在家者の期待が、専修念仏の唱導者としての法然にあるか、あるいは持

在家者の期待が、専修念仏の唱導者としての法然にあるか、あるいは持戒精進の
念仏聖としての法然にあるかを区別することは困難な場合もあった。この困難は、
しかし、専修念仏の弘通に役立った。専修念仏の正客に据えられた下層庶民―
「不可思議の愚痴无智の尼入道」―は、専修念仏の唱導者としての法然に着目
したのである。
専修念仏の唱導者と、授戒の師との二役を法然に負わせることは、次第に不可能
になって来た。法然の晩年に激化する専修念仏弾圧は、法然が専修念仏者として
の自己を貫こうとしたことに根本の原因をもっている。しかもこの際、法然の罪
科を審議した上、層貴族たちは持戒精進の念仏聖であることにおいて、法然に対
する尊敬を惜まなかった。
ところで、法然の回心が承安五5年、すなわち法然の43歳に成就されたことは動
かし得ぬ事実である。とすれば、『玉葉』に見られる法然は、自己を偽り、他を欺く
行動をしているとの非難を拒み得ぬであろう。
一つの推察であるが、法然は回心を介して、本願念仏の救済を自分一個のものと
した。つまり、自分以外の人々のことは、初めの間、法然の意識に上らなかった。こ
の推定は、回心を体験した法然が比叡山の西塔黒谷を去って、東山大谷に移った
ことを伝道教化のためとする通例の見解と対立するのであるが、事実、山を下っ
た法然が専修念仏の教説を説くのに、特に積極的であった行績は見られない。他
方、念仏聖としての法然は、「戒行具足」の面で黒谷在住の時と同様、在家者との
結縁を持ち続けていた。これらの在家者は、「専修念仏」と「戒行具足」とを区別
することができず、というより、両者を区別する必要を認めず、時には戒行具足
を重視する人々もあった。しかし、より重要な点は、法然自身、専修念仏の優位に
立脚していたにもかかわらず、時に応じて、請われるままに在家者に授戒をした
ことである。もちろん、これは請われる場合に限られたことであり、法然の方から
戒の意義を強調したり、あるいは授戒に積極的であったというのではない。しか
し、法然は九条兼実の女房が発病した時、招かれて授戒し、その験が現われたが、
また再発したので再三請われて授戒している。
「宿業かぎりありて、うくべからんやまひ(病)は、いかなるもろもろのほとけ
かみ(仏神)にいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひも
やみ、いのち(命)ものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あら
ん。」
これが法然の立場である。法然の専修念仏は、現世利益の受戒を必要としない。
「されば念仏を信ずる人は、たとひいかなるやまひ(病)をうくれども、みな
これ宿業也、これよりおも(重)くこそうくべきに、ほとけ(仏)の御ちから
(力)にて、これほどもうくるなりとこそは申すことなれ。」
しかし、法然は祈病のための授戒の招請を断り切れなかったのである。専修念仏
を勧めるのとは異なり、究極の意義を認めぬ戒を授けることに、法然自身、困惑
を感じたのは言うまでもない。いや、それは困惑というよりは苦痛というべきで
あろう。しかし、法然の授戒の「効験」に期待する人々がある限り、やはり法然は
黙々と、貴族の邸宅に参上して、授戒を繰り返した。
法然のこれらの行動を、法然の韜晦性(とうかいせい)に帰すべきであろうか。しか
し、法然が授戒の師として貴族の邸宅に出入したからといって、専修念仏の立場
を放擲(ほうてき)したのではない。東山大谷の庵室を訪れる出家者・在家者に対し
て、法然は専修念仏の教説のみを説き続けていた。専修念仏の帰依者は、京都を
中心として、さらに田舎の方にまで拡がっている。戒師としての法然の行動が、専
修念仏の弘通にブレーキになったとは考えられない。むしろ、受戒の師であるこ
とも、結果的に専修念仏の弘通にプラスになっていたのではなかろうか。
九条兼実と法然とについて、次の挿話が伝えられている。
法然が兼実の九条月輪殿(東山東福寺の東に当たる)に参入する度に、兼実自ら
外に出て法然を迎えるので、公卿殿上人 (でんじょうびと) も、その都度、殿を
下りて迎えるを例とした。しかし法然は、儀礼はばった出迎えをうるさく思い、
房籠もりと称して、九条殿はじめ何処へも行かなくなった。これを聞いた兼
実は、法然を招請するために、兼実の病気の時だけは参入するとの言質を
得たので、その後は常に病気と称して法然を招き、法然も断ることができず、
再び以前のように九条殿へ出入することとなった。
ところが門弟の一人が、兼実のみを特別扱いする法然の態度を非難して、師
の法然は、房籠もりと言って他家に赴かず、兼実の九条殿にのみ出入するの
は檀越に諂っているからであろうと思いながら寝た夜の夢に、法然が現れ
て、
「九条殿と我とは先生(せんしょう)に因縁あり、余人に准ずべからず。」
と告げたので、夢から覚めた後、法然にこの由を語ったところ、法然も、
「先生に因縁ある事なり。」
と事実を肯定したという。
そして兼実の女の宜秋門院は、建仁元年(1201)10月に、法然を戒師として出家し、
兼実もまた翌建仁2年に、法然を戒師として出家した。
法然と兼実の師檀関係が「授戒」のみに止まっていたか、あるいは兼実の晩年に
おける専修念仏帰入を想定すべきかについては、結論を下すことができない。し
かし、九条兼実にとって、法然は「求道者」ではなく「救済者」であった。やはり、
「九条殿と我とは先生に因縁あり」というべきであろう。(田村圓澄)