ダメージ・18 三度の恋 畠山 拓 盛岡の駅からほど近い夕顔瀬橋の袂に洋食屋があった。何十年も前の事なの で店の名は思い出せない。 「金鳳堂」だったか。そんな風な店名だった。 どういうわけか、店のマッチの図案は覚えている。赤いミニスカートの少女。 牧場の柵。騙し絵よろしく絵に隠れているホルスタイン牛の頭。柵をまたごう としている少女の太ももに、バッテン印が付いている。怪我を治療した絆創膏 の積りなのだろう。 子供だった私は花巻に住んでいた。盛岡は子供の私にとって、大都会であり、 ハイカラな街であった。私は赤痢にかかって、盛岡の赤十字病院に入院した。 赤痢は感染症であり、当時は危険な病だった。 幸い回復した。回復に向かうと、私はじっとしていなかった。看護師の目を 盗んで、病院中を探検して回った。子供の私には物珍しいものだらけだった。 治療室や、手術室を覗いた。レントゲン室の隅に身を潜めた。庭の池の死んだ 金魚をすくった。病院の夜の廊下を忍び足で走った。 私は好奇心が強く暴れん坊だった。危ないことばかりするので、家では母に いつも叱られていた。病院には母はいない。叱られる心配はない。冒険してい ないときは、時々、母が恋しくて泣いた。 病院には様々な人が入院している。大抵はひと部屋に何人も寝ている。豪華 な部屋があることを発見した。部屋には車椅子の老人がいた。髭を生やしてい た。何時も背広を着た若い男が付いている。若い美人の看護師も付いていた。 金持なのだ。老人は大臣かもしれない。 私は髭の老人の個室を時々見に行った。理由は老人を見舞いに来る女の子だ。 私は女の子に恋をしていた。恋のきっかけは女の子が転んだからだ。女の子は 赤い綺麗なミニドレスを着ていた。 私は何度も老人の部屋の前をうろついたけれど、二度と少女に会う事は出来 なかった。十五年以上も後に洋食屋のマッチを見て少女の記憶が蘇った。マッ チ箱を持っていたのだ。 実を言うと私は十五年後に少女に出会っている。 私は東京の私立大学に通った。卒業しても就職をしなかった。作家になりた かった。母が父に隠れてくれる金でどうにか生活していた。時々アルバイトも したけれど、仕事はつまらなかった。 色々な女性が、ベッドと食べ物を提供してくれたから、私は飢え死にせずに すんでいた。 太ももの所に赤い痣がある女と関係が出来た。赤い痣はかわった形をしてい た。絆創膏をバッテン印に張る。はがした後に似ていた。不思議な痣で、私は 女を愛した。私は愛とセックスは別物だと考えていた。 私が愛して、セックスもした若い女は雪子といった。学生で、大学の国文学 科に籍を置いていた。 私は戯れに雪子に尋ねた。確信はなく、記憶がよみがえっただけなのだ。何 故、よみがえったかについても心当たりはない。 「君は小さなころ、お爺ちゃんを病院に見舞った事は無かったかい」 「あったわ。覚えているわ。貴方と会っているもの」 「どうして、黙っていたのだ」 「言う必要があるの」 「やっぱりそうだったのか」 私はしばらく呆然とした。初恋の少女を抱いているのだと、気がつかなかっ たのだ。記憶の不思議な作用に感動していた。偶然や運命について考えてしま った。私は即物的な生き方をしていて、運命というものを信じていなかった。 強い衝撃を受けて雪子の顔を見詰めた。雪子は何もかもわかっている、といっ た顔で微笑んでいた。何故、私をからかうのか分からなかった。私は雪子の言 葉を疑っていた。騙されてしまうところだった。雪子の言葉にも、私の記憶に も確かなものはなかった。太ももの赤いバッテン印の痣だけが、記憶を繋ぐも のだ。 記憶を繋ぐ、といっても、洋食店のマッチと、病院の廊下で転んだ少女とは 何の関係もない。病院も少女も洋食店も盛岡にあるのだけれど。雪子が覚えて いると、言うのなら、納得するしかない、と私は感じた。雪子の表情を観察し た。嘘を言っているのか、いないのか。 私はバッテン印の痣をしみじみと撫でさすった。何人もの女を抱いていたが、 雪子を愛していると強く感じた。私はノスタルジーを愛していたのかもしれな い。愛とはノスタルジーの別名なのか。 私は性急に雪子に求婚した。貧しい若造の私に、結婚生活が出来るだけの経 済力はなかった。仕事もなく、定住の家もなかった。私は心配しなかった。女 と一緒にいて餓える心配も凍える心配もないことを私はよく知っていた。 今までと事情が少しばかり違ったのは、両親に会ってくれと、雪子が言った 事だった。雪子にしてみれば両親に結婚相手を紹介するのは当然のことだった ろう。反対されるのに、急ぐことはないのに、と私は思い、雪子にも言った。 雪子は承知していた。承知していたが、やるのだ。雪子の気性が許さない。反 対され、結婚を壊されることが分かっていても、雪子は私を両親に紹介するた め故郷に旅するのだった。 予想に反する事柄がふたつほどあった。両親の対応は良かった。娘の相手を あたたかく迎えてくれるらしかった。私の申し出も快く聞いてくれた。雪子に も優しく接しているらしかった。 二三日、温泉や料亭で私をもてなしてくれた。 「先に帰って、待っていて。母が私を連れていきたいところがあるらしいの」 と、雪子に言われて、私は一足先に、雪子の家を出た。 私は手もなく、雪子の狡猾な両親に騙されたのだった。雪子は二度と私のも とに戻らなかった。 私の心の中で、どのように雪子への思いがうすらいで行ったものか分からな い。幾年か経過すると、痛まない傷口になっていった。痛まないが、決して消 えない傷口に。私は時々、傷口を眺めた。自分を嘲笑した。 私は八十歳を過ぎたあたりから、病院の世話になる事が増えた。歳だから、 体のあちこちに変調が起き始めている。癌とか心臓病というのではない。脳に 変調をきたしている。精神病というのだろう。 私の目の前に女が現れた。女は若く魅力的だ。 「君は誰だね。雪子のようでもあるが」と、私は女に親しく話しかけた。さっ きから女は黙っているばかりだから。とても感じ良くしてはいたけれど。少し も口を聞こうとしない。 「雪子ではないわ。そんな人は知らない」 「失礼した。会いたいと思っていたから」 女は赤いワンピースを着ている。洋服はけばけばしい赤だ。娼婦なのだろう か。誰かが配達してくれたものか。老人へのプレゼントに。私の誕生日はまだ 先のはずだが。 女は私を見た。関心あるような、無関心なような、どうも不可解な、眼差し だ。小悪魔的に挑発しているのか。老人を憐れみ、愛している天使なのか。 子供のころ故郷の山野にはいろいろな鳥がいた。私は鳥に愛されたし、鳥を 愛した。鳥の目が好きだった。 「私がここにいてもいいでしょう」 「君の事を話してくれるならね」 「そうね。良いわよ」 女は綺麗な声で話し始めた。たわいもない話なのだから、正確には覚えてい ない。最近、物が覚えられないのだ。私も御仕舞なのかもしれない。 不思議なことだけれど、目の前の女は、マッチ箱のラベルの女らしいのであ る。私はマッチ箱をどこかに持っていたのだろうか。机の引き出しの奥に入っ ていたのかもしれない。忘れ果てていたけれど。 「君の太ももにバッテン、があるはずだが」 「この傷のこと」 「確かにあるはずだけれど」 「牧場の柵を越えようとして、杭に引っかかったの」 「やっぱりそうだったのか」 「裂けて、血がたくさん出たわ。気を失ったほど」 「今は大丈夫かい」 「大丈夫よ。傷は残っているけれど」 女は赤いワンピースの裾を高くたくし上げた。白い太もものを私の目の前に さらして、片足を椅子に掛けた。白い太ももの内側が露わになる。 傷は見当たらなかった。目が悪くなっているので、見えなかっただけかもし れない。綺麗な磁器を思わせる滑らかな足だった。 「歳だからね」 「御爺さんは、もう一度人生をやり直されるなら、何をしたい」 突然に若い女は聞いてくる。興味があるのだろうか。私は考え込んでしまう。 私は物事を後悔する性格ではない。 「そうだな。雪子と人生をやり直したい。私の人生に不満があるわけではない が、やり直せるのなら、もう一度雪子と恋がしたいね」 「大丈夫よ。そうしましょう」 私と若い女との事がどのように家族に知れたものか分からない。家族は非常 に心配しているようだ。八十歳も過ぎた老人だから、女との付き合いで何も心 配要らないのだが。家族は私が女に騙されているとでも思っているのか。 家族は次に、私を精神科医の所に連れてゆくのだ。私が妄想を抱き、幻覚と 戯れていると勘違いしたらしい。善意だけれど迷惑なことだ。精神科医は私よ りだいぶ若いが、老人である。ごましお頭の快活な人間だった。私は彼に子供 の頃の話をした。医師は黙って話を聞いた。 家族は若い女は実在しないと思っている。家族には見えないのだから、当然 である。医師は自分の意見は何も言わない。 気分転換というより、もっと積極的な意味で、息子は私を旅行に誘うのだっ た。ボケ始めた父親の精神を少しでも正常に戻したいと願っている。治療のつ もりか。 私は故郷の盛岡を希望した。息子も満足らしかった。父親の脳が活性化し、 ボケの進行が少しでも遅くなればと、考えたのだろう。 途中、仙台を通る。私は息子に言った。 「寄りたいところがある」 「どこですか、そこは」 友人が十五年ほど前になくなり、墓が仙台にあるのを思い出した。寺の名は うろ覚えだが、息子が何とか探してくれた。墓参りは一度しているはずだけれ ど、場所はもう覚えてはいない。 寺で訪ねたので墓の場所はどうにか分かった。寺の裏にある墓地に足を踏み 入れた。まわりは畑や田園や住宅地がまばらに点在している。夕刻に近い眩し く黄色い光が晴天の空から降り注いでいた。 黒っぽい、あるいは白っぽい墓石の中から目当ての墓を探して、華と線香を 手向けた。 墓の中に眠っているのは私の悪友と言ってよい人物で、癌で亡くなっている。 だいぶ衰弱し、苦しんだ最後であった。癌は脳をも冒しており、幻覚をみて怯 えたりしたらしい。永い事、小説を書いてきた仲間だ。一番の友だった。 何とはなしに一仕事すんだ気がして、気分が良くなった。 「お父さん、お腹すきませんか」と、息子が言う。 「すまないが、盛岡で寄りたい店がある。行ってくれないか」 腹がすいているのは、私も息子もだが、盛岡の駅前の「洋食屋」に寄りたい と思っていたから、我慢することにした。 高速道路は空いていた。 夕顔瀬橋の袂に洋食屋はあった。 「金鳳堂」だった。 普通の洋食屋である。間口も広くない。ショーケースには見本の料理が数点 置かれている。ドライフラワーやガラスの壷が飾られている。 店内に客は疎らだった。普段は繁盛しているのだろうか。 メニューの中からステーキを選んだ。 「ワインを貰おう」と、私は言った。息子は運転だから飲むわけにはいかない。 私はひとりで地酒の赤ワインを飲む。あっさりとした味わいのバランスがとて も良いワインだった。 店は二階にも客席はあるらしく、木製の階段がある。私のテーブルからは階 段が半分ほど見える。 「マッチが欲しいのだが」と、私は言った。 「すみません。きらしています。ライターではいかがですか」 マッチから、簡易なライターに変えたのだろう。たばこを吸うためではない から、私にはライターは要らない。マッチ箱が見たかった。ラベルの絵が見た かったのだ。 店の給仕は中年の女だった。中年の女のほかに、給仕はもう一人いるらしか った。二階に料理を運んでいる。赤いミニスカートの足が見えた気がした。私 は急に気になりだした。 給仕が、マッチの絵のモデルであるはずはない。ラベルは何十年も前に作ら れているのだ。 理屈はどうでも、私は気になって、立ち上がった。 「お父さん、どうしましたか」 「いや。ちょっと手洗いだよ」 私は言ってしまったてまえ、手洗いに向かった。途中、階段の下から、上をうかがうと、やっ り赤いスカートの足がチラつくような気がした。 呆然とした気持ちで、用をたす。洗面台の上に、マッチがあるのに気がついた。拾い上げてみ と、見覚えのあるマッチ箱だ。 絵の一部分が真っ白に抜けている。少女が抜け出したのだろう。
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