これ - 神戸大学経済経営研究所

経 済 学 部 何 野(なんの) 教 授
作:
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西島章次(神戸大学経済経営研究所)
松永宣明(神戸大学経済学部)
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ようやくの思いで研究室にたどり着くと、電話がなった。
「もしもし、何野教授の研究室ですか。こちら国民経済雑誌の編集室です」
何野は一瞬ドキリとしたものの、満員電車に揺られながら巡らした対策を思い出して
いた。今度の論文は、先週までの急な海外出張で全く手つかずなのだ。
「あっ、編集室の首藤さん。元気にしてる? ところでこの前のガード下のカルビ、
あれは最高だったね。今度は焼き鳥にでもみんなで行きますか」
ひとまずは、すっとぼけるのが常套手段だ。とにかく、この手の電話は相手にしゃべ
らさないのがコツなのだが、
「先生、昨日ですよ、昨日。締切は。お願いしたタイトルは『発展途上国の対外累積
債務に対する先進国の対応に於ける問題点』だったですよね。忘れたとは言わせませ
んよ。今日ぐらいは飲みに行くのは控えて下さいよ」
相手も原稿催促のプロだ。強い口調に押されて、何野は戦術をかえ、満員電車で考え
た泣き落としに切り替えた。
「ああ、アレね。実はほとんど完成していたんだけど、チョットしたミスでワープロ
が全部消えてしまいましてね。で、申し訳ありませんが、あと三日、お願いしますよ。
FAXで送りますから」
この言い訳は、前回に使った親戚の不幸が使えないために、思いついたものである。
何野は、なにやら申し訳なさそうに、なけなしの金を叩いて買ったパソコンに目を落
としていた。
どうにか三日間の執行猶予をもらって電話を切ると、何野は気を取り直し、改めて
論文の構想を練ってみた。しかし、『発展途上国の対外累積債務に対する先進国の対
応に於ける問題点』の問題点は、結論部分の債務救済について、その論理的な詰めが
今一つ不足していることであった。
1982年のメキシコの債務危機以来、返済困難に陥った多くの債務国はIMF(国際
通貨基金)のコンディショナリティー(融資条件)に基づき、国内経済の調整を条件
として、リスケジューリング(債務繰延べ)や新規ローンを受けてきた。しかし、問
題は単に流動性不足ではなく、返済能力の問題であり、このような債務管理は、解決
を先送りにするだけであった。IMFの勧告に基づく国内経済の調整政策は厳しいリ
セッションと失業をもたらし、深刻な社会問題を引き起こした。また、国内投資が著
しく低迷するためにかえって返済能力の形成が阻害される結果となった。このため、
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神戸大学経済経営学会『経済学・経営学
学習のために』平成3年度前期号に掲載された論文
の改定版である。なお、本稿は、筒井康隆作『文学部唯野教授』のパロディーであり、筒井氏よ
り掲載の承諾を得ている。
1
債務の一層の累積と返済負担の加速をもたらし、多くの債務国では、国内の社会的・
政治的安定を維持するために、支払いを拒否するか、実質的に支払い出来ない状態に
陥ったのである。
このような状況に対し、返済のために債務国に過度の調整を強いるのではなく、あ
る程度の債務の救済を認め、債務国が成長を伴った形で経済調整が実現できるように
債務政策を転換すべきである、と言う議論がなされるようになった。しかし、債務救
済や債務免除にはいくつかの問題がある。そもそも、債務免除によって負担が軽減さ
れても、これによって自由となった資源が必ずしも投資に向かわず消費されるかもし
れない。債務国はあえて苦しい国内調整を避けて、更なる救済を要求する方が得策と
判断するかも知れないからである。逆に、債権者である民間銀行においても、自らは
なるべく救済に応ぜず、他の銀行が救済を実施し、債務国が返済能力を回復するのを
待ち、できるだけ自らの銀行への返済額を高めようと行動すれば、十分な額の救済は
期待できないかもしれない。また、一度債務救済を実施すれば、銀行としてはその債
務国に対し新たな資金を貸し付けることができなくなり、救済を受けた債務国にとっ
ては新規ローンの途が著しく狭められるという問題もある。債務国にとっても、民間
銀行にとっても、債務救済が望ましいという議論を進めるには、いったい何が不足し
ているのだろうか。
ここまで考えて、やはりもやもやとしていた問題点につき当たってしまった。何野
は、しばらくの間、いつもの癖で天井のシミを見つめながら考え込んでいたが、ふと
半円形のシミから、債務救済がかえって返済額を増やすのではないかという仮説を思
いついた。余りに過重な返済負担であり、実質的に返済できない状態であれば、債務
国は返済のインセンティブを無くしてしまい、債務不履行に頼るであろう。しかし、
債務国に対し経済の構造調整を条件に債務救済を実施すれば、債務国は軽減された債
務負担であればその返済を継続できるであろうし、また債務負担の軽減から生み出さ
れる資源を有効に利用して構造調整を実施し、輸出能力を高めることができれば、債
務国の将来の返済能力は高まるはずである。
また、債権国の民間銀行にとっても、債務の
現実の返済額
免除は、それ自体は損失となるが、残りの債
務の返済を確実なものとし、全ての返済が拒
否されるというリスクが回避され、結局は有
利となるはずである。したがって、十分な削
減がなされるように公的機関がいかにこれを
サポートするかと言う問題と、債務国の構造
調整をいかに確実なものとするかの議論に帰
結することになる。
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返済すべき負担額
ここで、何野は真新しいフロッピーをセットすると、時がたつのを忘れてワープロ
を打ち始めていた。何野教授の研究室には、鋭い気迫と緊張感が漂い、パソコンのキ
ーの音だけがあたりの静寂を際立たせていた。
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ほぼ原稿が完成した頃、にぎやかなノックの音が聞こえた。
2
「篠原ですうー、キャー」
彼女は何野ゼミの学生で、卒論のことで訪ねてきたのである。何野は篠原と話してい
るといつもひどく疲れるのだが、嫌いではなかった。その証拠に、篠原の前になると
とたんに軽いしゃべり方に変わるのである。体もどこかクネクネとし始めるのだが何
野はまったく気づいていなかった。
「累積債務の基本的要因について聞きたいって? 君の卒論もテーマが決まったみ
たいで、メチャうれしいよ」
何野は、篠原の質問に対し、あの篠原に一言もしゃべるスキを与えることなく、時の
経つのも忘れてまくしたてていた。
そもそも、一国経済が、海外から資金を導入し、経済開発に必要な投資を実現した
り、マクロ的経済調整を行うこと自体は何ら問題ではない。海外からの資金導入は、
ある計画期間の経済的厚生を最大とするような、投資や消費支出の時間的配分を可能
とするからである。深刻な経済停滞や、失業・貧困問題、さらには激しいインフレや
対外不均衡に悩まされている途上国にとっては、現在の投資や消費などの国内支出を
海外資金によって補填し、将来一定の成長を実現した後に国内資源を返済にむけるこ
とが、これら諸問題の弊害を軽減し社会的、政治的安定化を得るのに有利である。歴
史的にみても、後発の諸国が外国資本を利用して経済開発や政策運営を推進すること
は、ごく一般的なことであった。
実際、1973年の第一次石油ショック以後も、石油ショックへの対応として多くの途
上国では先進国とは対照的に、積極的な成長戦略を採用し、海外資金の導入により投
資資金と経常収支不均衡をファイナンスした。いうまでもなく、先進国では石油ショ
ックがもたらしたリセションにより国内では投資機会が不足しており、環流したオイ
ルダラーをかかえる民間銀行が成長性の高い途上国を投資先として重視したことが
これを支えた。アメリカの主要銀行のみならず、アメリカの中小銀行やヨーロッパ、
日本の銀行もシンジケート・ローン(協調融資)方式でリスクの分散をはかりながら
積極的に参加した。又、多くの途上国向け貸付が途上国政府が直接、間接的に債務を
保証するソブリン貸付であったこともこれを促進した。
しかし、1970年代の後半になると、返済能力が十分に形成されないままに債務残高
の規模が大きくなり、また質的にも借入条件が相対的に不利な民間資金への依存度が
著しく高まっていた。他方、国際的商業銀行にとっても主導的な役割を果たしてきた
アメリカの主要民間銀行の貸付が、ラテンアメリカなどの特定の重債務国に集中し、
またこれらの貸付の自己資本比率が100%を越え、貸付のリスクは著しく高まっていた。
更に1980年代に入ると、アメリカのインフレ抑制政策に基づく国際利子率の高騰や、
一次産品交易条件の悪化、先進国の景気後退などの対外的要因が働き、返済負担が急
激に高まった。返済が困難となると返済のために新たな借入が必要となる。しかし、
民間銀行は既に重債務国への貸付には消極的となっており、遂には1982年にメキシコ
で返済不能の事態が発生したのである。
ここまでの説明が終わり、次の問題に移ろうとした時、授業開始のチャイムが鳴っ
た。そうか、今日はあの102教室で講義があったのだ。何野は少ししゃべりタラン
ティーノであったが、
「いやですうー。もっと聞かせてほしいですうー。キャアアー」
と懇願する篠原にどうにかお帰り願うと、ワープロのセーブも忘れてあたふたとパソ
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コンのスイッチを切り、慌ただしく教室にむかった。
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「イエー、イエー。みんな元気してる? 今日はぼくの授業に何を期待してるかな?
えっ、単位? だから今の学生は短期的な効用の極大化のみに執着して長期的な効用
の極大化を忘れていると言われるんだよ。大学の4年間の勉強は効用最大化のための
初期条件を形成するためにあるんだよ。初期条件に依存して様々な解が出てくること、
すなわち様々な人生となることを、ヒステレシス(履歴効果)というんだ。だいたい、
授業中に『an』なんか読んでバイト探ししている学生はけしからんよ。あ、それか
ら、授業中に後ろのドアから出入りして欲しくないなア。さらに、私語している学生
なんか論外だよ。なんか、一生懸命聞いていてくれる学生に悪いんだよナー。そこの
眉毛の太い君、幼稚園じゃないんだから、早く止メレバ∼。ところで、今日は途上国
の累積債務問題について、マクロ経済政策の観点から分析をやってみよう。今日は、
過度の形式的レトリックと難解なデスクールを廃して、講義するよ。何?言ってるこ
とが理解できないって? まあ、要するに、いつもの軽いノリで講義するっていうこ
とだよ。そもそも、途上国は深刻な失業とかァ、経常収支赤字とかァ、インフレーシ
ョンとかァ、いろんなマクロ的不均衡を抱えていることが多いんだ。もちろん、これ
らの不均衡は長期間にわたって放置できないから、何らかの調整が必要となるね。そ
こで、対外債務が登場するってワケ。どォしてかって? つまりィ、対外債務は、少
なくとも当面の期間においては最もイージーな、社会的にも最も受けのいい経済調整
を可能とするからなんだ。これが今日の結論の一つだけど、これを君達の頭の記憶装
置にインプットさせるためには、まず、途上国が直面しているマクロ的不均衡につい
て、その典型的なケースから議論しないといけないんだ。いいかい、一般的に途上国
では、いろんな理由で適切なマクロ政策がとれないことがあるんだ。例えば、所得分
配が不平等で深刻な貧困問題がある場合や、人口の増加率が高くてチャンとした職業
に就けない人々が増えている状況を想像して欲しいな。こんな国では、街に失業者が
溢れて、大都市ではスラム問題が深刻なんだ。ぼくがこのまえブラジルに行ったとき
なんかさあ、スラムの子供達が食べるものがなくて、新聞紙を水でとかしたものをダ
ンゴにして、それを水で流し込んでやっと寝ることができるって聞いた時には、涙が
出てきたよ。クスン。やれ、グルメじゃ、ダイエットじゃとかいって騒いでいる日本
は幸せだよ。とにかくだ、このような国では、貧困問題や失業問題に対処するために、
いつも高い経済成長率や、雇用の拡大を必要としているんだ。そうしないと、政治的、
社会的安定が維持できなくて、いつ政府がひっくりかえるか、わかんないからね。テ
ロなんか日常茶飯事なんだ。ペルーじゃこれまでに三万人もの人々がテロで命を失っ
ているんだ。そこで、これらの国の政府は、バンバン財政支出や公共投資をやって、
高い経済成長率や雇用成長率を確保しようとするんだ。それに公共部門を大きくした
り、政府系企業をいっぱい作って、そこで公務員の形でたくさんの人々に雇用機会を
与えたりしていることもあるかな。だけど、当然のことだけど、こんなことやってる
と大きな財政赤字が出現するんだ。そして、おきまりのコースだけど、激しいインフ
レとなって貧しい人々をさらに苦しめるってワケ。ラテンアメリカじゃ、1980年代末
から90年代始めかけて、年率2000%、3000%のインフレなんつう国もあったんだよ。ホ
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ント。それから、問題はこれだけじゃないんだ。高い成長率を続けようとすると、対
外均衡によほど気をつけてないと、大きな対外赤字が発生することになるんだ。もっ
とも、理論的には、十分に為替レートを切り下げてやれば対外均衡を維持できるはず
だけど、これがまたやっかいなんだ。為替レートを国内インフレ率以上に切り下げる
と、農業などの輸出産業は競争力がアップし、例えば貿易収支は改善の方向に働くけ
ど、貿易とは関係のない国内財産業では輸出産業と比べた相対価格が低下するために、
生産に不利となって国内財産業が収縮し失業が発生するんだ。あっ、そこで携帯のベ
ルを鳴らしている娘。ここの議論はややこしいんだから、早くスイッチ止めてよ。と
ころで、問題はだ。この国内財産業で働いているのは、だいたいが都市の労働者なん
だ。彼らは政治的にでっかいパワーを持っていて、いつも為替レートの切り下げ政策
には反対するんだ。切り下げによる失業にも反対するし、彼らが日ごろ消費している
輸入品の価格が上昇して、生活水準が低下することにも反対するかな。したがって、
政府にとって彼らは最大の政治基盤だから、なかなか思い切った為替の切り下げがで
きっこないってことになるね。つまりィ、貧困問題だのォ、失業問題だのォ、なんだ
かんだでマクロ政策が適切に実施できなくて、必然的に対外不均衡を結果することに
なるんだなァ。ところで、このような状況は、ラテンアメリカなどの債務国の現実を
うまく説明していると思うよ。だって、海外から資金を簡単に借り入れることができ
れば、なにも経済成長を低めたり、為替レートを切り下げたりして、無理して対外不
均衡を改善する必要がないんだからシテ。海外資金が容易に流入する限り、苦しい経
済調整を止めちゃって、貧困や失業を深刻化させることなく対外収支赤字を維持でき
るんだから、だれだってドンドンと借り入れちゃいますよ。ラクな方へ、ラクな方へ
のパターンだな。もっとも、ぼくなら借金なんか絶対、絶対しませんけどね。だって、
いずれ返済のために苦しまなくちゃならないからね。債務国のケースでいえば、いず
れ返済のために貿易黒字を出さないといけないということかな。成長を維持しながら
貧困問題や失業問題なんかを悪化させない形で返済するためには、債務が有効に投資
に向けられテー、対外債務がテコとなって生産能力が拡大しテー、輸出競争力が改善
しテー、いわゆるところの返済能力が形成されることが重要なんだ。まあ、君たちの
ケースで言えば、奨学金をプリクラなんかに使うんじゃなくて、経済学の専門書に使
ってしっかりお勉強しておくことが必要だということ。しかし、ぼくは残念でしかた
がないけど、現実には途上国では借金は有効に使われたとは、言えないんだ。いくつ
かの原因が考えられるね。第一は資本逃避っていうやつ。せっかく流入した資金が、
合法的または非合法的な手段でマイアミで預金されたり、海外の不動産購入に使われ
りゃ、国内の生産活動の拡大に貢献しないだろ。ラテンアメリカではドルが国内経済
に深く浸透してて、人々の資産選択によってドルの流出入が大きく左右されるのがフ
ツーだから、政情不安や国内金利政策の変更、それから為替レートの切り下げなんか
が予想されるときには、サッサと資本逃避するってわけ。第二の理由は、たとえ流入
資金が実物投資に向けられたとしても、その効率性と投資分野に問題がある場合なん
だ。ブラジルの場合、資金の一部は消費目的や海外逃避に向けられたことは否定でき
ないけど、かなりの部分は実物投資にむけられたと考えていいんだ。対外債務の7割
近くが政府や政府系企業の借入であることからして、大部分はナショナル・プロジェ
クトに投下されたんだ。たとえば、世界最大といわれるイタイプ・ダム。これは、お
ったまげだよ。なにせ、あの黒四ダムでさえ34万KWの発電能力なのに、こいつは12
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60万KWもあって超でっかいんだから。それに、原子力発電所、鉱山開発、製鉄所、
鉄道建設なんやかやに、外国からドンドン借金して大規模な投資をしたもんだ。だけ
ど、このような投資は懐妊期間がメチャ長いんだ。つまり、投資を開始してから、実
際に生産活動を開始するまでの期間のことだよ。このことは、生産を開始し輸出財産
業に連関効果をもたらすまでに、すごーく長い期間を必要とすることを意味するんだ
な。だから、これらの効果が出てくるまでに、いろんなショックがやってきて、事態
は深刻となったんだ。それは、第二次石油ショックだしー、利子率の高騰だしー、交
易条件の悪化だしー。それに、いま一つ大事なことは、これらのインフラストラクチ
ュアーや基幹産業分野に投資の大部分が偏向してなされたっていうことは、ブラジル
に比較優位がある製造業部門や農業部門への投資が希薄となって、対外債務が直接的
に輸出財産業の生産能力拡大と生産性向上に結び付くことが欠落したってことかな」
授業も終わりに近づき、何野の声はかなりかすれていた。一杯やりたいナ。
「まあ、こーゆー訳で、債務問題が極めて深刻となったんだけど、1990年代に入って
からは、ブレディー提案などの債務救済によってだいたいのところは一件落着したと
考えられているんだ。ぼくもだいたいは債務救済でイケテルかなとも思ってるんだが、
完全な意味での解決では無いんだな。現在も債務残高は拡大し続けているんだ。しか
も、銀行借入れではなく、ポートフォリオ投資という形で海外資金が大量に流入して
いるんだ。これらの資金は、逃げ足が速くて、何か政治不安や為替の不安定性がある
とサッサと資本逃避してしまって、金融危機を引き起こすという問題をはらんでいる
んだ。1994年末のメキシコの金融危機が典型例だ。次回は、こうした問題について議
論します。あ、それから途上国の債務問題や金融問題と我々日本とどう関わっている
かも重要な問題なんだ。この問題を真剣に考えて欲しいな。ほんとうは、この問題が
ぼくの講義の最終目的なんだ。ピース、ピース」
§
§
§
教室を出た何野は、研究室に戻らず次の会議へと向かった。今日の議題は「キャン
パスに出没するイノシシ対策」であった。自然擁護派と危害動物駆除派の議論がああ
でもない、こうでもないと延々続いた。何野は議題にはほとんど関心を示さず、論文
の続きを考えていた。頭のなかで債務返済負担と返済実行額の山形のカーブを「債務
返済のラッファー・カーブ」と名付けたところで、会議は後日審議続行で終了となっ
た。やれやれ。何野は、会議終了後も議論が続く会議室を飛び出ると、そのまま色付
いた銀杏のキャンパスを通り抜け、今日一日の労働を終えた心地良い疲労感と、跡形
もなくなったことも知らない原稿の完成祝いを兼ねて、一人いきつけの飲み屋へと向
かった。
しかし、そこで急ぎ足でたどり着いた何野教授を驚顎させたのは、お目当てのアケ
ミちゃんが店を辞めていたことでもなく、国民経済雑誌の首藤と鉢合わせしたことで
もなかった。それは、彼の極めて深刻な債務問題に対する、ママからのデフォルト宣
言であった。
「あら、先生。また来たの。悪いけどさあ、たまっているツケ、なんとかならないか
しら。払ってもらえないと、飲ませるわけにはいかないのよ」 (完)
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