絶対文感・付録 【文章読本】 陽羅 義光 「文章読本」とは何ぞや。 世の中には文章の天才、達人、名人、エトセトラがいて、そういう文章家が、凡才、 凡人、エトセトラのために書き残した、「文章虎の巻」のことだと云っても、あなが ちまちがいではない。まちがいではない、と云うことは完璧にそのものズバリでもな い。完璧ではなくとも、その「文章読本」も完璧なものはないのだから、これでなに も問題はない。 あれだけ絶対的な文章を書いた開高健が、「言葉に絶対はない」とずいぶん弱気な 事を書き残している。わたくしは言葉や文章に絶対はなくとも、絶対に使ってはいけ ない言葉を知っている。また絶対に書いてはいけない文章を知っている。それが『絶 対文感』の为旨の小さなひとつでもある。だから『絶対文感』は「文章読本」の性格 を持つ。 『文章読本』そのもののタイトルで書いている先人もいるが、『文章教室』、『文章 作法』、エトセトラとあって、いずれも「文章虎の巻」のことだと云っても、あなが ちまちがいではない。 まどろっこしい云い方はやめて、話を進める。タイトルは違っても、 「文章虎の巻」 をわたくしもずいぶん読んだ。ざっと著者を挙げると、 谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、丹羽文雄、三島由紀夫、伊藤桂一、八木義徳、丸谷 才一、井上ひさし、エトセトラである。外国のものもいくつか読んだが、外国の文章 で書くわけではないので、興味本位で眼を通しただけに過ぎない。 こういう類のものは、己の文学思想や文章技法を些か自慢しつつ開陳するものであ って、文学に限らず芸術創造が、己一個の(商売的発想を完全否定した上での)「仕 事」である限りにおいて、(わたくしの『絶対文感』もその例を免れないのだが)面 白い読み物として読むのが常識的な読み方である。 従って他人の「文章読本」にケチをつけるほど無意味な行為はない。ところが井上 ひさしは先人の「文章読本」を、片っ端から否定する一人である。谷崎潤一郎のいわ ば「芸術読本」である名著『陰翳礼讃』を、わたくしも全否定する一人だから、あま り井上ひさしの批判はしたくないが、否定しつつも結局はどこかで同調してしまって いるのが惜しい。一例を挙げると、三島由紀夫の持論である「オノマトペの否定」に 就いて、反論している。反論なんか必要ないのに執拗に反論している。 三島由紀夫いわく「オノマトペの少ないはずの森鴎外」が、『雁』でお玉の描写を する際には、オノマトペを多用していると述べている。また、宮沢賢治のオノマトペ は魅力的だとも。わたくしに云わせれば、そんなことは当たり前で、宮沢賢治ほどの オノマトペ巧者ならいくら使ってもいいし、森鴎外ほどの意識家だったら、なにも問 題はない。三島由紀夫が暗に云っているのは、宮沢賢治や森鴎外ほどの天才はそうは いないのだから、あんたはよしなさいと云うことなのだ。実際、オノマトペを使う凡 人作家の文章は読めたものではない。 それに、罫線だ。「 」も「・・・」は、わたくしも若い頃はよく使った。自 分では気が利いていると考え感じていたのだが、この頃はどうも「逃げの文章」の手 助けをしていたとしか思われなくなった。罫線使用の名人、芥川龍之介はそんなつも りで使っているのではないはずだが、名人でない者には後ろめたさがつきまとう。そ れなら潔く使わない方が賢明だ。同じ意味で( )もあまり使いたくはない。 接続詞も小説にはあまり使いたくない。文章がどうしても説明っぽくなる。「そし て」や「それから」はまだしも「さて」とか「ところで」とかは古くさいし、「つま り」とか「ゆえに」とかはくどい。 それとアルファベット。例えばK氏とかY市とか。これらはやはり印象が観念的に なる。観念的な小説を身上とした倉橋由美子なら使っても問題はなかろうが、読者に 具体的なイメージを印象づけたいなら、アルファベットは避けるべきだろう。同じ意 味で近代文学の遺物たる「彼」「彼女」等の代名詞も使いたくはない。 もっとも使うべきでないのは「のように」「みたいな」である。その上に月並みな 比喩がきたなら最悪だ。「のように」を使うなら、川端康成ほどの実力を身につけて からでないと、文章が幼稚で安易になる。例えば「豚のように食べまくる」や「犬み たいに嗅ぎまわる」なんて文章は読みたくはない。 「青い空」 「赤い太陽」など、平凡 な形容も同様である。 また、露骨な感傷語も興ざめである。 「悲しい」 「寂しい」と云われなくても、その 気持ちが伝わる描写があればそれでいい。 さらに曖昧で大仰な観念語も作者の浅薄さを伝える以外のなにものでもない。「隔 絶した心底の慟哭」「冷酷なる雑踏の超越」なんて書かれても、困ってしまう。 これらはみんな過去の作家が云々していることでもあるから、これ以上は説明しな いが、「愛」の使用に関しては、わたくし以外に云々している作家が見あたらない。 不思議な気もする。おそらく近代作家及び現代作家は西欧の作家の影響が色濃いので、 わたくしに云わせると単細胞的「愛」の使用に関して、疑問視しないのであろう。 愛とは何か。そこから出発せずして、これほど重い語彙は使えないはずだ、と云う のがわたくしの見解である。一般人が平気で「愛してる」と云うから、作家たるもの が無意識に無見識に使っていたのでは情けない。一般人は自分の都合で使っているの だから、本来なら「好きだ」と云うところを「愛してる」と云ってしまう。本来なら 「大切に思っている」と云うところにも使う。そのくらいならまだいい。本来なら「セ ックスしたい」あるいは「セックスが気持ちいい」と云うべきところにも「愛してる」 と使う。キリストも真っ青である。そんな一般人に同調するのは、子供や若者のはや り言葉を安易に使用するのと変わりはない。 従ってまとめると、『絶対文感』でも何度か云々してきたが、凡人たるわたくしが 文章を書く上で、使わない、あるいは使いたくないのは次のものである。 一、月並みな比喩 二、平凡な形容詞 三、ありふれたオノマトペ 四、アルファベット 五、罫線 六、近代文学的代名詞 七、露骨な感傷語 八、古くさい接続詞 九、曖昧な観念語 十、愛という語 あれも駄目これも駄目では、文章の自由性が剥奪される、という人がいたら、わた くしよりも凡人だ。自由とは束縛である。自らに課した桎梏である。少なくとも文章 においてはそうだ。
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