「横須賀に軍港資料館を作る市民の会」第4回総会 記念シンポジウム 大和ミュージアム 相原謙次 元統括 講演 記録 安田直彦 5月9日(土)産業交流プラザにて第4回総会開催後、15時半より、小笠原元呉市長 の下で事務方として大和ミュージアム設立に尽力された元統括の相原謙次氏に講演頂いた。 約40名の参加者に対し、貴重な写真・動画を含めて、非常に興味深く、かつ参加者に 強く響くお話をしていただいた。また横須賀市あるいは当会への貴重な提言を頂いた。 〔山本会長挨拶〕 「横須賀に軍港資料館を作る市民の会」を立ち上げたのは、大和ミュージアムがきっか けである。行ってみてすごいと思った。大和ミュージアムには大和の1/10の精密な模 型やゼロ戦の実物がある。四つの軍港の中で第1軍港の横須賀に何もないのはなぜだ、と いうことで本市民の会を立ち上げ、今年で4年目を迎える。 大和ミュージアムは立ち上げに10年、オープン後10年経過している。立ち上げから 中心的役割を果たされたのが相原氏である。以前お会いして、非常に熱い方で横須賀にも こういう方が欲しいな、と思った。今日その相原氏にお話を頂く機会を頂いた。 相原謙次氏講演 (緒言) 緒言) 私は呉市役所に入所後、ずっと大和ミュージアムを作るために過ごした。平成7年4月 1日立ち上げ、平成17年4月23日オープン、10周年を迎えた。その間、色々な勢力、 思いの方がおられて簡単には出来なかった。3月で退職し現在は呉市の顧問であるが、今 度は横須賀市の応援に行きたい。横須賀市に考えてほしいことを提言したい。本会は横須 賀市にとって宝の会である。奮起してもらいたい。大和ミュージアムを超える世界に誇れ る資料館を作ってほしい。 (戦艦大和のCGを使って) 戦艦大和は技術の結晶であり、その技術が戦後の産業復興に貢献し、日本の発展を支え た。例えば、鋳物工場、製鋼技術、特殊鋼板、大型タンカー、精密光学機械、新幹線の台 車、特殊圧力装置、宇宙ロケット、等々である。 (大和ミュージアムのコンセプトと現在までの経緯) 呉海軍工廠では133隻の軍艦を製造したが、大和をシンボルとして取り上げた。あそ こに、アレがあるね、というものがないと人は動かない。大和は当時の技術の粋を集めて 作り、最後は沖縄特攻作戦で沈んだという多くの涙のあるストーリーがある。ストーリー が必要。 平成7年プロジェクトを立ち上げた当時は上司も大反対であった。県も反対した。広島 県は原爆の被災地であり、軍国主義のシンボルを作るのか、と言われた。保守からも今頃 箱モノを作ってどうするのか、と言われた。成功してから、自分が作ったという人が沢山 出てきた。呉から大和を捨てたら何が残るのか。 10年間で991万人の入場者があった。年間100万人で黒字である。日本全体の博 物館5787館中、入場者の第8位。指定管理にしているところで、成功しているのは大 和ミュージアムだけである。指定管理にした場合、文化として考えない、経費削減だけ考 える。学芸員の待遇の改善、人材をいかに集めるか、が課題である。 (戦艦武蔵の発見と洋上慰霊祭の件) 本年3月戦艦武蔵がマイクロソフトの創業者ポール・アレン氏によってシブヤン海の水 深1820mの海底で発見されたことが話題になった。その動画の紹介あり、艦首の菊の ご紋章がついていたあと、磁気を消す装置、カタパルト、防空指揮所などが映し出された。 大和型戦艦の菊のご紋章は1,5mで欅の木で作られていた。残念ながら武蔵のものはな くなっていた。ちなみに大和のご紋章は残っている。尚フィリピンでは戦艦武蔵の権利関 係からアレン氏の探査は問題になっている。 戦艦武蔵は大和型戦艦の2番艦として三菱長崎造船所第2船台で建造された。見積が6 253万円で5765万円で契約した。(ちなみに大和は13780万円。)昭和13年3 月29日起工。最終艤装は呉で行っている。その後横須賀鎮守府籍に編入。船内に武蔵神 社があり、氷川神社を勧請したもの。 昭和19年10月24日レイテ沖海戦で撃沈された。魚雷20本も食らって沈没した。 普通の戦艦は魚雷4、5発で沈没する。船体に破壊されていない区画があったため、浮力 で海中を流され、沈没場所よりかなり南側で発見された。 戦艦武蔵に関しては、今回初公開の写真がある。それは主砲の46cm砲の発射写真の 発見である。発射時海面が真空状態になったのか水煙が上がっている。これまで大和型戦 艦の主砲発射写真は1枚もなく貴重な発見である。 アレン氏の発見を受けて、本年4月26日「戦艦武蔵会」が主催で、フィリピンで洋上 慰霊祭が行われ、自分も参加した。埼玉県の方が多いが、全国水交会藤田会長や埼玉の衆 議院議員も参加した。戦艦武蔵の乗組員3名もおられた。皆90歳代である。慰霊祭では 安倍首相の追悼の言葉も読み上げられた。軍港資料館の創設にも国が大きな後ろ盾になり うると考える。ラッパの追悼演奏も行われた。ラッパ手は横須賀海上自衛隊におられた堀 田さん。 戦艦武蔵は横須賀鎮守府籍だったのに、横須賀の人はなぜ参加していないのか。次回行 うときはぜひ参加してもらいたい。 最後に、慰霊祭の終了時、洋上に戦艦武蔵の形をした雲が浮かんだ。きっと英霊が喜ん でいるのであろう。 (呉の歴史と戦艦大和の建造) (呉の歴史と戦艦大和の建造) 海軍の研究機関の場所の選定にあたっては、ペリー来航でもわかるように外国から入り やすい横須賀より、日本の内部にある呉の方が適当であろうと考えられ、明治19年呉鎮 守府工廠の建設が始まった。広地区に水力発電所ができ、明治42年には呉市に市電が走 った。明治36年呉海軍工廠誕生。初めて建造された軍艦は通報艦「宮古」であり、呉で 作られた最初の鉄製艦である。日露戦争の際は連合艦隊が呉に入港し、戦艦三笠の主砲の 入れ替えも行われている。一等巡洋艦「筑波」の進水式延期のエピソードも紹介。 その後、日本海軍は八八艦隊の計画を立てたが、膨大な維持費が必要。 (15億円の国家 予算に対し6億円の維持費必要)ワシントン軍縮条約などが結ばれ計画を変更、アメリカ 海軍に対する戦略を考えた。アメリカ海軍の主力艦隊は大西洋にあり、パナマ運河を通っ て太平洋に出なければならない。従って、幅33、5m以下で40cm砲しか搭載できな い。40cm砲の射程より外から正確に攻撃できれば少ない艦船でも対抗できる。そこで 主砲を46cm砲とし、歯車式コンピューター等で制御する方針を立てた。そして建造し たのが戦艦大和である。この様な大きな船はドッグ(造船船渠)で作った。大和は昭和1 6年12月16日就役。 尚、2 番艦の武蔵とは型が酷似していて写真で見分けにくいが、武蔵には艦橋に 22 号電 探のアンテナがついているので区別できる。内装は武蔵の方が良かった。 呉の空襲時の写真の紹介もあり、その中に、海底空母といわれた潜水艦伊400の写真 もあった。 大和ミュージアムは大和という点一個で成り立っている。横須賀は空襲も少なく多くが 残っている。軍港資料館創設に当たっては、面で施設を作る色々な作戦ができる。あらゆ る分野の人達を巻き込むことができるという利点がある。 (戦艦大和の水中探査と模型の作成) 戦艦大和は昭和20年4月6日出撃、翌7日沈没。昭和28年4月戦艦大和会が創設さ れ、その沈没場所の特定に取り組んだ。会長は石田さんで、自分も顧問をしている。昭和 55年沈没地点のソナー探索でカゲが写り、昭和57年5月水中カメラで特定した。それ までは石田さんが資材をなげうって取り組まれたが、昭和60年角川事務所に依頼して、 P2J磁気探査機や潜水艇で調査した。 戦艦大和の模型の作成に当たっては、設計図面は残っていない。そこで戦艦大和会に依 頼して写真を集めた。米国へ行って空襲時の写真も借用した。しかし水面から下がわから ないので、TVアサヒの協力を得て、平成11年潜水調査を行った。水中探査はオーシャ ン・ボイジャー号を使い、タイタニック号探査で有名なフランス深海探査チーム・アクア プラスが当たった。 水深350mで撮影した、その時の動画の紹介があり、菊の紋章、 メインアンカー、バルバス・バウ、最上甲板、主砲塔など映し出された。以上の結果をも とに模型を作成し、大和ミュージアムに展示した。 戦艦大和はモノづくりの結晶、産業発展の基盤、悲劇的な最後に一人一人のドラマがあ る。呉市にとって象徴的なシンボルである。 (横須賀市への提言) 横須賀市のシンボルになるものは何か、ストーリー性のあるものが必要。 「横須賀にはあ れがあるよね」 「行ってみたいね」と言われるものを見つけてほしい。 船では 2 番艦、3 番艦は弱い。忘れていけないのは昭和 7 年 4 月追浜海軍航空廠が作られ ていることである。しかし追浜の海軍航空廠の建物も壊されたとの事だし、浦賀ドックも 使われていなくて残念である。 横須賀として考えられる候補に海軍航空機技術があるのではないか。F5飛行艇、銀河、 彗星、月光、秋水、菊花、紫電改、等々。写真、資料等常日頃から集めておくことが必要。 ネット・オークションにも出るが横須賀のものにはだれも手を出さない。 日本の航空機も米国のスミソニアン博物館に分解して保存されている。年5万7千件のオ ファーがある。 お互いの役割分担を考え、色々な人を引きずり込む必要がある。 最近、近代化産業遺産が世界遺産の候補になったが、なぜ横須賀市は入っていないのか? 横須賀のシンボルを何にするか?歴史を生かした街づくりという観点が必要。この会を生 かさない手はない。自分も横須賀を応援したい。 〔質疑応答〕 (質問)横須賀は、重要な歴史遺産が米軍基地の内部にある点が難しい。 (答)米軍も横須賀の仲間として徐々に引き入れる。その為には確固たるコンセプトをま とめないとダメ。そうすれば行政も動く、仲間も増える、米軍も動く。 (質問)当時の小笠原市長は熱意があり、現在の横須賀市との違いがある。 (答)確固たる自信を持って動けば行政も動く。首都圏も近いので、軍港資料館が出来れ ば年100万人以上くる。応援したい。熱意あるコーディネーターが必要である。 (以上)
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