今日のみことば 10月12日(日) 申命記 32章 モーセの歌がここに記され

今日のみことば
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10月12日(日) 申命記
32章
モーセの歌がここに記されている。モーセは紅海を渡ったと
きに歌った歌に40年の経験を加えて歌う。神の愛に忘恩と不
忠実をもって報いる民の愚かしさが告げられる。
□ 10月13日(月) 申命記
33章
モーセは死ぬ前に、各部族を祝福しました。この祝福は、偉
大なるヤーウエに対する讃美を序文に、その民に大いなること
をなされるヤーウエへの歓喜にあふれた頌栄で結ばれる。
□ 10月14日(火) 申命記
34章
ネボ山の頂上からモーセは約束の国の光景を見下ろしていた
モーセの働きは終わった。神はその働き人を葬られたが、その
働きは継続された。神は最善をなしてくださった。
□ 10月15日(水) ヨシュア
1章
モーセのあとヨシュアはイスラエルの民を指導した。神は立
てられた人に必ず力が与えられる。「強く雄々しくあれ」と命
じられ、律法を守るようにと命じられる。
□ 10月16日(木) ヨシュア
2章
堅固な町エリコに送られた斥候は、すぐに見つかったが、遊
女ラハブの機転で命拾いをした。ラハブは遊女であったが、真
の神を知り、信じて信仰にふさわしい行動を起こした。
□ 10月17日(金) ヨシュア
3章
ヨシュアは前に立ちはだかるヨルダン川を承知で、前進の命
令を下した。彼は神にははっきりとしたご計画があると確信し
たからでした。
□、10月18日(土) ヨシュア
4章
イスラエルの民は40年ぶりに渡川の奇蹟を経験した。ヨル
ダン渡川後河床から12の部族にちなんで12の石を取り、こ
れを記念として据えることを命じた。神を覚えるためでした。
「光」は忌み嫌われているとあ
る人が言いました。イエスが「と
もし火をともして升の下に置く者
はいない。灯台の上に置く。そう
すれば、家の中のもののすべてを
照らすのである」と言われことが
それを語っています。世間では白
ヨハネ8:12
日の下にさらされては困ることは
隠そうとするが、イエスはその考
イエスは言われた。「わた えを問われるのです。
しは世の光である。わたし
イエスの教えに権威を覚える人
に従う者は暗闇の中を歩ま たちが増える危機感を覚えたパリ
ず、命の光を持つ」
サイ派の人々は、何とかしてイエ
スを排斥する口実を見つけるのに
躍起でした。そこで姦通の現場で
捕らえられた女を連れて来て、モ
ーセの律法の義を問う問答を吹き
かけてきました。それにはイエス
は沈黙をされ、しばらくして「罪
を犯したことがないものが、まず
この女に石を投げなさい」と言われました。しばらくするとこ
の女の処分を求めてきたものは、誰一人そこにはいなくなりま
した(ヨハネ8:1-11)。そこでイエスは口を開かれ「わたしは世の
光です」と言われます。そしてイエスはこうも言われる「光が
世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を
好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハネ3:19)と。耳を
大きく開いて聞かねばなりません。
光がもたらせられることを、人々は決して喜びはしませんで
した。イエスのお出でをヨハネは「言は世にあった。世は言に
よって成ったが、世は言を認めなかった」と言いました。パウ
ろ
ば
No.1678
2014年 10月12日
日本バプテスト 立川キリスト教会
牧師
大川 博之
ロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝え
ています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人
には愚かなものですが、召された者には、神の力、神の知恵で
あるキリストを宣べ伝えているのです」と言いました。キリス
トの十字架が問うものの大きさを覚えさせられます。
ここには私たちが「地の塩、世の光」を標榜するだけにとど
まらない、すべてを白日に下にさらされることを求めておられ
るイエスを見るのです。私は、私たち人間の思いの中には少し
陰があってもという思いがあると思っています。そこに人間ら
しさを感じてもいます。しかし神はそのような妥協は許されな
いのです。言ってみれば黒白ははっきりする。これはいのちに
関わる問題だからです。私たちはいのちとどのように向き合っ
ているか。さらには永遠のいのちとどのように向き合っている
か。イエスの宣教の第一声は「神の国は近づいた。悔い改めて
福音を信ぜよ」です。そこで告げられていることは明白です。
神の国ではいかなる隠し事も明らかにされるのです それは大
変に残酷です。私はそれに耐えられず泣き崩れることです。け
れどもそのことなしには、私たちは神の国に入れられることは
出来ないのです。だからキリスト・イエスの十字架がそこに立
つのです。キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりとなっ
てくださったというのではありません。私たちは私たちが支払
うべき罪の代価である死を、ご自身が支払ってくださったと言
うことです。なぜならイエスは「世の光」だからです。光より
闇を愛する世にあって、すべてを白日の下にされた私たちの罪
をすべて購い取ってくださったイエスです。そこで私たちはど
う応えるのでしょうか。
次週の聖書・説教
ヨハネ10:1-10
私は門である
《 聖書の学び・祈祷会 》
マタイ 8
聖書に聞く私の状態
イエスは山から下りてこられると、そこには現実の世界が待
ち構えていました。イエスは説教で教えられるだけではなく、
行為をもっても群衆に語りかけられました。
イエスはライ病、中風、熱病などの病気回復の奇蹟を行われ
ました。イエスのガリラヤ伝道は多くの奇蹟によって飾られて
います。イエスの病のいやしは神の国がサタンの国を征服する
しるしでもありました。
その後イエスはしばらくの間、群衆と離れて休もうと思われ
ましたが、一人の律法学者の言葉を聞かれてイエスは、険しい
弟子たる者の道を説かれました。「わたしに従いなさい。死ん
でいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とイエスは
言われる。イエスの私たちへの思いは明白です。「まず神の国
と神の義とを求めなさい」と言われました。私たちにとって何
が最優先するものであるかと問われるのです。