リスクに対応できる社会をめざして - Valdes

【教員からの寄稿】
リスクに対応できる社会をめざして
今田 高俊
東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻、教授
キー ワー ド:リスク、科学技術
要 旨 :近代の産業社会はリスク社会へとその位相を変えつつある。こうした社会への対応を模索すべきと
きである。そのためには、リスク指標・リスク管理・リスクコミュニケーションなどの分野横断的研究が必須
である。
科学技術の発展により、産業社会は便利で快適な生活をもたらすことに寄与してきた。しかし、同時に、
技術は新たなリスクを生み出すことになった。21 世紀に入って、IT 革命とグローバル化が進行するなか、
リスク管理の緊急性と重要性は以前にもまして高まっている。例えば、原子力発電事故、核廃棄物、食品
内の有毒物質、遺伝子操作など技術的なリスクを始めとして、失業問題、家庭内暴力、HIV/AIDS 感染、
薬物乱用、治安の悪化、詐欺や性犯罪、コンピューター犯罪、誘拐、いじめ、校内暴力など、多方面のリ
スクが問題になっている。
近代化により一層の個人化が進むことで、リスクは共同体や集団を通り越して、直接個人に分配される
傾向が高まるようになった。かつて高度経済成長により、収入が増え、教育水準が上昇し、社会移動や権
利が増大することで、日常生活における階級アイデンティティや階級との結びつきは弱体化し、労働者の
権利を守る労働組合の組織率が低下した。そして、大衆民主主義と福祉制度の充実が個人化を進める
触媒作用として働いた結果、リスクは個人に直接分配されるようになった。階級や労働組合などリスク分配
に関する緩衝地帯が有効に機能しなくなり、リスクへの対応を個人に転嫁する傾向が高まっていった。失
業はいまや私的なことがら、個人的な人生の失敗とみなされる傾向にある。また、人間生活に内的安定を
与えてきた家族は、個人化の力学により家庭内暴力、幼児虐待など分裂のリスクを抱えるようになってい
る。社会のデジタル化で個人情報の流出リスクも高まっている。
現状では、リスクの生産と分配についての知識はほとんど蓄積されていない。このため、われわれはど
のようなリスクが、いつ、どこで、どのような形で、どの程度現れるかについて、知る権利も評価する権利も
持ち合わせておらず、社会不安が高まるばかりである。こうした状況を如実に物語るのが、東日本大震災
により引き起こされた福島第一原子力発電所の事故である。不可視のリスクによる不安で、身体の被爆だ
けでなく「心の被爆」まで被った人々が少なくない。
リスクに対応できる社会を構築するためには、現実社会に存在する各種のリスクを体系的に把握して、
その大きさを評価するための「リスク指標」の整備と、これにもとづいた「リスク管理」が必要である。種類が
違うリスクを比較することは簡単ではないが、社会的に公平なリスク管理を行うためにはこうした作業が求
められる。
リスク管理のポイントは、技術的な《安全》と社会的な《信頼》を通じた《安心》の形成にある。したがって、
問題の可能な限り正確な把握を基礎として、数理モデルによる知見の最適化やそれを裏付ける実験に支
えられたリスク評価とリスク管理に加えて、リスク意識の実証分析を通じた信頼形成の考察が不可欠であ
る。
リスク管理については、「ただ飯はない」という生態系の掟が参考になる。生態系は全体として利得も損
失もなく、収支勘定はプラス・マイナスがゼロのである。要するに、全体的な改良には従わない。リスクに
ついても同じことがあてはまる。リスクを分散させても消えてなくならない。必ずどこかにいかねばならない。
だれかが首尾よくリスクを回避しても、そのリスクは別のだれかに回される。したがって、リスク回避に王道
はないことを肝に銘じて、まずはリスク評価機関を作り、リスク評価の方法の整備と制度化に早急に取り組
むと共に、リスク管理についての選択と決定に関する理論の体系化が必須である。
リスク管理にとって忘れてならないことは、円滑なリスクコミュニケーションの確保である。リスクコミュニケ
ーションとは、リスクに関して関係当事者間で意思疎通を図ることにより、リスクへの対応策についての合
意形成を図ることをいう。例えば、災害や環境問題、原子力施設にについて、行政、専門家、企業、市民
などの関係当事者間で情報を共有し合い、安全対策に対する認識や協力関係の共有を図ることである。
また、リスク社会を扱う際に重要なことは、さまざまなリスクが複合的に関係しつつ分散しているため、従
来の学問分野を越えて、横断的に考えなければならないことである。従来、リスク論は金融工学での議論
を含みつつ経済学で注目されたり、科学技術分野で事故や環境リスクの研究がなされたりしてきた。最近
では、これまでリスクに格別の注意を払ってこなかった法学や社会学の分野でも、リスク論が脚光を浴び
つつある。だが、現状では、個別的にリスクが議論される段階を脱し切れていない。リスクに対応できる社
会への分野横断的な取り組みは、産業社会のゆくえを占う最重要課題と受け止めるべきである。
参考文献
橘木俊詔・長谷部恭男・今田高俊・益永茂樹編『リスク学とは何か』リスク学入門1,岩波書店,189 頁,
2007.
今田高俊編『社会生活からみたリスク』リスク学入門4,岩波書店,155 頁,2007.
東京工業大学大学院社会理工学研究科『リスク・ソリューションに関する体系的研究』266 頁,2011.