やもめのひとり息子を生き返らせた主

主日集会 2016.5.15
ひつぎ
(4)そして近寄って 棺 に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まった(14節)
ひつぎ
泣かなくてもよい、と言っておいて、イエスの方から手を伸ばして、 棺 に手をかけられた。その時、これをかつ
いでいた人たちが立ち止まった。
ひつぎ
ひつぎ
今日の「釘づけにされた細長い箱」の 棺 を想像するかも知れないが、この当時のユダヤの 棺 は、そのようなも
ひつぎ
のではなかった。ふたのない、死人がそこに寝ているのがよく見える 棺 である。
今しもその墓に向かっていた。まさに墓は人生の行きづまった所、真っ暗な、人間の不幸の象徴である。そこに
ひつぎ
向かって運ばれていたその 棺 が、今イエスの手にふれて止まった。
ひつぎ
みち ゆ
だれ
これは目に見える死人と 棺 であり、目に見える墓に向かっての悲しい道行きである。しかし、人間誰しも霊にお
いては霊的には死んでいる者である。見えるところは生きた姿をしていても、内側においては毎日が永遠の墓場、
永遠の滅びに向かっている。
やもめのひとり息子を生き返らせた主
ルカ福音書7:11-17
ま
まち
い
で
し
おお
ひと
む
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっ
い
しょに行った。
まち
もん
ちか
はは おや
むす こ
し
だ
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出された
まち
ひと
おお
ははおや
そ
ところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
しゆ
ははおや
み
おも
な
い
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、
「泣かなくてもよい」と言われた。
ちか よ
ひつぎ
て
ひと
た
ど
せい ねん
7:14 そして近寄って 棺 に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。
い
お
い
《霊的死人だった私たち》
あなたに言う、起きなさい」と言われた。
し にん
お
あ
い
はじ
かれ
ははおや
かえ
①霊的死人の状態
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
ひと びと
おそ
いだ
だい よ げんしや
わたし
あらわ
かみ
たみ
かえり
エペソ2章5節には「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたの
7:16 人々は恐れを抱き、「大預言者が 私 たちのうちに 現 れた」とか、
「神がその民を 顧 みてくださ
い
は、ただ恵みによるのです──」とある。
かみ
った」などと言って、神をあがめた。
はなし
ぜん ど
まわ
ち ほ う いつたい
罪の中に生まれ、そのまま育ち、そのまま歩いて行く人生は、霊的に死んでいる者である。その方向は永遠なる
ひろ
7:17 イエスについてこの 話 がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。
墓場、永遠の滅びである。ただ肉体の死、その死体が運ばれていくあの墓、それがただ悲しい墓だと思っているな
ら、大きな間違いである。もっと恐ろしい墓場がある。それは永遠の魂の行き着く所、滅びである。
しりぞ
【祈りながら考えよう】
はんぎやく
ている。この神の創造の秩序に対する反 逆 、人類はこの罪のために必ず滅びなければならない。
(1)やもめの母親にとってどんな悲しいことがありましたか。
②イエスの救い
しかし、イエス・キリストは人生の墓場から、真っ暗な永遠の滅びに向かう私たちを救うために、神のみもとか
(2)私たちは以前どのような意味で死人でしたか。どのように新しいいのちを持つに至りましたか。
ら来て下さった「救い主」である。
(3)イエスはどのように死人をよみがえらせましたか。
【解
みずか
「罪から来る報酬は死です」(ロマ6:23)。神を神としない、神に造られながら神を 退 け、 自 らを神として生き
感謝なことに、イエスを信じる者は「永遠のいのち」を内に持つ。それゆえに、私たち信者にとっては、この世
の人生の終わりにある墓場はもはや暗くはない。
説】
(1)それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっし
ょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ
出されたところであった(11-12節)
③私たちにとって墓場は記念碑である
キリスト者は、新しい永遠のいのちを受けた者であり、この滅びから救われた者である。、この死のさまから救わ
れた者にとっては、墓はやがてキリストと共に復活させられる復活の日の「記念碑」にすぎない。
「ナイン」は、カペナウムの南西約30キロにある小さな町だった。昔の町はその町を取り囲んで城壁があった。
「ここに眠る者、ここに葬られた者、やがてキリストの日にあのキリストと同じ復活の体をもってよみがえる」。
その門に近づかれる、ちょうど今しも1つの葬儀の列が門から出て来たところであった。葬儀ということはまことに
すばらしい希望のしるし、すばらしい救いのしるし、復活のしるしである。思いっきり主を賛美する所である。
希望におどる場所である。泣き明かす所ではない。
悲しいもの。昔も今もそのことに変わりはない。
お
ゆ
しかし同じ葬儀でも、特に悲しい葬儀がある。70,80の生涯を全うして、年齢の順序として老いたる者が先に逝
とむら
さび
く、そうしてこれを残った者が 弔 う、これも寂しいことであるが、なお順序としてあきらめもつく。
しかし、ここで、イエスがナインの町の門において出会われたこの葬儀は、「やもめとなった母親のひとり息子が
死んだ」という、特別なことであった。やもめはユダヤにおいては最もみじめな場におかれていた。
かついでいた人たちが立ち止まったので、次の瞬間イエスは力強く言われた。今度は青年に、死人に、「青年よ。
あなたに言う、起きなさい」。文語訳では「我なんぢに言ふ、起きよ」となっている。
ギリシャ語テキストでは確かに、「わたしがあなたに言う」(I say to you)という言葉がある。青年よ。わたしが
(2)町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた(12節b)
となりきんじよ
(5)かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。(わたしが)あなたに言う、起きなさい」と
言われた(14節)
いま
隣 近所の人たち、親切な知人、そういう町の人たちが同情をよせて、この悲しい母親に付き添って、今町を出た
あなたに言うんだ。誰かが言うんではない。神のひとり子、天地万物の創造者イエス・キリストが、この「わたし
ところであった。これはまことにこの世の悲しみの一団となった姿である。
があなたに言う」、と言われるのである。
(3)主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた(13節)
ことばを、素直に「神のみことば」として受ける者は、新しいいのちにあずかる。
人となって現れた神の御子が、神と等しいお方が、お前に言うのだと言われる。「わたしが言う」とのキリストの
先週学んだ百人隊長の場合と違うことは、百人隊長の方は自分の方から主を信じ、主を信頼して、救いを求めて
出て来た。イエスを驚かせるほどの「りっぱな信仰」で、イエスの救いを受けた。しかし、今日の場合はそうでは
(6)すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された(15節)
ない。母親の方からイエスに向かって求めはない。イエスがそこに来られたことすら、この母親は気づかなかった
すると、ただちに、その死体にいのちが戻り、その若者は起き上がった。こうして、死と同様、病も支配なさる
お方が、この青年を生き返らせ、「母親に」返されたのである。
に違いない。
め
それほどに息子の死に、息子を失ったその悲しみに心打たれて、何も目に入らない。ただ悲しいだけであった。目
の前に現れたそのキリストに救いを求める心の余裕もなかった。誰がそこにいるかもわからない。ただ愛する者が
あん
いなくなった、むざんにも死に奪われたという、ただ暗たんたる悲しみ、それだけがこの母親のすべてであった。
「主はその母親を見てかわいそうに思い」、近づいて「『泣かなくてもよい』と言われた」。イエスが「泣かなくて
もよい」と言われる時には、泣かなくてもいいようにされるから「泣かなくてもよい」とおっしゃるのである。
本当に泣かなくてもよいようになる。イエスがそうなさる。だから泣かなくてもよいようになる。
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(7)人々は恐れを抱き、
「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、
「神がその民を顧みてくださったなどと
言って、神をあがめた。イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった(16-17節)
人々は恐れを抱いた。彼らは、このすばらしい奇跡を目撃したのである。死人が生き返ったのである。彼らは、
主イエスが神から遣わされた「大預言者」であることを信じた。しかし、イエスご自身が神であるということは理
解していなかったことだろう。彼らは、「この奇跡は、神が私たちの間で働いておられる証拠だ」と思ったにすぎな
い。この奇跡に関する「話」はユダヤ全土と「回りの地方一帯」に広まった。
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