は多い。奉天会戦
の時、大統領
から
金子
に会談
したいと
手紙があり
があり、
日本の
勝利を
最後に
万才!!』
!!』と
日本語で
大書していた
していた。
の手紙
があり
、日本
の勝利
を祝い最後
に『万才
!!』
と日本語
で大書
していた
。
日本海海戦の
日本海海戦の前、熊狩り
熊狩りハンティングに
ハンティングに行った大統領
った大統領は
大統領は大熊など
大熊など5
など5頭を射止めたが
射止めたが、
めたが、
ロシア(
大熊)
これは吉兆
吉兆だ
って喜
そのうち1
「 ロシア
(大熊
) に勝 つ、これは
吉兆
だ」と2人は手を 取り合 って
喜 び、そのうち
1頭 の
毛皮は
明治天皇に
献上した
した。
毛皮
は明治天皇
に献上
した
。
金子は
金子 は 友人として
友人として大統領
として大統領の
大統領 の 私 邸に何度も
何度 も招 かれ、
かれ 、大統領自身から
大統領自身 からベッドメーキング
からベッドメーキング
トイレの
案内までしてもらった
までしてもらった。
やトイレ
の案内
までしてもらった
。
しかし、〝
しかし、〝勝
、〝勝った、
った、勝った″
った″の日露戦争も
日露戦争も三十八年三月十日、
三十八年三月十日、奉天での
奉天での勝利
での勝利までが
勝利までが
限界。
限界
。
弾薬も
弾薬も尽き果てて、
てて、兵隊も
兵隊も金もなく、
もなく、戦争継続はもはや
戦争継続はもはや困難
はもはや困難な
困難な状況となった
状況となった。
となった。一方、
一方、ロ
シアは
強大な
兵力、
武器を
温存、
これ以上戦
以上戦えば
えば日本
日本はひとたまりもない
はひとたまりもない。
シア
は強大
な兵力
、武器
を温存
、これ
以上戦
えば
日本
はひとたまりもない
。
参謀総長・
参謀総長 ・ 山県有朋は
山県有朋 は絶対絶命の
絶対絶命 の ピンチを
ピンチ を 桂首相へ
桂首相 へ 報告し
報告 し 、ル 大統領の
大統領 の 和平調停
みを託
の 望みを
託すことになった。
すことになった。大統領はここぞと
大統領はここぞと腰
はここぞと腰を上 げて仲介
げて仲介、
仲介 、ポーツマス会談
ポーツマス会談とな
会談とな
った。
った
。
金子には
金子には大統領
には大統領から
大統領から逐一情報
から逐一情報が
逐一情報が入り、フリーパスの
フリーパスの大統領の
大統領の私邸に
私邸に何度も
何度も足を運ん
決裂寸前の
講和条約を
とか最後
最後にもまとめ
にもまとめ上
げた。
金子の
きがなかったら、
で、決裂寸前
の講和条約
を何とか
最後
にもまとめ
上げた
。 金子
の働きがなかったら
、
日本はどうなっていたことか
はどうなっていたことか。
日本
はどうなっていたことか
。
日露戦争、
日露戦争、講和外交の
講和外交の影の殊勲者は
殊勲者は金子なのである
金子なのである。
なのである。
結局、
金子の
広報外交は
大統領との
との直接
直接の
会見や
晩餐会、
私邸への
への招待
招待など
など25
25回
結局
、金子
の広報外交
は大統領
との
直接
の会見
や晩餐会
、私邸
への
招待
など
25
回
にも及
高官、
との会談
会談、
晩餐会、
午餐会など
など60
60回
各所での
での日露戦争
日露戦争、
にも
及び、高官
、VIP との
会談
、晩餐会
、午餐会
など
60
回、各所
での
日露戦争
、日本
立場の
演説、
スピーチは
50回
ニューヨークタイムズなど
など新聞
新聞への
への寄稿
寄稿は
の 立場
の 演説
、スピーチ
は 50
回 、ニューヨークタイムズ
など
新聞
への
寄稿
は 5回な
世論工作は
大成功を
めた。
ど世論工作
は大成功
を収めた
。
大統領と
大統領と親友であった
親友であった幸運
であった幸運と
幸運と見事にその
見事にその人脈
にその人脈を
人脈を生かして
かして外交に
外交に成功した
成功したケース
したケースは
ケースは近
代史にも
にも数少
数少ない
ない。
代史
にも
数少
ない
。
昭和十七(
昭和十七(1942)
1942)年五月、
年五月、金子は
金子は八九歳でなくなったが
八九歳でなくなったが、
でなくなったが、太平洋戦争中なのに
太平洋戦争中なのに『
なのに『ニュ
ーヨーク・
タイムズ』
異例の
長文の
追悼記事を
掲載、「
、「ルーズベルト
ルーズベルト大統領
大統領の
友人、
ーヨーク
・タイムズ
』は異例
の長文
の追悼記事
を掲載
、「
ルーズベルト
大統領
の友人
、
日米間の
友好を
いた平和
平和の
唱道者」
として最大
最大の
賛辞を
した。
日米間
の友好
を説いた
平和
の唱道者
」として
最大
の賛辞
を呈した
。
(禁転載)
禁転載)