今日のみことば 2月22日(日) 列王記下 5章 神の関心はイスラエル人に

今日のみことば
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2月22日(日) 列王記下
5章
神の関心はイスラエル人に限定されてはいない。アラム軍の
ナアマン将軍はイスラエルの少女の助言で、預言者エリシャに
よって病いをいやされる。
□ 2月23日(月) 列王記下
6章
エリシャは斧の頭をなくした男を助け、それを川の面に浮か
べた。エリシャは、アラム人により攻撃についてイスラエルの
王に警告をした。王はその忠言を退けた。
□ 2月24日(火) 列王記下
7章
サマリヤがアラム軍に包囲され、飢饉に見舞われた。預言者
エリシャがカリスマ的にその飢饉の終わりを告げ、その言葉の
ように飢饉は終わった。
□ 2月25日(水) 列王記下
8章
ここにはエリシャの働きの一事件について述べられており、
さらにはアラムの次の王について、ユダの二人の王ヨラムとア
ハズヤの治世について記述されている。
□ 2月26日(木) 列王記下
9章
エリシャはラモト・ギレアドでイエフに油を注ぎイスラエル
の王に任命した。それは預言者エリヤの預言の成就でもあった
イエフはイスラエルとユダの邪悪な王を殺した。
□ 2月27日(金) 列王記下
10章
イエフの治世は、アハブの家族全員、ユダ王家の大勢の人々
バアルの預言者、祭司たちの流血で始まった。神の律法は無視
されてイエフ王朝は始まった。
□、2月28日(土) 列王記下
11章
王位を自分の物としようしたアタルヤに対して、秩序を回復
しようとして謀叛を起こしてた祭司ヨヤダの働きについて記さ
れている。正統なダビデの系統であるヨアシュが王となった。
受難週に入りました。キリスト
・イエスの受難を通して私たちは
何をそこに聞くのですか。そもそ
も神の独り子なるイエスが、受難
を受け十字架への道を歩まねばな
らない理由はどこにあったのです
か。言うまでもありません。私た
ルカ13:3
ちが救われるためです。じっくり
とこの受難節の間み言葉に聞こう
言っておくが、あなた方も と思っておられるとするなら、そ
悔い改めなければ、皆同じ れでは間に合いません。「主の日
ように滅びる。
は近い」と告げられている言葉を
無視してはなりません。イエスは
「それは盗人が来るように来る」
と言われました。イザヤは言いま
した「主を尋ね求めよ。見いだし
うるときに。呼び求めよ、近くに
いますうちに」と。悔い改めは緊
急の出来事です。確かに「主は恵
みに富み、憐れみ深く/忍耐強く
慈しみに満ちておられます」(詩篇145:8)が、罪の中にある私
たちへの注ぎ入れはあり得ないことです。泥水いっぱいのコッ
プにはきれいな水を注ぎ入れることは出来ないように、神の恵
みいっぱいの私たちにしていただくためには、その泥水を捨て
去らなければなりません。それがキリストの受難をしっかりと
見つめて悔い改めに至ることです。「呼び求めよ。近くにいま
すうちに」とあります。
私たちはどれほど自分自身を知っているのでしょうか。神の
前にどれほどに罪ある者であるかを知っていると自認をしてい
ますが、それが問題なのです。ハムレットの「死ぬべきか、生
ろ
ば
No.1697
2014年
2月22日
日本バプテスト 立川キリスト教会
牧師
大川 博之
きるべきか。それが問題だ」との言葉がここにあるのではない
かと思っているのです。自認などというものではなく、罪人な
んです。ただただ神の前に悔い改めて、赦しと憐れみを請い求
めるのみです。イザヤは「神に逆らう者はその道を離れ/悪を
行う者はそのたくらみを捨てよ」と言いました。放蕩息子は自
分の愚かさを悟ったとき「ここをたち、父のところへ行って言
おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対
しても罪を犯しました』」(ルカ15:18)と言う決心をしました。
そして彼は直ちに父の元へ帰りました。帰ってきた放蕩息子を
父は何も聞かずに、腕を広げて抱擁して彼を迎え入れました。
ここが大事な点です。悔い改めと抱擁。私はそこに、私が置か
れているとの認識の大事さを覚えなければならないと思ってい
るのです。
忘れてはなりません。ヨブは「人は女から生まれ、人生は短
く、苦しみは絶えない。花のように咲きでては、しおれ、影の
ように移ろい、永らえることはない」(ヨブ14:1-2)と言いまし
た。ペテロは「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一
日のようです」(ペテロ第二3:8)と言いました。「主は近い」と
言うことをしっかりと心得て日を過ごすことはことです。私は
もう一度「盗人が夜やってくるように、主の日は来ると言うこ
とを、あなた方自身よく知っている」(テサロニカ第一5:2)との聖書
の言葉を確認しなければなりません。「主は立ち帰るならば、
主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊
かに赦してくださる」主の前に、私たちは悔い改めて立ち帰る
のです。
次週の聖書・説教
ルカ14:25-35
弟子の条件
《 聖書の学び・祈祷会 》
箴言26:1-12
頑固な愚か者
ここで言う「頑固」とは、空しいとか厚い壁とかを指すもの
で、イエスが語られた「愚かな金持ち」(ルカ12:16-21)のことい
うと言える。ほんとうに何にも知らない。「知恵ある人の冠は
その富/愚か者の冠はその無知」(14:24)と言われます。
それは、私たちが歩む日々にそのことはいつも心に留めてお
くべきことです「知恵ある者と共に歩けば知恵を得/愚か者と
交われば災いに遭う」(13:20)と言われる。さらには「知恵あ
る子は父の喜び、愚かな子は鼻の嘆き」(10:1)と言われるとき
に、これは私一人のことで済むものではないということを心に
覚えるべきです。
私たちはその大切な自分の人生を自分で朽ちさせているので
はないだろうか。「浅はかな者は座して死に至り/愚か者は無
為の内に滅びる」(1:32)と言われ言葉にある。この愚かは自分
で摘み取ることができるものです。