わが国の骨・関節のX線診断の草分け

わが国の骨・関節のX線診断の草分け
片山 仁
大東医学技術専門学校 校長
順天堂大学 名誉教授
はじめに
人の独断と偏見?でリストアップした。紹介した草分け
は、敬称を略すが、横倉誠次郎、小林敏雄、小池宣之、
第14回日本医学放射線学会骨軟部放射線研究会が河野
西岡清春、恵畑欣一、大澤 忠、石田 修、奥山武雄、
敦先生当番世話人のもとで、東京カンファレンスルーム
松林 隆、牛込新一郎、作山攜子、多田信平、大場 (東京・水道橋)で開催された。この分野の200名近い専
覚、不肖片山 仁である。
門家の参加を得たことは、この研究会が完全に定着した
本稿では、ランチョン・レクチャーでは紹介しなかっ
ことを示す。
た藤浪剛一先生を筆頭に、横倉誠次郎先生、西岡清春先
今回、河野当番世話人のご厚意で、私はランチョン・
生の草分けを改めて紹介することにする。なお、藤浪剛
レクチャーをさせていただく機会を得た。何を話そうか
一先生については大場 覚先生が関心をもたれ、調査中
といろいろ考えたが、先端的なことはとても無理である
と聞いている。近い将来、もっと詳しく報告されること
こと、また日頃、歴史的な資料の散逸を心配しているこ
を期待している。
とから、“わが国の骨・関節のX線診断の草分け”を若い
人に紹介することにした。
草分け
さて、草分け論を展開するにあたり困ったことは、い
藤浪剛一博士
(1880∼1942年)
(図 1)
つをもって、誰をもって嚆矢とするかということであ
1906年(明治39年)岡山医学専門学校(現・岡山大学医
る。
学部)卒業、兄・藤浪 鑑先生(京都大学病理学教授)に
1895年のレントゲン博士によるX線の発見は夫人の手
ならって病理学からスタート。上京して東京大学医学部
のX線写真で一般人に対して視覚化された。X線はいち
皮膚科の土肥慶蔵教授に師事。 1 9 0 9 年(明治4 2 年)3
早く医療に応用されていくのであるが、骨は他の諸臓器
月、欧州留学、ウィーン大学のホルツクネヒト教授にレ
に比べコントラストが良いことから、X線撮影の良いタ
ントゲン学を 3 年間学び、放射線医学者としての基礎が
ーゲットになった。わが国でもX線発見の翌年には人体
できた。1912年(明治45年)9 月、帰国後、乞われて順
の撮影が試みられている。
天堂大学病院のレントゲン科の初代科長となった。手根
1896年 5 月には鶴田賢治先生によって蛍光紙に手の
骨の化骨に関する研究を発表。藤浪先生の活動は多岐に
陰影が写された。X線の臨床応用は明治・大正期におい
わたり、診断、治療、障害、技術において多くの研究を
ては骨格系を中心に発展していった。
発表している。
1900年(明治33年)、田代義徳先生は“富山県下におけ
また、藤浪先生はX線初学者の心構えなどの教育やX
る所謂奇病に就いて”および“くる病および骨軟化症症例
線の啓蒙活動に心血を注いでいる。国産初のX線管球
報告”を東京医学会雑誌第20巻第22号に報告した。
“ギバX線管”を開発したことでも有名である。1914年 2
1914年(大正 3 年)、藤浪剛一先生は名著『れんとげん
月、名著『れんとげん學』
(図 2)を南山堂より出版した。
學』第 1 版を南山堂より出版している。
私が見ることができたのは1934年(昭和 9 年)出版の第
ランチョン・レクチャーで紹介した草分けは、65歳を
7 版であるが、そのなかで「医学れんとげん学の進歩は
過ぎ定年退職された放射線科医・病理医である。片山個
著しく、改訂増補したがまだ十分ではない。次の改訂の
日獨医報 第48巻 第 2 号 279–282(2003)
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日獨医報 第48巻 第 2 号 2003
図 1 藤浪剛一先生遺影(久保敦司・栗林幸夫両先生のご厚意に
より『 光七拾年』より転載)
図 2 藤浪剛一編著『れんとげん學』表紙(杏林大学医学図書館所
蔵)
ときは一段と工夫する積もりだ」ということを謙虚に語
ゴールデンバットの愛好家であった)。わずか 3 年 5 カ
っている。1920年(大正 9 年)慶應義塾大学理学療法科
月という短い教授在任であった。東京生まれ、東京育ち
の教授として移るのであるが、レントゲン科の独立性の
で、生粋の江戸っ子。当時の海軍軍医学校は現在の歌舞
必要を力説した。わが国の放射線科の生みの親である。
伎座の前にあったこともあって、下校後、歌舞伎座に寄
藤波先生は日本レントゲン学会を東京大学の真鍋嘉一郎
っては今の地下鉄銀座線で日本橋の自宅に帰るという生
先生らと興すが、放射線科医のアイデンティティを主張
活であったようだ。
して、脱退、日本放射線医学会をつくる。学会分裂時代
骨・関節領域のX線診断に多くの業績を上げた。
の立役者である。
1933年(昭和 8 年)医研書房、南山堂より『骨之レ線診
断指針』、1937年(昭和12年)南江堂より『骨疾患のレ線
横倉誠次郎博士
(1895∼1956年)
(図 3)
診断』
(図 4)を出版。昭和35年ごろまで版を重ねる。私
1895年(明治28年)8 月、東京・日本橋に生まれる。
が見ているのは昭和25年改訂で、昭和31年発行の第 4
くしくも、X線が発見された年である。1921年(大正10
版である。全編挿図は手書きの略図である。疾患の特徴
年)東京大学医学部を卒業。海軍委託学生であったので
をよくとらえたものもあり、一部には今見れば所見が十
直ちに海軍軍医中尉に任官した。一方、東京大学大学院
分描出されていないものもあるが、一見の価値があると
に在籍し、整形外科学教室で研究を行い、学位論文“扁
思う。
平足に関する研究”をまとめる。1928年(昭和 3 年)海軍
軍医学校教官となる。軍医学校時代、骨・関節疾患のレ
西岡清春博士
(1927年∼ますますお元気)
(図 5)
ントゲン診断とともに海軍でも大問題になり始めた肺結
1927年(昭和 2 年)生まれ.1954年(昭和29年)大阪大
核の診断のためレントゲン間接撮影法を研究、指導し
学医学部を卒業。奈良県立医科大学放射線医学教室(高
た。
田 博教授)、岐阜大学医学部放射線医学教室(石口修三
1944年(昭和19年)海軍軍医少将に昇進するも翌年終
教授)の助教授を経て、1970年(昭和45年)慶應義塾大学
戦を迎え、軍医生活は終わった。1945年(昭和20年)12
客員教授に就任、そして1972年(昭和47年)10月、慶應
月、国立第 2 病院院長に就任するのであるが、翌年 3
義塾大学医学部放射線診断科の教授となる。エネルギッ
月、将官級の軍籍にあったことを理由に追放になり、野
シュな放射線科医であり、西高東低といわれたわが国の
におり、一時開業するもあまりはやらず。1953年(昭和
放射線の臨床を関東で花開かせ、わが国を代表する放射
28年)乞われて順天堂大学放射線医学教室の教授となる
線科教授のひとりになった。慶應義塾大学教授着任後直
(同大学の佐藤 要名誉教授とは中学以来の友)。しか
ちに、当時の東京大学医学部放射線医学教室の田坂 浩
し、肺癌のため、1956年(昭和31年)急逝(昔のたばこ、
教授とともに東京レントゲンカンファレンスを立ち上
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日獨医報 第48巻 第 2 号 2003
図 3 横倉誠次郎先生遺影(横倉謙治氏のご厚意による)
図 4 横倉誠次郎著『骨疾患のレ線診断』表紙
(杏林大学医学図書館所蔵) 図 5 西岡清春先生近影(西岡先生のご厚意による)
図 6 西岡清春著『全身性疾患と骨』表紙
(杏林大学医学図書館所蔵)
げ、現在まで続いている。わが国の臨床放射線医学を発
展させた功労者である。150を超える著書があるが、
おわりに
1971年、医学書院より出版された『全身性疾患と骨』
(図
放射線科医の骨・関節のX線診断の取り組みは遅れ
6)
は心血を注いだ名著であり、今もなお生きた教科書で
た。先に述べたようにX線の臨床応用はまず骨で始まっ
ある。私が見ているのは昭和46年の版であるが、自序
たので、外科医・整形外科医の独壇場の期間が長かっ
で本書は医学の分化と統合の間にあるものと位置付けて
た。戦後、放射線科医も骨をやらなければいけないとい
いる。骨に現れる疾患のうち、局所的な疾患は除外し、
う気運が起こってきたが、整形外科がおいそれとフィル
全身性あるいは系統的疾患および他の領域から波及して
ムを手放すはずはない。中央放射線部が発足するまで
骨に変化を生じる疾患のすべてが取り上げられている。
は、各科でX線室をもっていたので、米国のようなシス
骨変化をミラーとして全身を見ようとする発想である。
テムは各科にとって、むしろ厄介な、好ましくないやり
現在は実地医家として活躍中であり、山登りなどされ意
方であった。このような状況下で放射線科と整形外科の
気軒昂である。
仲がよいのは例外的であった。了解を得ながら、診療が
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終わって、整形外科のフィルム庫にもぐりこんで、ティ
べきであろう。
ーチングフィルムを探せるなど、むしろ恵まれた関係で
放射線科医の歩む道は“荊棘(いばら)の道”である。草
あった。
分けの諸先輩の苦労と業績を思い起こし、その重みを感
日本医学放射線学会ではもっと臨床に力を入れなけれ
じながらさらに前進しようではないか。このレクチャー
ばならないという声が上がり、臨床シンポジウム(現・
が今後の若い放射線科医の活躍のひとつのきっかけにな
秋季臨床大会)が立ち上げられ、みんなで骨の勉強をす
れば大変嬉しい。
る機会がでてきたのを思い出す。徐々に教育展示(フィ
ランチョン・レクチャーやこの稿をまとめるにあた
ルム展示)やリフレッシャーコースで骨・関節をみる機
り、多くの方々の協力をいただいた。ここに深甚なる感
会が多くなった。この傾向を後押しした要因として、米
謝の意を表するものである。特に横倉誠次郎先生のご次
国留学者が多くなり、米国の放射線医学を紹介したこ
男の謙治氏には面談の機会をいただき感謝にたえない。
と、ジェネラルラジオロジーの重要性が理解されるよう
『 光七拾年』から藤浪剛一先生の写真の転載を許可下さ
になったこと、さらには病理学者の協力が大きかったこ
った慶應義塾大学 久保敦司・栗林幸夫両教授およびご
とが挙げられる。追い風になったのはCT、MRI、US、
自身の写真を快くお貸し下さった西岡清春先生に厚く御
RIなどの画像診断の進歩である。これらの画像診断は
礼申し上げたい。また、第14回骨軟部放射線研究会 放射線科医が専ら行うことが多かったので、各科はこれ
当番世話人、河野 敦先生に感謝の意を表したい。図
らを放射線科に依頼せざるを得なくなった。勢い放射線
2、4、6 の著書は娘の素子(杏林大学医学部 3 年)を通
科では各科のフィルムをみる機会が多くなった。整形外
じて杏林大学図書館より借用したものでありその労に感
科も例外ではなく、放射線科医の存在を認めざるを得な
謝する。
くなった。整形外科にすれば、昔のように直接画像検査
をしたいところであるが、最先端技術はそれを許さず、
放射線科医が骨・関節の症例をみる機会は一気に増えた
のである。しかし、時間の経過とともに、特殊であった
ものも普遍化し、専門性はだんだん薄れていく傾向にあ
る。追い風であったものが、無風となり、やがて逆風に
【参考文献】
1)
後藤五郎編:日本放射線医学史考
(明治大正篇)
.1969,日
本放射線学会,東京
2)
後藤五郎編:日本放射線医学史考
(昭和篇)
.1970,日本放
射線学会,東京
3)
橋本省三: 光七拾年.1995,慶應義塾大学 光会,東京
なることもあり得る。疾患のジャンルにしても、放射線
4)順天堂史 上・下巻.1996,学校法人順天堂,東京
科医は腫瘍性疾患には強いものの、急性疾患やスポーツ
5)順天堂だより第 5 巻第 4 号.1956,学校法人順天堂,東
外傷には弱い。今後は、救急放射線の経験をもっと積む
176(282)
京