奈良学ナイトレッスン 第9期 大和の伝説と伝承に遊ぶ ~第三夜 吉野山と

奈良学ナイトレッスン 第9期 大和の伝説と伝承に遊ぶ
~第三夜 吉野山と東大寺の伝説―理源大師の大蛇退治~
日時:平成 25 年 9 月 26 日(木) 19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:齊藤純(天理大学教授)
内容:
1.理源大師聖宝の住まい
2.鬼神を退治した話から始まって
3.実際に法螺貝を吹いてみる
4.若草山はなぜ焼くのか
5.大蛇が封じられた場所は
1.理源大師聖宝の住まい
2回にわたって、伝説の入門のお話をさせていただきました。入門の回で分かって頂きたかった
ことは、伝説というのは一見、歴史を語っているように見えるけれども、そうではない。伝説の中
には、額面通りの歴史はないのだということ。ただし、伝説を比べることによって、それぞれの伝
説の共通する部分には、伝説を生み出すに至った歴史や文化に共通する特徴があるのではないか。
また同時に、伝説の共通部分以外についても、それぞれの土地の特徴が反映しているのではないか。
そういう意味で、伝説には歴史が込められていると言えるでしょう。今回は、それらの複合的な話
になるかと思います。
「吉野山と東大寺の伝説————理源大師の大蛇退治」というテーマですが、吉野山にしろ、東大寺に
しろ、それぞれ非常に分厚い歴史のある場所です。それぞれの歴史的な意味と言い出すと簡単では
ありません。けれど、ある側面には伝説を使って迫っていけるのではないかと思っています。
奈良県の吉野山中に百貝山(ひゃっかいざん)あるいは、百貝岳(ひゃっかいだけ)という山が
あります。吉野山から大峰山に至る途中の峰のひとつです。そこに理源大師聖宝(りげんだいしし
ょうぼう)というお坊さんが大蛇を退治したという伝説が、近世・近代に伝わっております。理源
大師聖宝は実在していて、かなりの高僧でした。この人の日本史上で有名な仕事としては、京都に
醍醐寺をつくられたこと。昔は、修験道と通常の仏教との隔たりは小さく、修行の一環としてどん
なお坊さんでも山で行をしていました。聖宝さんも山林修行をしていて、現在の修験道の一派であ
る当山派を開き、修験道の中興の祖とも言われる人です。その聖宝について、こんな話があります。
『大和の伝説』という奈良県の伝説を知るのに基本的な図書によると、役行者(えんのぎょうじ
ゃ)が大峰山を開いてから約200年経った平安時代のこと。山の中の阿古屋(あこや)滝に大蛇
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が住みついて、修行をする人を邪魔していた。そこで聖宝が天皇から「あれを退治してこい」との
勅命をうけた。そして奈良の町に住み暮らしながら先達(せんだつ)として山伏の活動もしていた
箱屋勘兵衛(はこやかんべえ)を供に連れて、今の百貝岳にやってきました。聖宝が百貝岳で法螺
貝を吹き鳴らした。そうすると大蛇が現れた。聖宝は、九字を切るなり経文を唱えるなりして法力
でこれを退治して、大峰山の修行も再開されるようになった、という話があります。
この時に吹いた法螺貝の音が、百もの法螺貝を鳴らしたようだったというので、山を百貝岳と名
づけた。また、お供に連れてきた勘兵衛さんは、この仕事の間、奈良から百貝岳まで聖宝さんが好
きだという餅やご飯をもって通ったというのですね。だいぶ距離があるから本当かと思うのですが
(笑)。そこで、聖宝から「餅飯殿(もちいどの)」とあだ名で呼ばれていたというのです。そして
彼が住んでいた場所にも餅飯殿という名前がついた。現在の奈良市の餅飯殿(もちいどの)町、い
ま商店街になっている場所のことです。百貝岳には、真言宗の醍醐寺派だった鳳閣寺(ほうかくじ)
が建っていて、聖宝の墓というのもあります。餅飯殿町にも聖宝との関係を今に伝えています。
聖宝さんは弘法大師の縁者であり弟子でもあった真雅(しんが)に入門しました。つまり、弘法
大師に近いところで修行された方です。元興寺で三論宗、東大寺で法相宗を学んで、吉野の金峯山
(きんぷせん)でも行を行っていました。信頼できる資料によると、聖宝さんは東大寺の東の僧坊
(お坊さんの寮)に住んでいたと伝えております。その東僧坊というのはどこか、正確にはわかり
ません。俗に、東大寺の東南院だと言われています。これは確証がないのですが、東僧坊のあとに
東南院が造られたと伝えられています。確かに、東大寺の全体から見ると、東のほうにある建物で
す。
東大寺で修行したのですが、やがて真言宗で出世して、貞観16年に醍醐寺を開きました。先ほ
ど言いましたように、当山派修験の開祖とされています。そののち延喜5年、東大寺東南院の初代
の院主になり、東南院は三論宗の中心寺院にもなりました。この時代は、真言宗や華厳宗などの宗
派の区別はあまりなかったようで、各宗兼学ということで、優れたお坊さんをそれぞれ行き来させ
ていたようです。
この東南院の前身が東僧坊だと伝えています。この東僧坊(東南院)で、聖宝さんが不思議なこ
とをやっているのです。
2.鬼神を退治した話から始まって
聖宝は当山派の開祖で醍醐寺も開いた人ですから、数々の伝記が出るわけです。必ずしも史実を
伝えているわけではないのですが、伝記の中のひとつの山場、よく出てくるエピソードとして、や
はり、大峰山で大蛇を退治した、場合によっては法螺貝を吹き鳴らして退治した、というような話
があります。
奈良県の民話集、伝説集にもそれが採録されているわけですが、もちろん、本当にあったことと
は考えられません。また、この話はそんなに昔から言われているのかどうか。信用できる聖宝の伝
記に、醍醐寺が編纂した『醍醐寺根本僧正略伝』がありますが、それには出てこない。そこでは、
初めに聖宝さんが注目を浴びるのは、大峰山で大蛇を退治した話ではなく、東大寺の東僧坊(東南
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院)で鬼神を退治した話です。どうやらこちらの話が先のようです。そして、13世紀の終わりく
らいから、聖宝さんが吉野山、大峰山で大蛇を退治したという話が現れてくる。最初に出てくるの
が、『醍醐寺縁起』という醍醐寺のいわれを書いたもので、その中に大峰山で聖宝が大蛇を退治し
たという話が記されています。以下のような話です。
役行者、修行の後、大虵、大峯に有りて、斗藪中絶す。
尊師(聖宝)、之を避(しりぞ)け除(のぞ)く。其の後、修験の路は本(もと)の如く興行
せり。(『醍醐寺縁起』正安元年(1299)4月写より)
「虵」は蛇と同じ意味の異体字で「大虵」は「だいじゃ」と読みます。
「斗藪(とそう)
」は藪漕
(やぶこ)ぎして修行することです。
役行者が大峰山を開いたあと、大蛇が出て大峰山の修行が絶えてしまった。聖宝がこれを退治し
た。もう一度修行が始まった、ということです。ごく簡単な記述ですが、大峰山で聖宝が大蛇を退
治したことが初めて出てくる記述です。それ以前の記述は後ほど紹介しますが、そういう話ではな
かった。聖宝が怪しげなものを退治したという話はあるのですが、場所は大峰山ではなく、必ずし
も大蛇でもなかったのです。しかし、どういうわけかこの頃から、大峰山で、吉野で退治したとい
うことになってくるのですね。
これはなぜかよく分からないのですが、聖宝の伝記や伝説の研究をされている修験道の研究者で
ある宮家準(みやけひとし)先生、あるいは、古代史研究者の佐伯有清(さえきありきよ)先生の
お二人は、次のように説明しています。
これは、二つの説話が組み合わさって聖宝の出来事になったのではないか。つまり、この頃の説
話集に『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』があるのですが、この第二巻に二つの不思議な話
が続いて載っています。
1番目の話は、聖宝が東大寺の東の僧坊で鬼神を退治したという話。
聖宝さんは若くして出家して、東大寺で勉強しました。他の本や伝承を参照すると、若いという
ことで軽く見られていたらしいです。だから勉強をする場所がなかった。ところがなぜか空いてい
る部屋がある。
「それを使わせてくれ」と言うと、
「あそこには鬼神が出る」と修行僧は怖がって行
かない。けれど、聖宝は豪放磊落な人だったらしく、「そんなものはたいしたことないよ」という
ので、そこに住んだ。そして、鬼神は、いろいろな形になって現れた。けれども、聖宝は少しも驚
かずに、とうとう鬼神のほうが根負けして逃げてしまった。それでずっと住めるようになったとい
うのですね。
皆さんが鬼神、特に鬼という言葉を聞かれた時には、ツノがあって褌(ふんどし)をしていて、
金棒を持って現れるとイメージする方が多いと思いますが、古い時代の鬼は必ずしもそうではない。
そもそも中国語の鬼というのは、怪しい者という程度の意味しかないのです。あるいはもう少し意
味を特殊化すると、死者という意味しかない。
『古今著聞集』は漢字を使って書かれていますので、
ここでいう鬼神も、怪しげなもの、不思議なもの程度の、今でいう妖怪に近いものと考えた方がい
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いと思います。そんな怪しげな正体不明のものがやってきて、いろいろな姿になって脅した、そん
な話だったとお考えください。ただし、どんな姿なのかというのは書いていないのです。
ともかく、鬼神を退治して聖宝は東南院(東僧坊)で修行した。やっと修行ができる場所になっ
たという話です。その後に、こんな話が続くのです。
「貞祟(じょうそう)禅師、金峰山の阿古谷の龍の神変について述ぶる事」という項目です。ま
ず大事なことは、『古今著聞集』では貞祟というお坊さんがこの話をしたと載っているということ
です。
貞祟は鳳閣寺(ほうかくじ)を開いたお坊さんで、聖宝の教えの後継者です。その人がこんな話
を伝えた。内容は込み入っているのですが、簡単に言うと、元興寺に阿古という名前のお稚児さん
がいた。非常に優れた子だったのですけれど、何度お坊さんになるための正式な試験を受けても落
ちる。イヤになったので大峰山の阿古谷に身を投げた。自殺したら龍に生まれ変わって、人々を害
する。驚いた師匠のお坊さんが行ったところ、取り殺そうとする。そのときに仏さんがやってきて
救ってくれた。さらに話が二転三転するのですが、その後、聖宝が活躍した貞観年間に観海(かん
かい)というお坊さんがいて、この人がその龍はどんなものかと見に行った。そうすると、「どう
か私を供養してください」と龍が言う夢を見た。観海は「それは気の毒だ」というので法華経を写
して奉納したところ、この龍は助かり、人を害することもなくなったという話が続くのです。
宮家準先生、佐伯有清先生の説明では、この二つの話の連続は、何か意味があるに違いない。一
つは聖宝が東大寺で怪しげなものを退治したという話。その次に続く話は、聖宝の後継者である鳳
閣寺を造った人が語った話で、大峰山に龍のような蛇のようなものがいて、人々を害している。そ
れを観海という、聖宝が活躍した時代と同じ頃のお坊さんが供養して害がおさまった、という話。
これは偶然とは思われないので、二つの話が融合して、聖宝が百貝岳の鳳閣寺で大峰山の修行を邪
魔する蛇を退治した話ができあがったのではないかと考えられています。
少し疑問は残りますが、それ以外の説明も難しい。そして、この二つの話が連続するのは確かに
意味がありそうです。また、現在、百貝岳で伝わる大蛇退治の話は、昔からいまの形ではなく、い
くつかの説話が組み合わさって今の話になったということのようです。ただ、鳳閣寺で法螺貝を吹
いて退治したという話が表れてくるのはさらにもっと後で、元禄時代です。
元禄時代、鳳閣寺は醍醐寺の思惑で修験道の一大拠点になっていきます。醍醐寺に所属する山伏
たちは当山派という、真言系の山伏です。当山派以外は、本山派という聖護院を中心とした天台系
の山伏がおり、だいたい江戸時代はこの二つです。これは実は、江戸幕府がそうさせるのです。巨
大な宗教勢力はだいたい二つに分けて喧嘩させる。一つは、まとまって逆らわないように。もう一
つは、適度に競争させてそれぞれ発展させるように。
それはともかく、元禄時代に鳳閣寺は、当山派という真言系の拠点となっていきます。その時代
以降に、大峰山で聖宝が退治したという話が、鳳閣寺で法螺貝を吹いて退治したという、もっと具
体的に話になっていきます。そして、餅飯殿の話が加えられていきます。そうして現在のような伝
説ができあがったようです。
ただ、私自身、釈然としないところは、英雄もしくは宗教的な力をもった人が、龍や蛇を退治し
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て不幸が取り除かれるというのは、どこにでもある話です。その源流というのはどこかにあったの
でしょうが、これを明確に求めるのは難しい。非常に古くから吉野山中にそんな話はあったものと
考えた方がいい。
それをある時代に、観海さんの話としたり、聖宝の話とした。つまり、修験道関係の偉いお坊さ
んが龍を退治して、もう一度山伏の修行ができるようにしてくれた話は、主人公は誰かがはっきり
しないまでも、どこにでもあり得た話です。
一方、東大寺では、聖宝という偉い坊さんが怪しげなものを退治した。そういう話があった。そ
の中には、怪しげなものは大蛇の姿で現れ、聖宝はこれを退治したという話になっているものもあ
ったようです。聖宝というお坊さんは大蛇を退治したお坊さんだ、そして吉野でも修行をしていた
ではないか。と、こういうことになっていたと想像できます。
そして、吉野でも、誰とはいわない、あるいは観海であったり他の人であったりしたのだろうけ
れど、偉い坊さんが修行を邪魔する龍を退治して、修験道を再開させてくれた。と、いうような、
土地で長く伝わっていた話があり、それが一緒になった。つまり、『古今著聞集』の二つの話が融
合したというよりは、その元になるような二つの話が融合したというほうが、証拠はないのですが、
説明はしやすいと思います。『古今著聞集』の二つの話が一つになるのは、机上の作業ではできに
くい。意識的な作為になりますね。そうではなくて、『古今著聞集』の二つの話になっていくよう
な元の話があって、それが一緒になったのだろうと、そう私は考えています。
百貝岳は尖った笠型の山で、吉野の山から見たとき、目立つのです。その百貝岳のかなり高いと
ころに鳳閣寺があります。鳳閣寺を経てさらにその奥に行くと石の廟塔という石塔が建っていて、
これが聖宝のお墓だと言われています。ただ、聖宝はここで死んだのではなくて、京都でお弟子さ
んの見ている前で亡くなるのですが、その遺骨をこちらでも祀ろうと石塔をつくった、そういう場
所です。鳳閣寺は、昔はたいへん栄えていました。今は山の奥で交通の形態が変わっていったので、
たどり着きにくいところですが、修行の盛んな時代では、尾根から少し入ったところで、たくさん
人が通っていたと思われます。
3.実際に法螺貝を吹いてみる
鳳閣寺には不思議な宝物が伝わっています。宝物箱を開けると、上には聖宝が吹いたという法螺
貝(ほらがい)が入っています。そして下には、お寺さんの説明によると、大蛇の頭蓋骨が入って
いるのです。聖宝が吹いたという法螺貝は、大きさが40cmくらい。かなり大型の部類です。法
螺貝は、日本周辺で産する巻貝としては最大です。ものすごく大きなものもありますが、普通に育
ったものでは40cmくらいのものが最大クラスです。山伏がさまざまな合図に使うものですが、
戦国の合戦の合図にもよく使われました。
こういった大型巻貝を一種のラッパとして使うしきたりは、中国経由で入ってきたものと考えら
れています。法螺貝の、
「螺」は螺旋(らせん)の巻き貝のことです。
「法」は、現在は法律の意味
ですが、古い意味では仏教の教えです。仏教の教えの巻貝が、「法螺」です。もともとは、巻貝を
儀式的に使うという風習はインドから入ってきたものです。向こうでは「シャンクハー」と言って、
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真っ白な巻貝を使っているのですが、それをさまざまな儀式的用途で使っていました。仏教が中国
に伝わると同時に、「シャンクハー」を「法螺」
、「仏教の巻貝」と当てました。それが仏教ととも
に入ってきて、日本の法螺貝になったということになっています。かなり早くから、宗教的に使わ
れてきたものですね。
この法螺貝、聖宝が使ったものかどうか。問題なのは、金属の吹き口がついている。法螺貝の古
いタイプは、中世から古代に遡るのが東寺や東大寺に伝えられていて、それらはいずれも吹き口が
ないのです。法螺貝というのは、音が出るところがないのです。私もそれほど楽器のことを知って
いるわけではないのですが、笛のように、その楽器自体にここで音が出るという部分がないのです。
どこで音が出るかというと、唇で出している。トランペットのように、唇の振動を拡大する、一種
の拡声器なのです。だから、吹き口がなくても音は出るのです。ただ、音を出すのはとても難しい。
古いタイプの法螺貝は今もまだ使われています。お水取りの時に、東大寺に伝来した古い法螺貝を
お坊さん達が吹くのですが、いずれも吹き口がありません。非常に吹きにくいのだそうです。吹き
やすくするために口がついたのが、時代はいつからとは言えませんが、一般的には新しいタイプの
法螺貝です。
もう一つの宝物である大蛇の頭蓋骨ですが、本物だとしたら頭が20cmくらいある大蛇になり
ます。いくつか疑問点があるのですが、私にはほ乳類の動物の大腿骨のように思えます。
伝説には、しばしばこういうことがあります。ある宗教的な不思議な場所の説明のために伝説が
編み出されると同時に、伝説がまた物を作る。特に近世に至っては、見世物や開帳などが盛んに開
かれます。そのために、伝説に従ってさまざまな宝物が集められます。というわけで、鳳閣寺の宝
物の真贋はともかくとして、こうした伝説の展開にかかわる、貴重な歴史資料であることはまちが
いありません。
ただ困るのは、これを見せられて「先生、これをどう思います?」と関係者から言われることで
すね。込み入った説明は飲み込みにくいでしょうし、「すごいですね。素晴らしいですね」と言っ
ているのですけれど(笑)。
奈良県の餅飯殿町には、聖宝を祀った聖宝大師堂と、のちに弘法大師が勧請したという弁天さん
があり、周りの建物の一角に組み込まれる形で祀られていて、鳳閣寺、それから聖宝とのつながり
を今に伝えています。
さて、法螺貝を吹くのにはコツがあって、私はいちおう、大峰山の麓の洞川で、一日山伏修行体
験というのをやっていまして、連続で5回行くと、山伏の先達(せんだつ)にしてくれる。一番下
っ端に。私は5年行きまして、一番下っ端の先達にしてもらっていました。
この法螺貝は、四国の石鎚山(いしづちさん)で買いました。そこで法螺貝の吹き方の講習会と
いうのをやっていて、そこで吹き方を教えてもらったのです。ほかでも、吉野山など、あちこちで
吹き方講習会をやっています。講習会に参加したければ、自前の法螺貝が必要です。
法螺貝は開いた口を上向けにして持ちます。口を下に向けるのは呪いをかける、あるいは不幸を
もたらすと言われます。昔は山伏というのは、良くも悪くも畏れられたようで、町や村をまわって
寄付を集めるわけですが、家ごとに回っていって、寄付を出してくれた家には祝福のために上向き
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に吹くのです。ところが、出してくれない家には下向きに吹くぞと言う。こんなことが本当にあっ
たかどうかは知りませんが。下向きに吹くと家が滅びると言われていたそうです。また、山伏のお
葬式の時は、下向きに吹くと言われています。
吹き方は、タバコを吸うように吹き口を持って、唇の振動を拡大する。音が出る部分はありませ
ん。唇の振動の音を拡大するだけです。うまく吹ける人は、唇でコントロールできるわけです。私
は吹き方を教えてもらっただけで、コントロールできません。吹くたびに違う音がでるのです(笑)
。
(実演)
大別すると、法螺貝の音には甲(かん)音と乙(おつ)音があります。甲音というのは高い音、
乙音というのは低い音。甲音は出やすいのですが、乙音、低い音が出しにくい。しかもコントロー
ルしにくい。ちなみに小さい法螺貝は安くて1万5千円くらいからあります。小さい法螺貝は甲高
い音は出るのですが、低い音が出ないのです。「お客さん、きちんと吹きたいなら、大きいのをお
買いになったほうがお得ですよ」と言われて私は大きいのを買いましたけれど。練習できる場所が
ないのですよ。仮に公園でこれを吹いていたら、みなさん、どう思います?(笑)
この法螺貝のように口金があることで比較的コントロールしやすくなります。古い物はこれがな
い。吹くのは相当難しいのですが、音をコントロールできるようにしなければいけない。こうした
需要に応えるように、口金がついてきた。
法螺貝の音は、簡単にいいますと、低い高い、ビブラート、低いところから急にあげる、などの一
種の信号の組み合わせなのです。いわばモールス信号のような意味があって、低く高く低くとすれ
ばこの意味。低く高くビブラートとすればこの意味、という具合に決まっています。それによって、
山伏は連絡をとりあっているわけです。私はわかりませんが、修行を積んだ山伏さんなら、吹き方
で「これから帰ります」や「これから出発します」場合によっては「SOS」も分かる。そういう
道具です。
4.若草山はなぜ焼くのか
聖宝の話に戻りますが、もともと大峰山で大蛇を退治した話よりも、古くからあったのは、東大
寺で鬼神を退治したという話だったようです。それは、先ほどお話しした平安時代の『醍醐寺根本
僧正略伝』という非常に早い時期の聖宝の伝記に出てきます。
詳しくお話しますと、聖宝が勉強していた頃、東大寺の東僧坊の南第二室に住んでいた。ここは、
もともと出来たときから鬼神がいると言われていたので、内装もせずに荒れっぱなしの部屋で、住
むことができなかった。聖宝は住むところがないというので、ここに住むことにした。そうしたら、
鬼神がいろいろな形で現れてきて、戟(ほこ)を持ってきたけれども、聖宝が勝った。それで鬼神
はよそへ移った。こんな話です。
ここでも、どんな形で現れたかというのはまったく書いていない。もう少し後の『東大寺要録』
という平安時代末から鎌倉時代に入りかけている頃の記録では、具体的に蛇として現れたという話
になってきます。これは、先程の『古今著聞集』より早いので、怪しげなものがいろいろな形で現
れる中に、大蛇も混じっていたというのも、平安時代末から言われていたということが確認できる
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のです。
聖宝が利用していた部屋は、鬼神が現れるというので誰も住まなかった。けれども、聖宝がそれ
なら俺が住むと言って微笑みながらここに住むことにした。そしてある日、夜に灯をともしながら、
一晩中勉強をしていた。このあと、ちょっと面白い言い方をするエピソードがあるのですが、眠く
ならないようにお茶を一杯おいてあったというのです。来るぞ、いずれ来るぞと思って鬼神を待っ
ていた。夜半に、天井から大蛇がすうっと下がってくる。口を開いて呑もうとして迫ってくる。そ
れが、茶碗の水に映るというのです。聖宝はそれを見て、切り落とした。
そうすると、雌の蛇が翌朝、人の姿でやってきて言う。「ここには私たちが長いこと住んでいた。
私はいま、主人を失った。住むところもなくなった。なんとかしてください」。聖宝は「わかった。
おまえを別の所に移してやろう」と。どこに移したかは書いていないのです。ともかく、移してや
ろうと雌の蛇のいる場所を決めてやった。
そうしたら、多くの奇妙なことがあった。これも具体的にはよく分かりません。多くの奇妙なこ
とがあって、「一虵(いちだ)の命(いのち)、多くの人の寿(よはい)を与ふ」、解釈しにくいで
すが、ある蛇が犠牲となってたくさんの人が寿命を保つような何かいいことがあったのだ、という
ようなお話です。
簡単にいうと、聖宝が東大寺に現れた大蛇を退治したところ、残った奥さんの蛇が現れて、もう
ここにはいられなくなったから、どこかに住むところがほしいと。そこへ住ませてやった。そうす
ると、何かそれにかかるとてもいいことがあった、という内容です。
同じような話が江戸時代の奈良の名所記、今でいう旅行ガイドに出てきます。『奈良名所八重桜』
という奈良の名所記としては、古いほうです。1678年ですから、江戸時代の前半くらい。名所
記が盛んになるのはもうちょっとあとなので、先駆けのほうですね。
そこの袈裟渓(けさだに)と呼ばれている場所の案内に出てきます。
長い話なのですが、前半は役行者の話です。役行者が大峰山を開いて修験道が始まった。そのあ
と、聖宝の話に移ります。ただここで、理由はよく分からないのですが、大峰山の話ではなく葛城
山の話になっている。修行を邪魔する大蛇が葛城山におり、それをなだめた話になっているのです。
おまえがいては修行ができない。おまえのいる場所は保証してやるから、人の邪魔をするのはやめ
ろと言った。そうしておいて、聖宝が東南院にやってきて、はっきり言うと忘れていたわけですね。
おまえの住む場所を作ってやると言ったものの、しばらく放っておいた感じです。そしてある晩、
聖宝が宇佐八幡、これは手向山八幡宮のことです。今は東大寺の東側の山手にありますが、奈良時
代から平安時代は大仏殿前の池のすぐわきにありました。だからこのお話の時代設定では、手向山
八幡宮は、東南院のすぐ北にあった。その宇佐八幡宮にお参りしようと思って、聖宝が髪を剃って
いる。そこへ空から大蛇が下がってきて聖宝をつかもうとする。聖宝は「何をするのだ」と言って
退治して、そうすると大蛇は「俺のことはどうなったのだ。どこに住ませてくれるのだ」と言う。
「それは悪かった。それなら若草山で待っていろ」と言い、聖宝が若草山へ行ってみると、大蛇は
小さくなっていた。聖宝は自分のかけていた袈裟でそれを包んで、若草山の奥に放した。その時に、
「この若草山をおまえにやる」と、そして「頭と尾からずっと水を出しなさい」と言った。原文で
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は、
尾頭(をかしら)より水を出だすべし。我はりきのあらんかぎりは、島に樹木を生ずべからず
とちかひたまひぬ」
(
『奈良名所八重桜』より)
おまえはいつまでも水を出せ。そして私は力の続く限り、おまえの領地に木は生えさせないよ、
と。あまり理屈の通らない約束をしています。このあたりは、もう一つわかりません。山に放した
大蛇の頭から水谷川(みずやがわ)という川が流れている。今でもあります。若草山の南側、春日
神社との境にある川が水谷川です。水源は若草山。それから、
尾のかたといふは河上なり(同上)
この河上というのは、河上川という地名があって、これは若草山の北側、今は川上川という地名
になっています。やはりこれは、佐保川の水源になっています。
つまり、若草山から出る二つの川の水源が放した蛇の頭と尾だというのですね。簡単にいうと、
放した蛇は、若草山から出る水の主(ぬし)になったわけです。
さらに、
右の謂(いは)れによつて、今の世までいかなるひでりの年も、両方に水の絶ゆる事なし。聖
宝もやくそくをたがへず、一年に一たび山をやきたまふ。これすなはち、樹木をはやさじとのた
めなるべし。
(同上)
つまり、これが山焼きの起源だという話に、江戸時代の初めの名所案内ではなっていたわけです。
みなさん山焼きはご存じだと思いますが、その起源にはいろいろな説があります。いままで有力
だったのは、東大寺と興福寺の領地争いがあって、その裁定を町奉行所がした。その記念に山を焼
くのだ、という。ちょっと筋が通らない話なのですが、境界にある木を目立たせるために、他の部
分を焼くのだという説明でした。ただし、領地争いの記録はあるのですが、それがために山焼きが
始まったという記録は一切ない。それどころか、それ以前に山焼きしている記録がある。しかし、
歴史的には合理性があると、つい最近までこれが通説のようになっていました。ただし最近、東大
寺や興福寺、奈良の公式な説明では、その説はとらなくなっています。
それ以前の説明で、もう一つあったのは、若草山の頂上に牛墓という墓があって、それは今の鶯
塚(うぐいすづか)古墳ということになっていますが、そこに牛の妖怪が出るというのです。「牛
魂」とあって、
「うしだま」
「ぎゅうこん」とでも読むのでしょうか、そういう妖怪が出ると、江戸
時代の地誌に書いてある。それを退治するために山焼きをする。山焼きしたらそういうものが出て
こない。あるいは、若草山に幽霊が出る。山焼きしていると出てこない。これも筋が通らない話で
すが、領地争いの記録より先に出てきていて、おそらく宗教的な起源があるのだろうと、最近では
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その説を公式に言うようになってきました。つまり、若草山に出没する妖怪を退治するために、正
月の15日、小正月の日に山焼きをするようになったと。もちろん、伝説の一種のお話としてそう
いう起源譚があるということです。
今はそうですが、
『奈良名所八重桜』には先ほどのような説もあるわけです。つまり、水源とな
る大蛇との約束によって、木を生えさせないようにするために山焼きをする。理屈がよく通らない
のですが、こんな説が江戸時代の初め頃にあったのですね。そして、その大蛇を放した場所が袈裟
谷だというのです。
5.大蛇が封じられた場所は
袈裟谷は今ではその場所が分かりません。地名が伝わっていません。ただ、『奈良名所八重桜』
と同じ頃の本格的な地誌に『奈良曝(ざらし)』があり、ここには「袈裟が谷」という地名が出て
きました。
これを見ると、
「袈裟が谷 これもむさしのゝ内に有」とあり、
「むさしの」というのは若草山の
麓一帯を指します。そして、
「これより南へゆけば春日末社之内水谷社へ出る」
、南へ行けば水谷社
がある。
「又此邊より本の八まんかり御殿の方」
、ちょうど『奈良曝』が作られた時に、手向山八幡
宮は修理していた。だから「本の八まんかり御殿」というのは、今の手向山神社のことです。この
へんから手向山神社のほうへ「歸りぬれば辨財天の宮東のかたにあり」、元へ引き返せば、弁財天
の宮が東のほうに出てくる。
この記述から見ると、袈裟が谷というのは、水谷社と弁財天の間にあって、その中間には手向山
八幡宮があるという位置になります。水谷社というのは、現在でもあります。水谷川のたもと、若
草山から春日神社のほうに向かうところに水谷神社というのがあって、これのことです。弁天社と
いうのは、現在、あまり知られておりません。しかし、『大和名所図会』を見ると、二月堂のさら
にもう一つ下の法華堂、つまり今の三月堂の南に池があって、その脇に弁天と書いてあります。現
在でも三月堂の手前に池があり、鳥居があって、弁天様が祀られていますが、看板も立っていませ
ん。これをすごいなあと見に行くのは私くらいのものです。
では、袈裟が谷はどこのことでしょう。谷としてあり得るのは、現在の手向山神社の境内のすぐ
南をかすめるようにある小さな川。この川の名前が白蛇川なのです。若草山の中で谷があるのはこ
こだけです。しかもこの白蛇川は、若草山から流れてきてちょうど、東南院の北をかすめるのです。
白蛇川を奥へ辿っていくと、渓谷らしい感じになってきて、手向山八幡宮の南をかすめて若草山の
奥へと入っていきます。
白蛇川は、『奈良名所八重桜』に書かれている袈裟が谷から流れてくる。この袈裟が谷に放たれ
た蛇は、水谷川や河上川の水源になるような蛇です。大きく言えば若草山の水源としての若草山の
主といっていいものです。
江戸時代の資料ですけれども、聖宝が大蛇を退治して放ったその結果、尽きない水が出るように
なったという話ですから、これはおそらく、水の恵みをもたらすようになったという話でしょう。
日本では、龍や蛇は水神として祀られて、恐れられてもきた経緯があります。そういったものを聖
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宝が退治というより支配下において、東南院の北を流れる水の水源の神様にした、おそらくそうい
う宗教的な意味がこめられた説話と考えていいと思います。
さらに500年も遡る『東大寺要録』の話になるのですが、これもやはり、蛇の姿で現れた大蛇
を退治する話です。奥さんの蛇は殺さずに場所を与えてやった。どこかに移したわけです。江戸時
代のこの説話から推量するに、おそらく若草山に移したのでしょう。そして、この蛇のおかげで多
くの人がいいことがあったというのも、おそらく多くの人に水の恵みを与えた、そんな話だったろ
うと思われます。
この推定を支える傍証がもう一つあります。『東大寺要録』にある話では、大蛇が天井から下が
ってきたとき、その姿が、聖宝さんが置いていた茶碗の水に映っていたというのですね。なぜその
ようなことを言うのだろうかと不思議だった。一方、袈裟が谷、江戸時代の話ですが、聖宝さんが
宇佐八幡宮にお参りするために頭を剃っているところに天から大蛇が下ってきた。これらは普通に
読むと、ストーリーになんら関与していません。こんなことを言わなくてもいいのです。でも、ど
うしてもこれを言いたかったようです。この二つをどうしてだろう……と思っているうちに気がつ
いたことがあります。バリカンなどない昔は髪の毛を日本カミソリで剃っていました。乾いたカミ
ソリだと剃れません。カミソリを使う時には必ず傍に水を張った盥を置き、それで湿して剃りまし
た。今でもお坊さんが剃髪するときは同じようにします。
つまり、宇佐八幡でお参りするために髪を剃っている時には、傍に盥を置いているということな
のです。自分の傍に水を張った器がある。『東大寺要録』の話もお茶碗がある。必ず水が傍にあっ
て、そこに大蛇が映るわけです。逆に言うと、その水の中に大蛇が現れる。ということは、この二
つの話とも、大蛇は水の使い、水の精として現れている。『東大寺要録』には、そうは書いていま
せんけれど、水の精として現れていて、これもやはり若草山の水源となって人々を助けたという話
ではないかな、と。
近世の話を中世に持ち込むのは問題があって、文献的証拠を重視する国文学の先生には、何をバ
カなことをと言われるのですが、私は国文ではないからいいのです。
そう思っていたところ、あっと思う資料がありました。『誰も知らない東大寺』という本です。
著者は東大寺の官長を務められた筒井寛秀(かんしゅう)師。筒井家は代々東大寺の要職を務めて
こられました。また、筒井師は歴史家としても優れた業績を持っておられる方です。この本は本当
に面白い本です。学問的な水準も高く、一方で、何代も東大寺の要職を務めた人でないと分からな
い様々なエピソードが書かれています。それを読んで、「ああ、やはりこれでよかったか」と思う
のは、「白蛇川と聖宝」という東大寺で伝えられている伝説が書いてあって、こんな話なのです。
……若草山に源を発し、手向山(たむけやま)八幡宮の南から流れ出る川があります。この川
は、昔から白蛇川といわれています。
実はこの川には、先ほどお話しした理源大師聖宝ともからんでこんないわれがあるのです。
《聖
宝が大峰山へ登山したとき、洞川(どろかわ)に白蛇が住んでいました。聖宝は山に参詣する人々
の安全のために、この白蛇を封じ込めました。
》
(
『誰も知らない東大寺』より)
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この本ではやはり大峰山の話になっています。そして、洞川に一匹の白蛇がただ住んでいたわけ
ではなくて、参詣人の邪魔をしていたわけですね。つまり、大峰山に参詣人を邪魔する白蛇がいた
わけです。それを封じ込めた。続いて、
その後聖宝が東南院の書斎で書見をしておられると、一匹の白蛇があらわれ、(同上)
葛城山の話と全く同じです。ただ舞台が大峰山に変わっている。
灯火を毒液で滴し、鋭い眼光を現して聖宝に飛びかかろうとしました。
(同上)
このところに、お茶なり盥なりのエピソードが入っていないのですが、灯火を毒液でたらすとい
うのがちょっとひっかかりますね。灯火には油が張ってあって、やはり何かが映るはずです。
そこで聖宝は、暗闇のなかで恐ろしく光る白蛇の眼をにらみつけ、洞川より登山を封ぜし怨み、
いま自分を呪うならば、いよいよ厳しく封じ、この上帰山できざるようになすべし。ゆえに一刻
も早く洞川に帰るべし、
(同上)
と、言葉は使っていませんが、要するに大蛇を退治した。
白蛇は聖宝の勢いに恐れをなして姿を消した。数日後にまた現れる。『東大寺要録』と全く同じ
です。あるいは『奈良名所八重桜』と同じです。ただ奥さんではないけれど、蛇がもう一度出てく
るわけです。聖宝は気の毒に思って、洞川のほうに弁財天の洞を作って、その分社を餅飯殿に祀っ
た。さらにこの川に放生(ほうじょう)しようと、白蛇川にも放った。という話です。
やはり、大峰山の大蛇、蛇を白蛇川に放って、祀ったという話ですね。
『奈良名所八重桜』や『東
大寺要録』とは少し違ってはいますが、共通する部分も多い話です。また、白蛇川に大蛇を放った、
その大蛇は弁天様、水の神様でもある、ということが分かる話です。
以上見てきたように、理源大師の大蛇退治の話は、水の神を支配下において人間の役立つように
するという話であったのではないかと思います。特に東大寺を舞台にした話は、若草山から流れ出
る川の守護神として大蛇を祀ったという宗教的な意味が込められているのではないか。それとくっ
つく形で、大峰山にもあった高僧が大蛇を支配下においた話。これと入り交じって現在のような大
和の伝説ができてきたのだろうということです。
もう少し言いますと、蛇というものは、水に関わるいろいろな出来事の原因と思われているよう
で、昔はもっと広く言われた痕跡があるのですが、現在でも長野県の特に木曽のほうで「蛇抜(じ
ゃぬ)け」という言葉があります。何を意味するかというと、土石流のことなのです。長く雨が降
り続いて、土砂が崩れて抜けていくのを「蛇抜け」、蛇が抜けると呼んでいるのです。そういう水
に起因するさまざまな災害を蛇のせいにしている。修行を邪魔するというのも、ひょっとしたらそ
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のような意味合いがあったのかなとも思います。
蛇抜けと似た言葉で、
「蛇崩(じゃぐえ・じゃくい)」があります。世田谷区に蛇崩川(じゃくず
れがわ)があって、あれは、川が氾濫したことでついた地名だと思います。「蛇崩」もよく探すと
全国にある地名で、やはり川沿いにあるものです。
現実にはそうではないのですが、修験者という山伏が山で修行をすることによって、自然災害を
コントロールしてくれる。あるいは逆にいうと、「俺はそんなことをする力があるぞ。法螺貝を吹
けば、もうそんなことは起きないぞ」と言っていたのがこういった観念の基本にあると思うわけで
す。
このようなことが「そんなバカな」と言われるようになると、本当に「法螺吹き」と言われてし
まうのです(笑)。法螺を吹くというのも、最初は今のような意味以上に、宗教的な意味があった
のではないかと考えられます。また、それが嘘つきの意味になっていくのは、修験道・山伏の宗教
的権威の低下に伴っているのではないかと思っております。
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