血みどろ博士

■連載小説『血みどろ博士』
第
血みどろ博士
回■
血みどろ博士は、今日も血みどろだ。
遠藤徹
endou touru
いや、今日もというのは正鵠を射ていない。いまも、あるいはいままさにとい
うべきなのかもしれない。なにしろ、自分が血みどろだということにたったいま
気づいたところ な の だ か ら 。
「なるほど、わたしは血みどろだ」
血みどろ博士は鏡を見る。鏡に映る血みどろな自分を見る。
「白衣も、白衣の下にのぞいているカッターシャツも血みどろだ」
足下に目線を 落 と す 。
「白衣の裾から延びだしているフランネルのズボンも、よく磨き上げられた牛革
の黒靴も血みど ろ だ 」
それから顔をあげ、鏡のなかで左右が入れ替わった自分の顔と向き合う。
「白髪の交じった髪の毛も血みどろだし、両の眼を驚愕に見開いた顔全体も血み
どろだ」
もういちど鏡のなかで二次元の映像と化した自分を子細に眺めて、納得したよ
うにうなずく。けれども、その後、いややっぱり納得できないといわんばかりに
首を横に振る。
「それにしても 、 な ぜ だ 」
と眉をひそめ る 。
「そもそもどうしてわたしは血みどろなのだろう」
合点がいかぬという風に血みどろの手で血みどろの顎をなでる。
「血みどろ博士だから血みどろなのか、それとも血みどろだから血みどろ博士な
のだろうか」
血みどろのこめかみに血みどろの指先を当てる。
思い出そうとするかのように、
「どうだったっけ。そもそもいつからわたしは血みどろだったのだろう。だいだ
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い、いつから博士になったのだろう。それに、いったい何の博士だというのだろ
う。そして、血みどろと博士とがひとつになったのはどうしてなんだろう」
わからないことはまだまだあるぞと意気込んで、
「あるいは、い や 、 さ ら に は 」
と呟いてみる 。
「それ以前のわたしはいったい何だったのだ。血みどろになる前、博士になる前、
そして血みどろ博士になる前のわたしはいったいなんだったのだろう。いや、待
てよ」
訝しげな表情 に な り 、
「はたしてわたしにそんな時間が存在したのだろうか。わたしが血みどろでも、
博士でも、血みどろ博士でもなかったような時があったのだろうか。つまり、わ
たしはいつから存在しているのだろうか、この場所に」
なぜだろうか? どうしても、生誕とか、幼年期とか、児童期とか、思春期とか、
青年期とか、成人期とかが自分にあったような気がしないのだった。ここ以外の
場所に自分がいたという記憶が思い当たらない。というより、記憶そのものが見
当たらないのだ。この今、まさにこの瞬間以外の時、あるいはここ以外の場所と、
自分がかかわりを持ったことなどあるのだろうか。いや、あったのだろうか?
・・・
「いま」がいつで、
「ここ」がどこな
それに、いまここ、といったって、
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のかすらわから な い 。
けれども、だからといって、このような血みどろ博士という人間として、自分
がこの場にこの姿で不意に出現したなどということがありうるのだろうか。
「いや」
と、博士はさらにも自分を追い詰める。
「そもそも、自分はほんとうに人間なのだろうか? あるいは、ほんとうに存在
しているのだろうか? どのような位相において存在しているといえるのだろう
か?」
そして、気づ く 。
「というよりも む し ろ 」
不思議でならないという表情になる。いやむしろ、不思議でたまらないという
表情。たまらなく興味深いという表情だ。
「なぜ、わたしは血みどろ博士なのだろう。誰がそう呼んだのだろう。誰にそう
呼ばれたのだろう。いつそう呼ばれたのだろう。あるいは自分で自分のことをそ
う呼んでいるだけなのだろうか。だとしたら、それはなぜなのだろう」
それは、問うてもせんのないことであった。切りがないから、果てがないから
であった。まさに、底なし沼のごとき難問である。解こうとすればするほど、深
みにはまりこむという類の、ある種の迷宮である。博士はそう気づいた。博士だ
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から気づいたのか、血みどろだからだったのか、はたまた血みどろ博士だったか
らなのかはわか ら な い が 。
「おやおや」
と、博士は両手を広げて、お手上げというポーズをしてみる。鏡のなかの血ま
みれの自分が同じポーズを取るのを見て、
ああやめておけばよかったと後悔する。
血まみれでやるには、かわいらし過ぎる仕草だったと気づいたからだ。
「どうやらわたしは自分で自分を迷宮に追い込もうとしていたようだ。それはど
うしてだろう。わたしは迷いたいのか。迷った果てに出口を見失いたいのだろう
か。なぜだろう。なぜわたしは迷いたいのか、そしてなぜ出口を見失いたいのだ
ろうか」
答えが見つからないので、というより答えなど見つからないだろうということ
があらかじめ理解できたので、血みどろ博士はため息をつく。鏡の中の自分がた
め息をつく仕草は、血みどろでもそれほど分不相応ではないように感じられたの
で、博士は少し だ け 満 足 す る 。
血みどろ博士はあらためて鏡を見る。けれども、今度は自分を見ているわけで
はない。鏡に映っている自分の部屋を見ているのだ。
「ああ、部屋も血みどろだな。なによりもまず手術台が血みどろだ。いや、手術
台ではなくて解剖台であるのかもしれないが。その手術台、あるいは解剖台の上
も血みどろだ。手術台、あるいは解剖台からこぼれ落ちたもので部屋の床も血み
どろだ」
少し視線を泳がせて、鏡に映る部屋のなかに視線をさまよわせる。手術台より
さらに奥にあるものが気になる。それは、部屋の角に寄せて置かれた机。ウォー
ルナット材で作られた高級机のようである。
「手術台あるいは、解剖台の向こうにあるのは机のようだ。とはいえ、血みどろ
の体でわたしが座るせいなのだろうが椅子も血みどろだ。おまけに、血みどろの
手で作業をするから机も血みどろだ」
視線を巡らせれば、部屋の壁一面が書棚である。
「たくさんの書物があるようだ。古今東西の諸言語で書かれた諸学の書物のよう
だ。背表紙のタイトルを見る限り、
特定の分野への偏りというのは感じられない。
ビブリオフィル
タイトルが読み取れるということは、どうやら、わたしはいわゆる諸言語に通じ
万巻の書をひもとくといったタイプであったようだ。博学の愛書家といったとこ
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ろだろうか。とはいえ、血みどろの手で取って読むからわたしの蔵書もすべて血
みどろのようだ 」
はて、と博士は視線を戻す。机の上の書見台に、開かれたまま放置された一冊
の書物があったことを思い出したのだ。
かなり分厚いものだな、と博士は思う。
「はて、わたしはいったい何を読んでいたのだろう? なんという書物なのだろ
うか」
くるりと身を翻す。そのまま手術台、あるいは解剖台を迂回して机に近づく。
少しどきどきする。何の本を読んでいたかがわかれば、あるいはその本を少し読
んでみれば、なんらかの記憶がよみがえるかもしれないと期待し、同時に恐れた
からだ。
「さて、と」
わざと落ち着いた風な声を出して見る。
震える手で、ページを開いたままで机に裏返しにされている本を手に取る。タ
イトルを見ようとするが、背表紙ははぎ取られており、はぎ取られたあとが血み
どろの指紋で汚れている。表紙もはぎ取られており、
内表紙も破り取られている。
開いていたページを見ると、白紙である。
「白紙? いやそうじゃないな」
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それが白紙であることを博士は否定する。白紙の紙の上に、文字の痕跡のよう
なものが残っていることに気づいたからだ。
「むしろ赤紙だ。あるいは血糊紙。まったく、どのページも血みどろじゃないか。
おまけに、どうやら、すべての文字が丁寧に消されているようだ。血みどろの手
がこのページの文字を丁寧に消し去ったのだろうかいや、そうじゃない。すべて
の文字が丁寧に消されたあとで血みどろの手がこの書をひもといたのだ」
次々とページをめくってみる。めくる度に、すでに血まみれのページが、さら
に血みどろ博士の血みどろの指痕で血みどろになっていく。
「痕跡を指でたどっても読みとれない。薄すぎるし、字が躍りすぎている。わた
しはこんなに乱筆だったのか? まるで見たことのない異国の文字のようだ」
あるいは、さまざまに身をくねらせてからみあう地虫の群れのようだと思う。
いや、地虫が身をよじった痕跡のようだと。
「いったい誰がこんなことをしたのだろう? 誰が書いた文字を誰が消したのだ
ろ う? 誰 か が 書 い た 文 字 を 別 の 誰 か が、 あ る い は 同 じ 誰 か が 消 し た の だ ろ う
か? あるいは、誰かが書いた文字をわたしが消したのだろうか? それとも、
わたしが書いた文字を誰かが消したのだろうか? でも、この部屋に私以外の誰
かがいたことがあるのだろうか? とすれば、わたしが書いた文字をわたしが消
したのだろうか? それなら、なぜわたしはそれを覚えていないのだろうか?」
そして博士は 気 が 付 く 。
「そうか、これは日記帳だ。おそらくはわたしのものだ。なぜなら」
と白紙のページを指先でなぞる。なぞったところが、血みどろの指のせいで血
みどろに汚れて い く 。
「この筆跡にわたしは見覚えがあるからだ。いや、待てよ、もしかしたら見覚え
があるような気がしているだけなのかもしれないぞ。こうして、じっと見ている
うちに、なじみがあるような気がしてきただけなのかもしれないではないか。と
にかく、読み取ろうとしてもわたしには読めない。まるで、つづりが意味をなさ
ないように感じられるからだ。どういうことだろう。見覚えがあるような気がす
るのに、読めないとはいったいどういうことなのだろう。書架に並んだ諸言語の
書物のタイトルが読めるわたしに、
まだ知らない言語があったのだろうか。でも、
だとしたら、これを書いたのは誰だということになるのだろう? そうか、もし
かしたら、これは私自身が開発した暗号文字であったのかもしれない。でもそう
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だとしたら、わたしは自分が開発した文字の読み方を忘れてしまったとでもいう
のだろうか?」
本を、あるいは日記を読むことをあきらめて、博士は振り返る。読めないのだ
から、あきらめる以外に対処のしようがないからだ。
「それにしても 」
と、部屋の中央に置かれたものを見て首をかしげる。
「なぜ、わたしの部屋には手術台などがあるのか? むろん、手術台ではなくて
解剖台だという可能性も否定しきれないが。まあ、いずれにせよ帰納法的にはわ
メトニミー
かりやすいな。この部屋を血みどろにするため、そしてわたしを血みどろ博士に
アイテム
するために、これは欠かせない要素だったということなのだろう。いわゆる換喩
的な 品 物だということだ。むろん、なぜわたしが血みどろ博士でなければなら
ないのか、あるいはなぜわたしが血みどろ博士にならねばならないのかという問
いへの答えは宙づりのままなのだが」
「おや?」と眉をひそめる。
とそこでふいに、血みどろ博士は、
解剖台の上にあるものが血だけではないことに気づいたからだ。血のかたまり
があった。いや、ただの血のかたまりではなく、血みどろになってぴくぴく動い
ているものがそこにあったのだ。いや、ほんとうにあったのか? 一瞬前までは
そんなものはなかったような気がするから、なかったのではないか? たったい
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ま初めてそれはあるようになったのではないか? そんな疑念も払拭できたわけ
ではない。悩めば悩むほど、それはずっとそこにあったようにも思えるし、たっ
たいまそこに出現したようにも思われてくるのだった。
血みどろ博士は、そのぴくぴくするかたまりに近づいていく。
「これは誰だったっけ? それとも何かだったっけ?」
思い出そうとするかのように、血みどろのぴくぴく動くかたまりにおそるおそ
る手を触れる。ぬるりとした感覚。いやぬらりとしたというべきだろうか。形容
詞の選び方に血みどろ博士は腐心する。触れたとたん、かたまりがびくりと、あ
るいはぴくりと身を震わせる。そのびくり、
あるいはぴくりという反応に驚いて、
血みどろ博士も思わず一度手を引っ込める。
「なんというこ と だ 」
驚きの声を発 す る 。
「こんな状態になっても、お前はまだ生きているというのか?」
血みどろ博士はおずおずと問いかける。
「覚えているのなら、教えておくれ。お前はなぜこんな血みどろの姿になってし
まったのかを」
びくりむくり。あるいは、ぴくりむっくり。血みどろのかたまりがうごめく。
血みどろのせいでくぐもった声が突然に響く。くぐもっているくせに、本質的に
は高音のきんきんした声である。
「いやだなあ、 博 士 」
少しトーンの高い声だが、くだけた口調である。くぐもっているくせに、甲高
くなれなれしい。血みどろのかたまりの口ぶりには、いまさらなにをという感触
がこめられている。口ぶりといっても、口がどこにあるのかは、あるいはほんと
うに口などがあるのかは定かではないのだが。
「そんな大事なことを忘れないでくださいよ」
血みどろのかたまりのくだけた口調は、博士を安心させる。さきほど来一度も
なかったほど、安堵している自分がいることに血まみれ博士は気がつく。まるで
十年来の知己にでも出会ったような気分である。
「そうなのか、大事なことなのかい?」
「そりゃあそう で す と も 」
血みどろのかたまりは、そこで鯨が潮を噴き上げるみたいな感じに血をぷしゅ
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っと吹き上げる と 、
「くひっ」
と呻いて身を よ じ る 。
「どうしたね、大丈夫かい。痛むのかね」
「そりゃあ、そうでしょう。お分かりの癖に」
当然でしょう、という感じで血みどろのかたまりは恨めしそうな声を上げる。
まるで、あなたのせいでしょうが、と責められているようだと、博士は少し胸を
痛める。
「だってわたしは博士のために、この実験に身を呈したわけですからね」
そうだったのか、と愕然とした表情になる血みどろ博士。
「これは実験だったのだな。そうかそうか。だからわたしは博士だというわけだ
な。実験をするから博士なのだ」
果てしないといってもいいほどの安堵感が博士を癒す。ああよかった。わたし
はやはり博士だったのだ。なにしろ、
実験をしているくらいなのだから。そして、
実験の成果、あるいはなれの果てとでもいえるものが、こうして目の前で語り始
めているのだか ら 。
「でも」
と再び不安の発作にさいなまれる博士。その不安を、博士はすがるような気持
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ちで口に出してしまう。そう、血みどろ博士はいま血みどろのかたまりにすがり
つきたいような気持ちになっているのである。
「これはいったいなんの実験だったっけ。なんのための実験なんだったっけ。そ
して君はいったい誰だったっけ」
さきほどからの親しげな態度、そして話の内容からすると、わたしの助手かな
にかであるように思われるが、と血みどろ博士は憶測する。助手ということにな
れば、と博士は期待する。ますますわたしの博士としての実在の確実性に拍車が
かかろうというものではないか。
「まあ、なんということでしょう」
驚愕の声があがり、血みどろのかたまりが身をよじって血をぶちまける。
「まさか、実験の目的をお忘れになったのですか」
「うん、どうもそうらしいんだ」
「これほどの大 実 験 の 」
「それほどのものだったのかね」
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「まあ、それほどでもないかもしれませんが」
「いったいどっ ち な ん だ ね 」
博士は戸惑う 。
「まあ、どっちともいえるでしょうね。あれほどとも、
あるいはこれっぽっちとも」
「そうなのか」
これっぽっちという言葉は、博士を委縮させる。博士の正体不明な自負のよう
なものを。
「でも、いずれにせよあまりに無責任ではありませんか」
なじられて博士は申し訳ない気持ちになる。どれほどの規模の実験であったに
せよ、きっとよほどの大義のためだったのだ。人類愛とか人類救済とか人類啓蒙
とかきっとそういった類のあれだ。血みどろ博士はそう考えて少し得意な気分に
なる。けれども同時に、自分の名がどちらかといえば、否定的なニュアンスを帯
びていることが気になり始める。否定的というより暗黒的、非人道的、あるいは
背徳的な響きではないか、血みどろ博士というのは。とすれば、もしかして、こ
れはむしろマッドサイエンティスト的なあれだったのかもしれないぞ。人類憎悪
とか人類殲滅とか人類洗脳とかそういった類のあれだったのかもしれない。
(第 回 了)
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