10 年後の『言語のためのヨーロッパ共通参照枠組』 欧州評議会言語政策

報告:10 年後の『言語のためのヨーロッパ共通参照枠組』
──欧州評議会言語政策部局クリストフ・レイノルズ氏に聞く──
2010 年 3 月 24 日、新潟大学人文社会・教育科学系教授の高田晴夫氏と共に欧州評議会言語政策
部局を訪れ、アゴラ棟 B5-04C 室にてクリストフ・レイノルズ氏に面会し、『言語のためのヨーロッパ共通
参照枠組(CEFR)』および「ヨーロッパ言語ポートフォリオ(PEL)」の発表以降の展開についてインタビュ
ーし、さらに高等教育機関における CEFR、PEL の影響について情報を求めた。
1. 教育言語の共通基盤──「教育における言語、教育のための言語」プロジェクト
『言語のためのヨーロッパ共通参照枠組(CEFR)』を発表した後、言語政策部局では、欧州連合教育
相会議の要請により、学校教育の場における言語の分析に取り組んでいる。子供たちの学校教育にお
ける成功は彼らの言語能力に大きく依存している。どの教科であれ授業中に使われる用語を理解でき
なければ教えられる内容を理解することは難しいであろうし、またそういった子供たちの学業成績が振る
わないとしてもそれは決してその子供の能力が劣っているからではなく、教科に特有の語彙の理解不足
が子供の学業を妨げているからである。さらにそうした事態は授業で使用される言語とは異なる言語を
母語とする子供たち、例えば移民家庭の子供や地域言語のみを使う家庭の子供にはより深刻な事態と
なっている。
そ こで 言語政策部局で は 2005 年より「 教育における言語、教育の ための言語」 (Languages in
Education, Languages for Education)プロジェクトを立ち上げ、「汎言語的・相互文化的教育のためのリソ
ースとレファレンスのプラットフォーム」(A platform of resources and references for plurilingual and
intercultural education) 構築を目指している。汎言語的・相互文化的教育とは、学校教育を通じて子供
たちに市民として効果的に行動し、知識を獲得し、そして他者に対して開かれた態度を養成するための
言語的・相互文化的能力を身につけさせるための教育システムを示す。そしてこのプラットフォーム構築
の目的は、義務教育期の子供たち(およそ 11 才から 16 才くらいまでの初等教育・初期中等教育を受け
ている子供たち)が持つ授業中の言語的困難を特定し、彼らが躓くことなく学業を続けられるようにする
ことである。教育言語にハンディキャップを持つ子供たちでも学業で成功を収めることができるために必
要な言語能力を分析して体系的に記述し、さらに教育現場での優秀な実践モデルなどの具体例なども
含めて教育の参与者がいつでも参照することができるようにプラットフォーム上で提供する計画で、この
ようにして学校教育を受けるための言語運用能力を体系化し、CEFR で提示した現代外国語運用能力
とリンクさせ、CEFR では記述することのできなかった母語あるいは第一言語、そして教育言語の効果的
な習得あるいは教授に役立てるのが狙いである。
2. 学校教育のための言語ポートフォリオ
レイノルズ氏によれば、「ヨーロッパ言語ポートフォリオ(PEL)」の研究開発当時、使用者として対象とし
たのは学生や成人であり、義務教育期の子供たちの使用は想定していなかったそうである。しかしなが
ら開発者の意図に反して現在では高等教育機関よりもむしろ初等・中等教育機関において PEL は大き
な成功を収めており、2010 年 3 月の時点でヨーロッパ言語ポートフォリオ承認委員会によって認定され
た PEL は 107 を数え、その大部分がこのような若い使用者を対象としている。時には日本からも言語ポ
ートフォリオの承認依頼が持ち込まれるそうであるが、承認委員会による認定制度は 2010 年 12 月末日
をもって終了し、2011 年より PEL は新しい段階に入る。
そこでまず事業計画の大きな柱の1つになるのが、若年層を対象としたジュニア版言語パスポートの
作成である。PEL 開発者の手引きには「PEL は使用者のものである」と明記されているものの、しかしな
がら実際には子供たちが PEL を使うのを指揮するのは教員であることが多く、1つの課題を終えて PEL
に記入したら教員の承認を受けてまた次の課題に進むというような例が散見される。現在開発が進む新
しい言語パスポートは、子供たちに自律性を与えることを最大限に考慮し、子供が自ら進んで楽しみな
がら取り組んでいけるようなものを目指している。
しかしながら子供が言語パスポートに親しむためには、ただそれを投げ与えて放っておくだけではなく、
学校教育を通じて子供たちが自分の学習の方法や内容に関心を持つように指導することが必要となる。
レイノルズ氏は PEL を教育システムに付加するのではなく、むしろその中に統合させることが不可欠で
あると考えており、言語教育政策部局では統合を支援するためのポートフォリオ・モジュールの提供を計
画している。それはインターネット上で誰もがアクセスできるリソースとして提供されたモジュールの中か
ら、教員や教育機関が自由に選択して授業やカリキュラムの中で活用することのできるようなものになる
であろうとのことである。
3. 『相互文化的出会いの自己記録』
CEFR および PEL でを用いて記述することが難しい母国語や教育言語の運用能力を言語教育政策部
局が新たに取り上げて、プラットフォームとして体系化しようと試みていることは先に述べた。言語教育政
策部局はさらに、相互文化的体験を記録し自己分析するための冊子を作成している。それが『相互文
化的出会いの自己記録(Autobiography of Intercultural Encounters、AIE)』である。学生用とジュニア用
がそれぞれ英語版およびフランス語版で作成されており、指導者のための手引きと併せて言語教育政
策部局のホームページ上に PDF の形で公開され、誰でも入手することができる。PEL が言語パスポート、
言語バイオグラフィー、資料集の3部構成を基本とすることは広く知られているが、レイノルズ氏によれば
AIE は PEL の第4部と捉えられるそうである。記録される内容は(1)知識とスキル、(2)行動(behaviour)、
(3)態度と感情、(4)行為(action)の4つの枠組みに分類され、それらの自己分析あるいはペアやグルー
プでの議論を通じて異文化体験を深化させ、そこから他者と自己の新しい認識を生み出すためのもの
である。
4. 高等教育機関における CEFR、PEL の影響力
2001 年の発表以降、CEFR は莫大な成功を収め、今や欧州評議会が発行した文書の中では「人権宣
言」に次いで2番目に参照されることの多い文書となった。フランスでは現代語科目の初等・中等教育指
導要領に CEFR の運用能力基準が採用され、また義務教育期間に PEL が幅広く使用されるようになっ
てきている。
初等・中等教育への影響力はこのように非常に大きいにもかかわらず、それらに比べると高等教育に
与えた影響はそれほど目覚ましいものではないそうである。レイノルズ氏は、言語教育政策部局は理念
を政策として具現化するところであるため具体的教育実践にはあまり詳しくないのだとしながらも、ヨーロ
ッパの大学での CEFR および PEL に関わる優秀な実践事例としてはブルガリアのソフィア大学が参考に
なるだろうとのことであった。
PEL の成功が高等教育機関では比較的地味であることについてレイノルズ氏の意見を求めたところ、
まずひとつにはポートフォリオのように段階を追って取り組んでいくようなツールに無理なく馴染むことが
できるのは大学生よりも小中学生だろうということ、もうひとつには現代語教育は小学校から始まっている
ため大学生にもなるとその運用能力は CEFR で記述するところの「熟達した言語使用者」レベルにすで
に達しており、学習内容も専門的になるので言語ポートフォリオがそれほど必要とされないのではない
だろうかということであった。
CEFR の第 3 章に記された言語運用能力の自己評価表だけが一人歩きし、ヨーロッパを超えてまさに世
界中の言語教育に影響を与えていることに懸念を表明しつつも、母語・外国語を問わず言語運用能力
の獲得を通して民主的な社会を構成する一員を育むための理念および方略を、私たちの質問に答え
つつ 3 時間に渡って熱弁を振るってくれたクリストフ・レイノルズ氏に改めて感謝の意を表したい。
報告者:駒形千夏